内海利勝(うちうみ としかつ/1953年5月30日~)は、日本のギタリスト。

キャロルの元リード・ギター兼ヴォーカル担当。

 

 

 

1953年5月30日、内海利勝が生まれる。神奈川県鎌倉市出身。

 

神奈川県立柏陽高等学校に進学。

高校時代にエリック・クラプトンに憧れてギターを弾き始め、もっぱらクリームなどのブルーズ・ロックを演奏していた。

 

高校卒業後、関東学院大学に進学。

大学在学中からセミプロのバンドで活動。

 

 

1972年4月、矢沢永吉(やざわ えいきち/1949年9月14日-/Vo,B)が川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙でバンド・メンバー募集をかける。貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」だった。当時はフォーク人気に火が着き、ディスコはバタバタ倒産、ロックンロールを演奏できる場所が減っていった時期だった。

6月、矢沢をリーダーに、募集に応じたジョニー大倉(ジョニーおおくら/1952年9月3日-2014年11月19日/サイドG,Vo)、内海利勝(リードG,Vo)、今井英雄(Ds)の4人でバンドを結成。バンド名は、クリスマス・キャロルにインスピレーションを受けた大倉が発案した「キャロル」(CAROL)に決定した。
元々ビートルズのコピーバンドとしてスタートしたキャロルは、ビートルズの本に載っていたハンブルク時代の写真を見て大倉が「これしかない!」と思いついた革ジャンにリーゼントというスタイルを導入。なお、矢沢は自著『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアはキャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと述べている。音楽性やファッションは無名時代のビートルズを真似たものだったが、功績として高い評価を受けるのが、バンド結成当時から日本語のオリジナル曲を演っていた点にある。矢沢はキャロル結成時には既に100曲以上のオリジナル曲を持っており、主に矢沢が作曲、大倉が作詞を担当。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を手掛けた。
当初バンド名やファッションなどバンドのコンセプトを作っていたのは大倉だったが、大倉はキャロル結成時、精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態であった。このためデビュー以降、解散までの2年半、バンドの活動は大部分、矢沢が決定。矢沢の性格、生き方がキャロルの方向を決めていき、ファンやマスコミに触れるキャロルは大半矢沢に代表されていた。
8月、キャロルは横浜伊勢佐木町のディスコ「ピーナツ」で初演奏。ピーナツでは店のレギュラー・バンド、所謂「ハコバン」として採用された。もっぱら初期のビートルズ・ナンバーやロックロール・スタンダード、また客からのリクエストにも応える。他に京浜地区のゴーゴーホールやナイトクラブ等でライヴ活動を行う。メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う。深夜から明け方まで、荒くれの兵隊や、夜の商売の女、酔っ払い相手に演奏するヘヴィな下積み時代を送り鍛え上げられる。東京蒲田の名門キャバレー「ウラシマ」に出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった。
同年、フジテレビの人気番組『リブ・ヤング!』の企画「ロキシー・ファッション 出演者募集」に大倉がハガキを送ったが断られた。これに頭にきた矢沢が番組の担当者に電話を掛け、「俺たち、とっくの昔からロキシー・ファッションだけど?」などとハッタリをかました後、しつこくデモテープを送り続けた結果、番組出演が決まった。当時、吉田拓郎をはじめフォーク歌手の多くはテレビを拒否し、ラジオ出演やコンサートを通じてファンを増やす道を選んだが、矢沢は無名のキャロルを世に知らしめるにはテレビ出演が最も有効と考えた。反逆イメージの強いキャロルであるが、ツッパリイメージは保ちつつ音楽メディアを全く拒否しない、分かりやすい上昇志向が当時としては新鮮で、マスメディアから好意的に受け入れられた。
10月8日、『リブ・ヤング!』の「ロキシー・ファッション 出演者募集」にキャロルが出演。革ジャンにリーゼントのキャロルは“ジョニー・B.グッド”や“グッド・オールド・ロックンロール”などの名曲を抜群のノリで演奏、集まった50sファッションの男女にツイストを踊らせ、完全に番組を圧倒した。生放送で司会の愛川欽也が、「この中からリーゼントの一番キマってるナウいやつを1人選ぶ」と宣言し、内田裕也も出演していた中、番組最後に愛川が連れて来たのは、存在感が突出していた矢沢だった。

