ふと、思いました。

1年に1回くらい感謝の手紙を送る日があってもいいのではないかと。

 

これはYouTubeでダウンタウンの松本さんを見ている時に思いました。

ここのブログでも、何度か松本さんのことは書いていますが。

 

あの方と同時代を生きられているため、このように楽しい思いをさせて頂いていると感じることが多々あります。

 

私はあまりTVは見ない方ですが、(TVからのネタが多いですが、自分から見ることは実は少ないです。)松本さんのTVだけはよく見させて頂きます。全てではないですが、ワイドなショーやクレイジージャーニーなどは録画することが多いです。

 

この方の「笑い」で救われた方も多い事と思います。

 

これは噂ではありますが、昔、甲本ヒロト(元ブルーハーツ)さんが、病で苦しんでいる頃、「ごっつええ感じ」の時間だけは、楽しみで、それに救われたというエピソードがあります。

そこから甲本さんは「日曜日よりの使者」という曲を作ったらしいです。

 

何の病気かはわかりませんが、例えば、鬱とかはとても辛く希望がない状態で本当に苦しいと思います。ですが、日曜日になれば笑える・・・という希望と楽しみが出来ることはどれ程、その方にとって大きな力となるかと思います。

 

甲本さんはハイロウズのCDジャケットを松本さんに依頼したこともありましたね。

 

やはり、これだけ大きな「笑いという楽しい気持ち」を毎週プレゼントしてくださる松本さんは、一度感謝のお手紙をお送りしたいなぁと思ってました。(ツイッターでもなんでもいいですが)

 

このように、今までの人生で、感謝すべき人って誰でもいると思うんです。

松本さんのように有名人でなくても・・・例えば、「この源氏パイおいしい」(お菓子で、たまたま目の前にありました。)これ食べると幸せになる。というのなら、その作った人にでもいいです。どうやって作ったのか、歴史は?動機は?そんなことを調べつつ、創業者でも現在の人でも会社でもなんでもいいので、そこに感謝のメッセージをお送りする時間を作ってもいいのかなぁと思いました。

 

もし、人が苦手であれば、自分の「耳」に感謝の手紙を書くでもいいと思うんです。この耳があるから、楽しい音楽が聴ける。気分が高揚する。映画の効果音で更に感情を揺さぶられる。この耳はどうやってできているのか?メンテナンスは?苦手は?・・・・様々な事を思いながら、書くことで感謝の気持ちがどんどん湧いてくると思うんです。

 

感謝の気持ちって自分にとってもいいですよね。

 

最初からこの動機でやってもいいかもしれません。

 

思って何もしないより、行動したほうが全然良いと思います。

 

ボランティアでも、よく偽善だ、なんだと言われますが、偽善だろうがなんだろうがやった方がいいです。(押し付けでなく、お互いが気持ち良いのであれば。そのうち、そんな他人からの小さな言葉にもこだわらなくなります。)

 

じゃあ、何月何日がいいかなぁなんて、語呂合わせをしていたら、

8月4日(8は「文」4は「しょ」という事であせるニコニコ

 

そしたら、今週でしたね。笑

 

ちなみに現在、8月4日は何の日かなぁ?と調べてみたら、箸の日、吊り橋の日、ビアホールの日、浴衣の日でした。

 

ちなみに誕生日の有名人は、吉田松陰さん(幕末の思想家)、バラク・オバマさんなどです。(本当についでの情報です。歴史が好きなもので吉田松陰さんなんだぁと自分勝手に盛り上がってしまいましたあせる

 

心理療法の中で、内観療法というのがあります。これは日本人が考えたもので、吉本伊信さんが禅宗をヒントに創り出したものだった気がします。

一人の時間を作り、「今まで、して貰ったこと。して返したこと。迷惑をかけたこと」をひたすら考える方法です。

 

現代社会は、物質に溢れて、お金さえあれば生きていかれる(という勘違い)と考えがちです。

昔は、人と助け合わなければ生きられません。

病気でも医者がいる町の方が少なかったかもしれません。薬も今ほど効かない・・・薬草を取るには山を駆け回る体力が必要・・・・食事は自分の畑を耕す・・・それが出来なければ、飢えるかも・・・・火をたく薪割りも健康でなければできない・・・薪が割れたって、包丁がなければ細かく切れない・・・・

 

物質がなく、暖房もない・・・夜は冷たい風で、布切れもない・・・

 

こんな状況では、自然と周囲の人がいなければ・・・という不安と、その時に助けられた恩(情)が人々の繋がりを生んで、物質がなくとも豊かに暮らせた時代であったのかもしれません。

 

今は、医者に行けば、見てくれるのが当たり前。アマゾンで包丁も買える。火はボタン一つ・・・・

 

一人で生きていけると思ってしまいます。

むしろ、他人は邪魔・・・・。と考えがちになります。

 

駅が混んでいる・・・横で咳するな・・・・1日配達が遅れてません?

「サービス」が当たり前だと思ってしまいがちです。

 

医者が見てくれないなら、ネットでクレームの荒らしに・・・

 

一昔前なら見てくれるだけでありがたい・・・・。

 

今でも本当に難病になり、見て下さるのはスーパードクターのみ・・・

 

となれば、もう手術してくださるだけでありがたい。

 

サービス・・・お金さえ払えば・・・・・から、こっちは金払っているんだから・・・と何か勘違いしてしまうかもしれません。

 

本来、何もできない自分がしてもらうことは、ただただ感謝の気持ちのみ・・・自分も何か人の役に立ちたい・・・と思うのが人です。

 

そして、この前、これしてくれたから、今度はこっちがこれを・・・と自分の得意を他人に与えます。

そこには、情が通います。

お互いが豊かになります。

 

TVだって、本来は見てやっているではなく、見させて頂いている方が正解かもしれません。

ただで見れるのは企業がお金を払っているからです。

だから、TVに文句を言うのは、本来おかしいのです。

企業が文句を言うのは、現代の価値観で言えばわかりますが…。

 

だから、コメンテーターも口ごもって・・・原発に対する意見をちゃんと言えーと視聴者が言ってもそれは、すこし筋が違います。

TVは企業に支配されているのだから。

まずこの大前提を抑える必要があります。

 

情報が偏っている?

