河内家 菊水丸(かわちや きくすいまる/本名:岸本 起由[きしもと きよし]/1963年2月14日~)は、日本の芸人、伝統河内音頭継承者、音頭取り。

 

 

 

1963年2月14日に大阪警察病院で出生。大阪府八尾市出身。

父は師匠でもある音頭取りの河内家菊水、母はピアノ講師。

小学1年の時に両親が離婚した。

 

1972年9月、9歳の時、東大阪市弥刀東にて初櫓(はつやぐら)に上がる。
小学生の頃から盆踊りの櫓で太鼓等を演奏した。

 

大阪府生野区に所在する私立の此花学院高等学校(現:大阪偕星学園高等学校)に入学・卒業。同高の先輩に、俳優で歌手の鶴田浩二、あほの坂田で知られるお笑い芸人・漫才師の坂田利夫などがおり、後輩にはグルメレポーターの彦摩呂などがいる。

高校時代は浪曲の初代:京山幸枝若(きょうやま こうしわか/1926年8月10日-1991年6月24日)の伴奏や、鉄砲博三郎門下の河内音頭音頭取り・演歌歌手の生駒一(いこま はじめ/1950-2019年)、演歌歌手の天童よしみ(てんどうよしみ/1954年9月26日-)のバックで太鼓とギターを担当していたこともある。中でも生駒一には特に心酔していた。

 

デビュー前は松竹芸能の劇場で活躍していた生駒一の元に足を運び、河内音頭の口説き(舞台芸としての音頭)のいろはを学んだ他、新世界新花月でも生駒一のギター伴奏を務めていた。
 


1980年、吉本興業に所属し、なんば花月に上がったのが初舞台である。



1984年、「新聞詠み」(新聞をもとに音頭取りが憶測や自分の意見を入れて歌う、河内音頭の一流派)を復活させ、以来大阪を拠点に歌う。
また、エレキギター、シンセサイザーなどを用いて、“グリコ・森永大事件”や“阪神タイガース日本一音頭”(以上は『菊水丸の河内音頭秘蔵コレクション』収録)、“大リクルート事件・江副浩正半生記”や“豊田商事最後の日・永野一男一代記”、“天才漫才師・横山やすし物語”、“浪花の喜劇王・藤山寛美青春編”、“美空ひばり物語”(以上は『河内家菊水丸大全集』収録)、“アントニオ猪木一代記”(『新聞詠み河内音頭 バッド・ニュース アントニオ猪木一代記』収録)など、世相・事件を題材にした曲を発表した。

 

 

1985年、グリコ・森永事件の犯人が書いた「江崎グリコゆるしたる」という江崎グリコへの脅迫終結宣言にメロディをつけた曲“グリコ事件終結宣言音頭”(上記の“グリコ・森永大事件”とは異なる曲)をカセットテープで発売した。そのテープは1994年時点で約1万5000本を売り上げ、『おはよう!ナイスデイ』に菊水丸が出演した際にも歌った。この曲を作った際、脅迫終結宣言のメモ書きを道に落としたことにより警察からグリコ森永事件の犯人と疑われ取り調べを受けたことがあるとラジオ番組で告白した。

 

同年、滋賀県琵琶湖で開催されたレゲエ・フェス「ジャマイカ・レゲエ・サンスプラッシュ」に出演。

 


1990年代前半は海外でのライヴも多く、イラク、北朝鮮、ソ連(当時)、エジプト、ギリシャ、イタリア、チュニジア、フランス、キューバ、ガダルカナル、北方四島・色丹島、東ティモール等で公演を行っている。英国のテレビ局では特集が組まれ、それを見たBBCからも出演依頼が来た。音楽番組『イースタン・ヒット』に出演した。

 

 

1990年、イラクのサダム・フセイン大統領が同国内の在留外国人の出国を禁止したことにより、現地の邦人(日本人)が事実上の人質となるという事件が発生。

同年12月、日本政府とイラク政府間の人質返還交渉が進まない中、当時スポーツ平和党所属の参議院議員であったアントニオ猪木が被害者家族を率い、イラクでスポーツと平和の祭典を開催するという趣旨のもと、イラクへ向かう。猪木と知り合いであり趣旨に賛同した菊水丸も同行し、猪木は祭典の日本の伝統音楽の部門を担当、現地のイラク人や日本人の前で菊水丸は河内音頭を披露した。結果、祭典は無事に終了、さらに猪木とフセインの協議の末、日本人人質は湾岸戦争開始前に解放された。なお、この祭典において菊水丸は大統領から金色の壺を直接手渡しされている。


