パティ・ペイジ(Patti Page/本名:Clara Ann Fowler/1927年11月8日~2013年1月1日)は、アメリカ合衆国の歌手。
1927年11月8日、クララ・アン・ファウラーは、アメリカ合衆国オクラホマ州クレアモア(Claremore, Oklahoma)で(同じ州のMuskogee出身とする資料もある)、男3人・女8人と11人の子どもがいる大家族に生誕。父は線路工夫として働き、母と姉妹は綿花摘みで生計を立てていたが暮らしは貧しく、後年彼女がテレビで語ったところによると、一家には電気もなく、日が暮れると本を読むこともできなかったという。
彼女はオクラホマ州マスコギーのフォレイカー、ハーディ、アバントで育ち、タルサのダニエル・ウェブスター高校に通い、1945年に卒業した。
ファウラーは、オクラホマ州タルサ(Tulsa)のラジオ局KTULでアル・クラウザーと彼のオクラホマ・アウトローズとともに歌手としてのキャリアをスタートさせた。
18歳の時、彼女は「ペイジ・ミルク・カンパニー」(the Page Milk Company)が提供する15分間のラジオ番組に出演し、注目を集めた。番組のスポンサーに敬意を表して、ファウラーは放送上で「パティ・ペイジ」(Patti Page)と呼ばれた。
1946年、サックス奏者でジミー・ジョイ・バンドのマネージャーでもあるジャック・リールがタルサにやって来た。ラエルはラジオでペイジの声を聞き、その声が気に入り、バンドに参加するよう誘った。ラエルはバンドを脱退し、ペイジの個人マネージャーとなった。
同年、ペイジはジミー・ジョイ・バンドとともに米国ツアーを行った。
1947年、バンドはシカゴへ旅行し、そこで彼女は人気オーケストラのリーダー、ベニー・グッドマン(Benny Goodman/1909年5月30日‐1986年6月13日)率いる小グループと歌った。これにより、ペイジはマーキュリー・レコードに採用され、彼女はマーキュリーの「少女歌手」となった。
同年、ペイジは“Confess”という、他の歌手との掛け合いパートを含む歌を録音した。ドリス・デイとバディ・クラークによるデュエットのバージョンでも知られる同曲の録音に際し、別の歌手を起用するだけの予算がなかったため、リールはペイジにこのパートも自身で歌うよう進言した。一つのレコードにて一人の歌手が二つのパートを歌うという目新しさも相まって、同曲は米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の総合シングルチャート「Hot 100」(以下「全米」)12位に入るヒットを記録した。
1948年、"So in Love"をリリース、全米13位。
同年、Vic Damoneとのデュエット・ナンバー"Say Something Sweet to Your Sweetheart"をリリース、全米23位をマークした。
5月、ペイジはウィスコンシン大学の学生ジャック・スキーバと最初の結婚をした。二人はニューヨークに移ったが、ペイジは1年以内にウィスコンシン州で無過失離婚を要求し、受け入れられた。
1949年、当時のマーキュリー・レコードではミッチ・ミラー(Mitch Miller/後にコロムビア・レコードで同社を1950年代のポピュラー音楽における支配的な地位にまで押し上げた手腕で知られる)がA&Rを務めていた。“Confess”の録音後、ペイジは一人での多重唱というアイディアがすっかり気に入り、一曲全てを四重唱として歌いたいと申し出た。ミラーはこれに懐疑的だったとされるが、最終的には許可し、ペイジ一人の四重唱により録音された“With My Eyes Wide Open I'm Dreaming”を発売、全米11位に達し、彼女にとって初のミリオンセールスを記録した。メアリー・フォード (Mary Ford) やジェイン・タージー (Jane Turzy) もこの手法を用いていたことが知られるようになったが、ペイジこそは一つの楽曲(“Confess”において)で多重録音の手法を用いた最初の歌手である。彼女のいくつかのレコードでは「Vocal by Patti Page, Patti Page, and Patti Page」とクレジットされており、特に「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」には「The Patti Page Quartet」と表記されている。
1950年、"I Don't Care If The Sun Don't Shine"をリリース、本曲は後の1954年、エルヴィス・プレスリーによりカヴァーされた。全米8位。
同年、ペイジが最初にヒット・チャートの1位を記録したのは、モーリス・ラヴェル(モーリス・ラヴェル/Maurice Ravel/1875年3月7日-1937年12月28日)のボレロを翻案した“All My Love”だった。本曲は5週間にわたり全米1位の座を維持した。
