二ヵ月ぶりにブログを更新します。
以前にも書きましたが、今年になって昭和三十年代以降の白光誌をまとめて頂戴しました。
白光は五井先生が主宰された白光真宏会の会報誌で、これを古いものから順に朝夕少しづつ拝読しています。
そこにはこのブログで紹介したい五井先生のお話しや会員の方のエピソードなどがたくさん載っており、その一部は以下の記事などで紹介してきました。
世界平和の祈り 二つの利点 個人 人類同時成道 「救世の大光明」の働き
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12457237507.html
(世界平和の祈りの行い方については以下のブログ記事に書きました。世界平和の祈りをご存じでない方はまず下をご覧ください)
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12315473722.html
今日は手元の白光誌の中から五井先生のお話を中心に表題の統一行について書いてみたいと思います。
まず統一行とは何かですが、このブログの重要な登場人物である中村天風師はご自身を「統一哲人」とし、これを書や色紙に揮毫されています。
天風師はこれまでも紹介してきたように、霊性心開発の方法を「日常の雑念から離れ無念無想のトランス状態になること」であるとされました。
統一行とは座禅と同様にこの無念無想の境地に至る方法と言って良いでしょう。
この統一行によって無念無想の状態になると「本心」「本当の自分」が姿を現します。
この本心、本当の自分が「霊」「霊性」で、これはさらに神(神性)、仏(仏性)とも呼ぶことができ、人生の様々な問題の根本解決法はこの本心開発、霊性開発にあることを過去のブログで紹介してきました。
今日は凡夫である私たちが容易に本心開発、霊性開発に取り組める「世界平和の祈りによる統一行」についての五井先生のお話を白光誌やご著書の中から紹介したいと思います。
統一とは何か
白光誌(昭和三十四年六月号)には特集として「統一の体験報告」が掲載されています。
五井先生はそこで端的にこのようにおっしゃっています。
宗教的にいう統一とは、自己の想念が本心と一つになることをいうのです。本心とは、真の心、つまり人間内部にある神の心ということでありますから、人間の想念が神の心と一つになった時が全き(まったき)統一というのです。常住こうした境地になっていられれば、その人は真実の人間(神人)であって、肉体をもったまま肉体を超越し得る人となるわけで釈尊のような人になれるわけです。
さらに「統一は何のためにするのか?」についてこのように仰せです。
それは統一によって、業想念つまりすべての欲望の想いを消し去ろうとした、いいかえれば、業想念の世界を解脱せしめるためです。業想念の波動の中で右往左往している限りは、人間は真実の姿を現わすことは出来ないし、永遠の生命を把握することも出来ません。統一とは、要するに、すべての想念を本心(神)の座と一つにすることであって、愛と真と美との正しい行為が日常生活の中において、自然と出来るようになるためなのです。そうでなければ、統一の意味は失われてしまうのです。
さらに続けて、五井先生は「私の統一指導法」としてこう仰せです。
この会の統一は、自力ではなく、神様に全託してしまう他力の統一なのです。統一というと、自分の想いで自分の心を一点に集中することだ、と普通思っていますがそれは私の会の統一ではありません。
では私の統一方法というのはどうやるか、といいますと、自分のもろもろの想いを神様の中に入れてしまうのです。神様といっても形がないからわからぬ人が多いでしょう。ですから想いを世界平和の祈の中に入れてしまうのです。
世界平和の実現は、神様のみ心ですから、この祈りの中には天照大御神もキリストも仏陀も同じよう祈っておられるのです。なぜなら、世界人類の平和を願うのは、大神様のみ心の現れだからです。
この祈りの中に入ると、自分の思いなどというものは、祈り言と共に宇宙大に拡大し、なくなってしまうのです。世界平和の祈りを通して働く、救世の大光明に溶かされて自分の業想念は消滅してしまうのです。
世界人類が平和でありますように………これは今の子供にだってその意味がわかります。誰にでも、外国人にも翻訳すればわかる共通した、やさしい言葉です。ということはこの祈りはやっぱり神様のみ心の現われだということです。
