ジルベルト・ジル(Gilberto Gil/出生名:Gilberto Passos Gil Moreira/1942年6月26日~)は、ブラジル連邦共和国のミュージシャン、政治家。

 

 

 

1942年6月26日、ジルベルト・パッソス・ジル・モレイラは、ブラジル連邦共和国バイーア州の港湾都市サルヴァドール(Salvador)にて、アフリカ系ブラジル人の家庭に生まれた。父は医師。ジルベルトは後の1970年代以降、自身がアフリカ系であることを強く意識した活動を行うようになる。

 

幼少期は、父の仕事の関係でバイーア州の農村で過ごす。

 

1950年頃、サルヴァドールにある親戚の家に移る。この頃にアコーディオンを始め、その後作曲も行うようになる。

ジルベルトはバイーア連邦大学に進学し、経営学を学ぶ。当時、後にトロピカリア運動をともに牽引する盟友となるカエターノ・ヴェローゾも同大学の哲学科で学んでいた。この頃ラジオでジョアン・ジルベルトを聴いて衝撃を受けたジルベルトは、ギターを買ってボサノヴァを歌うようになる。在学中にはコマーシャルソングの制作等も行った。

1965年、石けん製造会社への就職を機にサンパウロに移る。

 

 

1966年、エリス・レジーナに依頼され、エリスのテレビ番組のために作曲を行い、ジルベルトがエリスに提供した楽曲“Louvação”がヒット。ジルベルト自身も、デビュー・アルバムで同曲をセルフ・カヴァーしている。

 

そして、ジルベルトは会社を辞め、音楽に専念していく。

 

 

1967年、デビュー・アルバム『Louvação』を発表。“Louvação”のセルフ・カヴァーの他、“Roda”、“Procissao”など、ジルの代表曲が収録されている。

 

 

 

 

1968年、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)に衝撃を受け、ムタンチス、ナラ・レオン、ガル・コスタ等も加えて、トロピカリアというムーヴメントを代表するコラボレーション・アルバム『Tropicalia ou Panis et Circenses』を発表。同作は、ブラジル初のコンセプト・アルバムとして評価されている。

 

 

同年、ムタンチスと自身の2ndアルバム『Gilberto Gil (Frevo Rasgado)』でも共演。しかし、ジルベルトのこの「先進的な」音楽は、時に論争の的となった。

 

この年、ブラジルの歌謡祭の予選でソウルミュージックからの影響を反映した“Questão de Ordem”を歌った際、学生達からブーイングが起こり、ジルベルトは落選。トロピカリアに好意的だった新聞記者のネルソン・モッタでさえ、10月14日付の『ウルチマ・オーラ』(Última Hora)紙で、この時のパフォーマンスを批判。一方、10月24日付の『コヘイオ・ダ・マニャン』(Correio da Manhã)紙では、好意的なコメントが寄せられた。

 

12月27日、更に、当時の軍事政権から危険人物とみなされ、ジルベルトとカエターノ・ヴェローゾは、理由も明らかにされないまま逮捕された。

 

 

1969年7月20・21日にかけて二人は共演ライヴを敢行、この時の模様は、1972年にライヴ・アルバム『Barra 69 - Caetano e Gil Ao Vivo na Bahia』として発表される。

その後、間もなくロンドンに亡命した。

 

 

1970年、ワイト島音楽祭に出演。

 

 

1971年、亡命先のロンドンで制作したアルバム『Gilberto Gil (Nega)』では、英語詞の楽曲が披露され、ブラインド・フェイスのカヴァー“Can't Find My Way Home”等を収録。

 

この頃、ジルベルトはレゲエに傾倒していく。



1972年1月、ブラジルに帰国。

同年発表のアルバム『Expresso 2222』からは、“Back in Bahia”や“Oriente”がシングル・ヒットした。

 

 

 

1975年、アルバム『Refazenda』をリリース。欧米での数々のセッションを経て亡命先のロンドンから帰国して3年、マゾーラをプロデューサーに迎え、ジルの盟友でもあるアコーディオン奏者ドミンギーニョスが参加。タイトルトラック“Refazenda”や“Ela”、“Lamento Sertanejo”などを収録。

 

 

 

 

同年のアルバム『Gil e Jorge』には、ジョルジ・ベンとともに行ったジャム・セッションが収録された。

 

 

1977年、アルバム『Refavela』をリリース。タイトルトラック“Refavela”をはじめ、“Balafon”など、数々の名曲を収録。

 

 

 

 

1978年、アルバム『Refestança』をリリース。

 

同年、ライヴアルバム『モントルーのライヴ』(Gilberto Gil Ao Vivo Em Montreux)をリリース。

 

 

1979年、アルバム『ナイチンゲール』(Nightingale)を発売、セルジオ・メンデスをプロデューサーに迎え、ジルの世界進出を狙った作品で、リー・リトナー、ドン・グルーシン、エイブラハム・ラボリエル、アレックス・アクーニャ、ネイザン・ワッツ、スティーヴ・フォアマンら一流ミュージシャンらが参加したアメリカ録音。

 

 

同年のアルバム『Realce』(ヘアルシ)は、前作同様アメリカ録音だが、唯一ブラジルに帰国してレコーディングした“Não Chore Mais”はボブ・マーリーの歌唱で知られる“ノー・ウーマン、ノー・クライ”(No Woman, No Cry)をポルトガル語でカヴァーしたもので、シングルとして70万枚を超えるセールスを記録、大ヒットした。

