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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

兎児爺

 

中国の泥人形について、その歴史や各地の泥人形を紹介してきましたが、もうひとつ、季節の行事で使われる泥人形として、「兎児爺」を紹介したいと思います。

 

「兎児爺」tùéryéというのは、中秋節、お月見の時に使われる、粘土で作られた、首から下は人、首から上はウサギの人形のことです。毎年中秋節前に北京の街中で販売されました。

 

清代の富察敦崇は『燕京歳時記』の中でこう言っています。

「毎年中秋節になると、市井の手先の器用な人が黄土を捏ねてヒキガエルやウサギの像を作って販売し、これを「兎児爺」と言う。服を着て冠を被り傘を差したのや、甲冑を纏い旗を帯びたの、虎に乗ったもの、黙って座っているものがある。大きいのは三尺(1メートル)、小さいのは一尺余り(30センチ強)、職人たちが技巧の限りを尽くして飾りたてる。」

 

潘栄陛は『帝京歳時紀勝』でこうも言っています。

「都では黄砂を使って白い玉兎(月に住むという白ウサギ)を作り、色とりどりに飾り立て、様々な姿かたちのものが集まり、市が立ちこれを商う。」

 

ここで言う「黄砂で白い玉兎を作る」が指すのが「兎児爺」です。

 

各種の兎児爺

 

「兎児爺」は月の神への崇拝や月に関する神話、伝説に起源を発するものです。玉兎が月に住むという神話の起源はたいへん古く、屈原(紀元前4~3世紀、戦国時代・楚の政治家、詩人)は『楚辞・天問』の中で、「夜光は何の徳ぞ、死してまた育む。厥(そ)の利それ何ぞ、菟を顧みれば腹に在り」と書きました。東漢(後漢)の王逸の『楚辞』の注より、ここでの「菟」はウサギのことであるとされ、歴代そう解釈され、多くの研究者も認めています。ウサギが月に住むという神話は春秋戦国時代より前に生まれました。清代の林雲銘はこれに異議を唱えました。聞一多も「それはヒキガエルのことを言っており、ウサギではない」と断言しました。1970年代末に四川師範学院の湯炳正も「菟」は虎のこととする見解を出しました。しかしこう考える人もいます。月に最も古くは虎が住むとされ、後に虎がウサギに変化し、更にウサギがガマガエルに変化した、と。まとめると、月に関する神話は何れも三つの動物に関係しています。出土した画像磚や画像石を資料とし、イメージの考察を進めると、次のことが分かります。晋以降、ガマガエルと虎は次第に姿を消し、「玉兎」が独り月の図案の主流を占めるようになりました。例えば江蘇省丹陽県で1960年に南朝(5~6世紀、南北朝時代の南朝)の被葬者不明の陵墓で出土した「日月輪」画像磚で、「月輪」磚には一匹の薬草を搗く「玉兎」だけが描かれています。類似する図案は晋以降歴代の彫刻、絵画の中に見られます。それよりこう推察できます。ウサギが月に住むという神話はおおよそ晋以降になって流行したと。

 

「玉兎」が月に住むという神話は広範囲に伝播し、人々の心に深く入り込み、ウサギを月の象徴とするまでになりました。北周(6世紀南北朝時代の北朝の国)の庾信は『斉王進白兎表』でウサギは「月の徳」であると称え、唐の権徳輿はウサギは「月の精」であると称えました。それと同時に、ウサギで以て月に代えるようになり、例えば唐の廬照隣は『江中望月詩』の中に、「鈎(釣り針)を沈めれば兎影が揺れ、桂(金木犀)を浮かべれば丹芳動く(丹薬を搗く香りが広がる)」の句があり、「兎影」はすなわち月のことを言っています。この他、「兎輪」、「兎魄」などの言葉を用いて月のことを言う詩文がありました。ウサギと月が互いに双方を比喩する現象は、月にウサギが住むという神話が既に誰もがよく知る常識になっていたことを表しています。こうしたことが、おもちゃの「兎児爺」誕生の文化的な基礎となりました。

 

古い民間の風習では中秋節に月を祭る際に、太陰星君(道教神話の中の月の神)の位牌をお供えしますが、これがすなわち「月光碼儿」或いは「月亮碼儿」と呼ばれる一枚の絵で、太陰星君が描かれ、その下には必ず一匹の薬を搗く玉兎が描かれました。富察敦崇『燕京歳時記』によれば、「月光馬は紙に描かれたもので、上には太陰星君が菩薩像のように描かれ、下には月宮と薬を搗く玉兎が描かれ、二本足で立って杵を動かし、極彩色でたいへん美しく、市井では多くの人々がこれを買い求めた。長いもので7、8尺(2―2.5メートル)、短いもので2、3尺(1メートル弱)で、てっぺんには赤と緑、或いは黄色の旗が2本掲げられ、月に向かって供えられ、線香を炊いて拝礼をした。祭礼が終わると、千張、元宝(紙で作った馬蹄銀の形の張りぼて)などと一緒に火にくべて燃やした。」

 

月光碼儿(月亮碼儿)を掲げたお供えの机

 

月を祭る時、「月亮碼儿」は「月神」として尊ばれ、屋敷の中庭の母屋の前に掲げられ、お供えを飾る長机が置かれて拝礼が行われ、長机の前には枝豆の枝(飼葉を象徴する)、ケイトウの花(霊芝を象徴する)が供えられ、更に西瓜、桃、月餅、ダイコン、レンコンなどが並べられました。月の神は陰に属し、古い風習では男子は月を拝むのは良くないと言われ、民間では「男は月を祭らず、女は竈を祭らず」という言い方があり、それで月を祭るのは必ず婦女子が行いました。子供たちは、多くの場合女性が面倒を見たので、月を祭る儀式は子供への影響がたいへん強く、そのため子供たちが月を拝む習慣が形成されるようになり、「兎児爺」は子供たちにとって、月の神様の象徴となったのです。「兎児爺」が生まれた背景には、中国の神話、風俗、宗教といったものが、子供のおもちゃに強く影響したことを表しています。

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(1)

 

昔の北京、家の中庭で月を祭る(2)

 

「兎児爺」の古い記述は、明末、紀坤が著した『花王閣剰稿』に見られます。

「京師(都)では中秋節に多く粘土を捏ねてウサギの形にし、衣冠は人のようにして、子供や女がこれを拝む。」

 

最も古い「兎児爺」は、おおよそ明代に誕生し、清代に最も盛んに作られました。中秋節の前には、北京城内の街や横丁には数多く「兎児爺」を専門に販売する屋台が設けられました。

 

「兎児爺」を売る屋台

 

人形の絵柄や品種はたいへん豊富で、大きなものは高さが1メートルほどもあり、小さなものは3センチ足らずで、首から上はウサギ、体は人間で、衣冠をきちんと身に着け、多くは薬草を搗く杵を持ち、鎧を羽織るもの、赤い長衣の中国服を身に着けたものがありました。また虎や鹿、馬、麒麟にまたがるもの、蓮の花を手に持ち座るもの、流れる雲、花を持ち座るもの、更に背中に旗を挿したもの、頭に兜をかぶったものなど、各種各様で枚挙にいとまがありませんでした。

 

薬草を搗く杵を持ち、背中に旗を挿した兎児爺

 

「兎児爺」は、多くの場合、型で押して作られ、下地を塗った上に上絵を施し、着衣の華麗さと顔つき、目鼻立ちの表情を重視しました。

 

型押しで作り、下地を塗った上に絵付けをする

 

よく見られる表情は、両目をまっすぐ見つめ、上唇が縦に裂けたみつくちの唇を固く閉じ、頬にうっすら紅が施され、みめうるわしい中にも威厳があり、端正な中にあどけなさが残り、活発で生き生きとして見る者を惹きつけたました。

 

清代の兎児爺

 

「兎児爺」は実際には子供たちが月を祭る行事の中での神様とされ、子供たちの尊敬を受けました。買って帰ると、大人が月を祭るのと同様に、お供えして礼拝しました。清の乾隆年間に楊柳青(天津市西部、北京との境に近い鎮)で作られた木版年画、『桂序昇平』は、当時の子供たちが「兎児爺」を礼拝した様子を描いたものです。

 

木版年画『桂序昇平』

 

絵の中で、「兎児爺」はお供えを並べる机の上座の位置に置かれ、その前には西瓜、ザクロ、桃、月餅が供えられています。ふたりの子供がひざまずいて地に頭をつけるお辞儀を行い、もうひとりのやや年長の子供が馨(けい。古代の打楽器)を打ち鳴らして興を添えていて、絵の情景は見る者の心を動かします。こうした情景は中秋節の夜には随所で見ることができ、庶民の家々がそうであっただけでなく、宮廷内の皇族たちの間でもこうした風習が行われ、「禁中もまた然り」(徐珂『清稗類鈔』)とあり、故宮博物院には今でも清代の皇族の家庭の子供たちが月を祭った遺物が収蔵されています。

 

「兎児爺」は子供たちが使うものである以上、神様として扱われる以外におもちゃとしての機能も併せ持つ必要がありました。「兎児爺」は元々太陰星君(道教神話の中の月の神)の家来の侍従であり、且つ星君のような尊厳は持っていませんでした。つまり「兎児爺」は必ずしも子供が手を触れてはならないものではなく、「兎児爺」の実際の役割はよりおもちゃに近いものでした。拝んだ後は好き勝手に手に取って鑑賞し、遊び戯れてよく、たとえ不注意で壊してしまっても、あまり咎められることはありませんでした。こうしたことから、手足を動かしたり音が鳴ったりする「兎児爺」が出現し、例えば「口の動く兎児爺」は、中が空洞で、唇が動くようになっていて、糸でつながれ、糸が体の中から引き出されていて、糸を引っ張ると、兎の唇が激しく動き、カタカタと音がしました。また、「腕の動く兎児爺」は、糸を引っ張ると、両方の腕を振り回し、薬草を搗くような動作をしました。こうした「兎児爺」は神様の身分を完全に失い、完全におもちゃとして扱われました。

 

北京以外では、天津、山東省済南にも「兎児爺」や「兎子王」がありました。

 

済南「兎子王」

 

「兎児爺」が民間の季節の玩具であることは1950年代初めまでずっと続きました。1980年代初頭より、北京で「民間玩具研究委員会」が創設され、「兎児爺」の復活が提唱され、民間の作家に生産の復活が要請され、北京っ子たちに喜ばれました。今日、少数の工芸美術品メーカーが「兎児爺」の生産を続けていますが、製品の意味合いは大きく変化し、室内に飾る置物や旅行の土産として販売されており、人々の生活に潤いを与え、中秋節の雰囲気を盛り上げる役割を果たしています。

張玉亭作「吹糖人」(吹き飴細工職人)

 

北京は長い歴史を持つ古都で、金、元、明、清など五つの王朝がここに都を置き、都の歴史は金代より起算すると700年余りとなります。ここは歴代王朝の政治、経済、文化の中心であり、悠久の文化の伝統と、多彩な民間芸術の成果が多く残されています。

 

封建時代末期、清朝政府は貴族階級の享楽を満足させるため、全国各地から職人を徴用し、宮廷内で働かせました。その中には、鳥かごの制作職人、木製玩具の制作職人、キリギリスやコオロギの飼育繁殖者、泥人形の制作職人なども含まれました。天津の「泥人張」の創始者、張明山もそうした職人のひとりでした。今日、北京の故宮博物院には、清代の玩具が数多く収蔵されています。宮廷に入った職人たちは、皇帝や宮中の人々の審美眼、趣味に応じて数々の創作を行いました。そのため宮廷の玩具は、次第に独自の芸術風格を形作るようになりました。しかし清朝末期、多くの貴族の子弟たちが権力を失い、没落すると、多くの職人たちは生活の糧を得る手段が無くなり、民間向けの玩具の生産に力を注ぐようになりました。おかげで宮廷玩具の繊細で精巧、華美で贅沢な気風が民間にももたらされ、北京の民間の玩具は、宮廷玩具の色彩をも備えるようになりました。そのため清朝宮廷の気風が、北京の民間玩具の独特の風格を生み出しました。当時、北京の民間の玩具の販売経路は三つありました。

 

①北京城内の各地区で定期的に開かれる「廟会」(社寺の縁日)。白塔寺、隆福寺、護国寺など、北京の主な仏教や道教の寺院の「廟会」の開催時期は、一年を通じ決まっていました。

陳蓮痕は『京華春夢録』の中でこう書いています。

「都の寺院で市の立つ日は決められていて、毎月三日は土地廟、四日は花市、五、六日は白塔寺、七、八日は護国寺、九、十日は隆福寺である。」

こうした定期的な廟会は、1950年代中頃までずっと維持されていました。廟会では、玩具を専門に販売する屋台がたくさん並びました。

玩具を売る屋台

 

②街の通り沿いに並ぶ屋台と、街や横丁を天秤棒を担いで売り歩く行商人の両方がありました。玩具の売り方には様々な方法がありました。物々交換をする者は、銅や鉄くず、布や毛糸、ガラス瓶などの廃品を客が持って来ると、いろいろな泥人形や紙のおもちゃと交換しました。また「轉糖得彩」と言って、客はあめを買ってくじを引き、当たると景品としておもちゃがもらえました。また、あめや落花生を売りつつ、おもちゃも売るという行商人もいました。昔の北京では、あちこちにおもちゃを専門に売る店舗もありました。例えば、東安市場の「耍貨劉」(「耍貨」shuǎhuòはおもちゃのこと)、「耍貨白」は、何れも「耍貨舗」(おもちゃ屋)と呼ばれました。

 

③春節の「廠甸」chǎngdiàn。昔の風習として、毎年旧暦正月の一日から十日まで、和平門外瑠璃廠に、お正月の人出を見込んで大きな縁日が立ちました。これを「廠甸」と呼ばれていました。(この土地は、宮廷の瑠璃瓦を焼く瑠璃窯があったところで、瑠璃窯の前に広い空き地があり、この空き地に市が立ったので、「廠甸」と呼ばれました)「廠甸」の期間中、北京市内や北京近郊、河北省各地のおもちゃ職人たちがそれぞれ自分たちの製品を市に並べました。様々な泥人形や、おもちゃ類が、「廠甸」に並ぶ商品の呼び物でした。

 

北京城内に、こうした玩具の販売市場があったことが、民間の玩具の普及と発展に良い環境をもたらし、玩具職人たちの創作活動を促しました。

 

北京の泥人形は、その題材と機能で分類すると、大きく四つのカテゴリーに分けることができます。

 

