デューク・エリントン(Duke Ellington/出生名:Edward Kennedy Ellington/1899年4月29日~1974年5月24日)は、アメリカ合衆国のジャズの作曲家、編曲家、ピアノ奏者、オーケストラ・リーダー。

 

 

 

1899年4月29日、エドワード・ケネディ・エリントンは、合衆国の首都ワシントンD.C.で生まれる。父親は、著名な白人医師ミドルトン・カスバートの執事であり、時々ホワイトハウスへの仕出し業も行っていた。

母親デイジーは息子にマナーを躾け、優雅さを教えた。彼の幼なじみ達は、エリントンのマナーとダッパードレスが彼を若い貴族のような雰囲気を醸していることに気づき、やがて彼らはエリントンを「デューク」と呼び始めた。

7歳でピアノのレッスンを受け始める。

 

1914年の夏、プードル・ドッグ・カフェでソーダ・ファウンテンの売り子として働いていた時、エリントンは最初の曲“ソーダ・ファウンテン・ラグ”(Soda Fountain Rag)を書いた。“プードル・ドッグ・ラグ”(Poodle Dog Rag)としても知られるこの曲を書いた時はまだ音楽の読み書きを学んでいなかったので、エリントンは耳で作品を作成させた。

 

 

ハイスクールでは校内のパーティでピアニストとして活躍する。

同時期に音楽教師から高度な作曲理論を学ぶ。自身の音楽に対する勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまったと回想している。

 

1916年、ピアニストとしてデビュー。

その後ニューヨークに進出。

1927年、ニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにて高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」経営者オウニー・マドゥンとバンドとして契約。マドゥンの考え方は、コットン・クラブの客は全員裕福な白人、演奏するのは黒人ジャズメンというものだった。

同年、"East St. Louis Toodle-Oo"がアメリカの音楽誌『ビルボード』のシングルチャート「Hot 100」(以下「全米」)で10位に入った。

 

        
1928年、"Black and Tan Fantasy"が全米15位に達した。


エリントンの楽団は、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、フレッチャー・ヘンダーソン、スタン・ケントンらの楽団とともに、一大スウィング・ブームを巻き起こした。

彼はまた、1930年代から第二次世界大戦後にかけて、多くのジャズ・スタンダードとなる名曲を世に送り出した。

 

 

1930年8月26日、ビング・クロスビーを含むリズム・ボーイズがデューク・エリントン・オーケストラを伴い"Three Little Words"(作曲:ハリー・ルビー/作詞:バート・カルマー)を録音、レコードをリリースすると全米1位を獲得した。

 

 

1931年、"スイングしなけりゃ意味ないね"(It Don't Mean a Thing [If It Ain't Got That Swing])をアーヴィング・ミルズが作詞、エリントンが作曲した。翌1932年に録音、レコード発売され、全米6位になった。

 

同年、"Mood Indigo"が全米3位になる。

 

 

1932年、“ソフィスティケイテッド・レディ”(Sophisticated Lady)をエリントンが作曲。翌1933年に録音し、レコード化され、全米3位に達した。

 

同年、“ロッキン・イン・リズム”(Rockin in Rhythm)を作曲。

 

 

1934年、“ソリチュード”(Solitude)が、エリントンによる歌詞と、エディー・ディレンジとアーヴィング・ミルズによる作曲で発表、全米2位になった。何度もレコーディングされており、ジャズ・スタンダードのひとつとして知られている。

 

同年、"Cocktails For Two"が全米1位を獲得。

 

 

1935年、“キャラバン”(Caravan)を、エリントンと、エリントン楽団のトロンボーン奏者ファン・ティゾールが作曲。1937年にはアーヴィング・ミルズによって歌詞がつけられた。非西洋の音階を取り入れたメロディと、4ビートに準拠しない激しいリズムが特徴で、アフロ・キューバン・ジャズの代表曲とされる。  エリントン自身お気に入りの曲で、何度も再録音している。また、ジャズ以外の分野でもスタンダード・ナンバーとなっている。

 

同年、“イン・ア・センチメンタル・ムード” (In a Sentimental Mood)を作曲。全米14位。後にマニー・カーツによって歌詞が追加され、歌曲としても親しまれている。

 

 

1938年、後にジャズ・スタンダードのバラードとして親しまれる“プレリュード・トゥ・ア・キス”(Prelude to a Kiss)をエリントンが作曲、歌詞はアーヴィング・ゴードンとアーヴィング・ミルズが担当している。

 

同年、"I Let a Song Go Out of My Heart"が全米1位を獲得した。

 

 

