ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick/出世名:Marie Dionne Warrick/1940年12月12日~)は、アメリカ合衆国のR&B・ポップスの歌手。

 

 

 

1940年12月12日、マリー・ディオンヌ・ワーウィックは、アメリカ合衆国ニュージャージー州イーストオレンジ(East Orange, New Jersey)で、リー・ドリンカードとマンセル・ウォリックの間に生まれた。母親はドリンカード・シンガーズのマネージャーであり、父親はプルマンのポーター、シェフ、レコードプロモーター、公認会計士であった。ディオンヌという名前は母方の叔母にちなんで名付けられた。彼女には妹のデリアことR&Bシンガーのディー・ディー・ワーウィック(1942年9月25日–2008年10月18日)と、1968年に21歳で事故で亡くなった弟のマンセル・ジュニアがいた。彼女の両親は二人ともアフリカ系アメリカ人だった。そして、彼女はネイティブ・アメリカンとオランダ人の祖先も持っている。

ワーウィックの母方の叔母は歌手のシシー・ヒューストン(Cissy Houston/1933年9月30日-)で、その娘(ワーウィックにとっては従妹)がホイットニー・ヒューストン(Whitney Houston/1963年8月9日-2012年2月11日)であり、義理の姉妹にジュディ・クレイ(Judy Clay/1938年9月12日–2001年7月19日)がいる。また、オペラ歌手のレオンタイン・プライス(Leontyne Price/1929年2月10日-)が母方のいとこと、家族や親族に歌手が多い環境に生まれた。


ワーウィックはイーストオレンジで育ち、一時期ガールスカウトを務めていた。

 

彼女は子どもの頃、ニュージャージー州ニューアークにあるニューホープ・バプテスト教会でゴスペルを歌い始めた。

 

1959年、イーストオレンジ高校を卒業した後、ワーウィックはコネチカット州ウェスト ハートフォードのハートフォード音楽大学に進学、主専攻で音楽教育、副専攻でピアノを専攻した。

 

彼女は、ニューヨーク市でのレコーディングセッションでバック・ヴォーカルを歌うグループで仕事を得た。

ある時ワーウィックはレコーディング・セッションに呼ばれ、作曲家のバート・バカラックと作詞家のハル・デヴィッドが書いた曲をデモを録音した。これがバカラックとの出会いだった。ワーウィックは後に自身のレコード契約を結び、彼らの書いた作品を数多く歌うことになる。

 

 

1962年、"Don't Make Me Over"でScepterからデビュー。米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)21位・同誌「R&B Songs」(以下「R&B」)5位をマークした。

 

 

1963年、“エニワン・フー・ハッド・ア・ハート”(Anyone Who Had a Heart)を発売すると、全米8位・R&B6位・『ビルボード』誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート(以下「AC」)2位まで上昇、自身初の全米トップ10ヒットになった。

 

同年、LP(アルバム)『Presenting Dionne Warwick』を発表、全英14位を記録した。

 

 

1964年4月26日、“ウォーク・オン・バイ”(Walk on By)が全米6位・R&B1位・AC7位・全英9位とヒット、BPIシルバーも獲得し、脚光を浴びる。

 

8月31日、アルバム『Make Way for Dionne Warwick』をリリース、全米68位・R&B10位をマーク。

同年、"You'll Never Get to Heaven (If You Break My Heart)"が全米34位・R&B10位・全英20位、"Reach Out for Me"が全米20位・R&B1位・全英23位をマーク。

 

 

 

1965年12月21日、アルバム『Here I Am』をリリース、全米45位・R&B3位。

 

 

1966年、"Message to Michael"が全米8位・R&B5位・AC12位・全英55位を記録。

 

同年、初のライヴ・アルバム『Dionne Warwick in Paris』をリリース、全米76位・R&B3位・全英14位。

同年、コンピレーション・アルバム『The Best of Dionne Warwick』をPyeレーベルから発売、全英8位。

12月4日、アルバム『Here Where There Is Love』をリリース、全米18位・R&B1位・全英39位、RIAAゴールド。

 

 

1967年、“あなたに祈りをこめて”(I Say a Little Prayer)をリリース、全米4位・R&B8位のヒットとなる。

 

同年、"(Theme from) Valley of the Dolls"をリリース、全米2位・R&B13位・AC2位・全英28位になった。

 

8月31日、アルバム『The Windows of the World』をリリース、全米22位・R&B11位を記録した。

同年、コンピレーション・アルバム『Dionne Warwick's Golden Hits, Pt. 1』をScepterからリリース、全米10位・R&B3位。

 

 

1968年3月23日、アルバム『Dionne Warwick in Valley of the Dolls』をリリース、全米6位・R&B2位・全英10位、RIAAゴールドを獲得。ここから、“サン・ホセへの道”(Do You Know the Way to San Jose)をカット、全米10位・R&B23位・AC4位・全英8位・カナダ8位をマークした。本曲はグラミー賞「女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞」を受賞した。

 

 

11月、アルバム『Promises, Promises』をリリース、全米18位・R&B7位をマーク。ここから、“Who Is Gonna Love Me"が全米33位・R&B43位・AC4位・全英56位・カナダ19位、タイトル・トラック"Promises, Promises"が全米19位・R&B47位・AC7位・カナダ8位、"This Girl's in Love with You"が全米7位・R&B7位・AC2位・カナダ7位になった。

 

 

 

 

 

1969年4月、アルバム『Soulful』をリリース、全米11位・R&B2位・カナダ16位。ここから、"You've Lost That Lovin' Feeling"が全米16位・R&B13位・AC10位・カナダ12位をマーク。

 

 

