「サラマリコーン」
リビア滞在中、どんな場面でも使われていた便利な言葉だ。
あいさつとして、会社で、スーパーで、タクシーに乗って降りるときでも、いつも口にする言葉。
「サラマリコーン」
とりあえず、「おはよう」とか「こんばんは」が言えなくても、この言葉を言えば相手は微笑み返してくれる。
私がこの言葉を発すると、皆がいい気分になっているように感じる。
「私はあなた達の文化・宗教を尊重していますよ」と言っているような感じなのだ。
「神のご加護を」という意味。
「インシャッラー」
正式には、「インシャ・アッラー」
この言葉もいたるところで耳にする言葉だ。
「神のご意思があれば」という意味。
相手への気遣いや「物事が上手くいきますように」と願いを込めて言われている。
イスラム教という戒律のなかで、経典をきちんと理解している人は少ないと聞いた。
私が出会った人の中には、はなから守る気もないような人もいたし、自分たちの都合に合わせて、すべて神のご意思であると逃げることもできる。
神の意思があれば、そのようになるだろうと言い逃れされることが多々あった。
そういう人達が発するこの言葉は、私にはただの常套文句にしか思えなかった。
私が一番よく知っているイスラム教徒はカミルだ。彼は厳粛な信者で、彼を見ているとイスラム教の教えに従うのは、かなり真面目に取り組まなければできないように思えた。
彼は心が広く、聡明で、真の思いやりと信仰心を持った人だった。
イスラム教には「喜捨の教え」があるが、カミルは貧しい人が路上で施しをお願いしている姿をみると、急いでいても必ず車を停めお金を渡していた。
カミル曰く、イスラム教の経典は難解できちんと読み解くには理解力、学力が必要だ。
貧困層が多いイスラム教では、まず経典を正しく理解することが難しいということ。
また守らなければならないことも多いため、禁欲、勤勉が求められる。
人間は弱い生き物だ。一定の教育を受けることができ、学習する環境などが整っていなければ、易きに流れても仕方ないといえるのかもしれない。
教育を受けていたとしても、どの程度戒律に従うかは、個人の裁量によるということだ。
「宗教って何だろう」という素朴な疑問が
リビア滞在中、私の頭の中に漠然と漂っていた。
リビアにおいて感じたイスラム教は、彼らの生活の中に根深く入り込み、生活と切っても切り離せないものになっているということだ。
家族や周りのほとんどの人が、あたり前に信仰してきたことを代々受け継いでいく。
文化であり生活習慣の一部なのだと思った。
そして皆で一緒に同じ行為をすることで、ある種の連帯感を生む。
イスラム教というもので人々がつながっている。その安心感と連帯感が彼らの支えになっているのではないかと思った。
リビアに来てから
「あなたの宗教はなんですか?」と必ず聞かれる。
リビアは97%の人がイスラム教徒。
私が「特に決まった宗教はありません」と言うと、とても不思議な顔で見られる。
それはそうだろう、彼らにとっては信教があるのが当たり前だから。
特に日本人の私達には、これという特定の宗教がある人のほうが少ないのではないだろうか?あまり公に出して言わないというか、話題にしないように思う。
もちろん、クリスチャンの人もいるだろうしまた多種多様な信仰があるだろうし、その自由が認められている。人それぞれといった感じだ。
ある時、宗教は何かと聞かれたので、
「Kindness&Compassion」だと答えた。
皆とりあえず笑ってくれるが冗談にしかとられなかった。
まあこれはダライ・ラマの言葉なのだが、特定する宗教がなくても、私はここに生きて日々何かを信仰していると思う。
それは、爽やかな朝に頬をなでる風の心地良さだったり、寒い冬の束の間のあたたかな太陽の光であったり。
毎日頂くごはんや食べ物に対してかもしれないし、友人や同僚がかけてくれたやさしい言葉かもしれない。
そういう日々の恵みに感謝できたとき、心がやさしい気持ちで満たされたとき、何か大きなもの、この宇宙を主る何かに感謝したくなる。
それが私にとっての信仰心に一番近いように思う。
神や仏という特定のものではないということなのだが、アニミズムと言われればそれが一番近いように思うし、私だけでなく日本人はかなり多くの人が、自然や生かされていることに対する畏敬、感謝の気持ちを持ち続けていると思うのだ。