1939年、エリントンが自身の楽団のピアニスト兼作編曲者であったビリー・ストレイホーン(Billy Strayhorn/1915年11月29日~1967年5月31日)に作詞作曲をオーダーしてできたのが、“A列車で行こう” (Take the 'A' Train) である。1941年2月15日にエリントン楽団の演奏でレコードが発売され、全米11位と大ヒット。以来、エリントン楽団のテーマ曲として広く知られている。エラ・フィッツジェラルドとの競演でも名高く、エリントンを、そしてジャズを代表する一曲である。

 

 

1940年、“コットン・テール”(Cotton Tail)をエリントンが作曲。ジョージ・ガーシュウィンの“アイ・ガット・リズム”を参考にリズムチェンジを行った。同年5月4日に行われた最初のエリントンの録音では、彼のオーケストラに参加していたベン・ウェブスターのテナーサックスソロが話題を呼んだ。もともとインストルメンタルだった楽曲だが、後にエリントン自身が歌詞も書いている。その後、1940年の録音に基づき、ジョン・ヘンドリックスが歌詞を追加し、ヴォーカリーズ・トリオ「ランバート、ヘンドリックス&ロス」(Lambert, Hendricks & Ross)によって録音された。

 

 

1941年、“シングス・エイント・ホワット・ゼイ・ユーズド・トゥ・ビー”(Things Ain't What They Used to Be)を、息子のマーサー・エリントン(Mercer Kennedy Ellington / 1919年3月11日~1996年2月8日)が作曲し、テッド・パーソンズ (Ted Persons) が作詞した。同年に初演され、翌1942年にレコード発売されたジャズ・スタンダードの楽曲だが、恐らくマーサーが思いついたメロディを基に、父デュークが楽団用の編曲を施した、という説が最も有力だとジャズ・ミュージシャンでジャズ史研究者でもあるクリス・タイルは語っている。インストゥルメンタルで演奏されることが多く、また日本では“昔はよかったね”の邦題で取り上げられることが多い。

 

12月3日、“パーディド”(Perdido)がエリントンによって録音された。作曲はフアンティゾル。しかし、オリジナルの録音と見なされるのは、1942年1月21日、ティゾールがメンバーであったエリントンオーケストラによるビクターレーベルでの曲のレコーディング。1944年、アービン・ドレイクとハンス・レングスフェルダーがこの曲の歌詞を書くために雇われた。「Perdido」はスペイン語で「失われたこと」を意味するが、「ずさんな」または「下品」の意味もある。本曲は、ニューオーリンズのペルディードストリートを指している。

 

 

1942年、“Cジャム・ブルース”(C Jam Blues)をエリントンが作曲。他のミュージシャンによって数多く演奏され、ジャズ・スタンダードとなる。

 

 

1943年、エリントン自作の"Don't Get Around Much Anymore"が全米8位・米誌『ビルボード』「R&Bシングルチャート」(以下「R&B」)1位になった。また、"A Slip of the Lip"と"Sentimental Lady"がともに全米19位・R&B1位になった。

 

 

 

 

1944年、"Do Nothin' Till You Hear From Me"が全米10位・R&B1位、"Main Stem"が全米23位・R&B1位に達した。

※"Do Nothin' Till You Hear From Me"の映像は、エリントンとフィッツジェラルドが『エド・サリバン・ショー』で共演した際の物のようである。

 

 

 

1945年、"I'm Beginning To See the Light"が全米6位・R&B4位を記録した。

 

 

1952年、ビッグバンド編成で録音したアルバム『ハイ・ファイ・エリントン・アップタウン』(Hi-Fi Ellington Uptown)をリリース、“A列車で行こう”などを収録している。ビッグバンド・リーダーとしてのエリントンが聴ける一枚。

 

 

1953年、“サテン・ドール”(Satin Doll) を、エリントンとビリー・ストレイホーンが作曲し、ジョニー・マーサーが作詞した。書かれたこの年にエリントン楽団によってインストゥルメンタル曲として録音された後、ジョニー・マーサーが歌詞を載せた。以降、エラ・フィッツジェラルド、101ストリングス・オーケストラ、テリー・キャリアー(英語版)、ナンシー・ウィルソンなどによって取り上げられた。この曲のポピュラー和声としてのコード展開は変わったものであり、冒頭部ではii-V-I 進行(英語版)が用いられている。エリントンは、多くのコンサートで、最後の曲として“サテン・ドール”を用いていた。

 

 

1954年、"Skin Deep"が全英シングルチャートで7位にランクイン。

 

 

