前回のブログの最後に「他に書くことがなければ、明日の講話の概要を書くつもりです」と書きました。
「明日の講話」とは先月末に大阪で行った「日本総合医学会」での「現代医学に何故大改革が必要か」をテーマにした講話ですが、3時間ほどの内容を「概要」とは言えブログにまとめるのはなかなか大変で、すぐに手を付けることが出来ませんでした。
講話ではこの3つを出来るだけ分かり易く一生懸命解説しましたが、「これは難解だろなぁ」と思ったのは上の3番目、「群盲評象の故」です。群盲評象とは下の図のように盲目の人が象のある部分を触っただけでそれを全体だと思ってしまうことです。
病気なり、不幸が起こるには必ず原因がありますが、現代医学はその病が起こっている真因に目を向けず、表面の症状の改善だけを追いかけ、事態をさらに複雑化させるという誤りを犯しています。それを深堀するのが講話の主題の一つでした。
では、なぜこれが表題の山尾志桜里さんに関係があるかです。講話でお話したわけではありませんが、今日はこのことを考えてみたいと思います。
先ず以下は今回の講話コンテンツを作成する中で抜粋、引用させてもらった書籍です。
この「宗教と科学の接点」は日本の代表的なユング派の心理学者、河合隼雄さんの著作です。
今日は詳しく紹介しませんが、タイトル通り、宗教と科学の接点をユングの業績から探る内容で、ユング心理学の入門書としても最適な文献です。この本で河合氏は、宗教的な「たましい」の問題にユングが心理学者としての科学的立場からどうアプローチしたのかというプロセスが明かされています。
私がこの本を知ったのは佐藤愛子さんの本だったのですが、佐藤さんが自分の身に起こる様々な不可思議現象の原因を知ろうとして悪戦苦闘する中でこの本を読んだことが語られていました。ただこの本は佐藤さんの問題の解決には直接つながらず、美輪明宏さんからのアドバイスが問題解決の道筋をつけることになりました。
余談ですが、佐藤さんの本で、今日のテーマの関連として面白かったのものを一つだけ紹介しておきます。以下ですが、これは今日のテーマにも関係があります。
先月末の講話で上の河合さんの著作と共に多く引用したのは下の「投影された宇宙」です。
この本も河合さんの著作と同じく「宗教と科学の接点を探る」をテーマにしたものですが、宗教の説く様々な事象を物理学や心理学の科学的視点で考察するもので、難解ではありますが、この分野の入門書としては河合さんの著作以上にお勧めできると思います。
さて、これが今回のテーマと何の関係があるかですが、それを考える一節を以下に同著より抜粋します。
その前に補足説明ですが、冒頭近くにある「退行催眠」とは心療治療の臨床現場で、患者の抱える精神的疾患の原因となっているトラウマ(多くは幼時体験)を探る「フロイト的アプローチ」のことです。
これによって症状が大きく改善するということも多いのですが、トラウマの原因となるものがまったく発見できない、というケースも勿論多くあります。
ここで言う退行催眠とは「現世の記憶」を超えた「過去世」の体験にその原因を探る、いわゆる「前世療法」を指します。それを認識されたうえで以下をお読みください。(以下同著よりの転載です)
物理学者たちが宇宙の脈動性電波の調査研究を進めているころ、退行催眠の研究をはじめた人々は人間の無意識領域という霧にかすんだ辺境地帯の探険をつづけていた。その先駆者、アルベール・ド・ロシャ大佐の後継者として有名なのは、スウェーデンのヨーン・ビョルクヘムと、イギリス人でヨーロッパの9つの大学の学位をもつアレグザンダー・キャノンのふたりである。
ふたりは膨大な量の前世のデータを収集した。キャノン博士は、1382人の志願者を紀元前何千年のはるか昔に退行させたが、彼は単にその証言をやむをえず受け入れたにすぎなかった。1950年に、キャノン博士は「内なる力」でこう書いている。
「何年ものあいだ、輪廻説は私にとって悪夢であり、それに反駁しようとできるかぎりのことをした。トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、被験者たちと議論さえした。あれから年月を経たが、どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、つぎからつぎへと私に同じような話をするのである。現在までに1000件をはるかにこえる事例を調査してきて…」と。
キャノン博士は、精神分析家ジクムント・フロイトの業績よりも「輪廻の考え方のほうがよっぽど進んでいる」と主張しつづけ、コンプレックスや恐れの起源を、もっぱら幼児体験だけではなく、さらに前世の精神的外傷体験にまでさかのぼって調査した。
