ボブ・マーリー(Bob Marley/本名:Robert Nesta Marley OM/1945年2月6日~1981年5月11日)は、ジャマイカのシンガーソングライター、ミュージシャン。レゲエの先駆者の一人とみなされており、レゲエ、スカ、ロックステディの要素を融合した曲作り、滑らかで独特な歌声と宗教的・社会的な作詞スタイルで知られる。

 

 

1945年2月6日にジャマイカ、セント・アン教区(Saint Ann Parish)のナイン・マイルズ(Nine Mile)で、イギリス海軍大尉であり、ジャマイカ最大の建設会社「マーリー・アンド・カンパニー」を経営していた白人のノーヴァル・マーリー と、アフリカ系ジャマイカ人のセデラ・ブッカーとの間に生まれる。出生名はロバート・ネスタ・マーリー(出生名はネスタ・ロバート・マーリーで、1962年にパスポートを取得した際に改名したという説がある)。父親は61歳、母親は16歳だった。両親はボブの誕生後すぐに別れた。ノーヴァルは首都キングストンに住み、ボブはセデラとその家族とともにナイン・マイルズで幼少期を過ごした。

 

1951年、父ノーヴァルにより引き取られ、キングストンに住むマーリー家の友人である老婆の元に預けられる。ノーヴァルはボブを預けると、二度と姿を現さなかった。

 

1952年、行方知れずになっていたがセデラによって探し出され、ナイン・マイルズへ戻る。

ナイン・マイルズ近郊のステプニーでステプニー・オール・エイジ・スクールに通い、そこで後にザ・ウェイラーズをともに結成することとなるネヴィル・リヴィングストン(後のバニー・ウェイラー[Bunny Wailer])と出会う。この頃、歌を歌うようになったという。

 

1955年、ノーヴァルが70歳で死去。これによりセデラとボブは、マーリー家と完全に縁を絶つ。ボブは「父は自分と母を捨てた憎むべき男だ」「自分に父親はいない」という思いを胸に成長していった。この思いは彼が後にラスタファリ思想に傾倒していく一因にもなる。

同年、母セデラはボブを祖父のオメリア・マルコムに預け、職を求めてキングストンへ向かう。

 

1957年、ボブはセデラとともに、キングストン郊外のスラムのトレンチタウン(Trenchtown) の官営地に引っ越す。ボブたちが住む借地には、同じく引っ越してきていたバニー一家も住んでいた。二人は米国のラジオ局から放送される最新のR&Bや新しいスカ音楽などを聴き、音楽への探求を深めていく。

新しい学校にも通うようになり、ボブはこの頃から読書、特に聖書に親しんでいた。そして休み時間には友達とサッカーをしていたという。

 

1959年、クイーンズ・シアターのタレント・ショーで初めて大衆の前で歌を披露し、賞金1ポンドを獲得。「歌では食べていけない」と心配したセデラの勧めで溶接工の仕事に就く。しかし仕事中に金属片が目に入り込むケガを負ったことをきっかけに、夢だったミュージシャンを目指す決意を固める。セカンド・ストリートに住んでいたボブとバニーは、サード・ストリートに住むシンガーのジョー・ヒッグスが開く無料音楽教室に参加し、音楽的指導とラスタファリ運動の教えを受けた。その際にウィンストン・マッキントッシュ(ピーター・トッシュ)と出会う。

 

1961年、ボブは既に作曲を始めており、レスリー・コングのビヴァリーズ・レコードの店へ売り込みに行くも、門前払いを食らう。

 

1962年始め、再び店を訪ねオーディションを受け、自作曲“Judge Not”を披露。その後ビヴァリーズ・レコードから“Judge Not”と“Do You Still Love Me?”、“Terror”の3曲を発表、ボビー・マーテル(Bobby Martell)名義では“One Cup Of Coffee”の1曲を発表した。 

 

 

1963年、セデラがセカンド・ストリートの家を離れ米国へ行くと、ボブはトレンチタウンで路上生活をするようになった。この時の体験が1974年発表のアルバム『Natty Dread』収録の名曲“No Woman No Cry”を生んだ。

同年、ボブはバニー・ウェイラー、ピーター・トッシュ、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらとともに「ザ・ティーンエイジャーズ」を結成。彼らは後に名前を「ザ・ウェイリング・ルードボーイズ」、「ザ・ウェイリング・ウェイラーズ」と変更していくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサー、コクソン・ドッドと契約する頃、最終的に「ザ・ウェイラーズ」 (The Wailers) になった。

