ラリー・ネクテル(Larry Knechtel/出生名:Lawrence William/1940年8月4日~2009年8月20日)は、アメリカ合衆国のスタジオ・ミュージシャン。
1940年8月4日、ローレンス・ウィリアムは、アメリカ合衆国カリフォルニア州ベル(Bell, California)で生まれた。
彼が最初に受けた音楽教育は、ピアノのレッスンであった。
1957年、ロサンゼルスを拠点とするロックンロール・バンド「キップ・タイラー・アンド・ザ・フリップス」(Kip Tyler and the Flips)に参加した。
1959年8月、楽器奏者のデュアン・エディのバンド「ザ・レベルズ」(the Rebels)にメンバーとして参加。バンドと4年間ツアーに出た。
その後、レコーディング・スタジオでエディと仕事を続け、ロサンゼルスのセッション・ミュージシャン・シーンの一員となる。
1960年代初頭、彼はピアニストとしてフィル・スペクターと仕事をし、スペクターの有名な「ウォール・オブ・サウンド」の制作を手伝った。
セッション・ミュージシャン集団「レッキング・クルー」(The Wrecking Crew)の一員として活躍、当時のヒット曲の多くで演奏。ダンヒル・レコード系アーティストなど多くのレコーディング・セッションを務める。レコーディングに参加した主なアーティストは以下の通り。ザ・ロネッツ、ザ・ビーチ・ボーイズ、ザ・バーズ、ジョニー・リヴァース、ドアーズ、ナンシー・シナトラ、フィフス・ディメンション、ママス&パパス、サイモン&ガーファンクル、アソシエイション、リチャード・ハリス、ジェシ・エド・デイヴィス、デラニー&ボニー、パートリッジ・ファミリー、バーブラ・ストライサンド、ジョーン・バエズ、ハリー・ニルソン、ラロ・シフリン、ジェリー・ガルシア、エルヴィス・コステロ、チェット・アトキンス、ディクシー・チックス、ニール・ダイアモンド、ドリー・パートン、竹内まりや、森園勝敏 など。
1965年、バリー・マクガイア(Barry McGuire/1935年10月15日~)のアルバム『Eve Of Destruction』にピアノ(ベース説あり)で参加。タイトル・トラック“明日なき世界”(Eve of Destruction)が全米1位になった、マクガイアのソロ・デビュー作。
6月21日、ザ・バーズ(the Byrds)初のスタジオ・アルバム『ミスター・タンブリン・マン』(Mr. Tambourine Man)に参加、大ヒットしたタイトル・トラック"Mr. Tambourine Man"と"I Knew I'd Want You"にてベースを演奏。
同年、ラリー・ネルソン(Larry Nelson)名義でデビュー・ソロ・アルバム『The In Harmonica』をWorld Pacificからリリース。
1966年1月17日、サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)のアルバム『サウンド・オブ・サイレンス』(Sounds of Silence)がリリース、ネクテルはキーボードで参加した。
2月、ママス・アンド・パパス(Mamas and Papas)の1stアルバム『夢のカリフォルニア』(If You Can Believe Your Eyes and Ears)が発売、ネクテルはキーボードで参加(ノンクレジットだがWikipediaとネクテル本人のHPには表記)。“夢のカリフォルニア”(California Dreamin)や全米1位になった“マンデーマンデー”(Monday Monday)を収録した本アルバムは、全米1位・全英3位をマークした。
5月16日、ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)の最高傑作との呼び声も高いアルバム『ペット・サウンズ』(Pet Sounds)に、オルガン、ハープシコード、タック・ピアノで参加。
9月、ママス・アンド・パパスの2ndアルバム『Mamas and Papas』にもキーボードで参加、本作ではクレジットされた。アルバムは全米4位をマーク。
同年、ザ・モンキーズの同名デビュー・アルバムにベースで参加。
1967年1月4日、ドアーズ(The Doors)のデビュー・アルバム『ドアーズ』(The Doors)に唯一の外部ミュージシャンとして参加、 "Soul Kitchen"、"Twentieth Century Fox"、"Light My Fire"、"I Looked at You"、"Take It as It Comes"においてベースを演奏した。
1969年、サイモン&ガーファンクルの“明日に架ける橋”(Bridge over Troubled Water)のレコーディングにピア二ストとして参加。レコーディングでネクテルはポール・サイモンのゴスペル風にしたいという要求に様々なアイデアを出して応え、最終的にEフラットを選び、72ものテイクが録音された。
1970年1月、“明日に架ける橋”がアメリカでリリースされると、全米1位・全英1位をはじめ多くの国でナンバー1を獲得、ほとんどの国でチャート上位に入る世界的大ヒット、70年代を代表する曲となった。この曲でネクテルはポール・サイモン等とともにグラミー賞の最優秀歌唱編曲賞を受賞した。
5月6日にリリースのポコ(Poco)の2ndアルバム『Poco』にピアノで参加。全米58位。
1971年、ロサンゼルスのソフトロック・バンド「ブレッド」(Bread)に、オリジナル・メンバーのロブ・ロイヤーが脱退したことを受けて後任として加入、正式メンバーとなった。
10月、ブレッド加入後最初のシングル“愛のわかれみち”(Baby I'm-a Want You)を先行リリース、全米3位・AC1位・全英14位を記録し、RIAAゴールドを獲得した。