1959年7月1日、映画『或る殺人』(Anatomy of a Murder)が公開。本作品は第32回アカデミー賞6部門にノミネートされた他、多数の映画賞を受賞したが、第2回グラミー賞において「映画・テレビサウンドトラック部門」など音楽関連3部門を受賞するなど、エリントンが果たした功績も大きかった。なお、これを含めてエリントンは、合計9回グラミー賞を獲得している。

 

同年、アルトサックス奏者のジョニー・ホッジス(Johnny Hodges/1906年7月25日~1970年5月11日)との共同名義でアルバム『サイド・バイ・サイド』(Side by Side)と『バック・トゥ・バック』(Back to Back)を続けてリリース。

 

 

 

1962年、チャールズ・ミンガス(B)とマックス・ローチ(Ds)とのトリオで録音したアルバム『マネー・ジャングル』(Money Jungle )をリリース。リズム隊と繰り広げるピアニスト・エリントンの演奏能力の高さと幅の広さを堪能できる一枚。

 

 

 

1963年1月、モダンジャズを代表するサックスプレーヤーであるジョン・コルトレーン(John Coltrane/1926年9月23日~1967年7月17日)と共同名義で『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』(Duke Ellington & John Coltrane)をリリース。

 

 


1964年に新潟市で新潟地震が発生した際に日本公演を行っていた。地震の被害を知ったエリントンは次に予定されていたハワイ公演の予定をとり消して東京厚生年金会館にて震災に対する募金を募ったコンサートを開催した。その後コンサートの純益である96万円が新潟市に贈られた。

 

 

1966年、再来日した際には新潟市より国際親善名誉市民の称号が贈られた。

6月、アルバム『極東組曲』(The Far East Suite)をリリース。「極東」と言いながら、日本を含めたアジアの広域についてエリントンが解釈した音楽で、 第10回グラミー賞受賞作品。この後、タイトルに「組曲」(Suite)を付けた作品をいくつか発表する。

 

 

同年、ベスト盤的な選曲のアルバム『ザ・ポピュラー・エリントン』(The Popular Duke Ellington)をRCAから発売。ただし、企画もののベストアルバムではなく、アレンジ等に変更を加えているセルフカヴァー的内容の公式アルバムである。収録曲は、1“Take the "A" Train”、2“I Got It Bad (And That Ain't Good)”、3“Perdido”、4“Mood Indigo”、5“Black and Tan Fantasy”、6“The Twitch”、7“Solitude”、8“Do Nothin' 'Til You Hear from Me”、9“The Mooche”、10“Sophisticated Lady”、11“Creole Love Call”、12“Caravan”、13“Wings and Things”、14“Do Nothin' 'Til You Hear from Me”。

 

 

1969年、功績が認められ、ニクソン大統領からアメリカ自由勲章が授けられた。

 

 

1970年、アルバム『ニューオーリンズ組曲』(New Orleans Suite)をリリース。

 

 

1972年、アルバム『ラテン・アメリカ組曲』(Latin American Suite/1968年~1970年録音)をリリース。

 

 

 

1973年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授けられている。

同年、アルバム『デュークス・ビッグ4』(Duke's Big 4)をリリース。

 


1974年5月24日、肺癌と肺炎の合併症によりニューヨークにて死去、75歳の誕生日を迎えた数週間後のことだった。

セント・ジョン・ザ・ディバイン大聖堂で12,000人を超える人々が出席した彼の葬式で、エラ・フィッツジェラルドは「とても悲しい日です。天才は過ぎ去りました。」と語った。彼はニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地に埋葬された。マイルス・デイビスなども後に同じ墓地に埋葬された。

 

同年、エリントンの死後1ヶ月も立たないうちに、彼からの影響を公言し、敬愛の意を表して止まないマイルス・デイヴィスが“He loved him madly”という追悼曲を作り録音、自身のアルバム『ゲット・アップ・ウィズ・イット』(Get Up With It)の1曲目に収録して発表した。

 


1976年9月28日、スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder)がリリースした18枚目のオリジナル・アルバム『キー・オブ・ライフ』 (Songs in the Key of Life)に、自身が影響を受けたエリントンについて歌った“愛するデューク”(Sir Duke)を収録。同曲は翌1977年3月22日にシングルとしてリカットされ、米誌『ビルボード』の全米1位、全英シングルチャートで最高位2位を記録した。

 

同年、アルバム『女王組曲』(The Ellington Suites/1959年~1972年録音)をリリース。

 

 


エリントンが亡くなった後も、エリントンの楽団は存続しており、2008年にも日本公演をしている。

 

 

2009年、コロンビア特別区から、エリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行される。アフリカ系アメリカ人がアメリカの硬貨に描かれた最初の例となった。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「デューク・エリントン」「Duke Ellington」

 

 

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