同年、彼女の最大のヒット曲“テネシーワルツ”(Tennessee Waltz)をリリース。本曲は同年に13週間にわたって1位の座をキープ、累計売上げ枚数は600万枚に達し、『ビルボード』誌のヒット・チャートで1950年代最大のヒットを記録した。
この年は他にも、"Back in Your Own Backyard"が全米23位に入った。
同年、セルフ・タイトルのアルバム『Patti Page』をリリース。
1951年、"Would I Love You (Love You, Love You)"をリリースすると全米4位をマーク、他にも、"Mockin' Bird Hill"が全米2位、"And So to Sleep Again"が全米4位、"Mister and Mississippi"が全米8位、"Detour"が全米5位、"Come What May"が全米9位、"Down the Trail of Achin' Hearts"が全米17位を記録するなど、この年は特にヒットを量産した。
また、彼女の楽曲にはロックンロールの前触れともいうべき強いビートの効いた作品も多く含まれており、この年にリリースした“Mister and Mississippi”や“Detour”、1954年の“Cross Over the Bridge”などがそうした例である。
1952年、"I Went to Your Wedding"が自身3曲目の全米1位を獲得、他に"Once in a While"が全米9位、"Why Don't You Believe Me"が全米4位、"Whispering Winds" が全米16位を記録した。
1953年、ペイジはボブ・メリル (Bob Merill) によるナンセンス・ソング“(How Much Is) That Doggie in the Window?”をリリースすると、自身4曲目となる全米1位を獲得、イギリスでもチャート9位に入る大ヒットを記録した。これはヴィクトリア期のイギリスで流行したヴォードヴィル風の笑劇に合わせて演じる形式の歌を翻案したもので、1952年に録音し、『ビルボード』誌だけでなく、同じアメリカの音楽誌『キャッシュボックス』誌でもチャート1位を獲得した。
同年は他にも、"Butterflies"が全米10位、"Changing Partners"が全米3位、"Now That I'm in Love"が全米18位、"Father, Father"が全米21位を記録した。
1954年、"Cross Over the Bridge"が全米2位、"Steam Heat"が全米8位、"What a Dream"が全米10位、"Let Me Go, Lover!"が全米8位をマークした。
1955年、"Go on with the Wedding"が全米11位、"Croce di Oro (Cross of Gold)" が全米16位になった。
1956年、"Allegheny Moon"が全米2位、"Mama from the Train"が全米11位をマークした。
10月、アルバム『マンハッタン・タワー』(Manhattan Tower)を発表、全米18位。
同年、アルバム『The Voices of Patti Page』をリリース。
同年、振付師のチャールズ・オカランと2度目の結婚。オカランは女優のベティ・ハットンと結婚していた。ペイジとオカランは息子のダニーと娘のキャスリーンを養子に迎えた。 彼らは1972年に離婚した。
1957年、"Old Cape Cod"が全米3位になったのをはじめ、"A Poor Man's Roses (Or a Rich Man's Gold)"が全米14位、"Belonging to Someone"が全米13位、"I'll Remember Today"が全米23位に達した。
1958年、"Left Right Out of Your Heart"が全米9位になったのをはじめ、"Another Time, Another Place"が全米20位、"Fibbin'"が全米39位に入った。
1960年、"One of Us (Will Weep Tonight)"が全米31位になった。
1962年、"Most People Get Married"が全米27位を記録した。
1963年にペイジはマーキュリー・レコードを去り、コロムビア・レコードに移籍。
5月に来日し、東京と大阪で日本初コンサートを行った。
1965年3月、アルバム『Hush, Hush, Sweet Charlotte』をリリース、同名の映画(邦題『ふるえて眠れ』)テーマ曲を収録。作中ではアル・マルティーノ(Al Martino/ 1927年10月7日-2009年10月13日)が歌唱しているが、ペイジ歌唱のヴァージョンもヒットした。全米27位。