こうした経緯もあり内田裕也からバンドに対して直接レコーディングのオファーを受けたが、偶然家で番組を視ていたミッキー・カーチスが後から番組プロデューサー石田弘に電話を掛け、「レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい」と依頼。その後矢沢がミッキーと直接電話で話し、内田かミッキーかでメンバーは迷ったが、結局内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選ぶ。キャバレーで演奏していたバンドが一気にメジャーに駆け上がる伝説の始まりだった。
10月11日、『リブ・ヤング!』出演3日後、日本フォノグラムと専属契約を結ぶ。しかし、金銭的にバンド側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にバンドはミッキーと袂を分かつことになる。

この頃、週刊誌にも大きく取り上げられるようになるが、デビュー曲のレコーディング直前、ドラム担当の今井が「体が弱いからプロになるのはイヤだ」と言って脱退。

11月、ミッキーの紹介でユウ岡崎(ユウ おかざき/1951年12月14日-/Ds)が正式メンバーとなった。初顔合わせの時、メンバーに「YOUたちなんかやってるのは、アレでしょ。ロッケンロールでしょ?」と言ったことから芸名が「ユウ岡崎」となった。
12月20日、EP(シングル)“ルイジアンナ”(作詞:大倉洋一/作曲:矢沢永吉/以下特記がない限りキャロルの楽曲は同じ)でデビュー。B面は“最後の恋人”。結成後数カ月でのプロ・デビューだったが約20万枚を売り上げた。なお、同シングルのドーナツ盤レコードには、東京・文京公会堂でのキャロル無料コンサートチケットが同梱されており、コンサート当日には和田アキ子が友情出演している。

 

ミッキーのアイデアでデビュー以降、異例の毎月一枚のシングルをリリースが決定。だが、2枚目シングルのレコーディング終了直後、岡崎がトラブルを起こし逮捕されたため、ミッキーの紹介で相原誠が後任ドラマーとして加入。

 

 

1973年初頭より、キャロルの不良っぽさの虜になったTBS『ぎんざNOW!』総合プロデューサーの青柳脩により、翌1974年にかけて番組木曜日に16回以上出演した。

また、マスメディアのインタビューでは、矢沢が挑発的に喋りまくり、あとの三人は難しい顔をして黙るという戦略をとった。

1月25日、2ndシングル“ヘイ・タクシー/恋の救急車”を発売、10万枚をセールス。

 

3枚目シングルのレコーディング終了後、岡崎が仮釈放されたため、スタッフと矢沢は相原をクビにして岡崎をメンバーに戻した。キャロルを去った相原は同年にデビューするダウン・タウン・ブギウギ・バンドに加入する。なお、それまで革ジャンにリーゼントという出で立ちでキャロルの二番煎じと揶揄されていたブギウギ・バンドに「つなぎ」のコスチュームを提案したのは相原だったという。

2月5日、3rdシングル“やりきれない気持ち/ホープ”を発売。

 

2月28日、内田裕也プロデュースの「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演。当時はライヴ前に大量に酒を飲みステージに上がるのが慣習だったキャロルのメンバーは、初の大舞台ということもあり、この日も高ぶった感情を抑えようと全員が楽屋で大酒を煽った結果、極度のトランス状態に陥り大倉が失神。これによりキャロルは失神する程の強烈なステージを展開するという噂が飛び交い、人気に拍車をかけた。

ロックンロール・カーニバルには、篠山紀信、山本寛斎、龍村仁ら、業界人や若いクリエーター、地方のイベンター等も会場の渋谷公会堂に集まった。彼らはキャロルにロックバンドという以上の新時代のヒーローたる存在感を見出し、篠山は『リブ・ヤング!』出演時からキャロルをマーク、被写体としてフォト・セッションを続け、その作品はレコードジャケットや宣伝用写真として用いられた他、『週刊プレイボーイ』が毎週グラビアに掲載、キャロルのビジュアル・イメージ作りに一役買った。

