
小生は雪が苦手である。無理やりスキーを幼少期にやらされたトラウマか、あの霜焼けに良い思い出がないのである。さらに中学の時に2駅先の学習塾に行っていたのだが、冬期講習中に雪が大雪に変わり、止まらないで有名な京王線が運行停止になり、帰れなくなる事態になるわ、塾は「先生らも帰るから」と締め出される始末。。
大雪の中、傘もささずにひたすら徒歩で1時間半くらい。家に帰り、ファミコンのハイドライドをやっていた矢先に「ドン」と停電。とことん追い詰めやがる
長野県と言えば、雪。。雪の無い時期に行きたかったのだ。
長野はブラタモリの松本城でやってたように、武田と上杉が取り合った緩衝地帯である。故に城が多い、特に優れた山城が多く残っているが、平城も松本城、海津(松代)城、上田城に小諸城と名城が多い。
今回は小諸城を紹介したい。
観光的目線の小諸城ではなく、縄張り図から読み解く攻防術を読みといて行きたい。
観光案内所に縄張り図が無いかを聞いたらキョトンとされたワタクシです。無いのかい、と。
小諸城は武田信玄公の名軍師こと山本勘助が縄張りを考えたと伝えられ、勘助石とやらも残っている。
山本勘助がここ数年実在した説が有力になってきたが、彼の資料は少ない。
小諸城縄張りの大手門と三の門の間にしなの鉄道が走り、小諸駅舎がある。大手門の2階は居間になっているが、2階部分は江戸時代に増築されたとのこと。小諸藩主が仙石権兵衛秀久は恐らく大手門は立派な高麗門であったのだろうと思われる。
この大手門の2階は現在、資料館となっており地元のボランティアの方が丁寧に説明して頂ける。
大手門を潜り、縄張り図はここから通路両側に土台に石垣の土塀が連なり、右手に厩とその上に三の丸が築かれている。大手門と同じ高さに三の丸が併設されている変わった造りである。所謂、三の丸が馬出し役割も担っていたのだろうか。古地図には二層物見櫓も見られる。
少し進むと公園緑地の向こうに線路が見え、その線路の上から三の門の上部がひょっこりはんしている。
大手から見て、下っていることがここからでもわかるのだ。小諸城の特徴でもある穴城たる所以である。二の丸、本丸の曲輪3方は深さ20mの渓谷である。浅間山の火山灰から成るリアスの土地を長年かけて河川が削り取ったその三角上に城が築かれている。その入口となる大手が非常に入口を狭く、大人数が一気に侵入どころか、大手門前が桝形虎口のようになっている。
先程、話したように三の丸が大手門に、侍屋敷も構えており、敵兵が大手門の両サイド上部からの守備に手間取ってる真中、足柄門からの横矢である。あわよくば数に物言わせて大手を突破しても1列にしか進めない道が続く。もう城内から狙い撃ちである。これは一種の竪堀と変わらない。
(この三の丸は小笠原家臣の大井氏が築いた鍋蓋城の1部で、侍屋敷の鍋蓋曲輪にその名が残っている。)
こすいと言うか、センゴク権兵衛が信長公に、秀吉に仕え、姉川の戦い、四国攻めをし、小田原城の早川口戦で培った知恵の塊みたいな防衛網である。秀吉公より小田原侵攻の殊勲として拝領された年に浅間山が噴火し、決して裕福な財政状況では無かったにも関わらず、権兵衛なりに考えたと思うとこの縄張り図は愛しい。
大手門と右に三の丸石垣
三の門の左手前上がった所に、徳川秀忠が関ヶ原に向かう前に上田城に籠る真田と一戦交える前にここ小諸城に立ち寄った際に座ったと言われる石がある。
秀忠は小牧・長久手の際に、秀吉の養女(※信雄の長女ややこしい)の小姫を両家の政略として正室に迎えているが、秀忠12、小姫6つの時と言われており、小姫は翌7つの時に亡くなっている。15の時に浅井三姉妹の3女のお江を継室に迎えているが、江戸までお江を同行したのが仙石権兵衛であり、そういった縁があり、秀忠がこの後真田に手間取って関ヶ原に間に合わなかつたのは有名な話だが、怒り心頭の家康と秀忠を取り持ったのがまた権兵衛だった。そんなこんなで第2代将軍になった秀忠は権兵衛をたいそう気に入り、江戸城に近い所に住まわせ、権兵衛は秀忠の良き(?)相談役や話し相手となり終生まで殆ど信州に帰らずに江戸城下で過ごしたらしい。
三の門を潜ると二の丸入口である、この二の丸入口も細い。

例え侵入されても隊列組めないように、さらに大手の三の丸もここ二の丸も向かって右側から横矢かかりになっており、攻める側は弓や鉄砲が逆手になるので進軍しずらいのだ。とことん相手の嫌がる縄張り、これが小諸城の穴熊戦術。左側は崖があり、左側から周り込めない。
この先が二の門で突破しても右側の二の丸がかなり高く、さらに左側の南の丸も数段高く、一溜りもない、ここを突破出来たとしてもここ二の丸と本丸の間に渓谷があり、数十メートルの深さが待ち構える天然の堀切が横たわる。引橋があったと思われ、有事には落とされ、侵入すら難しかった。。さらに黒門という所謂「鉄門」が本丸の入口を塞ぐ。
小諸城の魅力は「穴太衆」という石垣職人を呼ぶ財政は無く、無骨な大小の石で組んであるが、見た目より実である。合理性より非合理性。
仙石秀久は名護屋で湯奉行普請のち、1592年にそのまま秀吉の命で伏見城の普請も執り行ったと言うのだから、築城は手前で取り行えたかも知れない(知らんけど)。仙石家譜を読めばわかるのか、、
この城は調和の取れた大衆が好む音楽というより、無骨で中身を見ると輝かしいロックな堅固な城である。全員合唱の調和の取れたアイドル曲より、ボーカルトレーニングを積み、節制して鍛えた生歌で本気ボンバーやMAGIC OF LOVEを歌ってしまうハロプロである。
最後は三の門近くの小諸そば草笛本店で反省会。権兵衛はそばを発明したと伝承、蕎麦がきから細切りにし、茹でて麺状にし、小諸の名物となったという。
是非とも信州に行かれた際はこの小諸城と草笛のそばはおすすめである。
卓偉さんはここで山菜そば召し上がられたようで。

詳しい縄張りは⬇








































