山田 耕筰(やまだ こうさく/1886年〈明治19年〉6月9日~1965年〈昭和40年〉12月29日)は、

日本の作曲家、指揮者。旧名の「山田 耕作」(読み同じ)としても知られる。

 

 

福島藩の飛び地の三河(現愛知県)在住の藩医・山田家の出身だった父・謙造と、馬術指南役(または大番所小頭)の高橋家の娘だった母・久の間に生まれる。戊辰戦争で福島藩は敗れ、福島の領地を没収されて三河に転封されたのに伴い高橋家は福島から安城市に移住、ここで耕作の両親が出会って結婚した。なお、廃藩置県後、高橋家は再び福島へと戻った。

 

1896(明治29)年、10歳の時に父の謙造を亡くす。

父の遺言で、巣鴨宮下(現:南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。

 

1899(明治32)年、13歳の時、姉のガントレット恒を頼り岡山の養忠学校に入学。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきを受ける。

 

1902(明治35)年、14歳の時、関西学院中学部に転校。

在学中だった16歳の秋に、初めての作品“MY TRUE HEART”を作曲。

1904(明治37)年、同本科を中退。

同年、東京音楽学校予科入学。

1908(明治41)年、東京音楽学校(現:東京藝術大学)声楽科を卒業。

 

 

1910(明治43)年、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太の援助を受けてドイツに渡り、ベルリン王立芸術アカデミー作曲科に3年余り留学、マックス・ブルッフ(1838年1月6日~1920年10月2日)などに学ぶ。後に映画『2001年宇宙の旅』の“ツァラトゥストラはかく語りき”(1896年作)で広く知られるリヒャルト・シュトラウス(1864年6月11日~1949年9月8日)に傾倒し、弟子入りを志願するも、講師料が高くて断念したという。

 

 

1912(大正元)年、日本人初の交響曲“かちどきと平和”や“序曲二長調”を作曲。

 

 

1913(対象2)年、交響詩“曼陀羅の華”を作曲。

 

同年、楽劇(オペラ)『堕ちたる天女』を作曲した。

 

 

1914(大正3)年、ドイツより帰国。日本の作曲家の中で、西洋のクラシック音楽を学んだ第1世代となった。

帰国後、岩崎が1910年に組織した「東京フィルハーモニー会」の管弦楽部首席指揮者を任される。

ところがこの頃、岩崎の紹介で永井郁子と最初の結婚をしたにもかかわらず、耕作は昔なじみの村上菊尾という女性が忘れられずに手を出してしまい、それを聞いた岩崎が激怒。これで岩崎からの資金援助が断たれ、東京フィルハーモニー会は金銭的に困窮することとなる。なお、菊尾とは後に再婚する。

 

 

1915(大正4)年、東京フィルハーモニー会が解散。

 

 

1917(大正6)年、渡米し、ニューヨークのカーネギーホールで自作曲を中心に演奏会を開く。

同年、耕作は滝廉太郎作曲の“荒城の月”をロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律にも改変を加えた。山田版は全8小節からテンポを半分にしたのに伴い16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げ(シャープを削除し)ている。山田版については1927年秋、東京音楽学校の橋本国彦助教授が「欧州の音楽愛好家に“荒城の月”を紹介する際は、山田耕筰の編曲にすべきである。滝廉太郎の原曲は<花のえん>の<え>の個所に#がある。即ち短音階の第4音が半音上がっているが、これはジプシー音階の特徴で外国人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想する。それを避けるために山田は、三浦環に編曲を頼まれた時、#を取った。」と評したという。

 

1919(大正8)年7月7日、この日に発売された「カルピス」の名は、同社創業者・三島海雲から相談を受けた耕作が「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」とアドバイスしたことで決まったものであるとされる。

 

 

1920(大正9)年10月に制定された明治大学校歌(作詞:児玉花外)を作曲。

 

12月、帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの“タンホイザー”の一部などを日本初演。

 

 

1921(大正10)年、文化学院音楽科主任となる。

同年に作曲した交響曲“明治頌歌”で西洋楽器と和楽器(篳篥)を用い、クラシック音楽と邦楽の融合を目指した。

 

 

 

1923(大正12)年、“あわて床屋”(作詞:北原白秋)を発表。戦前のSPレコードの例として、「作詞:北原白秋詩、作曲:山田耕筰、唄:宮下禮子、ピアノ:山田耕筰、リーガルレコード、品番:65630-A」というものがある。

 

 

1924(大正13)年、“待ちぼうけ”(作詞:北原白秋)が満州唱歌の一つとして発表された。

 