同年暮れにスタジオ・ワンから発表したシングル“Simmer Down”が、翌1964年2月にはJBC(ジャマイカ放送)などで1位を獲得、約80,000部を売り上げる大ヒットとなった。後にレゲエの象徴ともなる名曲“One Love”も、この時期にボブによってスカ・バージョンで作られた。1966年までにブレイスウェイト、ケルソ、スミスがザ・ウェイラーズを去り、ボブとバニー・ウェイラー、ピーター・トッシュの3人が残された。因みにボブに「タフ・ゴング」というニックネームがついたのはこの頃である。

 

 

1964年、祖父オメリア・マルコムが他界。農地の一部を相続する。

 

 

1965年、同じくスタジオ・ワンで活動していたグループ、ザ・ソウルレッツ(リタ・アンダーソンが在籍)の指導を任される。

同年後半、『ザ・ウェイリング・ウェイラーズ』(The Wailing Wailers)でウェイラーズがデビュー。代表曲“ワン・ラヴ”(One Love)が初出した。

 

 

1966年2月10日、リタ・アンダーソン(19)と結婚。

2月11日朝、職を求めてデラウェア州ウィルミントンに住む母セデラの下へ発つ。スタジオ・ワンでは曲がヒットしてもメンバーに金が入ってくることはほとんどなかったためであった。ドナルド・マーリーという名前でクライスラー社の自動車工場のライン工員、デュポン社の実験研究室の助手として働いた。また、駐車場の係員やレストランの皿洗い等のパートも経験したという。カトリック教徒として育ったボブだったが、セデラの影響から離れている間にラスタファリ運動への関心をさらに高めており、この頃からドレッドヘアにするため髪を伸ばし始めた。

ボブのいない約8ヶ月間、ザ・ウェイラーズは彼抜きで活動を続けた。

同年10月にキングストンへ戻った後、正式にラスタファリに改宗。

同年、デラウェア州での仕事で得た資金をもとに、バニー、ピーターとともに自らのレーベル「ウェイリン・ソウルム」(Wail 'n' Soul'm)を発足。しかし短期間で経営難になり、ウェイリン・ソウルムは業界から姿を消した。1968年までに“Bend Down Low”、“Mellow Mood”、“Nice Time”、“Hypocrites”、“Stir It Up”、“Selassie Is the Chapel”等が発表されている。

この頃ボブは、髪形をドレッドからアフロに変えている。

 

 

1967年、ボブとバニーが大麻不法所持で逮捕、投獄される。ボブは1ヶ月間、バニーは約12ヶ月間を獄中で送る。

1967年8月23日、リタがセデラ・マーリーを出産。ボブとリタは娘とともに1970年までセント・アンで暮らす。

 

 

1968年、ジョニー・ナッシュ、ダニー・シムズと契約する。ピーターが反ローデシア白人政権デモに参加し逮捕される。

同年10月17日、リタがデヴィッド・マーリー(ジギー・マーリー)を出産。

 

 

1969年、レスリー・コングの下で10曲レコーディング。これは後年アルバム『The Best of The Wailers』として発表、“Stop That Train”、“Soul Captives”、 “Cheer Up”等が収録されている。なお、メンバーは「そのアルバムタイトルは偽りだ」「もしリリースされるようなことがあれば、おまえは死ぬことになるだろう」などと言いアルバムの発表に反対していた(実際、彼は1970年に心臓発作で亡くなっている)。

同年春、家族と米国へ向かい秋まで再びデラウェア州で働く。この経験から “It's Alright”を作曲。1976年には同曲をアルバム用に作り直し“Night Shift”と改題した。

 

リー・ペリーとそのスタジオ・バンド「ザ・アップセッターズ」に出会い、1969年の後半から1970年にかけて数々のセッションを行い、“Duppy Conqueror”、“Small Axe”、“Corner Stone”、“Soul Rebels”、“Lively Up Yourself”、 “Kaya”、 “400 Years”、“Stand Alone”、“Sun is Shining”等をレコーディング。やがてザ・アップセッターズのメンバー、ベースのアストン・バレット(ファミリーマン)とドラマーのカールトン・バレット(カーリー・バレット)はザ・ウェイラーズのメンバーに加わり、バンドのサウンドに大きな変化をもたらした。

 

 

