イギー・ポップ(Iggy Pop/本名:James Newell Osterberg Jr.,/1947年4月21日~)は、アメリカ合衆国のロックミュージシャン、ヴォーカリスト、作曲家、音楽プロデューサー、俳優。

 

 

 

1947年4月21日、ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアはミシガン州マスキーゴンで生まれた。母親はノルウェー系とデンマーク系の血を引くルーエラ(ニー・クリステンセン; 1917-1996)、父親はドイツ系、イギリス系、アイルランド系の血を引くジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・シニア(1921-2007)。父はミシガン州ディアボーンのフォードソン・ハイスクールで英語の教師と野球のコーチをしていたが、昇給を求めて同州イプシランティのイプシランティ高校に転職、住居も同地のトレーラーパークに定めて息子をそこで育てた。母親はNASAからアポロ計画で使用する月面設置用の計測機器(ALSEP)の納入やLRV (月面車)の開発を請け負っていたベンディクス社に勤務していた。

 

オスターバーグはミシガン州アナーバーの高校在学時にドラマーとして音楽キャリアを開始。いくつかのバンドでプレイし、その中のひとつ、「ジ・イグアナズ」(The Iguanas)は、ボ・ディドリー(Bo Diddley)の“モナ” (Mona)のカヴァーをシングルリリースしている。

 

 

1965年、ミシガン大学に進学したが翌年には退学し、レコードショップ「Discount Records」に勤務しつつブールズバンド「ザ・プライム・ムーヴァーズ」(the Prime Movers)に加入して、初めてステージネームを名乗った。「イギー」(Iggy)は以前に所属していたバンド「イグアナ」 (Iguana)に由来している。このバンド在籍中にポール・バターフィールド・ブルース・バンドと偶然出会い、その際、憧れていた元メンバーのサム・レイ(Sam Lay)の連絡先をバターフィールドから教えてもらったイギーは、シカゴのレイの自宅を訪問、レイは不在だったが彼の妻に温かく迎えられ、ジャズやブルーズを扱うレコード屋の店長を紹介された。その店長やレイの力添えでリトル・ウォルターやマジック・サムなど高名なブルーズミュージシャン達と共演する機会に恵まれたが、その結果、白人の自分に本当のブルーズを演奏するのは無理だと痛感、8ヶ月程の滞在で「自分のような若者に向けた音楽」をプレイしようと決心していた。

 

 

1967年、地元に戻ったイギーは高校の1年後輩のロン・アシュトン(Ron Asheton)を誘いバンドを結成。ロンの弟スコット・アシュトン(Scott Asheton)をドラムスとし、最初はベースだったロンが途中ギタリストに転向、後任ベーシストにアシュトン兄弟の友人デイヴ・アレクサンダー(Dave Alexander)が加入した。初期バンド名は「サイケデリック・ストゥージズ」で、「stooge」とは、「ぼけ役」、「まぬけ」といった意味である。

当初バンドは表立った活動をしてなかったが、ミシガン大学のホームカミングダンスでドアーズのパフォーマンスを観たことと、ニュージャージー州プリンストンのジ・アンタッチャブルというガールズ・ロックバンドの演奏を聴いたことで刺激を受け、バンド活動を本格的に始動させる。

 

 

1968年10月8日、MC5とともにエレクトラ・レコードとレコードリリース契約を締結することになった。その際、バンド名が長いということで、「ザ・ストゥージズ」(The Stooges)に改名した。

 

 

1969年、元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルのプロデュースで、デビュー・アルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』(The Stooges)を発表。全米最高106位と商業的成功はしなかったが、同じエレクトラ・レコード所属のMC5と並んでガレージ・ロック(オリジナル・パンク)の代表的存在と目された。 フロントマンのイギーは、客の注目を惹くためステージダイブをしたり、ピーナッツバターを体中に塗ったり、ステージに散りばめたガラスの破片の上を転がったりする等、身体を張ったパフォーマンスを展開した。

 

 

 

1970年、2ndアルバム『ファン・ハウス』(Fun House)を発表。同作では新たにサックスを加え、スティーヴ・マッケイ(Steve MacKay)が参加している。ところが、売上は前作より伸び悩み、チャートインすら果たせず、エレクトラとの契約も打ち切られる。さらに、アルコール依存症になっていたデイヴが解雇され、ベーシストはその後、ジーク・ゼトナー(Zeke Zettner)、ジミー・レッカ(Jimmy Recca)と目まぐるしく入れ替わった。

 

 

また、イギーを筆頭にロンを除くメンバーはヘロインに溺れ、活動休止状態に陥ってしまう。

 

 

