近田 春夫(ちかだ はるお/1951年2月25日~)は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー、音楽評論家、タレント。別名は、近尾 春親[ちかお はるちか]、近田 ハルオ、塚田 みのる[つかだ みのる]、デューク 柏淵[デューク かしわぶち]、President BPM[プレジデント ビーピーエム]、作詞センター[さくしセンター]、作曲研究所[さっきょくけんきゅうじょ]、東京アレンジサービス[とうきょうアレンジサービス]、SCSI-TR[スカジーティーアール]、NO CHILL OUT[ノーチルアウト]、Rice[ライス]等多数ある。

 

 

 

1951年2月25日、近田春夫は東京都に生まれる。

実家は世田谷区等々力にあり、3歳からピアノのレッスンを受けて育った。
 

1957年4月、慶應義塾幼稚舎に入学。

だが、この有名小学校の中で近田の家は貧しく、そのことで暗い気分になった。
 

1963年4月、慶應義塾普通部に進学。
 

1966年4月、慶應義塾高等学校に進学。

高校在学中に音楽活動を開始。

また、この頃より平凡出版(現:マガジンハウス)が創刊したばかりの『an・an』編集部にアルバイトとして出入りする。

これらが祟って慶應義塾高校で留年を重ねる。

 

 

1970年、GS(グループ・サウンズ)末期のバンド「ロック・パイロット」に参加。

同じ頃、元ザ・ビーバーズの平井正之・成田賢らの「エモーション」に参加する。

12月、有楽町で開かれた第1回「日劇ロック・カーニバル」に、「カルメン・マキ&タイムマシーン」のキーボード奏者として参加。『an・an』の取材で知り合った立川直樹の紹介だった。

 

 

1971年、2留して高校を卒業後、慶應義塾大学文学部に進学するもほとんど大学には顔を出さず、高校時代から出入りしていた『an・an』編集部で働く。また、クニ河内のバンド「羅生門」に参加。

 

 

1972年1月、アルバム『インディアン、死よりも赤を選ぶ』を発表。
同年、元「村八分」初代ドラマーの恒田義見らと「ハルヲフォン」(後の「近田春夫&ハルヲフォン」)を結成する。当初のギターは松本恒男(元 DEW)、ベースは佐伯正志(元 ブルース・クリエイション)であった。

同年、アラン・メリル、金沢ジュンとバンド「ゴジラ」を結成、

同年、内田裕也の「1815ロックンロールバンド」にキーボード奏者として参加。内田に付き従う中で、渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉と親しくなり、大里に「ザ・ワイルドワンズ、ロック・パイロット、アラン・メリルの3組のキーボードを全部やってくれたら、1組分のギャラを払う」と誘われ、理不尽な契約ながらも、日劇ウエスタンカーニバルステージに出られると喜び、二つ返事で快諾したという。なお、この縁から、後に近田が設立した近田春夫事務所のデスクは、渡辺プロから独立して大里が設立したアミューズ内にあった。

 

 

1974年、スタイリストの近田まりこと結婚。

同年、脚本家の荒井晴彦からの依頼で日活ロマンポルノ『濡れた賽ノ目』(監督:若松孝二/製作:若松プロダクション)の音楽を「塚田みのる」名義で手がける。

同年、同じく荒井の依頼で日本専売公社のPR映画(監督:渡辺護/主演:竹井みどり・寺田農)の劇伴を手がけた。

 

 

1975年、谷啓と結成した「谷啓とザ・スーパーマーケット」に「近田ハルオ」名義で参加。

5月10日、ハルヲフォンは1stシングル“FUNKYダッコNo.1”(作詞:石原信一/作曲:近田春夫)でキングレコードからメジャー・デビューを果たす。当時のメンバーは、近田春夫、恒田義見、高木英一、小林克己、キャロン・ホーガン、長谷川康之の6人で、リード・ヴォーカルはキャロン。タカラ(現:タカラトミー)の「だっこちゃん」再発売に当たってのタイアップ、企画盤であった。

9月21日、舘ひろし在籍時のクールスの1stアルバム『クールスの世界~黒のロックン・ロール』が発売。近田がプロデュースした。

 

 