同年、“ペチカ”(作詞:北原白秋)が同年発行の『満州唱歌集』に収録されたが、1932年の大改訂で削除された。1925年の白秋の詩集『子供の村』には、白秋自筆の栗売りの挿絵が添えられている。南満州鉄道が設立され、満州への移民が増えていた時代に、土地に合った歌が求められるようになり、南満州教育会からの依頼を受けた白秋・耕筰の二人が実際に満州に赴いて制作した。耕筰自身の注記により、「ペチカ」はロシア語の発音に近づけた「ペィチカ」と歌うことが指示されている。

 

同年4月、耕作は「日本交響楽協会管弦楽団」を結成。

 

 

1925(大正14)年4月、欧州帰りの近衛秀麿(1898年11月18日~1973年6月2日)とともに耕作は、ハルビンの楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、新装なった東京の歌舞伎座を始め各地で演奏会を開いた。これを母体に近衛と改めて「日本交響楽協会」(略称「日響」/現:NHK交響楽団)を設立した。

同年、“からたちの花”(作詞:北原白秋)のメロディが『女性』で発表された。詞は先行して1924年に『赤い鳥』で発表されていた。同年、ソプラノ歌手・荻野綾子(1898年~1944年)の、1926年に藤原義江の歌唱によるレコードが発売されている。 

 

 

1926(大正15)年1月、最初の定期演奏会を開いた日響は、開場間もない日本青年館を拠点に予約演奏会を開始、18~19世紀の大曲を演奏し、聴衆を魅了した。

だが、不明朗経理を機に日響で内紛が勃発。不明朗経理が発覚した際、マネージャーの原善一郎がそれを山田に尋ねたところ逆に糾弾され、さらに原は解任を言い渡された。近衛は原の味方にまわり、大部分となる44名の楽員も近衛と行動をともにした結果、黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名が残っただけの山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。 

9月、日本交響楽協会が解散。

近衛は、自分に付いた44名をもって新交響楽団を名乗り、活動を開始。これは後に日本交響楽団、NHK交響楽団と改称された。

 

40歳の頃、耕作は湘南の茅ヶ崎町(現:神奈川県茅ケ崎市)に居を構える。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていた耕作だが、約6年間暮らした茅ケ崎の地で再起。“赤とんぼ”など童謡の名曲を多数生みだす。


 

1927(昭和2)年、“砂山”(作詞:北原白秋)を作曲。同曲は元々1922年に童謡演奏会に招かれた新潟に因み白秋が作詞し、作曲を中山晋平に依頼、雑誌『小学女生』大正11年9月号に発表したもの。これに耕作が自主的に曲を付けた。なお、中山晋平作曲版の“砂山”は戦後から1960年までにレコード売上は15万枚に達し、ロングヒットを続けている。

 

同年、藤原義江の歌唱による“この道”(作詞:北原白秋)のレコードが発売されている。

 

同年、“赤とんぼ”(作詞;三木露風)を作曲。本作の詞は三木が1921年、故郷の兵庫県揖保郡龍野町(現:たつの市)で過ごした子どもの頃の郷愁から作ったといわれ、同年8月に『樫の実』に最初に発表し、その後、同年12月に童謡集『真珠島』で一部修正する。三木の詞に耕作が曲を付けたものとしては、他に“野薔薇”などが知られている。

 

 

 

1929(昭和4)年、オペラ『黒船』の序景が完成。

 

 

1930(昭和5)年9月、耕作は自身が顧問を務めていたコロムビアレコードに専属作曲家として古関裕而(1909年8月11日~1989年8月18日)を推薦、古関は専属に迎え入れらた。

12月、「耕作」から「耕筰」への改名を発表。本名の「山田耕作」だと同姓同名の人が全国に百人以上おり、耕作が有名になればなる程名前によるトラブルが頻発したため、あえて珍しい漢字の「筰」に改めたもの。だが戸籍上は長らく「耕作」のままであった。

 

1933(昭和8)年、関西学院大学校歌“空の翼”(作詞:北原白秋)を作曲。大学昇格を機に「日本語の新しい校歌を」と、1902~1904年に在籍した関西学院中学部同窓の耕筰が作曲を依頼され、耕筰の紹介で北原白秋が作詞。耕筰は“空の翼”を含め、1939年に校歌“緑濃き甲山”(作詞:由木康)、“関西学院頌歌”(詳細不詳)、1949年に校歌“A Song for Kwansei”(作詞:Edmund Blunden)、1959年に応援歌“打ち振れ旗を”(作詞:竹中郁)の5曲を作曲した。

 