 

なら、自分で調べたら?と言われます。

 

そんな能力も時間もない・

 

なら、文句言わず、与えられたもので判断しなさい。それは怠けです。

 

と、厳しい事を言われてもしょうがないのです。本来はね。

 

何かが少しずつズレてきて、勘違いをしてしまいがちです。

 

物質至上主義のデメリットは「見失うこと」なのかも知れませんね。

 

また、ちょっと話がズレてしまいましたが、

 

たまには、いつもある当たり前の存在を見直して「感謝」する、それを伝えることをしてもいいのかな~なんて思ったりしました。

 

勿論、すでに行っている方はいらっしゃると思います。

 

素直に「ありがとう」と言える人って、なんだか素敵ですよね。

 

「日曜日よりの使者」

https://www.youtube.com/watch?v=1dOBFXVQlko

 

 

ちょっと前のクレイジージャーニーを見ました。

(ダウンタウン松本さんのTVです。)

 

その回は、登山家の竹内さんでした。

8000m級の山を全て踏破した日本人唯一の登山家です。

 

竹内さんは、登頂しても山頂では、ほぼ無感動・・「早く帰らなきゃ」と口にするくらいです。

 

そんな竹内さんも、1度だけ山頂で泣いてらっしゃいました。

 

1年前に雪崩で九死に一生を得た山です。

仲間は2人亡くなられています。

 

竹内さんの登山哲学として、

「自分の足で登ったのなら、自分の足で降りなければならない」

という強い信念をお持ちです。

 

皆に止められても入山したそうです。

 

その日は、同じような天候でした。

雪崩に遭遇した場所で過去の感懐に浸りながら、山頂まで上り詰めました。

 

そして、号泣したそうです。

竹内さん曰く、

「その時の涙は、なんだったんだろう・・・、喜びのような、悲しみのような、、、よくわからないけど、涙がこみ上げてきました、、、。」

 

以前にも言いましたが、感情って人間が勝手に付けた名前でしかありません。

 

怒りや悲しみは、幼少期に母親などから「あら、怒っているのね。悲しいのね」という言葉を貰って、

「あー、この感情は怒りなのか。これは悲しみなのか」と無意識に言語と共にインプットされています。

 

しかし、山頂での竹内さんに、言語化する存在はいません。

 

「何だかわからないけど・・・。涙が・・・」

 

この感情には名前がついていません。だから、わからないのです。

 

逆の発想では、怒りという名前がついていても、どの種類の怒りなのかまで分類できるかもしれません。(神様レベルなら (例えです))

でも、私たちはただ「怒り」として認知しているに過ぎません。

 

感情のサインは、「神様からのサイン」。インドの聖者から言わせれば、「もう一人の自分からのサイン」であるとのこと。

もう一人の自分は何でも知っている全知万能の存在。(いわば神様みたいなものですかね?守護霊という人もるかもしれません。なんでもいいのですが)

 

人は「言葉」により考えていると心理学者の多くは言いますが、実際には「言葉」は100%ではなく、言葉によって考えている思考や人の考えによる計画は、故に100%ではなくなってしまうのだと思います。

 

感情という「未知」の感覚が、人それぞれ感じ方も違い、だからこそ、様々なサインとして、その個人個人にわたってくるのだと思います。

 

だから何だというのではなく、これらの事をパズルのピースのように知っていると、いずれ大きな気づきに繋がると思うような気がします。

 

ちなみに、

「俺は神様には勝てないのか」

「勝つとはどういうことか?」

「・・・・、勝つとは、神様が出来ない事をするとか、気づくとか・・・。」

 

「その「・・・」の沈黙こそが、答えである。それ以降の言葉は思考であり、今考えたことである。それも、昔の何かになぞらって答えらしきものを、求められたから、そこで初めて気づいたから、考えて出した。という状態である。本来は、「・・・」がお前の真実の答えである。」

 

「・・・」とは、今まで、ただ勝つ、超えるという概念だけに捉われていて、その本質まで、焦点を当てられなかった。

神に勝つとはどういう事か。

 

いやいや、勝つとか負けるとかの次元ではないと思うのです。

どう一緒に上っていくか。のぼるというのも、ちょっと違うかな・・・一緒に経験して、豊かになるというか・・・

 

何が自分の役割で、この地球に何をしに来たのか、何を与えて、何を貰って、何を目指してきたのか。が大前提のような気がします。それがわかると、その答えもおのずと出るような気がします。

 

優位に立つとかそういう事ではない気がします。

 

 

勿論、私は神様に勝つというおこがましい考えは全くありません。恐らく、教えてくれるために湧き上がらせてくれたのだと思います。

ただ、神様(守護霊でもいいです)に頼ってばかりではなく、自分自身でどこまで出来るのか、とか、教えてもらわずに自分で気づけるのか、算命学鑑定でお伝えできるのかなどは、考えたことがあります。

 

本当は、使って頂けるだけでありがたいのですが・・・あせる

 

でも、使っていただいて、他人から評価を得ても、「実際は俺じゃないし・・」という気持ちもあったりします。

何のために、生きているのか・・・。なんて考えることもあります。

 

世界的に活躍する人は、ほぼ使って頂いているのだと思いますが。

 

以前、北の国からの倉本そうさんも

「原稿を書き上げると、どっと疲れる・・・」とおっしゃっていました。

すると、友人が

「そりゃそうさ。お前が書いているんじゃないのだから」。

 

アニメの宮崎駿監督もアニメを描きつつ・・・

「もう止まれ、もう止まれ。。。。」と自分に言い聞かせながら、ドドドーとペンを走らせている映像がありましたね。(6年くらい前のNHKのTVでした。)

 

声優の方(ルフィやクリリンの声の方)で、音を撮った後、みんなはそそくさと帰るけど、その人は、ソファーにぐったり・・・・

「こうして、休憩しないと帰れないんです」

 

みんな使っていただいているのだと思います。

 

もう少し想像すると、

高波動が人体に流れこんで、アイディアとして浮かんでいるのだと思います。高波動を受け続けると、生身の体には負担なのでしょうね。

 

だから、昔の僧侶などはお肉など抜いて、体の波動を少しでも下げないようにしていたのだと思います。それが薬膳料理などになったのだと思います。

 

あと、なんか思ったのですが、忘れてしまいましたので、また次回思い出したら書きたいと思います。

 

追記

 

思い出しました。

TVで(TV多いですねあせる)、お祭りの映像があり、お神輿の行列に天狗さん(恰好をした人)がいました。

 

「これ、普通の人だよなぁ中身・・・」と大人げない事を思ってしまいました。

「これが、霊能者か何かで、本当に天狗さんを降ろせる人だとちがうのになぁ」

 

と考えて、ふと思いました。

 

昔は、本物の霊能者さんがこの役割を担っていたのかも・・・。

 

ただ時代によっては、降ろせる人がいなくなって、じゃあ、あなたやる?

