霧島 昇(きりしま のぼる/本名:坂本 榮吾/1914(大正3)年6月27日~1984(昭和59)年4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。

 

 

 

1914(大正3)年、福島県双葉郡大久村(現:いわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現:東京音楽大学)を卒業。 

浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード“僕の思い出”が。当時のコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまる。

 

 

1936(昭和11)年、コロムビアに入社。同社の看板スターであった松平晃を目標として歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い声質と邦楽的技巧表現を生かした。

 

 

1937(昭和12)年、“赤城しぐれ”(作詞:久保田宵二/作曲:竹岡信幸/編曲:奥山貞吉)を発売し、デビュー。

 

同年、“春の大空”(作詞:高橋掬太郎/作・編曲:江口夜詩)を発表。

 

 

1938(昭和13)年、松竹映画『愛染かつら』の主題歌“旅の夜風”(作詞:西條八十/作・編曲:万城目正)を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)とともに吹き込み大ヒット。

 

同年、“トーチカ節”(作詞:深草三郎/作曲:明本京静)発売。

 

 

“旅の夜風”のヒットで、ミス・コロムビアとの「愛染コンビ」は引っ張りだことなり、1939年3月20日“一杯のコーヒーから”(作詞:藤浦洸/作曲:服部良一/編曲:服部良一)、同年5月1日“愛染夜曲”(作詞:西條八十/作・編曲:万城目正)等が続けてヒット。ステージや巡業などで行動をともにする機会が多くなり、3歳年上のミス・コロムビアと親密になっていった。

 

 

ところが、霧島は当時一躍人気歌手となっていたため、映画『純情二重奏』で共演し同名主題歌でもデュエットした高峰三枝子や、“日本の妻”などで共唱したコロムビアの新人歌手・奥山彩子らとの関係がスキャンダルとして取り上げられる。

 

 

 

1939(昭和14)年、“月のデッキで”(作詞:高橋掬太郎/作曲:明本京静/編曲:奥山貞吉)発売。

 

同年、数々のスキャンダルが報じられる霧島に業を煮やし、すでに長男を身篭っていたミス・コロムビアこと松原操は、正式な結婚を霧島に迫る。
同年暮れ、霧島は松原操と結婚。媒酌人は作曲家・山田耕筰夫妻だった。

 

 

1940年(昭和15年)1月20日、“誰か故郷を想わざる”(作詞:西條八十/作・編曲:古賀政男)を発売、半年間で56万枚を売り上げる程の大ヒットにより、新興キネマより同名映画が製作された。ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送った寂しさなどを流麗なメロディーに乗せて歌う同曲は、西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的ヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌唱していた。

 

4月10日、映画『新妻鏡』の主題歌“新妻鏡”(作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男)を二葉ゆり子と共演、同映画の劇中で効果的に使われたB面“目ン無い千鳥”(作詞:サトウ・ハチロー/作・編曲:古賀政男)の方がヒットした。

 

 

数々のヒットを飛ばした霧島はこの頃「コロムビアのドル箱」と呼ばれた。

 

 

1943(昭和18)年、召集令状を受け、大日本帝国海軍横須賀海兵団に入隊。すでに極度の近眼のため徴兵検査で不合格となっていたが、霧島のファンである海兵団の伊藤竹夫大佐が軍医長に命じ、身体検査をパスさせた。海軍では、情報蒐集及び宣伝を主任務とした副長付班に所属した。

 

 

戦後は復員し、歌手活動を再開。

1945年10月11日公開の戦後復興映画第1号『そよかぜ」の主題歌“リンゴの唄”(作詞:サトウハチロー/作曲:万城目正/編曲:仁木他喜雄)を並木路子とともに吹き込むと、翌1946年1月にレコード発売、戦後のヒット曲第1号となった。以降も、数々のヒット曲を放つ。

 

 

1946(昭和21)年、“麗人の歌”(作詞:西條八十/作・編曲:古賀政男)を発売。

 

 

1947(昭和22)年、“胸の振子”(作詞:サトウ・ハチロー/作・編曲:服部良一)を発表。

 

 

1948(昭和23)年、妻・松原操との共演となった“三百六十五夜”(作詞:西條八十/作・編曲:古賀政男)を発表。

 

 

1951(昭和26)年、“月が出た出た” (作詞:西條八十/作曲:古賀政男)を久保幸江との共演で発表。

 

同年、“サム・サンデー・モーニング”(作詞:山口国俊/作曲:服部良一/編曲:服部良一)を小川静江と共唱。

 

 

1952(昭和27)年、藤山一郎の歌詞違いカヴァー“白虎隊”(作詞:野村俊夫/台詞:鈴木吟亮/作・編曲:古賀政男)を発売。

 

第2回 NHK紅白歌合戦に初出場、“赤い椿の港町”(作詞:西條八十/作・編曲:上原げんと)を歌唱した。

 

 

1953(昭和28)年、“石狩エレジー”(作詞:桂土佐海/作曲:古賀政男)を発売。

 

同年、第3回 NHK紅白歌合戦に出場、“月が出た出た”を歌唱。

 

1954(昭和29)年、第5回 NHK紅白歌合戦に出場、“石狩エレジー”を歌唱。

 

1956(昭和31)年、“目ン無い化粧”(作詞:西条八十/作曲:古賀正男)を島倉千代子と共唱。

 

第7回 NHK紅白歌合戦に出場、“恋に朽ちなん” (作詞:野村俊夫/作曲:万城目正)を歌唱。

 

 

1958(昭和33)年、第9回 NHK紅白歌合戦に出場、“白虎隊”を歌唱。このうち、第7回と第9回はラジオ中継による音声が現存する。

 

 

1979(昭和54年)紫綬褒章受章。

 

 

1981(昭和56)年、妻の松原操と共唱した“妻よ/ふるさと慕情”(作詞:石本美由起/作曲:市川昭介/編曲:山田良夫)を発表。

同年、“夕月慕情”(作詞:益子文司・石本美由起/作曲:江口夜詩)を発表。

 

 

1984(昭和59)年4月24日、霧島は腎不全のため69歳で永眠、東京都港区の長谷寺に葬られた。戦前・戦後を通じて人気歌手の一人だったが、霧島は無口で真面目な人柄で、極度のあがり症だった。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超えたという。

妻の操も霧島の死から2か月後の同年6月19日に73歳で逝去した。

法規制される前後に夫婦でヒロポンを常用しており、深刻な中毒だったことがある。当時舞台で司会をしていたコロムビア・トップが国会においてその様子を証言したこともあった。晩年は夫婦ともに心身に不調がみられたが、薬物の影響が指摘されている。

同年、勲四等旭日小綬章。

 

おしどり夫婦として知られ、操との間に4人の子どもをもうけた。長男の坂本紀男は東京音楽大学主任教授で、『思い出のメロディー』(NHK総合)に出演し、父の代表曲を歌ったことがある。紀男の他に娘が3人おり、三女の大滝てる子は母の芸名を継ぎ「二代目 松原操」として両親の楽曲を歌い継いでいる。

 

霧島の出身である福島県いわき市には、大久町大久柴崎9 海竜の里センター駐車場内に、代表曲“誰か故郷を想わざる”の歌碑が建立されている。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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(参照)

Wikipedia「霧島昇」「松原操」