1971年、イギーはデヴィッド・ボウイに出会い、ボウイの協力の下でアルバムの制作を開始。当初はギタリストのジェームズ・ウィリアムソン(James Williamson)に新たなリズム隊を加えた編成となる予定だったが、結局アシュトン兄弟を呼び寄せることとなった。ギターはジェームズが弾くことになったため、ロンはベースに転向した。

 

 

1973年、『ロー・パワー』(Raw Power/旧邦題:淫力魔人)を「イギー・アンド・ザ・ストゥージズ」(Iggy & the Stooges)名義でコロムビア・レコードから発表、ボウイがミキシングを担当した。しかし、全米182位に留まり、ツアーの途中でコロンビアはレコード契約を解除した。

 

 

同年5月頃、ボウイの所属するメインマン・マネージメントからも見放され、解雇を受けた。

 

 

1974年2月、イギーのヘロイン中毒、活動の行き詰まりなどが原因でストゥージズは解散した。

 

その後イギーはストゥージズ末期の曲作りのパートナーであったジェームズ・ウィリアムソンとともにギグを行うなど音楽活動の道を模索したが、薬物依存から抜け出せない自身に危機感を覚え、自ら治療施設に入った。

一方、ジェームズ・ウィリアムソンはザ・ストゥージズ末期に出来上がっていた楽曲を含む新アルバムの制作を構想、施設からの外出許可が下りた時にはイギーもレコーディングに参加。しかしこの音源はすぐ世に出ることはなかった。

この頃、デヴィッド・ボウイと再会、再び音楽活動をともにする。

 

 

1977年3月、ボウイとの共同作業の成果として初のソロアルバム『イディオット』(The Idiot)を発売。全米72位・全英30位と商業的に成功、その後の短期間のソロツアーも成功した。収録曲“チャイナガール”(China Girl)はデヴィッド・ボウイとの共作で、1983年にボウイがリリースして大ヒット。“Nightclubbing”は後に『トレインスポッティング』に使用された。

 

 

 

8月、再びボウイプロデュースの下で、『ラスト・フォー・ライフ』(Lust for Life)を発表、英国では28位と前作を上回るチャート動向を見せ、デヴィッド・ボウイ作のタイトルナンバー“ラスト・フォー・ライフ”(Lust for Life)はオランダとベルギーでトップ10入りを果たしたが、米国では発売時期がエルヴィス・プレスリーの死去と重なり、バックカタログを大量保有するRCAはエルヴィスの旧譜再発に注力、イギーのPRに労力を割かなくなったため、アルバムもシングルも商業的に失敗した。

 

 

 

11月、前2作の商業的成功にあやかる形で、1974年にウイリアムソンが製作した音源を『キル・シティ』(Kill City)として発売、高評価と好調なセールスを記録した。

 

 

1978年4月、米国でのプロモーション対応に不信感を持ったイギーは契約消化のためライヴアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』をリリースした後RCAを離れ、ボウイの下からも立ち去った。

 

 

1979年4月、新作『ニュー・ヴァリューズ』(New Values)をアリスタからリリース。音楽メディアに高く評価され、ラジオのオンエアも好調という順調な状況のまま、イギーはヨーロッパツアーを開始。しかし、チャートアクションは前2作を下回ってしまう。

 

 

1980年2月、アルバム『ソルジャー』 (Soldier)をリリース、 米国でも同時期に発売されたため、ヨーロッパと北米を中心とした長期のツアーが企画された。ツアーはバックメンバーの交替等がある中なんとか終了したが、セールス面ではアリスタが期待した程の成果を残せなかった。

 

 

1981年6月、『パーティー』 (Party)が発売、全米106位で英国ではチャート外。「コマーシャルな曲」として製作した“Bang Bang”は『ビルボード』誌ダンス・チャート35位を記録した。このアルバムがアリスタから出た最後の一枚となった。一方、イギーはアリスタからのプレッシャーと、アルバムのPRと収益を兼ねたツアーの過密化から、アルコールと薬物への依存度が増した。

 

 

1982年9月、『ゾンビー・バードハウス』(Zombie Birdhouse)をインディーレーベルのアニマル・レコーズからクリサリス・レコード配給でリリース、『ローリング・ストーン』誌といった音楽メディアで比較的高い評価を得ることに成功した。

 

 

1983年8月、デヴィッド・ボウイがイギーとの共作曲“チャイナ・ガール”(China Girl)を大ヒットさせ、全米10位・全英2位に送り込んだ。

 

 

1984年9月24日、EMIからリリースされたデヴィッド・ボウイのアルバム『トゥナイト』(TONIGHT)に収録のタイトルトラックや“タンブル・アンド・トゥワール”(Tumble and Twirl)等をボウイと共作。アルバムは英国でボウイにとって3作連続でアルバムチャート首位獲得となり、米国でもプラチナ・ディスクに認定されるなど、世界各国でヒットを記録した。

 

