ビリー・ギボンズ(Billy Gibbons/出生名:William Frederick Gibbons/1949年12月16日~)は、アメリカ合衆国のロック・ミュージシャン。ZZ トップのギタリストおよびメイン・ヴォーカリスト。

 

 

 

1949年12月16日、ウィリアム・フレデリック・ギボンズは、アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン(Houston, Texas)のタングルウッド地区で、フレデリック・ロイヤル (「フレディ」) とロレイン (旧姓ダフィー) のギボンズ夫妻に生まれた。父はエンターテイナー、オーケストラの指揮者、コンサート・ピアニストであり、2番目のいとこでアート・ディレクターのセドリック・ギボンズとともにMGMスタジオのサミュエル・ゴールドウィンのために働いていた。

 

5歳の時、母はギボンズと妹を連れてエルヴィス・プレスリーに会いに行った。

7歳の時、父はギボンズをB.B.キングのレコーディング セッションに連れて行った。

最初は打楽器奏者だったギボンズは、父親からニューヨーク市に送り込まれ、ティト・プエンテに師事した。

 

1962年、ギボンズは13歳の誕生日に続いて最初のエレクトリック・ギターをプレゼントされた。サンバーストのギブソン・メロディーメーカーとフェンダー・チャンプ・アンプをセットで贈られた彼は、ジミー・リード等のギタリストの影響を受けた。

カリフォルニア州ハリウッドのワーナー ブラザーズ アート スクールに通いながら、ギボンズはセインツ、ビリー G & ザ・ブルーフレイムス、コーチメンなどの最初のバンドに参加した。

18歳までに、ギボンズは友人であり仲間のミュージシャンであるロッキー・エリクソンと、「13thフロア・エレベーターズ」(The 13th Floor Elevators)に概念的に触発された芸術的にデザインされたバンドを結成し、グループを「ムービング サイドウォーク」(The Moving Sidewalks)と名付けて活動、シングル“99階”がヒット。

 

また、バンドはジミ・ヘンドリックスの前座を担当したこともあり、その際、ジミに「アメリカで最高の若手ギタリスト」と称され、ピンクのストラトキャスターを贈られるなど、ヘンドリックスと友情を結んだ。

 

 

1969年、ビリー・ギボンズは、それまでサイケデリック・ロック・バンド「American Blues」に在籍していた旧知のダスティ・ヒル(Dusty Hill/ B,Key,Vo)とフランク・ベアード(Frank Beard/Ds)とともに、3ピース・バンド「ZZ Top」(ジー・ジー・トップ)を結成。ギボンズはヴォーカルとギターを担当した。

同年、"Salt Lick"をリリースしてデビュー。

 

 

1971年1月16日、1stアルバム『ZZトップ・ファースト・アルバム」(ZZ Top's First Album)をリリース。

 

バンドは結成当初、ブルーズに根ざしたサウンドで、ブルーズマン達と一緒にツアーで周ることもあった。その頃、マディ・ウォーターズらと楽屋裏でポーカーをした逸話が残っているが、必ずマディの傍らにはピストルが置いてあり、それが怖かった、と回想している。

 

 

1972年4月4日、2ndアルバム『リオ・グランデ・マッド』(Rio Grande Mud)をリリース、当初は輸入版のみ。米音楽誌『ビルボード』(Billboard)「ポップアルバムチャート」(以下「全米」)104位。ここからカットした"Francine"が『ビルボード』誌の総合シングルチャート「Hot 100」(以下「全米」)で69位になった。

 

 