1991年4月3日、リクルートのアルバイト求人情報誌『フロム・エー』のテレビCMソング“カーキン音頭”(作詞・曲:岩本恭明・柴田俊生・河内家菊水丸・ジェイムス下地)が同年12月時点で8万枚以上、累計では公称20万枚以上を売り上げる大ヒットとなり、全国区に進出した。過去にリクルート事件をモチーフにした曲を発表した経緯があるが、同社刊行の『フロム・エー』誌の仕事を受けるという事態となった。またCMが関東ローカルだったこともあり、地元大阪では「なんで菊水丸が急に売れ始めたのか?」と疑問に思った人も多かったという。

 

 

6月21日、“花”(作詞・曲:喜納昌吉/編曲:ディック・リー)を発表。

 

7月21日、“オロチョンパ! (誕生篇)”(作詞:柴田俊生/作曲:河内家菊水丸・ジェイムス下地/編曲:ジェイムス下地)を発表。


12月、ソ連崩壊直前に、『TBSラジオ開局40周年記念スペシャル 地球の鼓動つたえたい 秋山豊寛と河内家菊水丸のロシア見聞録』の企画でモスクワの「赤の広場」でゲリラライヴを敢行した。


音楽・お笑い・政治を融合した新聞詠み河内音頭という横断的なジャンルであったため、全国区進出後は出演番組も『ミュージックステーション』、『NHK紅白歌合戦』などの歌番組、『さんまのまんま』、『笑っていいとも』、『徹子の部屋』、『ライオンのごきげんよう』などのトーク・バラエティ、『朝まで生テレビ!』、『おはよう!ナイスデイ』といった政治・ニュース番組など、多岐にわたった。

 

 

1992年、第10回「咲くやこの花賞」大衆芸能部門を受賞。


1998年、東大阪市の架空住民登録容疑事件に絡み逮捕された市長の進退をめぐり、市役所前で“東大阪市長 やめさらせ!音頭”を披露した。

同年、吉本興業の先輩で、当時吉本から離れていた元:紳助・竜助の松本竜助(まつもと りゅうすけ/本名:松本 稔(まつもと みのる)/1956年4月6日-2006年4月1日)を「河内家ピンポン丸」の芸名で菊水丸一門に迎え、弟子として面倒を見た。竜助には若手時代に世話になったこともあり、その当時事業失敗等で窮状にあった竜助を救済する行動だったが、無断欠勤や遅刻を繰り返すピンポン丸を見かねて早々に破門している。ただし、破門後は師弟関係ではなくなったため、その後生前の竜助に対するコメントを出す際は、自身は後輩として礼を失しない態度で接していた。

 

 

1999年、“野村阪神優勝音頭”(作詞:江本江本孟紀/作曲:河内屋菊水丸/編曲:石田雄一/コーラス:三門博若)を発表。阪神タイガースはこの年、野村克也監督を迎えて1年目でセリーグ6位に終わった。

 

 

2000年、“今年こそ!野村阪神優勝音頭”(作詞・曲:河内屋菊水丸/編曲:石田雄一/コーラス:三門博若)を発表。

 

 

2001年11月30日、『河内家菊水丸大全集~新聞詠み&古典ネタ三十五席10枚組~』を発売。

 

 

2002年、日韓ワールドカップの日本対チュニジア戦で国歌斉唱の依頼があったが、辞退したため各紙で物議を醸した。辞退理由として「僭越である」と述べた。結局この試合の君が代は演奏のみとなった。


2005年1月24日、東京都渋谷区のNHK放送センター前の路上で、漫才師の西川のりおとともに、海老沢勝二NHK会長(当時)の解任を求めるゲリラライヴを行い、海老沢を痛烈に批判する“怒りの河内音頭”を披露した。
2005年→2006年、2006年→2007年、2007年→2008年は兵庫県洲本市の商店街「コモード56」で年越しを迎えた→「ニューイヤーフェスティバル」。