一番目は実際の生活を反映した作品です。このカテゴリーの人形は、北京の市井の生活に取材し、北京の人々の衣食住や生活の各方面を描写しました。玩具市場でよく見かける馬車のおもちゃは、昔の北京の交通手段を描写したものです。1950年代以前は、北京城内では荷馬車、乗用馬車が盛んに使われ、荷物も運べるし、客を乗せることもできました。専ら客を乗せる馬車の場合は、客室、幌があり、客室内には敷物を敷いた座席が設けられ、昔の北京の主要な人の輸送手段でした。泥人形の作者はこうした生活の実態に基づき、簡潔に生き生きと造形をしました。馬車の車輪は型で抜いて成形し、その他の部分は全て手で捏ねて作り、馬の四本の足は針金や竹ひごで代用し、生き生きと真に迫っていました。色彩には黒い石灰、濃い褐色、群青を多く用い、含蓄があって重々しく、作者の深い芸術的な造詣を表現しました。今日こうした泥人形は、芸術的価値以外に、現在の人々が昔の北京の生活を理解する上での形ある資料ともなっています。

馬車に乗る人

荷馬車を牽くロバ

 

実際の生活を反映した泥人形の中には、生活習俗に取材した作品もあり、例えば、「嫁取り」、「死者の出棺」、「馬に乗る人」、「ラクダに乗る人」などがあります。「嫁取り」は数十人の小さな泥人形で構成され、馬車、執事、花嫁を婚家に送る隊伍が揃っていて、それぞれの人形の大きさは3センチくらいで、個々の人物の造形は簡略化されています。長方形の粘土片を小刀で切って両足にし、粘土を球状にしたのが頭で、ひとつひとつ捏ねたら、それぞれ必要な持ち物を身に付けさせ、衣服を絵具で描き、順番に配置すると、全体はなかなか壮観で、生き生きとして真に迫っています。馬に乗る人やラクダに乗る人も、昔の北京の生活を写したものであり、家畜の足や蹄は針金や竹ひごで制作しています。

婚礼の行列

婚礼の行列(その2)

 

泥人形の「三百六十行」(「行」は仕事の業種)も昔の北京の生活の縮図で、様々な業種の物売りの様子を粘土で再現したものです。おかずを売る人、水売り、布地売り、ワンタン売り(てんびん棒の一方に具材を入れた籠、もう一方にスープを沸かすコンロを担いだ)、散髪屋、糖葫芦(山査子飴)売りなど、市井の商人たちが表現されました。

冬瓜売り

水売り

糖葫芦(山査子飴)売り

散髪屋

 

1930年代、北京の玩具業界に新しい泥人形が現れました。当時のスター俳優に取材し、3センチあまりの小さな人形を作り、彩色して顔に眼や口を入れたら、全体に白蝋を塗り、人形4、5体を一組にして屋台に並べ、子供たちを招き寄せて販売しました。人物の造形はアニメの人物のように作られ、俗に「滑稽人」と呼ばれました。こうした小型の人形は全て型で作られ、人形の頭は針金で体に取り付け、頭部は動かして向きを変えられました。

 

北京の泥人形の二番目のカテゴリーは動物や鳥、花や果物です。このカテゴリーの作品は主に手で捏ねて作られ、巧みで精緻で、妙趣にあふれています。作った小鳥は枯れ枝の上に取り付け、花瓶に挿して鑑賞できるようにしました。鳥はノゴマ、オガワコマドリ、カナリヤ、イカル、コウテンシなどで、それぞれポーズをとり、一羽一羽が異なります。また、稲わらで巣を作り、木の枝に取り付けたものもありました。こうした鳥の人形を売る商人は、鳥を取り付けた木の枝を束で持ち上げ、「花瓶付きだよ、花瓶付きだよ」と呼ばわって販売しました。また別の鳥の人形は木の枝に取り付けず、それぞれの小鳥の足下に粘土で台を作り、一羽だけで飾れるようにしました。また、何羽かの小鳥で組になっているものもありました。

 

花や果物の造形は北京以外ではめったに見られません。粘土で小さな植木鉢や金魚鉢、菓子盆を作り、それから蓮の花、蓮の葉、リンゴ、ザクロ、桃などの花や果物を粘土で作り、ホウキギや竹ひご、木の枝などで鉢や盆に挿し、色を塗ります。これは北京の人々の実際の生活の中の情景を再現したものです。

 

三つ目のカテゴリーは芝居の人物です。このカテゴリーの作品は、恵山泥人の「手捏戯文」とよく似ていますが、人形の大きさは小さく、人物は7センチ足らずで、2―3人で一組になり、芝居の一場面を再現しているので、俗に「泥戯出」と言います。よく見かける題目は、「二進宮」、「蘇三起解」、「三娘教子」、「白蛇伝」、「梁山伯与祝英台」などです。芝居の人物には、更に「高足踊り」と言って、春に行われる「花会」という行事の中で行われる、竹馬を付けて芝居や伝説の人物が練り歩く様子に取材したものがあり、人形二体が一組で、「文武扇」、「漁樵問答」、「売薬算卦」、「打鑼敲鼓」などの場面を再現し、祝日の行事の賑やかな雰囲気が表現されています。

張玉亭作「三娘教子」

高足踊り

 

四つ目のカテゴリーは、動くおもちゃ、音の出るおもちゃです。このカテゴリーの玩具は、子供がいじったり動かしたりして遊べ、音響や動作を伴うので、遊戯性や娯楽性が強い玩具です。よく見かけるものとして、例えば「猪八戒念経」は、型で作られ、人形は座っていて、右側に木魚があり、全体がつながっています。八戒の体は中空で、腕と下あごをつないだ後で取り付け、体の中に紐を通して下あごと腕を引っ張って動かします。紐を引くと、八戒の手が木魚を敲く動作をし、口がぱくぱく動き、まるでお経を唱えるようになります。「小鶏喫米」や「鴿子喫緑豆」は、三四羽の粘土のヒヨコがラケット状の木の板に固定され、板の中央に穴が開いていて、ヒヨコの頭は動くようになっていて、ヒヨコの頭の後ろに紐が付いていて、紐は木の板を通り抜け、それぞれの紐は板の下で一つにより合わさり粘土の重りにつながれています。軽く木の板を揺り動かすと、ヒヨコの頭はおもりの作用で都度おじぎをし、まるで米つぶをついばむように見えます。「小泥車」は粘土を捏ねて作った自動車、飛行機、汽船、戦車、砲艦、金魚などで、下には粘土の車輪が取り付けられ、車を引っぱると、車輪が回るので、俗に「小泥車」と言います。「小人鑚壇子」(「鑚」は潜り込む。「壇子」は壺)は、粘土の壺の口のところを一本の針金が貫いていて、針金の中間に粘土の人形が取り付けられています。手で針金をひねって動かすと、人形は回転し、壺の入口から人形の頭と足が順番に出て来て、あたかも壺に潜り込んだり出たりするように見え、滑稽でおもしろいものです。この他にも、「不倒翁」(起き上がりこぼし)、「叫猫」、「皮老虎」、「王小打虎」などがあり、何れも北京地区の伝統的な玩具です。

 

今日、泥人形の生産は、主に工芸美術品の生産工場や玩具工場によりなされています。伝統的な民間玩具は、室内のインテリア小物や旅行の際の記念品に変化し、時には貴重な芸術品に変化しています。

小鶏喫米(写真は木製玩具)

 

淮陽泥泥狗

 

1.淮陽県の泥人形

 

淮陽県(周口市淮陽県)は河南省南部に位置し、古くは「陳州」と呼ばれていました。県内には太昊tàihào伏羲fúxī陵、伏羲画卦台、伏羲白亀池、神農五谷台、宛丘城遺跡など、多くの古跡があり、古くから古代の伝説中の伏羲氏と神農氏という二人の帝王の故郷と考えられてきました。当地の人々は、昔から「人祖爺」(人々の祖先)である伏羲は「太昊陵」に葬られたと伝承してきました。太昊陵は県城の正北1.5キロにあり、現存する御陵の建物は全て明代の遺跡であり、現在は公園になっていて、俗に「人祖廟」と呼ばれています。毎年旧暦の二月二日から三月三日まで、当地の人々は御陵の中で盛大な「太昊陵廟会」を行います。付近のおおむね50キロ内の人々は、廟会見物に訪れます。淮陽の泥人形は俗に「泥泥狗」と呼ばれます。御陵区域内で生産され、御陵の前の廟会で販売されるので、またの名を「陵狗」と言います。

 

河南省周口市淮陽県

 

「泥泥狗」は全て下地の色が黒色で、どれも呼び子が取り付けてあり、吹くとピーッと音が鳴るようにできています。大きさにより、「大花貨」、「中花貨」、「小泥餅」の三つに分かれます。「大花貨」は高さ約10―17センチ、「中花貨」は6-10センチ、「小泥餅」が最も小さく、2センチ以下の小さな陶器の呼び子です。「泥泥狗」の造形はたいへん変わっていて、多くが奇怪な禽獣のような姿かたちをしています。中でも猿の人形が最も変化に富み、「人祖猴」(「猴」は猿のこと)、「人面猴」、「抱膝猴」(膝を抱える猿)、「抱桃猴」、「搬腿猴」(足を持ち上げる)、「猫拉猴」(猫が猿を引っ張る)、「扛鋤káng chú猴」(鋤を担ぐ)、「打火猴」(火を付ける)、「兜肚dōudu猴」(「兜肚」は腹掛け)、「猴抱猴」などがあります。怪獣には、「八大高」、「草帽老虎」、「長毛」、「独角獣」(一角獣)、「多角獣」、「無眼獣」、「相駄tuó獣」(獣が別の獣を背負う。二頭の獣が一体になっている)、「双頭怪角」、「四不象」などがあります。

 

猫拉猴

 

鳥の像には、「斑鳩」、「子母燕」、「猴駄tuó燕」(「駄」は背負うこと)、「九頭燕」、「小燕」などがあります。水中の生物では、「八叉亀」、「神亀」、「神蛙」、「小泥鱉」(「鱉」biēはスッポン)などがあります。

 

これらは、淮陽の独特な泥人形で、他の地域では見られません。「泥泥狗」の造形は偶然にできたものではなく、この地域の文化的な背景が関係しているかもしれず、たいへん神秘的に感じられます。

 

「泥猴」(猿の泥人形)のカテゴリーで、最も典型的なものは、「人祖猴」です。一面の型で前面を押し出し、背面は手で捏ねて平らにしてあります。直立し、体の高さは13-17センチくらいです。「人祖猴」の口は突出し、両目は丸く目を見張っていて、頭のてっぺんには桃の形の装飾があります。中央には赤色で縦に立ったナツメの種の形が描かれ、それを何重も縦の曲線が囲んでいて、外を放射状の白い短い線が囲んでいます。こうした紋様は、通常はそれぞれ独立した紋様として亀や蛙、鳥の体の上に描かれることが多いものです。研究者によれば、猿の前面の装飾の図案は、女性の生殖器官を象徴し、上古の時代の生殖崇拝観念が伝承され、その名残であると考えられています。

人祖猴

 

鳥の像には、「子母燕」、または「子母駄」(「駄」は「背負う」こと)と呼ばれるものがあり、基本的な造形は、一羽の大型の鳥が背中に小鳥を背負うものです。こうした形と殷(中国では「商」)の遺跡で度々出土する玉や陶器でできた「子母燕」はたいへん良く似ています。

子母燕(子母駄)

殷時代、玉や陶器の「子母燕」

 

1979年淮陽県の県城の東南4キロで発見された新石器時代晩期の遺跡と殷時代の版築の城壁、並びに城壁の下から出土した陶製の下水管と食器は、現在の淮陽のあたりが、殷時代には既に城郭(中国式の町の周囲に築かれた城壁)があったことを証明しています。したがって、「泥泥狗」の「子母燕」との間にも、ひょっとすると一定の伝承関係があったかもしれません。それと似た事象が、多くの「泥泥狗」の造形にも反映されていて、研究者の中では、『山海経』(せんかいきょう。中国古代の神話、地理の書)の中で記載される様々な怪獣や怪鳥と関連付けて、「泥泥狗」に反映される神秘的な寓意について解釈する試みがなされていて、一定の成果を上げているそうです。

 

淮陽の泥人形やおもちゃの中で、「泥塤」ní xūn(土笛)も注目を引きます。「泥塤」はひょうたんのような形をした陶器の楽器で、大きさは様々で、穴の数は二、三、五、七と違いがありますが、オカリナのように吹いて音を出します。他に「双管塤」があり、吹き口がふたつあります。

五孔塤

塤の演奏の様子

 

「塤」は中国古代の重要な礼楽器で、湖北省曽侯乙墓やその他の「先秦」(始皇帝の中国統一以前の秦。一般に春秋戦国時代を指す)時代の古い墓から多数発見されています。古代の祭礼や式典などの行事で楽曲の演奏の時は必ず「塤」が必要でした。後に次第に伝承されなくなり、民間では見られなくなってしまいました。しかし、淮陽においては伝承され、今日まで残りました。

 

このような独特で古風な泥人形が、淮陽県城付近の金庄、武庄、白王庄、前丁楼庄、後丁楼庄、劉庄、段庄、張庄、趙庄で作られてきました。各村にはそれぞれ得意とする品目があり、優れた技能を持った職人がいました。金庄と武庄は大花貨が有名で、人祖猴、九頭鳥、子母駄など大型のものは、金庄の職人たちの得意とする品目でした。丁楼村は「泥塤」の生産で有名でした。

 

淮陽の泥人形の成形は手捏ねが中心ですが、一部は一面の型で押し出して作ります。全体は黒色の下地の色の上に、白、深紅、薄い緑、薄い黄色で彩色します。全体の工程は、「打泥」、「搓坯」、「成形」、「染色」、「画花」の5段階に分かれます。「打泥」は、よく捏ねた土を木の棒でよく打ち、むらなくなめらかにします。「搓坯」cuō pīは作るものに合わせて土の塊を製品に近い形にまとめることで、その後、ひとつひとつ捏ねて成形します。「泥泥狗」の下地の染色方法は、他の泥人形の産地が逐次色を乗せていくのと異なり、製品をまとめて「浸し染め」します。先ず、青(黒色染料)を大鍋で煮て調合し、成形し乾かした白地を大きな穴杓子の中に入れ、穴杓子を染料に浸し、すくい上げ、白地全体が均等に黒く染まったら、筵(むしろ)の上で乾かし、乾いたら次に「画花」、絵付けをします。絵付けの時は、毛筆は使わず、先を削ったコウリャンの茎の先に顔料を付け、線で輪郭を描いていきます。

 

2.浚県xùn xiànの泥人形

浚県泥咕咕(泥馬)

 