神道の「のりと」あるいは言霊(ことだま)のアオウエイでは、誰でもわかるというわけにはいきませんし、念仏にしろ、題目にしろその他の呪文にしても同じことがいえます。外国人はおろか、日本人にも現代では理解出来難いのです。
言葉は即ち神なり、神は光であるのですがアオウエイでは、あまり真理が奥すぎて(深すぎて)わからないのです。ですから統一しにくいのです。具体的な意味をもち、唱えたり字を読んだだけでピンと来る、それが世界平和の祈りなのです。ですから統一しやすいのです。
楽な気持で、ねむってしまってもいいつもりで、フワーっと世界平和の祈りの中に入って下さい。自分で統一しよう、空になろう、雑念を消そうと思わなくてもいいのです。そう想うとかえって統一が遅れてしまいます。統一させてくれるのは守護霊、守護神です。雑念を払ってくれるのも守護霊、守護神です。ですから楽な姿勢で坐っていて下さい。あとは私が引受けます。
このお話しにあるように、五井先生は統一の心構えとして、緊張せず、体を楽に、眠っても良い、とおっしゃっています。ここにあるようにフワーっというのもよく使われる表現です。
その理由は力まず、そうしているほうが守護霊、守護神が働きやすいからです。
守護霊、守護神について、よくご存じでない方は参考まで以下をご覧ください。
「守護霊、守護神の働き」 病や不幸とどう向き合えばよいか⑤
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12422232073.html
緊張や力みがいけないか理由について先生はこうも仰せです。
肉体人間の力では、この世はどうにもならぬ、と云う全否定があってはじめて、神の力に全託する世界平和の祈りが生れたのであります。この点をよくよく了解して頂きたいと思うのです。
自己の力、肉体人類の力に幾分でも依存しながらの祈りではとても世界は平和にならないのです。何故なれば、この地上界を救おうとして働いておられる守護の神霊団体、いわゆる救世の大光明が、そうした人間や、そうした人類世界では、その力を全面的に働かせるわけにはゆかぬからです。
人間に働いている力が、すべて神の力である、と云う考えが根底にあれば、神をはなれた自分の力などと云うものがある、と云うことの誤りに気づかぬ筈がないからであります。
このような真理に気づいた人が多ければ多い程、守護の神霊の救援の力は強まってくるのです。
そのような、神一筋の人々を一人でも多くつくるための祈りが、私の提唱する世界平和の祈りなのであります。私の教義をしっかり心にしみこませて、世界平和の祈りをなさると、世界平和の祈りの力がいやますことになりましよう。
さらに先生はこうも仰せです。
不完全である自分の智慧才覚にたよりながら、そして一方で神の力(本心、神性)にすがろうと云うのは、一方の手で雑草の葉につかまりながら、一方の手で大木に昇ってゆこうとしているようなもので、大木にすがりつく事さえ出来ません。
人間は神と云う大木の一つの枝なのであって、雑草ではありません。雑草には人間を支える力はありません。雑草には大木の枝は生えません。
私はむずかしい説教をしようと云うのではありませんが、ここの理をよくかみ分ける事が、救われに入る一番大事な事だと思うのです。
法然、親鸞のような秀れた学問の深い人たちですら、肉体の自分の凡愚なる事を認めて自分の智慧才覚を捨て切り、阿弥陀仏一本にすがり切っていったのです。
力まない、緊張しないという五井先生のお話しの真意は霊性、神性の光を妨げているのが智慧才覚を含めた様々な肉体想念であるからです。
そして世界平和を祈る際の心構え、基本的な姿勢をこのように仰せです。
真実の祈り
自分が世界平和を祈っている時は、世界人類の平和実現のため、神様のお役に立っているのだ、と思いこむことが大切です。
迷っているとか、自分は駄目だとか、悟っていないから駄目だということは、世界平和の祈りにはないのです。平和の祈りを教わった時はすでに凡夫ではないのです。凡夫の煩悩は消えてしまっているのです。
ただ現実の世界というのは波動が粗いから、その真実が現われて来るのに時間がかかるだけなのです。完全に現われ出て来るまでの間のものが、消えてゆく姿として、見えているだけなのです。
凡夫の自分は消えてゆく姿なのです。その想いも神様の中に投げ入れてしまうのです。学問知識が霊性を高め、業を浄めるものではありません。
