ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix/本名:James Marshall Hendrix/1942年11月27日~

1970年9月18日)は、アメリカ合衆国のギタリスト、シンガーソングライター。

 

 

1942年、ワシントン州シアトルで生まれる。出生名は、ジョニー・アレン・ヘンドリックス(Johnny Allen Hendrix)で、母ルシール(1925〜58)が名付けた。父のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックス(1919〜2002)は、アフリカ系の父親とインディアンの母親との間に生まれたブラック・インディアンである。父方の祖母ノラ・ヘンドリックスは純血のチェロキー族だった。母ルシールは17歳でジミを産んだが、遊び好きで家庭を顧みない面があったと言われ、幼いジミを置いて出奔し、数年後に死亡している。名曲“Angel”は、亡きルシールが夢に現れたことから生まれたとされる。

 

ジミの誕生時、アルは第二次世界大戦に招集され出征中だった。母が出奔したためジミはルシールの姉夫婦の元で育てられた。終戦後の1945年、アルが帰国後ジミを引き取り、父一人息子一人の生活が始まった。この頃、ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスと改名。幼少期のジミは度々インディアン居留地(Reservation)に住む祖母ノラの元に預けられた。ジミはノラからインディアンの昔話を聞かされると同時に、居留地で希望ない生活を送る彼らの姿を目の当たりにしていた。“I Don't Live Today”(今日を生きられない)はその体験から生まれたと言われている。

 

父アルの仕事は庭師で生活は貧しかったが、ジミが15歳の頃、ギターに興味を示したため、当時のアパートの家主の息子からアコースティック・ギターを5ドルで買い取り、ジミに与えた。その後、ジミはシアトルの楽器店から初めてエレクトリック・ギターを購入している。ジミは、ブルーズやR&B、ロックンロールのレコードを聴き練習する一方、テレビのアニメなどのBGMや効果音も熱心にコピーしていたという。

青年期のジミは、アマチュア・バンドで経験を積み、全米ナンバー・ワンバンドの座を得たこともあったという。

 

1961年5月2日、自動車窃盗の罪で逮捕された。その際、投獄回避のため陸軍に志願して入隊、精鋭部隊・第101空挺師団へ配属された。軍役の仲間には、後のバンド・オブ・ジプシーズを組むベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあった。当時はベトナム戦争開戦直後で、ジミはベトナムの戦地には行っていないが、この従軍経験がウッドストック・フェスティバルでの“星条旗” (アメリカ国歌)の演奏や、バンド・オブ・ジプシーズの“マシン・ガン”の創作につながったと言われている。

 

やがてジミは陸軍を除隊。最終階級は三等軍曹。

除隊後に本格的な音楽活動を始めるが、当初は無名のバックミュージシャンだった。アイク & ティナ・ターナーやアイズレー・ブラザーズなど、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期はリトル・リチャードのツアーにバックメンバーで参加しており、音が大きく衣装やアクションが派手だったことから、リチャードに「俺より目立つな!」と怒られるほどだったという。

 

1966年7月、当時のジミは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」を率いていたが、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーにジミ一人がスカウトされる。チャスにジミの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズの恋人だったリンダ・キースである。

9月に渡英、ロンドンでオーディションを行い、ノエル・レディング(B)、ミッチ・ミッチェル(Ds)とともに「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」(The Jimi Hendrix Experience)を結成。同年10月から活動を始める。この際に名前をジェームズ(Jimmy)から、ジミ(Jimi)に変えた。

イギリス国内でクラブ出演を重ねる一方、ポリドール系のトラックレコードからデビューシングル“Hey Joe / Stone Free”をリリース。全英4位のヒットを記録しスターの座に上る。

 

 

1967年、シングル“パープル・ヘイズ”(紫のけむり)をリリース、全英3位。

 

シングル“ジ・ウィンド・クライズ・メアリー”(風の中のメアリー)をリリース、全英6位。

 

5月12日、英国でファーストアルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』(Are You Experienced)をリリース、全英2位の大ヒットとなった。英国で発売されたオリジナル盤は、既発のシングル3曲は含まず、“今日を生きられない”(I Don't Live Today)など全て新曲で構成された。ギターのフィードバック奏法で始まる“フォクシー・レディ”、テープの逆回転を取り入れた“アー・ユー・エクスペリエンスト?”等、当時としては最先端の音作りを駆使しているが、その一方で、伝統的な12小節形式のブルース・ソング“レッド・ハウス”もある。

 

 

 

6月、バンドは米カリフォルニア州モンタレーで開催された世界初の本格的野外ロックイベント「モンタレー・ポップ・フェスティバル」に出演。これは同フェスの英国における世話役だったポール・マッカートニー(ビートルズ)が、「ジミを出さないフェスティバルなどありえない」と熱心に推挙したためと言われる。ジミはモンタレーにて、演奏とギター燃やしのパフォーマンスで聴衆を圧倒、母国アメリカでも一気にスターダムにのし上がった。

