ドン・ヘンリー(Don Henley/出生名:Donald Hugh Henley/1947年7月22日~)は、アメリカ合衆国出身のドラマー、歌手。ロック・バンド「イーグルス」のメンバーとして知られる。

 

 

 

1947年7月22日、ドナルド・ヒュー・ヘンリーはアメリカ合衆国テキサス州ギルマー(Gilmer)で、ヒューレーン(マクホーター)とC.J.ヘンリーの息子として誕生、同州北東部の小さな町リンデン(Linden)で育った。彼の祖先にはアイルランド、イングランド、スコットランドがいる。


ヘンリーは高校でバンドに入り、最初にトロンボーンを演奏し、次にパーカッションセクションで演奏した。その後、高校生の時、地元で結成されたディキシーランド・バンドに参加。さらに、ヘンリー達はバンド「フォースピード」を結成、バンドは1964年にFelicityに改名したが、この頃、彼らは地元プロデューサーと契約し、ヘンリーが書いた曲“ハーティン”(Hurtin)をリリースした。

 

 

1965年に高校を卒業した後、ヘンリーは最初にテキサス州ナコドチェスにあるスティーブンFオースティン州立大学の大学に通った。

その後、1967年から1969年までテキサス州デントンにあるノーステキサス州立大学(1988年にノーステキサス大学に改名)に通った。ヘンリーは学校を去り、心臓と動脈の病気で亡くなっていた父親と時間を過ごした。

 

1969年、Felicityに興味を持った仲間のテキサン・ケニー・ロジャースに偶然会った。バンドは名前をシャイロ(Shiloh)に変更し、ロジャースのために数曲を録音し、“Jennifer(O'My Lady)” が最初のシングルとしてリリースされた。しかし、シングルがリリースされる直前に創設メンバーがダートバイクの事故で亡くなる不幸に見舞われた。

ロジャーズはバンドがアモスレコードと契約する手助けをし、1970年6月にバンドをロサンゼルスに連れて行った。彼らはロジャーズの家に数ヶ月住んでいる間にララビースタジオでロジャーズがプロデュースしたセルフタイトルアルバムを録音した。だがシャイロは1971年にバンドのリーダーシップとヘンリーとボーデンの音楽的な意見の違いで解散した。

 

 

1971年、リンダ・ロンシュタットのバックバンド(Linda Ronstadt & Her Band )のためにミュージシャンが集められた際、ドン・ヘンリー(Ds, Vo)は、同じくアモスレコードと契約していたグレン・フライ(Glenn Frey/G,Vo)をはじめ、バーニー・ リードン(Bernie Leadon/G, Vo)、ランディ・マイズナー(Randy Meisner/B, Vo)と顔を合わせる。

この4人で独立し、イーグルス(The Eagles)をロサンゼルスで結成。ヘンリーはバンドでドラムスとヴォーカルを担当、代表作の多くをグレン・フライとともに作詞作曲した。

 


1972年5月1日、グレンとジャクソン・ブラウンの共作“テイク・イット・イージー”(Take It Easy)をリンダが所属していたアサイラム・レコードからリリースし、イーグルスはデビュー。「Billboard Hot 100」(以下「全米」)12位のヒットとなる。

6月1日、1stアルバム『イーグルス・ファースト』(Eagles)をリリース、『Billboard』誌アルバムチャート(以下「全米」)22位。さらにヘンリーがリード・ヴォーカルを担当した第二弾シングル"魔女のささやき”(Witchy Woman)が全米9位とヒットが続いたことで、 一躍ウエストコースト・ロックの代表的な存在となる。

 

 

 

1973年4月17日、2ndアルバム『ならず者』(Desperado)をリリース。西部開拓時代のならず者をテーマにしたコンセプト・アルバムで、ドン・ヘンリーとグレン・フライのソング・ライティングチームがこの作品から誕生。バーニーのカラーが強いブルーグラス的楽曲と、ロック的要素の曲が共存しているものの、その音楽的成熟度はファーストに比べて格段に向上した。ヘンリーがリード・ヴォーカルを取ったタイトル曲“ならず者”(Desperado)はシングル発売こそされなかったが、後にリンダ・ロンシュタットやカーペンターズなど、多数のアーティストたちにカヴァーされた。しかしアルバムのチャートでの動向は全米41位止まりに終わった。

 

 

 

1974年3月22日リリースの3rdアルバム『オン・ザ・ボーダー』(On the Border)は、よりロック的な作品にすべく、2曲収録した段階でプロデューサーをビル・シムジクに交替した。タイトル曲 “オン・ザ・ボーダー”(On the Border)はウォーターゲート事件をモチーフにした作品。ヘンリーがリードヴォーカルを取った“我が愛の至上”(Best of My Love)は自身初の全米1位を獲得。なお、バーニー・レドンの紹介で、フロリダ出身で元フロウ(Flow)のギタリスト、ドン・フェルダー(Don Felder)が収録曲中2曲に参加し、ロック的色彩を強めることとなった。彼は後に正式加入し、ツアーではカントリー的な楽曲ではバーニー、ロック的な楽曲ではドン・フェルダーがリード・ギターを主に担った。

