アルバート・キング(Albert King/出生名:Albert Nelson/1923年4月25日~1992年12月21日)は、アメリカ合衆国のブルーズ・ギタリスト、シンガー。

 

 

 

1923年4月25日、アルバート・ネルソンはアメリカ合衆国ミシシッピ州インディアノーラ(Indianola, Mississippi)の綿花畑で13人の子どものうちの1人として生まれる。

ただし、この時代のアフリカ系アメリカ人には多く見られることだが、出生に関する情報には不確かなものが多い。アルバートも多分に漏れない。

彼は生前あるインタビューで、1923年(または1924年)4月25日 にインディアノーラで生まれ、B.B. キング (インディアノーラ出身) の異母兄弟であると述べたが、文書によるとそうした証拠はない。キングは、インディアノーラのクラブ・エボニーで演奏する時はいつでも、このイベントは帰郷として祝われたと述べ、B.B.の父親がアルバート・キングと名付けられたという事実を引用した。しかし、1942年に社会保障カードを申請した時、彼は出生地を「Aboden」(Aberdeen, Mississippiである可能性が最も高い)と名乗り、名前をアルバート・ネルソンと署名し、父親をウィル・ネルソンと記載した。また、付き合いのあったミュージシャン仲間は、1940年代から1950年代初頭にかけて、彼をアルバート・ネルソンとしても知っていた。

 


子どもの頃、彼は父親がギターを弾いていた家族のゴスペルグループと一緒に教会で歌っていたという。

 

5歳の頃、父親が家を出る。

8歳の時、父と離婚した母親とともにアーカンソー州フォレストシティに移住。彼の家族はミシシッピ州アルコラにも一時期住んでいたと彼は言った。

綿花畑で働きながら、ブラインド・レモン・ジェファーソンなどに感銘を受けた彼は、ブルーズをプレイするようになる。彼の最初の「ギター」は、葉巻の箱、茂みの切れ端、ほうきのワイヤーで作ったものだった。 彼は後に本物のギターを 1.25 ドルで購入した。独学でギターを習うアルバートは左利きだったため、右利き用のギターをひっくり返して演奏した。

彼は綿を摘み、ブルドーザーを運転し、建設で働き、ミュージシャンとして自分自身を支えることができるようになるまで他の仕事をつづけた。

1950年、アルバート・キングが本格的に音楽活動するきっかけとなったのは、アーカンソー州オセオラ(Osceola, Arkansas)という街でT-99クラブの経営者との邂逅だった。

オセオラに移住したアルバートは、同クラブのレギュラー・バンド「ザ・グルーヴ・ボーイズ」(the Groove Boys)に参加。このバンドは他のクラブでもギグをこなし、またラジオ番組のショーでもプレイしていたという。

 

1953年、オセオラで数年活動したアルバートは、インディアナ州ゲイリー(Gary, Indiana)に拠点を移し、ジミー・リード、ジョン・ブリムらと活動するようになった。リードとブリムがギタリストであったため、アルバートはこの時はドラムスを叩いていた。この頃のリードのレコードでも彼はドラマーとして参加している。

 

彼が「アルバート・キング」(Albert King)という芸名を名乗るようになったのはこの頃である。"Three o' Clock Blues"をヒットさせたB.B.キングの成功にあやかってのことであった。
11月、パロット(Parrot)・レーベルでのセッションで“バッド・ラック・ブルース”(Bad Luck Blues)を録音、これが自己名義の初レコーディングと言われている。ゲイリーに移住して間もなく、アルバートはウィリー・ディクソンと出会い、彼の口利きによって同レーベルでのレコーディングの機会を得たのだった。しかし、ここでは1回のセッションで5曲をレコーディングだけに終わった(うち3曲がチェスのアルバム『Door To Door』収録)。このレコーディングには後にみせる強烈な個性はまだ殆ど窺い知ることができない。また、当時リリースされたのは、翌1954年のシングル"Bad Luck Blues" / "Be on Your Merry Way"の1枚のみであった。

 

 