次は、「私もやってみたい・・」

などなど、目立ちたがりの人が出てきたり、と時代の変遷もあり今では「普通の人、町内会の力のある人」などがやっていることが多いような気がします。

 

霊能者やあの世の事に興味や関心、才能があるのは算命学では調舒星ですからね。調舒星は本来引っ込み思案で目立つのが嫌いです。

むしろ牽牛は目立ちたがりで、正反対の星です。

 

いつの間にか、「私はいいや、やりたくないし」という「人」の考えから、今のような恰好だけの人になってしまったのかもしれませんね。

 

本来は使っていただく事は、その人の役割であると同時に、人々にも大きな「幸」を与えることもできるのに。

 

ただ、使って頂いているという感覚がないと、遠慮してしまうかもしれませんね。それに、使って頂いていると分かれば、じゃあ、やりますという人も多いと思います。

知っているか知らないかで大きな違いです。

 

使って頂いているかどうかをしる方法は、

「終わった後、人の役に立った。こころがウキウキした」など感情に残ります。

 

宮崎駿監督も、映画を作り終えたら、「もうやりたくない」とおっしゃいますが、いつの間にかまた、作るという感情が湧いてきます。

 

それはその人の「欲」として現れて、こころがそれを求めようとすると思います。

ただ、使われたばっかりはぐったりだと思いますが。

 

これも修行や慣れてくると、段々なくなってくるのかなぁ。それとも高波動に順化しないとずっと無理なのか‥

 

そういうことは分かりませんが。

 

ふと思ったことは大事にしてみてください。

 

 

 

なんか、安倍内閣の支持率がガンガンと下がっているらしいですね。

 

それで、8月にも内閣改造をするという事がニュースになっています。

 

でも、安倍さんって申酉天中殺なんですよね。

 

だから、去年から何かとトラブルが多くて・・・。

 

安部さんって算命学知ってるのにやっぱり、1強が長いと人間は天狗になってしまうのかな・・・・。

 

8月の内閣改造は失敗します。

 

さらに、追い込まれることになるでしょう。

 

だけど、1強のデメリットは代わる人や政党がないことですよね。

 

これが自然界が陰陽で出来ている所以なのかと思いました。

 

次に新たに入閣してくる大臣はきっと活躍はしないし、むしろ足を引っ張ることになるでしょう。

 

そう言えば、この前プーチンが来て、日本が多大なプレゼントをしましたね。あれも、天中殺期間中だから、何も意味を成しません。

 

大きな負を支払ったことになります。

 

ただ、それでいいのだと思います。

 

なまじ、算命学を駆使して、「では、この時期は抑えましょう」「マイナスを出さないようにしましょう」と人の浅はかな知恵を使うと、後々まで膿はたまるので、それが大爆発する時期が必ず来ます。

 

どのような形で出るかは分かりません。大災害が起こるのか、損害賠償を払うのか、大統領が暗殺されるのか・・。

 

自然界は12年に1回は膿を出す期間にしなさいといっているのです。それが「自然」なのです。

その節理に反しても、いずれそれが大きな歪になっていつか現れます。

なら、どうしたらよいか。

 

普段から、奉仕や無償提供など行う事です。

 

自分から寄付するのか、盗まれるのか・・・

 

現実としては、お金が自分の元からなくなるという事だけです。

 

天中殺は、陰の干支、つまり現実現象です。

動機は関係ありません。

 

なら、自分から奉仕した方が、相手も選べますし、感謝されますし、お互いにとって良い事だと思うのですが・・・。

 

これが、和として人類が生きていく経験でとても大切な事だと思います。

 

他人にないものを自分は持っている。(才能でもなんでも)

それを隣の人に分け与える。また隣の人も自分なりの才能を分け与える・・・。そうやって、人は繋がって和になるのだろうと思います。

 

 

※追記です

これを善意で行うか、お金という紙幣を媒介させてい行うか。

人は他人を信頼していれば、失っても必ず恵が来るとわかるなら善意でこの世は形成されますが、そうでないなら紙幣という媒介を通すことで世の中を形成しているのだと思います。人はお金を「信頼」しているのです。「お金」自体も紙ですね。昔は金貨や小判など、実際の金銀を使って、その物自体が価値あるものとして「通貨」を流通させていました。次の段階で、紙を信用して流通させました。次は、クレジット(銀行の数字のみ)で他者からの「もの」を得ています。

次はなんでしょうね。

※追記終了

 

人はどこか欠けています。だからこそ、算命学でいう守護神という技法でラッキーを呼び込むことが出来ます。

元々そうなっているように作られているのだから、それに従う事で皆がハッピーになれるように神様は創られているのだと思います。

 

世の中の道理を知るだけで、人生が随分変わります。

義務教育で英語や算数国語を教えます。それも大切ですが、もっと重要な事を子どもたちに伝えていくことで、どれ程豊かな人生が待っていることだろうかといつも思います。

 

一昔前は、血液型という概念がなく、輸血の際も違った血液型を輸血して死亡することがよくあったと聞きます。

 

現代では、A型の人にはA型の血液を・・・。と当たり前で死ぬ危険も苦しみもありません。

 

算命学は相性も分かります。職場で組む人、上司とする人、チームを組む人など全て調整できます。(もし、皆が知っていれば)

 

当たり前のことを知らないから、出会ってみなければ・・・、働いてみなければわからない・・・となりますが・・・。

 

ちなみに、カルマなど、やった事が自分に返ってくると子どもの時から常識として教えていれば、きっと今のギスギスした状況も完全とは言いませんが、犯罪率と同じくらい(いや、もっとかな)発生確率が低くなると思います。(分かっていても、抑制できない人もいますからね)

 

心理学の実験で、素行の悪い人への罰で何が一番効果あるかを調べたら、「自分がやった事が返ってくること」だそうです。

 

ネットで悪口を言っても、言ったもん勝ち。

やったもん勝ち。

 

という概念が全く通じなくなります。

 

そして、自分がされたのならば、何か自分がしたのではないかと、自分を顧みることもできます。(スピリチュアリストはこの世は鏡という言い方もしますね。また、鏡は古代神聖なものとして祭られる対象でもありましたね。何か象徴としての意味合い(霊感のある師匠が間接的にみんなに知ってもらうために))もあったのかな。。。?

 

ちなみに、教えは直接より間接の方が入りやすいですからね。自分で考えますから。

 

直接教えるのを「基礎」と考え、間接に教えることを「応用」と呼ぶ方が適切のような気がします。

 

塾などで、「応用編」などありますが、難しいことを教えていく意味に使われていますが、本来は、覚えた数式や今までの前例から「自ら解く」ことが応用なような気がします。

 

なんか、話がだいぶ逸れてきましたあせる

 

内閣改造でしたね汗

 

たまには、このズレが何か意味があるんじゃないかと考えてみることにしました。

内閣改造と・・

 

はい・・・わかりません。笑

私もまだまだ基礎が頑張らないと。

 

事象が出て、それから改めてみたら、もしかしたら意味が見えてくるかもしれませんね。

 

 

仕事柄、精神疾患を患い辛い思いをされている方とお話をすることがあります。

その中で、ある女性は「水中毒」に悩まされていました。

どうしても、水が飲みたくて飲みたくて1日に数リットルも飲むそうです。(確か6リットルかな?忘れましたがかなりの量でした。)

