来年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。

というわけではないが、散歩がてら北条発祥の地、伊豆韮山の堀越御所跡地へ。

ここは源頼朝の流刑地で色々とやんちゃした末、打倒平清盛の旗揚げをした地でもあり、さその300年後には後北条の祖、伊勢宗瑞(のちに北条早雲と呼ばれる)の始まりの地でもある。

こんんな歴史的な場所なのに地元民は意外に知らない、広場とお寺しか無いので「見るところが無い」というからだろうか。。いや見えるのよ、そこに無くても立派な居館や門が...(病的)







堀越御所跡地である。草しかない、まさに大草原ww
南門、北門から伊勢宗瑞は堀越御所を占拠した足利茶々丸を夜襲で攻め立て、伊豆討ち入りを成功収めた。7公3民とも2民とも言えた傲慢な年貢の取り立てから苦しむ伊豆の民を解放せ占めた。

北条政子の産湯の井戸。願成就院一帯も堀越御所一部と思われる。

堀越御所と北条の屋敷一帯は狩野川を南と西側の天然の要害となり、また東側の下田街道の間は水路を通し、水堀が形成されてたのでは無いだろうか。(※狩野川は氾濫しがちな河川なので700年前の流路は大きく異なったはずですが)






狩野川と堀越御所、守山に挟まれた北条氏邸宅跡(円城寺跡)は平城というべき天然の要害に囲まれてる。敷地内は立ち入り禁止で空堀跡などが見られる。


関東エリアの地震の巣とも言える伊豆半島ならではの地震動の擦痕。もし大河ドラマの聖地巡礼でお越しの際はこの「伊豆ジオパーク」をキーワードに探索するのも良いかも知れない。

願成就院は北条時政と茶々丸の菩提寺。ロッキーくんという犬が守護してますが吠えられても時政公だけは手を合わせたいものです。(茶々丸はなぁ...)

その南側に眞珠院というお寺。「伊東に行くならハトヤ」の伊東一帯を治めてた伊東氏の娘、八重姫が祀られてます。頼朝のやんちゃぶりの被害者という...悲劇。


平氏から頼朝のお目付け役を任された伊東氏の娘に手を出し身篭らせて、それを知った父親が激怒し、子供を殺害しさらに娘を幽閉。その間、今度は北条政子に手を出し、結ばれる。それを知らずに決死の覚悟で家を抜け出してきた八重姫が途中で政子の事を知り、失望の余り絶命してしまうとの悲劇。うーん、鬼畜すぎる。

この観光地一帯、気をつけたいことはトイレがありません。駐車場はありますが、トイレが無いのでコンビニ等で済ませてから立ち寄って下さい。

堀越御所の戦いは最近、ユキムラチャンネルさんがわかりやすく、誤解ないように丁寧な解説動画作られたので是非とも 
 


これだけの動画作るの大変...ほんとにご苦労さまです。伊勢宗瑞が如何に堀越御所を攻めるに至ったか、丁寧な解説はありがたい。。個人の野心などでは無く、やむなく討伐したところ。

他に韮山城や韮山反射炉等、観光地だらけのエリアなので1日ではなかなか見切れないと思いますが。韮山城は今回行きません、何度も行ってるので今回は見送りです。 



戦国史の中盤のクライマックスというと個人差はあるだろうが、私的には豊臣氏による小田原の役である。関東の雄、後北条氏を25万とも30万とも言える大軍で大外郭を備える小田原城を包囲し、開城させ全国統一を成し遂げたアレである。


そのきっかけとなったのが、ここ沼田領である。天正壬午の乱を調べて頂ければ、西で本能寺の変だー、山崎の戦いだーと天下分け目の戦じゃーと騒いでいる一方で、徳川/北条/上杉とその三者に挟まれる真田家が奔走した熱い熱い戦いがあったことを知って欲しい。90年頃に巨人対中日の天王山だーと日テレが盛り上がっていたその裏で、西武対近鉄戦を地味にやっていたようなものである。ブライアントの3連発は凄かったな、久信が片膝着いたもんな。


さてさてまずは


沼田領を巡る攻防戦の舞台となった城を今回見てきました。

まずは沼田城。


(※余湖さんのホームページより)

