グレン・キャンベル(Glen Campbell /出生名:Glen Travis Campbell/1936年4月22日~2017年8月8日) は、アメリカ合衆国のカントリー・ミュージック歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優。

 

 

 

1936年4月22日、グレン・トラヴィス・キャンベルは、アメリカ合衆国アーカンソー州パイク郡ディライト近くの小さな町ビルズタウン(Billstown)にて、ジョン・ウエズリー・キャンベルとキャリー・デル(旧姓:ストーン)のもとに12人きょうだいの7番目として生まれた。 彼の父親はスコットランド系の小作人であった。

幼い頃に譜読みを学ばずに叔父からギターの弾き方を習った。

 

1954年、キャンベルはニューメキシコ州の商業都市アルバカーキ(Albuquerque) に転居。そこで叔父のバンド「ディック・ビルズ&サンディア・マウンテン・ボーイズ」に参加し、叔父のラジオ番組にも出演、さらにKOBの子どもローカル番組『K Circle B Time 』にも出演した。

 

1958年、キャンベルは自身のバンド「ウエスタン・ラングラーズ」を結成した。

1960年、キャンベルはスタジオ・ミュージシャンになるべくロサンゼルスに転居した。この頃、インストバンド「チャンプス」(The Champs)にも参加した。すぐにキャンベルはスタジオ・ミュージシャンとして高い評価を受け、後の「レッキング・クルー」となるスタジオ・ミュージシャン・グループに参加した。この時期にボビー・ダーリン、リッキー・ネルソン、ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、モンキーズ、ナンシー・シナトラ、マール・ハガード、ジャン&ディーン、エルヴィス・プレスリー、フランク・シナトラ、フィル・スペクターらとレコーディングを行なった。 


 

1961年1月までに、キャンベルは出版社アメリカン・ミュージックで昼間の職を見つけ、作曲やデモ演奏を行なった。

5月、チャンプスを脱退し、アメリカン・ミュージックの子会社クレスト・レコードと契約した。1枚目のレコード“Turn Around Look At Me”は『ビルボード』誌ホット100で第62位となった。

 

チャンプスの元メンバーと「ギー・シーズ」(the Gee Cees)を結成し、ロサンゼルス郊外ヴァン・ナイズにあるクロスボー・インにて演奏するようになった。ギー・シーズとしてもクレストからA面“Buzz Saw”、B面“Annie Had A Party”のインストゥルメンタルのシングルを発表したがチャート入りしなかった。

 


1962年、キャピトル・レコードと契約。移籍後1枚目“Too Late to Worry, Too Blue to Cry”は全米76位と小ヒットしたが、グリーン・リバー・ボーイズft.グレン・キャンベルとしての“Kentucky Means Paradise”以降シングルもアルバムも成功には至らなかった。

 


1964年、ロッド・キャメロンが司会のテレビ番組『Star Route 』、ABCの『Shindig! 』、『Hollywood Jamboree 』にレギュラー出演を始めた。

同年12月~翌1965年3月、キャンベルはブライアン・ウィルソンの代役としてザ・ビーチ・ボーイズのツアー公演に参加した。また彼らのアルバム『ペット・サウンズ』などのレコーディングにギター奏者として参加した。ツアー公演ではベース・ギターおよびファルセットのハーモニーを演奏した。

 

 

1965年、バフィー・セントメリーの“Universal Soldier”のカヴァーが全米45位になった程度で、まだ大ヒットには至らなかった。ただし、歌詞に込められた平和へのメッセージについて聞かれた彼は「戦争反対を主張する人々は、首を吊るべきだ」と応じた。

 

 

1966年4月、リック・ネルソンの極東ツアーにベース奏者として参加した。

同年、キャピトルはキャンベルの契約終了を検討し、キャンベルはプロデューサーのアル・ド・ロリーとチームを組んだ。

 

 

1967年初頭、ド・ロリーとの最初のコラボレート作品“Burning Bridges”はカントリー18位、同名アルバムがカントリー・チャートで第20位に入った。

 

同年、キャンベルとド・ロリーはジョン・ハートフォード作曲の“ジェントル・オン・マイ・マインド”(Gentle on My Mind)で再びコラボレート、同曲はすぐに全米62位・カントリー30位、翌1968年に再販された際には全米39位とヒットした。同名アルバム『ジェントル・オン・マイ・マインド』(Gentle on My Mind)も全米5位・カントリー1位になり、プラチナディスク認定を受けた。

 

 

同年後期、ジミー・ウェッブ作曲の“恋はフェニックス”(By the Time I Get to Phoenix)が全米26位・カントリー2位になった。同名アルバムは全米15位・カントリー1位に達し、プラチナ認定を受けた。

 

 

同年、キャンベルはスタジオ・グループであるサジタリウスの“My World Fell Down”にクレジット無しのリード・ヴォーカルとして歌い、全米70位になった。

 

 

