ポール・アンカ(Paul Anka/出生名:Paul Albert Anka/1941年7月30日~)は、
カナダ出身の歌手、シンガーソングライター。
1941年7月30日、レバノンの正教徒移民の子として、カナダの首都オタワ(Ottawa)で生まれた。
1955年、アンカは最初のシングル“I Confess”を14歳でレコーディングした。
1957年7月2日、自分の弟のベビーシッターへの片思いを綴った自作曲“ダイアナ”(Diana) をリリースしデビュー、米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の総合シングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)2位にランクイン、同誌「Billboard Best Sellers in Stores」では1位に達した。また、英国をはじめ欧州各国でチャート1位を記録する大ヒットとなった。
同年、“君はわが運命”(You Are My Destiny)をリリース、Billboard Hot 100 チャートで7位まで上昇し、R&Bチャートでも14位まで上昇、英国でもシングルが発売され、6位まで上昇した。
1958年には、4位にランクインした"It's Time to Cry"や15位に到達した"(All of a Sudden) My Heart Sings"、“クレイジー・ラブ”などヒットを連発し、アンカは若干17歳で当時最大の10代のアイドルの1人になった。
同年、アンカは、バディ・ホリーのために“It Does n't Matter Anymore”を書いた。これは、ホリーが翌1959年に亡くなる直前に録音した楽曲となった。アンカは遺されたホリーの家族のためにこの楽曲の作曲家としての使用料をホリーの未亡人に与えた。
1959年、“あなたの肩に頬うめて”(Put Your Head on My Shoulder)が全米2位・全英7位と大ヒットした。
同年、フランス映画『お嬢さん、お手やわらかに!』(仏題:Faibles Femmes)の挿入歌“お嬢さんお手やわらかに”(It's Really Love)を担当。
彼はアイドル的存在でもあったが、ニール・セダカやデル・シャノンとともに、ポップスの草創期を代表するシンガーソングライターであり、その草分け的存在でもある。
1960年、彼は彼の最大のヒット曲の1つ“ロンリー・ボーイ”(Lonely Boy)を書き、録音した。
4月、アンカは自身にとり8番目のポップヒットとなった“マイ・ホーム・タウン”(My Home Town)を書き、録音した。
同年、“パピー・ラブ”(Puppy Love)をリリース。
同年、当時恋人関係にあったアネットに提供した“恋の汽車ポッポ”(Train of Love)をセルフカヴァー。 だがアンカのヴァージョンはヒットしなかった。
その後、彼はラスベガスのカジノで演奏した最初のポップシンガーの1人になった。
1962年、アンカはイタリアで“Ognigiorno”により1位を獲得した。
1963年、“Piangeròperte”がイタリアで2位になる。
1964年、“Ognivolta”がイタリアで続いて2位になる。この曲は同年のサンレモ音楽祭でアンカが歌い、イタリアだけで100万部以上を売り上げ、ゴールドディスクも授与された。
1968年にフランク・シナトラにスタンダード“マイ・ウェイ”(My Way)を提供する。これは、アンカがフランス人歌手クロード・フランソワの曲“Comme d'habitude”(コム・ダビチュード)の歌詞を英詞で書き直したもので、同年末12月30日に録音された。
1969年初めに発売されたシナトラの“マイ・ウェイ”は、アメリカでは総合シングル・チャートのビルボード・ホット100で27位、ビルボード・アダルト・コンテンポラリー・チャートで2位を記録し、イギリスでは40位以内に75週間もランクイン(1969年4月から1971年9月まで)する、とてつもない記録をつくった。75位以内ではさらに49週間もランクインしたが、最高位は最初にランクされた5位止まりだった。
1970年代初頭、アンカはブッダレコードと契約し、セルフタイトルの『ポールアンカ』(Paul Anka)との2枚のアルバムをリリースした。
1971年、ブッダからの第一弾アルバム『ポールアンカ』がリリースされ、同じ年にウェールズの歌手トム・ジョーンズの最大のヒット曲となるアンカが作曲した曲“シーズ・ア・レイディー” (She's A Lady) が含まれていた。だが、アンカのヴァージョンはチャートでは成功しなかった。
1972年、『ジュビレーション』(Jubilation)をリリース。
1974年、ユナイテッド・アーティスツと契約し、アルバム『アンカ』(Anka)をリリース、自己最高となる全米9位を記録した。
また、オディア・コーツ(Odia Coates)とデュエット曲“二人のきずな”([You're] Having My Baby)をリリース、全米1位に上昇させ、自身もシンガーとしてシーンにカム・バックした。
アンカとコーツはさらに3つのデュエットを録音し、トップ10に送り込んだ。7位になった“One Man Woman / One Woman Man”、8位に入った“I Don't Like to Sleep Alone”、そして“(I Believe) There's Nothing Stronger Than Our Love”。
1975年、彼はビル・レーン(歌詞)とロジャー・ニコルズ(メロディー)が書いたコダックのジングル“Times of Your Life”を録音した。それはとても人気があり、アンカはそれをフルソングとして録音し、1976年に米国のポップチャートで7位に達した。
同年、アルバム『Feelings』をリリース、全米36位。
同年、アルバム『Times of Your Life』をリリース、全米22位。
1978年、アルバム『愛の旋律(しらべ)』(LISTEN TO YOUR HEART)リリース、全米179位。
1983年夏、彼の米国での最後のトップ40ヒットとなった“Hold Me 'Til the Mornin 'Comes”には、当時のシカゴのフロントマン、ピーター・セテラのバックヴォーカルが含まれており、ホットアダルトコンテンポラリーチャートで2位になった。
同年、アンカはマイケル・ジャクソンと楽曲を共同制作していたが、『スリラー』の大ヒットでマイケルが多忙になりレコーディングは中止になった。
1990年、ポール・アンカはアメリカ市民権を獲得した。
1998年のアルバム『A Body of Work』は、1983年の『Walk a Fine Line』以来のアンカの新しい米国のスタジオリリースとなった。ヴォーカリストとパフォーマーには、セリーヌ・ディオン、ケニー・G、パティ・ラベル、スカイラー・ジェットが含まれている。アルバムには、ピーター・セテラと再び共演した“朝のとばり”の新バージョンが収録されている。
2002年、日本テレビ系ドラマ『ゴールデンボウル』の主題歌に“君は我が運命”が起用され、劇中でもアンカの楽曲が何曲も使用された。
2005年、ハードロック、グランジ、ソウルなどの曲をジャズのアレンジでカヴァーしたCD『ロック・スウィングス』(Rock Swings)を発表した。
2006年、アンカは1960年代のイタリアのヒットメーカーであるアドリアーノ・チェレンターノとのデュエットで“ダイアナ”の新しいカヴァーを録音、セレンターノ・モゴルによるイタリア語の歌詞とシンガーソングライターのアレックス・ブリッティによるギター演奏が加わり、ヒットした。
2009年10月12日、1983年にマイケル・ジャクソンと共同制作した“THIS IS IT”が全世界に向けて公式ウェブサイトで公開配信された。
2011年11月、アルバム『Songs of December』がカナダで58位にランクイン。
2013年、アルバム『Duets』をリリース、全米95位。
2014年、マイケル・ジャクソンと1983年に共作した“ラヴ・ネヴァー・フェルト・ソー・グッド”(Love Never Felt So Good )がリリースされた。
現在もラスベガスを代表するスターとして活躍している。
(参照)
Wikipedia「ポール・アンカ」「Paul Anka」