蓮根川を天然の要害とし、長い年月をかけて川が削りとった小高い山の上に築かれている。
現在では市民の憩いの場としてテニスコートや野球場があり、遺構の大部分は消失している。
公園の大部分を成してる本丸は江戸以降に普請されたものである。

実際これほどのスケール間は無いものと思われる。
奥の木陰に現存石垣が残されてるのがわかる。
本丸水堀は現在、テニスコートエリアを遺構調査中であった。


近くにいた地元のおじいさんは「ここは何もないよ、わざわざありがとねー」と誰に言ってるのか分からないようなことをひたすら散歩しながら主張していたが、城マニアにとって発掘調査で水堀跡をこのように削りとって見せるだけで、もはやメインディッシュである。

さしずめ月見バーガーである。上記の様な模型では100間堀のようなスケールだが、三間くらいのようである。




本丸西櫓の石垣。
この辺りが発掘調査されてる箇所でそれなりに出てくるようだ。(やる気出せ!!)

食い違い虎口跡? 左右の土塁が左手手前になっていた。


古城跡と呼ばれる曲輪から望む名胡桃城跡方面。こちらからは名胡桃城が丸見えになるが、名胡桃城からは沼田城は死角になる。(後述)
古城跡とは北条氏がここに陣張りした場所である。古城跡から本丸方面は食い違い虎口と見て取れる土塁が残っている。

巽櫓跡
天守櫓跡

大門跡土塁。野球場入口になっている。

巽櫓台跡と天守台跡、それを結ぶ真ん中に大門跡が野球場と公園を隔てる土塁が切れた所だと思われる。

ここより直線で5kmに位置する利根川の向こうの名胡桃城へ。


名胡桃城 鳥瞰図
みんなこのアングル撮影するので()

二の曲輪から三の曲輪方面。通路両側の溝っぽいのは排水溝跡とのこと。

ニノ曲輪から本丸への枡形虎口入口

非常に、復元状態が良い。

規模はさほど大きくない、というのも稼働は僅か10年。岩櫃城から沼田を抑える役目として築城された。真田→北条→真田→北条と2転3転している。ここの地を巡って北条は徳川を通じて、秀吉に裁定を求め、利根川以東沼田の地を北条、名胡桃城含む以西を真田領としたものの、これに気に食わない真田はひと案考え、沼田城を北条より任されていた猪俣邦憲を再三牽制し、しびれを切らした猪俣が名胡桃城を奪還。これが全国に「戦をしたらアカンやったら○す」という惣無事令を命じていた秀吉の逆鱗に触れる。北条は「勝手に挑発に乗った猪俣が勝手に侵攻した」というて、徳川を通じて秀吉に取りなそうとしたが行き違いがあり、伝わらず。25万とも言われる大軍団を率いて「小田原征伐」へと繋がるのである。(※諸説あり)

枡形虎口

本丸

二の丸から枡形虎口、櫓跡。

真田と言えば丸馬出しや石垣、空堀からも堅固な城であったことが伺える。
ここの案内所はボランティアで説明係の方がいらっしゃるので、案内所へ行けば一緒に回って頂けるようである。
案内所が空く前の早朝に行ったので、午後に補足説明を伺えた。
地方へ行くと、こうしたボランティアのお話は貴重で面白い。

物見櫓から見ると、ここから沼田城は右の山が遮って見えない。この点をボランティアに伺った所、城跡より右側(東)の山に砦を築いて沼田を監視してたとのこと。

後編へ続く
(続くんかーい)



〈余湖さんのホームページより〉

八王子市恩方にある浄福寺城へ。

恩方出身の有名人はご存知だろうか。
羽生である、譲らない羽生こと羽生(はぶ)善治棋聖である。(はにゅうじゃねーじゃん)
もうひとり、ここの母方の実家に身を寄せていた元モーニング娘。の飯窪春菜である。
「いいくぼはるなーー!!」のフレーズが個人的に頭から離れない、2013年5月21日日本武道館での田中れいなによる飯窪春菜のサブリーダー誕生の瞬間である。

