矢沢 永吉(やざわ えいきち/1949[昭和24]年9月14日~)は、日本のロックヴォーカリスト、ミュージシャン。

 

 

 

広島県広島市仁保(現:南区)出身。

母親は永吉が3歳の時に蒸発。広島で被爆した父親とは小学校2年生の時に死別。このため幼少期は親戚中をたらい回しにされた後、父方の祖母に育てられ、極貧生活を送った。

この頃、近所の裕福な家の子どもにいじめを受ける体験した。このような経験が積み重なり「BIGになる」との思いが芽生えたと語っている。

中学時代、ラジオから流れるビートルズの曲を聴いてロックに目覚め、さらにベンチャーズの広島公演を観に行き感化され、スターになることを夢見るようになる。

 

1968年、高校卒業と同時に、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持ち、広島から最終の夜行列車で上京。しかし、東京駅へ向かう予定が、長時間移動で尻が痛くなり、ビートルズの出身地リヴァプールと同じ港町ということで横浜駅で途中下車、チャイナタウンや喫茶タクト(日ノ出町)等で働きながらバンド活動を開始。

自作曲“アイ・ラヴ・ユー、OK”のテープを「ビートルズのレコードを出しているから」という理由で東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)に持ち込んだが「売れない」と断られる。CBSソニーにも持ち込んだが不採用だった。

「ザ・ベース」、「イーセット」を経て、「ヤマト」を結成。ヤマトには、後に「矢沢ファミリー」と呼ばれるNOBODYの木原敏雄(G)、大森正治(Ds)がいた。この頃、もう一人のNOBODYメンバー相沢行夫とも知り合う。

蒲田、川崎、横浜、横須賀などで、ライブハウス「ゴールデンカップ」やキャバレー、海兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。

ヤマトでの芸能界デビューを望んでいたが、諸事情により横浜市立大学講堂で解散。

 

 

1972年6月、矢沢が楽器店に貼ったチラシで「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」と募集をかけ、ジョニー大倉(G/Vo)、内海利勝(G)等とロックバンド「キャロル」を結成、自身はヴォーカルとベースを担当。その後、レコーディング直前にドラマーが脱退し、ミッキー・カーチスの紹介でユウ岡崎(Ds)が正式メンバーとなった。

12月20日、シングル“ルイジアンナ” (作詞:大倉洋一/作曲:矢沢永吉)でデビュー。

曲は主に、矢沢が作曲、ジョニー大倉が「大倉洋一」名義で作詞を担当した。

 

 

1973年6月25日、7枚目シングル“ファンキー・モンキー・ベイビー”(作詞:大倉洋一/作曲:矢沢永吉)を発売。30万枚以上を売り上げ、バンド最大のヒットとなった。

 

 

1974年3月21~4月5日、山本寛斎のファッションショーでのステージと龍村仁の映画撮影のため、渡欧しパリでライブを行う。

8月ワンステップフェスティバル出演、15日の大トリを務めた。

 

メンバー間で軋轢が生じ、キャロルの解散が決定的になった頃、矢沢はソロ活動を行う際に起こり得る問題を未然に防ぐため単身CBSソニーに行き、幹部と自らのソロ活動を担保に金銭・ビジネス両面で話をまとめている。その後、CBSソニーから借金した多額の現金をフォノグラムに払ったことで矢沢永吉ソロプロジェクトが始動した。

 

 

1975年4月13日、所属会社の要請で解散ライヴを行う。3千人収容の日比谷野外音楽堂に7千人が詰めかけ、親衛隊「クールス」のメンバーが参加。ライヴでは特殊効果用の火がセットに燃え移り、「CAROL」の電飾が焼けて崩落する事故が発生。メンバーが楽器を失い、借金を抱えたというこのハプニングで一層伝説的なライヴとなった。

その後、CBSソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍、キャロル関係の人間から離れ、全スタッフを総入れ替えた。

5月3日、キャロル解散の20日後に初渡米。その準備は1974年末から始めており、9月21日、ロサンゼルス(以下LA)レコーディングによるシングル“アイ・ラヴ・ユー、OK”、アルバム『I LOVE YOU, OK』でソロデビューした。キャロルを否定するような曲構成に、「キャロルの矢沢」を期待するファンが一気に離れた。

 

 