1976年1月1~7日、日本劇場で行われた「'76 小柳ルミ子★アグネス・チャン ハッピー ニュー イヤー ショー」に谷啓とザ・スーパーマーケットのメンバーとして出演。

6月5日、近田春夫&ハルヲフォンのシングル“シンデレラ”(作詞・作曲・編曲:近田春夫)が先行発売。元々は1975年に近田がプロデュースしたクールスのデビュー・アルバム『黒のロックン・ロール クールスの世界』へ近田が提供した曲であり、ハルヲフォン版はセルフ・カヴァー。

 

6月21日、近田春夫&ハルヲフォンの1stアルバム『COME ON, LET'S GO』(カモン・レッツ・ゴー)が発売。

12月5日、近田春夫&ハルヲフォンのシングル“恋のT.P.O.”(作詞・作曲・編曲:近田春夫)が発売。

 

 

1977年9月、近田春夫&ハルヲフォンの2ndアルバム『ハルヲフォン・レコード』を発表。

 

同年、TBSテレビ『ぎんざNOW!』にレギュラー出演。

8月21日、近田春夫のソロ・デビュー・シングルであり、近田春夫&ハルヲフォンの4枚目シングルとして、A面が「近田春夫」名義の“ロキシーの夜”(作詞:島武実/作曲:筒美京平/編曲:近田春夫)、B面が「近田春夫&ハルヲフォン」名義の“闇にジャックナイフ”(クレジット同じ)という変則的なスプリット・シングルで発売。

 

 

10月、ニッポン放送『近田春夫のオールナイトニッポン』(火曜2部: 1977年10月 - 1979年3月/金曜1部: 1979年4月-9月)放送開始。

 

 

1978年、「日本の歌謡曲が持つ音楽性」に最も早く気が付いた近田は、平凡出版の雑誌『POPEYE』に伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載開始、1984年まで続いた。

6月21日、近田春夫&ハルヲフォンでも、歌謡曲のカヴァー・アルバム『電撃的東京』をリリース。

 

7月21日、山本リンダのカヴァー“きりきりまい”(作詞:阿久悠/作曲:都倉俊一/編曲:近田春夫)を近田春夫&ハルヲフォン名義でシングル・カット、オリコン28位。

 

 

1979年、発売を予告していた“恋のグンギン・ナイト”(作詞・作曲・編曲:近田春夫)は、近田春夫&ハルヲフォンのラスト・シングルとなるはずであったが、諸事情により発売は中止。本シングルが発売されなかったことで、結果的に前作“きりきりまい”が最後のシングルとなった。

同年、「近田春夫&BEEF」を結成。

4月21日、2ndソロ・シングル“エレクトリック・ラブ・ストーリー”(作詞:楳図かずお/作曲:近田春男/編曲:イエロー・マジック・オーケストラ)の作詞に漫画家の楳図かずおを起用、アレンジと演奏には結成直後のイエロー・マジック・オーケストラを起用した。

 

5月21日、1stソロ・アルバム『天然の美』でも、“エレクトリック・ラブ・ストーリー”を含む4曲で編曲・演奏にイエロー・マジック・オーケストラ、作詞には楳図をはじめ多彩な作家陣、そして作曲には自身の他に筒美京平や宇崎竜童らを起用した。

 

9月21日、3rdソロ・シングル“ああ、レディハリケーン”(作詞:楳図かずお/作曲:近田春夫/編曲:矢野誠)で再び楳図に作詞を依頼。テレビ等の露出では、アーティスト名は「近田春夫&BEEF」と表記された。資生堂「レディバスボン」CMソング。

 

同年、「THE 歌謡曲」などのコラムやインタビュー、対談等をまとめた単行本『気分は歌謡曲』(雄山閣出版)を刊行。

 

 

1980年6月1日、「近田春夫&BEEF」から茂木由多加とNOGERAを除いたBEEFのメンバーが分離、近田がプロデューサーを務め、テクノ歌謡バンド「ジューシィ・フルーツ」として、1stシングル“ジェニーはご機嫌ななめ”(作詞:沖山優司/作曲:近田春夫/編曲:Juicy Fruits)でデビュー、オリコンのシングル週間ランキング最高5位、1980年度年間37位を記録する大ヒットになった。