 

精神疾患は、全てではないですが、霊に憑依されていることもあると聞きました。

 

以前、統合失調症で自宅で引きこもっている40代の男性を江原啓之さんが訪ねているTV番組を見ました。

 

その方は、憑依されていたそうです。江原さんが何やら祈祷みたいなことをして、数日後に伺うと全く別人と言ってよいほど、シャキっとした雰囲気を醸し出していました。

 

霊は喉が渇く。。といったことも聞きます。だから、日が暮れてからはあまり川の近くなど水辺には近づかない方が良いとおっしゃる方もいます。

 

このようなことも考慮すると、統合失調症を患ったその女性も、恐らく憑依の可能性があり、自分でも訳が分からず水を大量に飲んでいて苦しんでいらっしゃるのかもしれないなと思いました。

 

だからといって、「憑依されているかもしれませんから」とも言えません。

 

でも、知識として持っていると、「これは自分ではない」という思いから、そんなヤツ(霊)に負けないと思うかもしれません。

 

じゃあ、何か違う方法で・・・と前を向く姿勢が現れるかもしれません。

もし、本物の霊能者を知っているなら、それに越したことはないでしょうが、なかなか出会えません。

 

人の念や生霊によって、体調を壊す人もいます。

 

私も人の念を受け取りやすく、体が重くなります。

 

そんな時は、温泉(ナトリウム)に行くとすっきりします。

 

よく、お塩で浄化するために、荒塩をお風呂に入れて入ると効果があるといいます。

 

私は、関東に住んでいるため、関東の温泉は海水が地下に閉じ込められて、熱せられて地上に噴き出たものであるので、海そのもののエネルギー+マグマのエネルギーが加えられた温泉だから、そういった人からの念はきれいサッパリなくなります。

 

私は霊能者ではないので、詳しい事は分かりませんが、多分そんなようなことなのだろうなという感じで、とりあえず、体がすっきりするので、よく利用させて頂いております。

 

これが憑依にも効くのかはわかりませんが・・・。

 

ただ、精神疾患を患っている方は、結構な割合で「お風呂が嫌い」という傾向があります。何日も入らなかったり、シャワーだけにしたりと・・。

もし、憑依されているとするならば、自分の意志ではない可能性もあるのかなと思います。

 

これを、ただ、お風呂に入るといいですよ。とアドバイスしても入りません。

しかし、憑依の仕業なのかもと、ご自身が思って、なら、ちょっと我慢して入ってみようと思い、続けるならばきっと効果がでてくるのかもしれないななんて、思ったりもしました。

 

温泉にはよく、効能など書かれていますね。

打ち身、捻挫、神経痛・・・などなど。

 

これは温泉に入って治ったという方がいるからそうなのかもしれませんね。湯治なんて文化もありますから。

 

でも、もしかしたら、憑依や人の念で体調を崩して、(ずっと人の念を貯めていて・・・とか)温泉に入って、きれいサッパリにしたから、症状が緩和されたということもあると思います。ただし、症状すべてがそういう原因ではないので、必ずしも全員が治るわけではなく、文化として残っているのかなぁと、効能の看板を見ながら思っていました。

 

ちなみに、お風呂が嫌い、暑いのが嫌いというのは、算命学では

癸巳の人がそうです。

 

日干 癸は雨で、水を表します。それがご本人であると、その下の巳は火性で火を表します。すると、火で下から水を焙られている状況になり、暑いことが大の苦手です。

癸巳の人はとにかく冷やそう冷やそうとクーラーガンガンで、冬でも半袖とか、たまにいますよね。そんな人もいますので、一概にお風呂嫌いだから、憑依とかと考えない方がよろしいかと思います。

 

ちなみに、病気やケガは算命学では「害」となります。

例えば、酉年生まれの人は戌の年や月(10月頃)は病気やケガになりやすいです。

それにプラスして、相手が戌を持っているとその人と出会ってから、害の状態が出やすいので、もし、最近調子悪いなぁなんて思ったら、月、年と同時にその時期に出会った人の星を見てみる必要があるかもしれませんね。

 

 

あんまり政治についての意見ってブログでは書くのためらいますよね。

 

今日は難しい話ではなく、普段思っている簡単な事をちょっとつぶやき程度に書いてみようかなと思いました。

 

実際、「なう」でつぶやくと、いつも字数が足りなくなるので、本日は学習して、最初からこちらに書きました。(余計な事で長くなるのを抑えないとあせる

 

最近、ふと思ったことが2点あります。

 

多分、文科省のお役人さんかなんかのニュースをみながらですが、あの話とは、別なのですが、いつも役人が悪者になることがありますよね。また、全く対応してくれないとか、昔の民主党も役人を責めて政権をとりましたね。

 

別にお役所がどうのこうのいうつもりはないのですが、なんでお役所は1つしかないのでしょうか。

 

地域に

例えば、区役所2つ作って、住民が税金をどちらの役所に入れるかを選択することが出来れば、サービスも向上するように思います。

 

一定の財源がなければいけないというのであれば、2段階に分けて、基本の税金と、選択的な税金を分けるとかできないのかなぁと思いました。

 

でも、個人より法人の方が金額が大きいから、より企業やお金持ちの世の中になっちゃうのかな?

 

算命学では、陰陽を大切にします。この世を作っている原理が2つ必要だといっているのだから、本当に良くしようと思ったら、1つではダメなような気がします。

 

あと、1点の疑問は、総理大臣はなぜ日本人じゃなければいけないのかという事です。

サッカーでも発展させるためには、外国の監督を呼びますしね。日産はゴーン社長で蘇りました。

 

蘇る、発展だけが全てではないという意見もありそうです。日本の伝統やわびさびの世界が崩れる可能性も全くないとは言い切れませんね。

 

ただ、とても道徳的に優れた外国の方はいらっしゃいます。

 

地球がひとつになっていくには、龍高星の清濁併せ呑む質が必要です。また、権力の禄存星も全てを含む星です。

 

日本は物質的にとても成功した国かもしれませんが、心が置き去りになっている感が否めません。

 

ブータンの国王やダライラマ、マザーテレサ、マンデラ大統領など素晴らしい方がいらっしゃいます。

 

その国に必要なものをもたらしてくれるのは、日本国内より世界の方が選択、可能性は大いにあるように思います。

 

突飛かもしれませんが、昔の人から見たら、今の世の中も結構突飛のような気がします。

 

戦国時代に敵地から、大名を呼んだら「侵略されないか」「風土、地元文化が崩れる」という意見もありそうですが、今の知事はどこの人でもなれますよね?これだけフランチャイズ店が全国展開しても、地元の良さも残っていますね。地元を愛する力は衰えません。

「産地名産」があるからこそ、ふるさと納税もできるのだし。

 

