ボビー・ダーリン(Bobby Darin/出生名:Walden Robert Cassotto/1936年5月14日~1973年12月20日)は、アメリカ合衆国の歌手、作曲家、俳優。

ジャズやポップ、ロックンロール、フォーク、スウィング、カントリーミュージック等様々なジャンルを手掛けた。

 

 

 

1936年5月14日、後にボビー・ダーリンの名で知られるウォルデン・ロバート・カソットは、ニューヨークのイースト・ハーレム地区で生まれた。ボビーの母バニーナ・ジュリエット・"ニーナ"・カソット(1917年11月30日-1983年)は1935年の夏、17歳の時に彼を妊娠した。当時は未婚で妊娠することは恥ずべきことであったため、ニーナと彼女の母親(ダーリンにとっては母方の祖母)ビビアン・ファーン・ウォルデン(1882年生まれ)により、ダーリンはニーナの弟として育てられた。イギリス系のヴォードヴィル歌手であった母方の祖母は自分自身をポリーと呼んでいた。 ボビーは生まれてからずっと、ニーナが姉でポリーが母親だと信じていた。

ボビーの母方の祖父サベリオ・アントニオ・"ビッグ・サム・カーリー"・カソットは自称ギャングの一員のイタリア系で、ダーリンが生まれる数年前に肺炎により獄中で亡くなっていた。

 

8歳の時、リウマチ熱に罹患して心臓を痛めた。このことが原因となり、ボビーは生涯にわたって病弱であった。

13歳までに、ボビーはピアノ、ドラム、ギターなどの楽器を演奏することができた。後にハーモニカやシロフォンの演奏も身に付けた。

彼は幼い頃にブロンクスへ移り(夏の別荘はスタテンアイランドにあった)、 名門のブロンクス科学高校を卒業した。

ハンター・カレッジに入るとすぐに演劇の世界に引き付けられていった。わずか2学期を過ごした後、俳優の道に進むために退学した。

 

 

レコーディングを開始した時に、テレビで「マイク・ハマー」役を演じた俳優ダーレン・マクギャビン(Darren McGavin)の名を元に、芸名としてダーリン(Darin)を名乗りだした。しかし「私の正式な名前はカソットのままです。カソットは私の母の名前であり、私の子どももこの名を受け継ぐことでしょう。」とも語った。

 

 

ダーリンの作曲家としてのキャリアは、ニューヨーク州ワシントンハイツの菓子屋で出会ったドン・カーシュナーとコンビを組んだことから始まった。“バブルガム・ポップ”をはじめとして、ジングルや曲を書いた。


ブリル・ビルディングの売れない作曲家一団のうちの一人であったダーリンはコニー・フランシス(Connie Francis/1938年12月12日-)を紹介され、4番目のシングル“My First Real Love”など、いくつかの曲を書いた。

 

2人は互いに恋心を抱き、ダーリンのデビュー後に共演を果たす。しかし、彼女の父親はダーリンを好まず、交際を認めなかったため、2人は別れることとなった。 一時、ダーリンは彼女と駆け落ちをしようとまでしていた。 ダーリンと結婚しなかったのは自分の人生において最大の間違いであったとフランシスは後に語っていた。

 

 

1956年、代理人が大手のデッカ・レコードと交渉し、契約を結んだ。

同年、「Bobby Darin and The Jaybirds」名義で"Rock Island Line"をカヴァーし、歌手としてもデビュー。その後、同名義で“Silly Willie”をリリースし、ソロ名義でもレコードを出したが、いずれもチャート入りを果たせず、これらの曲がデッカ・レコードにもたらした成功はほとんどなかった。

 


1958年、ダーリンはデッカを去り、アトランティック・レコードのサブ・レーベルであるアトコ・レコードと契約し、引き続き作曲、編曲と録音を行った。

この頃、ダーリンはハリー・ウォーレンの“I Found a Million Dollar Baby”をカヴァー、“Million Dollar Baby”とのタイトルでエルヴィス・プレスリーのスタイルで歌われたが、ヒットは叶わなかった。