浚県は河南省北部に位置し、衛河が県内を斜めに通っています。漢代に黎陽県が置かれ、元代に浚州に改め、明代に浚県に改められました。現在は、鶴壁市の管轄となっています。県内に名勝古跡がたいへん多く、県城の南面には大山と浮丘山が東西に対峙し、これら二つの山の上には歴代の古跡、寺院、祠堂、石窟、石碑が400カ所以上に分布し、仏教、道教、儒教の三教が一カ所に集まった文化的名山となっています。毎年正月十五日から月末まで、二つの山の間では廟会が盛大に行われ、俗に「古正月会」と呼ばれています。廟会の期間中、大量に販売される民間工芸品として、南毛村の木製玩具「刀槍剣戟」(「戟」は矛のこと。)、張庄の竹柳製品「簸箕籠筐」(「簸箕」は箕(み)で、ちりとりのこと。「籠筐」は竹や柳の枝で編んだ籠(かご))、二郎高の花火と爆竹、そして最も特色のあるのが、楊圯屯の泥人形「唧唧咕咕」です。

河南省鶴壁市

浚県(鶴壁市)

 

「唧唧咕咕」は浚県の泥玩具の総称で、「泥咕咕」とも言います。吹いて音を鳴らすことから、こう名付けられました。「泥咕咕」を制作する職人は大部分が県城の東1.5キロにある楊圯屯で暮らしています。この村は、隋時代末期の農民蜂起軍の武将の名前から命名されました。『資治通鑑』によれば、隋末、李密を首領とする瓦崗軍が黎陽一帯で官軍と戦争になり、双方に死傷者が出て惨憺たる状態になりました。伝説によれば、李密の部下に姓が楊、名を圯という武将がおり、軍を率いて大山の下に駐屯しました。楊軍の中に泥人形を捏ねるのが上手な兵士がいて、沙場で殉難した戦友を記念するため、泥人形と泥馬を作って、死者に供養しました。これより後、土で像を作る技術が伝わり、発展しました。当時、兵隊が駐屯していた所に村が作られ、「楊圯屯」と名付けられました。「泥咕咕」の多くが馬に乗る兵士と双頭の軍馬で、これらは隋代より伝承されたといわれています。

 

浚県の「泥咕咕」の造形は大きく四つのカテゴリーに分けられます。珍禽瑞獣、家禽家畜、人物、軍馬です。最も代表的なのが軍馬で、大紅馬、大黒馬、小馬、双頭馬などがあります。

泥咕咕・泥馬

泥咕咕・泥馬

 

ここの馬の人形は、頭が大きく体が小さく、頭を振り上げ、たいへん勇猛な様子です。馬の人形の作者は、意識的に馬の頭や首を描写し、馬の元気さを誇張し、わざと馬の胴体と四本の足を小さくして、駿馬が勇壮で、威勢が良い様子を強調しています。この地方の伝説によれば、隋末の農民蜂起軍の軍馬の中には、手綱を垂らして主人を救け、死を賭して敵を迎えた良馬、義馬がいて、当時兵士たちは、こうした軍馬の主人を思う気持ちに託して馬の人形を作りました。今日、「泥咕咕」の中の軍馬は依然として当時の風格を保っていて、見る者に強い印象を残します。

 

珍禽瑞獣のカテゴリーの作品には、魔除け、一角獣、キジバト、座る獅子、燕、首を振る獅子、その他様々な縁起の良い動物が含まれます。家禽家畜のカテゴリーの作品には、鶏、アヒル、猿、豚、羊、ウサギ、牛、鳥などがあります。人物の像は比較的少なく、もっぱら一部の職人により作られました。主な作品は、関羽、西遊記、八仙、十二支の擬人像、三国志の武将などです。

キジバト

キジバト

首を振る獅子(獅子舞)

 

浚県の「泥咕咕」は多くが手で捏ねて形を作り、半分手捏ね、半分型押しのものもありますが、全て型で作られた作品は少ないです。「泥咕咕」は深い黒色のものが多く、また褐色や紫がかった濃紅色など濃い色を下地に塗ったものもありますが、下地に薄い色を塗ったものは皆無です。下地には松やにが擦りつけられています。下地が乾いたら、強火で生地を焼き、色を調合した松やにを下地の上に擦りつけ、松やにが熱で溶けて、下地の表面に薄い膜を作り、冷えると、つやつやとコーティングしたように光り輝きます。紋様の装飾は草花が多く、好んで白、ピンク、薄緑、卵色などを用いています。紋様の絵付けは直接いくつもの色で描き、筆のタッチの変化を重視し、点描の排列をよく考え、装飾性が強くなっています。

 

楊圯屯は700戸余りの人家のある大村落で、泥人形の生産が最も盛んだった時には、村の人家の90%が泥人形の生産に従事していました。ここでは俗にこう言われていました。「楊圯屯で飯を食ったら、泥人形を作れるようになる。」楊圯屯で短時間滞在するだけで、泥人形を作る技を覚えることができる。それほど、ここでは泥人形作りが日常あたりまえのことであったのです。

 

河南省の泥人形は、この他、瀋丘県、霊宝県、開封市、洛陽市などでも見られますが、生産規模は何れも淮陽、浚県に及びません。

 

 

聶家庄の泥人形「拴娃娃」

 

1.聶家庄nièjiāzhuāngの泥人形

 

山東省には何カ所か泥人形の産地がありますが、先ず取り上げるのは、山東半島東部の濰坊市高密県(現在は高密市)です。青島市に隣接し、泥人形の産地は県城付近の東聶家庄、西聶家庄、高家庄の三つの村に集中しています。泥玩具の職人には聶niè姓の人が多く、高密泥人形は「聶家庄泥人形」とも呼ばれています。

濰坊市高密県(現在は高密市)

 

高密県は有名な民間工芸品の里であり、ここで生産される木版の年画(春節に門や室内に飾る絵画。吉祥の図柄を木版刷りの輪郭に筆または色刷りで彩色する)である「撲灰年画」(明代成化年間(1465-1487年)に始まり、清代に盛んに作られた。柳の枝を焼いて作った灰炭で輪郭を描き、それを上から紙で写し取ることから、この名が付けられた)と剪紙(切り紙細工)は何れも特色ある民間工芸品です。泥人形の生産は、明清時代に遡ります。聶家は元々、河北省泊鎮(ここも泥人形の産地です)の人で、明朝初期に高密に移り、聶家庄一帯に定住し、明の隆慶年間(1567-1572)、庄の人々は「鍋子花」の制作を副業としました。「鍋子花」は節句に使う花火で、粘土で本体を作り、中に火薬を詰め、外側は河北省白溝鎮で生産される「老頭花」、「獅子花」と似ていました。「鍋子花」の粘土の本体は、獅子、寿星(南極老人)、娃娃(赤ん坊)など、様々な形に作りました。これが聶家庄の泥人形の元になっています。清の康煕年間(1662-1722)、「鍋煙子花」の基礎の上に、泥人形の生産が始まりました。後に、「撲灰年画」制作の影響を受け、泥人形の造形や彩色に改善が加えられ、独特な風格が生み出され、今日まで伝わっています。

撲灰年画

 

聶家庄の泥人形は芝居の人物を題材にするのを得意とし、伝統演劇の人物に取材したり、木版年賀の内容を採り入れたりし、「劉海戯金蟾」,「猪八戒背媳婦」、「回娘家」、「孟良焦賛」など、人気のある芝居の場面を再現しました。また、縁起の良い動物を題材とした泥人形として、「対獅」、「坐獅」、「十二生肖」などのようなものもあり、石造彫刻の表現方法を採り入れ、豪胆で勇壮な風格を生み出しました。

猪八戒背媳婦

武財神

 

聶家庄の泥人形は全て型を使って作られ、重厚でしっかりしていて、凹凸が明確で、多くが本体の中が空洞になっておらず、ずっしり重く、存在感があります。彩色は華麗でおおらかで、泥人形でよく使われる深紅、深緑、黄色、青の他に、聶家庄では更に桃色、バラ色、深い紫を好んで使い、また補助的に金色と銀色も使います。上絵を描く時にはぼかしの技法を用い、筆に水と絵の具を十分含ませ、一気に筆を動かすと、色彩が深い色から浅い色へゆるやかに自然に変化します。獅子や虎の顔、人物の顔の頬には軽く桃色を塗り、健康で丈夫な様子を表し、更に金色、銀色の飾りを加えることで、華麗で堂々とした風格を出しています。

 

聶家庄の泥玩具で最も有名な製品は「大叫虎」で、虎は前後二つの部分に分けて制作し、本体が乾燥してから中間を羊皮紙や強靭な紙でつなぎ合わせ、本体の空洞になったところに竹の呼び子かヨシ笛を取り付けます。泥虎を前後に引っ張ったり押したりすると、空気が圧縮され、竹の呼び子を通って音が出ます。虎の頭の内部は大きな空洞が残してあり、虎の口が開き、呼び子の音が頭の空洞内で共鳴し、虎の口から音が出ます。音は低く重厚で、角笛のようです。こうした巧みな構造は、職人たちの創意工夫の現れです。

大叫虎

 

2.蒼山県の泥人形

蒼山県の泥人形

 

蒼山県(蘭陵県)は山東省の南部、江蘇省の北に接する臨沂línyí市の所轄で、臨沂市西南30キロに位置し、主に芝居の人物、皮老虎、揺尾翠鳥、牧童騎牛などの泥人形を作っていました。1940~60年代、蒼山の泥人形は百種類余りに達し、様々な人物や動物、動いたり音が出たりする玩具を生産していましたが、以後次第に衰退しました。1980年代より、一部の製品について生産が回復しましたが、まだ過去のレベルには戻っていません。

臨沂市蒼山県

 

ここで生産される芝居の登場人物の人形は、単体で直立したものが主で、高さは約18センチ、型を使って作られ、中が空洞になっていて、白粉で地色が着けられ、絵付けの時は小筆を使って色を塗り、広い面積に色を塗ることは少ないです。墨で描いた紋様はすっきりしていて、筆遣いは自由気ままな感じです。ここの泥人形の職人たちは、「先ず墨の線で衣服や顔かたち、主な部分の輪郭を描き、その後、様々な色を付けていく。たとえ色があまり正確でなくても、全体の印象にはあまり影響しない。なぜなら黒色が「一家の主」(全体の構図や色彩の中心)だから」と言います。ここの芝居の人物は色遣いが豊かで、墨の線が自由闊達に描かれ、生き生きとした動きが感じられます。

武旦

 

蒼山の泥人形の表面には、絵付けが終わると、たまごの白身がかけられます。これは化学塗料が未発達の時代の伝統的な彩色後の仕上げ方法です。たまごの白身を割りほぐし、水で薄めて、絵付けした人形の表面に塗るのです。乾くと弱い光沢が出て、てかてかと艶が出て、禿げにくくなります。現代の泥人形ではあまりこのような方法は使いませんが、蒼山泥人形ではまだこうした伝統的な方法を維持しています。

 

3.掖県(莱州)の泥人形

戯曲旦角(芝居の中の人物)

 

掖県は山東省東北部に位置し、北に莱州湾に臨み、古くは莱州と呼ばれました。ここで作られる民間工芸品は長い歴史を有し、曾ては泥人形、「江米人」(糝粉細工)、剪紙(切り紙細工)などの産地でした。この土地に伝わる民謡では、「坊や、泣かないでおくれ。父さんは莱州府に行ったよ。天秤棒の前には「江米人」、後ろには「皮老虎」を担いで行った」と歌われています。「江米人」は当地で年越しや節句のお祭りの時に作る、米粉を捏ねて作った人形で、「皮老虎」はここの泥人形のひとつです。

掖県(莱州)

 

泥人形の生産は、県城の西北の塔埠村と西坊北村に集中していました。塔埠村では、不倒翁(起き上がりこぼし)、揺叫(「揺鼓」とも言う。でんでん太鼓)、「四老爷打面缸」(滑稽劇の題名)など動くおもちゃが有名でした。起き上がりこぼしは粘土で張り子の本体を支えます。張り子の本体の型は粘土で作り、型の周囲にはぐるりと深い溝を付け、水に漬けた紙を何層にも貼り付けて乾いたら、深い溝に沿って紙の層をはずし、粘土の型から取り出し、粘土の支えの上に取り付けました。人形は上が軽く下が重いので、倒してもまた起き上がります。寿星(寿老人。七福神の一人)、娃娃(小さな子供)、小閨女(未婚の女性)、猴子(猿)など、様々な形の起き上がりこぼしが作られました。また、青蛙や小鼓の形の揺叫(でんでん太鼓)を考え出し、農家の子供たちに喜ばれました。

不倒翁(起き上がりこぼし)

揺叫(でんでん太鼓)

 

塔埠村には老作家、周紹榜がおり、長年泥人形を作ってきました。泥人形は、型を取って作りました。単体の人形は、古装束の人物、芝居の人物が多く作られました。「猪八戒背媳婦」(猪八戒が嫁を背負う)は高さ約10センチ、八戒の体と背負った人物は一つの型で作り、前面には小さな穴を残し、別に猪八戒の頭を取り付け、また書生や大男の頭にも取り換えることができ、こうして猪八戒が変身して人を騙す場面を表現しました。「猴子换草帽」(猿が麦わら帽子を交換する)は、猿の手足は紙の板で作り、ひもでつないだ把手を動かすことで、頭の麦わら帽子が二匹の猿の頭に代わる代わる被さるようになっていました。

猪八戒背媳婦

猴子换草帽

 

掖県の泥人形の特徴は、簡素で、実直で、過度な装飾はせず、本体は空洞になっていないので、堅牢で、ずっしりと重く、壊れにくいことでした。

 

 

4.臨沂línyíの泥人形

褚庄の泥人形(騎馬)

 

臨沂市の東、1.5キロの九曲郷・褚庄chǔzhuāng(臨沂市河東区)も泥人形の産地で、ここでは泥人形で鳥、雄鶏、馬が作られ、また牛頭哨、双音哨(「哨」は呼び子の笛)という呼び子の笛が作られました。

 

褚庄では曾て「五絲哨」という笛が作られていました。赤、黄、青、白、黒の五色の絹糸で一個の、陶器の呼び子を結び付けて子供が胸から吊るし、災いや疫病を避けるのを祈りました。『風俗通義』という古い書物に、「五月五日に五色の糸を腕に吊るし、妖怪や兵乱を避け、疫病にかからないようにする」という記載があります。「五絲哨」は残念ながら、今はもう伝わっていません。しかし「牛頭哨」と「双音哨」は今日でも作られています。これらの陶器の呼び子は全て二つの穴が開けられていて、一つは深くもう一つは浅く、一つは大きくもう一つは小さく作られています。一方からは高い音、もう一方からは低い音が出て、二つの音は共鳴し、耳に快いものです。

