コニー・フランシス(Connie Francis/本名:Concetta Rosa Maria Franconero/1938年12月12日~)は、アメリカ合衆国の歌手・女優。


 

 

1938年12月12日、コンチェッタ・ローサ・マリア=フランコネロは、ニュージャージー州ニューアーク(Newark)のアイロンバウンド(Ironbound)地区にあるイタリア系アメリカ人の家族に生まれた。ジョージとアイダ(旧姓フェラーリ・ディ・ヴィート)のフランコネロ夫妻の最初の子どもであった。

イタリア系ユダヤ人の近隣で育った彼女は、イディッシュ語(Yiddish/東欧のユダヤ人の間で話されていたドイツ語に近い言葉。「ユダヤ語」とも称される)に堪能になり、後にイディッシュ語とヘブライ語(Hebrew)で曲を録音するようになった。

4歳の頃、父親から、歌手およびアコーデオン奏者として、タレントコンテストや近所の祭りに定期的に出演するように勧められたという。

 

11歳の頃からショーに出演し始める。


1951・1952年、フランシスはニューアークアーツ高校に通ったが、彼女は家族とともにニュージャージー州ベルビルに移り、ベルビル高校に転校。

1955年、彼女はベルビル高校をクラスで次席という成績で卒業した。

この間、フランシスは近所のお祭りやタレントショーに出演し続け、タレントショーは一部テレビでも放送された。ステージネームは「コンセッタ・フランコネロ」や「コニー・フランコネロ」等を使っていた。

 

1953~1955年、「コニー・フランコネロ」の名前で、彼女はNBCのバラエティ番組『Startime Kids」に出演した。

『アーサー・ゴッドフリーのタレント・スカウト』に出演するためのリハーサル中、フランシスはゴッドフリーから、発音を簡単にするために芸名を「コニー・フランシス」に変更するようにアドバイスされた。ゴッドフリーはまた、アコーディオンを止めるように彼女に言った。彼女は大きくて重い楽器を嫌い始めたので、喜んでアドバイスに従った。

同じ頃、フランシスはデモンストレーションレコードの歌手としての仕事を引き受けた。

 


1955年、“Freddy”で歌手デビューしたが、2年ほどの間、ヒットは出なかった。

 

 

1957年秋、マーヴィン・レインウォーターとデュエットしたシングル“The Majesty of Love”で初めて『ビルード』誌の総合シングルチャート「ビルボード・ホット100」(以下「全米」)に入り、最高位93位を記録。最終的に、シングルは100万部以上を売り上げた。

 

11月、“フーズ・ソリー・ナウ”(Who's Sorry Now?)発売、全米4位に達し、イギリスではシングルチャート(以下「全英」)1位に入る大ヒット。モノラル録音。それまで9作のシングル盤が発売されたがヒットせず、次の10作目で売れなければ契約打ち切りとレコード会社から言われていた中、コニーに対して父ジョージが、最後かもしれないなら自分の大好きな曲を歌ってほしいと頼んだことで、このアイシャム・ジョーンズが1923年に放ったヒット曲のカヴァーをレコーディングする運びとなった。コニーは当初、「30年以上も前の古臭い曲は嫌だ」と渋ったが、結果的には大ヒットとなり、コニーは歌手を続けられることになった。まさに、彼女の人生を変えた曲である。 また、彼女は後に、「 "Who's Sorry Now?" 以前の曲は全て、今回は誰風に歌おうと考えて歌っていたが、この曲では誰の真似でもなく自然に歌えた」と話している。彼女自身が自分の歌い方を見つけた、大きな転換点となる曲でもあった。

 

 

1958年4月、“アイム・ソーリー・アイ・メイド・ユー・クライ”(I'm Sorry I Made You Cry)発売。全米36位。モノラル録音。

 

7月、“間抜けなキューピッド”(Stupid Cupid)発売。全米14位・全英1位。モノラル録音。

 

11月、“マイ・ハピネス ”(My Happiness)発売。全米2位・全英4位。ステレオ録音。

 

 

1959年5月、“カラーに口紅”(Lipstick On Your Collar)発売。全米5位・全英3位。ステレオ録音。日本ではみナみカズみの訳詞で森山加代子や小泉今日子らが、山川啓介の訳詞で伊東ゆかりがカヴァーした。