耕筰は先の明治大学や関西学院大学の他にも、膨大な数の大学や高校、中学、小学校の校歌を作曲した。

 

 

1934(昭和9)年、単一楽章の長唄交響曲第3番『鶴亀』(つるかめ)を作曲。西洋クラシック音楽と邦楽の融合を目指した耕筰の集大成的な作品。

 

 

1936(昭和11)年、レジオンドヌール勲章受章。

 

1937(昭和12)年、相愛女子専門学校(現:相愛大学)教授に就任。

同年公開の日独合作映画『新しき土』の音楽を担当(作詞:北原白秋・西條八十/演奏:新交響楽団・中央交響楽団)。主演は原節子。ドイツ語版タイトルは『Die Tochter des Samurai』(侍の娘)。

 

1940(昭和15)年、戦時体制が色濃くなった状況下、「演奏家協会」を発足させ、自ら会長に就任する。

同年11月、オペラ『黒船』(当初の題名は『夜明け』)が完成し、初演。

 

また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作“祝典序曲”を指揮する。

 

 

1941(昭和16)年、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任。

また音楽挺身隊を結成して占領地での音楽指導にも携わる。将官待遇となり、しばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」で槍玉に挙げられることとなる。

 

1942(昭和17)年、帝国芸術院会員に選出。

 

1944(昭和19)年、日本音楽文化協会会長。

 

終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に「戦犯論争」が勃発。

 

1948(昭和23)年、論争が収まった頃に脳溢血で倒れ、以後身体が不自由となる。

 

1950(昭和25)年、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。

 

1955(昭和30)年に公開された映画『ここに泉あり』(監督:今井正)に本人役で出演している。また、劇中で“赤とんぼ”の演奏と、子どもたちによる歌唱が行われている。

8月15日、この日に発売された美空ひばり“風が泣いてる”(作詞:宮本吉次)を作曲。

 

 

1956(昭和31)年、文化勲章を受章。

同年、後妻の菊尾と離婚し、辻輝子と再々婚したのを機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。なお、サインには“Kósçak Yamada”という綴りを使っていた。

 

 

1961(昭和36)年4月、NHK『みんなのうた』が初放送、“あわて床屋”(編曲:冨田勲/歌:ボニージャックス/影絵映像製作:劇団かかし座)が同年4月・5月に放送された。60年代の曲は大部分の映像、音声が失われているが、同曲の映像、音声は現存していてDVD化されている。

同年、封切られた映画『夕やけ小やけの赤とんぼ』の挿入歌として“赤とんぼ”が用いられ、耕筰が特別出演している。

 

 

1965(昭和40)年10月、NHKの『みんなのうた』で“赤とんぼ”(編曲:荒谷俊治/歌:東京放送児童合唱団/映像[静止画像]製作;谷内六郎)が放送された。

11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。

同年12月4日、耕筰は退院し、成城の自宅に戻る。

12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去した。享年80(満79歳没)。墓所は東京都あきる野市の西多摩霊園。

 

 

1985(昭和60)年5月21日、シーナ&ロケッツのアルバム『Main Songs』に、“この道(THIS WAY)”(編曲;シーナ&ロケッツ)が収録される。

 

 

1990(平成2)年、B.B.クィーンズのアルバム『WE ARE B.B.クィーンズ』に、“赤とんぼ”(編曲:中島正雄/ヴォーカル:近藤房之助)が収録される。

 

 

2015年(平成27年)12月31日、著作権の保護期間を満了。

 

 

2019(平成31)年1月11日、「童謡」誕生から100年と言われるこの年、北原白秋の波乱に満ちた半生を、耕筰との友情とともに描き出した映画『この道』(監督:佐々部清)が公開。白秋を大森南朋、耕筰をAKIRAが演じ、白秋と耕筰を引き合わせた鈴木三重吉を柳沢慎吾、与謝野鉄幹・晶子夫妻は松重豊と羽田美智子がそれぞれ演じ、白秋の妻に貫地谷しほり、松本若菜、ラジオ本放送時に“からたちの花”を歌唱した歌手役で由紀さおり・安田祥子姉妹が出演した。主題歌“この道”はATSUSHIが歌唱した。

 

 

2020(令和2)年3月30日、古関裕而をモデルとした主人公のNHK連続テレビ小説『エール』が放送開始。古関が師と仰いだ耕筰をモデルとする「小山田耕三」役を、テレビドラマ初出演の志村けんが演じた。小山田耕三は5月1日放送分から登場したが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に伴う肺炎で3月29日に志村が急逝したため、撮影分はそのまま放送し、その後は代役を立てずにナレーションで物語をつないだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「山田耕筰」