1968年、“I Wanna Live”が全米36位・カントリー1位、さらに“ウィチタ・ラインマン”(Wichita Lineman)が全米3位・カントリー1位・米誌『ビルボード』「アダルト・コンテンポラリー・チャート」(以下「AC」)1位・全英7位と大ヒット。1997年の『モジョ』誌、2001年の『ブレンダー』誌が選ぶ20世紀の代表曲に“ウィチタ・ラインマン”が選ばれた。

 

 

この年のアルバムは、『ウィチタ・ラインマン』(Wichita Lineman)が全米1位・カントリー1位でダブル・プラチナを獲得、『ガルベストン』(Galveston)が全米2位・カントリー1位でプラチナを獲得した。

 

 

同年夏、テレビのバラエティ番組『The Smothers Brothers Comedy Hour』の司会を務めた後、1969年1月から1972年6月、CBSのバラエティ番組『The Glen Campbell Goodtime Hour 』の司会を務めた。番組内でキャンベルはビートルズ、デヴィッド・ゲイツ、ブレッド、モンキーズ、ニール・ダイアモンド、リンダ・ロンシュタット、ジョニー・キャッシュ、マール・ハガード、ウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングス、ロジャー・ミラーなどの著名なアーティストとセッションを行ない、またアン・マレーのキャリアアップに繋がった。なおこの番組にはメル・ティリスとジェリー・リードがレギュラー出演していた。

同年、"Christmas Is for Children"がクリスマス・チャートで7位に入った。

 

 

1969年、ジョン・ウェインやキム・ダービーとともに映画『勇気ある追跡』(True Grit)に出演、テーマ曲“True Grit”(作詞:ドン・ブラック/作曲:エルマー・バーンスタイン)を歌唱し、全米35位・カントリー9位になった。また、同曲でアカデミー賞楽曲賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。

 

この年、前年のアルバムからカットした“ガルベストン”(Galveston)が全米4位・カントリー1位・AC1位・全英14位になったのをはじめ、“Where's the Playground Susie”が全米26位・カントリー28位、“トライ・ア・リトル・カインドネス”(Try a Little Kindness)は全米23位・カントリー2位・AC1位・全英45位に達した。

 

 

 

同年、“ジェントル・オン・マイ・マインド”と“恋はフェニックス”でグラミー賞を受賞。

 

 

1970年、"Honey Come Back"が全米19位・カントリー2位・全英4位、"All I Have to Do Is Dream" (with Bobbie Gentry)が全米27位・カントリー6位・全英3位、 "Everything a Man Could Ever Need"が全米52位・カントリー5位・全英32位、"It's Only Make Believe"が全米10位・カントリー3位・全英4位になった。

 

 

 

 

この年のアルバムは、『Try a Little Kindness』が全米12位・カントリー4位・全英37位でゴールドを獲得した。

 

同年、人気者になったキャンベルについて、フレダ・クレイマーによる伝記『The Glen Campbell Story 』が出版された。また、キム・ダービーやジョー・ネイマスとともに映画『Norwood』に出演した。

 

 

1971年、"Dream Baby (How Long Must I Dream)"が全米31位・カントリー7位・全英39位に達した。

 

同年から1983年まで、PGAツアーのプロゴルフ・トーナメントにおいて、ロサンゼルス・オープンの司会を務めた。

 


1972年、『Goodtime Hour 』が終了した後も、キャンベルは全国ネットに出演し続けた。ロバート・カルルのレイフ・ギャレットとともにテレビ映画『Strange Homecoming 』に出演した。



1974年、"Bonaparte's Retreat"がカントリー3位になった。

 

また、アルバム『Reunion: The Songs of Jimmy Webb 』で再びジミー・ウェッブが主に作曲を行なったが、シングルのヒットにはならなかった。

 

 

1975年5月26日、"Rhinestone Cowboy"をシングルリリースすると、全米1位・カントリー1位・AC1位・全英4位になり、当初200万枚以上を売り上げるキャンベル最大のヒットとなった。同名アルバムは「全米17位・カントリー1位・全英38位に達した。同曲は元々は1974年、作者のラリー・ウエイスがリリースした楽曲をカヴァーしたもの。この曲はディッキー・グッドマンによる映画『ジョーズ』のパロディ曲『ミスター・ジョーズ』に組み込まれた。“Rhinestone Cowboy”はその後も『デスパレートな妻たち』、『チャーリーと14人のキッズ』、『High School High 』など映画やテレビ番組で使用されている。1984年のドリー・パートンやシルヴェスター・スタローンの映画『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』はこの曲から着想を得たという。

 

 

 

1976年にオリビア・ニュートン=ジプやティーン・アイドョンとともに司会を務めた『Down Home, Down Under 』等を含め、多くのテレビ番組の司会を務めた。

1976~1978年、アメリカン・ミュージック・アワードの共同司会を務め、1976年のNBCのスペシャル番組『Glen Campbell: Back To Basics 』にゲストのシールズ&クロフツやブレンダ・リーとともに出演した。また『Donny & Marie 』、『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』、『シェール』、『Redd Foxx Comedy Hour 』、『マーヴ・グリフィン』『The Midnight Special with ウルフマン・ジャック』、『DINAH!』、『Evening at Pops with アーサー・フィードラー』、『the Mike Douglas Show 』など全国放送の多くのトーク番組やバラエティ番組にゲスト出演した。