 

 

 

1975年、4thアルバム『呪われた夜』(One of These Nights)を発表。全米No.1に輝いたタイトルナンバー“呪われた夜”はヘンリーがリードヴォーカルを担当した。他に、グレン作の“いつわりの瞳”(Lyin' Eyes)が全米2位に到達しグラミー賞ベストポップボーカル賞を獲得、ランディ・マイズナーがヴォーカルを担当し全米4位・全英12位となった “テイク・イット・トゥ・ザ・リミット” (Take It to the Limit)と3つのヒット曲を生んだ。アルバムはバンド初の全米No1ヒットを獲得し、セールス的にも前作に続き大きな成功を収めた。

 

 

12月、バーニーが脱退。前作から続いていたメンバー間の軋轢が激化、当初の民主的なグループから、ドン・ヘンリーとグレンの2人が実質的に主導権を握り高慢な態度になるに連れバーニーが業を煮やし、バンドの音楽的方向性への疑問も重なったためである。

それまでバンドの音楽的支柱のひとつであったバーニーに代わるギタリストを探すのは難航したが、レドンの後任には、元ジェイムズ・ギャングのメンバーだったジョー・ウォルシュ(Joe Walsh)を迎えた。ジョーの加入には反対するメンバーもいたが、音楽的にはよりロック色を強める結果となった。

 

 

1976年2月17日、バンドにとって初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』(Their Greatest Hits 1971-1975)をリリース。全米だけでも3,800万枚以上を売り上げ、全米歴代で最も売れたアルバムとして君臨、プラチナ・ディスク認定第1号ともなった記念碑的作品となり、バンドは確固たる地位を築いた。

 

同年2月、初来日公演を果たしている。

 

 

1976年12月8日、5thアルバム『ホテル・カリフォルニア』(Hotel California)を発表。当時のロック界ひいては都市社会の矛盾を揶揄したかのようなヘンリーの歌詞とドン・フェルダーの完璧なサウンド・ワークにより1970年代のアメリカン・ロックを代表する曲のひとつとなったタイトルナンバー“ホテル・カリフォルニア”(Hotel California)をはじめ、“ニュー・キッド・イン・タウン” (New Kid in Town)や“駆け足の人生”(Life in the Fast Lane)、さらにアルバムのラストを飾るヘンリー歌唱の“ラスト・リゾート”(The Last Resort)など、単に人間の性(さが)や振る舞いを唱っているように見えながらも暗に根深い社会問題を提起するような深みのある歌詞を散りばめ、全世界的な大セールスを記録、アメリカレコード協会(RIAA)により米国で3番目に売れたアルバムとして認定された。アルバムは同年度のグラミー賞最優秀レコード賞受賞、フライ作の“ニュー・キッド・イン・タウン”は同賞最優秀ボーカル・アレンジメント賞を受賞した。

 

 

 

 

 

1977年、メンバー間の軋轢はさらに激化、ドン・ヘンリーとグレンの高慢な態度の矛先はランディに向けられるようになり、以前にも増して膨大になったツアーのストレスや、音楽的志向の違いも相まって、同年のコンサートツアー中にランディが脱退。後釜には、元「ポコ」(Poco)のティモシー・B・シュミット(Timothy Bruce Schmit)が加入した。因みにポコはイーグルス結成前にランディ・マイズナーが所属していたバンド。

 

 

1979年9月24日、6thアルバム『ロング・ラン』(The Long Run)をリリース。前回のコンサートツアー終了後、アルバム制作に取り掛かったもののレコーディングは難航、当初は2枚組で1978年にリリース予定だったものが1枚組に縮小されたのが本作。ハードロック、バラードさらにディスコ・チューンにまで多様な音楽性に挑戦するが、製作ヴィジョンが曖昧で展開するサウンドにもっぱら主張や一貫性はないなどと批判された。グレンがリードヴォーカルを取った“ハートエイク・トゥナイト”(Heartache Tonight)は全米1位、グラミー賞の最優秀ロックパフォーマンス賞(デュオまたはヴォーカルグループ)を受賞。タイトル曲“ロング・ラン”はドン・ヘンリー、“言いだせなくて”(I Can't Tell You Why)はティモシー・B・シュミット、“イン・ザ・シティ”(In the City)はジョー・ウォルシュがそれぞれリードヴォーカルを担当している。ラストをヘンリーの歌で飾る“サッド・カフェ”(The Sad Café)は、1977年に亡くなったバンドのマネージャー、ジョン・バーリックに捧げられた。しかし、曲全体を覆う黄昏た雰囲気とその歌詞から、グループ活動に終止符を打つというニュアンスも感じられた。アルバムは全米1位・全英4位、日本のオリコンチャートでも本作はイーグルス唯一のオリコン週間チャート1位獲得作品となった。