 

同年、アトランティックのアーメット・アーティガンに導かれて発表した“スプリッシュ・スプラッシュ”(Splish, Splashでついにダーリンの人気が出始めた。 これはラジオDJのマレー・カウフマンと共同で作った曲で、ダーリンが彼の自宅を訪れた際、マレーの母ジーンから電話がかかって来て、彼女は新曲のテーマを「Splish, Splash, Take a Bath」(お風呂でチャプチャプ)にしようと提案した。 マレーとダーリンはそろってパッとしないテーマだと感じたが、ダーリンは「このテーマで曲を作れる」と言った。 それから1時間もしないで書き上げたのが“スプリッシュ・スプラッシュ”だった。初めてのニューヨーク発のロックンロールと言われた本曲は100万枚以上を売り上げ、全米チャート3位、全英でも18位に達した。なお、コンビを組んでいたカーシュナーはこの曲作りには関わっていなかった。 「ザ・ディンドンズ」なるバンドとともに録音した別バージョンもブランズウィック・レコードから出された。

 

この成功に続き、「ザ・リンキー・ディンクス」(Rinky-Dinks名義で“アーリー・イン・ザ・モーニング”(Early in the Morningを発表、最高24位で全米チャート入りした。また、"Queen of the Hop"は全米9位・全英24位になった。

 

 


1959年、ダーリンは自作したバラード曲“ドリーム・ラバー”(Dream Lover)をリリース。全米2位・全英1位に達する大ヒット、経済的にも成功を収めるようになった。なお、レコーディングではニール・セダカがピアノで参加。

 

3月、スタンダードを中心に収録したアルバム『That's All』をAtcoからリリース、全米7位・全英15に達した。

 

 

『That's All』からカットしたシングル“マック・ザ・ナイフ”(Mack the Knife)はクルト・ヴァイルの『三文オペラ』で使われた曲で、ジャズポップ調で演奏されている。当初、ヒットした“ドリーム・ラバー”と毛色の違う“マック・ザ・ナイフ”のシングル化にダーリン側は反対していたものの、9週連続で全米チャート1位を獲得し、200万枚を売り上げ、全英でも再び1位を獲得した。結果的にティーンのアイドルから大人の歌手へ変貌するきっかけとなった本曲で、ダーリンは同年の最優秀新人賞を受賞、1960年のグラミー賞にも輝いた。 また、同曲は後に殿堂賞も受賞した。


続いて“ビヨンド・ザ・シー”(Beyond the Sea)を発売、全米6位・全英7位になった。これはシャルル・トレネ(Charles Trenet)のフランス語のヒット曲“ラ・メール”(La Mer)をジャズ風にアレンジし、英語で歌った曲である。両曲ともアトランティック・レコードのアーメット・アーティガン、ネスヒ・アーティガンとジェリー・ウェクスラーがプロデュースし、リチャード・ウェスが編曲を担当した。

 

同年秋、CBSで放送されたジャッキー・クーパー主演のシットコムドラマ『ヘネシー』で、ハニーボーイ・ジョーンズ役を演じた。


1950年代後半には、ダーリンはマンハッタンのディスコ「コパカバーナ」で史上最高の客入りを記録したり、ラスベガスの主要なカジノでの呼び物であった。


1960年1月、アルバム『This is Darin』をリリース、全米6位・全英4位に達した。

ここから"Clementine"をカット、全米21位・全英8位を記録した。

 

 

同年、シェルドン・ハーニックとジェリー・ボックの作詞作曲で、ブロードウェイ・ミュージカル『テンダーロイン』の劇中歌“アーティフィシャル・フラワーズ” (Artificial Flowers)をリリース。 児童労働者の死をテーマにした悲劇的な歌詞が際立って対照的なビッグバンドのジャズ風にアレンジされた曲調で歌われた。

