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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

見出し:三羊銅 罍(らい)、平谷県劉家河出土

 

第一節 夏商時代の北京地区の青銅器文明

 原始社会から奴隷社会までの間には、相当長い過渡期の時代がある。原始氏族社会制の晩期、私有制、階級は既に萌芽し、奴隷制確立後も長い間、原始氏族社会の名残は様々な形で残された。およそ紀元前2千年代の初期、北京地区は既に歴史に沿って進化し、原始社会は次第に奴隷制社会に移り変わりつつあった。

 

 伝説中のの時代、商族の祖先、は曾て牛車に乗り、北京以南の易水近傍で牛や羊を放牧し、各部落の間で売買を行った。有易部落は亥を殺し、亥の牛車と牛、羊を奪った。後にの兄弟のの子供の上甲微が亥の敵を打ち、有易部落を打ち負かした。この話は多くの古書の中に記載がある。これらの商族の祖先の名前も、商代の甲骨卜辞の中に見られる。

 

 龍山文化(山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖1928年に城子崖遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる)の時代の後、北京地区は青銅器文化の時代に入った。およそ紀元前2千年代、すなわちおよそ中国の歴史で夏商の二つの時代、北京地区で活発であったのが、一種の顕著な特色を備えた青銅器文化であり、考古学ではこれを「夏家店下層文化」(最初の発掘が内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡下層であったことからこう名付けられた)と称する。こうした青銅器文化を創造した先住民たちは、今日の河北省北部、遼寧省西部、及び京津地区に相当する幅広い範囲内で生活した。北京昌平県雪山村、密雲県燕落寨、平谷県劉家河、豊台区新楡樹庄、房山県瑠璃河では当時の人々の文化遺跡や墓が発見されている。

 

 当時、北京地区の手工業生産はめざましく発展し、陶器生産と青銅器の鋳造は既に独立した手工業部門となり、大量の精巧な陶器や、形も飾りも美しい青銅器を生産した。

 

 彼らの陶器は明らかに地方の特徴に富んでおり、炊事道具に用いる陶器の(れき)のように、形を典雅な筒状にしたものや、肩の部分を特にふちを曲げたものがあった。陶器の表面には、赤と白で交互に巻雲紋の図案を描き加えたものもあり、器物の芸術性がより増すことになった。

 

 青銅器の冶金鋳造産業は、相当高度な成果を上げた。早期の段階の青銅器は、形が小さいだけでなく、造形が単純で、例えばイヤリング、矢じり。小刀などのようなものだった。商代中期になって、北京地区では紋飾りがこまごまとしていて、形が雄壮な大型礼器、例えば(らい。酒器)、(か。酒を温める3本足の器)、(ゆう。酒を入れるつぼ)、(か。3本足の酒器)などが出現した。平谷劉家河(北京市平谷区南独楽河鎮の管轄の村)で出土した三羊銅罍鳥柱亀魚紋銅盤は、何れも当時の青銅器の芸術の傑作である。銅盤は外側に湾曲した幅広の縁(へり)が付いていて、縁の両側は対称に鳥形の柱が付いていて、内側の底の中心線には亀魚紋の図案が刻まれていた。盤で水を受けると、内に亀が潜り魚が跳ね、その横で水鳥がたたずみ、芸術品と言うに恥じないものとなっていて、これを作った人の知性と才知が現れていた。

北京市平谷区南独楽河鎮(劉家河村は南独楽河鎮西北5Km

 

三羊銅 罍(らい。酒器)

高さ28.8cm、口径19.9cm

平谷県劉家河出土

 

鳥柱亀魚紋銅盤

 当時、人々は鉄に対し、一定の認識を持っていた。平谷県劉家河出土の鉄刃銅戉(えつ。まさかり)は、天然の隕鉄を鍛錬して薄刃にし、その後、青銅を流した鋳物をつなぎ合わせて作られていた。これは我が国の人々が最も早期に鉄を使い始めた試みであり、このことは北京の人々が三千年あまりの鉄の使用の歴史があることを示している。

鉄刃銅戉(えつ。まさかり) 

長さ8.4cm、柄の幅5cm

平谷県劉家河出土

 生産の発展は階級の分化を促し、平谷県劉家河で発見された商代中期の青銅器を副葬した墓は、奴隷主の貴族でこそ作ることができた。奴隷主は生前、権勢を笠に威張り散らしていて、死後も贅沢の限りを尽くしていた。ひとつの墓の中に、青銅礼器十六件、金の笄(こうがい。髪飾り)、金のイヤリング、金のブレスレットなど金の飾り四件が副葬され、極めて貴重で、珍しい鉄刃銅戉も併せて副葬品とされた。

金のブレスレット

(直径12.5cm、総重量173.5g

 奴隷主である貴族の享楽と金銭の浪費は、奴隷や一般の人々の苦しみの上に築かれたものであった。貴重な青銅器は先ず奴隷主階級の奢侈品として用いられ、一般の人々は依然として木、石、陶器、カラス貝の貝殻で作られた工具を用い、畑の耕作、収穫を行っていた。昌平雪山村で発見された多くの平民墓では、副葬品は一、二件の陶器や石器の他は、日常のものも無いか、何も無い墓もあった。これは平谷劉家河の奴隷主墓と鮮明な違いが見られる。

 

 文献の記載によれば、商代後期、北京地区にはふたつの著名な部族がおり、すなわち商族の同姓孤竹燕亳(はく)であった。このふたつの部族は商朝北方の付属国で、商の北方の藩屏(辺境警備の重鎮)であった。孤竹、燕亳の発展は、商朝の北方の安寧を保証し、この地区が我が国の北方古代文明の中心になった。

 

 

第二節 周代北京地区の奴隷制国家、燕

 

 紀元前1027年、武王が商を滅ぼして以降、同姓の貴族である召公奭(せき)を北燕に分封し、燕国に始めに封じられたのは召公奭の長子であった。『史記・燕召公世家』では、紀元前九世紀の燕恵侯以来、三十五代の王、侯の系譜は、燕の召公から以下燕の恵侯に至る九代の燕侯の名称は、西漢時代には既に伝承が途絶えてしまった。

 

 召公奭は、文献ではまた君奭と称し、周王室の太保で、位は三公に相当した。彼は成王を補佐し、紂王の子、武庚、 字は禄父 と東夷の徐、奄、薄姑など方国の反乱を平定し、周人の東方の統治を強固なものにした。召公奭は自ら燕の地に臨み、燕国を統治、開発する活動に従事し、燕国は間もなく発展を開始した。周の初期、燕国の統治階級は、「引き続き商の法律を適用し、辺境は周の法律で治める」という方針を採用し、当地に商代に残された氏族や部族に対しては、変わることなくその氏族、宗族の組織を保ち、もともとあった氏族や貴族と連合し、利用することで、当地の人々を統治、籠絡した。西周の初期、燕国には依然、多くの商代の著名な氏族や部族が見られた。各族はそれぞれの氏族の彝器(いき。酒のつぼ)を保有し、また引き続き元々の氏族の名称と愛称を使用した。復、攸(ゆう)、伯炬らのような彼らの首領である人物も、燕侯の恩賞を受けた。銅器の銘文の記載によれば、燕侯旨(おそらく第一代の燕侯)は曾て宗主の周に行き、王室に仕えたが、このことは燕と周の王室の間に密接な関係があったことを示している。

 

 西周の初年から始まり、燕国の勢力の及ぶところは、既に燕山山脈を越え、遼西大凌河流域に達していた。遼寧省喀左県ではこれまで何度も周初期の燕国の青銅器が発見され、その中には銘に燕侯の字句のある銅盂(う)があった。これにより、燕国の北部の境域が既にここまで伸びていたことが分かる。当時、燕の東の端は孤竹と接し、北面は粛慎と隣接し、周の北方の重要な諸侯国であった。

 

 燕国の所在は華北平原の北端で、燕山山地の両側であった。燕山山地と山地の背後は、遊牧部落がいつも出没する地方であった。我が国の古代より、燕の地は華夏文化と戎、胡文化が交流するターミナルで、中原と東北の経済、文化が合流し溶け合う地域であった。解放後、北京の周辺の長城内外で、大量の燕国の青銅器やその他の文化財が出土し、これらの文化財はこうした特徴を十分に体現している。北京昌平県白浮村で発見された周初の墓の中から、文字の刻まれた占いで用いられた亀の甲羅や骨が出土し、このことから当時の燕国の統治階級も亀の甲羅や獣の骨を使って運勢を問うたり、占いの活動をしており、商代後期以来流行した亀の甲羅に穴をあけ運勢を占う風習が、この時代燕の地にまで広がっていたことが分かる。青銅器の鋳造の面では、器物の種類にせよ器物の形態にせよ、何れも中原と北方の両方面からの影響が現れていた。燕国は、私たち多民族国家の発展と成長の過程の中で、重要な役割を果たした。

 

 春秋時代、山戎部族は燕国北部山地で大きくなり、いつも燕に対し騒動を引き起こし、燕国の農業生産と人々の生活に厳重な危害を与えた。燕の庄公の二十七年、斉の桓公が軍隊を率いて、山戎を北伐し、山戎部族を大いに破り、山戎の燕国北部地区の脅威を取り除いた。

        陶壺(全高69.5cm)         

         (昌平松園春秋墓出土)          

 

銅豆(たかつき。食物を盛る足付の台)

(全高 49cm

 

燕国の刀幣

 長期の発展を経て、戦国時代になり、燕国の社会経済が発展し、鉄工具が農業、手工業で幅広く使用され、社会生産力に多大な変革をもたらせた。農業、手工業の生産の発展につれ、商業も次第に盛んになり、地域的な特色を備えた燕国の刀幣(刀銭)が燕国の都市部や農村で広範に流通し、燕国の都城の薊や下都の武陽は、当時の有名な都市となった。商業の発展、金属貨幣の普及により、金銭の貸借とそれに伴い高利貸も発生するのを免れることができず、土地の売買と集中も、瞬く間に広まった。階級分化、階級矛盾も益々激しくなり、奴隷、農民の反抗と闘争が、奴隷主貴族の統治を猛烈に攻撃した。燕国の一部分の奴隷主は、階級矛盾を緩和するため、中原各国と同様、政治改革を実施した。

 

 紀元前320年(燕王噲(かい)の元年)、 燕王噲が位を継いだ。燕王噲の五年、政治改革を行うため、王位を相国の子之に譲った。子之は相国の時、政策が果断であり、臣下の監督、考課に長けており、 燕王噲に才能を認められ、重用された。子之の南面の聴政は、太子平を首領とする保守勢力に対し、大きな打撃となった。紀元前314年(周の赧(たん)王の元年)、太子平と将軍市被は徒党を組み人員を集め、ネットワークの遅れた保守勢力は、薊城で反乱を起こし、「宮殿を取り囲み、子之を攻撃し」、同時に彼らは斉の宣王と結託し、彼らに兵を薊城に派兵し、援軍させた。 燕王噲と子之は人々の支援の下、数か月奮戦し、太子平と将軍市被を攻めて殺し、反乱を平定した。続いて斉の宣王は「五都の兵」を起こし、大挙して燕を攻め、薊城を落とし、子之と 燕王噲を殺し、燕国の宮室は掠奪され空っぽになった。内乱と外患が踵を接して至り、燕国の人々に限りない災難をもたらした。

 

 斉兵が退却後、趙の武霊王が韓で人質になっていた燕の公子職を護送して帰国、即位させた。これが燕の昭王である。燕の昭王は、中原で人質になっていた間、中原の幾分進歩した政治、経済、文化の影響を受け、燕国を改革しようという抱負を持っていた。 燕王噲の時の内戦と斉の侵攻で、旧貴族勢力はひどい打撃を受け、同時に幅広い人々の闘志も練磨されたことは、燕の昭王が精励して国を治めようとし、政治改革を実行するに当たり、道を掃き清めることとなった。

 

 燕の昭王が位を継いで後、郭隗の協力の下、易水のほとりに黄金台を築き、身分が低くても厚い待遇で天下の英傑を招聘した。「楽毅は魏より行き、鄒衍は斉より行き、劇辛は趙より行き、」各国の賢士が次々燕に来て、昭王に重用され政治改革を行った。燕の昭王は楽毅の「能を察して官を授く」という政治主張を受入れ、「禄を以てその親を私せず、功多きは之を授く。官を以てその愛に随わず、能く当る者は之を処す。」これは論功授爵授禄の制度であった。燕の昭王はまた官吏制度を改革し、燕王の下に、相国と将軍を設け、政治、軍事の大権を分掌した。全国を五郡に分けた。すなわち上谷漁陽右北平遼西遼東の五郡で、郡の下に県を設け、郡守と県令は国王が任命した。燕はまた厳格な刑法を制定した。史書の記載には、「系獄」(牢獄に拘禁する)、「」、「刳腹」(割腹)、「」(腰斬)などがあった。燕の昭王は二十八年の努力の結果、「燕国の富み栄えること、士卒は安楽を楽しみ、戦を軽んず」という状況であった。

 

 燕の国力が回復して後、対外的に長期間戦争を行った。燕の昭王の十七年、燕と趙の武霊王は連合して中山国を攻め滅ぼし、中山の土地を分割し、燕の旧領土を回復した。同二十八年、楽毅に上将軍の官位を授け、秦、楚、韓、趙、魏の五国の軍隊が会合し、共に斉を攻め、斉軍を済西で大いに破った。燕は斉の七十二城を取り、斉都、臨淄に入り、斉の宮室や宗廟を焼き払い、斉の珍宝を掠奪して空っぽにし、斉の人々に深刻な災難をもたらした。

 

 燕は戦国の七雄の中で最も弱小で、燕の昭王の政治改革も継続することができず、楽毅、楽間などが相次いで出奔し、燕の恵王より、燕の対外戦争はいつも燕の軍隊の失敗で終わりを告げた。燕王喜の四年、燕軍は趙を攻め、六十万の大軍が全て覆滅された。燕の統治者はまた人々を駆使して長城を二本修築した。北長城は西は造陽(今の河北省懐来県)から東は襄平(今の遼寧省遼陽県の北)に到り、うねうねと千里余り連なり、これにより匈奴東胡の侵入を防御した。南長城は、易水の堤防を拡張したもので、西は今の易県西南から、易水に沿って東へ伸び、長さは数百里、これによりの侵攻を防御した。

 

 燕の長期の対外戦争は、人と物資の消耗が甚だしく、一般の人々への租税、軍事のための賦役、徭役の負担が益々重くなり、戦場で死んだり、長城の下で倒れて死んだ者は数えきれなかった。

 

 燕王喜の二十八年(紀元前227年)、秦の大将、王翦(おうせん)が軍を率い易水の西で燕軍を破り、燕の下都を占領し、翌年また薊城を攻撃した。これにより、燕は斉、楚、韓、趙、魏と同様、専制主義中央集権の封建国家、秦に統一された。

 

 

 

 

 

 

 

 これからご紹介するのは、北京出版社より、1985年8月に初版が刊行された、北京大学歴史系『北京史』編写組による、『北京史』、すなわち北京の歴史です。中国史の中で、北京地区の歴史にフォーカスします。

 

 

第一節 北京人(北京原人)とその文化

 おおよそ五十万年前、北京房山周口店地区(北京市街地から西南へ約50Km)で、原始の人類が働き、生息していた。これが世の中でよく知られている「北京人」(北京原人)である。

ちなみにこの章で言う「北京人」とは、「北京猿人」、すなわち北京原人のことです。

 北京人は周口店龍骨山北斜面の洞窟の中に居住し、そこには彼らの骸骨の化石、使っていた工具、火を用いた痕跡と大量の哺乳動物の化石が残されていた。これは人類の起源の謎を紐解く歴史の宝庫である。

周口店龍骨山遺跡

 人類の誕生にはおよそ200万年あまりの歴史があり、北京人は原始人類の発展過程の中の一部である。北京人の四十個あまりのそれぞれの個体の研究から、彼らの体質と外形は、既に現代人とほぼ同じであることが分かっている。彼らは主に右手で労働を行い、自由に直立歩行ができた。これは現代人と同じである。彼らの頭蓋骨の形状と内部構造は尚たくさんの原始人類の性質を保っていて、脳の体積は現代人の80%ほどであった。しかし、彼らの大脳は猿に比べると大いに発達していて、現代の猿の平均の脳体積は、北京人の平均の脳体積の40%程度である。彼らの顔面は短く前に突き出しており、額は低く平らで、後ろに傾斜しており、眉骨は太く丈夫で、左右がひとつにつながり、顎骨は高く、鼻骨は幅が広く、口は前に伸びていて、下顎が無い。彼らは既に簡単な思考能力を持っており、言葉を話し始めていた。

 

 北京人の時代、北京地区の地形は基本的に現在と同じだったが、気候は現在より湿潤で暖かく、動物の種類は現在よりずっと多かった。周口店龍骨山の北面、西面と西南面には大小の丘があり、丘にはエノキやハナズオウ(紫荆)の類のジャングルが生い茂っていた。ジャングルには虎、ヒョウ、狼、熊、鹿、イノシシ、ゴリラなどが居た。龍骨山の東麓には、幅の広い川が流れていて、川の近くは水草の群生する沼沢になっており、巨大な水牛、カワウソ、ビーバー、亀などが常にそこで活動していた。沼沢地帯の東南は広い平原で、平原上は草地で、また乾燥して砂地になったところもあった。草地には一年中四季を通じて群れを作った野生の馬、牛、羊がそこを疾走し追いかけあった。秋の終わりから初冬には、ヘラジカも遠くからここにやって来た。乾燥して砂の多いところでは、ゆっくり移動するラクダの群れや、いつも頭を砂に埋めるダチョウが居た。