神様におまかせして、神様の光によって自から浄められるのです。私の浄めというのは神の光によってするのです。
私自身、世界平和の祈りも、神様!とも呼びません。ただそのまま生命そのままに生きているのです。私は神様を呼び切り、祈りきって神と一つ、平和の祈りそのものとなっているから、改めて世界平和を祈ることもなければ、神様と呼ぶこともないのです。
ただこのまま自然に生命の動くまま、生きるがままにしているのです。
そこまでゆくには、自分自身をごまかさず凝視することです。そうすればこの肉体人間の知や力ではどうにもならないのだとわかって来ます。そこで世界平和の祈りにまかせようと想う「想い」が出て来るのです。神様の中に、世界平和の祈りの中に、すべての想いを投げ入れてしまうことなのです。その練習がこの統一なのです。
そうすると内なる分霊と、外なる守護霊守護神とが一つになり、直霊とも一つになるのです。直霊即ち神の光がそのままさわりなく流れてくるのです。みなさんもこのようになれるのです。肉体側からは感謝、天からはそのまま自ずからの催しのままであるという、これが世界平和の祈りなのです。
雑念をどうすればよいのか
統一をしていて気になるのが雑念です。世界平和の祈りの統一を始めると最初は祈り言葉に集中しているのですが、ものの数分で仕事のことや気になっている事に意識が向き始めて、心がそこに捉われる状態に陥りがちです。
しかし、それも気にすることはありません。そういった雑念も世界平和の祈りによる霊性、神性の光に照らされて浄められるからです。
私が座右の銘にしている五井先生のお歌があります。
迷ひ心 迷へるままに まづなさめ 世界平和の 神の祈り言(のりごと)
または
迷ひ心 迷へるままに まづなさめ 世界平和を祈る神言(かみごと)
というお歌で、文字通り迷ったままの姿で良い、そのままで世界平和をお祈りをなさい、という仰せす。
このお歌について五井先生はこのようにおっしゃっています。
(この歌のように)この人類の業想念をそのまま世界平和の祈りの中に運びこんでゆくことこそ、世界人類が真実の大調和世界、大平和世界を実現させ得る唯一無二の手段なのであり、方法なのであります。
世界平和の祈りの中からこそ、宇宙人の大きな援助の働き、守護神たちの輝く光明がこの地球界の業想念波動を浄め去って、新世界ともいうべき、神人合一の大平和世界がひらけてくるのであります。
私たち一人一人は、まず自己のために世界平和の祈りを唱え、家族や親類縁者のために唱え、日本のために唱え、世界人類及びすべての生きとし生けるもののために唱えるのであります。
それは、すべて力みかえってするのではなく、日常生活そのまま、ふんわりと、何気なく、心の中で唱えつづけていればよいのですから、この世で一番やさしい人類救済の方法であると思います。
お言葉に「宇宙人」とあることに違和感を抱く人がいらっしゃるかもしれませんので、一言申し添えると宇宙人とは霊的に進化した人のことで、星々はそれぞれの霊界であり、宇宙人とは守護神や守護天使と同義です。また五井先生は地球の指導星の役割を金星が担っているともおっしゃっています。
そう言うと金星だけでなく太陽系の惑星はすべて人が生きてゆける環境にない、という人がいるでしょうが、それはこの三次元世界の認識で、多元世界の認識ではそうではない、とだけここでは申し上げたいと思います。
また法華経や華厳経などの仏典には娑婆世界(地球)から遠くなはれた様々な他方世界とそこにいらっしゃる仏菩薩が描かれ、それら仏菩薩が仏陀世尊の説法の正しさを証明する場面が出てきます。
これなどもそういった宇宙人の働きの描写と理解してよいと思います。
ここで五井先生が「力みかえってするのではなく、日常生活そのまま、ふんわりと、何気なく、心の中で唱えつづけていればよい」とおっしゃっているのは、そうするときに守護の神霊の光が私たちの肉体を通して地球世界により多く、より強く放射されるからです。
これは世界平和の祈りの人類救済面の働きを言われいますが、個人の運命救済についても同様のことをおっしゃっています。
先生は雑念もそのままにして、逆らわず、守護霊様にすべてをお任せし、委ねてしまいなさい、とこのように仰せです。
ただ守護霊さんにすがろう
私はこの自己の智慧才覚を捨て切る、と云う事すら、大衆にはむずかしい事である、と思い、脳裡に浮んでくる智慧才覚や、様々な想念、そして止めようもたく出されてくる、誤てる行為、そうしたものはそうしたものでよいから、只ひたすら神様にすがりつけと説いています。