2006年8月19日、大阪府貝塚市での盆踊りで、「通算8,888櫓」を達成する。


2007年の『YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜』では、自身の少年期を描いた『田中徳三監督 少年河内音頭取り物語』で、クレジット上ながら映画監督デビューを果たした。実際には、田中徳三監督の作品(『座頭市』、『悪名』等)が好きだったことから、タイトルにある通り大部分の撮影を田中徳三に依頼。また、キャンディーズ時代からファンだった、田中好子の出演を実現させた。田中徳三は公開直後の12月27日に逝去し、事実上の遺作になった。
11月1日、パーソナリティーを務める、MBSラジオ『さてはトコトン菊水丸』により、自身のMBSラジオでのパーソナリティ出演が『冬眠返上菊水丸』から数えて1,800回を迎えた。
11月30日、自身初となる中国・上海公演に菊水丸一座で出発。メインパーソナリティを務める、MBSラジオ『さてはトコトン菊水丸』は前日に録音したものを放送。連続出演記録は出発式を行った関西国際空港より電話出演でつないだ。


2008年4月15日、大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科客員教授(日本文化史)に就任、5年間務める。現在は教養科の客員教授。

6月25日、コンピレーションアルバム『河内家菊水丸 河内音頭秘蔵コレクション』を発売。これ以降、同シリーズ2~10を順次発売していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

2009年2月3日に、『さてはトコトン菊水丸』を3月27日で終了することを発表し、盆踊りシーズンが終わる同年9月末をもって「新聞詠み河内音頭家元」を返上することを同時に発表。番組を担当していた10年間はMBSに近いホテル阪急インターナショナルに10年間住んだという。

以降は「伝統河内音頭継承者」という肩書きで、河内音頭の音頭とりとして伝統の保存と継承に専念する。

また、公式ブログを開設し、古い節回しの発掘、他流派の師匠連への稽古通いなどをしながら、ブログで近況を報告している。
8月23日、衆議院議員総選挙をネタにした新聞詠みを発表。この時点では、「新聞詠みとしての最後の作品」としていた。

 

 

2011年6月、東日本大震災発生後に、「新聞詠みネタ」の封印を自ら解くことを表明。

6月15日、漫才師としての活動の傍ら、1年間弟子として修業を積んできた鰻和弘(銀シャリ)に、「河内家上り丸(のぼりまる)」を襲名させた。かつては、先述の通り松本竜助に「河内家ピンポン丸」と命名した他にも、立原啓裕に「疲労丸」、ハイヒールリンゴに「化粧濃い丸」、酒井法子に「のり丸」、かとうかずこに「かと丸」、小泉今日子に「キョンキョン丸」、観月ありさに「あり丸」という芸名を付けている。

8月22日に兵庫県姫路市で開かれた「姫路ゆかたまつり」へ出演した際に、同震災からの復興を祈願する目的で、“姫路から、がんばろう日本音頭”を披露した。同曲については、CDも制作。売上金の一部を、被災地域への義援金に充てることを表明していた。


2012年7月、八尾市にオープンした河内音頭記念館の館長に就任。同年11月より、同所にて自身の企画構成による河内音頭セミナーを月1回程度開催。
10月、人間ドックを受診した際、甲状腺乳頭癌発症の疑いが浮上し、精密検査で甲状腺で発症した癌細胞が気管やリンパにも転移していることが判明した。

12月25日に癌細胞を摘出する手術を受けた。一時は発声が危ぶまれたが、退院後は体調を考慮しながら、復帰を目指す。

 

 

2013年春から音頭取りとしての活動を再開し、吉本興業創業100周年記念の舞台『吉本百年物語』で本格的に復帰した。

 

2015年6月24日、芸能生活35年目記念シングル“本日は晴天なり”を「よしもとアール・アンド・シー」から発売。

 

6月28日には、盆踊りの出陣式・同曲のお披露目を兼ねて、芸能生活35周年記念パーティーを開催した。

7月31日、母校である大阪偕星高校の硬式野球部が全国高等学校野球選手権大会に大阪府代表として初出場を決めたことを受けて、“大阪偕星学園応援音頭”を即興で制作した。

 

 

現在は京都府相楽郡南山城村に在住。

「音頭取り」としての活動と並行しながら、一般社団法人・日本ストリートダンス認定協議会の特別講師や、同府「八尾の魅力大使」、「池田音頭大使」、「河内音頭記念館 館長」、「宝塚市大使」、「葛城市相撲館 名誉館長兼観光大使」、「南山城村PR大使」、「大阪府太陽の塔内部再生事業 広報担当アンバサダー」などを務める。また、大阪芸術大学教養科の客員教授でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「河内家菊水丸」

 

 

 

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