 

11月、ロンドンのアビーロード・スタジオでレコーディングしたアルバム『Connie Francis Sings Italian Favorites』を発売、全米4位。

 

11月、“アモング・マイ・スーベニル”(Among My Souvenirs)発売。全米7位・全英11位。モノラル録音。

 

 

1960年、“Mama”発売、全米8位・全英2位。B面はアメリカ盤が“Teddy”で全米17位だったが、イギリスでは“Robot Man”を収録して全英2位。

 

同年、“Jealous of You (Tango Della Gelosia)”を発売するとA面曲は全米19位に終わったが、B面に収録した“Everybody's Somebody's Fool”が全米1位・全英5位の大ヒットとなった。

 

同年、“My Heart Has a Mind of Its Own”が全米1位・全英3位。

 

この年、アルバム『More Italian Favorites』を発売、全米9位。

 

 

1961年1月、“ボーイ・ハント”(Where The Boys Are)発売。全米4位・全英5位。ステレオ録音。

 

同年、“Together”が全米6位・全英6位になった上、『ビルボード』誌のアダルト・コンテンポラリーのシングルチャート(以下「AC])で女性アーティストとして初めて1位を獲得した。アメリカ盤B面の“Too Many Rules”は、アメリカでは72位だったが、日本では“大人になりたい”のタイトルで伊東ゆかり、後藤久美子などがカヴァーして大ヒットした。

 

 

同年、“可愛いベイビー”(Pretty Little Baby)を発表。日本で1962年に中尾ミエ(ビクター)、森山加代子(東芝)、沢リリ子(テイチク)、後藤久美子(コロムビア)の4社競作でカヴァー、中でも中尾ミエのバージョンが一番売れた。アメリカではアルバム『Connie Francis sings "Second Hand Love"』に収録されたのみで、シングル発売されておらず、日本独自のヒット曲である。また、日本でのヒットを受けてコニー自身が漣健児による日本語詞で歌ったシングル“大人になりたい/かわいいベイビー”が日本で発売された。

 

同年、“Breakin' in a Brand New Broken Heart”発売、全米7位・全英12位。B面の“Someone Else's Boy”は全米109位止まりだったが、日本では“夢のデイト”の邦題が付けられ、独自にヒットした。

 

 

8月10日、アルバム『Connie Francis sings "Never On Sunday"』発売、全米11位。

 

 

1962年1月、“泣かせないでね”(Don't Break The Heart That Loves You)発売。自身3曲目の全米ナンバーワンヒットとなる、全米1位・AC1位。ステレオ録音。

 

7月、“ヴァケイション”(Vacation)発売。全米9位・全英10位。ステレオ録音。同年に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子、弘田三枝子、安村昌子らによる競作でカヴァー。当時の洋楽曲の日本語カヴァーは、競作の場合歌詞違いになることがしばしばあったが、本曲はすべて漣健児の同一日本語詞であった。なお曲名表記は青山・伊東・弘田版が「ヴァケイション」、金井版が「バケイション」、安村版が「バケーション」と若干の違いがある。弘田三枝子盤が20万枚、青山ミチ盤が3万枚のヒットとなる。1993年にMi-Keがアルバム『甦る60's 涙のバケーション』にて英語詞と漣健児の日本語詞でカヴァー(他に「想い出の冬休み」「夢のデイト」「大人になりたい」も収録)。2002年、映画『ナースのお仕事ザ・ムービー』主題歌として観月ありさが漣健児の日本語詞でカヴァー(曲名表記は「VACATION」、「朝倉いずみ with ナースのお仕事」名義)。また、コニー自身が漣健児の日本語詞でも歌っている。イタリア系のコニーには、ラテン系のイタリア語、スペイン語と母語が同じ5つの日本語が外国語で一番歌いやすく、録音時間も短かったと語っている。

 

同年、アルバム『Connie Francis sings "Second Hand Love"』発売、全米111位。

 


この他、“ロリポップ・リップス”(Lollipop Lips)が、アメリカでは発売されなかったが、日本独自でヒットとなり、渡辺トモコや「九重佑三子とダニー飯田とパラダイス・キング」が競作でカヴァーし話題になった。

 

 