神様と云っても、ばくぜんとして掴みどころがないから、あなたの本心開発の為に、生れぬ前から、あなたを守護し、あなたのすべての行為を援助している、祖先の覚った霊である守護霊さんが、常に昼夜の休みなく、あなたを指導し援助し守護しているのだから、肉身の父母を呼ぶような気持ちで、守護霊さんと心の中で呼んで、いつも護って貰っていて有難う、と感謝を捧げなさい、と言っているのです。
そうすると、守護霊さんと、あなたとの間がより密接になり、あなたの本心(神仏の心)の現われを邪魔している業想念(不完全な想い)が、次第に薄れてきて、愛深いあなた、正義に強いあなた、真理の道が直感的に判るあなたになってゆきます。
そして、その守護霊さんの上には、守護神と云って、大神様の、人類救済の面で働いている大光明、つまり観世音菩薩とか、不動明王とか呼ばれている神々がおられて、守護霊さんの力でも守り切れない業想念の波を消し去ってくれるのであります。
もっとくわしく云うと守護霊さんには正守護霊の他に副守護霊と云って、仕事や職業の面で支援していてくれる霊が二人以上は働いてくれているのです。その守護霊と大光明である守護神との中間には幾多の神格を持った守護者が存在して、種々と人間を護ってくれているのです。
私がこのように説いているのは、私自身が体験として、これら守護の神霊を知っているから、確信をもって説くのであります。
斎藤先生の霊験記
白光誌の特集「統一の体験報告」には会員、信者の方の興味深い体験も多数掲載されていますが、その中から一つだけ五井先生の高弟で、自らも霊能者として活躍された斎藤秀雄さん(以下斎藤先生)の体験を紹介します。(以下抜粋)
はじめ暗い泥沼が見えて来ました五井先生が手をあげてお浄めしていらっしゃいます。
その泥沼のまわりを沢山の神々が、五井先生と共に囲みました。五井先生や神々がさかんに柏手を打ち、手をこすってお浄めしていらっしゃるのです。すると光が一杯出ていきます。
しかし海綿が水を吸いこむように光の粉も光もみな吸いこんでしまうのです。神々が一生懸命、お光を送っていらっしゃるのですが、みな吸いこまれてしまいます。そのうちに中からだんだん光が出て来て、泥沼が光一面になり、五井先生や神々の光と一緒になって、神々も信者さんも見えなくなってしまいました。
ホッとするとみな明るい世界に上がって来ているのです。いい気持でいますと、信者さんも「いい気持ですね、うちの孫も救われました」「家の子供も救われました」、主人も、家内も救われれました、みな五井先生のおかげです、五井先生、有難うございます、ありがとうございます、とお互いに感謝し合って、涙をポロポロ流しているのです。
その涙が光になって地上にふってゆくのです。ああ感謝の涙が地上をお浄めしているのだな、と思いました。「いい気持ですね」「本当にそうですね」といっていると、スーッと先生が現われました。
ふと気づくとみんなの頭の上に光輪が廻っているのです。「斎藤さん、あなたにはもう光輪はいらないでしょう」と先生がおっしゃる、「はい、どうぞみ心のままに、有難うございます」と私は素心に答えたのです。先生が光輪をスッとおとりになり宇宙の中ヘスッとお捨てになったのです。
すると私がフワーと大きくなり、宇宙大に拡がってなくなってしまったのです。と同時に、有難いも、いい気持というものもなくなってしまったのです。ただスーっとしている、その気持はどう表現したらよいか、わかりません。
この斎藤先生の体験に対して五井先生はこのように解説なさっています。以下五井先生の仰せです。
みんなは神の子だということを体験として心で、感情でハッキリわかるために教えられたのですね。ハッキリわかると、そんなに有頂天になって嬉しがらない、感情の波に高低の差がないのです。
ある時は嬉しくて高くあがり、ある時は失意のどん底に落ちてしまうということがなく、いつも平均しているということなのです。といって嬉しがってはいけないというのではありません。嬉しい想いを押えるのではなく、嬉しい時は嬉しがっていいのです。
そういう波を通ってさっきいった波動のない世界、菩薩位の世界へ行くのです。そこは嬉しさもない、感激もない、といって全然ないのじやないが、あるがまま、神の生命がそのままスーッと生きている、という世界なのです。斎藤さんはそこへ入ったのです。