 

10月25日、日本コロムビアに移籍した近田春夫の移籍第一弾となる2ndソロ・アルバム『星くず兄弟の伝説』と、表題曲を4thソロ・シングル“星くず兄弟の伝説”(作詞:近田春夫/作曲:赤城忠治/編曲:近田春夫/ホーンアレンジ:新田一郎)を同時発売。

同年、ザ・ベンチャーズのアルバム『カメレオン』に加藤和彦、坂本龍一、ヒカシュー等とともに参加、ツアーにもゲストで参加している。
 

 

1981年1月1日、当時人気絶頂だった漫才コンビ「ザ・ぼんち」に提供したデビュー・シングル“恋のぼんちシート”(作詞・曲:近田春夫/編曲:鈴木慶一)が発売、オリコン・シングル・ランキングで、週間最高位2位、1981年度年間28位を記録、ジューシー・フルーツに続き大ヒットを記録した。ラジオ番組『ビートたけしのオールナイト・ニッポン』でこの曲がダーツ“ダディクール”の盗作ではないかとする投稿があり、聴き比べによる検証が行われた。翌週のラジオ番組で、近田はあっさり「パクった」と認め、その言い訳をしない姿勢と元来猥雑であった近田のキャラクターから大きな問題にはならなかった。

 

3月25日、青木美冴の再デビュー・シングル“Goin'にMy Way”(作詞:森雪之丞/作曲:近田春夫/編曲・演奏:近田春夫+人種熱)が発売、近田春夫&ビブラトーンズの前身「人種熱+近田春夫」の編曲・演奏による作品である。「人種熱」は窪田晴男、福岡ユタカらのバンド。

 

3月25日、『悪魔と姫ぎみ』オリジナル・サウンド・トラックを「人種熱+近田春夫」名義で日本コロムビアから発売。

4月21日、柴田恭兵のシングル“なんとなく、クリスタル”(作詞:田中康夫/作曲:近田春夫/編曲:飛澤宏元)を作曲提供。

 

同年秋、近田は「タレント廃業、ミュージシャン専念」を宣言。

同年、人種熱をとりこみ、「近田春夫&ビブラトーンズ」を結成する。

11月25日、近田春夫&ビブラトーンズのデビュー・シングル“金曜日の天使”(作詞:近田春夫/作曲:福岡裕/編曲:近田春夫&Vibra-Tones)と、デビュー・アルバム『ミッドナイト・ピアニスト』を日本コロムビアから同時発売。

 

 

同年、植田まさし原作4コマ漫画のアニメ映画『フリテンくん』で主役「フリテンくん」に抜擢され声優として出演。

 

 

1982年6月21日、「筒美京平の秘蔵っ子」平山みきの5thアルバム『鬼ヶ島』が発売。近田によるプロデュース作品であり、全作品の作詞を近田、全作品の編曲をビブラトーンズのギタリスト・窪田晴男、作曲は近田が4曲の他、ビブラトーンズのパーカッショニスト・福岡ユタカが4曲、ギタリストの岡田陽助が2曲を担当し、近田とビブラトーンズが全面参加した。

11月21日、ビブラトーンズのスタジオ・レコーディングによる4曲入りミニ・アルバム『VIBRA-ROCK』(ヴァイブラ・ロック)を発売。本アルバムのリリース後に矢野正道が脱退、当時「爆風銃」在籍中のホッピー神山を迎えライヴ活動は続けられた。

 

 

1983年、『VIBRA-ROCK』収録曲の“AOR大歓迎”(作詞・曲:ビブラトーンズ)がレナウンのCMソングに採用され、テレビでオンエアされた。

 

同年、近田が、元近田春夫&ハルヲフォンの高木英一、そして元ガールズ、元ピンナップスのリタこと野元貴子らと「ゲートボール」を結成。

8月25日、ゲートボールの1stアルバム『スマートなゲートボール』、および1stマキシ・シングル『スマートなゲートボール』を同時発売。

 

 

1984年1月、ビブラトーンズが解散。

同年、近田の原案・製作総指揮で、手塚眞監督によるミュージカル映画『星くず兄弟の伝説』を製作。音楽も自ら担当。

 