ホイットン博士のケースワークは彼の遺産のうえに築かれている。(転載おわり)
最後に記された「ホイットン博士」とは下の著作の作者で、この本を書かれた当時カナダトロント大学の医学部、精神科の主任教授だったジョエル・ホイットンさんです。
この本は1989年の発刊で、私は1990年代早くに舩井幸雄さんのおススメを受けて読み、衝撃を受け、大いに啓発されました。
ちなみに以下はこの本の章立てで、様々な退行催眠の事例が紹介されています。
第一章 永遠の生命
第二章 私たちが還える故郷
第三章 バルドとの遭遇
第四章 輪廻転生思想の展開
第五章 退行催眠による前世療法のはじまりまで
第六章 宇宙という教室
第七章 意志の力
第八章 人生にアレルギー
第九章 不倫の相手
第十章 一条の光
第十一章 心からの叫び
第十二章 悔悟の血が流れる時
第十三章 中間世を探る
第十四章 生と生のはざまの意味するもの
この本は、今起こっている様々な事象の裏に存在する「因縁因果」がどのようなものであるか、それを通じてヒトはどのように「進化し、成長するのか」、更にその進化成長をサポートする守護天使的な存在についても教えてくれます。
特に興味深いのは原題の「Life between Life」が示すように、転生前の中間世を取り上げていることです。これを詳しく知りたい方は是非本書をお読みください。
さて、今日のブログのテーマにしたのは「山尾志桜里さん」ですが、上の章立ての9章に「不倫の相手」というエピソードがあります。ここで紹介されているのはいわゆる不倫にまつわる複雑怪奇な因縁因果の物語ですが、この本の中には前世体験がどのようにこの世に引き継がれるかを学ぶ様々なエピソードが紹介されています。そこには表面的な事象の裏にある当事者間の複雑な因縁因果が克明に描写されています。
ちなみに一昨日、山尾志桜里さんは次期参院選での国民民主党からの公認を外されたことが発表されました。この背景には彼女の過去の不倫問題があるのは言うまでもありませんが、物事はそう単純ではありません。
彼女はこれによって世間の非難を一身に集め、悪女として扱われていますが、私は彼女が、ある種の菩薩の役割を買って出ている可能性もあるように思います。と言って彼女のやったことを擁護するものではありません。ただ起こっている事象の表面に目を奪われ、彼女の行動に怒りを覚え、彼女を嫌い、非難するだけに終われば自身の想念を汚すだけだといいたいのです。
起こっているのはこの件に関わる人々の悪因縁が消えてゆくプロセスだということです。
あくまで想像ですが、彼女の公認を周囲の反対を押し切って推進し、ギリギリになってあっさり彼女を切りすてた国民民主党首の玉木さんも、今回の一連のカルマの物語のもう一方の主人公のように思います。彼も不倫で話題をふりまきましたね。
私がこの一連の騒動から考えるのは、ちょっと上から目線のようですが、この騒動に関係する山尾さん、彼女の不倫相手の倉持さん、自死された倉持さんの奥様、さらに玉木さんなど、この物語の登場人物の皆さんが、堂々巡りの輪廻の渦を脱し、次の段階への魂の成長軌道に乘って頂きたい、ということです。
世間の非難を一身に集めている山尾さんですが、彼女は過去世において自分になされた行為への復讐、復讐が不適切ならバランスをとっているのかもしれません。また、何世にもわたるドロドロしたカルマ解消の辛い役回りを今回このようなカタチで引き受けているのかもしれません。
余程の霊能者でない限り過去世の出来事、因縁の絡み合いを知ることはできません、
ちなみにホイットンさんの先の著作に、私たちは何故、前世の記憶を覚えていないのかについて以下の記述がありました。以下はその部分の転載です。
「もし生れ変わりがあるなら、どうして私たちは前世のことを覚えていないのですか」とよく質問される。インドの偉大な哲学者であり非暴力主義の主唱者、マハトマ・ガンジーはこれを、宇宙のプロセスに対するある種の慈悲のせいだとしてこう答えている。「我々が過去世をおぼえていないのは自然の慈悲なのです。そのようにおそろしい記憶という重荷を背負ったなら、人生は負担になることでしょう。」
人生はただ現れの姿だけで判断すると、全く不思議な不可解な存在としか、受け取り難いものであります。(転載おわり)
ちなみに私は以下のブログで私が考える前世の記憶を持たない理由を次のように書きました。
以下は上のブログより転載です。(以下転載)
東大名誉教授で外科医の矢作さんの以下の著作のタイトル通りに人は死なないのです。
死んで肉体という衣は脱ぎ捨てても、本体である霊魂は存在しつづけます。中村天風師は「この肉体は衣服のようなもので人間の本体は霊魂だ」と仰っていますが、それが真実の人間の姿なのです。