1970年12月、アップセッター・レコードから2ndアルバム『Soul Rebels』を「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ」名義で発表。同作品はジャマイカ国外で発売された1作目となった。

デラウェア州で稼いだ僅かな資金をもとに、キングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオおよびレーベル「タフ・ゴング」を設立。

 

 

1971年の始め(もしくは1970年の終わり)、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義でアルバム『Soul Revolution』を発表。

同じ頃、ジョニー・ナッシュとダニー・シムズに映画のサウンド・トラック制作に誘われスウェーデンへ。

同年春、ロンドンにてCBSで“Reggae On Broadway”などをレコーディング。

8月、ビヴァリーズ・レコードからアルバム『The Best of The Wailers』発表。

夏にタフ・ゴング・レーベルから発表した“トレンチタウン・ロック”(Trenchtown Rock)がヒット。

 

同年末、ジョニー・ナッシュの英国ツアーに参加。

暮れにCBSから“Reggae On Broadway”を発表するが、しかし不発に終わる。

 

 

1972年、クリス・ブラックウェルのアイランド・レコードと契約、アルバムのレコーディングを開始。ブラックウェルは「レゲエのリズムよりもゆったりと漂う催眠的な雰囲気」を望み、ボブのミックスとアレンジを再構築。ボブはロンドンへ赴き、ジャマイカ音楽の低音が効いた重たいサウンドのミックスを調整し、2トラックを省略する等、アルバムのオーバーダビングを監督。

 

 

1973年春、メジャー・デビュー・アルバム『キャッチ・ア・ファイア』(Catch a Fire)を発表。“コンクリート・ジャングル”(Concrete Jungle)、“Slave Driver”、 “Stir It Up”、“Kinky Reggae”、“No More Trouble”等を収録。

 

 

 

5月、英国のラジオ番組『トップ・ギア』にて演奏。

6月、厳格なラスタのバニーは適切な自然食を摂れない等の理由でツアー不参加を表明。

7月、バニーの代わりにジョー・ヒッグスを加え初のアメリカツアーを敢行。ニューヨークではブルース・スプリングスティーンの前座を務める。

10月19日、デビューアルバム発表から約半年後、2ndアルバム『バーニン』(Burnin')を発表、“ゲット・アップ・スタンド・アップ”(Get Up, Stand Up)、 “アイ・ショット・ザ・シェリフ”(I Shot The Sheriff)、“Burnin' And Lootin'”、 “Small Axe”、“Rastaman Chant”等を収録。

 

 

 

 

1974年1月、新メンバーを迎えアルバム『ナッティ・ドレッド』の録音を開始。

5月、マーヴィン・ゲイのジャマイカ公演でオリジナルウェイラーズが復活、最後の演奏。その直後タフ・ゴング・レーベルから発表した“Rebel Music (3 O'Clock Roadblock)”がヒット。

 

7月、エリック・クラプトンが“I Shot The Sheriff”をカヴァーし、全米1位を獲得。

10月25日、アルバム『ナッティ・ドレッド』(Natty Dread)をリリース、“Lively Up Yourself”、“ノー・ウーマン、ノー・クライ”(No Woman No Cry)、“Them Belly Full (But We Hungry)”、“Natty Dread”、“Talkin' Blues”等を収録。

 

 

 

 

 

1975年、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュが正式に脱退、メンバーを再編成してボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして再出発。

3月、ジャクソン5のキングストン公演で前座を務める。

8月27日、前年9月12日にクーデターにより軟禁されていたハイレ・セラシエ一世皇帝が他界。これを受けて“Jah Live”をレコーディングし発表、「Jahは生きている」というメッセージを送る。

 

10月11日、スティービー・ワンダーのジャマイカ盲人協会のための慈善コンサートに出演、アンコールでオリジナルウェイラーズが“Rude Boy”を演奏。

12月5日、7月19日のロンドン・ライシアム公演を録音した自身初のライヴ盤『ライヴ』(Live!)を発表。 アメリカでは、総合アルバム・チャートのBillboard 200で90位、R&Bアルバム・チャートで47位を記録。本作からは、“ノー・ウーマン、ノー・クライ”(No Woman No Cry)のライヴ・ヴァージョンが先行シングルとして発表されて、全英22位に達した。

 

 

 

