雀ー地球の感覚ー⑧
 

環境問題のどれか一点についてだけでも、自信をもって結論めいたことを述べることができる人がいるでしょうか?
 

それは私たちにとって予測できない未来であり、入手できるデータは少なく、それさえも今後の私たちの対応によっていくらも変わっていくはずで、たしかな事はほとんどなにも言えないはずです。
 

とはいえ、次のふたつの点は確実だと思います。第1の点は内面的なあり方の問題であり、第2の点は外面的な態度の問題です。
 

ひとつめは、「私」と「地球」のつながりの自覚が必要であること。私たちの身体は「小さくちぎられた地球」であり、進化の過程で織りなされた地球のミニチュアであるという自覚がなければ、環境問題についてまともに考えることさえできないと思います。
 

ふたつめは、環境問題の責任は人類が果たさなければならないということです。
 

人間は3アルシンの土地という分相応を知るべきだ、というトルストイの教訓は決定的に古臭くなっており、チェーホフの言葉のとおり、人類は地球全体を背負う必要がある。
 

こうして、環境問題は非常に過酷な課題として私たちの前にあることになります。というのは、環境問題については私たちはもはや「神」や「自然」に頼ることはできないからです。
 

それは「自然にゆだねる」といった甘く心地の良いメッセージをはねのけ、私たちに厳しい責任を負わせます。
 

おそらくこの点に、スピリチュアルな世界においてすら環境問題がそれほど人気がない理由があるのでしょう。なぜなら、環境問題の難しさは従来の宗教的世界観では解決できないところにあるからです。
 

だからといって、私はなにも人はすべからく瞑想修行に励み、真剣に環境問題に取り組むべきだ、などと言いたいわけではありません。私はそんな偉い人間ではない。
 

私が注意したいのはもっと些細な、あるかなきかの「気づき」のようなものです。それはたとえば、雀のような存在を気にかけられるかどうか、ということだと思います。
 

かつて私たちにとってもっとも身近な鳥であった雀は、50年前と比べて90パーセントも減っているそうです。
 

理由としては、雀の巣作りに適していた家屋に従来のような隙間や穴がなくなってしまったこと、田畑が減り、昆虫などの餌が獲れなくなったことがあるそうです。しかしこれらの原因はもっともとして、やはりそれだけではないような気がします。
 

私は雀が好きです。その丸くすべすべした形、小さいこと、まばたきのような軽い羽ばたき、その無邪気さ、他愛のなさ、さえずる声のかわいらしさ。
 

不思議なことに、これらの雀の性質はすべての動物の赤ちゃんと同じものであって、そのため雀は罪のないものの象徴とも言えます。
 

その雀が街から姿を消しても、もはや私たちは気に留めることすらない。裏を返せば、それは私たちの罪の深さを表しているのではないでしょうか。
 

私は、雀が姿を消してしまったのは、煎じつめれば私たちが雀のことを忘れてしまったからだと思うのです。これはたんなる文学的な表現ではなく、私はそれこそが真相だと考えます。
 

最近では人は鴉はおろか、無害な鳩ですら怖がり、嫌います。そうした反応の仕方に、自然にたいして萎縮した感受性を見たとしても間違いではないでしょう。
 

こうした萎縮した感受性を解きほぐし、平凡な生活のなかの「気づき」をより深めること。現実の繊細な肌理にたいする意識を高めること。結局はそれが、自分を取り巻く環境への配慮につながることになるはずです。
 

オーロラのような壮大な現象に惹かれるより、雀のような微小でありふれた存在をどれだけ気にかけられるかという点に、私たちが「地球の感覚」にどこまで近づけるかがかかっていると思います。
 

ヤンソン「ストックホルムのリッダー湾」