松島 詩子(まつしま うたこ/本名:内海 シマ/出生名:松島 シマ/1905年5月12日~1996年11月19日)は、日本の歌手。

 

 

 

1905年5月12日、松島シマが誕生。山口県玖珂郡日積村(現:柳井市の一部)出身。

 

1923年、山口県玖珂郡立柳井高等女学校(現:山口県立柳井高等学校)卒業。
 

1929年、山口県玖珂郡日積小学校教師(代用教員)となる。
 

1927年、広島に出て広島市段原小学校教師(現:南区段原)。
 

1929年、小学校音楽教員免許取得。
 

1930年、忠海高等女学校(現:広島県立忠海高等学校)教員。
 

1931年、文部省中等教員検定試験(文検)の音楽科に合格、正式教員の資格を得る。

同年、音楽勉強のため忠海高女を退職して上京。作曲家の佐々木すぐる(1892年4月16日-1966年1月13日)と出会い、同氏の勧めにより流行歌手になることを決心。 

 

 

1932年4月、「柳井はるみ」という名前で“ラッキーセブンの唄”(作詞:菊田一夫/作曲:塩尻精八/編曲:奥山貞吉)を日本コロムビアから発売して歌手デビュー。

 

同年、“月の沙漠”(作詞:加藤まさを/作曲:佐々木すぐる)を発表。元は人気挿絵画家の加藤まさをが雑誌『少女倶楽部』1923年3月号に発表した詩と挿画からなる作品に、当時まだ若手であった佐々木が曲を付けたことで生まれた童謡。当初は児童の音楽教育の中で使われていたが、1927年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみ歌唱で録音、レコード化され、より一般に知られるようになった。なお、タイトルの漢字は「沙漠」が正しく、「砂漠」の表記は誤り。

 

 

その後、テイチクなどでも吹き込みを行う。その際は「千早淑子」という名だった。他に、「藤田艶子」(リーガル、パーロフォン)、「東貴美子」などの芸名も持つ。芸名の数は約20にも上り、各レコード会社において吹き込んだ。

 

 

1934年、“潮来の雨”(作詞:松村又一/作曲:田村しげる)。

 

12月、“女の友情の唄”(作詞:吉屋信子/作・編曲:田村しげる)。

 

 

1935年、キングレコードに移籍、専属歌手となり、芸名も「松島詩子」に改める。命名者は作曲家の山田耕筰で、この名自体はデビュー直後に命名された。レコード会社移籍に伴い、この名で活動、以降終生の名前になった。

同年、“夕べ仄かに”(作詞:島田芳文/作曲:古賀政男)が初ヒット。
 

 

同年、“ナポリ恋しや”(作詞:時雨音羽/作曲:田村しげる)。佛P.B映画『家なき児』主題歌。  

 

12月、“それも思いで”(作詞:松村又一/作・編曲:田村しげる)。

 

 

1937年、自身の弾き語りによる“マロニエの木蔭”(作詞:坂口 淳/作曲:細川潤一)が大ヒット。前年1936年暮れ、キングレコードのディレクターから「この曲は難しいが、誰に歌わせたら良いだろうか」と相談を受け、そのディレクターの机の中で三年間も眠っていた“マロニエの木蔭”を松島がピアノで弾いて口ずさみ、「いい曲だわ、私に歌わせて!」と言ったことから松島の歌唱が決まった。テレビ東京系『出没!アド街ック天国』のワンコーナー「〇〇物語」のBGMに本曲のインストゥルメンタル が使われている。

 

 

1938年、“マリネラ”(作詞:坂口淳/作曲:篠原正雄)。

 

 

1939年、“黒き薔薇”(作詞:山野三郎/作曲:佐藤長助)、“上海の踊り子”(作詞:時雨音羽/作曲:細川潤一)。

 

 

 

1940年、“廣東の踊り子”(作詞:時雨音羽/作曲:細川潤一)、“純情の窓”(作詞:時雨音羽/作・編曲:多紀英二)、“高原の乙女”(作詞:時雨音羽/作・編曲:細川潤一)。

 

 

 

 

同年、戦前期に浅草オペラやニットーレコードで歌手として活躍した内海一郎(1898年5月7日-1972年)と結婚、おしどり夫婦とうたわれた。

 

 

1950年、“花の溜息”(作詞:服部鋭夫/作曲:林伊佐緒)。

 

 

1951年1月3日、『第1回NHK紅白歌合戦』に初回から出場、“上海の花売娘”を歌唱した。なお、初期の『紅白歌合戦』は今のように大晦日のテレビ生放送ではなく、ラジオで正月に生放送されていた。

 

 

1952年12月、“マロニエの花咲く頃”(作詞:松村又一/作曲:中野忠晴/編曲:上野正雄)。

同年、『第2回NHK紅白歌合戦』へ前年に続いての出場が決定していたが、交通事故に遭い欠場を余儀なくされる。代役は越路吹雪が務めた。

 