北京人(北京原人)復元像

 北京人は何十万年というたいへん長い歳月の中で、先祖代々このような太古の世界の中で労働し、生息し、繁殖してきた。自分たちの生存を争い維持するために、彼らは丈夫な両手を用い、木の棒や石を材料にして、原始の労働工具や武器を制作し、自然界と粘り強く戦った。

 

 北京人が暮らした時代は、人類の経済文化史上、旧石器時代初期に属する。彼らの石器は、原始時代の打製方式で制作され、技術はまだあまり熟練していなかった。彼らは付近の河原で石英岩、緑色砂岩、火打石などを原料として選び、各種の形状の石器を作った。最大のものは厚刃の伐採器(斧の刃)で、比較的小さいのは、両刃の尖状器、更には刃部が鋭利な削器(さっき。スクレーパー)や両端が刃になったものなどがあった。これらの工具はそれぞれ樹木を伐採したり、獣の皮を剥いだり、獣の肉を切り分けたり、同時に狩猟の武器としても用いられた。北京人は苦労して労働し、苦しい闘争を行う中で、絶えず進歩していった。

尖状器

(周口店出土)

伐採(斧の刃)

(周口店出土)

 周口店の北京人の居住洞窟の外側では、火で焼かれた灰の層や獣の骨が発見され、更に一山一山になった厚い灰燼(灰と燃えさし)、木炭、焼けた骨、エノキ(榎)の実が発見され、これは北京人が火を使った遺跡である。北京人は破天荒にアジア大陸でぼうぼうとかがり火を燃え上がらせ、人類の黎明期の到来を宣告した。

 

 原始人は完全に生存の困難、自然との戦いの困難に圧迫されていた。北京人はいつも猛獣の侵入、襲来に遭遇し、飢餓や寒さの脅威に遭遇した。困難な環境に苦しめられる中で、彼らの寿命は一般にたいへん短かった。三十八体の北京人の個体の化石の研究によれば、十四歳以下で死んだものが十五人、五十歳以上まで生きたものは一人だけであった。

 

 当時、生産力レベルの低さのため、集団労働が唯一の取り得るべき方式であり、このことが彼らに数十人を一群れとする原始グループを結成させた。彼らはグループの力に依存して、ようやく凶暴な野獣に打ち勝つことができ、グループでの共同作業によって、ようやく最低限度の生活を維持することができた。彼らは共同で働き、共同で労働の成果を共有し、共同で困難だが平等な生活を送ることができた。こうした原始集団はまだあまり安定はしないが、正にこうした集団生活が、彼らの生存争いの中での困難なリスクからの勝利を保証し、人類社会の発展を促進した。原始集団は、北京人の時代の唯一の社会形式であった。

 

 採集と狩猟は北京人の生活の中で重要な地位を占めた。彼らは植物の根、茎、果実や鳥の卵を採集し、食物にした。彼らが居住したことのある洞窟の中には、焼かれたエノキの実、ハナズオウ(紫荆)の木炭、マメ科植物の種子、ダチョウの卵の化石が残留していた。彼らが狩猟した動物は、多くが野生の鹿、馬、牛、羊、イノシシなどの獣類であり、少数の虎、ヒョウ、狼などの猛獣もいた。鹿類は彼らの主要な狩猟の対象で、夏から秋になると鹿を捕獲し、冬から春にはヘラジカを捕獲した。この他、彼らはまた野鼠、亀の類の小動物も捕食した。

苦難に満ちた生活は北京人を苦しめたが、また彼らを鍛えもした。彼らは集団生活の中で、創造性のある労働により後の世代の人々には想像できない困難を克服し、ゆっくりとではあるが、粘り強く自然に打ち勝ち、太古のアジアの原野に、人類の歴史の序幕を掲げた。

 

 北京人の化石と文化の遺物は北京の周口店で発見され、北京の歴史に輝きを加えた。北京人の骸骨の化石の個体数はたいへん数が多く、文化の遺物は豊富で、発掘記録は完全に整っており、世界の太古の人類の進歩の歴史の研究のうえで、唯一無二の存在である。これは中国の古代文化遺産の至宝であるだけでなく、世界文化の宝庫の中での世にもまれな宝物でもある。

 

 

第二節 新洞人から山頂洞人に到るまで

 

 北京人は周口店に長い間居住していたが、今からおよそ20万年前に、彼らの体質の特徴に顕著な変化が生まれ、猿人から初期の知恵を持った人間新洞人に変化した

山頂洞人復元像

 新洞人は1973年に発見されたが、その個体はただ一本の歯しか存在せず、それは左上の第一臼歯であり、形態は北京人に比べ進歩していた。同じ地層には比較的厚い灰燼が発見され、それは焼けた石、石器、骨と一粒のエノキ(榎)の木の実であった。焼けた骨で最も大きいのは象で、最も小さいのは昆虫類で、草食性の動物が肉食性の動物より多かった。これらは新洞人が既に加熱して食物を食べていたことを証明している。

 

 それから更に数万年経ち、おおよそ二万年前、北京に新たな人類が出現した。これが山頂洞人であり、彼らは北京人、新洞人と数十万年離れているが、同じ小山の異なった洞窟で生活していた。

 山頂洞人は晩期のホモサピエンス(晩期智人であり、彼らの体質の特徴は現代人と何ら違いが無い。彼らの脳の容量から見ると、山頂洞人は既に相当発達した知力を備えていた。

 

 何人かの外国の学者は、山頂洞人の三つの頭蓋骨がそれぞれ蒙古人種、メラネシア人種、エスキモー人種に属すると言い、またたとえその蒙古人種の頭蓋骨であっても、幾分欧州人種の特徴を備えていると言った。これは不正確である。実際には、この三つの頭蓋骨は何れも原始蒙古人種の特徴を備えていた。より細かい種族は当時はまだ決まった型に分化しておらず、彼らは現代蒙古人種の祖先であると見做すことができる。

 

 山頂洞人が使用した石器の発見はたいへん少なく、器の形は伐採器、スクレーパー(削器=さっき)、両刃器に区分することができる。これらの石器の製造技術は、北京人や新洞人より進歩しているが、依然としてたいへん粗雑である。山頂洞ではまた数多く精緻な骨角器を製造していたのが発見された。特に指摘しなければならないのは、骨針の発見により、当時の居住民が既に獣の皮で衣服を縫製し、衣服を身に着けず裸で生活していた時代は既に過ぎ去ったことを証明した。

 

 山頂洞人の経済活動の中で、狩猟は極めて重要な役割を果たした。彼らが猟で得た獲物はウサギ、鹿、野牛、野羊、虎、ヒョウ、ハイエナ、熊など全部で五十種類以上あり、数が最も多いのはウサギとアクシスジカ(斑鹿)で、このことは狩猟技術の進歩と労働組織の発展を反映している。労働の自然分担がこの時代おそらく既に基本的に完成しており、狩猟の職務は主に男子が負担し、採集は既に女子、子供、老人の専門職務になっていた。山頂洞文化層の中で、これまでにたいへん多くの鯉の骨と一本の長さが約1メートルの青魚の骨が発見されており、山頂洞人が漁撈にも従事していたことが分かっている。

 

 生産力の発展は、人々がより強固な集団を結成することを要求し、血縁関係を基礎とする母系氏族が生まれた。

 

 山頂洞人の時代、原始的な物々交換の関係は既に出現していて、山頂洞で発見された渤海沿岸で産する赤貝の殻、宣化一帯で産する赤鉄鉱や、黄河、淮河流域以南で産する分厚いカラス貝の殻は、当時北京地区の居民が既に遠方の地区との物々交換の関係が発生していたことを説明している。

 

 山頂洞人は獣の骨や角を原材料として生産工具、生活用具を作っていただけでなく、獣の牙、魚の骨、カラス貝の貝殻、鳥の骨管を使って、削ったり刻んだり、穴をあけたり、磨いたり、着色したりといった技術を応用し、大量の精巧な装飾品を作っていた。これらは原始時代の芸術の中では相当高度な出来栄えを示していた。山頂洞人の装飾品には、多くが赤色に塗られ、墓の中にも赤鉄鉱の粉末が撒かれていた。ひょっとすると、赤色は当時の人々が最も好んだ色で、彼らの原始的な宗教信仰と関係があるかもしれない。

 

 

第三節 北京の新石器時代

 

 今からおよそ1万年から45千年前の期間は、北京地区は新石器時代にあった。当時、人々は血縁を紐帯に、原始氏族社会を結成し、北京の周囲では、至る所に先住民たちの生活と争いの足跡を残していた。

北京地区石器時代遺跡、古墳分布略図

 門頭溝区東胡林村の西側で、今から約一万年前の人類の骸骨の化石が発見された。ここは、清水河がくねくねと東に流れ、永定河に注ぎ込み、川の両岸は山が幾重にも重なり、時折、山に依り水に面した低い黄土台地が広がり、先住民の遺骸は黄土台地上の墓に埋められていた。

門頭溝東胡林の位置

当時、先住民たちの体質の特徴は、既に現代人と基本的には同一であった。生産と生活が相対的に向上して後、先住民たちは、生産の余暇を利用し、装飾品を作って、自分を美化し飾り付ける生活を送っていたかもしれない。女性たちの首には、大きさの揃った小さな巻貝に穴をあけ、ひもでつないで作ったネックレスを掛け、腕には牛の肋骨の一部を磨いてつなげたブレスレットをつけていた。これらの装飾品が先ず女性たちに用いられたのは、当時女性たちが尊敬されていたことを意味し、女権性のひとつの現れである。

巻貝の貝殻のネックレスと牛の骨のブレスレット

門頭溝東胡林村出土

 山頂洞人の居住洞窟は墓も兼ねており、東胡林の先住民は彼らの遺骸を黄土台地の上に埋葬した。この変化は、当時の人々が、ひょっとすると既に祖先の世代が居住した岩の洞窟の住まいを放棄し、谷間の黄土台地で、新たな労働と生活の区域を切り開き始めたのかもしれない。

 

 その後、先住民たちは川の流れに沿って、谷間を出て平原に来た。川の両岸の台地上、或いは川の流れが合流するところで、土地が高くて平坦な場所を選び、原始集落を建設した。これらの場所は、水も草も豊富にあり、土壌は肥沃で、農作物を育てるにも、家畜を放牧するにも、陶器を製造するにも理想的な場所で、幅広い生活資源を備えていた。この時期の文化遺跡は、北京地区にきら星のように幅広く分布していて、その広がりは広範囲であった。海淀区中関村、朝陽区立水橋では細石器が発見されたことがある。昌平県馬坊、林場、密雲県燕落寨では仰韶時代(中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前2700年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた)の遺跡や遺物が発見された。昌平県燕丹、曹碾ではまた龍山時代(山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖1928年に城子崖遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる)の遺跡、遺物が発見された。昌平県雪山村の古代文化遺跡のモデル地区は、上は仰韶時代、中間は龍山時代を経て、下は商(殷)周時代までの基本的な手がかりを代表している。

(れき)3本の空洞の脚を持つ古代の蒸し器

簋(き):食物を入れる器。口が丸く両耳がつく

 雪山村遺跡は、先住民たちの豊かな文化遺産を保存し、仰韶時代に属する手製の赤陶の罐(つぼ)、赤陶の鉢、龍山時代に属する轆轤(ろくろ)製の黒陶の罐(つぼ)、黒陶の盆(鉢)、磨いて作った精緻な石斧が見つかった。これらは皆、農業集落特有の生活と生産の必需品である。北京西郊の西山、西南の房山、東南の通県、東に面した平谷、東北の懐柔、密雲、北に面した昌平、及び塞外にある延慶では、何れも新石器時代の石斧、石のスコップ、石鑿(のみ)、及び石の紡ぎ車などの文化的遺物が発見された。これらの新石器時代の遺物は、45千年前の北京の居民が既に原始的な狩猟民ではなく、彼らは既に農業生産に従事していたことを説明している。これら太古の時代の先住民たちは、氏族社会の集団の力を頼りに、原始的な木や石の工具を用い、樹木を伐採し、雑草を除去し、穀物の種を撒き、原始的な農業活動を行った。同時に、家畜を飼育し、それにより肉食と毛皮の消費が増加した。彼らはまた麻類の繊維を紡ぎ織って衣服とし、陶器を制作して生活用具とした。これら一切のことから、当時の北京地区の居民は既に歴史文明時代の入口まで歩んでいたことが説明されるのである。

 

红陶钵陶器製の鉢

黑陶盆鉢、たらい

 

第四節 伝説の中の幽都

 

 原始社会晩期の生産力の発展は、社会の分業と物の交換の発展を引き起こし、私有制の出現と発展を促進した。氏族の酋長と軍事の首領の権力が強化され、彼らは絶えず氏族社会の集団の利益を侵略、併呑し、頻発する部落間の戦争の中で、大量の財産を略奪した。こうした軍事の首領や酋長は、更に交通の便が良く、経済が発達した集落を自分の拠点にし、初期の都邑を建設し、またこれらの都邑を中心に、次第に部落の地域を拡大していき、部落の力を発展させ、弱小部落を征服し、部落間の連盟を結成した。伝説に言う黄帝の部落、九黎の部落、炎帝の部落の間の戦争は、黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝らが幽都やその他の都邑を建設し、こうした歴史上の状況を反映している可能性がある。

 

 中国の伝説時代に、ひとつの強大な氏族部落が中国北方で決起し、伝説に言う 黄帝が彼らの想像の中での祖先である。部落の中で各氏族は何れも動物の名をつけ、熊氏族、(ヒグマ)氏族、(ヒ。ヒョウや虎の類)氏族、(キュウ)氏族、(チュ。金猫)氏族、虎氏族などがあり、彼らはひとつの場所に定住せず、原始的な遊牧を行った。

 

 伝えられるところでは、 黄帝はあちこち兵隊を連れて宿営し、北へ南へと転戦した。彼が率いる部落は炎帝の部落と連盟し、北京以西の涿鹿(たくろく)で 九黎の部落を打ち負かし、その酋長、蚩尤(しゆう)を殺した。後に、炎帝の部落は同盟を解消し、他の部落を侵し辱め、盟主の地位を奪い取った。それで、黄帝の部落は炎帝の部落と阪泉の野で戦い、三度の大戦を経て、炎帝の部落を打ち負かした。その後、黄帝の部落は北に葷粥(くんいく)を追い、涿鹿に都邑を建設した。これは北京付近の都邑に関する最も古い伝説である。

 

 伝説では、黄帝の第三代の継承者、 顓頊(せんぎょく)は「幽陵」で祭祀を行ったという。「幽陵」は幽州であり、北京地区の最も古い名称である。伝えられるところでは、帝の時代、幽州に最初の都邑が建設され、「幽都」と称した。帝堯はまた和叔を派遣して幽都を管理させ、北方を統治した。帝の時、治水に失敗した共工氏をここに流した。

 

 これらの伝説は皆、原始社会の時代の北京と密接な関係がある。これらの伝説と考古学の発見を結びつけることにより、遠く34千年前には、北京地区は既に野蛮時代末期にあり、歴史的な文明時代は間近に来ていたことが証明できる。このことは、北京地区は全世界で最も早く文明の光が輝いた地域のひとつであることを語っている。

 

 

黄山は今の安徽省黄山市の南(歙県(きゅうけんshèxiàn)と太平県の間)に位置し、面積は約154平方キロメートル、有名な景勝地です。元の名を黟山(いざんyíshān)と言い、唐代の天宝年間以後、今の名前に改名されました。伝説によると、黄帝と仙人の容成子、浮丘公が一緒にここで丹薬を練ったことから、「黄山」と名付けられたと言われています。徐霞客は万暦四十四年(1616年)、白岳山登山の後、二月三日に湯口に入り、南から北に登山し、十一日に湯口より黄山を後にしました。

 

 

二月二日、白岳山より下山し、十里(5キロ。1里は0.5キロ、以下同じ)進み、山麓に沿って西に向かい、南渓橋に着いた。大渓を渡り、別の渓流に沿って山麓を北に向かった。十里行くと、ふたつの山が二枚の門のように、険しく切り立ち、接近しているのが見えた。渓流はそこでせき止められていた。ふたつの山を越えて下って行くと、眼の前に、平坦な田畑が広々と広がっていた。二十里進むと、猪坑である。小道から虎嶺に険しい道を登った。十里進み、虎嶺に着いた。五里の道を走破し、虎嶺の山麓を過ぎた。北の方を見ると、黄山の各峰が、石ころのように小さく見え、拾って取れるかのようだった。また三里行くと、古楼拗である。渓流は広くゆったり流れ、水かさが大いに増していて、しかも橋が架けられておらず、木切れが渓流を埋め尽くし、裸足で渓流を渡るのは危険で困難だった。二里行き、高橋で宿を取った。

 

三日、樵(きこり)に従って進み、長い時間歩き続け、峠をふたつ越えた。山道を下ってはまた登り、またひとつ峠を越えた。ふたつの峰がともに険しいので、双嶺と言う。全部で十五里歩き、江村(今の崗村)を過ぎた。また二十里進んで、湯口に到着した。ここは香渓、温泉それぞれの渓流が流れ出る所である。向きを変え、山に入り、渓流に沿って少しずつ山を登った。足先は雪の中に埋まってしまった。五里歩き、祥符寺(別名を「湯寺」と言い、宋の大中祥符六年(1013年)創建)に着いた。温泉(黄山温泉)は渓流を隔てて見える所にあった。