有難い時は有難いでよい、嬉しい時、悲しい時もありのままでよいのです。しかしいつまでも嬉しさ悲しさに入っていない。その感情にとらわれず、静かに生命そのままがさわりなく輝いている、というそれが神の子であり、仏というのです。みなさんもそうなりましょうね。
斎藤先生は村田先生(村田正雄)と並ぶ五井先生門下の霊能に優れた高弟でいらっしゃいましたが、同じ白光誌に市川市にあった聖ヶ丘道場で開催されていた統一会(第二回)でご自身がご覧になった霊験について書かれています。
荒唐無稽に感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、その一部を抜粋、紹介します。
聖ヶ丘の大祝宴 斎藤秀雄 「五井先生の心の花園」
三月二十五日(第二回聖ヶ丘統一会の霊験)
その日は、聖ヶ丘の大庭園に、五井先生の霊団として、いつも活動されている神々や聖者がたくさん集って祝宴を開いておりました。
私は五井先生のお体の中へ入って見物することをゆるされました。
今日集っている神々や聖者の服装は、皆一様に白いゆったりとした、日本歴史に出てくる古代の神々が着ていたような服を着ております。
広々とした丘の花園には、大小さまざまな大理石の大型のテーブルがおかれ、それをかこんで、木のつるで編んで作った椅子に腰をおろし、あちらに二人、こちらに三人、また十数人一団となってなごやかに話しあっております。
一番高い丘の上で、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)と、いつも五井先生の背後においでになる金星の長老が、あちらこちらを指さしながら、何事かご相談をしているようなお姿が見えます。
その背後には土星、木星、天王星など太陽系の遊星の聖者達が、ずらりと並んで控えております。
その少し下のテーブルでは、私の霊画に最近よく現われて下さる大日如来さまと阿弥陀如来さまが、○と△と□の形をした将棋の駒のようなものを、お互いに動かしながら、ひそひそと小声で話しあっております。
五井先生は、美しい天使を二人お供につれて、ゆるやかに庭園を歩きながら、あちら、こちらの神々に挨拶をして廻っております。
「先生、あそこで、如来さまが面白そうに将棋をやっていますネ」といいましたら、「人間の将棋とは違います。あれは地上天国の設計をいろいろとご相談しているのです」とお答えになりました。
―――地上天国の設計とは、私達人間にとっては未曽有の重大問題だというのに、神さまってあんがいのんきなんだなあ、と思いました。
それから、丘のこみちをまっすぐに降りていくと、一面に黄色と純白の菊が、美しく咲いている花園がありました。そこの大きなテーブルを前にして明治天皇が、さも忙しそうにたくさんの美しい天使にかこまれて、はりのある大声で何か命令すように話しております。
そこに集っている天使達は、まるでジェツト機のように、四方八方へ飛立っていったり、すぐ帰ってきたり、ここだけは目の廻るような忙しさです。
「いつも、ゆったりとしている明治天皇も、今日は皇太子さまのご成婚が近いので大変お忙しいようだネ」と先生がおっしゃいました。
―――ああ成る程、地上の宮中のことは、みなここから指令が出て動いているのか――と思いました。
この斎藤先生の霊験記には続きがあるのですが、あまりに現実離れしており、違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんので、ここまでの転載にします。
ちなみにここに皇太子さまのご成婚とあるのは現在の上皇陛下と美智子さまのことです。
私もかつてはこのような世界観には抵抗がありましたが、自身の体験、知見を通じてこれらは決して嘘ごとではない、絵空事ではない、と確信するようになりました。
斎藤先生や村田先生にはこういった世界を紹介する著作もありますから、疑念を感じられる方も、信じられる方もご一読をお勧めしたいと思います。
斎藤先生が日本各地、また世界を巡講された体験を記されたのが霊験巡講記です。
村田先生には私の霊界通信という「霊界の姿」を活写された大変興味深い全五巻のご著作があります。
五巻とも大変興味深い内容が記されています。霊界の様子や人間の真実の姿が活写されています。私は特に五巻の「霊界の禅」のエピソードが勉強になりました。これは原 茂さんという方が移行(亡くなった)されたのちの霊界での修行の様子を語られたもので、私の禅への理解を大いに助けて下さいました。