8月23日、イギリス盤アルバムに収録しなかったシングルも収めたアメリカ盤『アー・ユー・エクスペリエンスト?』がリリースされ、全米5位を記録した。

12月1日、セカンドアルバム『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』(Axis: Bold as Love)を英国でリリース、全英5位を記録した。アメリカでは翌1968年1月15日にリリースされ、全米3位に達した。ジミの代表的なバラード“リトル・ウィング”を収録。その一方で、冒頭の「放送局EXP」や、ギター・ソロでフェイザーを使用した“ボールド・アズ・ラヴ”等、実験的な音作りも行われている。

 

 

 

1968年4月、英国でコンピレーションアルバム『スマッシュ・ヒッツ』(Smash Hits)をリリース、イギリス盤は1968年までのアルバム未収録シングル曲を全曲収録し、全英6位。アメリカ盤は翌1969年7月にリリースされ、『アー・ユー・エクスペリエンスト?』に対応して、英米で内容が異なる。全米4位。

 

 

10月16日、母国アメリカで3枚目のアルバム『エレクトリック・レディランド』(Electric Ladyland)をリリース、全米1位に輝いた。英国版は10月25日リリースで、全英6位。

 

本作には多数のゲスト・ミュージシャンが参加。トラフィックのギタリスト、デイヴ・メイソンが“クロスタウン・トラフィック”でバックヴォーカルを担当し自身のバンド名「Traffic」のフレーズを歌唱、ボブ・ディランのカヴァー“ウォッチタワー”(見張塔からずっと)で12弦ギターを演奏。同じくトラフィックからスティーヴ・ウィンウッドが“ヴードゥー・チャイル”に、クリス・ウッドは“1983”に参加。他にもローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディ等が参加した。ワウを多用した“ヴードゥー・チャイルド (スライト・リターン)”(Voodoo Child[Slight Return])はジミの代表曲のひとつであり、死の直前に至るまでライヴで頻繁に演奏された。

 

 

 

 

 

本作のレコーディング時期にチャスがジミのもとを去る。

 

 

1969年6月、ノエル・レディングがバンドを脱退。エクスペリエンスは事実上崩壊する。

ジミはミッチ・ミッチェル(Ds)と、軍隊時代からの友人ビリー・コックス(B)とともに、「ジプシー・サンズ&レインボウズ」として活動を開始。3人編成だったエクスペリエンスに対し、このバンドでジミはビッグバンド編成を目指した。

8月17日、ジミはジプシー・サンズ&レインボウズを従えてウッドストック・フェスティバルに最終日のトリとして出演、フィードバックやアーミングなどエレクトリックギターの特殊奏法の限りをつくして、アメリカ国歌“The Star Spangled Banner”を演奏した。この際にジミは、爆撃機が空爆を行い民衆が泣き叫び逃げまどう様子を音で再現しており、一般にはベトナム戦争の戦場の様子を現した演奏と言われている。

 

10月、ビッグバンドの維持発展に失敗したジミは、ビリー・コックス(B)、バディ・マイルス(Ds)と、全員アフリカ系という3人編成の「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成。

 

1969年12月31日〜1970年1月1日、ニューヨークのフィルモア・イーストで新バンドのデビューコンサートを実施。同コンサートにおける“Machine Gun”の演奏を聞いたマイルス・デイヴィスは「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と語ったという。

 

ジミがアフリカ系アメリカ人2人と組んだ画期的なファンクロックバンドだったバンド・オブ・ジプシーズだが、ジミのマネージメント側はアフリカ系だけのグループに難色を示した。その後マディソン・スクエア・ガーデンでの大規模公演が失敗に終わり、ジミとバディの音楽面での確執もあったとされる

 

1970年1月28日のライヴを最後にバンドは解散と短命に終わった。

バンド・オブ・ジプシーズ解散後は、旧知のミッチ・ミッチェル(Ds)とビリー・コックス(B)をバックに活動を再開し、アメリカやヨーロッパ、ハワイなどでコンサートを開催。また、NYに自身のスタジオ、エレクトリック・レディ・スタジオを建設。4作目のスタジオ・アルバムを構想、レコーディングにも取り組んだ新作はLPレコード2枚組以上のものを考えており、A面からC面までの仮の収録曲を書いたメモが残されている。アルバム・タイトルとしては、『People, Hell & Angels』、『Strate Ahead』(原文ママ)といった候補もあったが、彼の死後、『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』のタイトルでリリースされたものが内容も含めジミの構想に最も近いとされている。