 

1985年6月5日、サウンド・トラック・アルバム『「星くず兄弟の伝説」オリジナル・サウンド・トラック』と、リメイクした同名シングル“星くず兄弟の伝説”を「スターダスト・ブラザース」名義で同時発売。

 

 

6月15日、映画『星くず兄弟の伝説』が公開。

同年、高木完、藤原ヒロシの紹介により、ファンクやラップに注目、近田自身「President BPM」名義で活動を開始。

同年、ヒップホップ専門レーベルBPMを設立。

10月25日、President BPM名義で12インチシングル“MASS COMMUNICATION BREAKDOWN”(作詞・作曲・編曲:Tikadaharo)を発表、タイニー・パンクスらと日本語ラップのパイオニアとも言える活動を行う。

 

12月25日、President BPMの2ndシングルとしてA面に“NASU-KYURI ”(作詞・作曲・編曲:TIKADAHARO)、高木完と藤原ヒロシのユニット「TINNIE PUNX」のデビュー・シングルとしてB面に“I Luv Got The Groove”(作詞:KAN TAKAGI/作曲:HIROSHI FUJIWARA/編曲:TINNIE PUNX)をそれぞれ収録したスプリット・シングルをリリース。

 

 

1986年2月25日にリリースされた日本のヒップホップアーティスト・President BPM(プレジデント・ビーピーエム)のサードシングルであり、高木完と藤原ヒロシのユニットTINNIE PUNXの2ndシングルとして、“Hoo! Ei! Ho!”をリリース。

 

 

1987年4月25日、メインに細野晴臣を迎えた、President BPMの4枚目シングルであり、高木完と藤原ヒロシのユニットTINNIE PUNXのサードシングルでもある“COME★BACK”(作詞:SEIKOH ITOH + KAN TAKAGI + TIKADAHARO + HOSONOHAROMI/作曲・編曲:HOSONOHAROMI)がリリース。「HOSONOHAROMI」は細野晴臣の別名。

 

同年、JAGATARAのOTOらと「バンド形式によるヒップホップ」というコンセプトで、人力ラップ・ビッグバンド「ビブラストーン」を結成。

6月5日、President BPM名義の5枚目シングル“だからDESIRE”(作詞:作詞センター/作・編曲:馬飼野康二)が発売。女優で歌手デビューもしている宮崎美子をヴォーカルに迎えている。B面“タカラ本みりん”(作詞:香西貴乃/作曲・編曲:TIKADAHARO)とともに、寶酒造(現:宝ホールディングス)のみりん商品「タカラ本みりん」CMのために制作された。なお、“タカラ本みりん”作詞者の香西貴乃コピーライター。

 

 

6月5日、BPM初のベスト・アルバム『HEAVY』が発売。

 

 

1988年10月21日、近田春夫&ビブラトーンズ(後のビブラトーンズ)初のベスト・アルバム『ビブラトーンズFUN』が発売。

 

 

1989年5月10日、小泉今日子の27枚目シングル“Fade Out”(作詞・作曲・編曲:近田春夫)が発売。小泉は近田がかつてメンバーの一人であったハルヲフォンや、プロデュースを手掛けたジューシィ・フルーツの曲を非常に好んでおり、近田への楽曲提供依頼も小泉自身の希望によるものであった。オリコン2位。

 

 

1991年、ビブラストーンのシングル“ジェットコースター”を発売。

 

同年、ビブラストーンのシングル“MIKKY-D/金っきゃねぇ”を発売。

 

 

7月3日、ビブラストーンのメジャー1作目となるオリジナル・アルバム『ENTROPY PRODUCTIONS』がポニーキャニオンから発売。

 

 

1992年、ビブラストーンのシングル“フーディスト村”を発売。

 

同年、ビブラストーンのシングル“やだ”を発売。

 


1993年、ビブラストーンのシングル“TVドラマはすべて現実?”を発売。

 

 

1994年、ビブラストーンのシングル“ナイトメア”を発売。

 

 

1995年、ビブラストーンが解散。

ソロでゴアトランスを手がけ始める。
 

 

