「テサロニケの信徒への手紙」に思う | Yokoi Hideaki

Yokoi Hideaki

http://institute.jpn.com/

今日は「セレンディピティ:serendipity」について書きたいと思います。

この言葉の私の訳は「素敵な偶然」です。色々な日本語訳がありますが、「思いもしなかった幸運」、また「それに出会うこと」を指します。

 

この言葉を取り上げる理由は特に最近それが頻繁に起こるからです。今日のテーマにある新約聖書との出会いはつい数日前の体験ですが、セレンディピティは日々起こっています。
 

表題の「テサロニケの信徒への手紙」はイエスの弟子で十二使徒の筆頭、パウロの書簡です。私はキリスト教徒ではないので、この手紙のことは全く知りませんでした。これに出会ったのは先日、エアーメール葉書を出そうとして、絵葉書を探していた時に見つけた1枚の「しおり」がきっかけでした。



葉書の宛先はインドに住むチベット人の子供で、名前はSonam Dhondus君と言います。彼とは会ったことがありませんが、毎年彼からシーズングリーティング(いわゆる年賀状)と写真、手紙が送られてくるのです。

そのきっかけは以前このブログにも書いた2019年、インド、ダラムサラで開催されたダライ・ラマ法王の法話会への参加でした。
 

この法話会に行ったのもセレンディピティだったのですが、その時にツアーを主催した旅行社(大陸旅遊さん)の案内でチベットの孤児や貧しい家庭の子供たちを預かって教育している「Tibetan Homes Foundation」を訪れる機会がありました。

 

 

 

 

この訪問でチベット亡命政府のある北インドのダラムサラが気に入った私はささやかな応援がしたいと思い、その日本の出先機関「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所・チベット・ハウス」を通じて彼の里親としての「ごくささやかな額」の寄付を申し出ることにしました。

 


それが彼からシーズングリーティングを貰っている理由ですが、そこには彼の近況を伝える短い手紙も添えられています。

 

しかし、忙しさにかまけて今まで返事を出したことがありませんでした。
今年の手紙には「試験を控えて一生懸命勉強している」ということが書かれてあったので、今年は返事を出そうと思い、適当な絵葉書を探していたわけです。

旅行先で時々買う絵葉書の一つに先の「しおり」が入っていました。その絵ハガキを買い求めたのは世界遺産に登録された小さな長崎の教会でしおりには山田教会とあります。



しかしダライ・ラマ法王の小さなお弟子さんに教会はちょっと相応しくないと思ったので、知床の絵葉書にメッセージを書いて彼に送ったのですが、その時偶然見つけた先のしおりの裏に今日のテーマの「テサロニケの信徒への手紙」の一節が書かれていました。



 

そこにはこうありました。

いつも喜んでいなさい
絶えず祈りなさい
どんなことにも感謝しなさい


最近、私のブログ投稿頻度が上がっていることに気が付かれる読者もいらっしゃると思いますが、「喜び、祈り、感謝」はこのところ連続して投稿している「『特別な子供』考えよう人生の深い意味」、「『睡眠と夢』考えようその深い意味」、「何がどうあっても感謝が第一」、そして直近の「映画『コンスタンティン』に思う」で訴えたテーマでした。

それがあったので「テサロニケの信徒への手紙」もネット検索し、全文を読んでみました。
 

「テサロニケの信徒への手紙」はパウロが当時ギリシャ第2の都市であったテサロニケの非ユダヤ信徒へ送った手紙です。この書でパウロは最後の審判、キリストの再臨が近いことを予言し、一層の信仰に励むように信徒たちを激励しています。
 

最後の審判、キリストの再臨ということも最近投稿しているブログの主要テーマです。


最後の審判やキリストの再臨と聞いて「???」という人もいらっしゃるでしょう。日本では全く報じられていないのでそれも無理はありませんが、世界は経済も政治体制も壊れつつあります。

注意深く世界で起こっていることを見れば、聖書の終末予言との符号を深刻に考えざるを得ないのです。


ブログで度々書いているように、その日はもう目前であることを実感する毎日ですが、それを乗り切る方法が「喜び、祈り、感謝」なのです。

 

テサロニケの信徒への手紙は改めてそれを考える良い機会になりました。

この手紙は後半部が特に重要なので、その部分を以下に転載します。

兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。
(注:時期、場合とはキリストの再臨、最後の審判)
 

あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
人々が平和だ、無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。

しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。

だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。

だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。
兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。

兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 (転載おわり)

私にとってはこの一文に出会ったことは毎日のように起こるセレンディピティの一つでした。

 

今日はそれを読者の皆さんにも共有するものです。

ちなみに、Sonam Dhondus君への手紙には毎年のシーズングリーティングへのお礼とともに、「君の写真を見ながらいつも『どうかダライラマ法王のお弟子として立派な人に成長されますように』と祈っています。」と書きました。


次回も「セレンディピティ」について書きたいと思います。

世界人類が平和でありますように


下はダラムサラ訪問からの帰国後すぐに書いたブログです。長いブログですが、参考まで併せて共有します。