私は「国語力」及びそれと関連する「論理的思考力」という言葉を安易に使うのには反対です。
例えば、「あなたには『国語力』がない」あるいは「『論理的思考力』がない」と言われたとしましょう。
「日本人」・人間として、知能に根本的欠陥があると言われているかのような印象を受けるのではないでしょうか。
その割には「国語力」「論理的思考力」とも内容が曖昧で、何が問題なのかを具体的に掘り下げられる言葉ではありません。
つまり、使用の意味があまりない言葉なのです(なお、「国語力」については【注意報】「『国語力』のない子」はいない など参照)。
しかし、この人に向かって使うのは問題ないでしょう。
なんせ、相手は文部科学大臣。
「国語力」「論理的思考力」普及の元締めみたいな人です。
では、この人の「論理的思考力」はどうなっているのかと言うと…
『中央公論』2月号 に下村博文文部科学大臣のインタビューが掲載されています。
それを読む限り、この人は「論理的」に物事を思考しているのか、はなはだ疑問に思わざるを得ません。
以下、実例を(以下、下線は引用者)。
1.「人物本位」の入試について
シカゴ大学の入試について以下のように述べています(36頁)。
A1:「学力は必要ですが、受験勉強の結果だけで、社会で有為な人材か判断できないでしょう。」
続いて面接や論文試験の必要性を指摘したうえで、次のように述べています。
A2:「そういう面接をするというと、『人格まで評価されるのか』という人もいるが、人格まで評価する大学なんかどこにもない。」
人格は「30分の面接では分からない」そうです。
この認識は教育再生実行会議が提言した「人物本位の入試」と同じ方向性を示しています。
しかし、この人は本気でこんなことを考えているんでしょうか?
次の二点は一般的に考えればほぼ同義でしょう。
a1:「社会で有為な人材かを判断する」
a2:「人格を評価する」
例えば、入試で「社会で有為な人材ではない」と判断された人が「人格を否定された」と認識しても、別に不自然ではありません。
入試で「社会で有為な人材かを判断」して、「人格は評価しない」ということはあり得ません。
2.大学の「保護」について
国家が一律に大学を守る「護送船団方式」について、次のように述べています(37頁)。
A3:「国民にとってプラスじゃない」
続いて、「文部科学省が大学を守る」→「教育力が低下する」悪循環を断ち切ることの重要性が語られます。
しかし、以下の具体的内容は全く示されていません。
・「国民にとってプラスになる教育」
・「教育力の向上とは何か」
これでどうして「プラスじゃない」「教育力が低下する」と言えるのか、さっぱり分かりません。
3.まとめ
「論理的」に思考しているとはちょっと思えないインタビュー内容ですね。
1では、基本的矛盾に気づいていません。
恐らく、「人格」という言葉についての認識が極めて安易なのだと思います。
「性格」などと同義に使われているのではないでしょうか。
2も、本来、「右肩上がりが終わった時代の教育の在り方」を具体的に示すのが政治家・官僚の役割のはずです。
自分の基本的役割が認識できていないのではないでしょうか。
ところがこのインタビューを読むと、「鼻息」だけは異様に荒いのです。
この程度の認識の人物が教育行政の長であることに、恐怖を覚えざるを得ません。
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