牛頭哨

 

褚庄の泥人形の鳥、雄鶏は、形は粗削りですが描かれた紋様は変化に富み、同じ鳥でも、個別に牡丹、菊花、縞模様、網目模様、点の模様など十種類以上の図柄が鳥の体を飾っています。下地は白粉が塗られておらず、「ベンガラ」(鉄土子。鉄丹とも言う)が塗られています。先ず、ベンガラを細かく砕いて擦り、水や膠と調合し、下地に塗り、乾いたら上絵を施します。ここの泥人形の主な色調は暗い赤色で、独特な色合いとなっています。

 

山東省内には泥玩具の産地が他にもたくさんあり、済南市、青島市、黄県、棗庄市などでも曾ては各種の泥玩具を生産していました。

麒麟送子(鳳翔)

 

陝西省は歴史上多くの泥人形の産地を輩出してきました。鳳翔県、乾県、安塞県、富県、及び西安市郊外の狄寨、魚化寨などの地が泥人形の産地です。

 

 1.鳳翔の泥人形

 

鳳翔県(2021年1月より、これまでの鳳翔県を廃止し、宝鶏市鳳翔区になった)は行政的には宝鶏市に属し、陝西省の省都の省都西安より渭河を遡り、約170キロ西にあります。

陝西省宝鶏市鳳翔県

 

鳳翔県の泥人形は陝西省の民間工芸の重要な品目であり、中国西北地域の民間工芸を代表するものです。この地の泥人形は、四つのカテゴリーに分けることができます。

 

①大型の獣の像

「大坐虎」、「大坐獅」、「黒白坐虎」などがあり、高さは約60センチ、何れも季節の行事の際の室内の飾りです。

 

②小型の獣の像

花馬、花兎、泥牛、泥狗などがあり、大きさは3-15センチくらい。

 

③人物像

八仙人、西遊記、麒麟送子、牧童牛などがあります。

 

④掛飾(壁掛け)

「掛虎」が最も有名で、大きさは6-130センチ。他に「送子掛片」、「鍾馗掛片」、「哪吒掛片」などがあります。

 

4つのカテゴリーのうち、「掛虎」が最も有名です。「掛虎」は壁飾りで、土に紙糊を加え、型取りして成形したもので、本体はたいへん薄く、色合いは鮮やかで、農家の人々にたいへん好まれます。

鳳翔掛虎

 

「掛虎」は彩色したものと白黒のものの二種類があります。彩色掛虎は白粉の下地の上に墨の輪郭線で紋様を描き、その中に彩色を加え、最後に全体にラッカーをかけてあります。白黒の「掛虎」は墨の輪郭線だけで色を塗っておらず、ラッカーもかけていません。「掛虎」は彩色でも白黒でも、大きいものでも小さなものでも、その基本の造形は何れも、正面が虎の頭で、丸い目、大きな耳、大きな口、へこんだ眉、広い額、額の真ん中に「王」の字が描かれています。紋様は線描が主で、額、下あご、両頬には大きな牡丹の花、桃の花、ザクロ、佛手(佛手柑)、蓮の花などの縁起の良い草花が描かれ、その間には雲の渦やつる草の紋様が描かれます。全ての紋様の配置、間はよく考えられ、適度な間隔が取られ、全体の構図が対称になるように均衡が取られ、紋様の描線は伸び伸びとして流れるようで、筆遣いの変化に注意が払われています。彩色の掛虎は深紅、浅黄、黄色、バラ色、青緑などの色を多用し、色は鮮やかで目立ち、色合いが濃く鮮やかで、喜びや楽しみの気持ちに溢れています。

 

「掛虎」の成り立ちは、陝西省の「社火」(祭りの時に行う娯楽演芸。「高台」、「高跷」(高足踊り)、「旱船」(「跑旱船」。若い女性に扮した人が、模型の船から上半身を出し、歌いながら練り歩く)、「舞獅」、「舞龍」、「秧歌」(田植え踊り。ヤンゴ踊り)などの通称)や「地戯」(追儺(ついな)。鬼やらい。元々、商(殷)、周代に方相氏により、大みそかの夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式に由来)などの風俗や行事と関係があります。「地戯」で使うお面には「掛虎」に似たものも見られ、それゆえ「掛虎」は「地戯」の面が変化したものと考えられています。民間では「掛虎」の面には邪鬼を払う効果があると考えられ、廃れることなく長い間伝承されてきました。毎年、春節の前に、この地の多くの農家では「掛虎」を買い、家の門の「門楣」(戸のかまちの上方の横木)の上に「掛虎」を掛け、新年の邪鬼払いに用いてきました。「大坐獅」、「大坐虎」を部屋に飾る目的も、「掛虎」と同じです。

鳳翔大坐獅

 

小型の泥玩具では、鳳翔の泥牛も特色があり、大で長さ約30センチ、小は約4センチ。何れも二枚の型から作られ、中は中空になっています。中空の部分に小石や豆が入っているものもあり、振るとカランカランと音がします。泥牛の造形は多くが寝そべって、頭は横を向いています。色は黒が多く、緑(青牛)、黄牛、紫紅(紫がかった濃赤色)の牛もあります。牛の顔は簡潔ですが威厳があり、背中に模様が描かれ、牡丹、桃、蓮の花、或いは「三多」(桃、佛手柑、ザクロが描かれ、それぞれ寿、福、多産の象徴)の図案で飾られています。

鳳翔泥牛

 

泥牛の起源は古く、漢代以前、農家には「土の牛を祭って寒気を追い払う」風習がありました。漢代以降は「立春に土の牛を作り」、節気を祭り、農耕の無事を祈りました。

 

宋の孟元老は『東京夢華録』で、

「立春の前日、開封府では春牛を禁中に入れ「鞭春」(立春に豊作を祈願して張り子の牛をむちで打つ行事)を行う」とあります。

 

古代には土の牛を制作する時に「五行」説の原則を守り、立春の日の干支と五行を総合して土の牛の色が決められました。こうした習俗は長い時間続けられ、1940年代ごろにはまだ盛んに行われていたそうです。

 

鳳翔の泥人形は、形にふくらみがあってつややかで、ふくよかで豊かで、立体的な造形が多く、面白みを増しています。本体は中空で、薄く軽くできていて、色は鮮やかできらびやかで、お祝いの喜びの気持ちに溢れています。鳳翔の泥人形の題材は、多くが昔の寓話から採られていて、中原文化の影響が色濃く映し出されています。

 

 

 

 2.西安の「泥哨」(土の呼び子)

魚化泥叫叫

 

魚化寨、狄寨は何れも西安市近郊の農村部でしたが、西安市市街地の拡大で、今は西安市市街に組み込まれてきています。これら両地は何れも「泥哨」、土の呼び子を生産してきました。低温の火で焼いた陶器の呼び子で、習慣上「泥叫叫」、「小泥叫」と呼ばれます。

 

魚化寨の「泥叫叫」は高さ約5センチ、正面は型押し、背面は手で捏ねてあります。一面の型で作られます。てっぺんには小さな丸い穴が設けられ、空気の通路になっていて、吹くと甲高い音が鳴ります。白地が乾いたら、穀物の糠やのこぎり屑を燃料に、熾火で焙り焼きにします。焼いている過程で、白地の表面の土の粒子と粒子の間に大量の炭素を吸収し、それにより全体が真っ黒になります。焼き上げた「泥哨」(呼び子)は白、赤、黄、緑、青で上絵を描き、表面には桐油が塗られます。黒く照り輝き、見栄えが良く、子供たちが手に取って遊ぶのにたいへん良いものです。

泥叫叫は一面の型で作られる

背面は手で捏ねて仕上げる

てっぺんと背面の空気を通す孔

焼いた人形に着色する

 

「泥叫叫」の造形は多くは歴史人物、芝居の人物、神話の人物、現在の生活の中の人物などを題材としていて、全て直立していて、基本の造形は顕著な変化が無く、人物の頭の飾り、服装、武器、道具などで人物の身分や特徴を表しています。

西安泥叫叫

 

狄寨泥叫叫の制作方法と形式は、基本的に魚化寨泥叫叫と同じです。狄寨付近の古い地名を取って、白鹿原の名を冠することもあります。魚化寨と狄寨の「泥叫叫」はいずれも小さいものを得意とし、堅実に作られ、作りは小さいが精巧で、持ち運びに便利に作られています。

白溝泥人

 

河北省内には泥人形の産地がいくつかありますが、その中でも有名なのは、新城県白溝泥人、泊鎮泥人、玉田泥人、保定泥人などです。ここでは新城県白溝鎮の泥人形を紹介します。

 

白溝鎮は、現在は行政的には河北省保定市高碑店市の管轄となっています。高碑店市の東南部で、東に雄県と接します。雄県は北京市の副都心として建設されている雄安新区の所在地で、白溝も近年は発展が著しく、急速に都市化してきています。北京、天津からだいたい100~120キロの距離にあります。白溝河東岸に位置することからその名があります。

 

白溝と北京、天津の位置関係

 

ちなみに、河北省の他の泥人形の産地ですが、泊鎮は河北省滄州市泊頭市に属します。玉田は河北省唐山市に属します。河北省の東北部で、唐山市の最西端に位置します。

 

さて、白溝鎮は歴史上も重要な民間玩具の産地で、泥人形だけでなく、花火や爆竹、布老虎(布で作られた虎の人形)、木製の刀や槍でも名が知られています。白溝鎮付近には多くの玩具生産専業の村が分布し、清朝末期には、各村それぞれ固有の製品が形成されていました。南劉村では「旗花」(花火の一種)を生産し、北劉村では泥人形を作りました。轆轤把村では専ら泥公鶏(雄鶏の泥人形)を作りました。花子営では花火、小謝村では「滴滴金」(花火の名前)と「陶模」(火を入れて焼き固めた泥人形の型)を作りました。市(赶集)が立つ度に、白溝鎮の「十大坑」(白溝鎮内の地名)では民間玩具を専門に販売する「泥娃娃市」が立ち、各村の玩具を集中的に販売しました。白溝鎮で作られた花火や泥人形は、北京まで売りに行かれ、北京城内の廟会(寺院の縁日)や「廠甸」の重要な商品となっていました。「廠甸」というのは、明清時代、北京の瑠璃窯の前に広い空き地があり、民国6年(1917)ここに海王村公園が作られ、旧暦正月の一日(春節)にこの付近に屋台が集まり物販が行われ、人々が集まったのを「逛廠甸」(「廠甸」を見物する)と言ったのが由来です。今は家が立て込んでいますが、瑠璃廠古文化街として、書画骨董を販売する店が並んでいます。現在の瑠璃廠が曾ての廠甸です。古くからの北京っ子の間では、白溝鎮のおもちゃはよく知られていました。

 

白溝鎮北劉荘には代々玩具作りをしている家がいくつもあり、特に泥人形作りを得意としていました。ここの泥人形は全て型から作られ、原型を土で作って乾かし、それを粘土で型に取り、それを窯で焼いて作った陶器の型から白地を作ります。白粉で白地に色を付けて上絵を描き、表面にニスを塗って仕上げます。泥人形の頭のてっぺんにはヨシ笛が付けられていて、泥人形の背中には空気の取り入れ穴があり、息を吹くと、ピーッと澄んだ音がよく響き、子供たちにたいへん好まれました。

 

白溝の泥人形は造形が簡潔で、色彩は鮮やかで、素朴でおおらかです。表現する題材は広範囲に亘りますが、子供の人形と芝居の一場面(「戯出」と言います)が最も典型的なものです。子供の人形には「吉慶有余」があり、男女の子供一組が、一人は鶏を抱き、一人は魚を抱いています。或いは片方は鶏に乗り、もう一方は魚に乗ったものもあります。

吉慶有余

吉慶有余(その2)

 

「麒麟送子」、「招財進宝」、「五谷豊登」という題材では、大きいもので30センチくらい、小さいのが10数センチです。「戯出」は芝居の場面に取材した泥人形であり、一人、二人組、三人組の三つの形式があり、大きいのが60センチぐらい、小さいのが10数センチくらいです。二人組のものが「梁祝」(梁山伯与祝英台)、「天仙配」、「孟良焦賛」、「関羽周倉」、「蘇三起解」、「小放牛」など。三人組のものが「劈山救母」、「白蛇伝」、「三進宮」、「桃園三結義」、「三娘教子」など。人物の多くは、「河北梆子」(河北省の地方劇。「梆子腔」と言って、拍子木で拍子をとりながら歌う)の舞台から取られています。二人組でも三人組でも、一つの型から抜いて作り、「連体式」と言って、人物と人物の間に隙間がありません。まとめて型を取って、全体の強度を確保しています。単体の泥人形は、表情がより豊かです。「八仙人」は一組八人で構成されています。「西遊記」は一組四人です。「三国演義」、「水滸」は一組が十数人から数十人に達します。「戯出」の中で、「刀馬人」は室内の装飾用の大型の泥人形で、高さは60センチ近くあり、左右の二体の人形が向かい合い、造形は木版画の「門神」に似ています。手に武器を持ち、母屋の中央の部屋の、出入口に面して置かれる方形の細長い机の上に、置時計か、正面の壁に掛かる掛け軸の両側に置かれ、邪を避け、祟りを除き、家内安全の効果があると信じられていました。

戯出・穆桂英

刀馬人

 

もうひとつ、もっと小さな泥人形があり、高さは約5センチ、型で作られ、絵付けがされ、品種がたいへん多く、男女、年寄、子供、芝居の男役、女形、敵役、脇役と、何でもそろっています。古今の神話や伝説、歴史上の人物と、含まれないものはありません。職人たちは自分たちの生活の認識と理解に基づき、思いのままにこうした小型の泥人形を作り、それぞれ頭にヨシ笛を付け、背中に穴を開け、吹くとピーッと音がするようにしました。

白溝泥人

 

白溝鎮の西側に位置する轆轤把村は「泥公鶏」(雄鶏の泥人形)の生産で有名です。ここで作られる「泥公鶏」は質素で簡潔ですが、力強く、豊満で、華北地区の泥玩具の代表作です。「泥公鶏」は大、中、小三種類あり、大は高さ約25センチ、小は約6センチです。「大公鶏」(雄鶏の大)は大型の泥人形と同様、高い工芸技術が要求されます。型に土を入れる時、先ず土を薄く伸ばして、刀で型の外形と同じ形状に裁断します。型の中に草木を焼いた灰を撒き、裁断した土片を型に押し込み、二枚の型を合わせて底を閉じ、ヨシ笛を挿入します。土の本体が水気を十分含んだら型から取り出し、乾かせば、白地は完成です。

