かつて、ある弟子が師に尋ねた。「師よ、多くの霊的な修行をしてきているのに、なぜ私は平安でいられないのでしょう。多くの霊性の書を読み、教典の講義も受けてきているのに、なぜ苦しみなしでいられないのでしょう。このような私に悟りはあり得るのでしょうか?」
バガヴァンは言います。「苦しみから解放されるためには、まず苦しみとは何であるかを理解しなければなりません。苦しみとは、過去の出来事を通してマインドの中に起こる絶え間ない思考プロセスに過ぎません。苦しみとは、過去の出来事の持ち越しに過ぎないのです」
この砂の上を歩く二種類の人々(悟った人と悟っていない人)がいます。悟った人は通常の苦しみで、悟っていない人はとてつもなく過剰な苦しみを背負っています。悟った人は、常に現在に生き、人生が与える全てを体験しているので、苦しむことはありません。でも悟っていない人にとっては、人生自体が苦しみ以外の何者でもないのです。
気付いていることが悟りです。人生自体の目的の全ては、その瞬間瞬間に人生を生きることです。自分自身の思考プロセスを観察していたら、「持ち越し」が苦しみであると容易に気付くことが出来ます。たとえば、子供の頃から親しい二人の友人がいました。全くの誤解から、彼らは激しい口げんかになり、絶交しました。でもそれだけで終わらず、その出来事はマインドの中に入り込み、台所にいる時、オフィスにいる時、テレビを見ている時、パーティーの時ですら繰り返されました。何度も繰り返されたのです。苦しみは、私たちが現在に生きることなく、過去や未来についての不必要な想いに浸っている時にわき上がります。マインドの中のこの絶え間ないコメントや対話は、全ての苦しみの原因です。その苦しみは、出来事が終わってからも、別の人がまた私たちを傷つけるまで続きます。
悟った人は全てを体験し、それが人生を豊かで、永遠で、常に新鮮にさせます。でも悟ってない人にとっては、人生は機械的な繰り返しで、それゆえ退屈なものです。悟った人はアイスクリームを堪能しますが、悟ってない人は「誰がこのアイスクリームを作ったのか?」「どの工場で作られたのか?」「どこの牛のミルクなのか?」「どこの草を牛は食べたのか?」と言った疑問で忙しいため、アイスクリームを楽しむことが出来ません。活き活きとしている人は、人生の目的について尋ねることはないでしょう。なぜそんな必要があるのでしょう?彼はただ体験しているだけなのです。
さて、問題はこの不必要な思考プロセスをどうやって終わらせるかと言うことです。この方向での全ての努力が不毛です。マインドを静めるための全ての試みが、さらなるノイズを作り出すに過ぎないからです。「思考は思考を止めることが出来ない」のです。
仏陀は、本を読んだから仏陀なのではありません。ヴェンカタラマーナは、教典の講義に出席したからラマナ・マハリシになったわけではありません。悟りはマインドの限界を超える何かなのです。それはマインド内での変容ではありません。悟りとは、マインドやその限界を超越した状態なのです。そのハプニングは恩恵です。
「体験することで分かります」
「人は自分自身で悟ることは出来ません。それは与えられるのです」