4月、“Hush, Hush, Sweet Charlotte”をリカット、全米8位・AC2位。現在のところ彼女にとって最後の全米トップ10ヒットとなっている。
11月、アルバム『Christmas with Patti Page』をリリース、全米51位。
1967年、"Gentle on My Mind"が全米66位・カントリー7位を記録。
1968年、"Little Green Apples"が全米96位・カントリー12位に入った。ペイジの曲が全米シングル・チャートに入ったのは、これが最後となった。
1971年、ペイジはマーキュリーに戻った。
7月、アルバム『I'd Rather Be Sorry』をリリース、全米37位。
1973年、再びコロムビアに移籍して当時同社の傘下にあったエピック・レコードに録音した。
この年、彼女にとって最大のヒットとなったのは、トム T. ホール(Tom T. Hall)とデュエットしてカントリー14位に入った“Hello, We're Lonely”である。
1974・75年、ペイジは Avco Records にてレコーディングを実施。
1981年、Plantation Records にてレコーディングを行った。
同年、“No Aces"がカントリー・チャート39位、"A Poor Man's Roses (Or a Rich Man's Gold)"が同チャート66位に入った。
1982年、彼女の最新のビルボード誌へのチャート・インはカントリー部門で80位に入った“My Man Friday”である(ポピュラー部門では1968年に O.C.スミスのカバー曲である“Little Green Apples”でチャート・インしてのが最後、アダルト・コンテンポラリー部門では1971年の“Give Him Love”が最後である)。
1983年まで、ペイジはカントリー部門にチャート・インし続けた。
1988年、ペイジは約20年振りにニューヨークのボールルームに出演、パフォーマンスを行った。 彼女は音楽評論家から肯定的な評価を受けた。
1990年、ペイジはジェリー・フィリシオットと3度目の、そして最後の結婚を行った。夫妻はニューハンプシャー州バースのウッドヒルでザ・ファームという名前のメープルシロップ事業を経営し、カリフォルニア州ソラナビーチに居住していた。
1990年代、ペイジは自身のレーベル「C.A.F. Records」を設立。子ども向けアルバムを含むいくつかのレコードをリリースした。
1998年、グラミー賞の最優秀スタンダード歌手賞を受賞した。彼女の楽曲にはロックンロールの前触れともいうべき強いビートの効いた作品も多く含まれている。1951年“Mister and Mississippi”や1951年“Detour”、1954年“Cross Over the Bridge”などがそうした例である。
2000年7月26日、コンピレーション・アルバム『テネシー・ワルツ~ベスト・オブ・パティ・ペイジ』をリリース。
2001年1月16日、アルバム『Brand New Tennessee Waltz』をC.A.F./Goldからリリース。
2002年10月7日、アルバム『Sweet Sounds of Christmas』をリリース。
2007年、ヒット・パレードの殿堂に顕彰された。
彼女は晩年まで録音を続けていた。
2008年11月25日、Curb Records からアルバム『Best Country Songs』を発表、 “Home Sweet Oklahoma”でVince Gill とのデュエットを果たしている。
この頃、毎週日曜日のラジオ番組『Music of Your Life』の司会を務めた。
2009年4月18日、夫のフィリチョットが死去。
2012年9月まで、ペイジは精力的にツアーを続けた。
だが、その後健康上の理由で演奏活動からの引退を自身のウェブページで発表した。
2013年1月1日、パティ・ペイジの名で知られた偉大な歌手は、アメリカ合衆国カリフォルニア州エンシニータス(Encinitas, California)のシークレスト村退職者コミュニティ(the Seacrest Village Retirement Community)にて死去。85歳没。彼女は心臓と肺の病気を患っていた。
彼女はサンディエゴのエルカミーノ記念公園に埋葬された。
2013年2月10日、第55回グラミー賞で、功労賞が贈られた。
(参照)
Wikipedia「パティ・ペイジ」「Patti Page」
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