相模湖と津久井湖奥から山中湖に向かう道志みちに挟まれた山合いの農村、牧野村に築かれた尾崎城へ。


この城はたまたま道志みちに相模湖から向かう際に案内板があり、見つけた城である。


春夏は谷川山系あるあるのヤマビルが多いというので、ある程度寒くなった11月に攻城した。


最初に看板があるところに駐車して良いのかわからないが、とりあえずここに止めて案内板に従い登城。


どうやら平日なら入口のスペースに駐車して良いらしい。



登城口に家庭菜園があり、その横に東屋とこのような絵がある。

このように案内板には困らない。地元の方に愛されてる城である。
【余湖くんのホームページより】

登山口から比較的緩やかである、が残り1/3から急勾配になりなかなかにしんどい。
健脚なら15分、おじいなので20分ちょいかかった。

上がってみると細い尾根上に展開された余り兵を収容出来そうもない、城というより砦や防御の為の施設なのだろうと推察出来る。

立地から甲斐から相模への侵攻を守る役割が強い。築井(津久井)城の出城の役割があり、甲斐との最前線であった。

故に東側防御よりも、甲斐方面の方に兵を向けられるように帯曲輪と思われる遺構が見て取れた。ただ、林業でかなり人の手が入ってるのでどこまで遺構なのか判断しかねる。


1曲輪。手前に堀切があるがわかりづらい。
こちらは津久井方面へ知らせる櫓台なのだろう。
尾根上に展開する曲輪は細い
1曲輪

堀切は土砂が流出しておりわかりづらい

ハイキングコースとして整備はされている
こちら側が元々の大手だったのではなかろうかという西側の下山口。右手に高い土塁が続く。


つづら折りになっている登山口から尾根に入り、1曲輪の先の竪堀は視認出来なかった。

縄張り図の上部、西側に向かって進むと両側が堀切のように土橋になってるような所もあるが、何とも言えない。
ただ先に向かっていくにつれて、足場に小石が敷き詰められてるようであったが、たまたまなのか、人工的なものか不明。

その先に先程の木の案内看板に降りれる階段がある。こちら側に搦手を作るのも納得いかないし、先程の砂利を思うとこちら側が大手なのかなとも。
かなり下っていくと右手に大きな土塁、左側にも土塁と挟まれる区間が現れる。左側の城側は比較的なだらかな斜面が大きく拡がっており、敵を迎え撃つ帯曲輪のようでもある。

さらにその土塁に挟まれた溝に従って降りていくと谷が立ちはだかり、左手に沿って進むと谷を跨ぐ橋があり、山沿いに昇り降りでようやく看板に降りれる。

武田家臣、大月の勝田城の小和田氏家臣がここ青野の女子供を攫う小競り合いがあり、500人ほど亡くなってるようである。
城下の村にその伝承となる碑がいくつも残っている。
ここを守っていた北条勢津久井衆の一人で、日連村に6貫200文を知行した尾崎掃部助が守っていたようで、北条氏に関する書物では小崎彦六(尾崎彦六)と言う名も見られます。この尾崎氏がのちに津久井付近の又野村に移住、民主主義運動で名を馳せる明治の政治家、尾崎行雄へと系譜は引き継がれていきます。

遺構がはっきりせず、もやもやしたまま終わりましたが、ずっと気になっていた山間部を守る城でしたから、攻城出来て良かったです。


インスタでは上げてるものや、余り心に残らず文書化してない城も今後上げていこうかな。


静岡県三島市の山中城へ。静岡県と神奈川県のほぼ県境の箱根山系の1部に築かれたThe山城である。


【余湖くんのホームページより】

今川家武田家と河東地区(富士川以東)を争っていた1558年に小田原城の支城として3代氏康によって築城。沼田裁量を破り、天下人太閤殿下の逆鱗に触れた氏政/氏直親子が小田原征伐に備え、最終防衛線として改修、防衛施設として、東海道を三の丸と両側から挟む様に岱崎出丸を1589年に普請。


城マニアでは有名な北条流築城術の畝堀を発展させた障子堀が多数見られる。


山中城は年間3回は行く、手近な城である。 


ここは行きやすい、駐車場もある。バス便も三島駅から出ている。

東京神奈川からでも三島は新幹線なら1時間で来れる。車でも沼津インター若しくは長泉沼津インターから20分ほどで着く。

帰りは余り混まないと言われる、さわやか函南店または長泉店まで20分ほどで行ける。



さて、


なんと言っても遺構保存が良い。戦国の息吹が感じられるほど、今でも生きている城である。三島教育委員会や地元の有志の伐採や芝の管理をされてらっしゃる方に感謝。


山城の縄張りの素晴らしさを知るのに山に登らなくても良いし、石垣は無いが山城初心者にもおすすめ。


標高550mの西の丸から眺める富士山と愛鷹山、左手に拡がる駿河湾に三島の街並みは絶景である。


こういうのとか
こういうのとか

こういうのはどこでも見れる写真なので。

ただこのワッフル(!)の深さは4-5m、櫓台の高さは9-10mあるのでスケール感は伝わらないと思う。中島卓偉の歌の良さはCDじゃ伝わらない、ライブに来ないと届かないのと同じだ。 (これは定型文)