しかし1960年代初頭から中期にかけてのトレンドの変化、つまりブリティッシュ・インベイジョンにより、フランシスのチャートdの成功は1963年以降衰え始めた。

 

 

1963年、“Follow the Boys”が全米17位、“If My Pillow Could Talk”が全米23位、“Drownin' My Sorrows”が全米36位、“Your Other Love”が全米28位を記録した。

 

 

 

 

 

1964年、“Blue Winter”を発売、全米24位。

 

同年、“Be Anything (But Be Mine)”を発売、全米25位。

 

 

1967年、“Time Alone Will Tell”を発売、全米94・AC14位。

 

 

1974年11月8日、ウエストベリー音楽フェアに合わせてニューヨーク市内でホテルに滞在中、突如客室内に不法侵入した男から強姦被害を受ける(犯人は未だに逮捕されていない)。その後、安全性を確保しなかったとして、彼女はモーテルチェーン側を提訴し、その結果、約300万ドルを支払うよう判断が示された。

 

 

1977年、フランシスは鼻の手術を受け、完全に声を失った。彼女は歌声を取り戻すためにさらに3回の手術を受け、4年間歌うことができなかった。

 

 

1978年、フランシスはレコーディングスタジオに戻って『Who's Happy Now?』というタイトルのアルバムを発売。このアルバムには、“Where the Boys Are”のディスコバージョンを収録した。

 

 

 

1981年、“Comme ci、commeça”と“I'm Me Again”をカットした。新曲をフィーチャーしたアルバムのタイトルトラックになった“I'm Me Again”は、フランシスのACチャートでの最後のシングルになった。

 

同年、彼女の兄弟ジョージ・フランコネロ・ジュニアがマフィアの殺し屋に殺害されるという、さらなる悲劇がフランシスを襲った。

 

それにもかかわらず、彼女は再びライヴパフォーマンスを始め、アメリカンバンドスタンドの30周年記念特別エピソードを手に入れ、レイプされた町を訪れた。フランシスの新たな成功は短く、躁うつ病と診断されたため、彼女のキャリアは再び停止し、複数の精神病院に入院した。

フランシスは1984年に自殺未遂を試みた。

それにもかかわらず、1984年に、フランシスは彼女の自伝『Who's Sorry Now?』を書き、出版する。これはニューヨークタイムズのベストセラーになった。

 

 

1989年、フランシスは自身のヒット曲の再録音を含む2枚組アルバム『Where the Hits Are』をマラコレコードから発売。

 


1992年、彼女のドイツにおけるヒット曲メドレーのリミックスバージョンのメドレー“Jive,Connie”というタイトルのシングルは、同年のベストセラーシングルのトップ10にランクインし、コニー・フランシスは、当時ドイツで最も重要な民間ラジオ局の1つであるR.SH(RadioSchleswig-Holstein)から「ベストカムバックオブザイヤー」として名誉あるR.SHゴールド賞を受賞した。オリジナルバージョンのヒット曲を集めたコンピレーションアルバムもリリースされた。

 

これを受けて、フランシスは、1950年代後半から1960年代初頭にすでに数回働いていたピーター・クラウスとのドイツのヘルツクランレーベル(ソニーミュージックエンタテインメントの子会社)の2つのデュエットを録音した。ドイツ語のソロアルバムがHerzklangに続くことになっていたが、すべての曲が録音されてミックスまで終わっていたにもかかわらず、アルバムは未発表のままである。

1996年に、フランシスはライヴアルバム『The Return Concert:Live at Trump's Castle』を発売。

同年、彼女はまた、故バディ・ホリーのトリビュート・アルバム『ウィズ・ラブ・トゥ・バディ』(With Love To Buddy)をリリースした。

 

 


2004年12月下旬、フランシスは1989年以来初めてラスベガスでヘッドラインを飾った。

 

2007年3月と10月に、フランシスはサンフランシスコのカストロ劇場で売り切れた群衆に出演しました。

 

2008年2月14日、バレンタインデーの子の日、フィリピンのマニラでコンサートに出演した。

2010年、彼女はディオンヌ・ワーウィックと一緒にラスベガスヒルトンにも出演した。]

2017年12月、フランシスは彼女の最新の自伝 『想い出の中に』を発表した。

 

 

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(参照)

Wikipedia「コニー・フランシス」「Connie Francis」