今の日本には、憲法も国会議員もいます。それ程独裁者がいきなり変えられるほどの力は持てないように思います。そのリスクより、プラス面を考えるほうが良い様に思います。

 

日本に良い政治家がいればいいとかの問題ではなく、多文化との交流から、他者と一体になることが大きな目標であり、国境なき世界の実現に向けての、国がやるべきことのように思います。

 

EUが最近荒れてますね。

 

物事は統合と分裂を繰り返して、より厚みが増し、強固になっていくように思います。

むしろ、分裂無き統一は表面上のものでしかないように思います。

 

世の中、陰陽が重なり合って出来ていると算命学は言っています。

 

自己の利は他者からの犠牲に成り立っているとも算命学は言っています。

 

この世に、自他はなく、ただ繰り返しがあるだけのような気がします。

 

 

なんか、こんなこと書くつもりがなかったのですが、結果としてこうなりました。

なんとな~くな感じで読んでみてください。

 

最近、忙しくて、有名人の算命学の鑑定やってない気がする汗

 

 

攻撃衝動とは、本来、「自分に必要のないもの」を排除するためのサインである。

 

その感情をセルフ(トランスパーソナル心理学の考え方)が認知して、

「わかったよ」と伝え返すことで、無益な「攻撃行動」として表現する必要がなくなる。

 

適切に、言葉での表現やただ単に回避すればよいだけの事。

 

しかし、「自分に必要のないもの」に過剰反応してしまうこころが形成させてしまうことがある。

 

例えば、虐待を受けて育った子どもは、人からの刺激んい敏感になり、自分をために必要な行動としてしまう。

 

 

もう少し、攻撃についての概念を整理しておく必要があるかもしれません。

 

まず、攻撃という言葉が先行して、あーあんな感情ねと思うと思います。

それを、もっと攻撃の感情(怒りなどと表現するしかないのですが)をひとつのサインとします。

原始時代は特に、自分を危機から守るために、攻撃感情は即、攻撃行動に移してきました。これが、人のDNAに備わってきているように思います。

 

そして、幼児期には攻撃感情により攻撃行動を起こすことで「快」の状態が生まれれば、それを学習して、攻撃感情を攻撃行動に移すことをしていきます。そのうち、自動的反応として、怒りを感じたら叩く、文句を言うなど表現するでしょう。

 

正しい、攻撃感情(サイン)の処理の仕方を教わっていないからです。多分、大人もわかってはいないからだともいますが。

その他にも、泣くなどの表現方法によって快を得ますが、それも大きな意味で攻撃感情になると考える方が今後の話がわかります。

 

言葉ではなく概念で(、そして、感情でとらえて理解していくとわかりやすいです。

ここでは言葉で伝えるしかないので、伝えるのが難しいですが(例えば、怒りの感情も実は人それぞれの認知の仕方があり、違いがあるため、その違いが積み重なると大きなズレとなり理解が難しくなります)

 

話を元に戻します。

 

攻撃感情は「今の自分に必要のないサイン」であり、原始時代は、命を守るために即、攻撃してきた。(または幼少時代)

しかし、無意識(本当の自分など)からのサインを受け取れれれば、

「あー。これは必要ないんだな、じゃあ、いらない」と判断すればようだけのこと。

そして、その感情のエネルギーは、なくなるのか、感じなくなるのか、それとも、一度発生した内的エネルギーは何かに変換して放出しなければ、消費されないのかは、まだ、わかりません。

これが、ストレス発散にスポーツをするなどに当たると思います。

 

よく、(体を使って)スポーツやカラオケで発散する人が多いと思います。スポーツは狩りのような全身を使う事、そしてカラオケは言いたいことを我慢している代わりとして、声を出す。などだと思います。

 

なので、まとめると、怒りの感情は「自分に必要のないもの」を排除するエネルギーであり、サインである。まずそのサインに気づくこと、そして、回避なりの行動をとること。現代では、ストレスが続くから自分の中に「怒り」があると考えがちだが、それは外の刺激によって、自己への気づきとしてのサインであるため、決して自分が悪いわけではないと思います。

 

こころはセンサーであると考えます。これが根本です。

 

そのセンサーが曇っていたり、使わずにいると鈍ってしまい、必要以上に過敏に反応したりして、「本当に自分にとって必要ないもの」なのかわからなくなります。

 

恐らくですが、悟りを開いた僧侶とかは、センサーを適切に感度よく使えるため、それが必要ないものをすぐ判断できると思います。

 

中村天風先生も、欲を捨てることはできないし、する必要がないとおっしゃっていました。

 

欲は人を活かすための活力であると思います。

 

要は、それに飲み込まれないよう、コントロールできるかどうかだと思います。

 

ですので、悟りを開いた方は、怒りを感じても、それをコントロールしているだけのことだと思います。(聞いた事ないのでわかりませんが)

そして、その怒りのサインの意味を理解して、世の中で適切に表現しているため、結果として穏やかに過ごすことが(見た目上は)出来ているのかなと思います。

 

と、ここで、ふっと疑問に思いました。

 

悲しみの感情は何のサイン?

 

怒り(攻撃感情)と悲しみを同列に考えるのは、そもそも違うかもしれません。

 

しかし、悲しみは、自己を抑える働きもするかも知れませんね。(あくまで行動上ですが)

いわゆる元気がなくなり、じっとしているような状態を作ります。

 

算命学では陰陽で考えます。

 

感情にも、それを抑える役割?みたいな感情があるのではないでしょうか。それが、悲しみと呼ばれるような感情のような気がします。

 

結局何が言いたいかと言いますと、

 

ココロのセンサーを良くして、サインを受け取り、適切な行動をとり、むやみやたらに自分の感情に振り回されないようにすることが必要かもしれません。

 

ということを、私に伝えて下さっているように思います。

 

今、私は「怒り」の真っ最中なので^^;

 

言葉にするのがとても難しいく分かりづらいと思いますが、これが、今の限界ですので、ご容赦くださいませ。

 

 

現在、日本では「ひきこもり」が大きな関心ごととしてあると思います。

 

世界を見ても、群を向いて日本が多いそうです。その次に多いのが韓国だそうです。

 

なぜ、ひきこもりが起きるのか・・・。

 

様々な人がいろいろな事をおっしゃっていると思います。

 

私は算命学の観点から「ひきこもり」についてお話しようと思います。

 

算命学の技法に大運天中殺というものがあります。

そもそも大運とは10年間の運勢です。人それぞれ違う大運が回っています。

その中で、大運天中殺というものがあります。

これは、大きく分けて2種類あります。陽転と陰転のパターンです。

 

陽転の場合は20年間のうち15年よくて5年間は運が悪いです。

陰転の場合は20年間のうち5年間よくて15年悪いです。

 

これはある程度コントロールできます。

 

今回のお話はここではなく、この大運天中殺は移動するという点です。

一人の人間に10年事に大運が回り、全部で6種類の天中殺を重ねます。

 

