ボビー・ジェントリー(Bobbie Gentry/出生名:Roberta Lee Streeter/1942年7月27日~)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。
1942年7月27日、ロバータ・リー・ストリーターは、アメリカ合衆国ミシシッピ州チカソー郡ウッドランド近郊で、ルビー・リー(旧姓:シップマン/1920年11月28日-1989年4月2日)とロバート・ハリソン・ストリーターの娘として生まれた。
彼女が生まれて間もなく両親が離婚すると、母親はカリフォルニアに移り、ジェントリーは父方の祖父母の農場で、電気も水道もない環境で育てられた。
祖母は家族の乳牛の1頭を隣人のピアノと交換し、ジェントリーは7歳の時に最初の曲“My Dog Sergeant Is a Good Dog”を作曲した。
ジェントリーはその後数年間、父親とともにミシシッピ州グリーンウッドに住み、ギターとバンジョーの演奏を学んだ。
13歳の時、ジェントリーは当時再婚していた母親と一緒に暮らすためにカリフォルニア州パームスプリングスに移った。 2人は短期間、ルビーとボビー・マイヤーズのデュオとして活動した。
ジェントリーは、テレビで見た1952年の映画『ルビー・ジェントリー』(Ruby Gentry)から芸名を取った。映画では、ジェニファー・ジョーンズ演じるヒロイン「ルビー」は、田舎出身の貧しいが美しい少女で、最終的には町の有力者と結婚するハッピー・エンドのストーリーが展開されていた。
高校卒業後、ジェントリーはロサンゼルスに移り、UCLAで哲学を専攻した。
事務職で生計を立て、時折ナイトクラブやカントリークラブで演奏し、ラスベガスのナイトクラブ、レ・フォリー・ベルジェールでレビューに出演した際、ボブ・ホープは彼女に演奏を続けるよう勧めた。
彼女はファッションモデルとして働き、1962年6月29日、ユナイテッド・プレス・インターナショナルは、ラナ・ターナーの娘シェリル・クレインが写ったジェントリーの写真を配給した。
ジェントリーはロサンゼルス音楽院に転校し、作曲、音楽理論、編曲のクラスを受講した。
1966年、パームスプリングスのクラブでロックン・ロール・シンガーのジョディ・レイノルズ(Jody Reynolds)のコンサートに参加したジェントリーは、レイノルズのレコーディングセッションに加わりたいと申し出た。これがきっかけで、レイノルズとのデュエット曲“ストレンジャー・イン・ザ・ミラー”(Stranger in the Mirror)と“レクイエム・フォー・ラヴ”(Requiem for Love)を歌うことになった。この2曲は1966年9月にタイタン・レコードからリリースされたが、チャート入りは果たせなかった。
1967年7月、南部ゴシック調のシングル“オード・トゥ・ビリー・ジョー”(Ode to Billie Joe)を発売、米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)で4週間1位に輝き、この年の同誌年間チャート3位を獲得。同誌「アダルト・コンテンポラリー・シングル」チャート(以下「AC])7位・同誌「カントリー・ソングス」チャート(以下「カントリー」)17位に入った。また、カナダでも1位を獲得したのをはじめ、ニュージーランド3位、豪州とアイルランドで6位、イギリスでも全英シングル・チャート13位に達した。翌1968年にはグラミー賞の最優秀新人賞と最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞。ジェントリーはこの曲で世界的に有名になった。
8月21日、同名アルバム『Ode to Billie Joe』をCapitolkrリリース、『ビルボード』誌の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)1位・アダルト・コンテンポラリー・アルバム・チャート」(以下「AC」)1位・同誌「R&Bアルバム・チャート」5位をマーク、さらにアメリカレコード協会(RIAA)からゴールド・ディスク認定を受けた。
最初のアルバムの後、ジェントリーはラスベガス・ストリップでバラエティ番組を成功させた。
1968年2月5日、2ndアルバム『The Delta Sweete』をリリース、全米132位。ここからは、"Okolona River Bottom Band"が全米54位、"Louisiana Man"が全米100位・カントリー72位になった。
1968年9月16日、グレン・キャンベル(Glen Campbell)との共同アルバム『Bobbie Gentry and Glen Campbell』をCapitolからリリース、全米11位・AC1位全英50位をマークし、RIAAから自身2枚目のゴールドを獲得した。ここからのシングルは、デュエット・ナンバー"Mornin' Glory"が全米74位・AC32位、B面の"Less of Me"がカントリー44位、また"Let It Be Me"が全米36位・AC7位・カントリー14位を記録した。
1969年、シングル"フール·オン·ザ·ヒル" (Fool on the Hill)をリリース。
7月7日、アルバム『Touch 'Em with Love』をリリース、全米164位・AC42位・全英21位をマーク。ここからは、全米6位になったディオンヌ・ワーウィックとの競作"恋よさようなら"(I'll Never Fall in Love Again)が全英1位になったのをはじめ、アイルランド1位・南アフリカ3位・豪州5位・ノルウェー5位・ニュージーランド5位を記録、本国アメリカを除き世界的ヒットとなった。
同年、グレン・キャンベルとのデュエット・ナンバー"All I Have to Do Is Dream"をシングル・リリース、全米27位・AC4位・カントリー6位・全英3位をはじめ、アイルランド2位・豪州3位・南ア3位・ノルウェー4位・ニュージーランド7位を記録した。
1970年4月6日、アルバム『ファンシー』(Fancy)をリリース、全米96位・AC34位に入った。タイトル・トラック"Fancy"が全米31位・AC8位、"Raindrops Keep Fallin' on My Head"が全英40位、"He Made a Woman Out of Me"が全米71位を記録。なお、本アルバムは、グラミー賞の最優秀女性ポップ・ボーカル・パフォーマンスにノミネートされた。
同年、シングル"Apartment 21"をリリース、全米81位・AC19位をマークした。
1971年4月26日、アルバム『Patchwork』をリリース、全米221位。ジェントリーにとって最後のスタジオ・アルバムとなった本作からのシングルは、"But I Can't Get Back"がAC37位を記録した。
1976年、“オード・トゥ・ビリー・ジョー”が映画『Max Baer's Motion Picture』のサウンドトラックに起用、これを機にシングル再販され、全米65位を記録した。
ジェントリーは、全米シングル・チャートに11曲のシングルを、イギリスの全英トップ40に4曲のシングルをランクインさせたのをはじめ、欧米各国で多くの曲やアルバムをチャートに送り込んだ。
1970年代後半、しかしジェントリーはパフォーマンスへの興味を失い、音楽業界から引退した。彼女がどこに住んでいるかについては、ニュースで様々な報道がされているが、判然としない。
2018年9月21日、コンピレーション・アルバム『The Girl from Chickasaw County: The Complete Capitol Masters』をリリース。
(参照)
Wikipedia「Bobbie Gentry」
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