昨日からの続きです。
「風の時代」を象徴する一文字をご紹介しました。
文字は単なる記号ではありません。
そこには「形」があり、形があるところには
エネルギーがあらわれます。特に漢字の場合、一文字ずつ
風景を眺めるかの如く丁寧に受け取ると、
文字が何を語りかけているのかを意識的に理解できます。
逆に意識的に受け取らない場合、無意識には自動受信
していますから、文字を従えることができず、文字に翻弄されます。
前回、風の時代は「松」の文字に象徴される
生き方をする人たちには心地よい風が吹く。
各々が(個々が)「公(おおやけ)の木」になる時代。
とお伝えしました。
「公(おおやけ)の木になる」とはどういうことか?を
書きたいと思います。
「公」という文字は前回も紹介したとおり、こう説明されます。
"個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。
また、一部に偏らないという意味を含む。
このことから「公平」という熟語を生ずる。
つまり、公の木になるということは、
自分を取り囲む世界を俯瞰する視点を
「健全に」保ちながら生きること。
これぞ「松」の象意する生き方であり、同時に占星術「みずがめ」の象意が
健全なる姿であらわれた生き方です。
書くだけだとなんだかとても・・・簡単そうですね(笑)
言うは(書くことは)易し、行うは難し。
実際にその視点をもちつつ生きるのは相当なバランス感覚が必要です。
木(=個)と森(=全体)の関係でたとえます。
「世界を俯瞰する視点」を失っている場合。
自分という単体の木とらわれて、森全体の様子が見えない。
結果、同じ森の中にいながら周囲から孤立、不調和、争いなどがおこりえます。
逆に、「世界を俯瞰する視点」に傾きすぎた場合。
森全体を調整するあまり、全体主義が強調されすぎて、自分という個の木の
メンテナンスがおろそかに。結果、役割・個性の忘却、放棄、あるいは自虐
などがおこりえます。
上述はどちらもアン・バランスで不健全ですね。
森はいずれ枯れます。
ではどうしたら「健全な俯瞰視点」を持つことができるのでしょうか?
どうしても必要な通過点があると思います。
それは、
「私とは誰か」
に対峙すること。
え?
「公の木」と書いておきながら 「私」ですか~?
そうですそうです。「私」です(^-^)
なぜなら、「公」とは、
"個々に細かく分かれた「私」を包括した全体"
なのです。「私」は全体の中にあり、やさしく包まれ、輝いているのです。
「私」というものは、犠牲にするものでもなく、消滅させるものでもなく、
「公」の中に絶妙に溶け込んで、きらめいているものなのです。
・・・と、探していた忘れ物を見つけたかのような瞬間が訪れたとき、
わたしこそが、本当に長い間握りしめていた「自己否定」という視点
がとんでもない勘違いであること、同時に「私に対峙する」ことから
逃げていることに気づかされました。
すごくすごく・・・すんご~く ショックでした。
というのが、この1~2年をかけて「松」の文字を通して得たことでした。
さて、ここで再び字を分解してみましょう。
「私」・・・「ノ」+「木」+「ム」
「松」・・・「ハ」+「木」+「ム」
「型」が非常によく似ています。「私」にあと一画足せば完成です(^-^)
私とは誰か? に本気で取り組んだ時、
最後の一画を自らの手で書き足すことができる日がくると思います。
これこそ、「入魂の一筆」であります。
そこから公の木=「松」=みずがめ時代の始まりです☆彡
ではどのように「私は誰か?」に対峙すればよいの?
この続きは来年のお楽しみ♪
2020年も大変お世話になりました。みなさまどうぞよいお年をお迎えください。
来年2021年も 伊野華絵とヘルメス(水星)をよろしくお願い申し上げます。
伊野華絵(いのはなえ)
◆伊野華絵ブログ ヘルメスの丘