1973年7月26日、3rdアルバム『トレス・オンブレス』(Tres Hombres)を発表、全米8位に達し、翌1974年にはゴールドディスクに輝いた。シングルカットされた“ラ・グランジェ”(La Grange)が全米41位をはじめ豪州やカナダでチャート入りするヒットに。それまでの精力的なライブ活動と、ローリング・ストーンズやディープ・パープル、ジャニス・ジョプリンなど数々の大物の前座経験がセールスに繋がったとされている。また、この頃から全米に名の知られるところとなり、コンサートの規模や観客動員数で記録を樹立して行く。トラック数台分に及ぶ膨大なステージセットを携え全米を回り、ステージに本物の蛇を持ち込むなど、ライヴ・パフォーマンスも大きな話題を呼んだ。このアルバムに収録された“Beer Drinkers & Hell Raisers”におけるギター・ソロで用いられたライトハンド奏法は、商業用としては極めて初期の段階に録音されたものと見られている。

 

 

 

1975年、4thアルバム『ファンダンゴ!』(Fandango!)をリリース、全米10位。ここからカットした"Tush"が全米20位になった。

 

活動は上り調子となったものの、絶え間ないツアーとレコーディングの連続にバンドは疲弊。

 

 

1977年をもって2年間の活動停止に入る。この間、ビリー・ギボンズとダスティ・ヒルの髭が伸び、その後よく知られるルックスになるが、特に示し合わせて髭を伸ばした訳ではなく、再会するまで2人はお互いにそのことを知らなかったという。一方、その後も髭を剃らなかったことから意図的に容姿を合わせているとの説もある。

見分ける方法としては、持っている楽器の弦の本数が6弦(ギター)がギボンズで4弦(ベース)がヒル、立ち位置から判断すると基本的には向かって右側がギボンズ(ただし例外あり)、また体型ではヒルの方が恰幅がいい、といったものがある。

 

 

1979年11月8日、6thアルバム『Degüello』をリリース、全米24位。アルバムからリカットしたシングル"I Thank You"が全米34位を記録した。

 

 

1981年7月20日、7thアルバム『エル・ロコ』(El Loco)をリリース。全米17位・全英88位、ゴールド認定を獲得した。ここからは"Tube Snake Boogie"が『ビルボード』誌「メインストリーム・ロック」チャート(以下「米ロック」)4位になった。

 


1980年代初頭、当時の先端技術であるシンセサイザーを導入した頃から、バンドに転機が訪れる。それまでのブギー・ロックにプログラミングされたシーケンサー・サウンドを導入、大胆な変化を見せる。そのサウンドが、アメリカの長距離トラック運転手達に特に好まれたこともあり、全米9位・全英3位になった1983年のアルバム『イリミネイター』(Eliminator)、全米4位・全英2位に達した1985年の『アフターバーナー』(Afterburner)などは、レコードよりもテープの方が売れることとなった。この頃の主なシングルは、『イリミネイター』から"Gimme All Your Lovin'"が全米37位・米ロック2位・全英10位、"Sharp Dressed Man"が全米56位・米ロック8位・全英22位、"Legs"が全米8位・米ロック3位・全英16位に、『アフターバーナー』から"Sleeping Bag"が全米8位・米ロック1位・全英27位、"Stages"が全米21位・米ロック1位・全英43位、"Rough Boy"が全米22位・米ロック5位・全英23位、"Can't Stop Rockin'"が米ロック8位になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、この頃始まった人気番組『MTV』にて“Legs”や“Sleeping Bag”など、コミカルなプロモーション・ビデオが毎日のようにオンエアされ、世界の幅広い世代から受け入れられるようになる。

初来日したのも、ちょうどこの頃だった。サングラスとビリー、ダスティの凄まじく長い顎髭がインパクトを呼び、日本でも有名になる。バンド名にちなんで、1998年には本田技研「ホンダ・Z」のCMに起用された。

 


1990年には、マイケル・J・フォックス主演の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』のエンディング・テーマに“Doubleback”を提供、全米50位・米メインストリームロック1位・全英29位になった。これは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのファンである彼らの意向によるもの。

 

10月16日、10thアルバム『リサイクラー』(Recycler)をリリース。 全米6位・全英8位。プラチナ認定。アルバムからは“Doubleback”の他に、"Concrete and Steel"が米ロック1位、"My Head's in Mississippi"が米ロック1位・全英37位、"Give It Up"が米ロック2位になった。