1954年、オセオラに戻り、再びイン・ザ・グルーヴ・ボーイズでの活動を再開した。

オセオラでの2年間の活動の後、次にアルバートが向かったのはセントルイスだった。彼のトレードマークとなるフライングVギター(1958 Korina V)を使用するようになり、この愛器に愛情をこめて「ルーシー」(Lucy)と名付けて演奏、自身のプレイスタイルのベースを形成するようになったのは、このセントルイス時代のことである。

 

1959年、セントルイスで活躍して人気を得た後、地元のボビン(Bobbin)・レーベルと契約。同レーベルでのアルバートのサウンドはジャンプ・ブルーズっぽいが、ギターもヴォーカルも個性が出てきている。3年間で同レーベルからが8枚のシングルをリリース。

 

 

1961年、"Don't Throw Your Love on Me So Strong"をリリースすると、R&Bチャート14位というヒットを記録した。

 

 

1963年にはキング、1964年にはカントリー(Coun-tree)へレコーディングを残しているが、いずれも単発的なものであった。

 

 

1966年、有名なスタックス・レコードと契約し、代表作を発表し始める。スタックスではブッカー・T&ザ・MG'sがバックを付け、ファンキーでソウルフルな新たな境地と言うべきサウンドを切り開いた。

同年、スタックスでは初期からいきなり"Laundromat Blues"が米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の「Rhythm and Blues」チャート(以下「R&B])で29位をマーク。

 

 

1967年、次いで"Crosscut Saw"が34位、"Born Under A Bad Sign"が49位をマークするなど、R&Bチャートに登場した。ただし、ブルーズは白人にとっては新しくても、黒人にとってはすでに最先端の音楽ではなく、時代遅れとなっていた。そのため、彼の曲はR&Bチャートでも小ヒットに終わっている。

 

 

8月、これらの曲を収録したスタックス1枚目となるコンピレーション・アルバム(LP)『Born Under A Bad Sign』をリリース。

※映像は収録曲“Oh Pretty Woman”の1970年ライヴ演奏のもの。

 

 

 

1968年、シングル“Cold Feet" / "You Sure Drive a Hard Bargain"がR&B20位・全米67位、 "(I Love) Lucy" / "You're Gonna Need Me"がR&B46位、また、"Blues Power" / "Night Stomp"もシングルとして発表した。

 

 

同年、スタックスでの成功からアルバートは、「フィルモア・ウェスト」にも出演するようになった。

11月、同年夏のフィルモアでの演奏がライヴ盤『Live Wire/Blues Power』としてリリースされ、R&B40位・全米150位をマークした。

 

 

 

1969年、コンピレーション・アルバム『King of the Blues Guitar』をリリース、全米194位をマークした。

同年、シングル"The Hunter" / "As the Years Go Passing By"、"Drowning on Dry Land Pt. I" / "Pt. II"等をリリース。

 

 

5月、アルバム『Years Gone By』をリリース、『ビルボード』誌の総合アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)113位をマーク。


1970年代に入っても、アルバートはマイ・ペースで活動を続けた。

1970年、シングル"Can't You See What You're Doing to Me" / "Cold Sweat"をリリース、R&B50位・全米127位に達した。

 

 

1971年、シングル"Everybody Wants to Go to Heaven" / "Lovejoy, Ill."をリリース、R&B38位・全米103位をマーク。

 

7月、アルバム『Lovejoy』をリリース、『ビルボード』誌のR&Bアルバム・チャート(以下「R&B」)29位・全米188を記録した。同作ではローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)のヒット・ナンバー"Honky Tonk Women"を自分のサウンドにして発表するなど、より幅広い音楽性をみせるようになっていた。ギターのフレーズ数は決して多くない彼だが、新しいサウンドを消化する力には長けていた。

 

 

 

1972年、シングル"Angel of Mercy" / "Funky London"がR&B42位、"I'll Play the Blues for You Pt. I" / "Pt. II"がR&B31位、"Breaking Up Somebody's Home" / "Little Brother (Make a Way)"がR&B35位・全米91位に到達した。

 

 

 

同年、アルバム『I'll Play the Blues for You』をリリース、R&B11位・全米140位をマークした。

 

8月20日、1965年8月11日に勃発した「ワッツ暴動」(Watts Riots)の7周年を記念してロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたコンサート「ワッツタックス」(Wattstax)に出演。