9月27日にソロ初のツアーを開始したが、特に不入りだった佐世保公演のエピソードは「リメンバー・佐世保」として『若い広場』を始め、矢沢の口からよく語られる。

 

 

1976年、作品1作ごとに新たな挑戦を試み、ライヴの動員も着実に増えていった。

6月21日、アルバム『A Day』発売。矢沢のライヴの風物詩、

タオル投げが行われるナンバー“トラベリングバス”収録。

7月、キャロル解散ライヴの舞台、日比谷野音にてソロライヴを実施。

 

 

1977年1月4日から8月26日の日本武道館までツアーを実施。当時のファン層から、会場貸出拒否や世論など数々の難題があった中で日本のロック・ソロアーティストとしては初の日本武道館単独公演を敢行した。

4月21日、3作目のアルバム『ドアを開けろ』を発売。ランキング2位を記録する。

9月15日、同ツアーPart2を開始。

 

 

1978年3月21日、5枚目のシングル “時間よ止まれ”をリリース、資生堂のCMソングに採用され大ヒットし、累計売上はミリオンセラーを記録。同曲には、バックバンドに坂本龍一や高橋幸宏、後藤次利らが参加。

 

3月20日、「GOLD RUSH '78 PART-1」ツアーを開始。

5月、長者番付歌手部門で、ロックミュージシャンとして初の第1位を獲得。

6月1日、『ゴールドラッシュ』発売。アルバムランキングで初の1位を記録。

 

7月、自著伝第1弾『成りあがり』を出版。100万部を超えるベストセラーとなり、社会現象となる。ライターを担当したのは糸井重里。

8月28日、機動隊による厳戒態勢の下、後楽園球場(現:東京ドーム)単独公演を敢行。

新聞世論調査で同年の「ヒーローと呼べる人物」に、第1位王貞治に次ぎ、第2位。

 

 

1980年、第1弾ドキュメンタリー映画『RUN&RUN』公開。

3月10日、CMタイアップのシングル“THIS IS A SONG FOR COCA-COLA”発売。

 

海外活動を視野に入れ、ワーナーパイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍。

長者番付歌手部門で1978年に続き首位獲得。

 

 

1981年、単身渡米し、アサイラム・レコードと契約。

9月25日、第一弾海外版アルバム『YAZAWA』全世界発売。全米での売上げ枚数は約2,000枚だったが、日本では国内盤が9位、逆輸入盤が3位を記録した。

以後主なる活動拠点をLAに定める。

 

 

1982年2月10日、第二弾海外版アルバム『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』全米発売。米音楽誌『ビルボード』誌の推薦曲として、シングル“ROCKIN' MY HEART”が掲載される。

 

同年、ドゥービー・ブラザーズのメンバーとともにE.YAZAWA として「来日」、

凱旋武道館ライヴ「MILES AND MILES」を敢行。この模様はNHKで放送される。

2月20日、10枚目シングル“YES MY LOVE”発売。

長者番付歌手部門で、1978年1980年に続き首位獲得。

7月10日、9枚目のアルバム『P.M.9』発売。

 

 

1983年「I am a Model EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1983」を実施。

 

 

1984年「E' I'll BACK SOON EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR '84」を実施。

 

 

1985年7月13日、ライブエイドに出演。

7月25日、アルバム『YOKOHAMA二十才まえ』リリース。オリコンランキング1位。

「TAKE IT TIME EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR '85」を開始。

 

 

1986年、ライヴツアーを開催。

7月25日、アルバム『東京ナイト』発売。こちらもタオル投げで有名な曲

“止まらないHa〜Ha”収録。

映像は、2009年BankBand参加時のもの。

1987年5月22日、ライヴツアーをスタート。

11月22日、ツアー第2弾をスタート

海外版アルバム第3弾『FLASH IN JAPAN』全米発売。全米での売上げ枚数5万枚。MTVスタッフによるPV製作。後に自伝で同アルバムの印税が800万円だったと回顧。

日・米・伊合作映画『グッバイ・ヒーロー』の音楽を担当。サントラが発売される。

 

 

1988年、アルバム『共犯者』ロンドンレコーディング。

東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)に移籍。日本国内重視の活動になる。

前述のアルバム世界発売について、ワーナーブラザーズはほぼ関与しておらず、実態は日本のワーナーパイオニア(当時)との契約であり、エレクトラ、アサイラム・レコードは配給だけを行う契約だった。よってアメリカでのプロモーションは不十分で、惨憺たる結果となる。第三弾『FLASH IN JAPAN』だけはワーナーブラザーズが全面バックアップを行ったものの同様の結果に終わった。この一件により、矢沢はワーナーへの不信感を募らせ、同時期、石坂敬一の誘いもあり東芝EMIに移籍した。