真理の十字架
先に私の座右の銘としている五井先生のお歌を紹介しましたが、本稿を締めるに当たってもう一つ座右の銘としている五井先生のお言葉を紹介します。
五井先生の老子講義、第三十三講からの抜粋です。
真理の十字架は現在はっきりと世界平和の祈りによって示されております。(中略)
人を兼ね畜わん(やしなわん)とする国が、自分たちのその日その日の安泰だけを思う、上流に起った気分でよいわけがありません。
世界平和の祈りは宇宙神の大海に最も近きにおいて結ばれている下流の祈りです。私共が世界平和の祈りをする時、大海の大光明は私共を通して全流域に流れ入るのです。
私たちは個人の運命をすべてこの祈りに投げ入れて、世界人類の本心を開顕する天命をもっているのです。
自己の、日本のそして世界の天命を完うさせる為の世界平和の祈りを、静かなるを以って牡(ぼ)に勝ち、という老子の言葉のように老子と共に祈りつづけて下さい。
それが唯一無二の世界平和達成への道なのであります。
五井先生のご真意を損なうことを恐れますが、五井先生はこのように仰せであると思います。
「真理の十字架」とは縦に神界、神様に繋がり、そこから降ろされた光を横に(この世界に)広げる、放射するという事で、世界平和の祈りの働きをおっしゃっています。
「人を兼ね畜わん‥‥」は「世界平和のお役に立ちたい」「世の中を良くすることに貢献したい」と考え、口にしている国家や人が、自分たちだけのその日その日の安泰だけを想っているようなことではいけない、ということです。
「世界平和の祈りは宇宙神の大海に最も近きにおいて結ばれている下流の祈り」とは前段に続けて、上流の水が澄んだきれいなところで「自分だけが良ければよい」と安閑とするのでなく、下流に流れ込む濁りも汚れもすべてこの身に受け止め、浄める菩薩としての働きを述べられたものです。
「私たちは個人の運命をすべてこの祈りに投げ入れて、世界人類の本心を開顕する天命をもっている」とは、この祈りをする人はどんな立場にいようと、誰であろうと「世界人類の本心を開顕する」天命を持っているという五井先生のご宣言です。
「静かなるを以って牡(ぼ)に勝ち」について五井先生は老子道徳経の「大国は下流なり。天下の交なり。天下の牝なり。牝は常に静かなるを以て牡に勝ち、静かなるを以て下ることを為す。」を解釈され、このように仰せです。
大国は下流なり、天下の交なりというのは、大国というものは、川に聾えれば下流のようなものであるというのです。
何故下流かといいますと、大国には下流のように、流れに乗ったあらゆるものが流れ寄ってくる、すべての流れが集ってくる、天下の交わりは大国において行われる、というのであります。
そして、大国の本来の在り方は、あたかも牝(ひん)つまり女性のように、常に静かで、受け入れ態勢を備えている。しかもこの女性は天下の女性なのであって、天下のあらゆるものを受け入れて、その受け入れた物事を育み(はぐくみ)、また新しくよりよいものとして生みなしてゆくのである。
そこで牡(ぼ)即ち男性のように能動的に働きかけてくるあらゆる国々、この大いなる静けさに勝つことはできない。この大いなる静けさを持つことによって、すべてを受け入れ、すべてと交流し得る立場になり得ているのであり、下手に出れば出る程、相手国が尊敬することになるのである、というのであります。
「静かなるを以って牡(ぼ)に勝ち」という言葉の意味はここに尽くされていますが、敢えて言葉を加えれば、牡(ぼ)的な平和運動、デモ、シュプレヒコールなどに対して目立ちもしないし、そんな(おとなしい、消極的な)祈りが本当に役に立つのだろうか、と思う人もいるだろうが、これこそ真の救い、世界平和への最大の貢献なのだ、ということをおっしゃっています。
私の解説は余計であったかもしれませんが、今日のブログをお読みになった方が「世界平和の祈り」の意味や働きへの理解を深められ、一人でも多くの方がこのお祈りを日常の習慣にされることを願い、紹介させて頂きました。
世界人類が平和でありますように
余談ですが、私の手元にある老子講義は五井先生のご生誕七十周年を記念して出版されたもので、五井先生の奥様がご所持であったものです。白光誌を下さった方が奥様ご逝去の折に形見分けで頂かれたものを、譲ってくださいました。
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