スティーヴ・アルビニ(Steve Albini/出生名:Steven Frank Albini/1962年7月22日~2024年5月7日)は、アメリカ合衆国のレコーディング・エンジニア、ミュージシャン、プロデューサー。

 


 

1962年7月21日、スティーブン・フランク・アルビニは、アメリカ合衆国カリフォルニア州パサデナに生まれる。

 

1974年、モンタナ州ミズーラに移住。

 

14、5歳の時、同級生の影響でラモーンズに夢中になり、これがその後の音楽キャリアの出発点にあったと本人は語っている。

 

高校卒業後、シカゴにあるノースウェスタン大学でジャーナリズムを学ぶ。地元のファンジンでライターとして活躍する傍ら、バンド活動にも力を注ぐ。

 

1981年、ノースウェスタン大学在学中にパンク・ロック・バンド「ビッグ・ブラック」(Big Black)を結成。インダストリアル・ロックの先駆けとされている。

 

 

1984年、ビッグ・ブラックはEP『Racer-X』をホームステッド・レコードから発売。

 

 

1980年代後期以降、シカゴを中心としたアメリカ中西部を拠点に、オルタナティヴ・ロック/アンダーグラウンド・ロックシーンを代表する名レコーディング・エンジニアとして活躍。
その一方で、自身もミュージシャンとしての顔を持ち、バンドのギタリストおよびヴォーカルとして活動を行っている。

 

 

1986年。ビッグ・ブラックは1stアルバム『Atomizer』をリリース。

 

同年、ビッグ・ブラックはホームステッドからタッチ・アンド・ゴー・レコーズに移籍し、EP『Headache EP』と7インチ・シングル“Heartbeat”をレコーディング。

 

 

1987年、EP『Headache EP』と7インチ・シングル“Heartbeat”をリリースした。 

 

同年、ビッグ・ブラックは2ndアルバム『ソングス・アバウト・ファッキング』(Songs About Fucking)と7インチ・シングル“He's a Whore/The Model”をタッチ・アンド・ゴーからリリース。その後、バンドは活動を停止。

 

 

 

同年、アルビニは、スキャンダラスなポスト・ハードコア・バンド「レイプマン」(Rapeman)を新たに結成。バンド名はみやわき心太郎による日本の漫画作品『THE レイプマン』に由来する。

 

 

1988年、レイプマンは、7インチ・シングル“Hated Chinee b/w Marmoset”、EP『Budd』、アルバム『Two Nuns and a Pack Mule』をTouch and Goからリリースした。

 

 

 

3月21日、ピクシーズ(Pixies)の1stスタジオ・アルバム『サーファー・ローザ』(Surfer Rosa)がリリース、アルビニがプロデュースとエンジニアリングを担当した。

 

 

1989年、レイプマンは、7インチ・シングル“Inki's Butt Crack b/w Song Number One”をリリースした後、解散した。

 

 

 

1992年3月、レコーディング・エンジニアを務めた日本のロック・バンド「ZENI GEVA」(ゼニゲバ)との共演で初来日。

同年、アルビニはロック・バンド「シェラック」(Shellac)をイリノイ州シカゴにて結成。元々はアルビニ(G,Vo)とトッド・トレイナー(Todd Trainer/Ds)が非公式のコラボを行ったことが結成のきっかけ。当初ベーシストとして名を連ねていたのはネイキッド・レイガンというバンドのメンバーだったカミーロ・ゴンザレスだった。

 

 

1993年9月21日、ニルヴァーナ(Nirvana)のメジャー2枚目、通算では3枚目のスタジオ・アルバム『イン・ユーテロ』(In Utero)がリリース。アルビニはプロデュースとエンジニアリング、ミキシングを担当。驚異的な売り上げを記録した前作『ネヴァーマインド』(Nevermind)に較べるとセールス面での物足りなさは否めないが、それでも全米1位・全英1位をはじめ各国でチャート上位に入った。商業的な成績とは裏腹にアルビニの名声を一気に高めた作品となった。

 

 

 

10月、シェラックは1stシングル“The Rude Gesture: A Pictorial History”をリリースしてデビューを果たす。

 

同年、デビュー・シングル1曲のレコーディングに参加した後に、ゴンザレスが脱退。後任にヴォルケーノ・サンズというバンドのベーシストだったボブ・ウェストン(Bob Weston)が加入して現在の形になる。

同年、シェラックは2ndシングル"Uranus"をリリース。

 

11月、アルビニはシェラックを率いて、自身のバンドとしては初めての来日公演を行った。この時の公演の模様は翌1994年、日本限定発売のライヴ・アルバム『Live in Tokyo』としてリリース。

 

 

1994年、シェラックはアルバム『At Action Park』とシングル"The Bird Is the Most Popular Finger"をリリース。

 

 

 

1995年、シェラックは2枚のシングル、"Billiardspielerlied"、"95 Jailbreak"をリリースした。

 

 

 

1997年、アルビニは、レコーディング・スタジオ「エレクトリカル・オーディオ」(Electrical Audio)をシカゴに設立。デジタル録音が主流となる中、ミキシング・コンソールやテープレコーダーのみのアナログ録音設備が特徴で、多くのオルタナティヴ/インディー・ロックアーティストがここでレコーディングを行った。

同年、シェラックはMuleとのスプリット・シングルで、"Rambler Song"を発売。

 

 

1998年、シェラックはアルバム『Terraform』をリリース。

 

 

2000年、シェラックはアルバム『1000 Hurts』をリリース。

 

 

2001年、シェラックはCaesarとのスプリット・シングルで"Agostino"をリリース。

 

 

2006年6月6日、チープ・トリック(Cheap Trick)の15thアルバム『Rockford』が発売、アルビニは共同でプロデュースを手掛けた。

 

 

2007年、シェラックのアルバム『Excellent Italian Greyhound』をリリース。

 

 

同年、イギー・アンド・ザ・ストゥージズ名義の34年振りのアルバム『ザ・ウィヤードネス』(The Weirdness)をプロデュースした。

 

 

 

2014年9月、シェラックとしては7年ぶりのスタジオ・アルバム『Dude Incredible』をリリース。

 

 

 

 

2024年5月7日、スティーヴ・アルビニが心臓発作によりシカゴの自宅にて死去した。61歳没。

訃報に接したデイヴ・グロールはフー・ファイターズの曲“マイ・ヒーロー”をアルビニに捧げ、ジョアンナ・ニューサムも同じく自身の曲“コスミア”を演奏した。

 

 

 

 

2024年5月17日、アルビニの生前から発売日が決まっていたシェラックの10年ぶりのアルバム『To All Trains』が予定通りリリース。その後に予定されていたツアーはキャンセルされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「スティーヴ・アルビニ」「Steve Albini」「ビッグ・ブラック」「Big Black」「レイプマン」「Rapeman」「Flour (band)」「Pigface」「Pegboy」「シェラック (バンド)」「Shellac (band)」

 

 

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