1997年1月、『週刊文春』(株式会社文藝春秋)で『考えるヒット』の連載を開始。
1月21日、「Afromix」名義でEP『444』を発表。

2月21日、Afromixの2枚目EP『WORM』を発表。
3月21日、「SCSI-TR」名義でEP『SCUTTLE SHAKE』を発表。

5月21日、SCSI-TRのEP『HOT ROD 2001』を発表。
7月21日、「NO CHILL OUT」名義でゴアトランスEP『Black Light』を発表。

11月21日、NO CHILL OUTのEP『FUNKY-ZERO』を発表。
11月21日、CHAKAとのバンド「Delicious Hip」のアルバム『Delicious Hip』発表。

 

 

1998年、「THE 歌謡曲」全連載内容を含む『定本 気分は歌謡曲』を刊行。
 

 

2002年10月13日、Omb、UKIASHI、USCUSとトランス・バンド「The Lunatic Thunder」を結成、川崎クラブチッタで初ライヴ。近田はテクノ・トランス・プロジェクト「Rice」名義。
 

 

2003年2月26日、The Lunatic Thunderの初アルバム『KINGDOM COM』を発表。

 

9月26日、Rice名義で初アルバム『B.P.M.syndicate』を発表。
 

 

2006年4月29・30日、「近田春夫&ハルヲフォン・リローデッド」名義でハルヲフォンを再結成。

6月25日、近田春夫&ハルヲフォンの未発表ライヴ音源を集めた発掘アルバム『近田春夫&ハルヲフォンLIVE! 1975 - 77』が発売。ハルヲフォンのライヴ音源のリリースはこれが初めて。

 

 

2008年8月、S字結腸のがんを開腹手術。
 

 

2010年12月2日、NHKラジオ第一放送『ロックンローラー近田春夫の歌謡曲って何だ?』が放送開始、当初は1~2か月に1回の不定期放送だった。

 

 

2011年4月6日より、NHKラジオ第一『ロックンローラー近田春夫の歌謡曲って何だ?』が毎週金曜日、週1回の放送になる。

6月20日、The Lunatic Thunderのアルバム『Encounter』を発表。

 

12月10日、The Lunatic Thunder名義で、東京・新木場にある日本最大級のエンターテイメント・スペース「ageHa」にて行われた「ageHa×Mother presents Mother 9th Anniversary Party〈MUSIC IS CONNECTED TO UNIVERSE〉」に出演。

 

 

2013年4月、京都精華大学にポピュラーカルチャー学部が新設され、近田は同学部ポピュラーカルチャー学科音楽コース教授に就任。

 

 

2017年、元ハルヲフォンの恒田義見・高木英一と「活躍中」を結成。
 

 

2018年10月31日、近田春夫のソロ名義としては実に38年ぶりとなるアルバム『超冗談だから』をリリース。“ラニーニャ 情熱のエルニーニョ”(作詞・曲:近田春夫/編曲:鈴木豪)収録。

 

 

12月19日、近田とOMBによるユニット「LUNASUN」のアルバム『Organ Heaven』をリリース。

 

 

2019年1月から『ミュージックマガジン』誌で「近田春夫の 帯に短し襷に長し」を連載開始。

2月27日、ベスト・アルバム『近田春夫ベスト~世界で一番いけない男』をリリース。「活躍中」名義の新曲“みんなでハッピーバースデー”(作詞・曲:近田春男)を収録。

 

 

2022年1月、鳥取県が開催した「とっとり弥生の王国プレミアムイベント・青谷弥生人そっくりさんコンテスト」にて特別賞を受賞し、「とっとり弥生の王国」の「国民認定証」が贈呈された。

 

 

様々な名義で、多様なユニットを率いて音楽活動をしてきた近田は、「作曲研究所」等の名義でCM楽曲(サウンドロゴ、コマーシャルソング、BGM)を1,000曲以上作曲しており、日本のCM界では歴代3位の数にあたる。1位は小林亜星で6,000曲以上、2位はキダ・タローで3,000曲以上とされるが、本人は「俗説」と否定した上で、「確かにそのぐらい書いてたかなという実感はある」と語っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「近田春男」「近田春夫&ハルヲフォン」「ビブラストーン」

 

 

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