なので、人生の前半に回る人もいれば、70代から回る人など様々です。

 

早死にして回らない人もいます。

 

しかし、この大運天中殺が特殊なのは、個人の年表の中で移動するということです。

つまり、本来70代からまわる予定であったのが、20代に巡ってくるという事になるなどです。

 

この移動は働き盛りの20代から40代が主になります。

 

では、本来、人生の後半に回ってくる人が若い働き盛りに回ってくるとはどういうことなのか。

運の先払いです。

働き盛りに運の伸びを良くしているのです。すると、どうなるか。人生の後半に本来めぐる人はともすると、自分の子孫の分の運を貰っていることもあります。

 

また、算命学には犠牲運というものがあります。自分と関わる人で誰の運を貰い受けているか、または誰の犠牲になっているかなどがわかります。

 

もう一つ、大きな運の流れを見る時に必要なのが、陰陽が交互に来るという事です。

「諸行無常」の言葉通り、いつも良い時ばかりではありません。これは国の運勢も同じです。

 

日本は大きな戦争を2度経験しました。特に第二次世界大戦では大きな犠牲を払いました。被爆・神風特攻隊など他国に類を見ない惨劇もありました。不運の先払いです。そのため、高度成長という好景気の流れに乗ることが出来ました。

 

その時に、働き盛りの人がおそらく大運天中殺の陽転を持った方が多かったのではないかと思います。

 

国の運が伸びる、つまり、その国の国民に大運天中殺陽転が多くいる。だからこそ、陽転できるし、その波に乗れるということです。

 

戦争は4年間です。

戦後は70年です。

 

日本の借金を見ても増え続けています。

 

過去の運の先払いはとっくに終わっているのだと思います。

 

そして、当時働き盛りだった人も引退して老後を送っています。

その子どもがひきこもりになることが多いです。

 

働き盛りが子どもの運を使って伸びたので、そのつけを今払っています。

 

恐らくですが、現在の老人の中には子供の運を命式の人が多いかもしれません。

 

身体的に障害がある方は、手伝ってくれる人がいます。目に見えていますから、人の愛情を受けることができます。しかし、運命は目に見えません。五体満足なのに、なぜ、働かない!と責めてしまうかもしれません。しかし、ある意味その人たちのおかげで今の日本が保てているとも言えます。

 

ある時、マザーテレサが

「貧困で苦しんでいる方がいるからこそ、私たちがいまこうして生きていられるのです。彼らは私たちの犠牲になっているのです。だからこそ彼らを尊重して私たちが持っているものを分け与えることが至極当然のことなのです。」

とおっしゃっていました。

 

以前も書きましたが、マザーテレサは算命学を恐らく知りません。それでも、そのような考え方を持つことが出来ることに感嘆致します。本当に・・・もう言葉では言い表せないほどです。

 

私は算命学を知って、辛うじてわかっている風です。

 

前に、YouTubeでホームレスの方を罵倒している警官がいる映像を見ました。

 

外国の実験で、子どもにはみんなカンパします。しかし、大人には「怠けていないで働きなさい」とののしります。

 

運命上どうにもならない事はあります。

 

この事を一人でも多くの方が知っていただけるだけで、世の中の人への接し方が少し変わるのではないかと思います。

 

算命学は「占い」だけでなく、もっと大事なことを教えて頂けます。

 

このような知恵を活かした人生は「お互い」にとって心の平安に繋がります。

 

いろいろな角度から見て頂きたいと思いました。

 

 

この前、Eテレで沢村投手のお話を紹介していました。

どのような方か、簡単に説明すると、プロ野球に沢村賞といって1年間で最も優れた投手に贈る賞があります。その名前の由来の方です。

 

とにかく素晴らしい投手で、当時(昭和9年?)初めて日米野球が開催されることになり、高校生で唯一選ばれた方です。

 

しかも、当時の大リーガー(ベーブルース率いるです)相手に、0-1と惜敗。その試合は沢村投手が完投しております。

この盛り上がりの後、プロ野球が設立されて発展していきます。

 

その沢村投手は甲子園では1回戦負けをきっします。

内野手のエラーによる追加点が決勝点になったようです。

 

これ程の投手です。

 

「あのエラーさえなければ・・・優勝だって・・・」と思うのも当然です。

どう考えていたか、わかりませんが、私はそのVTRを見ながらふと思いました。

 

インタビューされたらどう答えるだろうかと・・

 

「野球は1人ではできないスポーツですから。1人の活躍で勝てるものでもない。もし、一人の力で勝ちたいのなら、野球を選んではいません。野球というスポーツを選んだという事は、そういう事を覚悟する必要があると思うんです。そして、何より野球を選んだのは「私」ですから。」

 

エラーのせいで、負けた。

 

と不満をこぼすようなら、一人で勝てるものを選べばいいと思うんです。

最初に選んだ自分の「責任」を再認識する必要があると思います。

おそらく、今の日本ではなんとなく少年野球をやっていて、そのまま続けている人も多いかもしれません。でも、そこで改めて、「自分が選んだんだ」という認識はとても大事なような気がします。「人生を自分が作っている」という自己効力感にも繋がります。つまり、自分が世の中に対して力を持っている。影響力があるという自分を信じる力みたいなものです。(心理学用語です)

 

他人の行動や言葉によって、自分の価値や人生が決まるようでは、少し寂しいですね。

 

やっぱり、良い時も悪い時も自分が選択したということが「自分の軸」みたいなものを創り出すと思うんです。

 

野球の話に戻りますが、以前、ヤンキースの田中選手が、味方のエラーに対して、

 

「助けられている時もありますから」

 

というようなことをおっしゃっていました。

 

チームであること。人は個ではなく、地上で(グループソウルから)個となり、他者とのかかわりの中で、様々な経験をしていきます。

 

昔、戦国時代の漫画にこんな話がありました。

 

とても長い箸があります。自分の口に持っていくには長すぎて困難です。

みんなが四苦八苦している時、あるお侍さんが怪我をしている仲間にその箸で、

食べ物を食べさせてあげました。相手はスムーズに食します。

それを見ていた、もう一人が対面の侍に食べ物を与えます。そして、与えられます。

 

もう一つ、沢村さんのVTRを見ながら思ったことがありました。

 

けど、忘れましたあせる

忘れたってことは私が考えて思ったことではないかもしれませんね。

 

先ほどのインタビューでこう答える

と、書きましたが、あれも「そういう形」でメッセージを私に伝えているのだと思いました。

 

もう一つのことを思い出したらまた、次回にでも書こうと思います。

 

明日は甲子園決勝です。どんな試合になるか楽しみです!