泥公鶏

 

白溝の泥人形は、「泥公鶏」であれ他の人形であれ、全て白粉で下地を塗り、人形の種類によって彩色や絵付けを行います。泥人形の色彩はたいへん鮮やかですが、主要な部分の表現に注意し、適度に空白を残しています。泥人形の顔、鶏の頭部、台座の部分には何れも白粉の下地が露出し、色は深紅、深緑、淡緑、淡い黄色、深い紫が主に用いられます。着色後、墨の線で輪郭や模様を描き、顔を描きます。彩色部分の筆のタッチはさっぱりしていて自由で、墨の線はよどみがありません。

 

白溝鎮の東方10キロに小謝村があり、この村では専ら子供が型に土を詰めて遊ぶための陶製の型(「陶模」)を作っていました。陶製の型は円形で平たく、大小二種類あり、型の大は直径約6-7センチ、小は4-5センチで、低温で焼いて作り、オレンジ色をしています。制作方法は、先ず円形の木の板の上に図案を彫り、粘土で円形の型を写し取り、乾燥させたら、粘土の型と麦わら、米ぬかやのこぎり屑などの燃料を、一層毎に隔てて敷いて積み上げ、外側は泥で密閉し、てっぺんと端に空気穴を開け、燃料に点火して十数時間焼いて、陶器の型を作ります。

陶模

 

小さな陶器の型で泥人形を作るのは、子供にとってたいへん良い手先を使う作業になり、型から取り出した土の平たい人形は、瓦当(軒瓦の先端の模様)によく似ています。陶器の型の図案はたいへん豊富で、500種類以上あり、表現している題材は、歴史人物、生活風景、動物、植物や野菜、果物、吉祥図案などがありました。

陶模(農耕する人)

 

小さな陶器の型の中に、広い世界の様々な情景が描かれ、農村の子供たちにとって、遊びの道具であるとともに、学びの道具でもありました。「陶模」の図案は、陰刻か陽刻の何れかで、簡潔で素朴で、大胆で直感的で、わざとらしさが無く、簡単な線と面とで対象を描くのを特徴としています。「陶模」は価格の安いものですから、農村の子供たちにとっても手に入りやすく、遊ぶのに適していました。子供たちは、型を抜いて泥細工を作ることを通じて様々な知識を学び、手先と頭を使う訓練をすることができました。

恵山泥人「阿福」

 

中国全土で、泥人形の産地には、以下のようなところがあります。

 

北京市

天津市

山東省:蒼山県、臨沂市、済南市、黄県、掖県、高密県等

河北省:新城県、泊鎮、玉田県、保定市

江蘇省:無錫市、徐州市

安徽省:阜陽県、蚌埠

河南省:淮陽県、浚県、沈丘県、霊宝県

陝西省:鳳翔県、富県、西安市等

甘粛省:泰昌県

四川省:南充市

浙江省:嵊県

遼寧省:瀋陽市

 

これから、これらのうちの主な産地と、そこで作られる泥人形の特徴を紹介していきます。今回は、先ず、江蘇省無錫市の恵山泥人について、紹介していきます。

 

恵山は慧山とも言い、江蘇省無錫市の西郊に位置し、江南の名山の一つです。山中に泉が多く、またの名を恵泉山とも言い、「天下第二泉」、「龍眼泉」など十数カ所の名所旧跡があります。恵山の東側に錫山という山があり、現在は、2つ併せて錫恵公園となっています。少なくとも今から400年前の明朝末期には、錫山で泥人形が売られていたという記録があります。

錫恵公園

 

1.恵山泥人の歴史

 

初期の恵山泥人は、子供のおもちゃが主体でした。春に江蘇地方では多くの土地で「迎神賽会」という、神像を廟から担ぎ出し、街を練り歩く、災いを消して福を賜うことを祈る祭りが行われ、更に「赶場」という市が立ち、交易活動が行われました。これらの行事の中で、恵山泥人形が大量に販売され、職人たちは大きな器に泥人形を並べ、人込みの中で呼び売りをしました。これらのおもちゃは多くが型を使って作られ、一面型か両面型で押して土の原型を作り、乾かしたら下地に色を塗り、絵付けを施しました。また多くは人形を動かしたり、音を鳴らしたりすることができ、子供が遊ぶのに適していました。

 

清の乾隆年間(1736-1796)、恵山の泥人形は大いに発展し、専門に泥人形を制作することを職業とする工房が現れ始め、泥人形の生産は安定した手工業に変化し始めました。泥人形の品種は増加し、品質は向上しました。この頃から、泥人形は、大人が家に飾って鑑賞するものが増えてきました。

 

清朝末期、恵山泥人形の生産は日増しに専門化し、技巧が巧みな専門の作家が現れ、恵山の泥人形の名声は日増しに高まりました。製品は高級品にシフトし、多くの職人が、型で大量に作るのではなく、手先の技で一個一個作り、人物描写に力を入れ、有名な恵山泥人形の「細貨」(高級品)である、「手捏戯文」(手で捏ねて作った人形で芝居の場面を表現する)を完成させました。

 

「手捏戯文」は、先ず芝居の人物に取材しました。無錫地方で流行した「草台戯」(田舎回りの大衆演劇)はたいへん人気があり、人形職人たちは芝居の舞台に表現する題材を求めました。

 

無錫では、こうした高級泥人形を「細貨」、それに対し、子供が手に取って遊ぶ玩具は「粗貨」(安価な一般品)と呼ばれました。

 

「手捏戯文」は通常、芝居の一場面に登場する二三人の人物で構成され、芝居の主要な情景を表現しました。後に、芝居の舞台という制約を超え、神話の人物、伝説、歴史上の人物、宗教上の人物、風俗風習の情景などが加わりました。清の同治(1862-1874)、光緒年間(1875-1908)に、恵山の「手捏戯文」は最盛期を迎えました。

 

「粗貨」(一般品)と「細貨」(高級品)とでは、技術の要求もサービスの対象も異なっていました。「細貨」は主に権勢のある家や金持ちが季節の行事、嫁取り、長寿の祝いなど、祝い事を盛大に行う時、室内のしつらえに用い、気分を高揚させ、見栄を張るのに用いられました。「細貨」は当時、親しい友人への贈り物となりました。光緒年間、西太后が長寿祝いをした時、無錫地方の役人は特に手作りの八人の仙人の像一式を都、北京に送り、ご機嫌を取りました。当時は恵山の「細貨」は都・北京でもたいへん有名だったのです。

 

泥人形の一般品(粗貨)は、市が立つ時(赶場)や祭り(賽会)で販売するだけでなく、常設の店舗でも販売されました。蘇北地方(江蘇省の長江北岸地方)や北方の省、市から来た商人も、毎回無錫に来ては泥人形を仕入れました。当時はまだ物々交換による交易が盛んで、運んできた大豆や綿花、落花生などを泥人形と交換しました。

 

2.恵山泥人の主要作品

 

恵山泥人形の「粗貨」は、歴史が長く、販路も広いものでした。表現する題材は、おおよそ三種類に分類されます。すなわち、子供の人形、物語上の人物、吉祥やめでたさを表すものです。

 

子供の人形のうち、最も代表的なのは「大阿福」です。歴史的に各時代の阿福の形式は決して同じではありませんが、その基本的な造形はおおよそ同じで、ひとつ、或いは一対の健康で豊満な太った子供です。対になった阿福は「対阿福」と言い、一男一女で、「梅花五福袍」という梅花柄の中華服を身に着け(梅の花は花びらが五枚あり、「五福花」とも言い、快楽、幸福、長寿、順調、平和の5つの福を代表している)、手には金の毛の大青獅(青い獅子)を抱き、恥ずかしそうに微笑み、飾り気がなく、実直で、穏やかで慎み深い表情をしています。

恵山泥人「阿福」

 

「阿福」は誕生以来、恵山泥人形の中で最も人々に愛される商品でした。当地に伝わる多くの神話や物語は、阿福に対する賛美の気持ちで溢れていますが、中でも有名なのが、「阿福降獅」の物語です。

 

昔、恵山に邪悪な獅子がいて、専ら村々で子供を捕まえて食べていた。獅子は凶暴、残虐で、無数の罪のない子供を噛み殺していた。後に、天上より二人の神様が下りて来られた。神様は「沙孩儿」と言い、勇敢で強く、法術に優れていた。神様は邪悪な獅子を打ち負かし、人々の害を除き、幸福と安寧を人々にもたらした。このため、人々は神様に感謝し、神様の姿を土で刻み、家々でお供えした。神様が幸福をもたらしてくれたので、この像は「阿福」と呼ばれた。

 

こうした子供の人形は、幸福と安寧の象徴となり、人々の生活への祈りとなっています。

 

「阿福」は標準的な造形以外に、様々な形式の変化が生まれ、「団阿福」(「団」は丸い形)、「小阿福」、「撲満阿福」(「撲満」は貯金箱。素焼きのつぼで、貨幣がやっと入る細長い口があり、つぼを割らないとお金が取り出せない)などがあります。「阿福」は中国で有名であるだけでなく、世界でも名声を博し、中国の「泥娃娃」、子供の人形の代表となっています。

団阿福

 

「花囡」huānānは恵山泥人形のもうひとつの重要な商品です。江蘇省の方言で、女の子のことを「囡」nānと言い、「花囡」は「かわいい女の子」の意味で、その基本的な造形は、にっこり笑った女の子の形で、無邪気で素直で、喜びにあふれた様子をしています。

惠山泥人“花囡”

 

「花囡」も様々に変化し、双桃囡、西瓜囡、如意囡、団囡などが現れました。「花囡」の装飾の紋様には、多くは天青(赤みがかった黒、紺)、大红(深紅色。緋色)、紫、緑、群青(“佛青”ともいう。ラビスラズリ。青金石という鉱物から作る青い顔料)などの色で絵が描かれ、鮮やかな色彩の中、古風さ、素朴さが溶け合い、子供の活発さの中に、厳かさが溶け合っています。

团囡

 

子供の人形の中には他に「和合」、つまり手に蓮の花(荷花héhuā)と宝箱(宝盒bǎohé)を持った太った子供の人形で、発音が同じ「和合héhé」(和睦同心。仲良くし、気持ちをひとつにすること)を意味し、「忍を高しとし、和を貴しとする」という儒教思想を表しています。泥人形には他に「三胖子」、「吹炉火」、「皮鼓木鱼」などがあり、何れも子供の姿を題材にした作品す。

和合二仙

 

子供の姿に取材した泥人形作品は、中国の人々の素朴で偽りのない伝統的な道徳観念を体現しました。伝統的にこの種の作品は、多子で多幸、人口がどんどん増加するという意味合いが含まれていました。

 

恵山泥人形は、この他、芝居の一場面、神話や伝説、歴史事件、著名な人物などが表現されています。中でも有名なのは、「武松打虎」(水滸伝)、「草船借箭」(三国志)、「老爷(関羽)看兵書」、「西遊記」、「小尼姑下山」、「哪吒閙海」、「十八般兵器」、「八仙過海」、「水斗」(白蛇伝)などであります。こうした泥人形は、一般的な娯楽、鑑賞の役割の他、子供たちにとって、作品の内容を理解することを通じ、知識の増進や、広範な分野への興味を養うことができました。

水斗

 

泥人形にはこの他、吉祥や喜び事を意味する作品があり、民間で幅広く流布している吉祥の題材が表現されます。例えば、「大青牛」と呼ばれる泥玩具があります。当地の民謡で、「青牛の頭をなでてごらん。田を耕すのに心配はいらない。青牛の角をなでてごらん。田を耕すのに役に立つ」と歌われます。大青牛は体中が青や黄色をしており、農民の豊作への祈りを象徴しています。

童子春牛

 

もうひとつ、農民が好む作品に「蚕猫」があります。これは「蚕宝宝」、蚕の守り神です。無錫市は江南地方にあり、周辺では桑を植え養蚕をする農家が多くあります。ネズミは蚕の大敵であり、蚕が成長する期間中、ネズミの害を防がなければならず、猫はネズミの天敵ですので、猫により蚕の保護を象徴しました。養蚕農家では多く猫を飼っていました。「蚕猫」の造形の様式は様々で、玩具であるだけでなく、吉祥の象徴でもありました。「青牛」、「蚕猫」と同工異曲の作品には、他に「車状元」、「車老虎」、「吉慶有余」、「一団和気」、「福寿三星」、「聚宝盆」、「劉海戯金蟾」などがあります。

蚕猫

 

泥人形の職人たちは、更に子供が遊ぶのに相応しいおもちゃを作り出しました。例えば、ニワトリやトラの人形、「揺叫」(人形の首のところにばねを入れた首振り人形)、「皮老虎」(上下の容器が空気が漏れないようつなげられ、一方に呼び子が取り付けられ、上蓋に虎の顔が描かれ、蓋を押したり引っ張ったりすると音が鳴る)などです。

皮老虎

 

 3.恵山泥人形の技法と特徴

 

恵山泥人形の主な生産工程は、土を篩にかけ、槌で叩き、土を捏ねて形を作り、型を取り、型抜きをし、全体を修正し、下地を塗り、絵付けをし、艶出しをするなどの工程があります。型には一面型と両面型の二種類があります。両面型で作るものの多くは空芯になっていて、泥人形の重さを軽減でき、且つ材料を節約できます。例えば、「肖形撲満」、「観音」、「寿星」、「対阿福」などの作品は両面型で制作されます。最近は一部の人形はシリコンの型で作られ、型は内外二層に分かれ、内層は柔軟性のある型で、外層は二面の固いシリコンが使われています。内側の型は柔軟性があるので、複雑な造形も一度で造形が可能で、粘土の水分を増やして泥状にし、一定の流動性を持たせ、それにより粘土が型の隅々に充填するようにします。硬質シリコンの外型、液状の粘土を流し込む時に内型が変形するのを防いでくれます。

型を使って人形の頭を作成

 

白地を型から取り出して後、毛筆に水を含ませるか、濡れた布で一度全体を洗い、白地の表面を滑らかに整えてやります。白地が乾いたら、窯で焼いて、人形の強度が増すようにします。

 

人形の下地には通常白色土やリトポン(硫酸バリウムと硫化亜鉛の混合物である白色顔料)を用いますが、一部の小型の人形は下地を塗らず、直接彩色し上絵を描きます。彩色や上絵描きは恵山泥人形制作の重要な工程で、「造形三分、彩色七分」という言い方があります。よく使われる色は、花青(アントシアン。花、果実、紫蘇の葉などの細胞液中に含まれる植物色素)、石緑(孔雀石で作った緑色の絵具。マラカイト。緑色の単斜晶系の鉱物)、赭石(しゃせき。代赭石。主に顔料に用いる。赤い色の石)、青連(薄い紫色)、群青(ラピスラズリ。鮮麗な藍青色)、大紅(深紅。緋色)、鵞黄(卵色。淡い黄色)などで、少量の金、銀を入れることもあります。