おかしなもので、人間は今生きているこの世界が実在の世界、死んで行くのは霊界というボンヤリした形のない世界と思っていますが、実際は逆で、あちらが実在界でこの世は「写し世」というように、あちらが映っているだけの影のような世界なのです。
その実態を知らずにいたら、この世の中で起こることには「おかしなこと」「理不尽なこと」が随分あるように見えます。私の従叔母が親族からひどい仕打ちを受けたことなどもそうでしょう。自分は一生懸命尽くしてきたのに、「なんでこんな仕打ちを」と思って当然です。
しかしそれは「今世」という舞台の上でのこと、この一幕だけのことです。過去何度も生まれ替わっている、というのは、舞台は何幕もあり、それが続いているということです。人間の脳は「今」の「脳」で、この今幕以外の舞台のことは記憶していません。
その理由は、「脳」というは「今の意識」の入れ物だからです。しかし、本体はいわば霊魂に宿る「意識」なのです。それが「潜在意識」です。面白いことに潜在意識は自分の意識ですが、その内容は顕在意識には分かりません。
要は「今」の自分である顕在意識はその全幕、全体のシナリオを知らないのです。
知らないから、人生は劇そのままに「ハラハラ・ドキドキ」の迫真の演技になります。
潜在意識は舞台の第一幕からのシナリオ、台本のようなもので、その通りに舞台は進みます。
「原因結果の法則」はそのシナリオです。「因果応報」という原因結果の法則はすべての人にもれなくキッチリと働きます。
「凡夫なれば過去をしらず」、「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」とは日蓮聖人の言葉です。仏、菩薩の目にはこの台本が見て取れますが、凡夫にはそれが出来ません。出来ないのですが、知る方法はあります。それが「今を見よ」ということです。
日蓮聖人の上の言葉は「今現われていること」は「過去の原因があらわれた結果」だということです。同じように「未来を知りたければ、今作ってる原因を見れば良い」ということです。その意味で「今」現れている幸、不幸は「自分が行ったこと」が「自分に還ってきている」だけです。
浄土宗には妙好人という悟りを得た「市井の庶民」の話が沢山あります。その人たちの見事な生き方は、人生で起こること全てが「因果の理法」に基づくもので、自分に降りかかっている不都合な事実は自分のやったことの罪障消滅の為に起こっている、という諦観から生まれます。諦観とは「あきらめる」でなく「はっきり知る」ということです。(転載おわり)
ここまでで私の言いたいことに多少ご理解頂けたと思いますが、最後にもう一つ、たまたま昨日目にした五井先生のご高弟で、高い霊能力をお持ちでであった村田正雄先生の著作からの一文も紹介します。以下同著よりの転載です。
人生はただ現れの姿だけで判断すると、全く不思議な不可解な存在としか受け取り難いものであります。原因結果の因果の車は霊幽現の三界を流転して止まず、この車の廻りつづける間は三界を輪廻転生しつづけゆくものであります。
そして、この三界転生のなかに、根本の流れが存在するのです。そこにいろいろの条件が交錯して、ひびきとなって現われ、それらが形の上に顕われてゆき、現界に一つの世界を形成するのであります。
その奥にある本流が真実の姿であって、その流れの一筋が現世における人生ともいえるのであります。
霊界、神界が人生の主流であり、現世はその顕われの一面に過ぎず、幽界は現世のよごれがそこに移されて、機を見て縁に触れて消え去ろうとする世界なのです。
本体であり、流れの大元主流である神、霊界のことがわからないので、顕われの天地のことのみに重きを置いて、人間の幸不幸を追っているのが現世の大方の人たちであります。 (転載おわり)
さて、改めて今日の結論です。少なくともテレビやマスコミがセンセーショナルに報じている表面的事象に心をやたらに動かすのでなく、その奥にある真実の姿に目を向ける智慧を持ってほしい、ということです。
今、わが身に起こっている病気や不幸の原因もそれが理不尽であればあるほど、思いもしないことにある可能性は高いからです。
今日紹介した本などはそれを考えるのに役立つものだと思います。尚、今日紹介したホイットンさんの著作と共に、退行催眠の治療例が豊富に紹介されているのが以下の前世医療法です。この記事に興味を持たれたなら、この本もおススメしておきます。
最後に、先に触れた佐藤愛子さんの著作などもこのことを考えるに際しての絶好の参考書と言えることをお伝えし、本稿を閉じたいと思います。
今日のブログが読者のお役に立てば幸いです。
世界人類が平和でありますように