「It's Only YAZAWA EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR '88」を実施。

7月6日、シングル“共犯者”、同月21日、アルバム『共犯者』リリース。

いずれも東芝EMI移籍後初のリリースとなった。

 

 

1989年4月26日、シングル“SOMEBODY'S NIGHT”発売。ランキング2位を記録。

 

6月21日、アルバム『情事』リリース。ランキング1位。

9月1日、ツアーを開始。12月6日からツアー第2部を開始。

 

 

1990年年5月23日、シングル“PURE GOLD”リリース。1位を記録。

 

7月31日、アルバム『永吉』リリース。2位を記録。

ライヴツアー「Rock'n'Roll Army'90」を実施。

 

1991年4月19日、シングル“夢の彼方”発売。3位を記録。

5月31日、シングル“ラストシーン”発売。4位を記録。

7月5日、アルバム『Don't Wanna Stop』発売。3位を記録。

ライヴツアー「Big Beat」を実施。

 

 

1992年、アルバム『Anytime Woman』でビートルズの元ドラマー、リンゴ・スターの長男、ザック・スターキーが“Anytime Woman”と“銀のネックレス”を担当した。

レコーディングはロンドンのアビーロード・スタジオ。

ライヴツアー「Anytime Woman」を開催。

 

 

1993年 2月10日、シングル“東京”リリース。6位を記録した。

 

3月31日、“東京”を収録したアルバム『HEART』リリース。オリコンランキング1位。

ライヴツアー「Come On!」を実施。

 

 

1994年、ライヴツアー「The name is YAZAWA」を開催。

4月27日、シングル“アリよさらば”リリース。同曲が主題歌となった同名のTBS系ドラマ『アリよさらば』にて「安部良太」役で自身初の主演と、音楽監督も担当。同曲はブリヂストンのCMにも使われた。

 

7月6日、アルバム『the Name Is...』リリース。オリコンランキング1位。

 

 

1995年、ベストアルバム『BIG BEAT』香港発売。

ライヴツアー「JUST TONIGHT」を実施。

 

 

1996年、インターネット「E.YAZAWA ONLINE SHOW」が開始。

ライヴツアー「WILD HEART」を開催。また、原宿にてゲリラライヴを敢行。

 

 

1997年、EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 1997「YES,E」をスタート。

英国ロンドンのウェンブリー・スタジアムで、エルヴィス・プレスリー没後20年を記念して行われたロックフェスティバル「songs and visions」にアジア代表として出演、ロッド・スチュワート、ジョン・ボン・ジョヴィ、ロバート・パーマー、チャカ・カーン等と競演。8万人の観衆の前でパフォーマンスを行い、世界60か国に放映された。この模様をNHKがドキュメント番組『Do You Know YAZAWA?』として制作、放送。

BOW WOWのギタリスト山本恭司がツアーに参加。以後も参加する機会が増える。

ウィーンにてゲリラライヴ敢行。

 

 

1998年、ライヴツアー「SUBWAY EXPRESS」を実施。

 

 

1999年、映画『お受験』で映画初主演。

9月15日、横浜国際総合競技場にて50歳バースデーライヴを開催。

10月、世界最大のヨットレース「アメリカスカップ」のテーマソング“ヘブンリー・クルーズ”を担当。

初の米国ツアー「Millennium America Tour」敢行(ホノルル、LA、サンフランシスコ)。

ライヴツアー「LOTTA GOOD TIME」を実施。

 

 

2000年、ライヴツアー「STOP YOUR STEP」を実施。

チャリティ・クリスマスアルバム『music of love〜for tomorrow's children〜』にスティーヴィー・ワンダー、スティング、エンヤなどと参加。

前年同様、米国ツアーを行う(サンフランシスコ、LA、ニューヨーク)。

 

 

2001年、「E.YAZAWA ONLINE SHOW」終了。これを発展させる形で総合公式サイト「YAZAWA'S DOOR」をスタート。有料会員制度やグッズ、チケットの販売を開始。

