ベニー・グッドマン(Benny Goodman/本名:Benjamin David Goodman/1909年5月30日~1986年6月13日)は、アメリカ合衆国のクラリネット奏者、バンドリーダー。スウィング・ジャズの代表的存在として知られる。

 

 

 

1909年5月30日、ベンジャミン・デイヴィッド・グッドマンは、貧しいロシア系ユダヤ移民である縫製職人の家の九男としてシカゴに生まれ、「ハル・ハウス」という福祉施設で教育を受ける。さらに地元の音楽教室で無償の音楽教育を受け、10歳の頃には元シカゴ音楽大学教師、フランツ・シェップからクラリネットの手ほどきを受けた。グッドマンは11歳の時に演奏家としてデビューする。

1923年、コルネット奏者のビックス・バイダーベックと共演。

1925年、ベン・ポラック楽団(the Ben Pollack Orchestra)に参加。

17歳の時、彼の父親は路面電車を降りた後、通りかかった車にひかれて死亡。父の死は「私たちの家族でこれまでに起こった中で最も悲しいこと」だった、とグッドマンは言った。

1928年、本拠地をニューヨークへ移す。

1929年、楽団から離れてソロ活動を始めた。

1932年、自分の楽団を結成し、NBCラジオに定期的に出演。


グッドマンはリベラル派としても知られ、人種差別が激しかった時代にテディ・ウィルソン(Teddy Wilson/1912年11月24日-1986年7月31日)、ライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton/1908年4月20日-2002年8月31日)、チャーリー・クリスチャン(Charlie Christian/1916年7月29日-1942年3月2日)などのアフリカ系ミュージシャンを積極的に雇用した。大編成のグッドマン楽団の他、彼らを起用したトリオ、カルテット、セクステットといった小編成のグループでも演奏活動を行った。

 

 

1935年のロサンゼルスの有名なダンスホール「パロマー・ボールルーム」(Palomar Ballroom)での大成功をきっかけに全米での人気を獲得。

同年、『Benny Goodman Trio and Quartet Sessions』をリリース。

 

同年、“君去りし後”(After You've Gone)を録音。

 

同年、“グッドバイ”(Goodbye)の楽譜が出版。その後、ゴードン・ジェンキンスが歌詞を付けた。

 

 

1936年、“サヴォイでストンプ”(Stompin' at the Savoy)を発表。この曲のクレジットは、ベニー・グッドマン、チック・ウェッブ、エドガー・サンプソン、アンディー・ラザフの連名になっているが、実際に作曲したのはウェッブの楽団のサクソフォーン奏者サンプソンであった。ウェッブとグッドマンはそれぞれインストゥルメンタル曲としてこれを録音し、グッドマンのものが最大のヒットとなった。歌詞は、人気作詞家であったアンディー・ラザフによって後から追加されたものである。

 

 

1937年、ブダペスト四重奏団とともにモーツァルトの『クラリネット五重奏曲』をSP録音。

同年公開の映画『聖林ホテル』(Hollywood Hotel)に、全盛期のベニー・グッドマン楽団の演奏シーンがある。

 

 

1938年1月16日にはカーネギー・ホールで最初のジャズ・コンサートを行い、スウィングの王様(King of Swing)と称されるに至る。この時の模様はライヴ盤としてリリースされた。この際に演奏されたジーン・クルーパの原始的で力強いドラミングから始まる“シング・シング・シング”(Sing Sing Sing)はグッドマンの代名詞的なナンバーとなり、日本映画『スイングガール』でも印象的に使われたスイング・ジャズの代表曲だが、彼の演奏は実はカヴァーで、オリジナルは1936年にニューオリンズ・ギャングがリリースしたもの。他に“アヴァロン”(Avalon)など、名演も多い。

 

 

 

同年、『From Spirituals to Swing』をリリース。

 

 

1939年、ライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)とチャーリー・クリスチャン(Charlie Christian)とともに“あなたの思い出”(Memories of You)を録音。

 

 

1940年、“いい娘をみつけた”(I've Found a New Baby)を発表。この時のベニー・グッドマン楽団とのチャーリー・クリスチャンのギター・ソロは、ギター奏者が録音したとりわけ影響力のあるソロであると認められている。

 

 

1941年、ペギー・リーがオーディションを経てグッドマン楽団の専属歌手となる。

 

 

1943年公開のミュージカル映画『ステージドア・キャンティーン』(Stage Door Canteen)と『バズビー・バークリーの集まれ!仲間たち』 (The Gang's All Here)に、ベニー・グッドマン楽団が出演。

 

 

1948年、映画『ヒット・パレード』(A Song Is Born)が公開、グッドマンは「メイゲンブラック教授」役で出演した。

 

 

リベラル派のグッドマンは、ジョセフ・マッカーシーによるハリウッド10への赤狩りに反対したことでも知られている。俳優が中心だった同反対運動で、ジャズ音楽家としては数少ない勇気ある人物だった。
 


1956年2月2日、グッドマンの前半生を描いた映画『ベニイ・グッドマン物語』(The Benny Goodman Story)が公開された。グッドマン役は当時彼のそっくりさんとして有名だったテレビ司会者のスティーヴ・アレンが務め、ジーン・クルーパ、ハリー・ジェイムス、ライオネル・ハンプトン等有名ミュージシャンたちが本人役を演じた。同時にサウンドトラックもグッドマン楽団の演奏でデッカ・レコードから発売されたが、グッドマンはこの時の演奏が気に入らず、キャピトル・レコードで全く同じ選曲のアルバム『The Benny Goodman Story』を録音した。

 

 

 

同年、シャルル・ミュンシュによる指揮で、ボストン交響楽団とモーツァルトの『クラリネット協奏曲』や『クラリネット五重奏曲』をクラリネット奏者として共演。グッドマンのクラシック演奏活動の総決算とも言える一枚。

 



グッドマンはクラシック音楽の分野でも活躍し、モーツァルトのクラリネット協奏曲やクラリネット五重奏曲(ボストン・シンフォニー四重奏団との共演)などの録音の他、当時の現代作曲家バルトーク(Bartók Béla/ 1881年3月25日 - 1945年9月26日)とも親交があり、グッドマンに献呈された『ヴァイオリンとクラリネットとピアノのためのコントラスツ』は、作曲者及び同時に献呈を受けたヴァイオリニストのシゲティとの録音が残されている。他にもアーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900年11月14日 - 1990年12月2日)が彼のためにクラリネット協奏曲を作曲したほか、レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918年8月25日 - 1990年10月14日)とも共演している。

 

 

1957年、『Peggy Lee Sings with Benny Goodman』をリリース。

 

 

 

 

1960年に彼はニューヨーク市のルウィソーンスタジアムで指揮者アルフレッドアントニーニとモーツァルトのクラリネット協奏曲を演奏した。

 

 

1970年代初頭、ジョン・ハモンドへのPBSトリビュートを録音した際、グッドマンはジョージ・ベンソンと出会い、後にベンソンはグッドマンのアルバム『Seven Come Eleven』に出演、チャーリー・クリスチャンとグッドマンのデュエットの一部を再現した。

 

 

 

晩年は健康が芳しくない中、それでも活動を続けた。

 

 

1986年6月7日、生前最後となるコンサートを開催。

 

1986年6月13日、グッドマンは、マンハッタン・ハウスにある自宅アパートで昼寝をしている時に心臓発作で亡くなった。77歳没。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ベニー・グッドマン」「Benny Goodman」

 

 

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