3月25日、4thシングル“レディ・セブンティーン/愛の叫び”と1stアルバム『ルイジアンナ』を同時発売。

 

 

4月25日、5thシングル"彼女は彼のもの/憎いあの娘”を発売。

 

5月25日、6thシングル“0時5分前の最終列車/二人だけ”を発売。

 

6月25日、7thシングル“ファンキーモンキーベイビー/コーヒー・ショップの女の娘”を発売。当時のロックバンドとしては異例の30万枚を売り上げ、今なお多くのアーティストにカヴァーされる代表曲となった。

 

その他のレコードも平均10万枚を売り上げ、コンサートはどこも満員だった。

同年、NHKのディレクター龍村仁がドキュメンタリー『キャロル』を製作したが、放映の是非を巡りNHK上層部と揉め、大きな社会問題になった。この事件は、キャロルがひとつのロックンロールバンドを超え、社会現象として認知される契機となった。
7月25日、2ndアルバム『ファンキーモンキーベイビー』を発売。

 

12月21日、ライヴ・アルバム『ライブ・イン リブ・ヤング』を発馬。この頃からキャロルのコンサートは軒並みソールドアウトとなり、パニック状態となる。キャロルのスタイルに呼応して暴走族がコンサート会場に集まって集会を行い、演奏中に観客が暴れるなどの事件が起きたため、キャロルに会場を貸さない地方自治体も現れ、メンバーも苛立ちを募らせた。
11月23日、人気絶頂時のツアー中、京都公演出発の朝に大倉が失踪、翌1974年2月中旬まで行方不明となったことで、矢沢のバンド内での影響力がさらに増す。暫くは3人で活動しながらジョニーを待ち、探したが出て来なかったので、サミーこと猿山幸夫をサイドギターに加えて活動を継続。

 

 

1974年、大倉が川崎の精神病院で発見され復帰したが、この時点でバンドはほぼ崩壊状態に陥っていた。

なお、後に大倉は著書で「ドラッグを始めたのはキャロルがデビューしてすぐの頃」と書いており、当時ドラッグに依存する生活ぶりで大倉自身破綻をきたしていた。

2月5日、8thシングル“涙のテディーボーイ”を発売。B面は“番格ロックのテーマ”。

3月21日~4月5日、山本寛斎のファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライヴを行う。

同年、全国13カ所を回るツアーを「サディスティック・ミカ・バンド」とともに合同で行った。

7月25日、9thシングル“夏の終わり”(作詞・曲:矢沢永吉)を発売、B面はシングルで初めて採用された内海の自作曲で自らリード・ヴォーカルも取った“泣いてるあの娘”(作詞・曲:内海利勝)を収録。この日、3rdアルバム『キャロル・ファースト』を同時発売。

 

 

 

8月15日、ワンステップフェスティバルに出演、大トリを務めた。

12月10日、10thシングル“ラストチャンス”を発売、B面“変わりえぬ愛”。

 

12月25日、ベスト・アルバム『キャロル・ゴールデン・ヒッツ』を発売。

 

 

1975年4月13日、メンバー間に生じた軋轢が解消されぬまま、日比谷野外音楽堂でのラスト・ライヴをもってキャロルは解散を迎える。3千人収容の会場に7千人がつめかけた解散ライヴでは、後の俳優:舘ひろし率いるクールス(COOLS)が親衛隊を務めた。コンサート終盤に特殊効果用の爆竹200発が雨で暴発し、その炎がセットに燃え移り「CAROL」と書かれた電飾が焼けて崩れ落ちるというハプニングが発生。これを演出と思った観客も多かった。このあまりにも象徴的な出来事が伝説をいっそうかきたて、現在もなお歴史的名シーンとなった。この解散ライヴは日比谷野音に「ロックのメッカ」としての、その後多くの「野音伝説」を生むきっかけとなった。