ライヴツアー「Z (zi)」を実施。

FMフェスティバル'01テーマソング“この道の向こうに”を担当。

自著伝第二弾『アー・ユー・ハッピー?』を出版。

 

 

2002年、ライヴツアー「ONE MAN」を実施。また、初のアコースティックコンサートツアー「VOICE」、デビュー30周年記念イベント「THE DAY」を敢行。

 

 

2003年、ライヴツアー「Rock Opera」を実施。

ディズニーアニメ『ピノキオ』の主題歌“星に願いを”を担当し、東京ディズニーシーにてゲリラライブを行う。ディズニー社より表彰を受ける。

7月27日、大阪の野外ロックフェスにシークレットゲストで出演。“ラブ・ファイター”1曲だけだったが、突然の登場で観客を驚かせた。

 

 

2004年、ライヴツアー「YAZAWA CLASSIC II」,「FIFTY FIVE WAY」を実施。

7月24日、25日のPOCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004で、エアロスミス、ザ・フー、ブラック・アイド・ピーズ、レニー・クラヴィッツ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズと共に参加。大トリを務める。

9月14日、アルバム『ONLY ONE』リリース。

ソロデビュー30周年を迎え、原点回帰すべく毎年恒例の武道館公演を封印しEIKICHI YAZAWA LIVE HOUSE TOUR 2005「ROOTS」を開始。

 

 

2006年10月20日、ライヴツアー「NEW STANDARD 〜Rock Opera2〜」スタート。

8月6日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL出演。

12月2日、ブルーノート東京にてライヴ。

 

 

2007年8月18日、RISING SUN ROCK FESTIVAL 2007 in EZOに出演。

10月12日。ライヴツアー「THE REAL」を開始。

12月16日には、前人未到の日本武道館100回公演を達成した。

郵便局会社民営化企画協力第一弾として、日本武道館公演100回記念「You Say YAZAWA矢沢永吉 フレーム切手」販売。

 

 

2008年、デビュー以来、37年目で初めてステージに立たないことを決意。“少しじっくり距離を置いて考える”というコメントを発表した。EMIミュージック・ジャパンの契約を終了し、自らのインディーズレーベル「GARURU RECORDS」を立ち上げる。

 

 

2009年6月3日、シングル“コバルトの空”リリース。

 

7月20日、ap bank fesにサプライズ出演。

7月26日、HIGHER GROUND 2009出演予定だったが、大雨の影響により中止。

8月2日、ROCK IN JAPAN FESTIVAL出演。

8月19日、タワーレコード新宿フラッグスビル店屋上で、ソロ初のインストアライブ。

9月19日、東京ドームにて60歳バースデーライヴを開催。サプライズゲストとして、氷室京介、甲本ヒロト、真島昌利、長女の矢沢洋子が出演した。

10月30日、ライヴツアー「ROCK'N'ROLL」を開始。

11月21日より第2弾ドキュメンタリー映画『E.YAZAWA ROCK』公開。

12月31日、「第60回NHK紅白歌合戦」に白組サプライズゲストとして出演。持ち歌を2曲歌うという特例で、“時間よ止まれ”、“コバルトの空”を熱唱。

 

 

2010年5月30日、「東京大学 五月祭」にて、初の学園祭ライヴにサプライズ出演。

同年夏、「SUMMER SONIC 2010」はじめ数々のフェスに精力的に出演。

6月9日、アルバム『 TWIST』リリース。

 

10月28日ライヴツアー「TWIST」を開始。

 

 

2011年11月17日、ライヴツアー「STILL ROCKIN' 〜走り抜けて…〜」を開始。

 

 

2012年、デビュー40周年を迎え、自身初となるオールタイムベスト『ALL TIME BEST ALBUM』をリリース。選曲を矢沢自身が行い、全曲リマスタリングした同アルバムは、オリコン週間ランキング1位を獲得。

5月12日、開業前の東京スカイツリー350m天望デッキにてスペシャルライヴを行う。

8月20日、ライヴハウスを巡るツアーを開催。

9月1日、日産スタジアム(横浜国際総合競技場)にて40周年記念ライヴを開催。

11月7日よりツアーを開始。

12月31日、第63回NHK紅白歌合戦にサプライズ出演。“IT'S UP TO YOU”を熱唱。

 

 

2013年11月16日、ライヴツアーを開始。

12月24日・25日にディナーショーを開催。

 

 