 

1986年10月23日、ボウイとの共同作業を行ったアルバム『ブラー・ブラー・ブラー』(Blah-Blah-Blah)をA&Mからリリース、全米75位・全英43位。『イディオット』以来のビルボード100位以内にチャートインし、英国では『ラスト・フォー・ライフ』以来の50位以内を記録、さらにシングル“リアル・ワイルド・チャイルド (ワイルド・ワン)”(Real Wild Child [Wild One])がチャート最高位10位を記録し、イギーのヨーロッパにおける人気の高さと、商業的な可能性を改めて証明した。また、リカットされた"Cry for Love"は全米34位に入った。

 

 

 

 

 

1987年、『ブラー・ブラー・ブラー』リリースに伴う短期間のツアーから、プリテンダーズのサポートアクトとしてツアーを再開させるまでの間、イギーは坂本龍一のアルバム『ネオ・ジオ』収録の“リスキー”(作詞:イギー=ポップ/作曲:イギー=ポップ・坂本龍一・ビル=ラズウェル)に歌詞とヴォーカルを提供した。同曲は日本で、坂本がイメージキャラクターを務めCMにも出演した日産セドリックのCMソングに採用され、日本国内でのイギーの知名度向上に寄与した。

 

 

1990年6月、アルバム『Brick by Brick』をVirginからリリース、全米90位・全英50位を記録。リカットされた"Livin' on the Edge of the Night"が全英51位、"Home"が全英87位、"Candy" (with Kate Pierson)が全米28位・全英67位になった。

 

 

 

 

 

1993年9月、アルバム『American Caesar』をリリース、全英43位・スウェーデン2位を記録。シングル"Wild America"は全英63位に到達した。

 

 

1996年、大ヒット映画『トレインスポッティング』の挿入歌に“ラスト・フォー・ライフ”が使用されたことで世界的に再評価される。

 

 

1999年、それまで住んでいたニューヨークを去り、マイアミに移住。その時に知り合った女性Nina Aluとは2008年に正式に再婚する。

 

 

2003年、ベーシストに元ミニットメンのマイク・ワットを迎え、29年ぶりに「ストゥージズ」を再結成し、後には旧メンバーらも合流。再びパワフルなサウンド・ステージを展開した。並行して、ソロでも精力的に活動する。

 

 

2007年、ストゥージーズのアルバム『The Weirdness』をVirginからリリース、全米130位・全英81位。

 

 

2009年1月6日、ロン・アシュトンが死去。

 

 

2010年、ストゥージズ名義で「ロックの殿堂」入りを果たす。

 

 

2013年4月30日、ストゥージーズのアルバム『Ready to Die as 'Iggy and The Stooges'』をFat Possumからリリース、全米96位・全英77位。

 

 

2014年、布袋寅泰のアルバム『New Beginnings』収録の“How The Cookie Crumbles”に、ヴォーカルと作詞で参加。

3月16日、スコット・アシュトンが死去。 
 

 

2015年、布袋のアルバム『STRANGERS』収録の“Walking Through The Night”に再びヴォーカルと作詞で参加。

10月11日、スティーヴ・マッケイが死去。

 

 

2016年頃、ストゥージーズが再び活動停止。

同年3月18日、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・ホーミと組んだ『ポスト・ポップ・ディプレッション』(Post Pop Depression)が歴代自身のアルバム史上最大セールスを記録し、全米17位・全英5位にチャートイン。英ラフ・トレードの2016年の年間アルバムTOP100の第1位に輝いた他、グラミー賞の2017年最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞にノミネートされる等、各方面で大絶賛を得る。

 

 

 

 

5月、ジム・ジャームッシュ監督によるストゥージズのドキュメンタリー映画『ギミー・デンジャー(Gimme Danger)』が、第69回カンヌ国際映画祭でプレミア上映され、会見にも出席した。

10月、ライヴ作品『Post Pop Depression Live at The Royal Albert Hall』をリリース。

 

 

2017年、フランスにおける、これまでの業績を評され、芸術文化勲章の最高位『コマンドゥール』を受章。

映画『グッド・タイム』では、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの“The Pure and the Damned”のヴォーカルを担当。

 

 

2019年6月、ジム・ジャームッシュの映画『デッド・ドント・ダイ』に俳優として出演。

9月6日、通算18枚目のソロアルバム『フリー』(Free)をリリース。全英26位にチャートインした他、ドイツでも13位に達した。

 

 

キャリア集大成の書籍『'Til Wrong Feels Right: Lyrics and More』を刊行。

 

 

2020年1月、第62回グラミー賞 特別功労賞生涯業績賞を受賞。

 

 

 

 

 

 

(参照)Wikipedia「イギー・ポップ」「ストゥージズ」「Iggy Pop」「The Stooges」