 

 

 

 


1990年以降、バンドのサウンドはブルーズに回帰する姿勢を見せている。ただし、新しいもの好きのビリーの趣味もあり、現代的なエフェクトやダウン・チューニングによる重厚なサウンドも多用され、新しい方向性を見出している。

 

 

1992年4月14日、ベストアルバム『グレイテスト・ヒッツ』(ZZ Top's Greatest Hits)をリリース、全米9位・全英5位。ここからは"Viva Las Vegas"が米ロック16位・全英10位になった。

 

 

 

1994年1月18日、11thアルバム『アンテナ』(Antenna)をリリース、全米14位・全英3位、プラチナ認定を獲得した。ここからのシングルは、"Pincushion"が米ロック1位・全英15位、"Breakaway"が米ロック7位・全英60位になった。

 

 

 

 

1996年、12thアルバム『リズミーン』(Rhythmeen)をリリース。全米29位。

 

 

1999年、13thアルバム『XXX-トリプルX』(XXX)をリリース、全米100位。

 


2004年にはロックの殿堂入りを果たし、授賞式でのプレゼンターはローリング・ストーンズのキース・リチャーズが務めた。

 

 

2009年7月20日、WWEのファンであり、WWE・ロウのホストを務めた。

同年、Brooks & Dunnのシングル"Honky Tonk Stomp"に参加、全米96位・米カントリーチャート16位に達した。

 


2012年9月11日、9年ぶりの15thアルバム『La Futura』をリリース、全米6位・全英29位。20年振りの全米トップ10入りを果たした。

 

 

 

2015年11月6日、1stソロアルバム『Perfectamundo』をリリース、全米48位・『ビルボード』誌「Top Blues Albums」(以下「ブルーズ」)1位・同誌「Top Rock Albums」(以下「ロック」)2位・全英62位を記録した。

 

 

 

これを皮切りに、近年ソロ キャリアを追求している。

 

 

2018年9月21日、2ndソロアルバム『The Big Bad Blues』をリリース、全米73位・ブルーズ2位・ロック9位・全英19位。

 

 

 

2019年、結成50周年を迎えた記念のボックスセット『GOIN’50』をリリース。

 

2021年6月4日、3rdソロアルバム『Hardware』をリリース、全米111位・ロック17位・全英18位になった。

 

 

 

同年7月、新型コロナウイルス(COVID19)感染症の世界的流行により中止を余儀なくされていたツアーを同月中旬に再開するものの、ダスティが腰の痛みを訴え、7月23日の公演を欠席。

 

 

2021年7月28日、ダスティ・ヒルことジョー・マイケル・ヒル(Dusty Hill/出生名:Joe Michael Hill/1949年5月19日-2021年7月28日) は、テキサス州ヒューストンの自宅で帰らぬ人となった。72歳没。腰の痛みを訴えて公演を休んでから5日後と、あまりに急な逝去であった。

 

 

ビリー・ギボンズはバンドの継続を宣言し、代役サポートはエルウッド・フランシスが務めることとなった。バンドの継続はダスティの希望であり、エルウッドを指名したのも彼の遺志だった。

 

ポール・スタンレー、オジー・オズボーン、ジョン・フォガティ、フリー、ザック・ワイルド、ウォーレン・ヘインズ、トニー・アイオミ、デヴィッド・カバーデール、スコーピオンズ、フォガット、ケンタッキー・ヘッドハンターズ、ブラックベリー・スモーク、スティーブ・ミラー・バンド、38スペシャル、オールマン・ブラザーズ・バンドなど、ロックミュージシャンや同時代の人々がソーシャルメディアを通じて哀悼の意を表した。

 

8月6日、ダスティ・ヒルの死去はBBCラジオ4 の死亡記事番組『Last Word』で取り上げられた。

8月7日、彼は個人葬で埋葬された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Billy Gibbons」「ZZ Top」

 

 

 

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