 

 

 

1980年、ジミー・クリフとともにブラジル・ツアーを行う。

 

 

1981年には、カエターノ・ヴェローゾやマリア・ベターニアとともに、ジョアン・ジルベルトのアルバム『Brasil』(邦題:海の奇蹟)にゲスト参加。

 


1986年、初の日本公演を行う。東京公演の模様は、後にライヴ・アルバム『Ao Vivo Em Tóquio (Live in Tokyo)』として発表された。

 

 

1988~1992年、サルヴァドールの市議会議員を務める。

 

1992年、トゥーツ・シールマンスが発表した『The Brasil Project』に、ゲスト・ミュージシャンの一人としてジルも参加。

 

 

1993年、シールマンスの『The Brasil Project, Vol.2』に、再びゲスト参加。

同年、1990年代におけるトロピカリアの再評価を受け、ジルとカエターノ・ヴェローゾはコラボレーション・アルバム『Tropicália 2』を発表。両者の新曲の他、ジミ・ヘンドリックスのカヴァー“Wait Until Tomorrow”等を収録。

 

 

1994年6・7月、二人はアメリカやヨーロッパでもコンサート・ツアーを行った。
 

 

1996年4月、早い段階からインターネットに注目していたジルは、公式サイトを開設。

12月14日、ジルは自身のライヴをインターネットで同時中継するという、ブラジルのミュージシャンとしては初の試みを行った。

 

 

1997年、アルバム『クワンタ』(Quanta)をリリース。

 


1998年発表のライヴ・アルバム『Quanta Gente Veio Ver: Ao Vivo』は、グラミー賞の最優秀ワールド・ミュージック・アルバム部門を受賞、ジルにとって初のグラミー受賞作となった。

 

 

 

1999年、美術家のベネー・フォンテレスの監修により、ジルをモチーフとしたアート・ブック『GiLuminoso: A po.ética do Ser』が出版された。同書の付録CDは、ジルが自作曲のセルフ・カヴァーをギター弾き語りだけで録音した内容で、2006年には『Gil Luminoso』という単体のアルバムとして発売される。

 

 

2000年公開の映画『私の小さな楽園』(原題:Eu Tu Eles、監督:アンドルーチャ・ワディントン)の音楽を担当し、Cinema Brazil Grand Prizeの音楽賞にノミネートされた他、サウンドトラック・アルバムはラテン・グラミー賞のBrazilian Roots/Regional Album部門を受賞した。

 

同年、ミルトン・ナシメントとの連名によるアルバム『Gil e Milton』発表。2人はエリス・レジーナを介して1966年に知り合い、長年の友人だったが、公式のアルバムで共演したのは、この時が初めて。両者が共作した新曲、ビートルズやジョルジ・ベン等のカヴァーの他、互いの代表曲をカヴァーし合うという趣向も含まれている。

 


2001年、ラウラ・パウジーニのベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ラウラ・パウジーニ』に収録されている“Seamisai (Sei que me amavas)”(邦題:愛していればわかること)の新録ヴァージョンでは、ジルとパウジーニのデュエットがフィーチャーされた。

 

 

2002年、キングストンでレコーディングされたボブ・マーリーのトリビュート・アルバム『Kaya N'Gan Daya』を発表。同作にはアイ・スリーズやスライ&ロビー等がゲスト参加。

 


同年、ブラジル大統領に選出されたルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァによって、ジルは文化大臣に任命される。

 

 

2003年、正式に文化大臣に就任。政治家としては、インターネットの環境整備などに貢献した。

 

 

2004年、大臣としての仕事と並行して音楽活動も続けたジルは、ツアーの模様を収録したライヴ・アルバム『Eletrácustico』をリリース、これが大臣就任後としては初のアルバムとなったが、同アルバムは2006年の第48回グラミー賞において最優秀コンテンポラリー・ワールド・ミュージック・アルバム賞 を受賞した。

 

 

2007年、大臣就任後としては初の新曲“Banda Larga Cordel”の弾き語り映像をYouTubeにアップ。

 

 

2008年、“Banda Larga Cordel”の別ヴァージョンも含むアルバム『Banda Larga Cordel』を発表。

 

7月30日、ジルは、音楽活動が多忙になり文化大臣との両立が難しくなったという理由で、大統領に文化大臣辞任の意志を表明し、辞任を承認される。

9月、日本公演では、THE BOOMの宮沢和史がスペシャル・プレゼンターとして参加。

9月15日に「横浜赤レンガパーク」において行われたイベント「10,000SAMBA!〜日伯移民100周年記念音楽フェスタ〜」ではTHE BOOM等とともに“島唄”を歌った。



2015年末、第58回グラミー賞において最優秀ワールド・ミュージック・アルバム部門に『Gilbertos Samba Ao Vivo 』がノミネート。

 

 

2016年、第59回グラミー賞において最優秀ワールド・ミュージック・アルバム部門に『Dois Amigos, Um Seculo De Musica: Multishow Live』が再びノミネートされた。

 

 

2018年、アルバム『OK OK OK』をリリース。 

 

 

2022年、アルバム『Em Casa com os Gils』をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジルベルト・ジル」「Gilberto Gil」

 

 

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