彩色作業

 

恵山泥人形の色彩は、柔らかくつやつやしているのが特徴で、「ぼかし」の手法を用いて色の深みに変化をつけ、落ち着き、均一でむらがなく、変化が自然であることを重視しています。現在は一般にスプレーを使って色のぼかしをつけています。彩色は色毎にまとめて行い、彩色後に墨で輪郭を描き、目や鼻を描き入れ、髪の毛を描く等の細部の描写を行います。

 

恵山泥人形の造形は簡潔で、作品の大小にかかわらず、細部の形状に複雑なところはなく、できるだけ造形は大きな部分に留め、不必要な細部は省略し、簡単な手法で全体のイメージをまとめています。外形の輪郭は線が流れるように優美で、やわらかいなめらかな曲線を多用し、直線をできるだけ避けています。表面の起伏はなだらかで、深くしつこい彫刻はせず、ふくよかで丸みのある造形を形成しています。

 

職人たちは色使いに豊かな経験を持ち、「赤に緑を合わせると、玉のように美しくなるが、赤に紫を合わせると、全体が死んでしまう」と言い、また「赤は鮮やかな赤でなければならず、緑は若々しい緑でなければならず、白は穢れのない白でなければならない」と言います。一個の作品で使う色はあまり多くありません。職人たちは、「頭の色は四つを超えず、体の色は三を超えること勿れ」と言います。色を選び、色の種類を抑え、色を使いすぎてけばけばしくなるのを避けるようにするということです。

 

泥人形の作品の細かい造形は絵付けで完成しますが、職人たちは作品により、異なった筆遣いや画法を使い分けます。例えば、人の眉には8種類の描き方があり、柳葉眉(眉毛の両側が吊り上がり、柳の葉のような形になっている)、臥蚕眉(眉毛の端が高く上がり、全体は二段に多少まがっている。毛は艶やかで蚕のよう。一般に男の英雄豪傑の眉)、散眉(眉毛が途中まで伸びているが、途中で散らばる)、八字眉(眉先が上に跳ね、眉尻が下に払われる)、剣眉(眉の端が跳ね上がって剣の形になっている。俗に「倒八字眉」(逆八字眉)と呼ばれる)、寿眉(長く伸びた眉毛。眉毛の長いのは長寿の象徴)、掃箒眉(眉の端が次第に薄く散らばる。箒の形。俗に悪い意味で浪費の象徴と言われることもある)などがあります。更に目も描き分けられ、例えば悪役の人物の時は「蛇眼」(眼が長く細く、眼球は小さく丸い。こうした眼をした人は、残忍で、腹黒く、陰険)を多く使います。

柳葉眉 

臥蚕眉

散眉

八字眉

剣眉

寿眉

掃箒眉

 中国へ旅行に行くと、お土産屋さんに粘土を焼いて着色した、かわいらしい人形が並んでいるのを目にします。中国語で「泥人」、「泥玩具」などと言います。産地や作者の名前を付けて、「恵山泥人」、「泥人張」などという商品名が付いています。今回は、こうした泥人形について、その歴史や各産地の商品の特徴について、ご紹介したいと思います。

 

ちょうど手元に、王連海著、『中国民間玩具簡史』と言う本があり、この中で、泥玩具について、約20ページにわたり記述があり、この内容から抜粋したいと思います。王連海氏は現在61歳、北京出身、北京清華大学美術学院で中国民間美術の研究をされています。

 

1.泥人形の歴史

 

 泥人形の起源は、墓の副葬品として、死者が死後の世界で寂しい思いをしないよう作られた、いわゆる明器です。これは、その当時、一定の身分や勢力があった人が特別に作らせたものですから、一般の人々には縁のなかったものです。それが、市場で売買され、庶民にも手の届くもの、商品として、また子供のおもちゃとして販売されるのは、宋代になってからと言われています。

 

北宋(960-1127)の時代、泥玩具の製作を生業とする民間の手工芸職人が出現し、泥玩具が商品となり、都市の市場では専ら泥玩具を売る露店や、行商人が出現しました。この時代の主要な泥玩具は「磨喝楽」、「黄胖」と呼ばれていました。

 

「磨喝楽」は「摩喉羅」、「摩侯羅」、「魔合羅」とも書き、宋代に流行した一種の泥塑の子供の人形で、農暦七月七日の前に大量に市場に出回った、季節商品でした。

 

北宋の都、汴梁(今の河南省開封)城内の「南渡」一帯はたいへん賑やかで、毎年「七夕」には「后市」(都城で市は宮廷の北側、後方に置かれたので「后市」という)の衆安橋、潘楼街東門外「瓦子」(娯楽兼商業区域)、州西梁門外「瓦子」、北門外、南朱雀門外街、及び馬行街等で磨喝楽が売られていました。

宋代泥人商舗

 

現在はもう当時の磨喝楽の実物を見ることはできず、ただ古文書の記載の中で「磨喝楽」のだいたいの形式を知ることができるだけです。このような小さな土の人形は作りが精緻で、姿かたちが端整で、色彩を施した木彫りの小さな台座の上に置かれ、赤い薄絹か青い薄絹で作ったカバーで覆われていました。小さな泥人形は深紅のチョッキを着、青い薄絹のスカートをはき、小さな帽子をかぶったものもあり、種類が豊富で、様々な大きさのものがありました。

 

古文書に、七夕に子供が手にはすの葉を持ち「磨喝楽」のまねをするとありますから、泥人形は必ず手にはすの葉を持っていたことがわかります。現在の泥玩具の人形は多くは絵で描いて衣服装飾を表現していますが、「磨喝楽」は別に衣服やアクセサリーを加える必要があり、織物、絹織物を使って小さな衣服やスカート、帽子を作って小さな泥人形の体に着せていたようです。

 

磨喝楽は北宋の都、汴梁の特産であるだけでなく、外地の製品も汴梁に運ばれ販売されました。その中で最も有名なのは蘇州の製品でした。

 

蘇州市の虎丘山の下で一種の磁土を産し、泥玩具を作るのに適し、明代には「塑真」(土で本物そっくりの塑像を作ること)工芸が盛んで、蘇州で作られたものが最も著名でした。

 

磨喝楽の用途は、一に「七夕」の「乞巧」(七夕の日に女性が織女星を祭って手芸、裁縫が上手になるよう願った風習)に使うため。二に男の子が生まれるよう祈るためでした。

 

唐代の「磨喝楽」は蝋で作られ、それを水に浮かべて、婦女が男の子を生むよう祈りました。宋代の「磨喝楽」は同様に女性が男子を多く生むことを祈る意味が込められていました。

 

磨喝楽を売る時は普通の販売方法だけでなく、「撲売」――これは宋、元の時代に流行した販売方法で、物売りが客と賭けの形で商いを行いました。多くの場合、銅銭を投げて、銅銭の表と裏の出た数の多い少ないで勝ち負けを決め、勝つと物がもらえ、負けると銭を失いました。

 

後世に行われた「転糖得彩」(あめを買って賭けに参加し、勝つと景品で人形がもらえる)、「昇官図売糖」(「昇官図」は一種のボードゲーム。四面に文字の書かれたコマを回して、平民から高官に昇格する順序を競う。あめを買って参加し、勝つと人形がもらえる)等も「撲売」の一種でした。「撲売」は賭博性を帯びていますが、また遊びの色彩もあり、泥玩具の販売にも合ったものでした。北宋の汴梁にはあちこちに磨喝楽を「撲売」するところがありました。

 

1980年代初頭に、江蘇省鎮江市で一組の子供が戯れている泥人形が出土しました。全部で5人の子供が、それぞれ相撲をし、足で踏んだりけったり、あたりを見回したりしています。

宋代の子供が戯れている泥人形

 

造形は生き生きとしていて、人形の地は土の色のままで、彩色は施されていません。これらの泥人形こそ「磨喝楽」だと考える人がいますが、証拠が十分でありません。というのも、「磨喝楽」は単体の泥人形であり、多くとも一対であり、一団のグループとなった「磨喝楽」の記録はまだ発見されていません。「磨喝楽」の衣装や装飾は別に作ったものを取り付けたはずですが、鎮江出土の泥人形の衣服は土で形作られ、またどれも中国服の上前衽(おくみ)と長ズボンを着ており、このことと「磨喝楽」が赤いチョッキ、青い薄絹のスカートを身に着けていたという記述と一致しません。このため、これらの泥塑の子供の群像は宋代の子供が遊び戯れる本当の姿の描写であり、古代の彫刻を研究する上での貴重な史料ではありますが、「磨喝楽」ではないと考えられます。

 

河南省博物館の陶磁器収蔵品の中にも宋代の「白釉加彩童子」があり、河南省禹県扒村窯跡から出土しました。童子(男の子)は陶器でできた太鼓型の腰掛けに座っていて、上半身はチョッキを着ていて、衣服の前をはだけて腹を出し、腰に帯を巻き付け、帯が二本の足の間に垂れています。男の子は手に蓮の葉を持ち、姿態はきちんとしています。全体の高さは21センチあり、白釉がかけられ、赤と黒の線で目、眉、頭髪、服装が描かれています。その形態から見て、今のところ最も「磨喝楽」に近い作品と言えます。

河南省博物院蔵宋白釉加彩童子

 

これも「磨喝楽」とは認められませんが、「磨喝楽」の風貌はここからそのおおよその見当がつくと思われます。というのも、これらの作品は間違いなく宋代の代表的な泥人形の影響を受けており、「磨喝楽」の本来の姿を理解するうえで重要な参考資料だからです。

 

名称からすると、「磨喝楽」と泥人形の間にはっきりした関連性はありません。これまで、多くの研究者が「磨喝楽」について考証を行ってきました。現在では二つの解釈が存在します。

 

第一の解釈は、「磨喝楽」はすなわち梵語(サンスクリット)の「摩喉羅」が訛ったもので、元の意味は仏教の神の名で、「摩喉羅迦」、または「莫呼勒迦」とも書き、梵語のMahoragoの訳語です。『大毗盧遮那仏神変加持経』及び唐代の慧琳の『一切経音義』の中に書かれているところでは、「摩喉羅迦」は「天龍八部の一つ」と称しています。仏教の経義によれば、諸天、龍、鬼神は八部に分かれています。晋代に、中国では既に、「天龍八部」は世尊(仏の尊称。釈迦牟尼のこと)を取り巻くという記述が出現しました。いわゆる八部は、一天、二龍、三夜叉、四ゲンダツバ、五阿修羅、六カルラ、七キンナラ、八マゴラガ(摩喉羅迦)。「天」と「龍」が八部の首位にいるので、名を「天龍八部」と言います。「摩喉羅迦」は大蟒神(「蟒」はニシキヘビやウワバミのこと)で、人首蛇身、つまり首から上は人間で体は蛇であり、「胸行神」とも言います。『東京夢華録』で「磨喝楽」を取り上げる時、作者は「元々仏教経典の「摩喉羅」は、今は通俗としてこう書く」と注釈しており、当時はこのような小さな泥人形と神仏を同列に論じていたのです。「摩喉羅迦」は大蟒神であるのに、どうして子供のおもちゃになってしまったのでしょうか。この点はたいへん分かりにくい問題です。

 

それゆえ、第二の解釈をする者が現れました。それは、「磨喝楽」は梵語の「羅喉羅」の音訳が間違って伝わったとするものです。羅喉羅は釈迦牟尼仏の実の子供であり、母親のお腹の中に七年いて、釈迦牟尼が悟りを開いた日に生まれました。仏が戻って来て後、羅喉羅の母親、釈迦牟尼の妻は清らかな気持で、羅喉羅に「歓喜丸」(歓喜団とも言う。バター、小麦、ハチミツ、ショウガなどを混ぜて作った古代インドの菓子)を掲げ、父に贈らせました。仏はその意味を会得し、遂にその従者たちも悉く仏になりました。羅喉羅が手に持って贈ったものは間違いなく、彼の聡明な資質を示しました。彼は15歳で出家し、仏の十大弟子中で密行(みつぎょう。戒律を綿密にきちんと守り修行すること)第一でした。羅喉羅の意味は、「覆障」(覆い隠すこと)です。彼が母の腹の中に七年いたことから、そう名付けられました。仏教経典の記述では、羅喉羅の身の上と磨喝楽の泥人形の生活上の用途は関係無くは無いように思われます。彼は生まれつき聡明で、密行第一であり、七夕の時、これを使って「乞巧」(きっこう。旧暦7月7日の七夕に女性が織女星を祭って手芸、裁縫が上手になるよう願う風習)を行うのは適しています。唐代に流行した蝋で作った「磨喝楽」(「化生」。婦人が男の子を生むよう祈ること)と結び付けて考えると、その大意は理解できます。「化生」は元々婦人が元気な男の子を生むことを祈るためのものですから、「羅喉羅」から来たものと解釈することは、道理に合っています。

 

宋代に流行したもうひとつの泥玩具は「黄胖」です。

 

「黄胖」は迎春の季節の土人形であり、通常は宴会の席で使われ、人形の手足を動かすことができました。したがって、「黄胖」はおそらく酒を勧める道具、「酒胡子」と似たものだったと思われます。「酒胡子」は、紅毛碧眼、髭を生やした西域人の姿に似せて作った人形で、上は軽く下は重くして、倒してもまた起き上がるよう作られていて、酒席の遊びで、この人形を揺らしてくるくる回し、最後に留まった時に人形の手の方向に座った客が罰として酒を飲むというものです。これは、後世の起き上がりこぼしの原型です。「黄胖」はこうしたおもちゃの一種で、南宋の時流行し、多くは権勢を誇った一族や王族の宴席で用いられました。民間では迎春の時に客に贈る土産品となりました。

 

宋王室は南渡以降、北方の領土を失った代わりに束の間の平和を手にし、それに加えて大量の北方人が南方に移り、南方の手工業は迅速に発展しました。南宋の都、臨安(今の浙江省杭州市)は至る所、酒楼、茶店、店舗、市が作られました。西湖一帯の民間手工芸品は独特の風格を持つようになり、北宋の汴梁の「門外の土産」に匹敵する「湖上の土産」となり、その中には泥人形が含まれていました。

 

