江利 チエミ(えり ちえみ/本名:久保 智恵美[くぼ ちえみ]/1937年1月11日~1982年2月13日)は、日本の歌手、俳優、タレント。

 

 

 

1937(昭和12)年1月11日、久保智恵美は、東京市下谷区(現:東京都台東区下谷)に3男1女の末娘として生まれる。
父:久保益雄は福岡県田川郡添田町の出身で、独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」に秀でた人だったと言われており、智恵美が生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業に所属していた。益雄はバンドマスターを経て吉本所属(東京吉本)の大スター、柳家三亀松(三味線漫談)の相三味線やピアノ伴奏を務める。この三味線も独学で習得したものだった。母はレビュー一座・東京少女歌劇出身の女優:谷崎歳子で、後に浅草の軽演劇の舞台に立ち、吉本興業に所属。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、智恵美を身ごもる頃より身体を壊し、一線から退いた。

 

1949(昭和24)年、12歳の頃、こうしたものを背負って、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚で智恵美の芸能活動がスタートすることになった。

「少女歌手・江利チエミ」のルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりは母親のなし得なかった「歌手になる」夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったことが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していた訳では無かった。かたや智恵美は、師匠の柳家三亀松と喧嘩別れで失職した父、病床で伏す母、また3人の兄をも背負っていた。長兄も陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かなかった。

 

1951(昭和26)年6月、母はチエミのデビューを待たずに他界した。

同年、日劇初出場。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智恵美は、ドリス・デイ(Doris Day/1922年4月3日-2019年5月13日)の“アゲイン”(Again)などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の「江利チエミ」はこの「エリー」から母が名づけた(以下「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる“テネシーワルツ”(Tennessee Waltz)のレコードを贈られる。この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションに悉く失敗。最後の頼みの綱であるキングレコードのオーディションに臨み、なんとかパスしたのだった。

 

1952(昭和27)年1月23日、チエミ15歳の時、自分の意志を貫き、“テネシーワルツ/カモナマイハウス(家へおいでよ)”でレコードデビュー。しかし吹き込みは前年11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案、だがチエミは「嘘をつくのは嫌だ!」と抗議した。少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持っていた。なお、“テネシーワルツ”は23万枚を売り上げた。

 

 

5月、続く“ツゥー・ヤング”(トゥー・ヤング)も15万枚の大ヒットとなった。クラシック音楽以外の全ての海外製ポピュラー音楽を総称して「ジャズ」と呼んだ当時、この一連の大ヒットが、大規模の劇場や公会堂を使ったジャズ・コンサート(ジャズ・コン)ブームや、ジャズを放送で取り上げる民間放送の開局ラッシュと重なり、ジャズが全国へ広がる上での牽引役となる。

 

同年、『猛獣使いの少女』で映画初主演、「美空ひばり(みそら ひばり/1937年5月29日-1989年6月24日)以来の天才少女」と呼ばれる。


1953(昭和28)年2月、“ガイ・イズ・ア・ガイ/ティー・フォー・ツー”を発売。

 

同年春には、招かれて米国のキャピトル・レコードで“Pretty-Eyed Baby / Gomenasai”(プリティ・アイド・ベイビー / ゴメンナサイ)を、A面は「Chiemi Eri」、B面は「Chiemi Eri And G. I. Joe」名義で録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成する。

 

ロサンゼルス等でステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演が成功、そこで合流したジャズ・ヴォーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」(Delta Rhythm Boys)とともに凱旋帰国、ジョイント・コンサートを各地で開き、チエミはジャズ・ヴォーカリスト・ナンバー1の地位を獲得。
同年4月、チエミの渡米中、ライバルとなる雪村いづみ(ゆきむら いづみ/1937年3月20日-)がデビューする。帰国チエミの第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だったという。しかもデビュー曲が自らカヴァーしようと準備していたテレサ・ブリュワー“想い出のワルツ”(Till I Waltz Again with You)だったので心中おだやかではなかったが、スカートの丈が合わずシミーズが少し出た背の高い痩せた少女:いづみが空港で出迎え、その屈託無い可憐な姿にチエミの心は和み、やがて2人は終生の親友となった。

6月、“思い出のワルツ/サイド・バイ・サイド”を発売。これ以降、録音・原盤制作に米アンペックス製テープレコーダーが導入される。音質の大幅な向上と、多重録音による二重唱が可能になった。

 

 

この頃、チエミのファンを自称する「Y子」と出会う。名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、様々な事情から母(チエミの実母:谷崎歳子)と幼くして生き別れになっていたが、ある日「スター歌手の江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知り、近づいた来たと言われる。

12月31日、『第4回NHK紅白歌合戦』に初出場、“ガイ・イズ・ア・ガイ”を歌唱した。「三人娘」の中ではチエミが一番早く紅白出場を果たした。

 