 

この年、さらに"Lazy River"をリリース、全米14位・全英2位に達した。

 

また、NBCで短期間放送された、スキップ・ホメイアー主演の犯罪ドラマ『ダン・レイブン』で自分自身の役を演じた。

同年、彼はハリウッドの5つの主要映画スタジオと契約した唯一の俳優となった。彼は出演したいくつかの映画で作曲も担当していた。

1960年代、ドリス・デイの息子テリー・メルチャーとともに、音楽出版・制作会社を立ち上げた。

ダーリンはロジャー・マッギン(Roger McGuinn)も指導し、バーズを結成する前まではマッギンはダーリンのナイトクラブで12弦ギターを演奏していた。

 

 

1961年5月、それまでのヒット曲を網羅した自身初のベストアルバム『The Bobby Darin Story』をリリース、全米18位に入った。

 

同年、オリジナルアルバム『Twist with Bobby Darin』をリリース、全米48位になった。本作からは、"You Must Have Been a Beautiful Baby"が全米5位・全英10位になったのをはじめ、"Irresistible You"が全米15位、"Multiplication"が全米30位・全英5位になった。

 

 

 

 

 

1962年、ダーリンはカントリー・ミュージックを作曲し始める。 “Things”(初恋の並木道)が全米3位・全英2位になったのをはじめ、翌1963年にかけて“You're the Reason I'm Living”(君のための僕)が全米3位、“18 Yellow Roses”(別れのイエロー・ローズ)が全米10位とヒットした。 “君のための僕”、“別れのイエロー・ローズ”の2曲はダーリンが1962年に移籍したキャピトル・レコードから発売された。

 

 

 

 

1963年、ウェイン・ニュートン(Wayne Newton)と契約し、“ダンケ・シェーン”(Danke Schoen)を提供すると、これが全米13位とニュートンにとって最初のヒット曲となった。

 

 

1964年、ダーリンはキャピトルを去り、アトランティックに戻っている。

 

 

1965年公開のディズニー映画『That Darn Cat!』ではオープニングとエンディングの曲を歌った。

 

 

1966年、ダーリンはティム・ハーディンのカヴァー“If I Were A Carpenter”(この小さな願い)のカヴァーをリリース、本国アメリカで2年ぶりにトップ10入りとなる全米8位、全英でも9位に入ったが、英国ではこれが最後のヒットとなった。

 

12月、アルバム『If I Were a Carpenter』をアトランティックからリリース、全米142位に入った。アルバムからはタイトルトラックの他、"Lovin' You"が全米32位にチャートインした。

 

 

 

 

1967年、ナンシー・シナトラのテレビ特番『ムービン・ウィズ・ナンシー』ではディーン・マーティンが“Things”を歌った。

ダーリンはジェイムズ・ダレン(James Darren/1936年6月8日-)とは関連がないが共通点が多く、名前が似ている、年齢が同じ、2人とも映画『ギジェット』に関わっている、ティーン世代のアイドルとして始まり、さらに晩年にはポップジャスのバラードを歌った経歴も同じであり、しばしば混同される。ジェームズ・ダレンは映画で主役「ギジェット」(演:サンドラ・ディー)の恋人を演じた。現実ではダーリンとサンドラ・ディーが恋人で、結婚している。

 


1968年、"Long Line Rider"をリリース、全米79位。

 

この年ダーリンはロバート・ケネディの大統領選挙戦に同行した。

6月4日、カリフォルニア州の予備選挙のため、ダーリンとケネディはロサンゼルスへ向かい、宿泊したアンバサダー・ホテルで夜にケネディが暗殺された。

同年、彼が32歳で政治への参入を検討していた時、ニーナはダーリンに真実を話し、自分が実の母親であることを告げたが、父親が誰であったか明らかにすることは1983年に死ぬまで拒み続けた。文字通りその秘密は墓場まで持っていかれた。この事実は彼にとって衝撃的なものであったと伝えられている。