 

 

明日の朝8時から、WBCの準決勝ですね。

 

それにしても、WBCはルールが多いですね。球数制限から翌日登板まで様々です。

その中で、勝たなければならなのは大変。まさに選手層の厚さが重要になって参ります。

 

確か4年に1度の気がしましたが、前回はWBCではなく、世界プレミアとかいう名前でしたね。

アメリカが出ていなかったからでしょうか。

ベースボールはアメリカが主導ですからね。

 

ずっと思っていたのですが、なんで1次ランド2次ランドは日本とアメリカで、準決勝決勝はアメリカなのでしょうか。

 

台湾や韓国にも立派な球場があると思うのですが。

 

サッカーでもホーム&アウェーの2戦行いますよね。

クラブチームの世界一決定戦の(旧)トヨタカップも南米と欧州の丁度中間の日本で行われていましたね。

 

WBCは日本とアメリカに有利ですね。

 

スポンサーの関係かな?お金の関係かな?

 

どちらにしても、とても不公平だと思います。

 

球数制限などのルールはアメリカの選手の契約がそれに近いものであるため、国際試合でも多く投げさせることができないという事情もあるのかもしれません。

 

昔、ある国会議員が「アメリカはジャイアンだからね」といったそうですが、そいうことがベースボールの世界でもありそうですね。

 

今は大統領が本当のジャイアンみたいですが・・。

 

もっと公平に世界各国で開催してはいかがでしょうと提案してみても

もしかしたら、他国には立派な球場がないからとかいうのかな?

 

球場がないなら、せめてWBCの試合で得た収入を折半するなどして、球場の設立に貢献するべきだと思うんですが。やってるといいのですけど、どうでしょうか。

 

WBCは何のためにやっているのですか?と問われたら、

野球の発展のためですとかいいそうです。

でも、発展を望むなら、球場がない国(たとえですよ)で行って、野球を盛り上げるべきだと思うんです。

 

もうアメリカや日本は野球大国ですから、他の国に譲るべきだと思いますが、「大人」は難しいですね。

 

アメリカはジャイアンですが、日本もジャイアンです。(スネ夫ではないです)

以前は、アメリカには勝ってほしくありませんでした。アメリカは大リーグの選手が一丸となって参加していません。(現在は日本もそうですが)

日本が2度優勝した時も、

「大リーグでは地区優勝ができるくらいのチームだ」と言っていました。

だから、アメリカが優勝せず、日本や他国が優勝して、アメリカを本気にして、それでも他国が優勝して、初めて公平への道が開けるような気がしたからです。

 

本当は、メジャーリーガーが出ない、つまり、一丸となれないのはチームとして参加できないということなので、それだけで他国のチームより低いのですが。。

 

どんなに素晴らしい選手(個の力)があっても、優勝できるとは限りません。

チーム一丸となれるかどうかが、世界一のチームです。

サッカーでもブラジルやドイツがいつも優勝できるとは限りません。

歴史をみても、常に強いものが勝つとは限りません。

特に、チームプレイはそうです。

 

昨年のリオでも陸上リレーで日本が銀メダルをとり、アメリカが失格してます。

 

チームが一つになることはとても難しいことです。

 

それができるかどうかが、この世界大会では重要になってきます。

その視点をなくして、「俺は本当は強いんだ」と言っているのは、あまり好きではありません。

 

物事の本質が見えず、力だけの評価しかできない人はまだまだ世界にたくさんいます。

 

この事実が世界中の人がわかるようになるだけで、随分と世界が変わる気がします。

 

だからこそ、昔は日本や他国ががんばってアメリカに説得力ある言葉を伝えてほしいと思い応援していました。

 

でも、日本もアメリカと一緒でしたね。

選手は頑張っていますし、試合もとても面白いです。

みんな一生懸命です。本気だから見ていて気持ちが良いです。

12時近くなっても、球場を去らない観客の気持ちもわかります。

 

選手の皆さまには頑張ってほしいと思います。

 

いろんなプレッシャーもあると思いますが、それを背負って出場しています。

見ている私たちは感謝しかないと思います。

オリンピックでも、ワールドカップでも。

 

負けて悔しいとかは見ている観客本人の気持ちであり、選手にあてつけるものではないような気がします。

試合のその時間、そして、試合までの楽しみを与えてくれているのですから、感謝しかないはずです。

負けて文句を言うのは、何か違うと思います。

日本代表は私たちにできないことが出来るのであって、その人達が出来ないなら、最初からできない人が文句を言う筋合いはないと思います。

 

そんな当たり前のことを、ぐっと堪えて、言わずに黙々と代表として戦ってきている人が多くいると思います。カズさんやイチローさんやたまごをぶつけられた城さんなど。

 

大勢の人の前に出て、自分を表現するとは大変なことですが、その苦しみを知りつつも、尚、懸命に努力している人たちをみると、とても勇気が湧いてまいります。

 

また、話がそれました・・。

 

日本野球機構や連盟の方なのかわかりませんが、もっと平等にやってほしいと思います。

 

最近、ソフトバンクのCMで、体操選手がソフトバンク会員であるために点数が10倍?になって

お父さんが「そんなんで嬉しいのか?」というシーンがあり、とても笑ってしまいました。

 

芸人の土田さんは「世の中不公平じゃないことなんてあるのか?」とおっしゃられていました。

 

算命学やスピリチュアルな視点を持つことが出来ると、公平不公平など周囲の環境ではなく、その立場で自分が何をしているかの方が重要であると気づけます。前回はそのようなお話をさせて頂きました。

 

土田さんの言葉を、「そうだなぁ」と説得力あるように聞いてしまう人や子どもたちも多いと思います。特に、理不尽な体験が多く苦しんだ人はそう思うかもしれません。

 

ただ、スピリチュアルを知ることで、その後にとる行動が違ってきます。

スピリチュアルの恩恵はこのような所で差が出てくるのだと思います。

 

不公平なものが当たり前なのだから、自分が他者を不公平に扱っても「みんなやってるじゃん」と自分を正当化できます。(最初、心はチクっと痛みますが、そのうち、鈍麻して本当に正しいと思うように錯覚してしまいます。そうなると、心が戻るまで時間が掛かり、時に苦しい経験をして上の人に気づかされることになると思いますが。)そして、一種の強者になったつもりが体験できます。

言ったもん勝ちではないけど、文句が多い人や大きな声の人は周りが静かになってくれるので、その手法をとるようになってきます。

 

トランプ大統領もそうでしょう。

彼は強者の手法です。

一番という立場だから、あのような強引なやり方でも「通る」という経験をしてきたのだと思います。なにせアメリカの不動産王ですからね。

もし、彼が立場の弱い企業の社長でしたらあの手法は使えません。

そういう意味では、本当に経営手腕があるかどうかはわかりません。

 