明代の田汝成は『西湖遊覧志余』にこう記しています。

「臨安の風習では互いに往来交遊し、湖上を遊覧する者は競って土でできた子供の人形、小鳥、花湖船を買い求めて家に持ち帰り、隣近所に配り、湖上の土産品と言った。」

 

これらの子供の人形などの泥玩具は全て杭州市内で作られたもので、泥玩具の職人が住んだ地域はこれにより「孩儿巷」(「巷」は路地や横丁の意味で、北京の「故同」に相当)と名付けられました。「孩儿巷」の名は、今日の杭州市に今尚存続し、民間工芸の繁栄、栄枯盛衰を記録しています。

 

 明、清時代になると、政治の安定、商業、物流の発展から、中国内を行き来する人も増えました。江蘇省蘇州市虎丘山は、観光名所として発展し、また全国的に有名な工芸品市場になりました。民間玩具は虎丘市場の多くの商品の中で重要な地位を占め、「虎丘耍货」(虎丘のおもちゃ)と呼ばれました。

 

中でも、一級品の泥人形は、作りはよく吟味され、形態は精緻で美しく、価格は高価で、おおよそ無錫恵山の泥人形の「細貨」に似ていました。虎丘の一級品の泥人形中、「泥美人」(美人像)が最も代表的なもので、形態は真に迫り、楚々として人を感動させました。

虎丘泥人

 

虎丘のおもちゃにはこの他に絹人形があり、姿かたちは生き生きとして真に迫り、頭や顔は粘土で作られ、絹織物やガラス玉など多くの材料で服装や飾りが作られました。粘土の頭の製作も、泥玩具の職人が担当しました。彼らが作った粘土の頭が絹人形に用いられました。こうした人形の頭の部分が蘇州以外の地に販売され、「虎丘頭」と呼ばれました。

蘇州泥塑、絹人形

 

虎丘の泥玩具は明清時代に始まるのでなく、北宋時代には既に東京(都、汴梁)の「磨喝楽」市場に蘇州の製品が並び、しかも「天下第一」の特別な栄誉を有していました。虎丘の民間泥人形が宋から清に至るまで長きに亘って伝わり衰えることの無かった重要な理由の一つは、「虎丘には最もしっとりした泥土を産するところがあり、俗に「磁泥」と呼ばれていた」ことによります。こうした磁土は上等なおもちゃを制作するのに必要な原料であり、おおよそ北宋時代には発見されていました。

 

理想的な原料、強力な職人集団、広大な販売市場が、虎丘の泥玩具が幅広く発展することを可能にする前提条件となり、更に一群の新たな民間工芸品が日増しに成熟し、清代初めには国中で有名な民間工芸品目である「塑真芸術」となりました。

 

「塑真」とは「捏塑」或いは「捏相」とも呼ばれ、つまり実際の人物に基づき土を捏ねて形作った小像です。明代晩期に著名な作家、王竹林が制作を始め、清代初期にはこの特殊な工芸は継承、発展され、康煕、乾隆期には一時最盛期を迎え、ピークに達し、「塑真」の作品は天下に鳴り響き、古い書籍の中に多くの作家により描写されました。古典の名著、『紅楼夢』の中にも虎丘の「塑真」の話が描写され、この話は第67回の「見土儀顰卿思故里,聞秘事鳳姐訊家童」に見られます。

 

薛蟠は江南より商売をして戻り、母親と妹に二箱の贈り物を携えて来ました。「二人が箱の中を見ると、筆、墨、紙、硯、様々な色の箋紙、香袋、香珠扇子、扇子に下げる飾り、天花粉、口紅などが入っていた他、虎丘で買ってきた、道行く人、酒席遊び、水銀を注ぐとでんぐり返りをする子供、飾り灯籠といった、泥人形の芝居の場面がいくつか、青い紗の箱の中に納めてあった。また、虎丘の山上で土をこねて作った薛蟠の小像があり、薛蟠と瓜二つであった。宝釵はこれらを見て、他のものは別に気に留めなかったが、薛蟠の小像は仔細にながめ、また兄の方もじっと見て、思わず笑ってしまった。」

 

「塑真」の造形について、清の乾隆年間に常輝が『蘭舫筆記』の中でこう説明しています。

「蘇州の「塑真」の作家は、虎丘の山塘に住み、私は曾て観光に行きこれを見たことがある。土は細かく小麦粉のようで、色は濃淡様々である。像を作ってほしいと依頼があると、顔の皮膚の色を見て土を少量取り、手でこれを弄ぶと、普段通りに談笑して、意に介さないようだが、しばらくすると像は完成している。これを見ると、その人そのものである。「皺、痣とほくろ、喉」皆少しも違いが無く、ただ髭と髪の毛は別に付ける。」

 

「塑真」の作品は、多くが文人墨客、官僚富豪のおもちゃでした。泥人形は乾かして後、更に「衣服、冠、靴、靴下を身につけさせる。衣装が一重か二重か、棉か皮か、どんな様式でも悉く準備でき、綸子(りんず)、紗(しゃ)、薄絹、苧麻(ちょま)に至るまで、依頼者の意のままである。」更に甚だしきは、衣服や冠をきちんと身に着けた土の像を小さな楠の木の箱の中に納め、また小さな腰掛け、テーブル、方形の小テーブル、上に物を飾る細長い机といった家具のミニチュアを並べ、またその上に香炉、お香入れ、道具入れの壺や骨董、筆、硯、文具を置き、壁には小さな字を書いた掛け軸を掛け、ミニチュアの室内のしつらえを構成し、これを「相堂」(書斎)としました。更に書斎には家人や婦人、子供、下女や侍童を配置しました。

清末の蘇州出身の官僚、顧文彬の「塑真」

 

 以上が、泥人形の歴史です。次回は、恵山泥人など、各地の泥人形を紹介します。

斉の孝公とその軍隊をねぎらう魯の大夫、展喜

 

 “有恃无恐”这句成语,出自《左传・僖公二十六年》里记载的关于鲁国大夫展喜劝齐孝公退兵的故事。

 “yǒu shì wǔ kǒng” zhè jù chéngyǔ,chūzì《zuǒzhuàn・xǐ gōng èr shí liù nián》lǐ jìzǎi de guānyú lǔ guó dàfū zhǎn xǐ quàn qí xiào gōng tuì bīng de gùshi。

 「有恃無恐」(恃(たの)み有れば恐れ無し)という成語は、『春秋左氏伝・僖公二十六年』に記載された、魯の大夫(長官)、展喜が斉の孝公に撤兵するよう勧めた故事に基づくものである。

魯の大夫、展喜

 

 春秋时期,齐国经过了历史上著名的“齐桓公变法”之后,国力日渐强大,成为当时各诸侯国的盟主。齐桓公死后,儿子齐孝公继位,他想继承父亲的事业,称雄诸侯。于是,在鲁僖公二十六年(即公元前六三四年),齐孝公统率大军,浩浩荡荡地向东进发,准备攻打鲁国。强敌压境,鲁僖公就派大夫展喜去见齐孝公。

Chūnqiū shíqī,qí guó jīngguò le lìshǐ shàng zhùmíng de “qí huán gōng biàn fǎ” zhī hòu,guó lì rìjiàn qiángdà,chéng wéi dāngshí gè zhūhóu guó de méngzhǔ。Qí huán gōng sǐ hòu,érzi qí xiào gōng jì wèi,tā xiǎng jìchéng fùqīn de shìyè,chēng xióng zhūhóu。Yúshì,zài lǔ xǐ gōng èr shí liù nián(jí gōngyuán qián liù sān sì nián),qí xiào gōng tǒngshuài dà jūn,hàohàodàngdàng de xiàng dōng jìnfā,zhǔnbèi gōngdǎ lǔ guó。Qiáng dí yā jìng,lǔ xǐ gōng jiù pài dàfū zhǎn xǐ qù jiàn qí xiào gōng。

 春秋時代、斉は歴史上有名な「斉の桓公の変法」の後、国力は日増しに強大になり、当時の各諸侯国の盟主となった。斉の桓公の死後、息子の斉の孝公が王位を継承した。彼は父親の事業を継承し、諸侯に雄を称えたいと思った。それで、魯の僖公の26年(すなわち紀元前634年)、斉の孝公は大軍を率いて、威風堂々、東に向き進軍し、魯を攻撃する準備をした。強敵が国境に迫り、魯の僖公は大夫の展喜を派遣し、斉の孝公に会いに行かせた。

 

 「斉の桓公の変法」とは、「管鮑の交わり」で有名な、鮑叔の推薦による管仲の宰相への登用、そして管仲による斉の内政改革のことを言います。すなわち、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分け、物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させました。これにより民衆は喜んで働き、産業が活性化しました。安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、商業も活性化しました。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用しました。 一方、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせ、不正に対して厳罰をもって当たりました。これらは高い規律と多くの税収を生みました。こうして、斉の国力は充実していったのです。

 

 

 展喜日夜兼程地赶路,在齐军进入鲁国边界之前,在路上见到了齐孝公。展喜对齐孝公说:“我们的君主听说您要到我们国家,特地派我前来犒劳贵军。”齐孝公傲慢地说:“听说我要来,你们鲁国人害怕了吧?”展喜回答说:“不明事理的人当然害怕了,但是懂得大义的人却不会害怕的。”齐孝公听展喜说不害怕,就狂妄地问:“你们鲁国的仓库和老百姓家中都没有多少粮食了,土地上连蔬菜和青草都没有。你们何恃而不恐呢?”

Zhǎn xǐ rìyè jiānchéng de gǎn lù,zài qí jūn jìnrù lǔ guó biānjiè zhī qián,zài lù shang jiàn dào le qí xiào gōng。zhǎn xǐ duì qí xiào gōng shuō:“wǒmen de jūnzhǔ tīngshuō nín yào dào wǒmen guójiā,tèdì pài wǒ qiánlái kàoláo guì jūn。”qí xiào gōng àomàn de shuō:“tīngshuō wǒ yào lái,nǐmen lǔ guó rén hàipà le ba?”zhǎn xǐ huídá shuō:“bù míng shìlǐ de rén dāngrán hàipà le,dànshì dǒng de dàyì de rén què bù huì hàipà de。”qí xiào gōng tīng zhǎn xǐ shuō bù hàipà,jiù kuángwàng de wèn:“nǐmen lǔ guó de cāngkù hé lǎobǎixìng jiā zhōng dōu méi yǒu duōshao liángshi le,tǔdì shàng lián shūcài hé qīngcǎo dōu méi yǒu。Nǐmen héshí ěr bù kǒng ne?”

 展喜は昼夜兼行で道を急ぎ、斉軍が魯の国境に入る前に、路上で斉の孝公に会うことができた。展喜は斉の孝公に対し、「我が国の王は、あなた様がわが国に来られると聞き、特に私を、貴国の軍隊をねぎらうために寄越しました。」と言った。斉の孝公は、驕り高ぶった様子で、「私が来ると聞いて、おまえたち魯の国民は恐れておろう。」と尋ねた。展喜はそれに対し、「事の道理が分からない者は、もちろん恐れますが、大義を理解する者は、恐れることなどありません。」と答えた。斉の孝公は展喜が恐れていないと知ると、ひどく傲慢な様子で、「おまえたち魯の国の穀倉や一般人民の家には食糧が無く、土地には野菜や青い草さえ生えていない。お前たちは何を恃み(頼み)に恐れずにいられるのか。」と尋ねた。

 

 ここで、斉の孝公は、魯の国は「穀倉や一般人民の家には食糧が無く、土地には野菜や青い草さえ生えていない」と言っていますが、正に魯の僖公の26年(紀元前634年)に、魯では飢饉が発生しており、斉の孝公はそれに乗じて魯に攻撃を仕掛けたのです。

 

 

 展喜不慌不忙地答道:“我们凭借的是先王的命令。当年,鲁国的祖先周公和齐国的祖先姜太公,忠心耿耿地辅助成王,废寝忘餐地治理国事,终于使天下大治,国富民强。成王酬谢他们的功劳,并告诫他们的后代要和睦相处,不得互相残害。这些话都记载在史书之中。大王的父亲齐桓公遵照先王的遗命,联合起各国诸侯,协调他们的意见,解决他们之间的矛盾,援救他们的灾荒,使各国团结起来。现在您继承了桓公的王位,各国诸侯都对您抱有很大的期望,相信您一定能象桓公一样团结各国诸侯。我们是恃此以不恐。”

Zhǎn xǐ bù huāng bù máng de dá dào:“women píngjiè de shì xiān wáng de mìnglìng。Dāngnián,lǔ guó de zǔxiān zhōu gōng hé qí guó de zǔxiān jiāng tàigōng,zhōngxīn gěnggěng de fǔzhù chéng wáng,fèi qǐn wàng cān de zhìlǐ guóshì,zhōngyú shǐ tiānxià dà zhì,guó fù mín qiáng。Chéng wáng chóuxiè tāmen de gōngláo,bìng gàojiè tāmen de hòudài yào hémù xiāng chǔ,bù dé hùxiāng cánhài。Zhè xiē huà dōu jìzǎi zài shǐshū zhī zhōng。Dà wáng de fùqīn qí huán gōng zūnzhào xiān wáng de yímìng,liánhé qǐ gè guó zhūhóu,xiétiáo tāmen de yìjiàn,jiějué tāmen zhī jiān de máodùn,yuǎnjiù tāmen de zāihuāng,shǐ gè guó tuánjié qǐlái。Xiànzài nín jìchéng le huán gōng de wángwèi,gè guó zhūhóu dōu duì nín bào yǒu hěn dà de qīwàng,xiāngxìn nín yīdìng néng xiàng huán gōng yīyàng tuánjié gè guó zhūhóu。Wǒmen shì shì cǐ yǐ bù kǒng。”

 展喜は慌てず騒がず、落ち着いて次のように答えた。「私たちが拠り所にするのは、前の国王の命令です。曾て、魯の祖先の周公と斉の祖先の姜太公は、忠義の念に燃えて成王を補佐し、寝食を忘れて国事を行い、遂に天下は大いに治まり、国は富み、人々は強くなりました。成王は彼らの功績に感謝し、また彼らの次の世代に仲良く付き合い、互いに傷つけあうことの無きよう戒めました。これらの話は、史書に記載されています。大王の父親の斉の桓公は、前の国王の遺言を守り、各国の諸侯と協力し、彼らの考えを調整し、彼らの間の矛盾を解決し、災害を救援し、各国を団結させました。今、あなた様は桓公から王位を継承し、各国の諸侯はあなた様にたいへん大きな期待を抱いています。あなた様が必ずや桓公と同様に各国諸侯を団結させることができると信じています。私たちはこのことを恃み(頼み)として、恐れずにいられるのです。」

 