7月12日、解散ライヴの模様がTBSテレビで1時間枠の『特番ぎんざNOW!』が組まれ、「グッバイ・キャロル」というタイトルで放送された。日本のロックバンドのライヴ映像がテレビ放送されたのは、これが最初ともいわれる。
キャロル解散後、矢沢永吉はソロ活動に転じ、言わずと知れた日本を代表するロック・ミュージシャンに成長。ジョニー大倉は、ソロ活動の傍ら、俳優としても活躍。
同年、キャロル解散後、内海は積極的にソロ活動を展開、わずか半年でブリティッシュ・レゲエ・バンド「ザ・シマロンズ」(The Cimarons)とのコラボレーション・アルバム『ジェミニ PART 1』を「内海利勝 & ザ・シマロンズ」名義でリリース、いち早くレゲエのリズムを取り入れるなど、意欲的に活動した。なお、本作が日本における最初期にレゲエを取り上げた作品と言われる。

 

同年、内海利勝 & ザ・シマロンズ名義でアルバムから“鏡の中の俺”/“レゲェ・レゲェ天国”をリカット。

 

 

 

1976年、『ジェミニ PART 2』を発売。

 

 

1978年には「内海利勝 & V-G-T」結成、アルバム『ファースト』 をトリオレコードより発表する。

 

 

1980年代に入ると、ソロ・アルバム『陀打-DaDa-』を日本コロムビアより発表。

この頃より、内田裕也、宇崎竜童、原田芳雄のバックバンドメンバーとして活動、ライヴ及びレコーディングにも参加する。

 

 

1986年、映像作品として『隙間』等に天本英世らとともに出演し、音楽も担当するなど、その活動の幅を広げる。 

 

 

1987年、相原誠(元キャロル&ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)、長洲辰三(宇崎竜童バンド)、永本忠(元ソー・バッド・レビュー)と「THE MIRROR」結成。

 

 

1989年9月5日、内海とジョニー大倉(Vo,G)、後にTHE 虎舞龍を結成する高橋ジョージ(B,Vo)と田中清人(Ds)で結成した「THE PLEASE」がシングル “BOADERLESS/PEACE VOICE”を徳間ジャパン/meldacからリリースし、レコード・デビュー。バンドでは大倉と高橋がヴォーカルと作詞作曲を分け合った。

10月21日、セルフ・タイトルのミニ・アルバム『THE PLEASE』をリリース。オリジナル“レイジー・ミスティー・レディー”の他、キャロル“ルイジアンナ”のセルフ・カヴァーも収録。

 

11月11日に公開された映画『どついたるねん』にテーマ曲“DONT WORRY”を提供、原田芳雄が歌唱した。

 

 

1990年1月21日、THE PLEASE初のフル・アルバム『リーゼント 夜明け前』を発売。

 

 

同年、2ndアルバム『CHOICE』をリリース。

 

 

1992年、THE PLEASEは、シングル合計2枚、ミニ・アルバム1枚を含めアルバム合計4枚をリリースした後、解散。

 

 

1997年、内海は久々のソロアルバム『FROM HERE』を発表。

その頃、万琳はるえ、長洲辰三、永本忠、吉岡貴志らと「Peach Blue」を結成、2001年までにアルバム2枚を発表する。 

 

 

1998年、西濱哲男、妹尾隆一郎、荒巻茂生、松本照夫の「ブルースファイルNO1」(blues file No.1)にも参加するなど、さらに音楽活動が活発になる。

 

 

2000年代に入るとさらにソロ活動を積極的に行い、マキシシングルをリリース。

 

 

2001年、内海利勝 & V-G-Tの1stアルバム『ファースト』がCD化再発売された。

 

 

2000年代当初、キャロルの映像を含む肖像権など、全ての権利は元メンバーが個々に所有していたが、インターネット・オークションにキャロルの海賊盤や偽造商品が横行し、矢沢の事務所が摘発に追われていた。しかし、逮捕者も出たことから、自身が作ったバンドであるキャロルに対する愛情が人一倍で、現状では限界があると判断した矢沢が「キャロルの権利を全て自分で管理しよう。それがキャロルの歴史を守ることになる」と決意。他の元メンバーとは数年疎遠に近い状態だったが、矢沢の事務所スタッフが一人一人連絡を取り、矢沢の意向を伝えた。メンバーは「永ちゃんだったら間違いない。異論はない」と二つ返事で全員承諾。譲渡金額は不明だが、キャロルに関わる権利を矢沢が一括で買い取った。

