とても可愛くて器量の良いザラ、ナディア、アマールの3人に彼氏はいない。
なんてもったいないと思ってしまう私。
それでもいつも楽しくやっているように見える彼女達。
今の生活を窮屈に感じることはないのだろうか。
珍しく外でランチを一緒にした時、思い切って聞いてみた。
「この国で生まれ、両親も皆そういう環境で育ってきて、周りもみなそうだから、そういうものだとして、受け入れている」と言うのだ。
もちろん、自由な恋愛とか生活に憧れもするだろう。
TVではそういうドラマや映画ばかりやっているのだし、影響はあると思う。
私には少し彼女たちが自分の家族、この国を誇りに思っているからと自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
結婚について聞いてみた。
「アラーの教えを守り、お祈りを欠かさず家族を大事にして生きていれば、
必ずアラーの思し召しで、いい旦那さんに出会わせてもらえる、そう信じている」そんな風に言っていた。
確かに家族同士で決める結婚が悪いとは限らないし、いい夫婦になれる人もたくさんいるだろう。自由恋愛で離婚率50%以上のオーストラリアをみても、どちらがいいとは言えない。
ただ、それしか方法がないというのがとても気の毒に感じてしまった。
彼女達にはどうかいい人に出会って幸せになってほしいと思った。
リビアの恋愛事情はかなりプラトニックだ。
声をかけてデートに誘うなんてもってのほか。会社で仕事上のやりとりはあるが、
女性と男性は一緒にいることが少ないし、仕事が終わればそれぞれで連んでいるため、交流はあまりないように思える。
例え恋人ができても親には秘密。誰にも見つからないようにどこかで密会。
会えないことが多いので、メールや電話で連絡を取ることがほとんどだそうだ。
スマヤから聞いた友人の話。
親に内緒で好きな人がいて、彼とメールや電話でやりとりをして、会えるのは1か月に1度あるかないか。もし親に(父親)みつかれば、ただじゃすまない。
結婚相手は自分で決めることができず、親が用意してきた縁組を受け入れるしかない。
若い二人の恋が結ばれることはないので、親の反対を押し切って駆け落ちしようものなら、
狭いリビア社会では生きていけないだろう、ということだった。
なんて古い風習だろう。因習の中で生きる女性の苦悩を見た気がした。
親の目、社会の目が個人よりも強く優先されているのだ。
私にはとても耐えられないなと思う。
かつて日本の女性もそのような境遇にあったことを思うと、今の自分の生活を有り難く感じる。
社会が決めた女性の役割、制限を受け入れ生きてきた女性達がいて、
虐げながらも必死に生き、その障害を乗り越えていく過程での葛藤や衝突。
そういう歴史を振り返ると、今までいろいろな人達が築いたものがあってその人達の存在があって、今私はこの時代を生きているのだなと強く感じた。
私にはリビアの女性達は抑圧されているようにも見えたし、
伝統的な文化の因習を受け入れ必死に自分を納得させて生きているようにも見えた。
リビアで生まれ、イスラム教徒の因習のなかで暮す女性が、
生きる方法を選ぶ余地は私たち日本人より遙かに少ない。
そんな彼女達を不憫に思ったりしたが、もしかしたら彼女達にはそのような感覚はないのかもしれない。
外からやってきた異邦人がただ、自分たちの生き方がより良いはずだと概念を押しつけているに過ぎないのかもしれないとも思った。
イスラム教では男性と女性の区別があることが多い。
彼らが一日5回お祈りを捧げるモスクと呼ばれる場所に入れるのは男性のみ。
女性は自宅でお祈りをする。
職場でも男性がオフィスの片隅でお祈りをしているのはよく見かけるが、
女性は皆無。人の目につくような場所では行わないらしい。
会社から車で外に出かける場合、女性と男性は必ず別々の車で移動する。
独身者がまたは既婚者でも男女が、同じ車に乗ったりすると密会しているとか不倫しているとか噂になり大変なのだとか。
リビアは噂社会とも言えるくらいゴシップ好きだ。伝播がはやく、親戚や親の耳に入ると大変なのだそうだ。
ウェディングなどのパーティも必ず男女別々。
とにかくリビアはとても保守的なので女性は中へ内へといった感じだ。
一方で、女性達は、男性からはとても大事にされ守られているという印象を強く持ったのも確かだった。
あるリビア人男性が言っていた。
「女性は良い。男が外でお金を稼いでくる。女性は家にいて家族の面倒をみて、好きなだけショッピングをしていればいいのだから」と。
うーん、それは言い方によっては自由の無い決められた生活だと言えるんじゃない?!と思ってしまう私。
リビアの人達が、「家族が一番、皆で仲良く健康に暮していることが一番大切だ」と口にするのをよく耳にした。
とてもシンプルだ。
食べるものがあって、寝る場所があって何不自由なく暮している。
幸せってなんだろう。
私たちは、今日食べるものがあって家族がみな元気で生きていて、
そういう日常があることが当然だと思い、
与えられているものの有難さを忘れてしまっているのかもしれない。
物に溢れている日本で暮らし、いろいろなことが当たり前になっていた私には、
何かを持てないから不幸なのではなく、あるものに感謝して
そういう心を育てていくことが大事なんだよなと、
そんなシンプルなことがとても新鮮に胸に響いた。
あるものに気づける豊かな心があることが、しあわせってことなのかもしれない。
リビア滞在中、女性が虐げられているという感じはあまり受けなかった。
例えば職についても、女性が積極的に社会に出ているし、男性と並んで仕事をしていた。
ただ、女性に向いた仕事などの分類は日本同様にあるだろうが、教育も皆平等に受けることが出来ている。
男性は女性にやさしいし、女性が困っていれば必ず助けてくれる。
私のような外国人でも女性だからということで嫌な思いをしたことはあまりなかった。
一方で、国連でボランティアしているあきこさんの話では、
「女性だから」「外国人だから」と差別されることがかなりあると聞く。
人にもよるが、ひどい偏見を持ち傲慢なリビア人もいると聞いた。
彼女は政府の役人、職人と仕事をしているので、私のような外国人混合部隊で出来ている一般企業とは環境も違うということかもしれない。
基本的にリビアは、イスラム社会の中でも比較的女性にとって住みやすい国といえるのではないかと思った。
こんな話がある。
あきこさんの隣人でエジプトから移民してきた女性は、
祖国で奴隷として買われ、夫婦という立場で入国してきているが、実質は夫の奴隷として働かされ、
必要最低限の買い物以外の外出や自由などはなく、夫の暴力に耐えかねて
、隣人であるあきこさんに助けを求めてきたことがあったというのだ。
その話を聞いた時、未だ人身売買や格差社会のなかで、
苦しむ人たちがたくさんいるという現実に気づかされ、かなりショックを受けた。
今までどこか遠くの国でそういう事実があると聞いてはいても、現実として実感がなかったからだ。
リビアの女性でそのような差別、基本的人権を侵害されるような状態は見たことはなかった。
低賃金でオフィスの掃除婦をしている女性などはみなアフリカからの移民だった。
昨今、リビア政府の政策の一環としてアフリカ各地からの移民を受け入れ始めてから、
貧しい人たちによる盗難や犯罪が起きていると聞く。
私が接し見てきたリビアの女性は、宗教上の行動範囲の規制やさまざまな制限があるにしろ、平等に扱われているように映った。
リビアの発展と開国、政治上の変化と共に、これから彼女たちの生活が大きく変わっていくのかもしれない。
その変化が良い変化として現われてくれたらと願わずにはいれない。