まだ3ヶ月?もう3ヶ月?

各人の感じるところは違うだろう。


私にとっては「まだ3ヶ月」の方がしっくりくる。

あの信じられないほどの揺れを経験し、

そして多くの人がなくなったという悲しみを通り越したショックのような

感覚を得た3月11日から随分と時間が過ぎたように感じていた。


3ヶ月という時間が長いか短いかは、それも各人の時間の捉え方に

よって異なるとは思うのだが、何か一区切りの期間であると私は思う。


そんな一区切りを迎えた今、あの大災害について振り返ってみた。



地震とは物理的に言えば、プレートがずれたことによって発生する

揺れにしかすぎない。地面が大きく揺れた…ある意味それだけのことだ。


しかしこの地震という自然災害は私にとって

「生と死」そのものであった。生と死の壮大なストーリーとも表現できる。


本来は災害などなくとも、この世界は生と死の壮大なストーリーそのものだ。


しかし私も含めた多くの人々はそのことを忘れて生きている。


この地震と言う災害はその忘れていたことを強制的に思い出させた。


ある人は死に、ある人は生きている。

その事実はある意味単純でわかりきったことではあるのだが、

その意味するところはあまりにも深すぎる。


おそらくその事実について討論すれば、

多くの心理学者、神学者、牧師、僧、宗教家たちが頭を痛めることだろう。


私たちは必ず死ぬ。

死がある故に生が存在し、生がある故に死が存在する。

死があるからこそ、生は意味を持ち、生き生きと脈動する。

生があるからこそ、死は肉体の終わりにも関わらず永遠の意味を残す。



やはり私は改めて思う。

この震災いう生と死の壮大なストーリーの経験者として

何かを感じ、何かを残していかなくてはならない。


それがこの時代に生まれた私たちの役割と意味なのだと思う。

先日まで中国に滞在していた。


良くも悪くもすごい国だった。


2週間というある程度まとまった期間向こうにいたことで、

私の考え方にいろいろと変化が起きた。


とてつもないスピードで発展する中国経済。

しかし、それと同時に広がる経済格差。


私は貧も富もその両方をこの目で見てきた。

その中でもとくに印象に残ったのは貧の人々である。


一言で表現すれば、実にたくましい。

そして楽しく生きている。


貧の地域は、まるで震災直後のあの風景を彷彿させる街並みだった。


しかし、そこに住む人々は本当に力強かった。



私たちは日本という、世界で最も住みやすい平和な国に生まれ育ち、

その生活水準に慣れ切っていた。それ自体が悪いことではないが、

今回の震災を通して私たちは生活水準を落とさざるを得ない状況となった。


そんな今、中国でたくましく生きている彼らに出会えたことは

私にとって大きな精神的財産となった。


地震、中国での滞在。この二つの経験が私の人生の

素晴らしい転機になることは間違いない。


もし機会があれば、みなさんも日本以外の貧の人々に触れてみて欲しい。

結局のところ変われるのは自分自身しかない。

幸せになるには、幸せになれるだけの人格を身に着けるしかない。

それだけが幸せへの道なのだと思う。


世の中は自分が影響できない事象が溢れている。

今回の地震もそうだ。

誰も地震なんて望んでいなかった。

しかし起きることは起きてしまう。


自分の影響できない事柄に、自らの幸せの基準を置いてしまうことは、

結局のところ自分の人生の権利を放棄し、他人や影響できない事柄に

依存し左右される生き方を選んだことになる。


私たちが本当の意味で変えられるのは自分自身だけだ。


だから幸せになるには自己成長以外の方法はないのだと思う。


それが唯一の幸せへの道なのだと思う。