現在の黄山温泉

 

皆は服や靴を脱いで温泉につかり、身体を洗った。温泉池の前は渓流に臨み、後方は岩壁に寄り掛かり、三面には石が積み重ねられ、上には石の棒が丸く架け渡され、橋のようになっていた。温泉の水深は三尺(1メートル)あり、この時は冬でまだ寒い時期であったので、温泉のガスが盛んに出ていて、泡が池の底からブクブクと沸き起こり、その香りは元々たいへん清々しいものだった。黄貞父は、黄山の温泉は盤山(天津薊県の西北にある。主峰掛月峰は海抜864メートル)より劣る。というのも、湯口や焦村は交通の要衝で、温泉を使う人が多すぎて、騒々しくてゆったりできないからだと言った。入浴を終え、祥符寺に戻った。揮印和尚が私たちを連れ、蓮花庵に登り、渓流に沿って更に上まで足を踏み入れると、渓流の水は岩の間の暗渠で流れが止まっていた。この暗渠を丹井と言った。丹井の傍で石が突き出ていて、「薬臼」、「薬鍋」と言った。渓流に沿って回り道をして前に進むと、四方をそびえ立つ峰々に囲まれ、樹木と岩石が互いに引き立てあっていた。このような景観の中を一里歩くと、寺のお堂が現れた。ここの印我和尚は用事で外出されていて、私たちはお堂に入って休息することができなかった。お堂の中の香炉や鐘、太鼓の台座は皆、天然の古木の根に彫刻をして作ってあった。祥符寺に戻り、宿泊した。

 

四日、終日ひとり座って雪が滑り落ちる音を聞いていた。

 

五日、曇天で寒さがたいへんひどく、私は無理に寝床で布団を被って横になり、昼になってようやく起床した。揮印和尚はまた、慈光寺が近くにあると言い、弟子に私たちを案内して遊覧に行かせた。温泉池を通って、山の崖を仰ぎ見ると、崖の真ん中に危険な小道が架け渡されていて、小道の両端を勢いよく流れ落ちる湧水は真っ白な絹の布のようであった。私はここから山を登った。湧水はきらきら輝き、また霧となり、着衣の前後にまとわりついた。やがて向きを変えて右へ向かい、かやぶき屋根の寺院の庵が上下に見え、罄(けい。金属でできた打楽器)を鳴らす音や線香の煙が岩を越え広がっていた。ここが慈光寺であった。

現在の慈光寺(慈光閣)

 

慈光寺は旧名を硃砂庵と言った。僧が私に、「山頂はあちこちに静かな庵があるが、道が雪で閉ざされてもう二ヶ月になる。今朝、人を出して食糧を届けに行かせたが、山は大半が人の腰まで雪が積もっていて、通ることができず、戻って来た。」と言った。私は大いに興ざめし、広い道を二里下って下山し、宿の祥符寺に戻り、綿入れの上着を着て眠った。

 

六日、天気は快晴だった。ひとりの道案内を見つけ、めいめいが竹の杖を持って山を登り、慈光寺を過ぎた。

黄山遊覧図(赤丸で囲った所が徐霞客の訪問地)

 

左側から上に登ると、山の峰を岩壁がぐるりと囲み、峰と峰とが互いに接近し、その中を石段が積雪で覆われ平らになっていて、一目見ると白玉のようにすべすべした感じであった。まばらに植わった樹木は一面やわらかな雪で覆われ、その中を仰ぎ見ると、黄山の峰々が複雑に絡み合い、ただひとり天都峰だけが群峰の上に巍然(ぎぜん)とそそり立っていた。

天都峰

 

登り道を南里か歩くうちに、石段は益々険しくなり、積雪も益々深くなった。日陰の雪は凍って氷となり、硬くてつるつる滑り、足を踏み入れてしっかり立つのは容易でなかった。私ひとりが前進し、竹の杖で氷に穴を穿ち、開けた穴に前足を踏み入れ、さらに穴を穿ち、後ろ足を移動させた。同行者は私に従って、同じやり方で前に進んだ。平岡まで登ると、蓮華峰、雲門峰などの山が奇抜さや秀麗さを争い、天都峰のため護衛をしているかのようだった。

慈光寺から天門坎を経て光明頂を目指す

 

切り立って険しい峰であれ、高く険しい岩壁であれ、どれも奇妙な形をした松の木(「黄山松」という固有種)がぶら下がりぐるぐる巻きつき、背の高いものでも二丈(6メートル)を越えず、背の低いものはわずか数寸(1寸は3.3センチ)で、平たい頂上の松の幹や松葉はたいへん短く、複雑に絡み合い、枝や幹は虫のように湾曲し、太く短いものほど老いた松で、背の低い松ほど怪異に見え、はからずもこうした珍しい風景の山中に、かくも珍しい松の品種があるものと感心した。

黄山松

 

珍しい松と風変わりな岩石が互いに引き立てあう風景の中、一群の僧侶たちがあたかも天から降りて来るかのように、私たちに方にゆっくりと歩いて来た。皆、合掌して、こう言った。「雪のため山中に閉じ込められて三ヶ月になり、食糧を探してなんとかここまで来ました。皆さん方はどうして山を登って来られたのですか。」また、「私たちは前海の各庵の僧で、皆山を下りて来ました。后海の山道はまだ通じておらず、ただ蓮華洞の道だけが通行できます。」と言った。それから、天都峰の側面から登って、峰と峰の間の隙間を抜けて山を下り、東に向きを変えれば、蓮華洞に行く道であった。私はにわかに光明頂と石筍矼(せきじゅんこう)の景勝を遊覧したいと思い、蓮華峰に沿って北に向いて歩き、上り下りを何度も繰り返し、天門(天門坎。「坎」(かんkǎn)はくぼみや穴のこと)に到達した。

天門(天門坎)

 

天門の両側は刀で削ったような垂直に切り立った岩壁で挟まれ、中間の幅は肩と肩が触れ合ってやっと通れるほどしかなく、高さは数十丈(1丈は3.3メートル)あり、見上げると、気味が悪くて身の毛がよだった。天門の積雪は更に深く、氷に穴を穿って上に登り、ここを過ぎると平頂に至った。ここが人々の言うところの前海である。ここから更に一峰登ると、平天矼(「矼」gāngは尾根のこと。海抜1841メートルの光明頂をピークに、海抜1800メートルあまりの尾根が1キロにわたり続く)に着いた。

平天矼(赤い四角で囲った尾根)

光明頂(今は気象台の建物がある)

 

平天矼の上で際立って聳え立っているところが、光明頂である。平天矼から下って

行くと、いわゆる后海である。おおよそ平天矼の南面が前海で、北面が后海。最も高い場所で、四方はいずれも急峻な窪地になっていて、ただここだけが平地のようになっていた。前海の前方の天都、蓮華のふたつの峰が最も高く険しく、その南側は徽州府(黄山以南の安徽省南部、一部江西省を含む)の歙県に属し、その北側は寧国府(黄山以北の安徽省)の太平県に属する。

黄山は徽州府と寧国府の境に聳える

 

私は平天矼に着くと、光明頂に登りたいと思った。これまで山道を三十里歩いてきたので、たいへん空腹であった。それで平天矼の後方の庵に入った。庵では僧侶が石の上に南を向いて座っていた。庵の住持は智空と言う名であった。客が腹をすかした様子なのを見て、先ず粥を出してもてなしてくれた。更にこう言った。「今しがた顔を出した太陽は明るすぎるので、おそらく天気は長続きしないだろう。」そしてひとりの僧侶を指さして私に言った。「徐さん、もしまだ体力がおありなら、先に光明頂に登ってから昼食をとった方がよい。そうすれば今日中に石筍矼まで行くことができる。夜はこの僧のところに泊まるとよい。」私は智空和尚の言う通り、光明頂に登った。天都、蓮華の二峰が前方に肩を並べて聳え、翠微、三海門は後方をぐるりと取り囲んでいるのが目に入った。

天都峰(左)と蓮華峰(右)

 

下の方を見下ろすと、切り立った崖や険しい尾根が大きな山の窪みの中に並んでいた。そこは丞相原である。光明頂の前の巨大な石は、一段低く伏して後、また改めて聳え立ち、勢いが中断したかのようで、ただひとり孤独に山の窪地の中にぶら下がっていた。石の上には奇怪な松の木が根や枝を複雑に絡み合わせて覆いかぶさっていた。私は体を傾けて巨石の上に登って座り、潯陽xúnyáng(江西省九江)の大叔父(父親の叔父)は光明頂の頂上に私と向かい合って座り、各々景色の極めて優美なのを自慢し合った。

 

光明頂を下り、庵に入ると、黄粱飯(大粟を炊いた飯)がもう炊きあがっていた。食事を済ませて後、北に向かい、峠をひとつ越え、草木が生い茂った林の中を徘徊し、とある庵に入った。庵の名は獅子林といい、智空和尚が言っていた今晩の宿である。獅子林の住持は霞光といい、既に庵の前で私を待ってくれていた。彼は庵の北側のふたつの峰を指さして言った。「徐さん、先にここの景勝地の遊覧を済まされてはどうですか。」私は彼の勧めに従った。身をかがめて二つの山の峰の北側をのぞき見ると、山の峰が数多くあり、また峰が並んで一緒に聳え立ち、その容姿を互いに争い、たいへん珍しい景観であった。ふたつの峰に沿って西に向かうと、崖が突然途切れ、木の橋を架け渡して、両側に行き来できるようになっていた。上には一本の松の木があり、つかまりながら木橋を渡ることから、接引崖(「接引」とは仏教用語で「教え導く」こと。渡仙橋、接引橋とも呼ばれ、始信峰と臥雲峰の間に架け渡されている)と呼ばれていた。

接引崖(臥雲峰)

 

接引崖を過ぎ、岩の隙間を通って上に登った。雑多な石がつなぎ合わさったところはたいへん危険なので、木材を石の梁に架け渡してあり、通行が可能であった。けれども、岩の上に座って、下を覗き見れば、景観はより壮麗であった。接引崖を下って、小道に沿って東へ一里あまり行くと、石筍矼であった。

石筍矼

 

石筍矼の尾根は傾斜して続いており、両側に挟まれた岩壁が山あいに架かり、大小様々な峰が雑多に並び、その西側の面は接引崖で覗き見た場所であった。石筍矼の側面は峰がひとつ飛び出し、上には多くの形の面白い石や松があった。峰のてっぺんに登り、谷間を俯瞰すると、ちょうど接引崖と向かい合い、山を巡って見る位置を変えると、前方の景色も変化していった。

 

山頂より下りると、夕陽が松の木を取り囲んでいるのが見え、明日の天気は晴れるに違いないと思われ、思わず飛び上がって喜んで獅子林庵に戻った。霞光和尚はお茶を出してくれ、私を前楼(表の建物)に案内した。西を眺めると、空の端にひとすじの青緑色の影が見えた。私は山の影かと思った。霞光和尚は、「山影は夜は近くに見えます。これは雲に違いない」と言った。私はこれが雨が降る兆しと知り、言葉を失った。

 

七日、四方の山は皆、霧で覆われてしまっていた。しばらくして、庵の東北側の霧が晴れたが、西南方向は相変わらず濃い霧の中で、仮に庵を境界とすると、近くにある獅子峰も霧の中から時々顔を出したり消えたりする状態だった。朝食後、接引崖から積雪を踏みしめて山を下った。山あいの中腹のところに峰がひとつ突き出し、峰の上には松の木が石の割れ目から抜け出して生え、その太い幹は高さが二尺(60センチ)にも達せず、斜面に沿って伸び、曲がってとぐろを巻き、緑の葉の茂った枝は曲がってぐるりと巡って三丈(10メートル)あまりの長さがあり、根は上に下に石や岩を貫き、その長さはほぼ山の峰の高さにも相当した。これがいわゆる「擾龍松」である。

擾龍松

 

山の中をしばらくあちこち見ていると、獅子峰が姿を現してきた。

獅子峰

 

それで杖をついて西に向かった。この山は獅子林庵の西南の方向にあり、案山と呼ばれていた。案山の頂に登ると、三面が垂直に切り立って山あいに聳え、山の下には様々な形の尾根や数多くの峰があり、石筍矼、接引崖の二ヶ所の山あいから曲がりくねって連綿とここまで続き、ぐるりと巡ったり巻き付いたりして、またひとつ景勝を形成していた。高みに登って遠くを眺めているうちに、濃霧は次第に消えて爽やかに晴れ渡ってきたので、急いで石筍矼の北側から転じて山を下ると、ちょうど昨日、峰の頂から見えた薄暗い道である。群峰は高いものも低いものもあり、巨大なもの細く小さいもの、直立し険しく高いもの、傾斜したものがあり、その中をしばしば体を差し入れたり、回り道したりして進んだ。見上げたり見下ろしたり覗き見たりし、次々場所を移しつつ振り返ると、一歩歩くごとに新たな感動が生まれて来た。とはいえ、渓谷は深く、厚い積雪に覆われ、一歩歩く毎に新たな恐怖が生まれて来た。

 

五里進むと、左側の山の峰の脇に穴が開いていてそこから日の光がさしていた。ここを「天窓」と言った。さらに前に進むと、山の峰の傍らの石が突き出て、人の顔のような形状になっていた。これが「僧座石」である。山の下に五里進むと、道はやや平坦になり、渓流に沿って前進した。突然前方の渓流の中に大小様々な石が勝手気ままにころがり、道はそのため塞がれていた。地面の石を乗り越えてしばらく行くと、新たに崩れたばかりの崖の裂け目が見え、岩壁のひとつひとつが今にも落ちてきそうで、そこで改めて進むべき道を見つけた。峰の頂上を見上げると、一方に黄色い痕跡があり、中間に緑色の文字がさながら判別できるかのようであった。これが「天牌」で、「仙人榜」とも呼ばれる。

仙人榜

 

さらに進むと、「鯉魚石」(コイ石)に着いた。

鯉魚石(コイ石)

 

さらに行くと、白龍池である。合計十五里の道を歩き、茅葺の小屋が渓流のほとりに現れた。これは松谷庵の旧跡である。さらに五里進み、渓流に沿って東西の方向に歩き、更に渓流を五本越えると、松谷庵に着いた。

松谷庵

 

更に渓流に沿って下ると、渓流のほとりから良い香りが漂ってきた。これは、一本のしなやかな梅の木がちょうど花を咲かせたもので、渓谷は厳しい寒さで到るところ雪に覆われているが、ここまで来ると、ようやく花のかぐわしい香りがし始めていた。青龍潭に着いた。ここはエメラルドグリーンの深い淵になっていて、二本の渓流が合流し、白龍潭に比べ、水の勢いは雄壮で、大きな石が聳え立ち、勢いよく流れる渓流の水がこの池に注ぎ込み、遠くや近くの峰々に取り囲まれ、ここも美しい景観を形成していた。松谷庵に戻り夕飯を食べ、松谷庵旧跡の茅葺小屋に宿泊した。私は最初に松谷庵に着いた時、ここはもう平地だと思ったが、ここの人に聞いてみると、まだ峠をふたつ越え、山道を二十里歩いてようやく平地を捜すことができ、太平県まではまだ三十五里の道のりがあるとのことであった。

 

八日、石筍矼の神秘の場所を探しに行こうと思っていたが、図らずもなんと神様にその機会を奪われてしまった。濃霧が山野一面に広がり、獅子林に着いた時は、風が更に強くなり、霧も益々濃くなった。私はにわかに煉丹台に早く行きたくなり、それで体を西南の方向に転じた。三里歩いたが、濃霧で道を見失い、偶然一軒の庵を見つけたので、その中に入った。大雨が降りだしたので、ここに宿泊せざるを得なかった。

 

九日、お昼過ぎに、天気はやや回復してきた。庵の住持は慈明と言い、庵の西南一帯の山や洞穴は石筍矼に負けず劣らず険しく珍しい景色で、「禿顱朝天」、「達摩面壁」などの景勝は遊覧する値打ちがあると褒め称えた。私は潯陽の大叔父を助けながら川を越え渓谷に到り、北に行けば翠微峰などの峰で、南に行けば煉丹台などの山あいで、景色はおおよそ獅子峰と肩を並べるほどだが、石筍矼ほどではなかった。雨が休まず降りだしたので、私たちは急いで庵に帰った。

 

十日朝から大雨が降り注いだが、お昼にはしばし降りやんだ。杖をついて二里の道を歩き、飛来峰を通過した。ここは平天矼の西北側の尾根である。飛来峰の南側の山あいには、山の峰の岩壁がそそり立ち、ちょうど煉丹台と互いに輪のようにぐるりと巡っていた。二里行くと、煉丹台に着いた。

煉丹台。後ろは光明頂

 