サッカーの本田選手は欧州で3部リーグのオーナーをしているそうですが、その首脳陣に秋田元日本代表選手を加入しているそうです。

理由は、秋田さんも天才ではなく努力の人だからだそうです。

秋田さんはうまくはないが、努力で日本代表まで来た人だと評価しています。それだけ、サッカーについて考え、試行錯誤しながら努力して上手くなった人だから、その力がほしいと思ったそうです。

 

公平不公平は世の中にあります。しかし、ずっとは続きません。そこで何を学んで、どこで活かすかが本当の人生の楽しみ方だと思います。

 

常に自分との対話であり、他者はいません。

 

たまにこんな言葉を宗教家から聞きますが、そういうことなのかなぁなんて思ったりします。

 

大変な道ですね。

 

私は不公平を公平に変えることも人生の一部であると思います。

公平不公平があり、それが当たり前で、それを受け入れることで体験して、自分を高める。だけが強調されているように思いますが、私はやはり、そこで、自分が何をするかが大事だと思います。

十分感じてなんていう人もいらっしゃいますが、抵抗したって、すぐに変わりません。十分抵抗しても十分感じる体験は出来ます。大事なのは、自分の心が何をしたいと思っているかに耳を傾けることだと思います。

 

 

長い・・・・・。

少し疲れました・・。

私は何を言いたいのだろうか 笑。

 

 

中村天風先生も、「欲を捨てろと言われるが、欲は当然のようにあるものだ。高みを目指すのも欲だ。欲を捨てることが悟ることではない」みたいなことをおっしゃっています。

言われたことをそそのままするのではなく、やはり、自分がどう考えて感じているかをもっと大事しにする必要があると思います。

 

私個人の見解では、欲を捨てるのではなくコントロールできるようになることが大事なような気がしますが・・・。

食欲も欲です。食べないといけません。でも食べ過ぎはご用心です。これだけのことのような気がします。

 

欲は生きるために必要なものであり、捨ててはいけないと思います。

 

やっぱり何が言いたいのかわかりません。笑

 

とても散文ですが、長い文章最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

明日、いい試合になるといいですね。

 

 

本日、報道ステーションでダウン症児の療育についてやっていました。私も心理士として関心がありました。

 

そこで、何となく見ていると言語療法士や行動療法士、親などがそばについて教えています。ごく当たり前の光景です。ある女の子(中学生?)は自分の名前のスペル(外国人)をよく間違えているそうです。言語療法士はスタンプを使って、一文字ずつ押させます。

 

「去年は出来なかっが今年はちゃんと自分のスペルを間違えることなくできるようになりました。」

 

そんなことを支援員さんはおっしゃっていました。

 

また、親も「こういたほうが良いわよ」。先生も「すごいわね~よくできたね」

同級生もみんな温かく彼女の努力を見守りサポートしておりました。

 

これはこれで、素晴らしいと思います。私も今まで漠然とこのような光景をイメージしていました。自分が行う時もそうです。

 

ただ、今回客観的に見させていただき気づいた点があります。

 

彼女は支援されっぱなしです。

障害児はいつも「出来ない自分」と向き合います。「そうではなくこうよ」と支援されます。

時に、みんなができるこんな簡単なことも出来ないのかと自尊心が低下することもあります。

いつもいつも支援を受けている立場では自分に誇りを持ちづらくなると思います。

 

私は、支援員も何かのテーマに向かって努力し、失敗している姿を見せることも必要ではないかと思いました。

 

自分だけが、何か出来ないのではなく、みんな何かしらのテーマを持っていて、それに向かっているということを見せることはとても重要な気がしました。

 

自分だけが、出来ないんじゃない。みんな出来ないものがあり、その中で努力しているんだ。ということを認識することは、自尊心の上でも、他人の努力する姿をみて、より一層努力するかもしれない可能性の観点からも大切であるように思いました。

 

また、次の段階では、(理解できるか別にして)人には与えられたテーマによってその人の評価が下るのではなく、自分のテーマに向き合って挑戦していること自体が評価に値するものであることを伝える必要があると思います

その人が、どのような状況で、何に挑戦しているのか。かが大切であり、できたできないは二の次であるという事です。

 

例えば、障害児が鉛筆を筆箱にしまうことが困難でテーマだとします。

もう一人は東大受験がテーマだとします。

障害児は脳機能による条件が最初からあります。

一方、東大受験は頭が良い遺伝子(玉堂星など)をもらって生まれています。

 

スピリチュアルな観点から言えば、今回は勉強ができる才能をもらって、その才能を活かすべく努力するテーマを持つものと、障害を背負いながら鉛筆をしまうテーマを持つものがいるだけ。その過程で色々なことを学ぶと思います。障害を持った人は他人の助けを借りるありがたさであったりなど。東大受験は人より頭が良い立場で他人にどう振舞うかなど。

それぞれのテーマがありそれにどう向き合っているかだけだと思います。

 

東大だから、自分は鉛筆はしまえるから自分の方がすごいとかでは・・・ちょっと悲しいですね。

 

そこにどう向き合っているか、勇気をもってチャレンジしているか。何度も挫けそうになっても心折れず頑張っているか・・・。(別に頑張ることが良いのではなく、わかりやすいたとえです)

 

なんか、また話がそれました・・。

 

最初の話は・・・・

そう支援を受ける側という立場のみでは本当の「成長」ではないような気がしたんです。

人は何かを出来るようになることよりも、もっと大切な事があるように思います。

 

支援を受けるだけでは自尊心が育ちません。他人の失敗を見て、何を自分は思うのか。

他人の努力を見て自分は自らの意思で何をしたいのか。

すごく出来ると思っていた人が挫折して、心が折れている姿を見ることも、とても人生の成長には欠かせないものであるように思いました。

 

支援員は「なんでもできる人」というイメージしかないかもしれません。(もしかしたらですが。それしか見る場面が少ないし、いつも教える立場だから)

 

本当の療育とはなんだろうか・・・とTVを見ながら思いました。

 

支援員も自分ができるかわからないギリギリのテーマを真剣に見せて、時に失敗するなど「その人の弱さ」をみせることも大事な療育の一つだと思います。

 

今、WBCが盛り上がっていますが、ヒットを打てるかわからないけど、努力してヒットを打つ姿や4番というプレッシャーがありながらも重責を全うしてる姿を見る(想像)するからプレーに感動して、自分も・・・という熱い気持ちになることもあります。

 

療育は、着替えができる、言葉を発する、指先がスムーズに使える、感情統制ができるようになるなど生活に必要なことができるようになることも大切ですが、それと同時に「心の成長」も視野に入れた療育があってもいいように思います。

 

心が成長しても表現が難しい子どももいるかもしれません。しかし、それは発していないだけで、内側は成熟していっています。

成果が見えないと、指導する方も気持ちを維持するのは難しですが、そこが、本当に専門家として子どもと向き合っているかが問われる観点であるかもしれません。

 

そんなことを教えてくれるTVでした。