同年、コンピレーション・アルバム『Dionne Warwick's Golden Hits, Pt. 2』をリリース、全米28位・R&B9位・カナダ33位。

12月15日、“恋よ、さようなら” (I'll Never Fall in Love Again)をリカット、全米6位・R&B17位・AC1位・カナダ3位を記録した。本曲でグラミー賞「女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞」を2度目の受賞。

 

ワーウィックは、バカラック=ハル・デヴィッド作品で多くのヒットを放ち、スタンダードとして親しまれている。

 

 

1971年、ライヴ・アルバム『The Dionne Warwicke Story: A Decade of Gold』をリリース、全米48位・R&B16位・カナダ39位、RIAAゴールド認定。


1974年、デトロイトのヴォーカル・グループ「ザ・スピナーズ」(The Spinners)と共演した“愛のめぐり逢い”(Then Came You)をリリース、全米ナンバー1になったのをはじめ、R&B2位・AC3位・全英29位・カナダ7位をマーク、RIAAゴールドを獲得する大ヒットになる。

 

 

1975年、"Once You Hit the Road"が全米79位・R&B5位・AC22位を記録。

 

 

だが、その後の数年間、ワーウィックはスランプ状態に陥った。

 

 

1979年5月、アルバム『Dionne』をAristaからリリース、全米12位・R&B10位。

同年、バリー・マニロウ(Barry Manilow/1943年6月17日-)のプロデュースによる“涙の別れ道”(I'll Never Love This Way Again)が全米5位・R&B18位・AC5位・全英62位・カナダ6位と久々のヒット曲となり、RIAAゴールドを獲得、さらにグラミー賞「女性ベスト・ポップ・ヴォーカル賞」を3度目の受賞。また、アルバムからは"Déjà Vu"が全米15位・R&B25位・AC1位をマーク、グラミー賞「女性ベスト・R&B・ヴォーカル賞」を受賞した。

 

 

 

1980年、"No Night So Long"をリリース、全米23位・R&B19位・AC1位をマーク。

 

 

1982年4月14日、アルバム『Friends in Love』をリリース、全米83位・R&B33位をマーク。ここから、ジョニー・マティス(Johnny Mathis/1935年9月30日-)と共演したタイトル・トラック"Friends in Love"をカット、全米38位・R&B22位・AC5位となった。

 

9月28日、アルバム『ハートブレイカー』(Heartbreaker)をAristaからリリース、全米25位・R&B13位・全英3位・オランダ5位、またノルウェーではチャート首位を10週間も続け、RIAAゴールド、BPIプラチナを獲得した。ここから、ビー・ジーズのバリー・ギブ制作によるタイトル・トラック“ハートブレイカー”(Heartbreaker)をカットすると、全米10位・R&B14位・AC1位・全英2位・豪州2位・ニュージーランド4位・オランダ5位・ドイツ10位に達し、BPIシルバーを獲得するヒットになった。

 

 

 

1983年、"All the Love in the World"をリリース、全英10位をマークし、BPIシルバーを獲得した。

 

 

1985年、「USA for AFRICA」の“ウィ・アー・ザ・ワールド”(We Are The World)に参加するなどの活躍を見せる。

 

11月25日、アルバム『Friends』をリリース、全米12位・R&B8位、RIAAゴールド、MCゴールドを獲得。ここから、バカラック&キャロル・ベイヤー・セイガーのライティング・コンビにより書かれ、グラディス・ナイト(Gladys Knight/1944年5月28日-)、エルトン・ジョン(Sir Elton John CH CBE/1947年3月25日-)、スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder/1950年5月13日-)と共演した“愛のハーモニー” (That's What Friends Are For)を先行リリース、全米1位・R&B1位・AC1位・豪州1位・カナダ1位・ニュージーランド3位・全英16位と大ヒットさせた。さらに本曲で、グラミー賞「年間最優秀曲賞」「ベスト・ポップグループ賞(エルトン・ジョンとグラディス・ナイト、スティーヴィー・ワンダーによるカバー)」を受賞した。

 

 

 

1987年7月30日、アルバム『Reservations for Two』をリリース、全米56位・R&B32位を記録。ここからは、ジェフリー・オズボーン(Jeffrey Osborne)と共演した"Love Power"をカット、全米12位・R&B5位・AC1位・全英63位・カナダ21位をマーク。

 


2006年11月7日、自身のヒット曲をセルフ・カヴァーしたアルバム『マイ・フレンズ・アンド・ミー〜バート・バカラックへの想い』(My Friends & Me)をリリース。グロリア・エステファン(Gloria Estefan/1957年9月1日-)、グラディス・ナイト、オリビア・ニュートン=ジョン(Dame Olivia Newton-John AC DBE/1948年9月26日-2022年8月8日)、シンディ・ローパー(Cyndi Lauper/1953年6月22日-)らと共演した本アルバムは、R&B66位をマークした。


 

2008年1月28日、ゴスペル・アルバム『Why We Sing』をリリース、ゲストは実妹のDee DeeやBeBe Winance 等が参加した。ゴスペル集は1969年の『Soulful』に次いで2度目の発表となった。

 

 

2012年11月6日、アルバム『Now』をH&Iからリリース、全英57位。


 

2013年3月21日、ニュージャージー州の破産裁判所に自己破産を申請。負債総額は1070万ドル余り。

 

 

2019年5月17日、アルバム『She's Back』をKind, eOneからリリース。ここからシングル"You Really Started Something"をカット、『ビルボード』誌のダンス・チャートで16位に入った。

 

10月、アルバム『Dionne Warwick & the Voices of Christmas』をKind、BMGからリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ディオンヌ・ワーウィック」「Dionne Warwick」

 

 

 

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