イアン・ペイス(Ian Paice/本名:Ian Anderson Paice/1948年6月29日~)は、イングランド出身のロックミュージシャン、ドラマー。「ディープ・パープル」唯一のオリジナル・メンバー。

 

 

 

英国イングランドのノッティンガム(Nottingham)で生まれたが、幼少の頃に家族で南方に転居した。

両親は、音楽に造詣が深く、特に父親が舞踊音楽家であった関係で彼は、少年時代から音楽に強い関心を示していた。

 

16歳の時、ポップスに興味を持ち始めたこの頃、初めて父親からドラムセットをプレゼントしてもらう。彼は、現在において第一線のプロには数少ない左利きのドラマーである。

 

1960年代初頭から父の舞踏楽団の一員として活動する。

 

17歳の時、初めてプロとして加入したバンド「シンディグス」(the Shindigs)でレコード・デビュー。 

 

 

1966年、ロッド・エヴァンスがヴォーカルを務める「MI5」に加入、バンドは後に「ザ・メイズ」(the Maze)に名を変え、主にイタリアとフランスでレコーディングした多数のシングルを制作した。

 

 

1968年、エヴァンスとともに「ラウンドアバウト」(ディープ・パープルの母体となったバンド)の立ち上げに参加。メンバーは、ジョン・ロード (Jon Lord/Key)、リッチー・ブラックモア (Ritchie Blackmore/G)、イアン・ペイス (Ian Paice/Ds)、ニック・シンパー (Nick Simper/B)、ロッド・エヴァンス (Rod Evans/Vo)。所謂これが「第一期」。

3月、バンドのマネージメントを担当するヘック・エンタープライズ (HEC Enterprises)を設立、

合わせて、バンド名を「ディープ・パープル」(Deep Purple)に変更。

アメリカの小さなレーベル、テトラグラマトン・レコードと契約。

6月21日、ジョー・サウス (Joe South) のカヴァー“ハッシュ” (Hush)を先行発売、全米4位。

 

7月17日、1stアルバム『ハッシュ』(Shades Of Deep Purple)を発売、全米24位。

10月、2ndアルバム『詩人タリエシンの世界』(The Book of Taliesyn/発売時の邦題『ディープ・パープルの華麗なる世界』)が米国で発売。“ケンタッキー・ウーマン”(Kentucky Woman)をシングル・カットし38位まで上昇、アルバム自体も40位まで上昇した。なお、本国イギリスで同アルバムは翌1969年6月にハーヴェスト・レコードからリリース。

 

 

1969年3月頃、ニック・シンパーとロッド・エヴァンスがバンドから離脱。

6月、米国で3rdアルバム『ディープ・パープル III』(Deep Purple/発売時の邦題『素晴らしきアート・ロックの世界』)がリリース。全米162位と商業的に低迷する。

この直後にテトラグラマトン・レコードが倒産、バンドはアメリカでのレコードの発売元を失う。

 

 

1969年中頃、ヴォーカリストのイアン・ギラン(Ian Gillan) と、ベーシスト兼プロデューサーのロジャー・グローヴァー(Roger Glover) が加入、「第二期」がスタートする。

12月、ロード自身が作曲したコンチェルトをオーケストラ と共演したライヴアルバム『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』を発売、翌年の『メロディー・メーカー』誌のアルバム人気投票で9位に選ばれた。

しかし、当時シーンを席巻し始めていたレッド・ツェッペリン以上の爆音を志向するブラックモアは『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』完成後、一度ハードロック・アルバムを作りファンの反応をみたいと提案。ロードはそれを承服し、次回作の主導権をブラックモアに託す。

 

 

1970年6月20日、こうして出来上がった新作アルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』(Deep Purple in Rock)が本国イギリスで発売された。本アルバムは全英4位に入り、さらにプロモーション用に制作したシングル“ブラック・ナイト”(Black Night ) が全英2位を獲得した。ただし、アメリカでは両方とも売れなかった。日本ではこの曲がラジオでヒットした。

 

 

 

 

 

 

1971年9月、引き続きハード・ロックとなったアルバム『ファイアボール』( Fireball ) を発売、全英1位を獲得した。タイトル曲では、ペイスが珍しく2バスドラムのセットで演奏している。

 

 

同年12月、次作のためスイスのモントルーにあるジェネバ湖(レマン湖)のほとりにある6角形をしたカジノでモービル・ユニットを使っての録音を控え、対岸のホテルでゆっくりと英気を養っていたところ、12月4日、このカジノでフランク・ザッパとマザーズが実施したコンサートで興奮した観客のひとりが木製の天井に向かって銃を撃ち、火災が発生してカジノは全焼。この不幸な事件をモチーフに生まれたのが“スモーク・オン・ザ・ウォーター”だった。バンドは同曲を含めた楽曲のレコーディングを何とか行い、アルバム『マシン・ヘッド』を完成させた。

