アフガン零年(再録) | inosan009のごくらく映画館Ⅲ SINCE2019

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HPでの『ごくらく映画館』(2003)からYahooブログの『Ⅱ』を経て今回『Ⅲ』を開設しました。気ままな映画感想のブログです。よかったら覗いてみてください。

 2003年制作のアフガニスタン映画である。制作には我がNHKのほか、アイルランド、イラン、オランダなどの有志による支援があたったといわれている。2003年といえば、9.11NY同時多発テロ(2001年)の後、アメリカを中心とする多国籍軍によってアフガニスタン全土から排除された(と思われた)タリバン政権の後を受けて、新しい国づくりに向けてアフガニスタンの人々がもがき苦しんでいた時代である。
 
 それからおよそ20年、駐留米軍の撤退に乗じて勢いを取り戻したタリバン勢力が首都カブールを掌握し、今また元のタリバン政権に逆戻りしようとしている。旧タリバン政権下でアフガンの人々がどんな苦境にあったのか。この映画はその一端を、振り絞るような怒りと悲しみをもって映し出してみせる。ここ数日の、混乱する現地の模様を伝える報道に触れて、私はどうしてもこの映画を思い起こしてしまう。公開当時の拙評をここに再録しておこうと思う所以である。 

                                    2021.9

 

 


『アフガン零年』

 出口の見えない、希望のない映画である。あまりにも過酷で救いのない少女の運命。映画は、これが今のアフガニスタンの現実なのだと訴える。

 この映画は、はじめは少女が虹の下を駈けてゆくラストシーンを予定していたという。しかし完成した作品にそのシーンはない。古くからこの国には、虹の下を通れば幸せになれるという言い伝えがあるという。しかし祖母からそのことを聞いた少女が見たものは、仕事を求めてデモ行進する女たちがタリバンの兵士に放水で追い立てられる姿、その放水によって虹がかかり、その虹の下を逃げ惑う女性たちの姿である。わずかな希望を託した言い伝えさえもが無残に打ち砕かれていく。

 少女は仕事を得るために少年の姿に身をやつす。けなげだがたくましさはない。いつも何かにおびえているその表情が見るものの胸を締め付ける。女であることが見つかって井戸に吊るされる刑罰のさなか、少女は初潮をむかえる。女であるゆえの哀れ。言葉では言い尽くせない悲しみで心が揺さぶられる。

 この国で10年以上続いた内戦状態のなか、宗教的戒律から女性を抑圧し続けたタリバン政権の罪科は大きい。しかしこの映画はそのことを告発する映画ではない。むしろ、そういう時代を経て今まさに再生しようとしているアフガニスタンの人々が、そのために乗り越えなければならない過去の災禍。そのことに区切りをつけようとしてもがき苦しんでいる映画なのだ。その苦悩がこの映画のラストを変えさせたのだと思う。

 希望の見えない映画なのだ。その見えない希望の先に何かを見つけようとする作者の苦悩が痛いほど伝わってくる。金持ちの老人の妾宅に引きとられることでかろうじて刑を免れた少女に一縷の望みはあるのだろうか。わずかにあるとするなら、それは生き延びたということだけ。今はそのことに希望をつなぐしかない。作者は「今は映画ではこれしかできない」と言っているようでもある。ならば自分らは、今のアフガンでこうした映画が作られたことを評価しよう。いつかこの国から、心から笑える映画が届くことを祈って。

                                     2004.3