3月25日、新バンド初で、かつ唯一のアルバムはNYでのデビューコンサートの模様を収めた

ライヴ盤『バンド・オブ・ジプシーズ』(Band of Gypsys)となり、まずはアメリカで発売され、

全米5位。イギリス盤は6月15日発売で、全英6位を記録。ジミの生前最後に発表されたアルバムとなった。

 

8月末、英国イングランドのワイト島で開かれたフェスティバルに出演したが、その後の欧州ツアーではジミがドラッグによる体調不良に陥ったり、ビリーが精神不安でアメリカに帰国してしまうなどのトラブルが続いた。

この間、元エクスペリエンスのノエル・レディングや、元マネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズのベーシスト)が、ビリーの代わりを務めるのではといった憶測も飛んでいた(ノエルには実際にジミからオファーが届いていたという説もある)。

そういった騒動でツアーが中断した時期、ヘンドリックスはチャンドラーの家を訪ね、「再び僕のマネージメントとプロデュースをしてほしい」と伝えようとしていたという。

 

1970年9月18日未明(深夜から早朝)、モニカ・ダンネマンという女性とロンドンのホテルで滞在中に急逝。死亡時は27歳。メジャーデビューからわずか4年ほどでの死であった。死因は、睡眠前に酒と睡眠薬 (バルビツール酸系) を併用し、睡眠中に嘔吐したことによる窒息死とされる。「自殺」等の憶測も飛んだが、現在では否定されている。

 

同年、シングル“ヴードゥー・チャイルド (スライト・リターン)”(Voodoo Chile)をリリース、全英1位。

 

1970年にジミが死去すると、音源の権利はマネージャーのマイク・ジェフリーに移り、未発表音源を集めたアルバム等が何枚かリリースされた。

 

1971年、シングル“ジプシー・アイズ(Gypsy Eyes)リリース、全英35位

 

同年、シングル“ドリー・ダガー”(Dolly Dagger)リリース、全米74位

 

1972年、シングル“ジョニー・B・グッド”(Johnny B. Goode)リリース、全英35位

 

 

1973年、マイクが他界すると、アラン・ダグラスがリプリーズ・レコードから音源の管理を委託される。

 

1990年代、ジミの音源の権利は遺族に戻り、ジミの父と義理の妹を中心に、エディ・クレイマー(生前のジミのアルバム制作に協力したレコーディング・エンジニア)とジョン・マクダーモット(音楽評論家)が協力する形で、財団「エクスペリエンス・ヘンドリックス」が創設された。

 

2011年現在、ソニー・ミュージックレコーズから日本盤CDが発売されている作品は、「エクスペリエンス・ヘンドリックス」が権利を有している作品である。

 

「エクスペリエンス・ヘンドリックス」創設後、ジミの遺族は、カルロス・サンタナの「世の中には多くの海賊盤があるが、ファンはただジミの音楽を聴きたいだけなんだ」という言葉を元に、「ダガー・レコード」を設立。エクスペリエンス・ヘンドリックス公認のオフィシャル・ブートレグを発売している。

 

 

 

最後に、ジミの死後に発表されたものの中から、初版リリース順にいくつかピックアップして紹介する。

 

1988年6月2日、『BBCライヴ』(BBC Sessions)MCAレコード、全米50位、録音1967年1月30日~12月15日、1969年1月4日於BBCスタジオ。

 

 

1994年、『ブルーズ』(Blues)、全米45位。

ブルーズをテーマに6曲の未発表録音と、未発表バージョン等を収録。アラン・ダグラスが編集したアルバムとしては唯一、エクスペリエンス・ヘンドリックスにおいて廃盤を免れた。

 

 

1997年4月22日、『ファースト・レイズ・オブ・ザ・ニュー・ライジング・サン』(First Rays of the New Rising Sun)MCAレコードよりリリース、全米49位、

“フリーダム”、“エンジェル”、“ナイトバード・フライング”など佳曲揃い。ジミが生前に構想していた内容に最も近いアルバムとされている。

 

 

 

 

1999年2月23日、『ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト』(Live At The Fillmore East)MCAレコード、全米65位、録音1969年12月31日~1970年1月1日於ニューヨーク。1970年にリリースされた『バンド・オブ・ジプシーズ』の未収録曲を追加しない内容だが、「完全版」ではない。

 

 

2007年10月16日、『ライヴ・アット・モンタレー』(Live At Monterey)ユニバーサルミュージック、全米171位、録音1967年6月18日 於モントレー・ポップ・フェスティバル。

 

 

2011年9月13日、『ウィンターランド』(Winterland)レガシー・レコーディングス、全米171位、録音1968年11月10~12日 於サンフランシスコ。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジミ・ヘンドリックス」

公式サイト

jimihendrix.com