鳥の言葉を聴くー人事を尽くさずして…ー②
 

「心を抑え、ひとかどの人間になるよう努めるべし」。なんとも立派な教訓で、反論のしようがありません。しかし、正直言って今の私には、これは少々立派すぎるようにも思われます。
 

これと同じような文句に、「人事を尽くさずして天命を待つことなかれ」という言葉がありますが、こちらには留保があります。
 

そして、まだ10代の私にはわからなかった事は、人生には「人事を尽くし」てもどうにもならない局面があまりにも多いという事実です。
 

社会に出てみて私が素朴に驚かされたことのひとつは、世間にはなんらかの宗教を信じている人が実に多いということでした。
  

大学ではもっぱら文学と哲学を勉強して、近代ヨーロッパの文化的遺産を尊重することを当然としていた私は、キリスト教や仏教ならまだしも、会社の誰それが某新興宗教の信者だとかといった噂を聞くと、ちょっとしたショックを受けたものです。
 

それが見るからに風変わりな人間ならショックも受けませんが、仕事もでき、人好きもするあの人が、プライヴェートでは箸にも棒にもかからぬようなたわ言を神妙な顔をして持ち回っているのかと思うと、自分の世間知らずを痛感させられたものでした。
 

むろん、人が宗教の世界に入っていく道筋は一様ではなく、それぞれにユニークな物語があるでしょう。とはいえ、まったくの物質主義的な世界観からそこへ至るためには、なんらかの形で「人事」を超えた世界への接近ないし直感がなければならないはずです。
 

私は今「接近ないし直感」と書きましたが、これはややキレイ事にすぎる表現かもしれません。宗教を毛嫌いする人がよく言うように、宗教家の言葉には弱っている人間を狡猾に誘惑する側面があります。
 

人はやはり、人生の過程で自分の夢や希望が果たされなかった時に宗教に近づくのではないでしょうか。そのような時、人は苦い諦めを知り、おそらくは「天命を待つ」心境になる。
  

そして、若い私に充分に理解できなかったことは、こうした不幸な局面は人生には思いがけないほど数多く伏在している、ということだったのです。
 

(続く)
 

スリランカ。キリンダの海岸。