 

 

1972年2月、6thアルバム『マシン・ヘッド』(Machine Head)は米国で先行発売、英国では3月に、欧州各国や日本でも順次発売されて、全英1位、全米でも7位に入るヒットを記録した。

 

 

8月には来日を果たし、15・16日に大阪フェスティバルホールで、17日に日本武道館でコンサートを開催。この日本公演を録音した音源は12月に日本限定で『ライヴ・イン・ジャパン』として発売されたが、その出来の良さから海外でも『メイド・イン・ジャパン』(Made in Japan)と題してリリースされ、プラチナディスクを獲得。同アルバムからカットされた“スモーク・オン・ザ・ウォーター”(Smoke on the Water)が全米4位になり、ようやくバンドはアメリカでもブレイクした。

 

一方、新作アルバム『紫の肖像』(Who do We think We are)の制作は難航したが、イアン・ペイスによってミキシングが行われ、『ライヴ・イン・ジャパン』とほぼ同時期の1973年初頭にリリースされた。しかし評判はそれほど高くなく全英4位・全米15位に終わり、最初のシングル・カット“ウーマン・フロム・トーキョー”(Woman from Tokyo)は、思った程ヒットにはならなかった。

 

 

 

1973年6月29日、ギランとグローヴァーが二度目の日本公演楽日を最後に脱退。

その後、グレン・ヒューズ(Glenn Hughes/B,Cho,Vo)が加入、4000人以上とも言われる応募者から当時無名のデイヴィッド・カヴァデール(David Coverdale/Vo)が選ばれ、第3期ディープ・パープルがスタートする。

 

 

1974年2月、新メンバーによる初のアルバム『紫の炎』(Burn)が発売、シングル“紫の炎” (Burn)に加え、バンド解散以降もカヴァデールやレインボーのロニー・ジェイムス・ディオらにより唄い継がれていく“ミストゥリーテッド”等が収録され、成功を収めた。また、第2期のハードロック路線に加えて、グレン・ヒューズの主張が濃いとされるファンキーな“ユー・フール・ノー・ワン”やシンセサイザーを大幅に導入した“A200”('A' 200)など、サウンドの幅が広がった。

 

 

 

12月、アルバム『嵐の使者』(Stormbringer)では、ハード・ロック路線を主張するブラックモアと新たな方向性を模索する新参メンバーとの間に軋轢が生じ、ブラックモアがバンドへの情熱を喪失。彼はソロ活動を始めるが、それが高じて新バンド「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」、後の「レインボー」を結成するに至った。

 

 

バンドの要であったブラックモアの後任選びは難航するが、グループにとって初のアメリカ人、トミー・ボーリン (Tommy Bolin/G,Cho)に決定。第四期がスタートする

 

 

1975年10月、アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』(Come Taste the Band)を発表。全英19位・全米43位に終わる。

 

12月、3度目の来日が実現した。

 

 

1976年5月、カヴァデールが辞意を内々にジョン・ロードに伝え、さらに7月8日にトミー・ボーリンが脱退。グレン・ヒューズもトラピーズの再編を含めた別行動の意思を表していた。

7月18日に、ジョン・ロードとパープル・オフィス間の話し合いで解散を決定。

7月24日、事務所よりディープ・パープルの解散が正式に発表された。

イアン・ペイスはグループ解散までの全てのアルバムに参加し、ジョン・ボーナム、カーマイン・アピスらと並ぶ、ハードロック界を代表するドラマーとして世界的な地位を築く。 

 

ディープ・パープル解散後、ジョン・ロード、トニー・アシュトンとともに「ペイス・アシュトン&ロード」(Paice Ashton Lord)を結成するが、アルバム1枚と5回のライブのみで解散。

 

 

 

1979年、デイヴィッド・カヴァデールに乞われてホワイトスネイクに加入。

 

1980年、アルバム『フール・フォー・ユア・ラヴィング』(Ready an' Willing)を発売、“フール・フォー・ユア・ラヴィング”(Fool for Your Loving)が全英13位・全米53位になった。

 

 

同年、ライヴアルバム『ライヴ…イン・ザ・ハート・オブ・ザ・シティ』(Live...in the Heart of the City)発売。

 

 

1981年、アルバム『カム・アンド・ゲット・イット』(Come an' Get It) 、“ドント・ブレイク・マイ・ハート・アゲイン”(Don't Break My Heart Again)が全英17位のヒットになった。

 

 

1982年、アルバム『セインツ・アンド・シナーズ』(Saints & Sinners) (1982) に参加。しかしペイスを含めカヴァデール以外のメンバーは本アルバム制作後にカヴァデールにより解雇された。