1976年4月30日、アルバム『ラスタマン・ヴァイブレーション』(Rastaman Vibration)を発表、“Positive Vibration”、“Root, Rock, Reggae”、“Crazy Baldhead”、“Who The Cap Fit”、“ウォー”(War)、“イート・レース”(Eat Race)等を収録。政治闘争、軍拡競争を批判した“Rat Race”がジャマイカで大ヒットした。その背景に、マイケル・マンリー率いる人民国家党(PNP)と、エドワード・シアガのジャマイカ労働党 (JLP) による二大政党の対立激化があった。

 

 

 

 

 

スティービー・ワンダーの慈善コンそサートに参加して以来、自分達でも無料コンサートを開催したいと考えていたボブは、PNPに協力を呼びかけ、同年12月5日に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することを計画した。コンサートのために“Smile Jamaica”というタイトルの曲を二種類のバージョンで録音。このコンサートの趣旨は、「二大政党の対立により混迷するジャマイカに微笑みを与えよう」というものだった。しかし、コンサートが近づくにつれ、匿名の警告や脅迫が相次いだ。 

 

12月3日、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男による襲撃を受け、ボブは胸と腕を撃たれる。重傷の者もいたが、幸い死者は出なかった。

12月5日、コンサートに出演。約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開くことを二か月半前に決めた時、政治なんてなかったんだ!僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった。演奏の最後には、服をめくり被弾した胸と腕の傷を指さして観客に見せつけ、その場を去った。

翌日早朝、ジャマイカを発ちバハマへ。後にコンサートに出演した理由を尋ねられた時、「この世界を悪化させようとしているやつらは休みを取っていない。なのになぜ僕に休むことができるか?」と語った。

 

 

1977年1月、新ギタリストジュニア・マーヴィンを迎えロンドンでアルバム2枚分レコーディング。亡命生活を送っていたハイレ・セラシエの孫に家へ招かれ、皇帝の形見である指輪をもらい受ける。ボブはこれを生涯外すことはなかった。

同年、モデルで1976年度ミス・ワールドのシンディ・ブレイクスピアと交際を開始。

6月3日、アルバム『エクソダス』(Exodus)を発表、“エクソダス”(Exodus)、“ジャミング”(Jamming)、“ウェイティング・イン・ヴェイン”(Waiting in Vain)、 “スリーリトル・バーズ”(Three Little Birds)、“ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ”(One Love/People Get Ready)等を収録。ブルーズ、ソウル、ブリティッシュ・ロック等の要素を取り入れた本アルバムは、英国で56週間連続してアルバムチャートに留まった。“ワン・ラヴ/ピープル・ゲット・レディ”が全英2位・ニュージーランド1位になった他、“ジャミング”が全英9位、。

 

 

 

 

 

同年、ツアー中に足の親指を痛め、医師に悪性のメラノーマと診断される。親指を切断することを勧められたが、宗教的な理由でこれを拒否。代わりに爪と爪床が取り除かれ、腿から皮膚を移植。病気にもかかわらず彼はツアーを続けた。

 

 

1978年3月23日、アルバム『カヤ』(Kaya)をリリース、“Easy Skanking”、 “Kaya”、 “Is This Love”、“Satisfy My Soul”、“Running Away”等を収録。“イズ・ディス・ラヴ”(Is This Love)が全英9位になった。

 

同年、ジャマイカに帰国し、4月22日にキングストンで「ワン・ラブ・ピース・コンサート」に出演。 “Jamming”の演奏中、コンサートを観に来ていたマイケル・マンリーとエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。

6月15日、アフリカ諸国の国連代表派遣団から第三世界平和勲章を授与される。

7月21日、シンディがダミアン・マーリーを出産する。

11月10日、ライヴアルバム『バビロン・バイバス』(Babylon By Bus)を発表。

12月、かねてからの念願であったラスタファリズムの聖地、エチオピアを始めとするアフリカの国々を訪問。この時の体験をもとに次作アルバム『サヴァイヴァル』を制作している。 

 

 

1979年4月から、日本、オーストラリア、ニュージーランドで公演を行った。

7月21日、ボストンで黒人解放運動を支援するアマンドラ慈善コンサートに出演、南アフリカのアパルトヘイトに対する強い反対の意を示した。

この頃、シングル"ジンバブエ"(Zimbabwe)が大ヒット。

 