その思いをわかり易く伝える為に、物に喩えたり(偶像崇拝)言葉で表現してカテゴリー化しようとした人がいて、宗教という体系化したものができあがった。
宇宙を貫く真理や地球や自然といったものの根底にあるものは、同じ物をただ顕しているのではないかと思う。
その表現方法、喩え方が違うというだけのことなのだと。
その後、何度か宗教を聞かれるたびに、いろいろと自分の感じていることを説明しようと試みたが、どうもその感覚を理解してもらえることは難しいようだった。
次第に説明するのが面倒になり、
「仏教です」と答えるようになると、皆
「そうだろうそうだろう」と納得した様子。
私がどこに属していて、どういう人間なのか分からないと困るとでも言うような、そしてカテゴリーが分かるとホッとするみたいな表情をされた。宗教が身分証のような感じだ。
イスラムとは「帰依する」「一切を任せること」を意味するらしい。
神にすべてを捧げた人を「ムスリム」、「絶対的に帰依した人」という。
カミルが、仕事の合間をぬってお祈りを捧げる姿はもうごく当たり前になっていたし、食事の趣向も熟知していた。
イスラム教では、一日計5回のお祈りの時間がある。朝4時半、午後2時、午後5時、午後8時、午後10時だ。日中は忙しいので人それぞれ出来る時に行っているようだ。
文化と思想は切っても切れない関係だということがよく分かる。彼らの文化は思想がベースになっているから、彼らの生活すべてがそれを元に動いている。
今日、世界で最も信仰者が多いといわれているイスラム教。私達の脳裏には、悪い影響のことしかインプットされていなかったような気がする。
戦争を起こしたり、殺しあっている人達は極一部の人達で、宗教の名のもとに、本当の真意を捻じ曲げて利用している人達だと思う。
未だに私達人類は互いを傷つけあい憎しみあっている。その最も大きな軋轢が宗教観の違い、自分と違う意見の人を認め許すことのできないという見解の狭さ、みんなのものを自分のものだけにしようというエゴイズムが原因だと思うのだ。
それはイスラム教に限ったことではない。
私はカミルや他の人々と過ごして、イスラム教というカテゴリーの弊害もその気高い精神も見た気がする。
カミルのように、慈悲の精神で己を高め邁進しようとする人ばかりなら、相手を受け入れ許すことが容易なのかもしれない。
でも、一つの考え、教えですべての人を縛ることはできない。
他人の意思を尊重すること。
自分との違いを認めること、受け入れること。
その心が、寛容さが今の宗教に必要なのではないかと思う。
久しぶりにTVで日本についての映画を観た。「ラストサムライ」ハリウッド映画だ。
日本の田舎の風景は美しい。規律と礼儀、秩序で成り立っている社会はとても美しいと感じた。
約束を守ること、信頼し合うこと、相手を思いやること、信念、潔さ、そういうものの尊さやその人達の高い精神性が描かれていた。
日本人が災害や困難に直面しても、冷静に調和を保ちながら行動できるのは、こういった精神性、道徳観が根底にしっかり息づいているからだと思う。
この国に来てから、より一層そういうものが凄くいいなと思えるようになった気がする。
旅行に行ったり、海外生活をしている人は感じていると思うのだが、日本の良いところも悪いところも、日本にいる時よりも陰影がはっきりと見えてくる。
リビア人、イスラム教徒、キリスト教徒、オーストラリア人、インド人、パキスタン人、中国人、韓国人、フィリピン人、アフリカ人、イギリス人、アメリカ人、ヨーロッパ人、、、様々な国の人々に会ってきたけど、
日本人ほど、協調調和できる民族はいないと強く感じるようになった。
私にとって、イスラム教もアラブの世界も得体のしれない、よくわからない世界だった。
そして今もそれは変わらないのだが、皆私と同じ人間で悲しみや喜びを感じ、同じように美しいものを美しいと感じる心を持っている。
美味しいものを食べると嬉しいし、家族や友人を大切にして、大切なものを守ろうとしている。
そういう私達は肌の色も信仰しているものも違うけど、習慣や文化は違うかもしれないけれど、
「同じ人間だよね」とただただそう思わずにはいれない。
みんなこの美しい地球の住人だよねって。
相手を思いやる心、自分とは違うものをそのまま受け入れること。
そういう心を持ち続けたいと、遠い大陸の向こうの日本のことを考えながらそんなことを思った。