西向きに垂れ下がった峰の頂上は平坦になっていて、三方は青々とした樹木で覆われた岩壁が重なり合い、前方には小さな峰が山あいに突き出ていて、山あいの向こう側には翠微峰、三海門が人の足や足首のように取り囲んで聳え立っていた。峰の頂上に登り、四方をしばらく眺めていた。東南に向け一里行くと、平天矼から巡って下ることになる。雨がひどくなってきたので、急いで天門に下った。両側は狭い隘路になっていて、肩幅の隙間しかなく、崖の頂上から湧水が頭の上から降り注いできた。天門を出ると、高く聳える岩壁がぶらさがって折り重なり、道は崖に沿って山の中腹に延びており、后海一帯の厳めしい山の峰、切り立った岩壁と比べると、また別の雰囲気の景色に変化した。「海螺石」(ほら貝石)は岩壁の傍らにあり、巻いた形態が本当にほら貝のようであった。

海螺石

 

来た時は見落としていて、詳しく観察する暇が無かったものが、今は雨の中を歩いていて、却ってその珍しいところがよく理解できた。これは、他の人に尋ねてみて分かったことだ。その後、大悲庵に行き、大悲庵の傍からまた別の庵に行き、悟空上人の所に一泊した。

 

十一日、百歩雲梯を登った。百歩雲梯の石段はたいへん急で、あたかもまっすぐ青い空に挿入するようだった。

百歩雲梯

 

石段を登る時は、足の指がほとんど顔に触れるほどであり、石段の傾斜や中間の隙間がたいへん大きく、高く突き出ていて、動こうとしているかのようだった。先だって山を下ってきた時は積雪のためその険しさが覆い隠されていたが、今になってそれがはっきり見え、思わず身の毛がよだち、恐ろしくなった。百歩雲梯を登り終え、そのまま蓮花峰へ向かう道を登った。また下に向きを変え、蓮花峰の側面から前へ進むと、文殊院、蓮花洞へ通じる道であった。雨がずっと止まないので下山し、温泉の施設に入り、再び沐浴した。湯口を出て道を二十里行くと芳村に着き、さらに十五里行くと東潭に着いた。渓流は水かさが急に増して渡ることができず、ここで行程を止めた。黄山を流れる渓流は、松谷渓、焦村渓は何れも北に向いて太平県に流れている。たとえ南に向け流れる湯口渓も、北に向きを変え、太平県に流れて後、更に長江へ流れてゆく。ただ湯口の西側に一本の渓流があり、芳村まで行くと大きな河川となり、南に流れ岩鎮へ行き、徽州府(今の安徽省歙県(きゅうけん))の西北で績渓と合流する。

白岳山(斉雲山)

 

白岳山は安徽省休寧県城の西にあり、今は斉雲山と呼ばれます。道教の四大名山のひとつで、山上には碑文や摩崖石刻が数多く残されています。万暦四十四年(すなわち丙辰の年、1616年)1月、徐霞客は安徽省に入り、先ず白岳山、次いで黄山を旅行しました。白岳遊覧は1月26日から2月1日の間ですが、大雪と悪天候で、宿に止まる時間が長く、天気が回復したわずかな時間に、あわただしく景勝地を巡っています。

 

 

丙辰の年(1616年)、私は潯陽xúnyáng(江西省九江)の大叔父(父親の叔父)といっしょに、一月二十六日、徽州府休寧県に到着した。県城の西門から出発した。

休寧県より白岳山(斉雲山)を目指す

 

そこを流れる渓流は、祁門県qíménxiànから流れて来て、白岳山を通って、県城に沿って南に向け流れ、梅口に至って郡渓水と合流し、浙渓水(今の率水で、新安江の上流)に流れ込んでいた。渓流に沿って上って行き、二十里(10キロ。1里は0.5キロ、以下同じ)歩き、南渡(今は蘭渡と言い、休寧県のやや西にある)に着いた。(横江に架かる)橋(登封橋)を渡り、山の麓に沿って十里行き、岩下(今は岩前、岩脚と言い、休寧県の西の端である。横江の南岸。)に着くともう夕方であった。

横江に架かる登封橋を渡ると白岳山の麓の岩下(岩前鎮)に着く

 

山を登り五里行き、廟の中の提灯を借用し、降りしきる雪の中、雪や氷を踏みしめ、二里の道を歩き、天門を過ぎ、更に一里あまり歩き、榔梅庵(現在、跡地に榔梅苑というホテルが建つ。月華街にある。月華街は海抜585メートルの絶壁の上にあり、「天街」、「月華天街」とも呼ばれる。)に着いた。

月華街

 

斉雲山遊覧図(上が南)

 

道は途中、天門、珠簾の景勝地を通るが、それらを眺める暇も無かった。ただ、樹々の間を氷雪が下に落ちるカンカンという澄んだ音が聞こえた。榔梅庵に着いて後、雹がずいぶん降ってきたが、潯陽の大叔父と召使たちはまだ後方にいて、到着していなかった。私はひとり山小屋のベッドに横になった。一晩中、軒から水が垂れる音が聞こえ、眠ることができなかった。

 

二十七日の朝、起床すると、山中が雪や氷に覆われ、天地は一面白銀の世界であった。建物の中で座っていると、ちょうど潯陽の大叔父と召使たちが到着した。それで、一同はいっしょに太素宮(南宋の宝慶2年(1226年)創建の道教寺院。元の名を真武祠と言い、明代により名前を玄天太素宮と改めた)に登った。

太素宮

 

太素宮は北向きに建っており、伝説ではこの中にある玄帝(中国神話の北方の神で、道教では真武大帝と言う)の塑像は、百鳥が泥を口にくわえて来てできたものだと言われており、顔は黄みがかった黒色をしていた。塑像は宋代に完成し、大殿は嘉靖三十七年(1558年)に新たに建立されたもので、庭に碑文があり、明の世宗皇帝が自ら建てさせたと書かれていた。左右両側には、王霊官、趙公元帥を祭った殿宇が建ち、何れも雄大で壮麗であった。太素宮の後ろには、玉屏に背をもたれるように斉雲岩があり、前方は香炉峰に臨んでいた。

香炉峰

 

香炉峰(海抜945メートル)は数十丈(30メートル余り)の高さ突き出ていて、鐘を伏せたような形をしており、天台山や雁宕山へ行ったことの無い人が見ると、たいへん珍しく感じるだろう。廟を出て左に行くと捨身崖に至り、向きを変えて上に登ると紫玉屏、更に西側は紫霄崖で、何れも高く聳え、先端が突き出ていた。

紫霄崖

 

更に西には三姑峰、五老峰、文昌閣がその前方に立っていた。五老峰は五人の老人が肩を並べて立っているようで、決して険しくはないが、筆立てのようであった。

五老峰

 

榔梅庵に戻り、昨夜歩いた道に沿って、天梯まで下りた。すると、三方が崖で囲まれ、上は岩で覆われ、下は崖の中にはめ込まれ、まるで回廊のようになっていた。

真仙洞府

 

崖に沿って前に進むと、泉の水が崖の外側に飛び散り、珠簾水の景勝地であった。崖の奥深くにはめ込まれているのが羅漢洞(真仙洞とも言う)で、洞窟の外は広く開けているが、中は天井が低くなっていて、奥行きが十五里あり、東南方向に南渡に通じていた。

羅漢洞(真仙洞)

 

崖の尽きるところが天門(一天門。形が象の鼻に似ているので、象鼻岩とも言う)である。崖の中間は空洞になっていて、人はその中を出入りすると、広々として爽快で、反り返った軒先が高く聳えているようで、正に神話の中の天門にいるかのように感じられた。

一天門

 

天門の外には、りっぱな楠木が聳え立ち、松の木がとぐろを巻き、緑の葉が生い茂っていた。天門の崖の一帯は、珠簾水の水が勢いよく飛散し、第一の景勝地であった。榔梅庵に戻って休息し、五井、橋崖の景勝地のことを尋ねると、汪伯化道士が私たちを明日朝案内してくれることになった。

 

二十八日、眠っていると、誰かが外は大雪だと言うのが聞こえ、召使を起こして見に行かせたところ、山も谷も一面雪で埋まっているとのことだった。気になったが、私は無理やり横になった。朝、巳の刻(午前9時から11時の間)に、汪伯化道士と一緒に靴を履いて二里歩き、再び文昌閣に着いた。あたり一面銀世界で、五井の景勝の遊覧はできなくなったが、より一層すばらしい景色を鑑賞することができた。

 

二十九日、召使たちが、「雲はもう消え去り、陽の光が林の木々を照らしています。」と報告してくれた。私は急いで服を着て起床した。空は一面の青空だった。この半月というもの、こんな良い天気を見たことが無かった。けれども寒さはたいへん厳しかった。汪伯化道士を急かして一緒に食事をとった。食事の終わる頃には、大雪がまた降ってきて、新雪が一尺以上の厚みで積もった。たまたま建物の前まで来た時、香炉峰がちょうど前方にそびえ立っているのが見えた。建物の後ろから程振華という道士がやって来て、私に九井、橋岩、傅岩それぞれの景勝の状況を説明してくれた。

 

三十日、雪は一層ひどくなり、また濃霧が一面に広がり、近い距離でも方向を判別することができなかった。汪伯化道士は酒を手に提げて捨身崖に行き、娣元閣で一緒に雪見酒を酌み交わした。娣元閣は崖の側面にあり、氷柱(つらら)が一本崖の上から垂れ下がり、長さはなんと一丈(3.3メートル)に達した。山並みの影も雪と濃霧の中に消えてしまい、香炉峰のように近いところにあっても、その影を見ることはできなかった。

 

二月一日、東の方でひとすじの雲が消え、空は大いに晴れてきた。潯陽の大叔父は足にあかぎれができて、歩くことができず、榔梅庵に留まり休むことになった。私は急いで汪伯化道士と西天門(紫雲関のこと)を通って山を下った。

紫雲関

十里歩き、双渓街を抜けると、山は開けてきた。更に五里進むと、山は再び次第に空を塞ぎ、渓流があたりを巡り、岩が渓流に映り、旅先での愉快な気持が倍増した。三里の道を歩き終わり、渓谷の入口から小道に入り、山をひとつ越えた。二里進み、石橋岩に着いた。

石橋岩

 

石橋岩の側面の外岩は、白岳山の紫霄岩のように高く険しく延々と続いていた。外岩の下には岩石を利用してお堂にしていた。岩の色は紫で、ただ一匹のうねうねした青色の石の龍が中にいて、龍の頭は垂れて突き出ること一尺あまりの高さで、水が龍の口から下に流れ落ち、龍涎泉と呼ばれ、雁宕山の龍鼻水のようであった。外岩の右側は、ひとつの山が横跨ぎに越えていて、山の中間は空洞になっていて、これが石橋である。石橋は虹のように空中に掛かり、下の空間はちょうど半月のようであった。石橋の下に座ると、山を隔ててもうひとつの山が突き出て聳え立ち、石橋を取り囲んでいて、周りをたくさんの峰に囲まれていた。風景が斉雲山の天門より優れているのは、天台山の石梁で、巨石がふたつの山の間に架かっているだけだった。それに比べ、ここではひとつの山が両側に高く架かり、中間は半分が中空になっていて、より一層巧みで変わっていた。石橋を通り、一里あまり行くと内岩である。内岩の上では泉が噴き出ていて、中では僧侶が精進飯を提供してくれ、本当にすばらしいところだった。

 

外岩に戻って食事をし、道案内を捜し、崖に沿って左側に下山した。灌木や草むらの中、ふたつの山の間に一本の渓流がはさまり、道は歩きにくく、加えて大雪が一面に降り積もり、前に進むのはたいへん困難だった。案内人は私に傅岩に行くべきで、観音岩には行く必要ないと勧めた。私は棋盤と龍井の景勝地をどちらも見られなくなるのが心配だった。それは許されない。二里進み、渓流の中に深い淵があるのを見つけた。水は青緑色で、深く底なし沼のようで、「龍井」のようであった。また三里行き、崖と渓流とが尽きると、滝が突然山間の窪地から数丈の高さで流れ落ち、これも珍しい景色だった。道を転じて上に登り、山の尾根を二里進むと、棋盤石が山頂に高く聳えているのが見えた。形は手で掲げ盛ったキノコのようで、大きさは何人もの人で抱えるほどあった。棋盤石に登ると、上を覆った積雪が真っ白な玉のようであった。振り返って傅岩を見ると、高く雲の際まで聳えていた。傅岩から棋盤石までの距離はたいへん近く、道案内の勧めに従わなかったことを後悔した。棋盤石の傍には文殊庵があり、庵の中の青竹は青緑色で、山の石は美しく、互いに照り映えていた。向きを東に変え、さらに南を向いて二里進み、峠をふたつ越えて、山の中腹に観音岩が見えた。観音岩禅院は清らかできれいに整っていたが、格別珍しい景色ではなかった。とりわけ後悔したのは、傅岩は見ることができたが、傅岩を遊覧する機会を失ってしまったことである。引き続き峠を越えて東に向いて深い穴に下りて行った。渓谷の四方は崖で囲まれ、時折深い淀みが現れ、大きなものは淵、小さなものは木の臼のようで、皆「龍井」と言うが、どれが「五龍井」でどれが「九龍井」か、見分けがつかなかった。更に前に、都合三里進むと、岩の中に石紋がかすかに見られた。案内人がその中の一ヶ所は「青龍」、また別の一ヶ所を指して「白龍」と言ったので、私は微笑んで頷いた。またでこぼこの崖の中間に石が岩壁にはめ込まれ、つり下がって空中に垂れさがり、水が下に流れ落ち、外から見ると横向きの石が跨いでいて、天台山の石梁にたいへんよく似ていた。汪伯化道士は夕暮れが近いので、私にはやく谷に沿って大龍井を尋ねるよう求めた。思いがけなく、黄山から戻って来た僧侶に出逢ったので、道を尋ねると、「ここを出ると大渓だが、まだ他にどんな景色を見ようというのかね。」と言われた。それで遂に引き返した。

 

一里あまり歩いて、また別の小道から漆樹園に向け進んだ。切り立った岩がそびえ立つ中、夕陽が深く茂った木々を照らし、たいへん静かで美しかった。三里の道を歩き終え、漆樹園の山頂へ山道を登った。私は実はこの山の高さは斉雲山と同じくらいだと思っていたが、仔細に見てみると、文昌閣の方がより高く聳えているのが分かった。五老峰はちょうど文昌閣と相対して聳えており、その東側は独聳寨で、独聳寨の山あいに沿って出たところが、西天門と呼ばれていた。五老峰の西側が展旗峰で、展旗峰から下って渓流を渡ったところが、芙蓉橋と呼ばれていた。私はこれまで、西天門から出てきたが、今度は芙蓉橋から入ることになる。三姑岩の傍らを見ると、夕陽の輝きがまだ残っているので、先ず上に登って、西に沈む夕陽が五老峰の間をゆっくりと下に沈んでいくのを見た。榔梅庵に戻ると、もう夕食の時間であった。今日一日の行程を話していて、大龍井はちょうど大渓の入口であったことが分かった。足跡はそこまで至ったことであるし、僧侶に止められて遊覧できなかったのも、また運命だと思った。

 

 

雁宕山yàndàngshānは雁蕩山(発音は同じ)のことで、浙江省温州市楽清市東北に位置しています。約1億年前に火山活動によって誕生した山塊が、長い年月をかけて侵食され、奇妙な岩峰となって残ったものです。山頂に湖(また「蕩」と言う。「蕩」は浅い湖のこと)があり、昔は湖が年中涸れることがなく、春に雁が北に帰る時、多くこの地に宿ったので、「雁蕩山」と呼ばれるようになりました。徐霞客は明の万暦41年(1613年)、天台山に続き、4月9日から15日までの間、雁宕山を巡りました。同行奢は天台山と同じく、江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。文章では、苦労して登攀する過程と、途中で見た特異な風景を記述し、歩くにつれ景観が変化する、雁宕山諸峰と龍湫瀑布の姿が生き生きと描かれています。最後に、作者は、山の頂上に登り、雁湖を探したいと願いますが、道が険しく危険で、結局雁湖まで行きつくことができませんでした。

 

 

四月九日、台山(天台山)を離れ、黄岩(今の台州市黄岩区)に着いた。日は既に西に傾き、南門を出て三十里歩き、八嶴ào(浙江、福建の沿海部での山間の平地の呼称)に宿泊した。

天台山と雁蕩山の位置関係

 

十一日、二十里行き、盤山嶺(浙江省楽清市山門郷)に登る。雁宕山の諸峰を望むと、芙蓉の木が天を衝いて聳えていた。一片一片の花びらのような景色が見る者の目に飛び込んできた。また二十里行き、食事を大荊驛(驛站。昔の宿場。楽清市東北で、黄岩との境界)で取った。

行程:大荊→接客僧→東石梁洞→霊峰寺→霊岩寺

 

南に一本の渓流を渡ると、西側の山の峰に丸い石が一個あるのが際立ち、召使たちは二頭の駱駝岩だと言い、私は老僧岩ではないかと疑ったが、どうもそれらしくはなかった。五里行き、章家楼(大荊驛の南、明の人、章巘が建てた)を過ぎ、初めて老僧岩(接客僧)の本当の姿が現れた。

老僧岩

 

袈裟を着て、頭のてっぺんが禿げあがり、本当に人のような姿で直立していた。高さはおよそ百尺(30メートル)。傍らには一人の子供が腰を曲げ背中を曲げて後ろをついて来るかのような石像があったが、通常は老僧によって覆い隠されてしまっていた。章家楼を出て二里行くと、山の中腹に石梁洞(東石梁洞)があった。

石梁洞

 