1977年、アラン・トゥーサン作曲“サザン・ナイツ”(Southern Nights)が全米1位・カントリー1位・AC1位・全英28位にのクロスオーヴァー・ヒットになった。また、同年にジュークボックスで最も流された曲となった同曲のイントロ部分のギター演奏はジミー・ウエブやジェリー・リードに影響を与えた(編曲はチャーリー・カレロ)。

 

また、ニール・ダイアモンド作曲“Sunflower”が全米39位・カントリー4位・AC1位、“Country Boy (You Got Your Feet in L.A.)”が全米11位・カントリー3位・AC1位等とヒット曲を生み出した。

 

 


1982~1983年、NBCの30分間の音楽番組『the Glen Campbell Music Show 』の司会を務めた。


1980年、クリント・イーストウッド主演の映画『ダーティファイター燃えよ鉄拳』(Every Which Way But Loose)でタイトル曲を歌い、カメオ出演した。

 

 

彼はアラン・ジャクソン(Alan Jackson)のブレイクの一躍を担った。キャンベルはピードモント航空のフライト・アテンダントであったジャクソンの妻とアトランタ空港で出会い、彼女に出版マネージャーの名刺を渡した。1990年代初頭、キャンベルの音楽出版ビジネスにジャクソンが関わることになり、後にキャンベルの会社であるセヴンス・サン・ミュージックから多くのヒット曲を生み出すこととなった。

またキース・アーバンはキャンベルから多大な影響を受けたと語った。

 

 

1984年、"A Lady Like You"がカントリー4位になった。

 

 

1985年、"It's Just a Matter of Time"がカントリー7位になった。

 

 

1987年、"The Hand That Rocks the Cradle" (with Steve Wariner)がカントリー6位、"Still Within the Sound of My Voice"がカントリー5位に達した。

 

 

 

1988年、"I Have You"がカントリー7位になった。

 

 

1989年、"She's Gone, Gone, Gone"がカントリー6位になった。

 


1991年、ドン・ブルース監督の映画『Rock-A-Doodle 』でエルヴィス・プレスリーに声が似た主役の雄鶏シャンティクリア役の声を担当した。


1999年、VH1の『Behind the Music 』、2001年にA&E Network の『Biography 』、そしてカントリー・ミュージック・テレビジョン(CMT)の多くの番組で特集された。



2002年、イギリスのリッキー&ダズとともに"Rhinestone Cowboy"のテクノ・ポップ版を制作し、ダンス版やミュージック・ビデオとともに全英12位にランクインした。

 

 

2003年、『CMT's 40 Greatest Men of Country Music 』で第29位となった。

 


2005年、カントリー・ミュージックの殿堂に殿堂入りを果たす。


2008年4月、新たなアルバム『Meet Glen Campbell 』リリースのため、15年ぶりにキャピトル・レコードに戻ることを発表し、8月19日にこのアルバムを出版した。このアルバムでトラヴィス、U2、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ 、ジャクソン・ブラウン、フー・ファイターズなどの曲をカヴァーし、様々な音楽の方向性を示した。チープ・トリックやジェリーフィッシュのミュージシャンもこのアルバムに参加した。このアルバムからの1枚目のシングルカットはグリーン・デイの“Good Riddance (Time of Your Life)”のカヴァーであり、2008年7月にラジオで最初に流された。

 

 

2010年3月、『Meet Glen Campbell 』の続編となる『Ghost on the Canvas 』のリリースを発表。

 

 

2011年8月30日、ポール・ウエスタバーグがタイトル曲を作曲し、ウォールフラワーズのジェイコブ・ディラン、クリス・アイザック、リック・ネルソン、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンなどとコラボレートしたアルバム『Ghost on the Canvas 』をリリース。

 

同年、アルツハイマー病と診断されたことを発表。


2013年1月、ロサンゼルスで“I'm Not Gonna Miss You”をレコーディングした。同曲は翌2014年9月30日公開のドキュメンタリー映画『Glen Campbell: I'll Be Me 』で使用された。

 

 

2014年4月、78歳で長期間のアルツハイマー治療施設に入所したことが報じられた。

同年、"I'm Not Gonna Miss You"が全米90位・カントリー21位に達した。

 

 

2015年1月15日、キャンベルおよびジュリアン・レイモンドが“I'm Not Gonna Miss You”で第87回アカデミー賞においてアカデミー歌曲賞にノミネートされた。

2月22日、ドルビー・シアターで行われた授賞式において、病床で参加できないキャンベルの代わりにティム・マグロウが歌った。


2017年6月23日、自身の終活として2012年から13年にかけてレコーディングしていた12曲を最後のアルバム『Adiós』(スペイン語:「さよなら」の意)として発売。

 

 


2017年8月8日、アメリカ・ナッシュビルの施設で午前10時頃、死去、81歳。

アルバム発売からわずか1ヶ月半後、このアルバムを遺言とするかのように、この世に別れを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「グレン・キャンベル」「Glen Campbell」