 

 

 

同年、『ロング・ラン』発売に合わせてワールドコンサートツアーを催行、その一環で、2度目の来日公演を果たす。

 

 

1980年、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからこの年、バンドは活動を停止。

11月、バンドは初のライヴアルバム『イーグルス・ライヴ』(Eagles Live)をリリース。1976年10月20~22日と、1980年7月27~31日のライヴの模様を収録している。

 

 

1981年10月6日、ヘンリーはスティーヴィー・ニックスとの連名でシングル“レザー・アンド・レース”(Leather and Lace)を発表、全米6位を記録した。

 

 

1982年5月、正式にイーグルスの解散が発表された。

8月、ヘンリーは1stソロ・アルバム『アイ・キャント・スタンド・スティル』(I Can't Stand Still)を発表、全米24位になった。アルバムからのシングル"Dirty Laundry"は全米3位のヒットとなった。

 

 

 

1984年10月、シングル“The Boys of Summer”は、全米5位を記録し、グラミー賞のベスト・ロック・ボーカル(男性)部門を受賞。

 

11月、2ndソロアルバム『Building the Perfect Beast』をリリース、全米13位を記録した。

 


1986年、映画『The Color of Money』のサウンドトラックに提供した "Who Owns This Place?"が全米3位になった。

 

 

1989年、3rdソロアルバム『エンド・オブ・ジ・イノセンス』(The End of the Innocence)には、ブルース・ホーンズビー、テイク6、アクセル・ローズ、ウェイン・ショーター 等が参加。同作で再びグラミー賞ベスト・ロック・ボーカル部門を受賞した。アルバムも、シングルカットされたタイトルトラック"The End of the Innocence"も、ともに全米8位。

 

 

1992年、パティ・スミスとのデュエット・ナンバー"Sometimes Love Just Ain't Enough"が全米2位・全英22位の大ヒットとなる。

 

 

1994年、第1期最終メンバーによってイーグルスが再結成。4曲の新曲とライヴ収録曲を併収した変則アルバム『ヘル・フリーゼズ・オーヴァー』を発表し、以後世界規模でのツアーを繰り返し展開した。

 

 

2000年、ソロアルバム『インサイド・ジョブ』(Inside Job) をリリース、全米7位。シングル "Taking You Home"が全米25位・アダルトコンテンポラリー(AC)1位になった。

 

 

 

2005年、イーグルスとして久々の新曲“明日はきっと晴れるから”(No More Cloudy Days)を発表、AC3位を記録した。

 

 

2007年10月31日、イーグルスとしては久々の新作アルバム『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』(Long Road Out of Eden)を2枚組で発売。本作品は、13年振りとなるスタジオ・アルバムで、新曲のみで構成されたものとしては『ロング・ラン』以来、実に28年ぶりの作品となった。全米・全英ともに初登場で1位を獲得する快挙となった。

 

 

 

 

2011年3月1日から6日にかけて、実に7年ぶりとなる5度目のイーグルス来日ツアーを東名阪ドームで実施した。

 

 

2015年、ソロアルバム『カス・カウンティ』(Cass County) をリリース、全米3位・全英7位のヒット、シングル"Take a Picture of This"がAC14位となった。

 

 

 

2016年1月18日、イーグルス創設メンバーで中心人物だったグレン・フライが死去。

3月10日、盟友の死を受け、ドン・ヘンリーはイーグルスの解散を表明した。

 

 

 

2017年、グレン・フライの息子ディーコン・フライ、さらにカントリーミュージシャンのヴィンス・ギルがゲストとして加え、イーグルスのライヴ活動を再開。

 


2018年、北米ツアーを実施。米『ビルボード』誌によると、このツアーに協力している

フライ家の家族はディーコンだけではなく、ディーコンの姉であるテイラーも、

新生イーグルスのロード・マネージャーとしてツアーに参加しているとのこと。

 

 

2020年10月16日、ライヴアルバム『ライヴ・フロム・ザ・フォーラム 2018』(Live From The Forum MMXVIII )をリリース。ディーコン・フライ、ヴィンス・ギルが加入した新生イーグルスが2018年にバンド結成の地・ロサンゼルスのザ・フォーラムで行ったライヴ作品。

 

 

 

 

 

 

 

(関連記事)

グレン・フライ

 

 

(参照)

Wikipedia「ドン・ヘンリー」「Don Henley」「イーグルス」

イーグルス公式サイト

eagles.com