洞窟の入口は東に向いており、洞窟の入口に石梁(石橋)があり、洞窟のてっぺんから斜めに地面まで挿し渡され、空の虹が垂れ下がっているかのようだった。石梁の側面の隙間から一層一層と階段を上がると、上面は高く広々としていた。座ってしばらく休憩してから、下に降りて出発した。右側の山麓から謝公嶺(楽清県東北。晋の詩人、謝霊運が曾てこの地を遊覧したことから名付けられた)を越え、一本の渓流を渡り、渓流に沿って西へ向かった。これは霊峰(高さ270メートルほど。右側の倚天峰と合わせると手のひらのように見えることから、「合掌峰」、「夫妻峰」と呼ばれる)へ向かう道であった。山の中腹を回るやいなや、両側の岩壁が切り立って直立し、天まで届くほどで、険しい峰が何重にも重なり合い、その姿かたちは様々であった。あるものは刀で削られたように直立し、あるものは峰の群れに取り囲まれたようであり、あるものはタケノコが並んだよう、あるものはまっすぐ伸びた霊芝のようであり、あるものは筆のように直立し、あるものは頭に被る頭巾のように斜めに傾いていた。洞窟の入口は巻かれたとばりのようになっており、池の淵は清く澄んだ藍のような青色だった。双鸞峰、五老峰が翼を接するように並んでいた。このように数里進み、霊峰寺に着いた。

霊峰

霊峰寺

 

寺の横の山道に沿って、霊峰洞に登った。霊峰の真ん中は中空になっていて、特異な感じで寺の後ろに聳えており、側面には隙間があって、中に入ることができた。隙間のところから数十段の石段を登ると、洞窟の上に直接到達できた。

霊峰洞

 

その一番奥の平らな台の周りは広くなっていて、そこには十八羅漢などの塑像が置かれていた。台に座ってあたりの景観を眺め、日が暮れて暗くなってから霊峰寺に戻った。

 

十二日、 食後、霊峰の右側の山すそから碧霄洞を探しに行った。もと来た道を引き返し、謝公嶺の麓に着いた。南側から響岩を経て五里進むと、浄名寺(北宋の太平興国二年(977年)建立)への分かれ道だった。更に進んで水廉谷を探した。水廉谷は、両側の崖が迫り、崖のてっぺんから水が流れ落ちる所だった。水廉谷を出て五里行くと、霊岩寺(北宋の太平興国年間建立)に着いた。

霊岩寺

 

ここでは四方が絶壁に取り囲まれ、切り立った崖が天を衝くように聳え、曲がりくねった小道が中に通じ、まるで別の広い世界が開かれたかのようであった。霊岩寺はその真ん中に位置し、南に向き、背後は屏霞嶂píngxiázhàng(「嶂」は屏風のように切り立った山)であった。

屏霞嶂

 

屏霞嶂の頂上は平らで整っており、岩石は紫色を呈し、高さは数百丈(300メートルあまり)あり、幅と高さはつり合いが取れていた。屏霞嶂の最も南のところには、左側に展旗峰、右側に天柱峰があった。

霊岩寺付近

展旗峰

天柱峰

 

屏霞嶂の右脇に、天柱峰を介して、先ず最初に見ることができるのは龍鼻水(龍鼻洞)である。

龍鼻水(龍鼻洞)

 

龍鼻水の洞穴は、岩の隙間からまっすぐ上を向いていて、霊峰洞のようであったが、大きさはやや小さかった。洞穴内の岩石の色は黄みがかった紫色で、ただひとつある隙間にはひとすじの石紋があり、赤みがかった青色でしっとり湿っていて、龍の鱗や爪のような形をしていた。洞窟の頂上から洞窟の底までつながっていて、落ち込んだ一方の端は人間の鼻のようで、鼻の先端の石の穴は手の指を入れることができ、水は石の穴から下に垂れ、石の盆に注ぐようになっていた。これが屏霞嶂右側の第一の奇景である。屏霞嶂の西南には独秀峰があり、天柱峰より小さいが、高さと岩の鋭利さは遜色なかった。

独秀峰

 

独秀峰の下は卓筆峰で、高さは独秀峰の半分、岩石の鋭利さはどちらもほぼ同じである。

卓筆峰

 

南側の山間の平地には、滝が轟音を響かせ流れ落ちていた。これが小龍湫瀑布(落差70メートル)である。

小龍湫瀑布

 

小龍湫瀑布を隔てて独秀峰と相対しているのが玉女峰である。玉女峰の頂上にはあでやかで美しい春の花が満開に咲き誇り、玉女のもとどりに挿した装飾のようであった。

玉女峰

 

ここから双鸞峰を経て、天柱峰が一番端に位置していた。双鸞峰はふたつの峰が並んで聳えているだけだった。峰の端にが「僧拜石」があり、袈裟を纏い、背中が曲がっている様子で、年老いた僧侶のようであった。屏霞嶂の左脇から、展旗峰を介して中間の場所は、一番前が安禅谷で、安禅谷はすなわち屏霞嶂の下の岩である。南東の面は石の屏風で、形状は屏霞嶂に似ているが、高さ、幅はそれぞれ屏霞嶂の半分で、ちょうど屏霞嶂の端に挟み込まれている。石の屏風のてっぺんには「蟾蜍石」(ヒキガエル石)があり、屏霞嶂側面の「玉亀石」と相対している。石の屏風から南に行くと、展旗峰側面のしわの中に、細い道がまっすぐ峰のてっぺんまで通じていて、石段の終点は、石の敷居で隔てられている。体を石の敷居でかがめて覗き見ると、下は地面が見えず、頭の上には高い天空がはめ込まれている。展旗峰の外にはふたつの丸い穴が開いていて、側面には長い穴がひとつあり、光が穴から中に差し込み、格別の境地である。これが「天聡洞」で、屏霞嶂の左側の第一の奇景である。

天聡洞

 

尖った峰と高い山が重なり合い、左右がめぐって相対し、奇異で緻密な景観が次々現れて尽きず、本当に天下の奇観に恥じないものである。一方、小龍湫瀑布の水は下に流れ、流れは天柱峰、展旗峰を経て、石橋が渓流の上に横たわり、霊岩寺の山門は石橋に面している。石橋の外側は、含珠岩が天柱峰の麓にあり、頂珠峰は展旗峰の上にある。これもまた霊岩寺の外観である。

 

十三日、霊岩寺の山門から出発し、山麓に沿って右に進む。道は崖だけが見え、岩壁は高さがまちまちである。流れる霞と山間の色彩が互いに照り映えていた。高く険しく、頂上が平たく横に延びているのが、板嶂岩である。板嶂岩の下に聳える、尖って狭いのが、小剪刀峰である。更に前へ進み、折り重なった岩の上に、まっすぐしっかりした峰がまっすぐ雲天に刺さっているのが観音岩である。

観音岩

 

観音岩の側面には馬鞍嶺が前方に横たわっていた。険しい山道が曲がりくねり、山間の窪地を越えて右に曲がり、渓流は力強く流れ、谷川の川底の石は細かい砥石のように平らであった。山間の渓流に沿って進み、霊岩寺をおよそ10里あまり離れ、常雲峰を経て、大剪刀峰が渓流の傍らに単独で聳えているのが見えた。大剪刀峰の北面には重なった岩が突然聳え立っていた。これは連雲峰と呼ばれている。ここから、山は輪を描き水は巡り、峰は向きを変え岩壁は合わさり、遂には崖が尽きた。大龍湫瀑布(落差197メートル)の水は、轟きながら流れ落ち、まっすぐ池の淵を打った。

大龍湫瀑布

 

岩が開けてそそり立ち、流れ落ちる水は川床で受け止められることなく、空中に舞い上がり、空を漂い、下に落ち、しばし見る者はめまいをおぼえ、恐れおののいた。池の淵の上方には寺の廟が建てられ、伝え聞くところでは、諾詎那羅漢(伝説では、唐代、眉州(今の四川省)の人で、羅堯運と呼ばれ、最初、雁蕩山に入り、大龍湫で滝を見て、悟りを開き、仙人になったと言われる)が滝を眺めたところだと言う。廟堂の後ろから石段に沿ってまっすぐ登ると、岩壁の上に高殿(亭榭)が鳥が羽を広げたように鎮座していた。滝の方を向いて胡坐をかき、しばらく眺めてから、山を下り、庵に戻って食事をした。しとしと降る雨は降りやまず、一方私の心は早くも雁湖の山頂に飛んでいた。雨の中、常雲峰に至り、常雲峰の中腹の道松洞の外から、たいへん険しい石段を三里あまり登り、急ぎ白雲庵に赴いた。人はおらず、庵は既に崩れ、一人の僧が草むらにいたが、客が来たのを見て、ちょっと眺めるとどこかへ行ってしまった。更に一里進むと、雲静庵があり、それでここに投宿した。清隠和尚はもう病で伏して十年になるが、なお客と談笑することができた。私は周囲の山が黒い雲ですっぽり覆われ、細かい雨が止まないのを見て、もの寂しいやら寒いやらで、明日朝の旅程を心配せざるを得なかった。

 

十四日、天気が思いがけず晴れてきたので、清隠和尚に無理を言ってお願いし、和尚の弟子に道案内をしてもらった。清隠和尚は、雁湖は一面雑草が生い茂り、荒れ果てた土地になってしまっていて、そこに行っても、他に見るべき所は無いが、私たちを峰の頂上までは送ってあげると言ってくれた。私は、峰の頂上に着きさえすれば、雁湖を遊覧できると思った。それで、各自が手に杖を持ち、深い雑草の生い茂る道を登り、一歩行く度に息を切らして数里の道を進み、ようやく高い峰の頂上に到達した。四方を一望すると、白雲が一面に広がり、白色が山の峰の下に平たく敷かれていた。ひとつひとつの峰は雲海に咲く花のようで、峰のてっぺんだけが露出し、太陽の光が峰の頂の上を照らした。この景観はまるで氷を盛った玉の壺のようで、けがれの無い真っ白な玉の台は神仙の世界のようで、どこに雲海があり、どこに山や川、陸地があるか、見分けることができなかった。しかし、その雲海の中の玉環山は軽やかな一筋のリボンのようで、身をかがめれば手で拾えるかのようであった。北の遠くの方を望むと、山間の窪地の中の岩壁が削り立ち、その中を石筍がびっしりと密生しており、大小まちまちで不ぞろいだった。三方を緑の木々で覆われた山の崖がぐるりと取り囲み、景色は霊岩寺よりもっと美しかった。しかし渓谷は人里離れ、地形は急峻で、たださらさらと流れる水音だけが聞こえ、それがどこから聞こえてくるのか判断できなかった。はるか四方を眺めれば、山の峰や尾根が折り重なり、低く伏せたものは小さな土まんじゅうのようで、ただ東側の山の峰だけが昂然とひとり上に高く聳え、最も東側の常雲峰が、なおこれに匹敵できそうだった。道案内をしてくれた僧は別れる時、指さしながら雁湖は西側の中ほどの山の峰の上にあり、あと尖った山を三つ越えなければならないと言った。私は道案内の言に従い、尖った山をひとつ越えたところで、道は途絶えてしまった。もうひとつ山を越えようと、登ろうとする山の頂上を見ると、そこはもう天空への途中であった。私は、こう考えた。『大明一統誌』に、「雁蕩(雁湖)は山頂に在り、龍湫瀑布の流水は、すなわちこれ雁蕩から来る」とある。現在、山の地勢は次第に下降しており、一方、龍湫に上がる渓流は、東側の高い峰から源を発していて、ここからは渓谷をふたつ隔てている。それで、行程を改め東に行き、東側の諸峰の中の高く険しい峰を目指して行くべきだと。蓮舟和尚は疲労困憊していて、私に付いて来ることができなくなった。和尚はもと来た道を下山し、私と二人の召使が東に向け山嶺をふたつ越えると、人跡は完全に消え失せた。更に、前方の山は益々高く、山の尾根は益々狭隘になり、両側を挟む岩壁は直立し、刀の背の上を進んでいるかのように感じられた。しかも石の角は切っ先が突き出ていて、尾根をひとつ越える度に、急峻な峰に遭遇し、刀や剣のように鋭利な石片の隙間をよじ登った。このようにして何度か登ったが、地勢は足を踏み入れるのも困難なほど狭いのに、どうやったらこの上に湖を収容することができるのだろうか。既に高い峰が尽きる所では、石の壁が刀で割ったように切り立ち、私はずっと鋭利な石片で手が切れやしないか心配だったが、ここまで来ると、足を置く石すら無くなってしまった。崖の上で再三躊躇したが、もと来た小道を引き返すこともできなくなった。見下ろすと南側の岩壁の下には石段があったので、召使たちが足に巻いていた布を四本脱がせて、それを結んで縄にし、断崖の上からぶら下げ、先ずひとりの召使を布に沿って降ろし、私が二番目に後に付いて降りて、そうすればよじ登る道が見つかるだろうと考えた。石段のところまで降りると、わずかに足を踏み入れることができるだけで、それ以上余分な空間は無かった。はるかに岩壁の下を見下ろすと、たいへん急峻で、深さは百丈もあり、なんとか再びよじ登ろうとしたが、上方に岩石が空中に三丈あまりの高さで突き出たところがあり、飛び越えることができなかった。手で布の縄を引っぱり、試しに上に登ろうとしたが、布の縄は飛び出した鋭利な石で締め付けられ、突然切れてしまった。もう一度布の縄をつなぎ直してそれをぶら下げ、力の限り布の縄を引っ張って空中に飛び跳ねて跳躍し、再び上方の岩の上に登ることができた。なんとか危機を脱し、雲静庵に戻った時、太陽は既に西に沈もうとしていた。私と召使たちの衣服と靴は皆破れてぼろぼろになり、雁湖を見つける興味も大いに減退してしまった。それで清隠和尚とお弟子さんに別れを告げ、下山し、再び龍湫瀑布に行った。渓流の水は雨水を蓄え、荒れ狂ったかのように勢いを増して流れ落ち、形勢の変幻は極めて大きく、滝は雪を噴き上げるかのようで、水の音の大きさは雷鳴が轟くようで、水の勢いは昨日の二倍に増していた。空が暗くなるまでずっと座ってから、ようやく山門を出、南に四里道を行き、能仁寺に宿泊し休息した。

 

十五日、能仁寺の裏山でシホウチク(四方竹。中国語は「方竹」。中国中・南部が原産、一般のタケ類は円柱形の茎をもつが、このタケだけは鈍四稜形の茎を有する。竿は杖として用いられる)を何本も探した。

四方竹

 

竹は木の枝のように細く、竹林で新しく成長した竹は、大きいもので直径が一寸(3.3センチ)あったが、柔らかくて、杖にするにはふさわしくなかった。古い竹はもうほとんど刈り取られてしまっていた。それで、分かれ道から四十九盤嶺を経て、一路東海に沿って南に向かい、窯嶴嶺を越え、楽清県へ向かった。

徐霞客

 

徐霞客(1586-1641)、名は弘祖、字は振之、霞客と号しました。明代南直隷江陰(今日の江蘇省江陰市)の人です。徐氏は代々官僚を輩出した家柄で、高祖父・徐経の代に巨万の富を築き、父の代には中衰期にあったものの、依然としてかなりの資産を有していました。幼時から多くの典籍に触れて育ちましたが、とりわけ奇書と呼ばれる古今の史書・地理書・山海経図を愛読し、仙人・隠士の足跡に思いを馳せました。科挙に合格して役人になるのは彼の本心ではなく、早々に仕官の道を諦めて名山大川を訪ねる志を持ちました。22歳より旅行を始め、55歳で病のため故郷に戻るまでの30余年、全国の名山大川、海の果て、辺境の地を遍歴しました。東は海を渡り落迦山(浙江省舟山群島の普陀山。観音霊場)に至り、西は騰衝(雲南省。ミャンマーとの国境付近)の西境に至り、北は盤山(山西省大同市天鎮県の石窟寺院)に遊び、南は広東羅浮山(広東省増城県北東。道教霊山)に達しました。彼は足跡を今日の北京、天津、上海、江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、湖北、安徽、浙江、福建、広東、江西、湖南、雲南、広西、貴州など十九の省、市、自治区に残しました。彼は中国の偉大な旅行家、地理学者、旅行作家でありました。彼は生涯、旅行中に日記を書き続けました。これが後世の人によってまとめられたものが『徐霞客遊記』ですが、『徐霞客遊記』の書き始めに当たる5月19日は、中国当局により「中国旅游日」(中国旅行の日)に定められています。

 

それでは、『徐霞客遊記』(華夏出版社2006年発行)をテキストに、内容を読んでいきます。最初は、「遊天台山日記」(浙江台州府)です。

 

天台山は今日の浙江省天台県の北、また台山と略称されます。仏教天台宗の発祥の地で、日本天台宗祖の最澄が遣唐使の一員として入唐後、804年に天台山に入り天台法門と菩薩戒(ぼさつかい)を受けました。ここには隋代創建の国清寺や、多くの景勝地があり、石梁飛瀑が最も名高いものです。徐霞客は万暦4年(1613年)、27歳の時に浙江に到り、先ず洛伽山(普陀山)に遊ぶも、旅行記は伝わっていません。その後、海沿いに南下し、天台山、雁宕山に遊びました。同行奢は江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。

寧海県及び天台県の位置

 

癸丑の年(明の万暦41年、1613年)三月末日(3月30日)、寧海(今日の浙江省寧海県)の西の城門より出発した。雲が消え日も出てきた。同行者の気持ちも、山の景色も、何れも喜ばしいものだった。三十里(15キロ)で梁皇山(寧海県の西南)に至った。聞くところによると、この地は虎が出没し、月に数十人、道行くものが襲われるとのことだったので、宿に泊まらざるを得なかった。