 

1954(昭和29)年8月、“ウスクダラ/夢みるあの人”を発売。

 

12月31日、『第5回NHK紅白歌合戦』に2年連続2回目出場、“ウスクダラ”を歌唱した。

 


1955(昭和30)年3月21日、ミュージカル映画『ジャズ娘乾杯!』に出演。

4月26日~5月6日、「チエミ海を渡る」と題する公演を実施、これが日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となる先駆けだった。その頃からチエミは、日劇をホームグラウンドとして活躍する。

元々、チエミの興行権を握っていたのは吉本興業だった。若き日の永島達司(ながしま たつじ/1926年4月26日-1999年5月2日/日本初のプロモーターで「ビートルズを呼んだ男」として知られる「キョードー東京」創設者)はある時、チエミの興行を打った会場で、「山口組の三代目(田岡 一雄[たおか かずお]/1913年3月28日-1981年7月23日)と吉本の林(正之助社長)さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと2人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。後に『夢のワルツ―音楽プロモーターが綴る“戦後秘史”50年』(著:内野二朗/刊行:講談社)の中で永島は、大物2人は文句を言うために来たが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と語っている。

6月、“裏町のお転婆娘/イスタンブール・マンボ”を発売。

 

11月1日、美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれたチエミは、一世を風靡、この日公開の『ジャンケン娘』をはじめ一連の映画で共演した。

11月、“ロック・アラウンド・ザ・クロック/スウィート・アンド・ジェントル”を発売。

 

12月31日、『第6回NHK紅白歌合戦』に3年連続3回目出場、“裏町のお転婆娘”を歌唱した。



1956(昭和31)年4月、“お転婆キキ/ババルー”を発売。

 

8月15日、映画『ロマンス娘』に三人娘で出演。

同年、東宝映画『チエミの婦人靴』に出演。

8月、EP(シングル)“ロック・アンド・ロール・ワルツ/ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー”を発売。

 

12月12日公開の映画『サザエさん』がヒットし、シリーズ化、全10作が作られた。後にテレビドラマ(1965年-1967年)、舞台化もされ、生涯の当たり役となる。

12月26日公開の東映映画『恐怖の空中殺人』に出演、高倉健と共演する。

12月31日、『第7回NHK紅白歌合戦』に4年連続4回目出場。雪村いづみが本番当日胃痙攣のために出場を辞退、急遽チエミがいづみの分も合わせて、出場者の印である赤い花を2つ胸に着けた。そして、自宅療養していたいづみからの「チー子がんばれ! テレビで観てる」との電報を読み上げた後、“お転婆キキ”を歌唱した。

 

 

1957(昭和32)年、日活映画『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)に出演。

この頃、ファンを自称してきたY子が異父姉であることを明かす。

12月31日、『第8回NHK紅白歌合戦』に5年連続5回目出場、“ヤムミー・ヤムミー”を歌唱した。

 

 

1958(昭和33)年1月、“ヤンミー・ヤンミー/キャリオカ”を発売。

 

7月、“君は我が運命/虹のかなたに”を発売、“虹のかなたに”は中村八大トリオ(中村八大、ジョージ川口、松本英彦)による伴奏。

 

11月、“さのさ/五木の子守唄”を発売。

 

12月31日、『第9回NHK紅白歌合戦』に6年連続6回目出場、“さのさ節”を歌唱した。

 

 

1959(昭和34)年2月16日、ゲスト出演した映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で高倉健(たかくら けん/1931年2月16日-2014年11月10日)と結婚、これを機に一旦は家庭に入る。

3月、“黒田節/おてもやん”を発売。

 

 

5月、LP『チエミのスタンダード・アルバム』を発売。

 

同年、チエミの付き人が辞めた時、Y子は「離婚して経済的に困窮している」と騙って家政婦兼付き人としてチエミと高倉との新婚家庭に入り込む。Y子はチエミの身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり経理を任されるまでになった。筋違いで異常な嫉妬心に駆られていたY子は、ここからチエミを陥れるべく犯罪的な行動をとり始めた。Y子は高倉健とチエミのそれぞれについてでっちあげの誹謗中傷を吹聴、ふたりを別居に追い込み離婚への足がかりを作った。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金を重ね、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論するとともに、チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露を展開。Y子はその後、失踪、自殺未遂騒動まで引き起こす。不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行だった。

12月31日、『第10回NHK紅白歌合戦』に7年連続回目出場、“八木節”を歌唱した。

 

 

1960(昭和35)年、チエミは本格的に仕事に復帰。

1月、“木遣くずし/八木節”を発売。

 

8月、LP『チエミ ラテンを歌う』を発売。

 

同年、東宝映画の『ふんどし医者』、『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)に出演した。

12月31日、『第11回NHK紅白歌合戦』に8年連続8回目出場、“ソーラン節”を歌唱した。

 