小生が八王子の端が勤め先だった頃、八王子駅からバスで20分くらいの場所である、ファンキーモンキーらの通ってた高校付近である。
そこの人らが「恩方は田舎」というくらいに田舎である、今でも原風景が拡がる素敵な場所だ。 しかし東京という所はこのような所でもバス便がちゃんとある、「松竹」バス停目の前、京王八王子駅から最低1時間に1本である。

西部の関東山地の舌縁地に作られた八王子城の出城で、甲州との境の和田峠の見張りとして、または周囲の城との連絡地として使われたのだろう。築城は大石家が1300年代に、元は信濃の大石家で扇谷上杉家に見込まれ関東に、後に北条家に仕え、氏康三男の氏照を婿に迎えた。
氏照が滝山城、八王子城に入ると大井氏が再び入城したらしい。
北条氏が小田原の役で滅ぼされた後、大石家は徳川に仕え、「八王子千人同心」となり関ヶ原に参戦、明治以降も名家として続いたらしい。

城の南側に大石家が拓いたと伝わる浄福寺があり、城へは浄福寺西側にある墓地奥のお地蔵さんが並ぶ登山路から攻城する。
このお地蔵さんは30体以上あり、寺境内から四国お遍路としてこの登山路の途中まで一定置かれている。
信心深いので、お墓の前を通る際は心中で「失礼します」、お地蔵さんには丁寧に行き帰りは手を合わせ「失礼します」と。こういうのは大事です。城めぐり最中、過去色々あり教訓としておりまする。
この登山路は入口こそ草が凄いが、薙ぎ払ってしまうと直ぐに砂利の登山路になるので奥いって欲しい。お遍路の登山路なので整備はされている。10分弱でお遍路の最後の観音堂(余湖さんの縄張り図参照)があり、その裏から遺構らしきものが始まる。
尾根上に連結曲輪が郭翼に展開する山城であるが、全体的に曲輪が狭く小さく、出城や狼煙台的な役割だったのでは無いかと推測。麓の浄福寺から恩方中辺りに居館を構えてたのでは無いだろうか。
ここからcの曲輪まで中々の登り坂が続く、こちら側が大手道とは考え辛い勾配である。
1の本丸と思える曲輪は広く、右奥の少し窪んだ辺りに館があったのではと推測出来る。一段高い曲輪は見張り櫓があったのではなかろうか、現在はちいさな祠が祀られている。


ここから東に尾根上に伸びる2へと向かう。
この尾根上は本来緩やかで攻められ易いことを危惧してか、これでもかと人の手で険しく作り替えられている。
ここを攻城する際は手袋、登山ステッキは必要である。下りが滑るので手袋は必要、ステッキは滑りすぎないよう支えるのに使った。
3曲輪方面は日陰斜面になるので暗くなるのが早い、帰りは墓地を通ることも考慮に入れて3時半過ぎには下山すべきである。



山城の醍醐味である。
「攻められてたまるか」の強い意志を500年経ってもビシビシ伝わってくる。
二重堀切は北条の築城でも見ないような造りで、武田の手が入ったのではと思ってしまう。
この先の3曲輪に所謂この城の「フォアグラ」が待っている。




畝状竪堀が幾重にも張り巡らされている、まるで伊達巻の縁のようである。規模が大きい、思わず「うわぁぁぁ~」しか出ない。さながら中島卓偉のFolk in the Roadの歌い出しである、またはアコギの「鼓動」の前奏である。(中島卓偉を知らない人はYouTubeで調べて欲しい)
人は圧倒された時、言葉に出来ない。何故だろう、楽しい時間はあっという間に過ぎる(言葉に出来ない by中島卓偉)

実はこの日当初、大月の岩殿城を予定していたのだが、駐車場について見えない山頂を見上げた時に「あぁ、無理かな」と思わされた。ここと御坂城は体力的に大きな壁となっている。岩殿城はまさに壁である、ウォールマリアである。


言葉にならなかった、登りたかった想いだけがここにはあるよ
やめた、城を変えよう!
ということでここに来た。
そんな夏の終わり

あぁ、帰りは富士吉田名物「吉田うどん」で反省会。帰りはうどん食べて帰るわ~。


Woo woo, I say you might love me....