ケネディの暗殺と、本当の親について知ったこととが合わさり、大きな影響を受けたダーリンは翌年の大半をビッグサー近くのトレーラーで隠居した。


1969年、ロサンゼルスに戻り、ディレクション・レコードというレーベルを立ち上げ、フォークソングやプロテストソングをリリースした。

同年、“Simple Song of Freedom”(自由の広場)を作曲し、ティム・ハーディン(Tim Hardin)に提供。後にダーリンがセルフカヴァーしている。

 

 

1970年、"Maybe We Can Get It Together"をリリース。

 

 

1971年1月に2つの人工心臓弁を埋め込む手術が行われた。彼はその年のほとんどを手術から回復するためのリハビリに費やした。

同年、"Melodie"をリリース。

 

 

1972年、初のセルフタイトルとなるアルバム『Bobby Darin』をモータウンからリリース。ランディ・ニューマンのカヴァー"Sail Away"や、"Average People"を収録。

 

 

7月27日、NBCのバラエティー番組、ディーン・マーティンプレゼンツ:『ザ・ボビー・ダーリン・アミューズメント・カンパニー』に出演し、9月7日まで7回にわたって放送された。NBCのよく似た番組『ザ・ボビー・ダーリン・ショー』にも出演し、1973年1月19日から4月27日まで13回にわたって放送された。ダーリンはその後もテレビ番組のゲストとして出演し、トップクラスの人気を維持していた。

11月23日、シングル"Happy"をリリース、全米67位とダーリンにとって久々の、そして生前最後の全米チャート入りとなった。

 

 

1973年、抗生物質を投与された後、重篤な敗血症になった。彼の体はさらに衰弱し、心臓弁の1つに影響を与えた。

12月11日、ロサンゼルスのシーダーズ・オブ・レバノン病院に出向き、2つの人工心臓弁を修復するために開胸手術が施された。

12月19日夕方、5人編成の手術チームが6時間にわり彼の傷ついた心臓を治療した。

12月20日午前、手術が終わってすぐ、ボビー・ダーリンは意識を取り戻すことなく、回復室で息を引き取った。37歳であった。

ダーリンの最後の遺言は、彼の体を医療研究機関に寄付することであった。彼の死後すぐに、亡骸はUCLAメディカルセンター(ロナルド・レーガン・メディカルセンター)に運ばれた。

 

ダーリンの死後から程なくして、シンガーソングライターのアラン・オデイ(Alan O'Day/1940年10月3日-2013年5月17日)が、多くの亡くなったミュージシャンを追悼する曲“ロックンロール天国”(Rock and Roll Heaven)を書いた。歌詞にはダーリン自身や代表曲“マック・ザ・ナイフ”が登場する。本曲はライチャス・ブラザーズ(The Righteous Brothers)に提供され、翌1974年に全米3位に達する大ヒットになった。

 

 

1974年、ベストアルバム『Darin: 1936-1973』がモータウンからリリース。

 

 

1990年、ダーリンはロックの殿堂入りし、親友のポール・アンカ(Paul Anka/1941年7月30日-)が名誉を発表した。



1998年、PBSによるドキュメンタリー番組『ボビー・ダーリン: ビヨンド・ザ・ソング』が放送された。

 

 

1999年、ダーリンはソングライターの殿堂入りを果たした。

 

2007年5月14日、ラスベガスを「世界のエンターテインメントの首都」にすることに貢献したとして、ラスベガス市内のウォーク・オブ・スターズにボビー・ダーリンの名が刻まれた。俳優としても活躍したダーリンはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにも星が埋め込まれている。


2009年12月13日、第52回グラミー賞で特別功労賞を受賞した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ボビー・ダーリン」「Bobby Darin」

 

 

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