 

1961(昭和36)年には「歌手としてはじめて」の舞台の1か月座長公演を梅田コマ『チエミのスター誕生』で果たし、舞台女優としても活躍。

12月31日、『第12回NHK紅白歌合戦』に9年連続9回目出場、“スワニー”を歌唱した。

 

 

1962(昭和37)年、「スター誕生」で新宿コマの座長公演を初催行、芸術祭奨励賞を受賞した。以降1978(昭和53)年の「サザエさん」まで新宿コマでの座長公演が続いた。

同年、東映映画『ちいさこべ』に出演、京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得。

同年、結婚後3年が経ち、チエミは妊娠し子どもを授かるが、重度の妊娠高血圧症候群(この当時は「妊娠中毒症」と呼ばれていた)を発症、中絶を余儀なくされ、子宝には恵まれなかった。

12月31日、『第13回NHK紅白歌合戦』に10年連続10回目出場、“虹のかなたに”を歌唱した。


1963(昭和38)年には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演し、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞した。他に代表作には、『アニーよ銃をとれ』、『お染久松』(芸術祭奨励賞)、『芸者春駒』、『白狐の恋』(芸術祭優秀賞)、『春香伝』、『花木蘭』などがある。

5月、“涙のテネシー・ワルツ/スワニー”を発売。

 

12月31日、『第14回NHK紅白歌合戦』に11年連続11回目出場、“踊りあかそう”を歌唱した。

 

 

1964(昭和39)年3月、“踊りあかそう/すてきじゃない”を発売。

 

12月31日、『第15回NHK紅白歌合戦』に12年連続12回目出場、“木曽節”を歌唱した。

 

 

1965年(昭和40)年4月-11月、TBS『チエミ大いに歌う』に出演、ワンマンショウスタイルの先駆けともなった歌番組となった。

テレビドラマも『チエミの瓦版太平記』、『咲子さんちょっと』、『あの妓ちゃん』、『黄色いトマト』、『ねぎぼうずの唄』、『はじめまして』、『赤帽かあちゃん』など多数の作品に主演した。

12月31日、『第16回NHK紅白歌合戦』に13年連続13回目出場、“芸者音頭”を歌唱した。

 

 

1966(昭和41)年12月31日、『第17回NHK紅白歌合戦』に14年連続14回目出場、“私だけのあなた”を歌唱した。

 

 

1967(昭和42)年2月、“私だけのあなた/指おり数えて”を発売。

 

7月、“ひとり泣く夜のワルツ/愛する人へ”を発売。

 

12月31日、『第18回NHK紅白歌合戦』に15年連続15回目出場、“ひとり泣く夜のワルツ”を歌唱した。

 

 

1968(昭和43)年、ポリープによる声帯の手術を受ける。

9月、シングル“口づけをかえして/さよならは一度でいいの”を発売、“さよならは一度でいいの”(作詞:水垣洋子/作曲:江利チエミ/編曲:森岡賢一郎)では自身で作曲を手掛けた。

 

 

12月31日、『第19回NHK紅白歌合戦』に16年連続16回目出場、自身2回目となる“八木節”を歌唱した。当時の連続出場最多記録かつ史上最多出場記録となる16回目の紅白出場だったが、この年がチエミの生涯最後の紅白出演となった。

 

 

1969年4月、NHK総合『連想ゲーム』の「2代目紅組キャプテン」に就任、1970年3月までレギュラー出演した。

同年、「紅白に出場して欲しい歌手」上位3名に入っていたにもかかわらず落選し、大きな話題となる。チエミの落選理由は、前年までチエミは後半トップバッターを、島倉千代子は前半トリを、美空ひばりは紅組トリをそれぞれ務め、ベテラン歌手のバランスを保っていたが、同年の紅白ではひばりをトリから外し、紅組トリを新しい世代にバトンタッチする計画が浮上したことにあった。その場合、それまでトリを務めていたひばりは前半トリで歌い、それまで前半トリで歌っていた島倉を後半トップの位置にするのが妥当だと製作側は考え、それまで後半トップだったチエミが押し出される形になったことである。しかし、実際にはひばりは例年通り大トリを務め、島倉も前年までと同様に前半トリを務めた。
 

 

1970(昭和45)年1月21日、当時世田谷区瀬田(旧:玉川瀬田町)にあった高倉との邸宅を火災で焼失する。

同年、当初2年ぶりの紅白復帰出場が決まっていたが、チエミが自ら「ヒット曲がないから」「前年に比べて歌唱力は上達していません」等の理由により、敢えて紅白への出場辞退を表明、その後紅組の代替歌手として日吉ミミが初出場。現役歌手で紅白出場が決まりながらも辞退したのはチエミが史上初めてのことであったが、この他越路吹雪らも同回以降紅白を辞退することになる。