11月1日にリリースされたビリー・ジョエル(Billy Joel)のソロ・デビュー・アルバム『コールド・スプリング・ハーバー〜ピアノの詩人』(Cold Spring Harbor)にベーシストとして参加、まだブレイク前で、全米158位・全英95位の成績だった。
1972年1月、ブレッドの4thアルバム『Baby I'm-A Want You』を発表、全米3位になった“愛のわかれみち”をはじめ、"Mother Freedom"が全米37位、"Everything I Own"が全米5位・AC3位・全英32位、"Diary"が全米15位・AC3位と、4曲のトップ40シングル(内2曲がトップ5)を含んだこのポップ・ロック・アルバムは全米3位の大ヒットを記録し、1973年のグラミー賞ベスト・エンジニア・レコーディング部門にノミネートされた。また同年ブレッドはベスト・ポップヴォーカル・グループ部門にもノミネートされている。
10月、5作目のアルバム『Guitar Man』は最もロック・テイストにサウンド・メイキングされたアルバムであり、全米18位を記録。ワウペダルを駆使した印象的なリード・ギターを聴かせたタイトル・トラック“ザ・ギターマン”(The Guitar Man)はシングル・カットされ、全米11位・AC1位・全英16位にランクインするヒットとなった。また、この他にも"Sweet Surrender"が全米15位・AC1位・全英53位、"Aubrey"が全米15位・AC4位をマークした。
1973年3月、米国にてブレッド初のベスト・アルバム『The Best of Bread』をリリース、『ビルボード』誌では全米2位まで上がり翌年までトップ100位以内にチャートインし続け、当時全米のみで500万枚以上を売り上げる大ベストセラーとなった。
6月、米国ソルトレイクシティでのライヴ・コンサート中にゲイツが突然、グループを解散する事を発表。メンバーは必然的にソロ活動となったが、その後何度か全員でのセッション活動も行っている。
1976年11月、ネクテル加入以前のバンド・デビュー時からブレッドと付き合いのあるエレクトラ会長ジャック・ホルツマンの要請で、「1枚限り」という条件のもと、ブレッドが再結成。
同年、リード・シングル“愛のかけら”(Lost Without Your Love)を先行リリース、全米9位・AC3位・全英27位。
1977年、ブレッド6作目のアルバム『Lost Without Your Love』を発表した。内容はアコースティックでよりポップな作風で、2枚目のシングル"Hooked on You"もリリース、全米60位・AC2位をマーク。ブレッドはアルバム・リリースに伴い全米ツアーも行った。尚ブレッドは全てのレコーディングをメンバーがプロデュース、アレンジ、演奏、又メンバー自らのオリジナル曲で行ったバンドである。
同年、イギリス独自で発売されたブレッドのベスト・アルバム『Sound of Bread』は全英1位になり、同年ゴールドディスクレコードが与えられた。尚この授賞式には当時ジェイムス・グリフィンは出席せず、ブレッドのリユニオン・ツアーやデヴィッド・ゲイツのソロ・ツアーに参加していたセッション・ギタリストのディーン・パークスが代わりに出席している。
1978年、ブレッドが予定通り、再度解散。
1989年、Larry Knechtel名義で2ndソロ・アルバム『Mountain Moods』を発表。
1990年、ソロ・アルバム『Urban Gypsy』をリリース。
1991年、エルヴィス・コステロ(Elvis Costello)のアルバム『Mighty Like A Rose』に、ピアノ、ハモンド・オルガン、エレクトリック・ピアノで参加。
同年、ネクテルはコステロのバック・メンバーとして来日している。
1990年代後半以降ネクテルは一時期音楽ビジネスから遠ざかっていた。
1996年、解散時のメンバーでブレッドが再々結成、約2年間に亘りワールド・ツアー(全米、南米、ヨーロッパ、オセアニア、南アフリカ、東南アジア)を行っている。尚、日本ツアーも予定されていたが直前でキャンセルされた。パンフレットにはデヴィッド・ゲイツによる挨拶とコメントが日本語で紹介されている。
1998年、ツアーを終えたブレッドは予定通り再度活動を停止した。
同年、THE ALFEEのミニアルバム『Pride』で“明日に架ける橋”のカヴァーを収録するにあたり、ネクテルにピアノを弾いて欲しいというバンド側からの依頼を受ける。当初は断るつもりであったが、関係者からTHE ALFEEが歌う“明日に架ける橋”のデモテープを聴き、この曲に対するメンバーのメッセージに感銘を受け、久し振りにレコーディングスタジオに入ったという。
2005年にジェイムス・グリフィンとマイク・ボッツがそれぞれ癌のため死去。
2006年、ネクテルはディクシー・チックス(The Dexie Chicks/現:ザ・チックス[The Chicks])のアルバム『テイキング・ザ・ロング・ウェイ』(Taking The Long Way)にキーボード、オルガン、ピアノで参加、その後の全米ツアーにも同行するなど、健在振りを見せた。
2007年、ミュージシャンの殿堂入りを果たした。
2009年8月20日、入院していたワシントン州の病院にて心臓発作でこの世を去る。69歳没。
(参照)
Wikipedia「ラリー・ネクテル」「Larry Knechtel」「レッキング・クルー (音楽)」「The Wrecking Crew (music)」「ブレッド (バンド)」「Bread (band)」
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