人生は、経験することです。

あなたが抵抗せずに人生の流れ(flow)の中にいるとき、

もし抵抗していたとしても、その抵抗をそのまま経験しているとき、

至福(bliss)がもたらされます。

至福はlife(生命エネルギー)を経験することです。

あなたが、ありのままで目の前のことを経験するとき、lifeがあなたの中を流れます。

それは体の中を流れる電気的な感覚です。
life(生命エネルギー)、至福(bliss)があなたの体の中を流れるのを感じたことがありますか?

至福は、生物学的な感覚です。

あなたが至福を体験しているとき、何が起こっているでしょうか?

あなたは、あなたが今行っている事に対して、より集中しているでしょう。より多くの注意を注いでいることでしょう。

それはあなたが意図的に集中することとは違います。

霊的な成長によって、ある日ふと気がついた時、その状態にいる自分に気づくのです。

霊的に成長すればするほど、目の前の体験に意識が集中していきます。目の前の体験に注ぐ注意の量が増えていきます。

それが最大限に高まった時、あなたは目の前の体験に「溶け込んで」いるでしょう。

その時、そこに「自分(の感覚)」はいません。
体験があるだけです。


あなたがありのままに目の前の事を体験することを、どんなにいつもマインドがそらせようとしているかに気づいていましょう。


あなたの心の内側では、いつもマインドがおしゃべりしています。 多い時もあれば、比較的静かなこともあるでしょう。

内側のおしゃべりは、あなたがコントロールできるものではありません。それは自動的に浮かび上がり、自動的に退いていきます。

何かをしようと決めたとき、脳が決めたことを示す脳波より先に、体には動こうとするサインが送られているそうです。

内側のおしゃべりは、あなたがそうと決めて話しているわけではありません。

それがある時は、ただ気づいて眺めていましょう。
やがては消えていきます。

抵抗すると、それはそこにとどまります。



2008年1月インド上級コースの講座より抜粋させて頂きました。


魂の成長は、無意識の存在(unconcious being)から、意識的な存在(concious being)への変化です。

見ることは、恐れがなくなることではありません。

見ることは、恐れをありのままで、経験することです。

見ていても、恐れが消えないよ、と訴えてくる人がいます。

それは、恐れをありのままで体験していないのです。

彼(彼女)は、「恐れを溶かし去るため」に、見ています。

彼らの意識の焦点は、「恐れを溶かし去ること」にウェイトがおかれています。

それは、恐れをありのままで体験していないということです。

あなたは、目の前にあるものを体験せず、恐れのない状態を自分に投影しているのです。

意識の本来の性質は、「見ること」です。

皆さんがすることはそこにあるものを見ることだけです。
皆さんは全くそこにあるものをわかっていません。
絶えずそこから逃げているばかりです。
私は簡単な教えを皆さんにお伝えします。見てください。皆さんには何も素晴らしいところはありません。ゴミ箱です。ちょっと見ればわかります。どこを見たとしても自我ばかりです。それがわかるはずです。それを間接的に知ってます。そしてちゃんとそれを見てください。そうすればまずそこに痛みが来ます。ねたみの考え、ジェラシーの考え、おそれの考え、不安の考え、それはいい体験じゃありません。絶えずそこから逃げようとしています。逃げるばかりです。
それこそが唯一の問題です。人間の唯一の問題です。
つまり逃げてばかりいること。唯一の問題です。
 だから私たちは皆さんに言うんです。それと向き合ってください。皆さんは言うかもしれません。じゃあやってみましょう。最初はそれは難しいかもしれません。しかししばらくしたら、とても心地よいものになるはずです。見ることはとても快適になります。皆さんの醜いところ、暗いところを見る際に、ネガティブな部分を見るときに、不思議とそれを責めることがなくなっていきます。
 なぜなら皆さんそれを真実だと理解出来るからです。そこから喜びにも変わります。その喜びの中で、皆さんはわかります。そこに葛藤が完全に消え失せたことに気付きます。
ネガティブなもの否定的なものが消えた、ということだけじゃないです。ジェラシーがなくなる、怒りがなくなる、おそれがなくなる、ということではないです。そういったことではないです。人生で初めて自分はこうだと認めるわけです。それに対して恥とも思わなくなるわけです。これこそが真実だ、とわかるわけです。
 そして真実の状態になっているわけです。それこそがスピリチュアリティ精神性の最初のステップを踏み出したときであり、それこそがラストステップでもあるわけです。その後はすべてが自動的です。そこにグルその先生は必要ありませんし教えというものも必要ありません。全てが自動的です。ですから私たちはいつも言っています。とても簡単なことだと。ダルマ(いろんな道)の様々な状態を聞く中で、皆さんはこうなるためには何かが出来るとおもうわけです。そこに至る為に自分の側で何かが出来ると思うわけです。しかし皆さんの側でそこに至るために出来ることは何もありません。
 皆さんがジェラシーの多い人物だったとして、ジェラシーのない人物になることはできません。皆さんがおそれの多い、不安ばかりの人間だったとして、その人がライオンのように勇敢な人物になることはできません。落ち込んだ人間が戦士のように勇敢な人間になるわけではありません。あなたは変われません。変わりません。皆さんがどう努力しようと変われません。
じゃあ、ここでの教えって何でしょうか。教えは、あなたは変われない。しかも変わる必要もない、なぜならば皆さんはそのようにデザインされているからです。あなたはそのままです。それが全てです。私の教えの全てです。そしてそれが受け入れです。ああそうだ、自分はこうだ、変われないし何もできない、そしてそれに対しても何も悪いところはない、なぜならばそれは自分でデザインしたわけではない、神が何かの目的でそのようにデザインしただけです。
 そこに完全な受け入れがあります。受容があります。そこにあるものを受け入れたとき、それが瞑想です。それがサダナ・行です。それが全てです。それほどシンプルなことなのです。私たちは皆さんにマハトマガンジーのようになりなさいとか、キリストのようになりなさいとか、ルッカーラという偉大な人がいたらしいですけれど、ルッカーラのような偉大な人になりなさいと言ってる訳ではありません。
 全く違います。私たちがいっているのは自分自身を受け入れてくださいと言ってるだけです。自分自身でいてくださいって言っているだけです。もし皆さんがそれが出来ればそれこそが皆さんがキリストになりガンジーになり、ルッカーラになったということです。私はガンジーのようになりたい、ルッカーラのようになりたい、キリストのようになりたい、そう思っている限り何にもなりません。そういったものになれません。とてもシンプルなことです。
 私がそれを手伝います。