寧海より華頂山までの行程

 

四月一日、朝から雨だった。十五里(7.5キロ)行くと、分かれ道があり、馬首を西に天台山に向かう。雨が上がり次第に晴天になった。また十里(5キロ)行き、松門嶺の麓に至った。

松門嶺

 

山は険しく路は滑りやすく、馬を下り歩いて進んだ。奉化(今の浙江省奉化県)以降の道は、ずっと山麓を歩いてきた。ここに至って迂回しようにも登りになり、尾根伝いの道になった。雨後晴天となり、泉の音が聞こえ、山の景色は度々変化した。緑の草むらの中に赤い山ツツジの花が映え、山を登って来た苦労を忘れさせた。また十五里(7.5キロ)進み、筋竹庵で休憩し、食事を取った。

 

山頂は到る所麦が植えられていた。筋竹嶺から南に行くと、国清寺に通じる街道だった。ちょうど国清寺の僧、雲峰といっしょに食事をした。彼によると、ここから石梁に行くには、山が険しく路程も長いので、荷物を持って行くのは不便で、軽装で行った方が良い。重い荷物は国清寺へ向かわせ、そこで待たせた方が良いとのことだった。私もその通りだと思い、人夫に雲峰に従い国清寺に向かわせ、私は蓮舟上人と石梁道を進んだ。

天台山地図

 

行くこと五里(2.5キロ)、筋竹嶺を過ぎた。峠のあたりは背丈の短い松が多く、老いた幹は屈曲し、木の幹や葉は青々と美しく、町に住む人の家の盆栽の松のようであった。また三十里(15キロ)余り進み、弥陀庵に着いた。急峻な山の峰は上り下りを繰り返し、深山は荒涼として静かだった。(おそらく虎が草むらに隠れて人を襲うことのないよう、道沿いの草木を焼き払ったのだろう。)泉の水がごうごうと音をたて、風がひゅうひゅうと鳴り響き、道を行く旅人の姿も無かった。庵は山に囲まれた平らな土地にあり、道は荒涼として先も長く、ちょうどその中間地点であるので、旅人はここで食事をとり、一泊するのが良いようだった。

 

二日、雨はようやくあがった。道に溜まった水を越え、山の峰に登ると、渓流や山の岩石は益々清らかで静寂になった。二十里進み、夕刻に天封寺(現在の天台県東北境にあった)に着いた。夜、床に就いてからも、今朝の峰の頂に登った時のことが思い出された。雨がやみ空が晴れたのは縁があったからのように思えた。それというのも連日夜になってからようやく天気が回復し、朝から晴れることがなかったからである。五更の時(3時から5時の間。夜明け)に夢から目覚め、満天の星空だと召使たちが言っているのが聞こえ、うれしくて再び眠ることができなかった。

 

三日、朝起きると、果たして日が燦燦と輝いており、頂上(天台山最高峰の華頂山、標高1,138メートル)に登ろうと決めた。数里登り、華頂庵に着いた。また三里行き、頂上に近づくと、太白堂であるが、何れも特に見るべき所は無かった。太白堂の左下に黄経洞があると聞き、小道を進んだ。二里行くと突き出た大きな岩が見渡され、たいへん秀麗で美しく感じた。近づいて見ると、ひとりの出家者が結んだ庵が黄経洞の前に建てられていた。洞窟より吹いてくる風を恐れ、石を積んで洞窟の入口を塞いでおり、私は大いに感嘆した。再び道を登って太白堂に戻り、今度は道に沿って頂上へ登った。雑草が風に吹かれて千々に揺れ動いた。山の峰は高く風は身を切るように寒く、草の上に積もった霜は一寸(3センチ)余りの厚さになった。四方に連なる山々を見渡すと、美しい花と碧玉のような緑の木々が巧みに配列されて遠くに見えた。山の麓には花々が咲き乱れているが、一方山の頂上は全く花が咲いておらず、おそらく高いところは寒いのでこうなっているのだろう。

華頂山

 

もと来た道を引き返し、華頂庵まで下り、池の畔の小橋を渡って、峠を三つ越えた。渓流が巡り山々が連なり、樹木が密集し奇岩があり、次々絶景が現れ、見る者を大いに満足させた。二十里で上方広を過ぎ、石梁に到着した。

石梁・古方広寺

中方広寺

 

昙花亭(現在の中方広寺の境内にあった)で仏様をお参りしていると、もう石梁飛瀑の絶景を細かく見ている時間が無くなった。更に下って下方広まで行き、石梁飛瀑を仰ぎ見ると、ふと滝が天の果てを流れ落ちているかのように思えた。聞くところによると、断橋、珠簾水はとりわけ有名な景勝地だそうで、寺の僧によると、食事を済ませてから見に行ってもまだ行って帰ってくることができるそうなので、仙筏橋から山の後ろに向かった。山の峰をひとつ越え、渓谷に沿って八九里行くと、谷川の流れが滝を形成し石門から流れ落ち、流れが渦巻いて、三段の流れに曲がっているのが見えた。上層が断橋で、ふたつの巨石が斜めに傾いて連なり、渓流はふたつの石の間を流れ、波のしぶきが飛び散り、それらが集まって淵に流れ込んでいた。

石梁飛瀑の上層(断橋)

 

中層ではふたつの巨石が対峙して狭い門のようになり、渓流の水はこの狭い門で拘束され、流れの勢いはたいへん激しくなっていた。

石梁飛瀑の中層

 

下層では、淵の出口はたいへん広くゆったりしていて、渓流の出口は門の敷居のように流れを隔て、水は低い窪みのところから流れ落ちていた。三段の滝は各段の高さが何れも数丈(1丈は約3.3メートル)にも達し、それぞれの景観はたいへん神秘的だが、水は各段を上から順に流れ落ち、各段は曲がった流れで遮られているので、一目で見渡すことはできなかった。また一里ほど行くと珠簾水で、渓流の流れ落ちるところは平坦で広く、したがって水の流れはゆるやかで、よどみなくこんこんと流れていた。

珠簾水

 

私は裸足になって草むらに足を踏み入れ、木によじ登り、崖に沿って前に進んだ。そのため、蓮舟和尚はついて来ることができなかった。夜のとばりがあたりに降りてから、ようやく引き返した。仙筏橋で足を止め、虹のような形の石の橋と、滝の水しぶきが雪を噴き上げているかのように見える景観を眺めていると、全く眠る気が起こらなかった。

仙筏橋

 

四日、空は真っ青で、山々は濃い緑に染まっていた。朝食を取る暇もなく、仙筏橋を経て昙花亭へ登った。「石梁」(石橋)はあずまやの外にあった。

石梁

 

「石梁」は幅一尺(30センチ)あまり、長さは三丈(10メートル)、二つの山の窪みの間に架かっていた。二種類の飛瀑(滝)があずまやの左側から流れて来て、橋のところで合流して下に流れ落ち、一本の滝となって水音は雷鳴のように轟き、まるで川の堤が決壊したかのようであった。滝の高さは百丈(300メートル)以上に達していた(これは誇張で、実際の滝の落差は30メートル)。私は「石梁」を渡り、橋の上から下の淵を見下ろすと、怖くて鳥肌が立った。「石梁」の向こうは大石に遮られ、前方の山へは進めず、もと来た道を引き返すしかなかった。昙花亭を経由して上方広寺に入った。寺の前の渓流に沿って、再び前山を遮る大石の上に登り、石の上に座って「石梁」を鑑賞した。下方広寺の僧侶が飯を食うよう催促するので、その場を離れた。食後、十五里歩き、万年寺に着き、蔵経閣に登った。蔵経閣は二階建てになっていて、南北の仏教経典が二つの蔵に納められていた。

万年寺

 

万年寺の寺の前や後ろには多くの古い杉の木があり、何れも三人でようやく囲めるほどの幹の太さがあった。鶴が木の上に巣を作っていて、鶴のよく響く、遠くまで通る鳴き声が聞こえた。これも深い山の中の清く雅な物音と言えるだろう。この日、私はもともと桐柏宮へ行き、瓊台や双網といった景勝地を探したいと思っていたが、道の途中に旅人を惑わす分かれ道がたくさんあるとのことで、計画を変更して国清寺へ向かった。国清寺(隋の開皇18年(598年)創建。当初、天台寺と言い、後に「寺若成、国就清」から取り、国清寺と改名。唐代、最澄は天台宗第9祖、道邃(どうすい)より菩薩戒を受けた)は万年寺から四十里で、途中、龍王堂を通った。山の峰をひとつ下る度に、私はもう平地に降りて来たかのように感じたが、続けて幾重もの峰を下っても、下り坂は延々終わることがなく、こうしてはじめて華頂山の高さは、天上からいくらも離れていないくらい高いと悟った。日暮れ時に、ようやく国清寺に入り、雲峰和尚と再会した。

国清寺

 

長く別れていた気の合う親友に再会したかのようであった。和尚と天台山観光の行程順序を相談した。雲峰和尚が言うには、「天台山の名所は寒岩と明岩の二カ所に勝るところは無い。距離はやや遠いが、馬で行ける。先ず寒岩、明岩を遊覧し、その後歩いて桃源洞へ行き、桐柏宮に到達する。こうすれば、翠壁、赤城栖霞二カ所の景勝地も一度に見てしまうことができる」と。

 

五日、雨が降りそうだったが、気にしない。寒岩、明岩への道を取り、国清寺から西門へ行き、騎乗する馬を探した。乗る馬が来たが、雨も降りだした。五十里進んで歩頭に着き、雨が止んだ。乗って来た馬も帰らせた。二里歩いて、山に入った。山並みが麓を巡り流れる川に映り、木々は美しく、岩石は形が面白く、見ていてとても楽しくなった。一本の渓流が東陽の方から流れて来て、流れはたいへん急で、水量は曹娥江(天台山北麓を源に、北に流れ、新昌、嵊県、上虞を経て杭州湾に注ぐ川)のようであった。四方を見渡しても竹の筏の渡しが見当たらず、人足に背負ってもらって渡るしかなかった。水の深さは膝の高さほどあり、渓流を渡るのに一時間ほどかかった。また三里歩き、明岩に着いた。

明岩寺

 

明岩は寒山、拾得が隠棲した所で、ふたつの山が曲がりくねって鎮座し、『大明一統誌』に言う八寸関である。八寸関に入ると、四方は切り立った石の壁に囲まれ、城壁のようであった。

八寸関(明岩寺)

 

一番奥に深さ数丈の洞窟があり、穴の広い所には数百人を収容できる広さがあった。洞窟の外は、左側はふたつの巨岩で、それで壁半分を構成していた。右側には石筍が

高く聳え、てっぺんは石壁と同じ高さで、一直線になっていた。石筍の上には青松と紫色の花蕊(かずい)が盛んに茂り、ちょうど左側の巨岩と対峙していて、風変わりな景観と言うべきであった。八寸関を出て、再び岩に登ると、方向はやはり左向きであった。ここに来た時、仰ぎ見ると一本の細い隙間を隔てただけのように見えたが、岩の上に登ってみると、そこはたいへん広くて、数百人の人を収容できることが分かった。岩の真ん中には井戸があって、仙人井と呼ばれ、浅いが水が枯れることはない。岩の外には珍しい石があり、数丈の高さがあり、上部はふたつに分かれ、二人の人が立っているように見え、当地の僧はこれを指して寒山、拾得の化身と言った。寺に入った。夕食後、雲は散って消え、三日月が夜空に掛かった。人の形の岩が崖のてっぺんに見え、岩壁の上にも月明かりが注ぎ込んだ。

 

六日、夜明けに寺を出発し、六七里で寒岩に着いた。岩壁がまっすぐ上にそそり立ち、刀で割ったようであった。

寒岩

 

上空を仰ぎ見ると、たくさんの洞穴が見えた。岩壁の真ん中あたりに洞窟があり、幅八十歩、奥行き百歩あまり、洞内は平坦で明るかった。岩を右側に行くと、岩の狭くなったところから細い道が上に登って行った。山の岩の低くなった窪みにふたつの岩が相対して聳え立ち、下の部分は分かれ、上部でつながっていた。

鵲橋(寒岩)

 

これがいわゆる「鵲橋」で、上方広寺の「石梁」(石橋)と相争う奇観であるが、ただ水しぶきの上がる滝の水が落ちる景観がここには無かった。僧の宿舎に戻って食事をとり、竹の筏を探して渓流を渡った。渓流に沿って山を下った。この一帯は、断崖絶壁で、雑草が巻き付き、木々の枝は下に垂れ、多くの海棠やハナズオウの木があり、濃い影が渓谷に映り、一層風景を優美にしていた。香しいかおりを帯びた風が吹いてくるところには、モクレンやかぐわしい香草が群生していた。山の支脈の尾根まで来ると、岩壁はまっすぐ谷底に垂直に落ち、谷川は深く流れは急で、あたりには足を踏み入れる場所も無かった。岩壁は穴を穿って通れるようになっていて、穴には足先半分しか踏み入れることができず、身体を岩壁に貼り付けてやっと通ることができ、行く者をはらはらどきどきさせた。寒岩から十五里歩いて歩頭に至り、小道を通って桃源洞に向かった。桃源洞は護国寺の傍にあった。護国寺の建物は既に廃墟となっていた。土地の者に聞いても事情を知る者はいなかった。雲峰和尚に従い、草木が生い茂った曲がりくねった道を進むうち、日も沈んでしまい、泊まるところも無く、また道を尋ねるうちに、遂に坪頭潭(現在の平鎮。天台県の西の境界)に着いた。坪頭潭から歩頭まではわずか二十里の行程だが、今日は小道を来て、三十里あまり回り道をして、ようやく宿に着いた。確かに桃源洞は人を誤らせるところだ。

 

七日、坪頭潭から曲がりくねった道を三十里あまり行き、渓流を渡って山地に入った。更に四五里行くと、尾根がだんだん狭くなり、そこに宿坊があり、「桃花塢」(「塢」wùは山の窪地のこと)と言った。深いよどみに沿って進むと、よどみの水は次第に澄んできれいになり、ほとばしる山の湧水が上からよどみに注ぎこむところに来た。ここは「鳴玉澗」と呼ばれる。谷川の水は山に沿って流れ、人は谷川に沿って進むことになる。谷川の両側はむき出しの岩山で、連なる山々はあちこちで緑の木々と入り混じり、およそ目に入るものは全て鑑賞に耐える景観で、たいていが寒岩、明岩の景色より勝っていた。谷川が尽きると道も無くなり、一本の滝が山の平らになったところから流れ落ち、その勢いは甚だ奔放であった。宿坊で食事をとって、桃花塢を出、山の窪地に沿って東南に向かった。峠をふたつ越え、「瓊台」、「双闕」の二ヶ所の景勝地を尋ねたが、誰も知らなかった。更に数里歩いて、やっとそれが山頂にあることが分かった。雲峰和尚と山道をよじ登り、やっとのことで山頂に着いた。下を見下ろすと、切り立った崖は削られ、曲がりくねった岩肌は、全く桃源洞の景色と同じようであった。そして一面緑の木々に覆われた万丈の岩壁は、桃源洞の急峻を上回っていた。山の峰の頂が欠けて二つに分かれているところが、いわゆる「双闕」(「闕」quèは古代の王宮の門の両側にあった望楼のこと)で、「双闕」にはさまれた中間の輪になった石の台が「瓊台」qióngtáiである。

双闕

瓊台

 

「瓊台」は三面が絶壁で、後方だけが「双闕」につながっていた。私は望楼に向いて立った。日が暮れて、もう再び「瓊台」に登る時間は無かった。しかし優美な風景はもう堪能し尽くしていた。遂に下山し、赤城山の背後から国清寺に戻った。およそ三十里の道のりであった。

 

八日、国清寺を出発し、山の後ろを五里進み、赤城山に登った。赤城山の山頂には円形の岩壁がそびえ、見たところ城壁のようで、岩の色はやや赤みがかっていた。岩の洞窟は僧の宿舎になっていて、中は散らかり、自然の景観はもう見る影もなかった。玉京洞、金銭池、洗腸井は何れも見てもどうということはなかった。

 

北京の春節の廟会で売られる「大風車」

 

「風車」fēngchēは広く普及した伝統的な民間玩具で、一般には紙、竹、コウリャン殻で車輪を作り、風の力を借りて休みなく回転させます。容易く作れてすぐ遊べるので、子供たちにたいへん人気があります。中国の風車の歴史は古く、唐代や宋代の絵画の中に既にしばしばおもちゃの風車を見つけることができます。例えば南宋の画家、李蒿の筆による『貨郎図』(「貨郎」とは行商人の意味です)の中に小さな風車が描かれていて、行商人の帽子の後ろに描かれています。

李蒿『貨郎図』(部分)

 

この風車の構造はたいへん簡単で、三本の細い棒を交差させて六角形にし、棒のひとつひとつの先端に長方形の小旗を貼り付け、中心に軸を取り付け、軸と柄がつながり、小さく精巧で簡単な造りです。こうした風車は宋代に流行したものです。元代の有名な画家、王振鵬も『貨郎図』とよく似た絵を残しており、題名は『乾坤一担図』と言い、ひとりの老人がおもちゃを満載した荷物籠を担ぎ、老人の帽子の後ろにも小さな風車が挿してあります。