1953年1月2日、『第3回NHK紅白歌合戦』に2年振り2回目の出場、自身の大ヒット曲“マロニエの木蔭”を歌唱した。    

同年、“マロニエの並木道”(作詞:矢野亮/作曲:中野忠晴/編曲:上野正雄)、“さよならも言わないで”(作詞:東條寿三郎/作・編曲:吉田矢健治)。

 

 

12月31日、『第4回 NHK紅白歌合戦』に2年連続3回目の出場、“マロニエの並木路”を歌唱した。同年2月1日よりNHK東京テレビジョンが本放送を開始したことから、紅白はラジオに加えてテレビでも放送を開始。また、同年から毎年大晦日の開催で固定化し、定期的に開催される目途がついたことから回次も振られるようになった。このため本年は第3回に続き2回目の開催となった。

 

 

1954年、“スペインの恋唄”(作詞:矢野亮/作曲:吉田矢健治)、“私のアルベール”(作詞:矢野亮/作曲:中野忠晴/編曲:上野正雄)。

 

 

12月31日、『第5回 NHK紅白歌合戦』に3年連続4回目の出場、“スペインの恋唄”を歌唱した。

 

 

1955年、“喫茶店の片隅で”(作詞:矢野亮/作曲:中野忠晴)がヒット。“夜のヴァイオリン”(作詞:若杉雄三郎/作曲:渡久地政信)が続いた。

 

 

12月31日、『第6回 NHK紅白歌合戦』に4年連続5回目の出場、“夕月の丘”をトリ前で歌唱した。

 

 

1956年12月31日、『第7回NHK紅白歌合戦』に5年連続6回目の出場、“夜のヴァイオリン”を歌唱した。

 

 

1957年、“星座仰いで”。

 

12月31日、『第8回NHK紅白歌合戦』に6年連続7回目の出場、“星座仰いで”を歌唱した。

 

 

1958年、“夜のささやき”。

 

12月31日、『第9回NHK紅白歌合戦』に7年連続8回目の出場、紅白では2度目となる“喫茶店の片隅で”を歌唱した。

 

 

1959年12月31日、『第10回NHK紅白歌合戦』に8年連続9枚目の出場、“スペインの恋唄”を歌唱した。

 

 

1960年12月31日、『第11回NHK紅白歌合戦』に9年連続通算10回目の出場、“喫茶店の片隅で”を2度目の歌唱した。松島にとってこれが最後の紅白出場となった。

 

 

流行歌手になってからも松島は、原信子、浅野千鶴子、ノタル・ジャコムの各氏に師事してクラッシックの声楽の研鑽を積み、オペレッタ公演も多数行なっている。 また、シャンソン、カンツォーネ、その他ポピュラーソングも愛唱し、舞台で多く披露した。中でもタンゴは、遠い異国アルゼンチンの情熱を涼しいパッションで歌い上げ、淡谷のり子、二葉あき子と並んで3大女王と呼ばれ、和製タンゴの数々の魅力を日本に広めることに寄与した。

コンピレーション・アルバム『ニッポン・モダンタイムス「La Tanguista」』は、未復刻、他社音源も含めたアンソロジー全24曲(詳細解説つき)を収録、歌謡曲ファン、タンゴファン、そしてシャンソン・ファン待望のアルバムとなった。

※全曲

 

 

 

1972年、夫:内海一郎が死去。享年75。

 

 

1977年、“かすみ草”。

 

 

1978年、「小平市母の会」初代会長に就任。

同年、勲四等瑞宝章受章。

 

 

1980年、自著『雑草のような詩』出版。

 

 

1981年、“緑の風に誘われて”(作詞:矢野亮/作曲:林伊佐緒)。

 

 

1985年9月、傘寿記念作品としてシングル“今は忘れて”(作詞:星野哲郎/作曲:江口浩司/編曲:青木望)を発売。

 

 

1991年、柳井市名誉市民に選定される。

同年、サンビームやない前広場に歌碑が建立される。

 

 

 

 

1996年11月19日、心不全のため死去。91歳没。

墓所は小平霊園。

故郷の柳井には、白壁の町並みの側にある柳井市町並み資料館内に「松島詩子記念館」があり、愛用品やステージ衣裳、トロフィーなど、昭和の日本歌謡界に残した多くの足跡を偲ぶことのできる、遺品の一部が展示公開されている。

 

 

 

 

2006年、文化庁と日本PTA全国協議会により“月の沙漠”が「日本の歌百選」に選定された。

 

 

2011年、松島詩子記念館にて「松島詩子の名曲を歌う会」第1回を開催。以降、例年4月下旬に同会を開催し、毎度満員御礼の盛況だという。

 

 

2023年12月6日、最新ベスト・アルバム『2023年盤決定版 松島詩子』が発売。全20曲を収録。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「松島詩子」

 

 

 

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