仕事では順調だったが、私生活の面では、先述の通り高倉との間に授かった子どもの中絶を余儀なくされ、自宅が焼失した他、3人の兄はチエミの存命中に2人が亡くなり、かわいがっていた甥の電車事故死、異父姉とのトラブル、そして離婚と、恵まれない部分も多かった。

 

 

1971(昭和46)年9月3日、異母姉Y子が引き起こした様々なトラブルの影響により、チエミから高倉に離婚を申し出て、離婚が成立。

 

 

1972年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇する(歌手・俳優の三田明も搭乗していた)等、芸能生活の華やかな栄光の陰で常に不幸もつきまとっていた。

 

 

1973(昭和48)年、チエミは異母姉Y子に纏わる諸問題について「責任は自分でとる」と決意し、断腸の思いで異父姉を横領罪で告訴。Y子は実刑判決を受け、塀の中へと収監される。そして、残された2億円とも4億円とも言われた動産の被害、不動産担保をチエミは地方営業などをこなしながら1人で完済した。

 

 

1974(昭和49)年9月、新曲“酒場にて”(作詞:山上路夫/作曲:鈴木邦彦/編曲:高田弘)が久しぶりにヒット、オリコン最高位22位ながらロングセラーとなる。これにより同年と翌1975年にも紅白への復帰が噂されたが、チエミは「もう紅白は卒業したので、一切登場は致しません」と、やはりNHKからの出演要請を頑なに拒んでいた。

 

同年、LP『黒髪』を発売。

 

 

1978(昭和53)年、松竹系の舞台でも、京都南座で音楽劇『二十四の瞳』に主演。

助演した舞台にも東宝歌舞伎『沓掛時次郎』(長谷川一夫と共演)、コマ歌舞伎『春夏秋冬』(現:坂田藤十郎(4代目)、当時の中村扇雀と共演)があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

 

 

1979(昭和54)年3月4日、テレビ朝日『象印クイズ ヒントでピント』第1回より「初代女性軍1枠キャプテン」として出演、6月17日(第16回)までレギュラーを務めた。

 


1982(昭和57)年2月13日午後、チエミが港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見され、既に呼吸・心音とも反応がなく死亡が確認された。45歳没。死因は、脳卒中と吐瀉物が気管に詰まっての窒息(誤嚥)によるものだった。チエミの死は、数日前から風邪を引き体調が悪かったところにウイスキーの牛乳割りをあおり、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ったことが一因とも言われている。その前日は、一昨日に行われた熊本での和服商社主催のイベントを終え帰京したばかりで、チエミが亡くなった当日の夜には、北海道の帯広市にてステージが組まれる予定が入っていた。

あまりにも突然過ぎる死に、チエミの親友だった「三人娘」のひばりといづみ、他にも清川虹子や中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣した。

 

2月16日、チエミの葬儀が行われた。その席でも、参列した親しい人たちは深い悲しみに暮れていた。同じく親友の杉も死の前年9月、杉が主演したドラマ『大江戸桜吹雪、八千両の舞』(日本テレビ)にチエミがゲスト出演していたことから、驚きを隠せなかったという。チエミの柩が玄関を出たこの日は、奇しくも最期まで愛し続けていた高倉との結婚の際に花嫁衣装を着て実家の玄関を出たのと同じ日、そして高倉の誕生日でもあった。その高倉もチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を贈り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという。

 

チエミが世を去る直前、2月8日にホテルニュージャパン火災、2月9日に日航機羽田沖墜落事故という2つの大惨事が立て続けに発生。当時の報道・マスコミは両事故で特別報道態勢を敷いており、テレビ各局は混乱に陥っていたためチエミの急逝のニュースはその直後には小さな扱いとなり、数日後には改めて追悼番組や特集などが組まれた。
 

 

同年3月3日、チエミの死去から数週間後、仕事関係者らによるチエミの音楽葬が行われた。

「エリー」「チーちゃん」という愛称が定着している他、親しい友人の間では「ノニ」と呼ばれていた。杉良太郎や、雪村いづみが歌番組でチエミとの思い出を述懐するところによると、チエミが語尾に「のに」とつける口癖からつけられたという。


墓所は、東京都世田谷区瀬田一丁目にある浄土宗の法徳寺にある。

葬儀には姿を現さなかった高倉だが、離婚後も再婚をせず終生独身を通し、チエミの命日には毎年墓参りを欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていたという。

 

 

 

チエミの楽曲はジャズ・ポップスを皮切りに、民謡・歌謡曲・ミュージカルなど、ライバルの美空ひばりと同様に幅広いジャンルをこなす、レパートリーの多さも特長的だった。

江利チエミの幅広い楽曲を収めているのは、2枚組のこれ。

 

 

また、ジャズや民謡など、ジャンルに特化したベストアルバムもリリースされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「江利チエミ」

 

 

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