王振鵬『乾坤一担図』

 

構造は宋代の絵の風車と基本的に同じで、ただ風車本体の六角形が八角形になり、柄の上に三角形の小旗が取り付けられています。これから見て、古代のこうした小旗を立てた風車は長い間流行し、宋代以降、特に大きな変化は無かったようです。

 

現在、各地で作られている風車はおおよそ三種類に分けられ、「簡易風車」、「多角風車」と「大風車」があります。「簡易風車」は一本の竹か木の横棒の両端に互い違いに二枚の四角の紙を貼ったもので、横棒の中央に軸が設けてあり、軸は柄につながっていて、風を受けて回転します。

左は簡易風車、右は瓜形風車(後述)

 

『帝京景物略』に明末の風車の記述があります。

「すなわちコウリャン殻を二寸に裂いて、互い違いに四角い紙を貼り、紙の色は各々赤と緑で、真ん中に穴が空いており、細い竹でコウリャンの竿に横向きに取り付けられ、風を受けて動き出し、回転して輪のようになり、赤と緑が混じって目が回るようだ。これを風車と言う。」

 

こうした風車の構造の原理は、上記の宋や元の時代の風車と基本は同じで、現在にまで続き、依然として農村で幅広く作られています。

 

「多角風車」は中国の風車の中で最も代表的なもので、通常は一枚の正方形の色紙から作られ、四角形を中心に向け半分以上ハサミを入れ、順番に各々の角を中心に向けて折り曲げ、中央を小さい丸い紙片で貼りつけて軸を取り付ければ、四角の風車となり、二、三個の風車を一組として柄に取り付けると、風を受けて全てが回転します。二枚の正方形の色紙を互い違いに重ねると八角形の風車になり、三枚の色紙を互い違いに重ねると十二角形となります。色紙の色をそれぞれ変えると、風車の角がひとつひとつ規則的に色が変わるようになり、色彩の変化にリズムがあって美しいものです。

八角風車

 

しかし注意すべきは、八角形以上の風車はそれぞれの色紙の切り方が異なり、あらかじめ切り口の角度を決めておくことで、それぞれ入り混じった角度を揃えることができるのです。

八角風車の作り方(二枚の色紙の切り方を変えて角度を揃える)

 

 

「多角風車」と似たものに、「瓜形風車」があり、色紙を折り曲げてかぼちゃ形にし、中空で外側は瓜のひとかけらひとかけらが何層にも重なっていて、風が吹くとくるくる回ります。瓜形の風車は山東省南部の蒼山県、郯山tánshān県などで盛んに作られています。

蒼山県と郯山県(山東省臨沂市)

 

「大風車」は北京市の太鼓付き風車のことで、昔北京の春節(旧正月)の間に開かれた「廠甸」(和平門外瑠璃廠に、お正月の人出を見込んで大きな縁日が立った。この土地は、宮廷の瑠璃瓦を焼く瑠璃窯があったところで、瑠璃窯の前に広い空き地があり、この空き地に市が立ったので、「廠甸」と呼ばれた。)では必ずこのような風車が市場に並び、北京の春節の風物詩でした。

北京の春節、廟会の風景

 

「大風車」の構造はこれまで述べた風車より複雑で、風車の車輪はコウリャン殻を薄く矧いだ細片を湾曲させて作り、直径は20センチくらいでした。竹ひごやコウリャン殻の棒を用いて軸を作り、軸を中心に放射状に紙の帯を括りつけ、紙の帯のもう一方の端は輪っかに糊付けし、車輪としました。車輪の紙の帯には色が染め付けらました。

大風車

 

軸の延伸部分には互い違いに「はじき爪」を取り付け、軸の下には更に糸で縛り付けた二本の撥(ばち)を並べます。一番下には粘土で作った小さな太鼓を取り付けます。風車が回転すると軸の上の「はじき爪」が動いて撥を動かし、太鼓が打たれて音を鳴らす仕組みです。ポンポン、シャンシャンと良い音がしました。

大風車の太鼓を鳴らす仕掛け

 

「大風車」は風車ひとつ毎に太鼓がひとつ付いていて、少なくとも二つの風車が上下に配されました。風車が三つ、四つ、五つ、ひいては三四十個あるものまであり、全ての風車はコウリャン殻をつないで作った骨組みの上に取り付けられ、骨組みは風車の数に合わせて異なった形に組み立てられました。よく見かけたのは「日」の字形や「甲」の字形、「申」の字形の骨組みでした。

大風車

 

一台の「大風車」に何個風車があるかで、その数だけ太鼓が取り付けられたので、風が吹けば音が鳴って、たいへん面白いものでした。北京の人は買って帰った「大風車」をしばしば家の軒下に取り付けたので、それによって家中がお正月のお祝いの気分に染まることとなりました。

北京の四合院の家屋の軒に取り付けられた大風車

 

おもちゃの風車の種類はたいへん多く、その中には凧や走馬灯のアクセサリーとして使われたものもありました。例えば銅鑼を付けた凧で、銅鑼を付けた枠と「大風車」の構造は全く同じでしたし、連凧の龍の頭の眼を回すのも、実際はふたつの風車でした。走馬灯の真ん中の軸の上には、風車の車輪を取り付けておく必要があり、それにより、上昇気流を受けて走馬灯が回るのです。

走馬灯

硬翅風筝(沙燕)

 

凧の歴史が分かったところで、今回は凧の種類とその特徴について見て行きたいと思います。尚、中国国内の有名な凧の産地には、北京、天津、山東省濰坊、陝西省西安、河北省保定、江蘇省南通などがあります。

 

 

(一)凧の造形により表現する題材による区分

 

1.鳥型の凧:鷂(ハイタカ)、鳩、鳳凰、タンチョウ、大雁、オウムなど。

 

2.虫型の凧:トンボ、蝉、蝶、蛾、テントウムシなど

 

3.水生生物の凧:蛙、金魚、ナマズ、つがいのコイ、蟹、オタマジャクシ、イセエビ(ザリガニ)、貝

 

4.人形凧:神話上の人物、歴史上の人物、芝居の人物、例えば孫悟空、寿老人、関羽、張飛、鍾馗、和合二仙(家庭円満を司る仙人、神様)、劉海、許仙、白娘子(白素貞。『白蛇伝』の女主人公)など。

京劇の俳優のくま取りの凧(臉譜風筝)を含みます。

臉譜風筝(くま取りの凧)

 

5.文字凧:「喜」の字を二つ並べたもの。「福」、「寿」の文字。「杏花天」、「天下太平」、「富貴非所望不憂貧」など

 

6.器具の形の凧:生花を飾った籠、扇子、鼎、香炉、鐘、灯籠、宝剣、花瓶など

 

7.幾何学図形の凧:角凧、ひし形、八卦、星型(五角星)、六角形、円形など

 

 

(二)凧の構造による区分

 

1.硬翅風筝yìngchì  fēngzheng(硬い翼の凧)

 

凧の両翼には二本の横向きの「竹条」(竹を細く裂いた棒)で作ったフレームを用い、胴とつなぎ、両翼は折り曲げられないし、はずすこともできないようになっています。このような凧は、「硬翅風筝」(硬い翼の凧)と呼ばれます。翼が二枚以上の凧は、例えば「宝塔」は七枚、「双喜」つまり「喜」を二つ並べた字の凧は三枚の翼を持ちます。

「双喜」の文字凧

 

「硬翅風筝」は全国各地でよく見受けられ、玩具としての凧の中で最もよく見られる構造のひとつです。その中で、北京の「沙燕」(イワツバメ)の凧は最も典型的なものです。「沙燕」の翼は、上下二本の竹結び付けてあり、頭と腹部は一本の長い竹を折り曲げて作り、尾部は二本の竹を交差させ、これら各部分を一緒に縛って、「沙燕」の骨組みを構成しています。

 

「硬翅風筝」の骨組みの寸法は一定の比率になっています。その全体の寸法比率は正方形になっていて、全体の長さと幅の寸法は同じです。頭部の長さを一単位とすると、これは全体の長さの四分の一。腹部は二単位で、全体の二分の一。尾部も一単位で、全体の四分の一。それぞれ一単位が全て正方形で、翼の周囲の竹の長さの七分の一が腹部の幅です。このように、翼の周囲の竹の長さを先ず決めれば、その他の各部分の寸法は容易に求めることができます。

「沙燕」凧の骨組み

 

「硬翅風筝」には他に「米字硬翅」(米の字形の硬い翼)の凧があり、すなわち「米」の字の形の胴体の上に翼を取り付け、骨格を構成しています。外側の輪郭は題材によって火で焙って曲げた細い竹を架台の上に結び付けて造形し、最後に紙を糊付けします。「米字硬翅」が完成すると、周囲の縁は全て竹で支えられた状態となります。

米字硬翅

 

「硬翅風筝」は、他の凧に比べ構造が簡単で造りがしっかりしており、様々な環境での適応性が高く、民間の玩具凧の中で最も広く使われています。

 

2.軟翅風筝 ruǎnchì  fēngzheng(柔らかい翼の凧)

 

この種の凧の翼は上面だけに一本の竹条(竹を細く裂いた棒)があり、下辺の輪郭は翼の生地だけで構成され、風が吹くとひらひら翻ります。鷹、蝶、トンボなど多くが「軟翅風筝」で、この種の凧の翼は、下半分を折り曲げて畳むことができます。翼を外せるものもあります。翼の生地の多くは薄く柔らかい絹や、強靭性の強い紙が使われ、翼が風の振動で破れないようにされています。「軟翅風筝」は表現性が豊かで、昆虫や禽鳥などの題材に適していて、揚げると風を受けて翼が震える効果を見ることができます。

軟翅風筝

軟翅風筝の骨組み

 

3.拍子風筝 pāizi  fēngzheng(平板形の凧)

 

造形が一枚の平板のような形の凧なので、こう呼ばれます。京劇のくま取り、鼎、蝉などがこの種の凧です。この種の凧は、更に「軟拍子」と「硬拍子」の二種類に分かれます。「硬拍子」の最も典型的なものが伝統的な題材の「八卦」です。

「八卦」凧

「八卦」凧の骨組み

 

外周は竹を裂いた棒を結わえた二つの正方形から成り、それを重ねて八角形にし、中間には十字に骨格を加え、全体の造形は整った平面で、仕付け糸を加える必要が無く、平板で曲面が無く、したがって比較的強い風が吹く時に揚げることができます。安定性を増すため、この種の凧の「尾穂」(しっぽの房)は長く重いものが付けられます。「軟拍子」も平面の造形で、骨格の構造は簡単で、下辺の輪郭は竹で支える必要が無く、揚げる時は仕付け糸を使って平面を後ろに湾曲した弓型にさせ、同時に比較的長いしっぽか房を付ける必要があります。「軟拍子」の下部は折り曲げたり上辺の骨格の上に巻き取ったりすることができ、持ち運びに便利になっています。この種の凧の表現力が豊かで環境への適応性にも優れていますが、長いしっぽを付ける必要があり、全体の構図が壊れやすく、実際の状況によって適宜しっぽの造形をうまく処理してやる必要があります。

 

4.長串風筝chángchuàn  fēngzheng(連凧)

 

俗に「蜈蚣」wúgong(ムカデ)とも呼ばれ、たくさんの円形の凧がいっしょにつなぎ合わさり、前面には頭が据えられ、龍の頭が据えられているように見えるので、「龍頭蜈蚣」lóngtóu  wúgongとか「龍筝」lóngzhēngと呼ばれます。

龍頭蜈蚣

 

連凧の一枚の円形の凧を「一節」と呼び、少なくとも20節、多いものは150節に達することがあります。円形の凧は竹を裂いた棒を曲げて円形にし、その後で紙を糊付けして絵付けを行います。円形の凧1枚1枚に全て円の直径を貫き通す1本の竹を裂いた棒が挿し渡され、俗に「蜈蚣腿」(ムカデの足)と呼ばれます。「蜈蚣腿」の長さは一般に円形凧の直径の三倍で、足の両端には鶏の毛か紙の房が結び付けられています。この円形の凧一枚一枚を単独では「蜈蚣桄儿」wúgong  guàngrと呼ばれます。(「桄」は「かせ糸」、糸巻に巻かれた糸のこと)

龍の頭と「蜈蚣桄儿」

 

何枚かの「蜈蚣桄儿」を揚げてそれが一本の串のようになったら、この連凧揚げは成功したと言えます。前面の「蜈蚣頭」、つまり龍の頭の部分は扁平のものと立体的に作ったものとがあり、多くは「竹条」(裂いた竹の棒)を縛って骨格を作り、その上に紙を糊付けして絵付けし、さらにぐるぐる回転する目玉が取り付けられます。

蜈蚣頭

 

「蜈蚣桄儿」はそれぞれ三つの部分に分けて着色されます。上部は濃い色を使い、ムカデの背中を表し、下部は白色の半円で、ムカデの腹を表します。中間部分は様々な色で彩色されます。こうして絵付けされた連凧が上空に揚げられ、一本の長い串になると、背中が濃い色で腹が白い、一匹のムカデとなるわけです。

 

連凧の制作の要領は主に「蜈蚣桄儿」をつなげる技術に現れ、各「桄儿」の縦方向の角度は全て120度以上なければならず、やや前傾した状態になります。横方向は各「桄儿」が全て180度で平行でなければならず、凧を上空に揚げると「塌腰翘尾」、つまり背骨が腰のところでくぼんで、尻尾を持ち上げる形になります。連凧は空高く舞い上がると、勢いが雄壮で、その姿は高くそびえ立ち、中国の伝統凧の名品のひとつに数えられます。

 

5.組み立て式の凧

 

組み立て式の凧は、各部分が別に作られ、揚げる前に各部分の関節に沿って組み立て、揚げ終わったら解体することができ、携帯や保存に便利にできています。前のところで紹介した「軟翅風筝」(柔らかい翼の凧)や「拍子風筝」(平板の凧)は、組み立て式として作ることができます。相対的に、組み立て式凧の造りは複雑で、関節を組み立てる接合部分の設計に注意しなければならず、通常は「榫」sǔn(ほぞ。一方の材の穴にはめ込むよう他方の材に作った突起)、「卯」mǎo(ほぞ穴)、「挿」(差し込み)、「梢」、「套」(ねじ溝を切る)等の方式で部品をしっかりと結合させ、また品種によっては鉄の薄板を被せたり、針金、紙筒、蝶番(ちょうつがい)などの部品を使ったりして設計上の要求を満たします。有名な組み立て式凧には、天津の「風筝魏」一族が作った各種の凧があります。

天津風筝魏の作品

 

6.簡易凧

 

簡易凧は一般の人々が自分で設計、制作した凧を指し、品種は極めて多く、何れもすぐに作れて構造の簡単な玩具凧であり、よく見かけるのは「瓦片」(平瓦の形の四角形の角凧)や「菱形風筝」(ひし形の凧)、「桶形風筝」(立体凧)などです。ひし形の凧が最も簡単で、二本の竹の棒を交差させ十字型にするだけで、横向きの竹をきつく縛って弓状にし、紙を糊付けし、しっぽを付ければ簡易凧が完成します。民間で長らく伝承され、子供たちの間で互いに真似し合うことが盛んになり、ひとつの風潮になりましたが、商品になることはほとんどありません。

 

 

(三)凧の特殊な仕掛け

 

凧を揚げて飛ばす過程での娯楽性や趣味性を強めるため、人々は早くから凧の特殊な仕掛けを考えました。唐代には、凧は既に琴の弦を取り付け、音を出す効果を作り出すことに成功しました。以後、代々新たな設計がなされ、凧の娯楽性や趣味性をより豊かで完成度の高いものにした。主要な仕掛けには、音を出す仕掛け、光を発する仕掛け、「送飯的」(食事を届けるように、下から上空の凧本体に上がっていき、本体にぶつかると、半分に割れて下に降りてくる)ものがあります。

 

音を出す仕掛けには、「風琴」(オルガンのように風を送り込んで音を出す)、「笛哨」(呼び子の笛)、「鑼鼓」(銅鑼や太鼓)などがあります。「風琴」は「竹条」(竹を裂いた棒)で「湾弓」(挽弓、拉弓とも。弦楽器で弦を弾いて音を出す弓)を作り、糸や薄く削った竹のリードを「琴弦」(琴線。弦楽器の弦)とし、これは俗に「琴縧子」(琴の糸)と呼ばれます。弓と弦が「風琴」に取り付けられ、凧を揚げると上空で風が吹いて「琴弦」を振動させ音が鳴ります。「風琴」は一般に1.7メートル以上の大型の凧に取り付けられます。「琴縧子」、つまり弦は二本、三本、四本のものもあり、それぞれ弦の長短、太さが異なり、出る音の高さが異なります。したがって三本や四本の弦を付けた「風琴」ではいくつかの音が共鳴して聞こえることになります。また竹笛や呼び子を結び付けたものもあり、耳に心地よい音を出すことができます。

呼び子付きの凧

 

その他の音を出す仕掛けとして、「背鑼鼓」(銅鑼や太鼓を背負う)があり、これは竹の棒で銅鑼や太鼓の架台を括りつけ、架台の上に小さな銅鑼や皮を張った太鼓を吊るし、風車の付いた「撥片」と太鼓のばちが取り付けてあります。風車が回ると「撥片」が動いてばちを動かし、銅鑼や太鼓を打ち鳴らす仕組みになっています。凧が上空に揚がると、銅鑼や太鼓の音が天空より鳴り響き、たいへんおもしろいのですが、凧に取り付ける制約上、あまり大きな音は期待できません。「背鑼鼓」の凧は通常夕方から揚げ始め、夜のとばりが降り、あたりが静かになってから、この仕掛けの妙味を味わうことができます。