ホワイトスネイク脱退後、ゲイリー・ムーア・バンドに加入。アルバム『コリドーズ・オブ・パワー』 (Corridors of Power)(旧邦題『大いなる野望』)をリリース。ムーアとのコンビネーションは良好で、同作に伴うツアーにも同行、1983年に行われた日本公演の模様はライヴ・アルバム『ロッキン・エヴリ・ナイト (ライヴ・イン・ジャパン)』に収録された。

 

 

 

1984年4月、ディープ・パープル再結成のためゲイリー・ムーア・バンドを脱退。

再結成は「黄金期」といわれる第2期のメンバー、ジョン・ロード (Key)、リッチー・ブラックモア (G)、イアン・ペイス (Ds)、イアン・ギラン(Vo) 、ロジャー・グローヴァー(B) で行われた。ペイスは復帰後一貫してパープルのドラマーを務め、唯一のオリジナルメンバーとなっている。 

11月、再結成アルバム第一作『パーフェクト・ストレンジャーズ』(Perfect Strangers)を発売全英5位・全米17位。

 

 

 

 

1987年、アルバム『ハウス・オブ・ブルー・ライト』(The House of Blue Light)を発売、全英10位・全米34位。

 

 

1988年、ライヴ・アルバム『ノーバディーズ・パーフェクト』(Nobody's Perfect) を発売。

再結成後、順調に見えたパープルの活動だったが、影を差したのはやはりメンバー間の軋轢だった。ブラックモアとギランの仲違いが再発、結局ギランが脱退する。

後任には元レインボーのジョー・リン・ターナー(Joe Lynn Turner) が加入。第6期に入る。

 

 

1990年10月、BMGに移籍し、第一弾となるアルバム『スレイヴス・アンド・マスターズ』(Slaves and Masters)をリリース、全英45位・全米87位。

ブラックモアの納得するヴォーカリストの加入でラインナップは安定するかと思われたが、ターナーと他のメンバーとの間に確執が生まれ、彼が脱退。後任選びは難を極めたが、バンド結成25周年の名目でイアン・ギランが復帰した。これが第7期とされる。

 

 

1993年7月、アルバム『紫の聖戦』(The Battle Rages On) をリリースする。しかし、イアン・ギランの再加入時点でほぼ完成していたアルバムを、ギランとグローヴァーが歌メロと歌詞を無理やり書き直したことで、ブラックモアとギランの仲は決定的に決裂したと言われている。

 

 

11月、来日公演の前月にリッチー・ブラックモアが脱退した。

来日公演はジョー・サトリアーニ (Joe Satriani/G)を迎え何とかこなしたが、ソロキャリアを積んでいた彼がバンドに定着することはなかった。この時期を第7.5期と言う。

正式な後釜として、スティーヴ・モーズ (Steve Morse/G)が加入、第8期となる。

 

 

1996年2月、アルバム『紫の証』(Purpendicular)を発売。

 

 

1998年6月、アルバム『アバンダン』(Abandon)を発表。

 

しかし、その後、オリジナル・メンバーのジョン・ロードが脱退、ペイスが唯一の創設メンバーとなる。ロードの後任に、ドン・エイリー(Don Airey/Key)が加入。第9期のスタート。


 

1999年、ペイスはポール・マッカートニーのアルバム『ラン・デヴィル・ラン』に参加。

 

2003年、エイリー加入後のアルバム『バナナズ』(Bananas)を発売。

 

 

2005年、アルバム『ラプチャー・オブ・ザ・ディープ』(Rapture of the Deep)を発表。

 

同年3月21日、2枚組ベスト盤『The Platinum Collection』発売、

 

 

2013年、19thアルバム『ナウ・ホワット?!』(Now What?!)をリリース。

 

 

2014年4月、武道館公演を含む来日公演が実施された。

 

 

2016年5月、日本武道館を含む、全国7か所で来日ツアー公演が決定。イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァーは70歳を迎えての来日公演。

 

 

2017gタス年、節目の20thアルバム『インフィニット』(Infinite )を発表、全英6位。

 

 

 

2018年10月、「The Long Good-Bye」ツアーで来日。千葉(幕張メッセ)、名古屋、大阪、広島、福岡で公演。

 

 

2020年2月29日、新曲“Throw My Bones”がオンライン発売。

 

同時に新アルバムが6月に発売されることも発表された。しかし実際には新型コロナ(COVID-19)禍の影響により発売は延期された。

8月7日、延期されていた新アルバム『Whoosh!』(ウーッシュ!)が発売、全英4位。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「イアン・ペイス」「Ian Paice」「ディープ・パープル」「Deep Purple」「ホワイトスネイク」

https://deep-purple.com/