一日を通して見つめること(Contemplation)
「愛するということは、"あなたがあなたである"ことを受け入れることです」

あなたが自分の嫌っている質を受け入れることができたとき、あなたはそれまで嫌っていた人を愛することができるようになります。

あなたがあなたでないものになろうとする時、魂のプロセス(成長)は失敗します。あなたは自分を見失ってしまいます。

チャージのある状態(あなたが自分の質を嫌っている状態)から、自分でないものになろうとすればするほど、よりその嫌っている質の自分になってしまいます。

あなたの内側の状態に正直でいましょう。それはあなたが内側で感じている事を外側に表現することとは違います。内側をすべて外側に表現していたのでは、社会で生きていくのは不可能です。

まずは、あなたがあなたであることを感じましょう。

転換は起こり得ます。でも、あなたが動かすものではありません。

あなたが自分を変えようとしている限り、転換は起こりません。

あなたが完全に自分が自分であることを受け入れたとき、すべての感情を、感じることへの抵抗を、苦痛を、あなたがあなたであることの苦痛をありのままに経験したとき、

そして自分ではどうすることもできない、変えられないと(helpless)、自分の手にはあまります、と認識したとき、

そしてデヴァインに、助けてください、この苦しみから解放してください、恩寵を与えて下さい、と心から願った時、

転換が起こり得るのです。



mixi Kozyさんの日記、2008年1月インド上級コースより抜粋



子供のとき、バガヴァンは彼が世界を体験しているように、ほかの人々は世界を体験していない、と認識しました。これを理解する前は、彼は自分自身をアヴァターだとは思っていませんでした。彼は単純に彼の体験はノーマルだと思っていたのです。

 私は人々のふるまい方を見ていました。そしてどうしてそんな風にふるまうのか、不思議でした。私は生まれたときから、ほかの人々が経験しているものを経験することができました。私は、彼らの現実は私のものとはかなり違うことに気がつきました。私が世界を感じるとき、私は音を聞きますが、それを翻訳していないことに気がつきました。私が何かを見るとき、こちらも何の翻訳もついてきません。聞いている人は存在せず、見ている人は存在しません。そこには誰もいません; そこにはただ、見る、聞く、考える体験があるだけです。私が自分に、ほかの人々が体験しているものを体験することを許したとき、彼らは、誰かがそこにいてこれらのことをやっている感覚がある、ということに気がつきました。私にはそういう風に感じられたことは一度もありませんでした。私は彼らがどのように世界と関わっているのかを知るために、他の人々を体験しなければなりませんでした。私は「enlightenment,目覚め、覚醒、悟り」のプロセスを通ったことがありません。なぜなら、それは最初からいつもそこにあったからです。

☆だから私はここで何かがなされなければならないと思いました。私が(何かを)体験しているとき、私は喜びを得ていました。私は他の人々が喜びを全く得ていないことを発見しました。そこに誰かがいるという概念が去らなければならないと認識しました。(I realized that the idea of somebody being there has to go.)。すべてはそのようにして始まったのです。

 若かりし頃のバガヴァンは、マドラスのDon Bosco School に通っていました。彼がイエズス会の修道士から教育を受けて、数学で卒業した学校です。彼は勉強することにほとんど注意を向けてこなかったにもかかわらず、勉学に優れていました。彼は子供時代を通じて、高次の力 ―彼が理解し難い何か― により、あるマントラを詠唱し、特定の姿勢に体を保つように動かされているように感じていました。巨大なゴールデンボールがしばしば彼のもとに現れました。これらの事は彼の意志(volition 選択)によるものではありませんでした。実際、しばしば彼はクリケットやサッカーの試合に参加して友達と遊びたかったのですが、彼はこの高次の力に強要されてほとんど捕われの身であったと述べています。その高次の力は、彼にあらゆる種類のスピリチュアルな修業をさせたのです。同じゴールデンボールがマシューに降りてきてそれ自身の名前を告げた時、これだけの月日が流れるまで彼は子供時代のビジョンの重要性を理解していませんでした。


mixi kozyさんの日記より抜粋させて頂きました。