 

 

1973年、前年のワッツタックスにおける公演の様子が、メル・スチュワート監督の手によりドキュメンタリー映画となり、アルバートの演奏曲目では“I'll Play The Blues For You”が収録された。


1975年、スタックスが倒産。アルバートはユートピア(Utopia)へ移籍し、同レーベルとトマト(Tomato)・レーベルから作品を発表し続ける。

 

 

1976年、アルバム『Truckload of Lovin'』をUtopiaからリリース、R&B26位・全米166位を記録した。

 

同年、アルバム『Albert』をリリース、R&B54位に達した。

 

 

1977年、アルバム『King Albert』をTomatoからリリース。

 

 

1978年、B.B.キングとのジョイントで初来日。

同年、アラン・トゥーサンらを迎えてニューオーリンズで録音したアルバム『New Orleans Heat』をトマトからリリース(R&B78位)するなど、新たな試みも生まれている。

 

 

1980年代に入るとアルバートは、ファンタジー(Fantasy)・レコードと契約。

 

 

1983年、アルバム『San Francisco '83』をリリース。

 

 

1984年、ファンタジーから2枚目のアルバム『I'm In a Phone Booth Baby』をリリース、タイトル・トラック"I'm In a Phone Booth Baby"はロバート・クレイの楽曲のカヴァーだが、オリジナルとは異なるアルバート節を聴かせており、健在ぶりを印象づけた。

 

 

 

1986年、アルバム『The Lost Session (archive release; recorded 1971)』をリリース。

 

 

1989年、B.B.キングとともに再来日を果たした。
 

 

1990年、ゲイリー・ムーア(Gary Moore/1952年4月4日-2011年2月6日)のアルバム『スティル・ゴット・ザ・ブルーズ』(Still Got the Blues)にゲスト参加した。アルバートのレパートリーのカヴァー"Oh Pretty Woman"にてムーアとともにリード・ギターを担当、MVにも出演してムーアと共演している。

 

 

1991年、アルバム『Red House』をEssentialからリリース。ゲスト・ギタリストにイーグルスのジョー・ウォルシュ(Joe Walsh/1947年11月20日-)を迎え、ロック的なサウンドに仕上がっているが、ジェームス・テイラー(James Taylor/1948年3月12日-)の"Don't Let Me Be Lonely"のカヴァーなど、意外な選曲も見られた。これが彼の生前リリースしたラスト・アルバムとなった。

 


1992年12月、ロサンゼルス郊外で行ったコンサートが彼の最後の公演となった。


1992年12月21日、アルバート・キングの名で知られたアルバート・ネルソンは、メンフィス(Memphis)の自宅にて心臓発作のため急逝。数日前のロサンゼルス郊外での公演を終え、自宅に戻ってきた矢先の出来事であった。

 

 

彼はメンフィス・ホーンズが「聖者たちが行進するとき」を演奏する葬列に送られ、幼少期の家の近くのアーカンソー州エドモンドソン(Edmondson, Arkansas)のパラダイス・ガーデンズ墓地に埋葬された。彼の墓標には相棒フライングVのデザインが刻まれている。


アルバート・キングは妻のグレンドルによって送られた。二人の間には、2人の娘、エブリン・スミスとグロリア・ランドルフと、息子のドナルド・ランドルフ、そして孫が8人、ひ孫が10人いた。また、姉妹として、エルビー・ウェルズがいた。

 

 

 

こうした家族以上にアルバートが遺したものが、後進への影響である。

チョーキングを多用した彼のシンプルかつ豪快なプレイは、ブルーズ界のみならず、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスらロック・ギタリストにも多大な影響を与えた。

 

なお、アルバート・キングは、B.B.キング、フレディ・キングと並び、ブルーズ・ギタリストの3大キングと称される。ただし血縁関係はない。

 

 

 

 

1999年、アルバム『In Session (with Stevie Ray Vaughan)』がStaxからリリース、アメリカのブルーズ・アルバム・チャートで1位を獲得した。

 

 


2013年、アルバート・キングはロックの殿堂入りを果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アルバート・キング」「Albert King」

 

 

 

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