10月2日、アルバム『サヴァイヴァル』(Survival)をリリース、“So Much Trouble In The World”、"ジンバブエ"、“Africa Unite”、“Ride Natty Ride”、“Wake Up And Live”等を収録。ヒットシングルとなった"ジンバブエ"はジンバブエ独立宣言の直後、1980年のジンバブエ独立の祝典でも歌われ、非公式な国歌とまで捉えられている。また、アフリカのミュージシャンが次々と同曲のカヴァー・ヴァージョンを発表した。ボブの構想では本アルバムは、1980年の『アップライジング』および1983年の『コンフロンテイション』と合わせた三部作の第一作目として発表された。

 

 

11月13日、ガーナからアシャンティのオサヘネ(元は救世主の意)の称号を受ける。 

 

 

1980年1月4日、西アフリカのガボンを訪問、滞在中に初のアフリカでの公演を開催。

2月6日、自宅スタジオのあるホープロードの支援者やその子ども達を誕生パーティに招待。

4月17日、ジンバブエの独立式典に出席し演奏、群衆がなだれ込む程の騒ぎとなる。

5月30日、ヨーロッパ・ツアー開始。6週間の間に12ヶ国31都市で100万人を動員。

その後、マイアミで休養。

6月10日、アルバム『アップライジング』(Uprising)を発表、“Coming In From The Cold”、“Work”、“Zion Train”、“Could You Be Love”、“Redemption Song”等を収録。 

 

 

8月に体調を崩す。

9月16日ボストンからアメリカ・ツアー開始。

9月19日、マジソン・スクエア・ガーデンでコモドアーズとジョイント・コンサートを開催。

9月20日、体調を壊し休養。翌日、ニューヨークのセントラル・パークでジョギング中に倒れる。9月22日、脳腫瘍と診断される。

9月23日、ピッツバーグのスタンリー・シアターでラスト・コンサートを決行、“Get Up, Stand Up”でコンサートを終える。

脳にできていた腫瘍はやがて全身に転移し、手を付けられない状態まで悪化した。 

10月7日、ニューヨークで放射線療法を開始。

11月4日、母セデラや妻リタの勧めで、セラシエ皇帝が属していたエチオピア正教会の洗礼を受ける。洗礼名ベラーネ・セラシエ(三位一体の光の意)。

11月9日、西ドイツ(当時)の病院に移り自然療法を受ける。集中治療のため、ドレッド・ロック(髪型)も切り落としてしまう。

同月、エチオピアへ静養に出かける。

12月、再びドイツで治療を受ける。 

 

 

1981年4月、ジャマイカの名誉勲位であるメリット勲位が贈られる。

5月9日、チャーター機で母のいるマイアミに戻り、シダーズ・オブ・レバノン病院に入院。

5月11日、午前11時30分過ぎ、妻と母に見守られながら他界。息子ジギーへの最後の言葉は、「お金は命を買えない」だったという。最終的な死因は脳腫瘍と腫瘍の肺への転移によるものとされている。36歳没。

14日、マイアミの自宅で葬儀と追悼式が行われる。

19日、遺体がジャマイカに戻る。

21日、キングストンにて国葬。葬儀の前には、残されたザ・ウェイラーズのメンバーにより、“Rastaman Chant”、“Natural Mystic”が演奏された。葬儀は、エチオピア正教会とラスタファリの伝統の要素を組み合わせたものだった。その後、セント・アンの生家近くに、お気に入りのデニムジャケットに身を包み、元に戻されたドレッド・ロック、ギター、指輪、聖書とともに埋葬された。

 

 

1983年5月23日、アルバム『Confrontation』が発表される。“バッファロー・ソルジャー”(Buffalo Soldier)、“Chant Down Babylon”、“Blackman Redemption”、 “Stiff Necked Fools”、“Rastaman Live Up”等を収録。大ヒット曲“バッファロー・ソルジャー”(Buffalo Soldier)を含む未発表曲とジャマイカ産シングル曲を集めた、タフ・ゴングとアイランドのレーベルを超えた共同制作作品となっている。

 

 

 

 

1984年5月、ベスト・アルバム『Legend』がアイランド・レコードから発売、自身最大のヒット・アルバムとなる。これは史上最高の売上げを記録しているレゲエ・アルバムであり、2014年12月の時点で世界中で3,300万枚以上販売されている。2003年に『Rolling Stone』誌「史上最高500アルバム」に46位にランクイン、2012年の改訂リストでも評価を維持した。2020年1月現在、ビルボード200アルバムチャートで合計609週間チャートイン。これは史上2番目に長い記録である。現在も本アルバムは週に約3,000〜5,000部が売れている。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ボブ・マーリー」「Bob Marley」(英語版)