2014年2月24日、自身のバンド「Z's(ゼッツ)」を結成。

5月8日、バンドを引き連れた初のライヴツアーをスタート。

8月9日にROCK IN JAPAN FESTIVAL 2014、8月16日にSUMMER SONIC 2014に出演。

9月6日、第19回東京ガールズコレクションにサプライズ出演。

11月16日よりツアーをスタート。

12月20日・21日に東京・グランドハイアットホテルでディナーショーを開催。

 

 

2015年4月12日、インターネットライヴ「EIKICHI YAZAWA『MANIAC NIGHT』」を配信(4月24日~27日、ファンクラブ「YAZAWA CLUB」会員限定で再配信された)。

9月5日、東京ドームにてソロデビュー40周年記念ライヴ「EIKICHI YAZAWA ROCK IN DOME 2015」開催。その模様はWOWOWプライムにて生中継された。また、本ライヴに先駆けて、YAZAWA CLUB会員限定のライヴを札幌、大阪、名古屋で実施。なお、本公演の模様は同年12月2日にBlu-ray&DVDで同時リリース。

 

 

2016年2月28日、「SPACE SHOWER MUSIC AWARDS」で「BEST RESPECT ARTISTを受賞。

 

 

2017年10月22日、実に7年ぶりとなる25本以上のツアー、「EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR「TRAVELING BUS 2017」」開始。

前人未到の武道館100回公演を達成。

 

 

2018年9月1日、満69歳(「ロック」)を迎えるに当たり全国5都市のドームツアーをスタート。9月15日東京ドームで完走し、この模様はWOWOWで生中継された。

 

 

2019年2月10日、インターネットライヴ「EIKICHI YAZAWA『MANIAC NIGHT 2』」を配信。同ライヴはYAZAWA CLUB会員で、申し込みのあった中から抽選で選ばれた50名が招待され、前日9日に行われたライヴを収録したもの。

7月6日、自身初のロックフェス「E.YAZAWA SPECIAL EVENT "ONE NIGHT SHOW 2019"」を幕張メッセで開催。出演は矢沢の他、氣志團、KREVA、東京スカパラダイスオーケストラ(Guest・奥田民生)、MIYAVI。この模様はHuluで生配信された。

9月4日、34枚目のアルバム『いつか、その日が来る日まで…』発売。オリコン週間アルバムランキング1位を達成し、同ランキング最年長首位(70歳0ヶ月)、自身が保持していたアルバムランキングベスト10入り最多記録を、54作に更新した。

 

 

10月10日、台風接近のため10月12日の日比谷野音でのワンマンライヴ中止を発表。

10月19日夜、12日のチケット当選者に向けて特別編集した映像を限定配信。

11月24日、11月16日より開始したライヴツアーの福岡公演を体調不良(喉)により急遽中止すると発表。自身の体調不良を理由に公演を中止したのは歌手生活47年にして初めてで、27日の浜松公演もドクターストップのため中止を余儀なくされた。

 

 

2020年3月26日、コロナ禍により4月21日から予定のライヴツアー『E.YAZAWA "ROCK MUST GO ON" TOUR -EXTRA- 2020』の全公演中止を発表。

5月2日、公式YouTubeチャンネルでファンクラブ会員向けに過去のライヴを再配信。

同月5日・6日の2日間、選りすぐりの8曲をコロナ禍で家にこもる一般の人にも配信。後日、緊急事態宣言延長に伴い5月9日から24日まで再配信すると発表。

6月17日、未商品化のライヴ映像から厳選した3本を有料配信すると発表。プロジェクト名称は代表作のひとつ“SOMEBODY'S NIGHT”に因み『3 BODY'S NIGHT(サンバディーズナイト)』とした。第1弾は6月27日に2017年『EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR「TRAVELING BUS 2017」』武道館公演の模様をフルバージョンで配信。第2弾は7月に2019年『ROCK MUST GO ON』横浜アリーナ公演、第3弾は8月に1999年『LOTTA GOOD TIME』武道館公演の模様を配信。

9月12日、日本テレビ系列の大型音楽番組『THE MUSIC DAY』にて、矢沢のロングインタビューを元に“時間よ止まれ”に纏わる逸話をドラマ化した特別企画『矢沢永吉 特別ドラマ』が放送。矢沢を演じたのは俳優の神尾楓珠。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「矢沢永吉」「キャロル(バンド)」