今は土砂の流出を抑える為に植樹や芝を植えてるが、当時は赤土粘土質の関東ローム層でちょっとやそっとでは滑って登れない。さらに何ヶ所かある貯水池からこの堀に水を回してたというのだから、もう障子堀の底は泥んこプロレスの様になる。基本、堀下は逆木(枯れた木を逆さに植えたもの、突き刺さる)や尖った竹や木の槍を剣山のように埋め込んでたりと落ちたら地獄、落ちたら上から火縄で(_・ω・)_ババァン!!。

討ち死に必至。


これが山中城の怖さ。


討ち死に覚悟でハシゴを掛け、人柱となるべく力攻めしか無かった。(センゴク権兵衛宮下先生のTwitterアカウントより拝借)


岱崎出丸の障子堀

この山中城の戦いは秀次を総大将とする豊臣・徳川軍約7万に、北条軍はわずか3千~4千とも。約17倍の戦力で秀次は力攻めを命ずる。
岱崎出丸は南側の防御が未完成であったものの、副大将の間宮康俊が東海道に面した西側の5-7mの障子堀と15mの高い土塁で善戦。豊臣方大将の一柳直末が討ち死。

しかし本丸を中央より池田隊、左翼より総勢3万で攻め上がった徳川隊が攻略。北条の最先端の防衛施設を誇った山中城は数には勝てず、正午過ぎ、わずか半日で城主の松田康長、岱崎出丸の副大将 間宮康俊が討ち取られ落城。双方合わせた死者が2千を超えた壮絶な戦いになった。


本丸を守る2重堀とも言える後背部

判断しづらい写真だが左は深い谷、真ん中の土塁部を挟んで右は北の丸を取り囲むように大きな三日月堀になっている。

北の丸、徳川隊が攻め上がってきた北の丸の西側。切岸の様に10mほど深い堀に馬出し曲輪のような防御が中央に見える。

これほどの防御力をもってしても、守りきれなかったのは兵数と完全な兵農分離が進んでいた西国兵の質と経験の違いが大きかったのかも知れない。
玉縄城より加勢した氏勝は落城を前に自害を図るが家臣の朝倉景澄に制止され、松田康長や弟の直重繁広の言に従って城を脱出、本拠である相模玉縄城へ戻り籠城する。(のちに徳川隊に玉縄城を包囲されるが、無抵抗で降る。その後関ヶ原には東軍で参陣、特に秀忠の信頼が厚かった。)

松田康長が逃がすと動揺した兵が逃散し、落城を加速させる結果になったとも。

松田康長が討ち取られたと伝わる本丸北側の櫓台より。場内全体、向こうに岱崎出丸まで見渡せる。ここより戦況を伺い、背後より徳川隊や池田隊と堀切で部下が戦って居たのだろうな。

山中城はどうしても景観の良さと障子堀の見事さに目が惹かれるのだが、歴史を知り、北の丸と本丸の防御遺構の「攻められない」意志の強さを知って欲しい。




西の丸を下から高さは約8m、上から弓矢や銃や投石、槍と殺られ放題である。下は畝堀になってるが一昨年の台風19号で土塁が崩れ、ブルーシートで保全。

左に見えるのは北条丸と呼ばれる馬出し。
真ん中に見える小さいハシゴを見て欲しい。
堀の深さが伺い知れる。この高さから落ちたら一溜りも無い。
大手道、両側の土塁と手前の門跡も復元されている。

ここに来られたら是非、三の丸に残る宗閑寺に松田康長や間宮康俊、初代伊勢宗瑞より伊勢家に仕えていた多米(多目)家の多米長定ら北条方の墓、また反対側に一柳直末ら豊臣方墓霊があるので手を合わせて欲しい。