 ここで言っている成王は、周朝の第二代の王です。成王は即位した時、まだ幼少であったので、政治は、成王の叔父の周公旦(魯の開祖)、太公望呂尚(斉の開祖)に補佐されていました。魯の祖先の周公は周公旦、斉の祖先の姜太公は太公望呂尚のことです。

 

 

 展喜的话义正辞严,句句在理。齐孝公听了以后,感到理屈辞穷,非常惭愧,只好收兵回国了。

Zhǎn xǐ de huà yì zhèng cí yán,jù jù zài lǐ。Qí xiào gōng tīng le yǐhòu,gǎn dào lǐ qū cí qióng,fēicháng cánkuì,zhǐhǎo shōu bīng huí guó le。

 展喜の話は、正当な道理を踏まえていて言葉遣いが厳しく、ことばの一つ一つが道理にかなっていた。斉の孝公はこれを聞いて、道理に詰まり、言葉に窮してしまい、たいへん恥ずかしい気持ちになり、撤兵して帰国するしかなかった。

 

 

 后来,人们把展喜说的“恃此以不恐”这句话,简化为“有恃无恐”。它的意思是:因为有所倚仗,所以无所畏惧。

Hòulái,rénmen bǎ zǎn xǐ shuō de “shì cǐ yǐ bù kǒng” zhè jù huà,jiǎn huà wéi “yǒu shì wú kǒng”。Tā de yìsi shì:yīnwèi yǒu suǒ yǐzhàng,suǒyǐ wú suǒ wèijù。

 後に、人々は展喜の言った「恃此以不恐」(これを恃み(頼み)に以て恐れず)のことばを、「有恃無恐」(恃み(頼み)有れば恐れ無し)と簡略化した。その意味は、頼みとする拠り所が有るので、恐れるところが無いということである。

 

 

 この、魯の大夫、展喜による、斉の孝公に対する外交活動の話は、『展喜犒師』、或いは『展喜犒斉師』(展喜が斉軍の兵士をねぎらう)という題名で、魯の太史(史書編纂を司る官職)の左丘明により書かれました。

 “一误再误”这句成语,出自《宋史》中的《魏王廷美传》和《九朝纪事本末》里记载的一个有趣的故事。

“yī wù zài wù” zhè jù chéngyǔ,chūzì《sòng shǐ》zhōng de《wèi wáng tíngměi zhuàn》hé《jiǔ cháo jìshì běnmò》lǐ jìzǎi de yī ge yǒuqù de gùshi。

 「一誤再誤」という成語は、『宋史』の中の『魏王廷美伝』と『九朝紀事本末』で書かれた、あるおもしろい話から出たものである。

 

 中国の歴史書の編纂方式として、年毎の出来事を記載したのが「編年体」、皇帝や活躍した人物など、人を中心としたものが「紀伝体」ですが、「紀伝体」では内容の重複が起こりますし、「編年体」では記述が切れ切れとなってしまうという欠点があり、これらを補うため、発生した事件ごとにその顛末をまとめたものを「紀事本末体」と言います。宋代に、袁枢という人が、『資治通鑑』の内容を編纂し直し、『通鑑紀事本末』としてまとめたものを始まりとし、それ以降、秦から始まり、宋、遼、金、元、明、清など九つの王朝の歴史について、同様の編纂がなされたものを総称し、「九朝紀事本末」と言います。

 

 

 北宋的开国皇帝是宋太祖赵匡胤,他共有五兄弟,其中一个弟弟名叫赵光义,他就是后来继承皇位的宋太宗,还有一个弟弟名叫赵廷美,被封为魏王。

Běisòng de kāiguó huángdì shì sòng tàizǔ zhào kuāngyìn,tā gòng yǒu wǔ xiōngdì,qí zhōng yī ge dìdi míng jiào zhào guāngyì,tā jiù shì hòulái jìchéng huángwèi de sòng tàizōng,hái yǒu yī ge dìdi míng jiào zhào tíngměi,bèi fēng wéi wèi wáng。

 北宋開国の皇帝は、宋の太祖、趙匡胤である。彼には全部で五人の兄弟がおり、そのうち、弟のひとりは名を趙光義と言い、彼はその後皇位を継承した宋の太宗である。もうひとりの弟は、名を趙廷美と言い、魏王に封じられた。

 

 

 赵匡胤登上皇位不久,他的母亲杜太后就得了重病,临终前把赵匡胤和心腹大臣赵普叫到身边,给他们一道遗命,要太祖赵匡胤死后把皇位传给弟弟赵光义,赵光义死后传给小弟赵廷美,再由赵廷美传回赵匡胤的儿子。太后要赵普当场把这遗命记录下来,然后珍藏在宫中的金柜里面。

Zhào kuāngyìn dēng shang huángwèi bù jiǔ,tā de mǔqīn dù tàihòu jiù dé le zhòng bìng,línzhōng qián bǎ zhào kuāngyìn hé xīnfù dàchén zhào pǔ jiào dào shēnbian,gěi tāmen yī dào yímìng,yào tàizǔ zhào kuāngyìn sǐ hòu bǎ huángwèi chuán gěi dìdi zhào guāngyì,zhào guāngyì sǐ hòu chuán gěi xiǎodì zhào tíngměi,zài yóu zhào tíngměi chuán huí zhào kuāngyìn de érzi。Tàihòu yào zhào pǔ bǎ zhè yímìng jìlù xiàlái,ránhòu zhēncáng zài gōng zhōng de jīnkuì lǐmiàn。

 趙匡胤が皇位に登って間もなく、彼の母親の杜太后が重病になり、臨終になる前に趙匡胤と腹心の大臣の趙普を枕元に呼び、遺言として、太祖趙匡胤の死後、皇位を弟の趙光義に継承させ、趙光義の死後は末弟の趙廷美に、更に趙廷美の死後は趙匡胤の子供に戻すよう、命じた。太后は趙普にその場でこの遺言を記録させ、これを宮中の金庫の中に大切にしまわせた。

 

 この、杜太后の遺言書は、宮中の金庫の中にしまわせたので、「金匱之盟」と呼ばれています。「匱」は、「櫃」のことです。

 宋の太祖、趙匡胤の母親である杜太后(902-961年)は、死後、昭憲と諡(おくりな)されたので、昭憲太后と呼ばれます。北宋の初代皇帝である、太祖趙匡胤、二代皇帝、太宗趙光義、魏王趙廷美の母親です。彼女は、息子の太祖が天下を取れたのは、五代の後周王朝で、世宗が幼君しか残さなかったので、王朝乗っ取りのクーデターが成功したと思っていて、そのため、太祖に帝位を兄弟に継がせるよう遺言したのです。

杜太后

 趙普(922-992年)は北宋初期の宰相で、北宋建国の元勲です。元は後周の下級役人に過ぎませんでしたが、当時義成軍節度使であった北宋の太祖趙匡胤の知遇を得て掌書記(書記官を掌握する職務)に迎えられ、ブレーンとなりました。959年に後周の世宗が急逝し、その後継者となった恭帝が幼少であったために軍部が動揺すると、趙匡義とともに陳橋の変のクーデターを主導し、趙匡胤を擁立して北宋を建国しました。

 太祖、趙匡胤は、趙普をたいへん信頼し、重要なことは必ず趙普に相談しました。朝廷内では決断できないことがあると、夜、こっそり趙普の家まで相談に行きました。『雪夜訪普図』は、太祖が雪の日の夜、趙普の家を訪れた情景を描いたもので、部屋の中央に座っているのが太祖、太祖の左に座っているのが趙普、右からお茶を出そうとしているのが趙普の細君です。この絵は明代の画家、劉俊が描いたものです。

雪夜訪普図(部分)

 

 十多年之后,太祖赵匡胤病危,他果然遵照母亲的遗嘱,把皇位传给了弟弟赵光义,这就是宋太宗。赵光义做了皇帝之后,把弟弟赵廷美封为开封府尹。

Shí duō nián zhī hòu,tàizǔ zhào kuāngyìn bìngwēi,tā guǒrán zūnzhào mǔqīn de yízhǔ,bǎ huángwèi chuán gěi le dìdi zhào guāngyì,zhè jiù shì sòng tàizōng。Zhào guāngyì zuò le huángdì zhī hòu,bǎ dìdi zhào tíngměi fēng wéi kāifēng fǔ yǐn。

 十年余り後、太祖趙匡胤が危篤になり、彼は果たして母親の遺言を守り、皇位を弟の趙光義に継承させた。これが宋の太宗である。趙光義は皇帝になって後、弟の趙廷美を開封府の知事に封じた。

 

 

 赵廷美这个人从小就爱出风头,刚愎自用,随着年龄的增长,他变得更加骄横跋扈,恣行无忌了。

Zhào tíngměi zhè ge rén cóng xiǎo jiù ài chū fēngtóu,gāng bì zì yòng,suí zhe niánlíng de zēngzhǎng,tā biàn de gèng jiā jiāohèng báhù,zì xíng wú jì le。

 趙廷美という人は幼い時からでしゃばるのが好きで、頑固でひとりよがりで、年齢が大きくなるにつれ、より傲慢で横暴になり、勝手気ままにふるまい、少しもはばかることがなかった。

 

 

 有一天,太宗赵光义把老臣赵普叫来,和他商量把皇位传给赵廷美的事情。赵普反对把皇位传给赵廷美。他说:“太祖已误,陛下岂容再误邪!”这话的意思是说,太祖赵匡胤没有把皇位传给儿子,而是传给了弟弟,这就做错了,如今你如果再把皇位传给弟弟,那就是一错再错。

Yǒu yī tiān,tài zōng zhào guāngyì bǎ lǎo chén zhào pǔ jiào lái,hé tā shāngliang bǎ huángwèi chuán gěi zhào tíngměi de shìqíng。Zhào pǔ fǎnduì bǎ huángwèi chuán gěi zhào tíngměi。Tā shuō:“tǎizǔ yǐ wù,bìxià qǐ róng zài wù yé!”zhè huà de yìsi shì shuō,tàizǔ zhào kuāngyìn méi yǒu bǎ huángwèi chuán gěi érzi,ér shì chuán gěi le dìdi,zhè jiù zuò cuò le,rújīn nǐ rúguǒ zài bǎ huángwèi chuán gěi dìdi,nà jiù shì yī cuò zài cuò。

 ある時、太宗趙光義は老臣の趙普を呼んで、彼と皇位を趙廷美に継承させることについて相談した。趙普は皇位を趙廷美に継承させることに反対した。彼は、「太祖が既に誤りを犯したのに、陛下がまた誤りを繰り返すことをどうして許すことができるでしょうか。」と言った。この話の意味は、太祖趙匡胤が皇位を自分の子供に継承させず、弟に譲ったのは、過ちであった。今、あなたがもし、また皇位を弟に譲ったら、それは一度やった過ちをまた繰り返すことになるということだ。

 

 

 不久,有人告发魏王赵廷美阴谋造反。赵普就使人上书给太宗说:“赵廷美骄横残暴,目中无人,心怀不轨,应当把他流放到边远的地方去,以防止他发动叛乱。”

Bù jiǔ,yǒu rén gàofā wèi wáng zhào tíngměi yīnmóu zào fǎn。Zhào pǔ jiù shǐ rén shàng shū gěi tàizōng shuō:“zhào tíngměi jiāohéng cánbào,mù zhōng wú rén,xīn huái wú guǐ,yīngdāng bǎ tā liúfàng dào biānyuǎn de dìfang qù,yǐ fángzhǐ tā fādòng pànluàn。”

 しばらくして、ある人が、魏王趙廷美が反乱をたくらんでいると告発した。趙普は人を介して太宗に上書させ、こう訴えさせた。「趙廷美は傲慢で狂暴で、眼中に人無く、心中に謀反を企んでいるので、彼を遠く辺境の地方に流刑にし、それによって彼が謀反を起こすのを防ぐべきだ。」

 

 

 太宗同意赵普的意见,削去赵廷美的魏王封号,把他降为信陵县公,命令他搬迁到偏僻的房州去。赵廷美到了房州之后,整天闷闷不乐,忧郁成疾,不久就病死了。他死时才三十八岁。

Tàizōng tóngyì zhào pǔ de yìjiàn,xiāo qù zhào tíngměi de wèi wáng fēnghào,bǎ tā jiàng wéi xìnlíng xiàn gōng,mìnglìng tā bānqiān dào piānpì de fángzhōu qù。Zhào tíngměi dào le fangzhōu zhī hòu,zhěng tiān mèn mèn bù lè,yōuyù chéng jí,bù jiǔ jiù bìng sǐ le。Tā sǐ shí cái sān shí bā suì。

 太宗は趙普の意見に同意し、趙廷美の魏王の爵位を削り、信陵県公に降格させ、彼に、辺鄙な房州に移るよう命じた。趙廷美は房州に移って後は、一日中うつうつとして楽しまず、憂鬱の余り病気になり、間もなく病で死んでしまった。彼は亡くなったとき、まだ三十八歳だった。

 

 房州は、今の湖北省房県、湖北省の西北のはずれ、陝西省と河南省の境に近い、武当山の山中にあります。

 ところで、「金匱之盟」は、本当にあったかどうか、疑問視されてきました。それというのも、このような大切な書類であるのに、太宗の即位以前に見たことがある者が誰もいなかったこと。また、趙普が、太宗の即位後6日経ってからこのことを上奏したということで、趙普が太宗の皇位継承を正当化するため、でっちあげたものではないか、と疑われてきたのです。

 

 

 后来,人们从赵普所说的“太祖已误,陛下岂容再误邪”这句话,引申出“一误再误”这句成语,用来形容一错再错,屡犯过失。

Hòulái,rénmen cóng zhào pǔ suǒ shuō de “tàizǔ yǐ wù,bìxià qǐ róng zài wù yé” zhè jù huà,yǐnshēn chū “yī wù zài wù” zhè jù chéngyǔ,yòng lái xíngróng yī cuò zài cuò,lǚ fàn guòshī。

 後に、人々は趙普が言った、「太祖既に誤り、陛下豈(あに)再び誤つを容れんか」ということばから「一誤再誤」という成語を派生させ、これを用いて、一度の過ちを再び犯し、何度も過ちを繰り返すことを形容するようになった。

 

 「一誤再誤」を使った文の例です。

你已经铸成大错,千万不可一误再误,赶快悬崖勒马吧!

「悬崖勒马」は、断崖に臨んで馬の手綱を引き締めることから、危険の一歩手前で踏みとどまる喩えです。

あなたはもう大きな過ちをしてしまったのだから、決して二度と同じ過ちを繰り返してはならない。急いで危険の一歩手前で踏みとどまるようにしなさい。