あなたは自分自身にとって見知らぬ人です。


自分の人生における喜びや苦しみに気づいていません。


あなたの内側は「こうあるべき」「こうあるべきでない」、


「良い」「悪い」などに分割されています。


このような認識上の分割があると、


自分自身に対して感情的な葛藤を抱くようになり、


それがあなたの周囲の世界で繰り返されるようになります。


もしあなたが自分自身の欠点にこだわっていると、


他人の欠点にもこだわるようになります。


あなたは愛、思いやり、忍耐、優しさであり、


同時にまた怒り、ジェラシー、恐れでもあります。あなたはまた、


あなたが否定するものでもあるのです。


このように分割された内側の部分は癒され、


無条件に受け入れられる必要があります。


自分自身をトータルに完全に受け入れることによって、


あなたの愛し方、生き方が変わることでしょう。


自分自身に対する愛を発見する時、


あなたは他人を愛し始めるようになるのです。



翻訳協力:高橋恵美さん 、翻訳監修:大矢浩史さん。

神が介在することができるある特定の領域と、神が介在できない領域があります。


そこでは彼はあなたの協力が必要です。


明け渡しとお手上げの状態は、敗北主義者の態度ではありません。


これは、あなたの限界を設ける信念構造と、複雑な感情をなくすことです。


恩寵への障害があるということを見ると(分ると)、


これがほんの少しの間でも出来たら、神に通り道が出来ます。


神は強力であるけれど、あなたもパワフルであり、


それが問題の全てであるということを理解しなければなりません。


あなたは神の一つの側面です。


あなたは、不完全な思考や観念や精神の枠組みを持った、強力な存在です。


ですから、あなたの神が狂ってしまっているのです。


このことが理由で、世の中を一気に変換させることが出来ないのです。


あなたも世の中を変えるために神に協力しなければいけません。



字幕.in | シュリバガヴァン : 神の側面より。

条件づけがあると渇望が始まります。

愛を条件づけると何度も何度も渇望するようになります。

自分はこういうものだ、と決めつけてしまうととても多くのエネルギーを使います。

何かになりたい、何かから自由になりたい、

そうした願いが条件付けから始まるとき、自分たちは自由ではない、

という事です。何かを嫌っているとき、条件づけのせいです。

条件づけのせいでもがいているわけです。

自分をうけいれられないのならプログラムのようなもので、

あなたはコンピューターです。

条件づけというコンピューターによって支配されているのです。
条件づけによる悪い面からいかに自由になるか、

条件づけがいかに自分の人生に支配しているか、

あなたはバナナを食べることができるか、

条件づけのあれこれは関係ありません。

見ることが解放されることです。

条件づけを捨てなさいとは言っていません。

見ることが解放されることです。

人生の信条に従うのをやめなさいとはいっていません。

条件づけをみるとき、もはやその条件づけがあなたを支配することはありません。

それはただの観念でしかなかった。

足で踏んだのは毒蛇ではなく、

たのロープだったとわかったとき、

何だ、といってもうこだわらなくなる、

条件づけは過去世からのものもあります。

どうしたらよいでしょうか?条件づけのあらゆる形態、

それをどうこうすることは出来ない、

敬虔な家に育ちながらとても凶暴な性格だ、

それは過去生からきているかもしれません。

また、相手をよく知らないのに、異常に憎しみ合う、

これも過去生からきているのかもしれません。

過去世のヴァサナ、全てを理解しようとするのは不可能です。

条件づけや概念に支配されている、

と見たときもはやその奴隷ではなくなる、

人間の意識に流れ込んだもの、

あなたが作り出したものではない。

たくさんの人の中に流れているもの、

条件づけから自由になろうというのも条件づけになります。

自由とは条件づけに働きかけて変えるということではありません。

自由とはただ見るということ。

何かから自由になろうとすることがまた束縛になります。


2006年インド上級コースより

スピリチュアルな旅において大変重要な点、それは瞑想の状態です。

集中することは瞑想ではない、とアンマバガヴァンは言っています。

集中すること、注意をむけること、1つのものにすべての注意をむけること、これが集中することです。


集中しているとき、対象以外はすべて排除します。

それ以外全てのものは切り離されています。


気づきに意識をむける、

これは集中するのと全く反対のことを意味しています。

この状態、そこにある全てをそのまま見つめ、

自分の注意を全てのものに向けています。

瞑想とは、どこかで、叫び声を聞いている、足のしびれにきずいている、

周りの温度を感じます。


あらゆるものを体験し注意をむけていることを言います。

瞑想している人にとってそこから排除されるものは何もありません。

そこにあるものを全て体験すること、それを瞑想といいます。


瞑想するのに一番の場所は市場である、

実際にはその場所が最適なのです。叫んでいる人がいるでしょう。

大変な喧噪があります。それを体験したとき、美しい瞑想となるでしょう。


アンマバガヴァンはディクシャの最中、

認識する能力を与えようとします。これは贈り物であって、

ただ起こる出来事なのです。それを得ようと人々は努力しています。


しかしそれは贈り物です。真飲めいそうとはありのまま全てを受けとる、

それがすぐれた瞑想です。

アオヤネス(気付いている状態)、

高いエネルギーが流れ込んでくることによって初めて出来ることです。

より高次の気づきの状態を高めることです。

全ての行動をゆっくり行います。全てにおいてゆっくりおこなってください
 

神よ私を知る光を与えて下さい。

いくつもの人生で体験してきた暗闇や無知を排除してください。
より高い状態へ目覚めること、内側においてとらえ方、

ありのままに認識する、目覚めたとき、これができるようになります。



インド上級コースより抜粋

質問:

人生において平安を得るためにはどうすべきでしょうか?



バガヴァン:

もし平安を得たければ、それを探し求めないことです。

平安を得るために努力すると、

その努力自体が平安を壊してしまうのです。

内側の世界ではいかなる努力も葛藤となります。

あなたはここにいます;

そしてあなたはどこか別の所に行くことを望みます。

それゆえ、あなたは努力します。

その努力は葛藤です。しかし、

もしあなたが努力は破壊的であり、

努力はあなたをどこにも導くことがないと認識するなら、

その時努力は放棄されるでしょう。

努力がない時、そこには平安があります。



www.onenessuniversity.org より抜粋。(高橋恵美さん翻訳)