 

 

2003年1月31日、権利の一元管理化を受けて発売されたキャロル初のライヴDVD『燃えつきる キャロル・ラスト・ライブ』と、CDアルバム『ザ★ベスト』を同時発売。『ザ★ベスト』は同日リリースだった平井堅のアルバム『LIFE is...』とオリコンチャートで首位争いを演じ、最終的に5位に到達、旧作としては異例の7万枚を売り上げた。解散して28年も経ったグループのアルバムがベストテン入りしたケースは前例がなく、音楽関係者を驚かせた。キャロルのアルバムのトップ10入りは、最高位4位を記録した1975年6月リリースの『ベスト・ライブ』以来の偉業だった。

 

 

 

4月22日、ソロ・マキシシングル“街”をリリース。

 

 

2004年、ソロ・アルバム『LOVE & PEACE』をリリース。

 


2007年、セルフ・カヴァーを含む自身初のベスト・アルバム『スタンプ・オブ・ドリームス』(STAMP OF DREAMS)をリリース。キャロル時代の“ルイジアンナ”や“ファンキー・モンキー・ベイビー”をはじめ、ロックン・ロール、ブルーズ、レゲエなど多彩な楽曲を収録。

 

 

同年には、元チェッカーズの大土井裕二(B)、WILD-Gの隈(Vo)らとアコースティックユニット「POUSSE-CAFE’」を結成。

 

 

2009年、内海は旧知の長洲辰三(G)、元ダウン・タウン・ブギ・ウギ・バンド新井武士(B)、キングトーンズ寺本修(Ds)と「BACA-BACCA」を自然発生的に結成。テレビ東京系の番組企画の作品を発売した他、オリジナル・アルバム『BACA-BACCA』も発表する。

 

 

2010年5月21日、70年代に旋風を巻き起こしたロックバンドのギタリスト3人、内海利勝(exCAROL)、ジェームス藤木(from COOLS)、和田静男(exダウンタウン・ブギウギ・バンド)が集結、アルバム『LIFE IS GOOD』で共演を果たす。

 

 

2011年、かわさきFM『内海利勝 LOVE & PEACE 同じ空の下から』にてパーソナリティーを始め、2023年まで務める

 

 

2012年9月1日、矢沢の40周年記念ライヴにゲスト出演し、37年ぶりの競演を日産スタジアムで実現させた。

同年、「God’s Pink」(万琳 はるえ、園畑 貴之、林美里)のギタリストとして新たに活動を開始した。

 

 

また古市コータロー、長洲辰三、HORIKEN、チェリーボーイズ、影山キタロウ等々、数多くのアーティストの作品(CDアルバム)にギタリストとして参加。

 

 

2013年9月、BACA-BACCAに、元ウエスト・ロード・ブルース・バンドのドラマー松本照夫が正式に加入。


2014年11月19日、ジョニー大倉が、肺炎により死去。62歳没。内海とはバンドを組むなど交流があったが、矢沢とはキャロル解散後、会ったのは一度だけといわれる。しかし結局、大倉が心の底で望んでいた矢沢との間の雪解けは実現せず、二人の間の40年間に亘る恩讐が解消されることは無かった。

 

 

2015年4月22日、BACA-BACCAの2ndアルバム『喜怒哀楽』をリリース。

 

 

2018年6月13日、『ジェミニ PART 1』、『ジェミニ PART 2』が再販。

11月21日、ベスト・アルバム『スタンプ・オブ・ドリームス』を再販。

12月5日、約10年ぶりとなるソロ・アルバム『mujun』をリリース。

 

 

近年は、ソロでのライヴ活動に加えて、 MASASHI (細川雅史)とのユニット「LUCKY★PUNCH」としてのライヴ活動も行っている。

 

 

また、最近ではライヴの他、インターネット番組への出演など過去に無い程多方面で精力的な活動を行っている。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「キャロル (バンド)」

 

 

『音楽ナタリー』「元CAROLのギタリスト内海利勝はなぜレゲエに接近したのか?日本初の本格レゲエ作品の謎に迫る」

https://natalie.mu/music/column/459413

 

 

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