また、岱崎出丸入口の向かって右側に旧東海道の石畳があり、300年ほど前にタイムスリップ出来る。

帰りはバス停の前に売店があり、今流行りの御城印やあったかい蕎麦もワンコインで食することが出来る。ちょいと濃いめの関東つゆ、是非とも。

三島はうなぎも有名ですな、3500~とお高いです。

※ここから車で韮山城まで25分、石垣山城まで20分、小田原城は30分。他、長久保城15分、沼津城、葛山城、興国寺城は30分、長浜城、深沢城、足柄城60分。

こんな歴史があるのでここも肝試しは止めよう。とにかく夜中に肝試しに行ったというがいい話は聞かない。ここでちょっとはしゃぎすぎて、帰りに個人的に怖い思いをし、その後、一週間後に並々ならぬ怪我を。。(それ以来、城跡を見学する際に英霊に手を合わせるようになったのです。)

静岡県裾野市にある葛山城へ。

静岡県中部の旧名「駿河」は流れが「駿馬のように早い富士川」を指し、それが由来だそうだ。富士川より東側を河東、現在は駿東と呼ばれる。


その駿東を治め、伊豆から海の無い甲斐(山梨)へ塩を運ぶ交通の要、御坂みちを見張るように箱根山と愛鷹山に挟まれた小さな扇状台地に葛山氏の領地はあり、居館の裏側の愛鷹山山系の舌縁に詰城として葛山城はある。






葛山氏が歴史上登場するのは1200年代、鎌倉幕府の御家人としてらしい。おそらく源頼朝の挙兵に呼応し、平家討伐時に関東軍に従い、そのまま鎌倉幕府でも重用されたのではないだろうか。



時は流れ、1400年代になると駿河の今川家につき、伊勢新九郎(※北条早雲)堀越公方の戦いにおいては非協力的立場を取っていたが、幕府の命で諌められ、葛山氏の娘が新九郎(この時は出家をしており「宗瑞」)の元へ嫁ぎ、後に北条五代を支える幻庵が産まれる。そうして一族となった葛山氏は伊勢宗瑞の西相模平定においては存在感もって中心の1人となった。


だが世代が経る内に、戦国気運が高まると甲相駿の3カ国に挟まる故の苦難の連続が始まる。


信玄に内通したことを咎められ誅殺される。するとおそらく後北条よりけしかけられたか、武田に単独でクーデターを起こすが小さな田舎ネズミが甲斐の虎にかなうはずもなく、滅ぼされる。(諸説あり)



信玄はこの駿東の地を治めるべく、6男の信貞を葛山氏の娘と婚姻させ、葛山の名を名乗らせ葛山城に入る。


だがその後の信玄の死、織田/徳川の甲州征伐の際には、大月の勝山城と岩殿山城を治めていた小山田信茂と手を組み勝頼を裏切る。


この裏切りを忠義無しと判断され、小山田信茂と共に甲斐善光寺にて信長の命により、処刑された。(※諸説あり→元々葛山城を追われ、甲斐の地に住んでたところ勝頼の後を追い自刃したとも)


葛山城下にある居館跡
2m以上の土塁に囲われてる居館跡
廃城から500年間綺麗に残ってるのは地元に愛された証拠かも知れない

(余湖くんのホームページより)

仙年寺は葛山氏の菩提寺で駐車場が集会場前にあるのでそこに止め、東側に大手の登城口があるのでそこまで歩く。

大手曲輪の登城口



東曲輪とニノ曲輪の竪堀跡
もっと深かったのだろう



大手口から数えて堀切を1号~7号と順に呼ぶ


本丸裏の竪堀畝郡。夏に来ると笹やら茂っていてなーんも分からないが、初冬に綺麗に刈ってあるので畝状は確認出来る。この下は切り崖になっており、湧き水による水堀のようになっている。

富士の火山灰で形成された関東ロームの粘土質赤土なのでこの程度の傾斜でも登るのは困難だったろう。



帯曲輪から二ノ丸の虎口跡。おそらく搦手口。

本丸。あらあら、おやおや立派な天守が描かれてますね、、、

正面に見えるのが箱根山。現在も多くの田畑が拡がる故、500年前もこのような風景だったのだろう。

二ノ丸と西曲輪の堀切(6号堀)


西曲輪から二ノ丸


くの字に折れる先端に出曲輪があり防御施設とる。駐車場から集会場の裏に見える最初の防御施設。


仙年寺裏側から。

のどかである。車が走ってる様子が無い。


何世紀もこの風景は大して変わってないかもなぁ。


あと10日くらいで紅葉が見頃になりそう、そんな予感。この右手下に葛山氏代々の墓があります。
いつも通りに手を合わせ、「見学させて頂きありがとうございました。」と心より感謝。

ここは2人以上の見学なら事前に申請すれば、お城の案内をして頂けるそうです。
きっと先祖代々伝わる葛山氏のお話などきけそうですね。

交通は東名高速、裾野ICから10分くらい、新東名なら長泉沼津ICから15分。

 葛山氏が登場する動画⬇