背鑼鼓

「背鑼鼓」を組み込んだ凧

 

凧が上空に揚がって後、特殊な仕掛けを使って色紙片や色紙の短冊、紙の造花などを凧の糸に沿って上空に上げ、凧の傍まで来るとスイッチの入る仕掛けがあり、紙片や造花が上空でまき散らされ、ひらひらと満天を漂い舞い落ち、その情景は珍しく壮観です。こうした仕掛けは「送飯的」と呼ばれ、ちょうど凧に食糧(兵糧)を送るかのようであるのでこう言います。「送飯的」の構造は複雑で、竹の架台、「飯盒」、翼、上空の凧に当たると駆動する仕掛けが含まれます。竹の架台には開いたり閉じたりさせることのできる翼(羽)が取り付けられ、開いた時は「硬翅風筝」と似た姿になります。

「送飯的」、上空の凧にぶつかると翼が閉じる仕掛け

 

「飯盒」は底が開閉する紙の箱で、紙片や造花はこの箱の中に入れられます。凧が上空に揚げられて安定したら、そこで凧を固定し、凧の糸の下端に「送飯的」を取り付け、翼を広げて風力を使って凧糸に沿って上昇させ、そのまま上空の凧の下の横向きの棒にぶつかったら、仕掛けを動作させ、紙箱の底を開き、紙片を撒き落とさせ、同時に両翼を閉じると、「送飯的」は凧糸に沿って下降し、下で凧を揚げている人のところまで滑り落ちてきます。

「送飯的」、上の赤い凧に向け上がって行く

 

もうひとつ、もっと簡便な方法で「送飯」することができます。紙片を紙か布でできた袋に入れた小包を作り、糸で縛って梱包し、包みの糸の上に火を付けた線香を貼り付けるのです。線香の長さは凧の揚がった高さにより調整します。凧を揚げて一定の時間が経つと、線香の火が包みの糸に移って焼き切るので、袋が開け、中の紙片が空中にまき散らされるというわけです。

 

更に、凧に提灯を送る仕掛けがあり、その構造、原理は「送飯的」と似ていて、火を点した提灯を「飯盒」の代わりに取り付け、時間になると提灯を空高く上げ、時には一列に連なった提灯を空に上げることができます。提灯を揚げるのは普通夕刻に行われ、凧が上空で一定の位置に固定されて後、夜のとばりが降りてから、火を点された提灯が夜空に上げられ、たいへんおもしろいものです。

 

凧の競技要素を強めるため、古くから競技凧が生み出されました。つまり凧で空中戦を行い、相手を絞めて落とした方の凧を勝ちとするのです。多くの地方でこのような凧が流行し、その中でチベットの競技凧が最も代表的なものです。多くが正方形かひし形の「硬拍子」の凧であり、凧糸の表面は糊で付けたガラス粉で覆われています。試合では、自由に対戦の取り組みを決め、審判員を出します。凧が一定の高さまで揚がったら、審判は「試合開始」を宣言し、双方は技巧を尽くして攻撃を行います。選手は自分の凧を操縦して、空中で旋回、上昇、下降、飛行、突撃を行って相手の凧をかく乱し、またガラス粉で覆った凧糸で相手の糸を切りに行き、一方の凧が撃墜されるまで攻撃を繰り返します。

チベット・ラサの競技凧

 

(四)中国凧の芸術性

 

中国の凧の芸術上の特色は、その造形、装飾図案、それが反映された思想や感情の三つから理解することができます。この三つが密接に組み合わさることで、中国の凧は世界中の凧の中で独自の位置づけを切り開いていると言うことができます。

 

凧の作者はその設計から造形、色彩、紋様、更に凧を遠くから見た時、近くで見た時の効果などを併せて検討します。中国の伝統凧には多くの固有の題材があり、それらの造形、色彩は伝承される中で絶えず改良、改善され、各地の凧の独特な風格を形成しています。

 

北京地区の伝統凧は「沙燕」(イワツバメ)で、自然界の翼を広げて飛び回る小さな燕の形象に取材しています。「沙燕風筝」は造形上、燕の翼を広げて飛ぶ動きを誇張し、翼の力量と尾翼を刀のようにピンと伸ばした様子を強調しています。またそれと凧の風を受けて飛ぶ構造、原理と結びつけています。「沙燕」の装飾図案は同様に燕の姿形に基づき、その眼と爪の形状を誇張して表現し、また民俗的な特色と強い装飾性を反映しています。

 

「沙燕」凧の基本の形態には様々なバリエーションがあります。「肥燕」、「痩燕」、「雛燕」、「比翼燕」などです。北京の民謡に、「肥は男と痩せは女と比べ、雛燕は子供、双燕は夫婦と比べる」というのがあります。試しにこの四種の「沙燕」を比較すると、自ずとそれぞれの特色が見えてきます。「肥燕」は雄々しく力が強く、翼や頭、腹、しっぽが大きくふくよかで、男性の気質を象徴しています。

肥燕

 

「痩燕」は各部が細長く、繊細で、女性のうるわしくしなやかな特徴を表現しています。

痩燕

「雛燕」は体が豊満で子供らしく拙く、無邪気さが見て取れ、天真爛漫な「胖娃娃」(太ったお人形さん)となっています。

 

雛燕

 

比翼燕は夫婦仲良く並んだ様子を表します。

比翼燕

 

この四つの「沙燕」の象徴するところは相互に対比し、相互が引き立てあうところに意味があり、少し見比べればそれぞれの鮮明な特徴と明確な寓意を見て取ることができます。

 

「沙燕」凧の装飾紋様には単色と彩色の二種類があります。彩色の「沙燕」凧は先ず墨の線で眼、口、爪、翼など主要部分の輪郭を描き、その後様々な彩色の図案を描き入れていき、その図案には様々なバリエーションがあります。よく見かけるのは、両翼に図案を絵付けしたものです。コウモリの紋様は「沙燕」凧で最もよく見る装飾紋様で、「五福捧寿」、「洪福斉天」、「多福多寿」、「福寿綿長」、「福寿双全」などの図案があり、コウモリ紋は更に変形して尾翼、腹部の装飾に使われ、時には「沙燕」のくちばしの代わりに使われたりします。

五福捧寿

 

コウモリ紋様の他、多くの伝統図案が「沙燕」の装飾に使われ、例えば翼に白鶴を描けば「白鶴延年」、九匹の龍を描けば「龍生九種」と言い、ヤマネコ、蝶、牡丹を描けば「耄耋富貴」màodié fùguì(高齢の方が十分な富を持ち、健康で長生きされるのを祈る)、梅、竹、菊を描けば「四君子」などがあります。

耄耋富貴

 

「沙燕」凧の腹部と尾翼の間も装飾の大切な部分で、俗に「腰節」と言います。多くは連続する紋様を何層かに分けて描き、何層に分けるかで幾「道腰節」と言います。例えば三層の連続図案は「三道腰節」、五層なら「五道腰節」と言います。「腰節」の図案は多くが伝統紋様から取られ、例えば「万不断」、「拐子龍」、「雲鈎」、「回文」、「蓮花瓣」、「方勝」、「盤腸」、「如意鈎」などの図案(吉祥図案)があります。「腰節」の図案は集中し、まとまっており、「沙燕」の白い胸と尻尾を際立たせ、模様のリズム感を生み出しています。

 

「沙燕」凧のもうひとつの有名な装飾方法が「反画法」で、すなわち一羽の標準的な単色の「沙燕」図案を裏焼きして描かれます。この画法は写真のネガと同じで、元々濃い色の部分を淡い色で描き、元々空白の部分を濃い色で描き、こうして北京の「沙燕」凧の一品種、「黒鍋底」が生まれました。「黒鍋底」は黒色で描いた「沙燕」で、赤色で描けば「紅鍋底」、青で描けば「藍鍋底」です。

「黒鍋底」の「沙燕」

 

写実手法で動物の造形を真似た凧はもうひとつの重要な流派で、よく見る凧は鷹、燕、白鶴、錦鶏、蜻蜒、胡蝶などがあります。これらの動物の姿形と凧の造形はよく似ていて、どれも二枚の開いた翼を持ち、空を飛ぶ時の様子や、遠くから見た効果も、自然です。凧に絵付けする時はできるだけ真に迫って生き生きとするよう心掛けます。例えば鷹を描く時は、翼の羽の毛一本一本をはっきり描き、少しも疎かにしません。トンボを描く時は翼の網の目の通っている方向をきっちり描き、細かい網の目を表現する。こうした凧は一見すると作りが簡潔で、中国の一般の人々の審美習慣に合っています。

 

写実的なスタイルの凧の図案は中国の伝統的な画法の「重彩」(水墨画以前の中国の伝統絵画)の表現方法と同じく、線描と輪郭を主要な手段とし、その後彩色を施していきます。多くの凧はそれ自身が美しい「重彩」絵画の作品となっています。

 

人物凧は凧の造形の制約を受けるため、背景の図案を加えることで、画面が凧の両翼いっぱいに描かれるようにする必要があります。よく使われる背景の紋様は、雲紋、花卉、海の波、リボンなどです。例えば「天女散花」、「孫悟空」、「鍾馗」などの凧は、いずれも主要な人物の姿を描くと同時に、濃密な雲紋が描き加えられています。

 

物の形の凧は一般によく見かけるもので、多いのは「扇子」、「宮灯」(八角形や六角形の灯籠)、「八卦」、「鼎」、「雨傘」、「花籃」などです。その他、宝塔、亭閣、ダイコン、ハクサイ、果物などの凧もあります。「八卦」、「宝塔」などの凧が決まった形式で作られている以外は、その他の多くは作者の即興の創作で、決まった形式は存在しません。

 

中国凧の主な装飾方法は絵付けであり、先に紙を糊付けしてから絵を描くか、先に絵を描いた紙を糊付けするかのどちらかです。木版で水彩塗料を印刷して装飾紋様を完成させる方法では、先ず凧の各部分の図案をいくつかの部分に分解し、各部分を小型の木版に刻み、切った紙に個別に印刷したら、最後に糊で貼り付けていきます。絵付けと印刷の結合方式では、先ず図案の輪郭を印刷し、糊で本体に貼り付けてから、後で色を入れていきます。

 

中国凧は複合的な民間芸術であり、絵画、結わえた糸の調整、自然科学、民俗的な風情、文化やスポーツとしての娯楽などが結びついています。したがって、人々は様々な角度から凧を見ることになり、民間芸術の立場から凧の芸術的風格や造形、色彩、装飾の特徴を研究することができますし、自然科学の立場から凧の開発の実用価値を考えることもできます。民俗学の立場から凧の民俗的な意義を検討することもできますし、スポーツ、健康増進の立場から凧が人類に提供した健康増進作用を調べることもできるのです。

 

伝統的な沙燕風筝

 

中国のおもちゃについて、今回は凧を取り上げたいと思います。今回も、王連海著『中国民間玩具簡史』(北京工芸美術出版社1991年)の内容を元にしています。

 

凧は日本でも平安時代頃までに中国から伝わったようですが、中国では凧はいつ頃生まれたのでしょうか。

 

古書の記述によれば、春秋戦国時代の紀元前5世紀ごろ、墨子(BC470頃~BC390頃)、公輸子(魯班のこと。BC507~BC444大工の始祖とされる)が「木鳶」mùyuān(木製のトンビのような鳥型飛行器具)を制作したという記述があります。

 

『韓非子・外儲説左上』に、「墨子は木鳶を作るに三年にして成り、一日飛びて落ちる」とあり、『墨子』には、「公輸子は竹木を削りて鵲と為し、之を飛ばすに、三日下らず」とあります。

 

これらの書物で、中国の最も古い飛行器具を「木鳶」と記録しています。「木鳶」は「紙鳶」zhǐyuān(紙で作った鳥型の飛行器具)の前身だと見做され、「紙鳶」は凧の前身、或いは古称です。したがって、「木鳶」がすなわち凧の起源であり、凧は墨子や公輸子が活躍した時代、春秋戦国時代に起源を発するとされました。

 

二つめに、凧は紀元前3世紀、秦末漢初に始まるとする説があり、その根拠は、劉備とともに漢を建国した将軍、韓信が凧を作ったとするものです。宋代の高承は『事物紀原』第八巻の凧の項目に、次のように書いています。

「俗に言う凧は、古今相伝して云うに韓信が作ると。高祖の陳豨を征する也、信は謀りて中より起ち、故に紙鳶を作り之を放つ。以て未央宮の遠近を量り、俗に地を穿ちて宮中に隧入する也。蓋し昔は此の如く伝え、理或いは然る矣。」

 

ただ、これらの説はどちらかというと伝説の域を出ず、何れの話も正史には出てきません。

 

今のところ、凧の起源についての最も有力な説は、6世紀の南北朝時代を起源とするものです。『南史・侯景伝』に、こうあります。

「掃討平定のこと、援軍を望む。既に中外が断絶するに、羊車で献策する者あり、「紙鴉」を作り、長き縄を以て縛り、勅を中に蔵す。簡文は太極殿前に出づ。西北の風に因りて放ち、書の達するを願う。賊どもは之に驚き、是は呪いの術だと謂い、また之を射落とさんとし、其の危急なること此の如し。」

 

「紙鴉」は「紙鳶」のことで、簡文とは南朝梁の簡文帝蕭綱のことです。梁の武帝の太清三年(西暦549年)、侯景が叛乱を起こし、梁王朝の南京台城を攻撃した時の記述です。

 

司馬光『資治通鑑』巻162にも、これとほぼ同じ内容が記述されています。

「武帝の太清三年、羊車で紙鴟を作るを献策する者あり。胡三省の注では、紙鴟は即ち紙鳶也。今は俗に之を紙鷂と謂う。」

 

1930年代に金鉄庵が『風筝譜』という本を著し、その中でこう言っています。

「凧の最も古い名前は紙鴟で、それが創出されたのは遠く梁武帝の時代である。」

また、葉又新は『風筝』と題した文の中で『資治通鑑』と『北史』を引用し、これらを根拠に次のように断言している。

「これらから、今から1500年前には既に凧が存在し、且つ人を載せる実験が行われたことが分かる。」

 

これらの凧の起源説の根拠は、限られた古書の記述に基づいているのですが、残念ながら今なお当時の凧の実物は発見されていません。しかし絵画や陶器の装飾紋の中には、当時の凧の形を見ることができます。

 

古代の凧の呼び方は様々で、時代が違えば、用いられる名前も異なっていました。歴代の名称を集めてみると、紙鳶、風鳶、鷂子、風鷂、紙鷂、紙鴟、紙鴉などがありました。これらの名前は何れも鳥の名前を借りたものであり、ここから、最初に凧を発明した人は、おそらく空を飛ぶ鳥から啓発を受けたのだろうと推察できます。

 

唐代末期、ある人が紙鳶に琴弦を取り付け、風に当たると音が出るようにしました。音は楽器の「筝」、日本語の琴が鳴るようであったので、ここではじめて、現代中国語で凧の意味である「風筝」の名称が現れました。高駢は「風筝」の詩を詠みました。「夜静かに弦声は碧空に響く、宮商は信任し往きて風来る、かすかに曲に似たり、初めて聴くに堪え、また風吹くにより別の調べに中らしむ。」この詩の意味を察するに、作者が詠んだ「風筝」は琴の弦を取り付けたものであったに違いありません。後に、またある人は凧に竹笛を取り付けました。明代、作者不詳『詢蒭録』にこう書かれています。「初めて五代漢の李業が宮中で紙鳶を作り、糸を引きて風に乗るを戯れとなし、後に鳶首に竹を以て笛と為し、風を入れて声を作すこと筝鳴の如し、俗に風筝と呼ぶ。」これは五代十国時代に竹笛付きの「風筝」が始まることを言っています。

 

凧が普及し娯楽用品になるのは、五代十国時代以降のことです。宋代、凧はようやく広くの間に普及しました。南宋の『西湖老人繁勝録』の「諸行市」の項目によると、「京都に四百十四行有り」、その中に「風筝」が含まれています。このことから、凧の制作は既に職業化され、その販売業者も確立していることがわかります。宋代の風俗の記述によれば、清明節に凧を揚げることは次第に風習として根付いていました。

 

 

明、清時代、凧の制作、揚げて飛ばす技術は何れも高いレベルに達し、凧は既に成熟段階に入りました。明代の凧の実物はもはや見つけるのが難しいですが、古い絵画、陶磁器、彫刻などの装飾図案の中に、明代の凧のイメージを見ることができます。台湾の故宮博物院収蔵の明代の斗彩酒杯には、盃の外側に子供が凧を揚げる図案が描かれています。凧の形は現在の「瓦片」、つまり屋根瓦(平瓦)の形に似ていて、長方形で、帯状の紙のしっぽが三本付いていて、極めてシンプルです。明代の青色絵付けの陶磁器「嬰戯碗」、「嬰戯罐」(子供が遊ぶ絵が描かれた碗や壺)には子供が凧を揚げる図案が描かれていて、凧の形は「屋根瓦」の形の角凧です。

宋・元磁州窯紅緑彩児童放風筝紋梅瓶

 

「瓦片」(屋根瓦の形)の形の凧(角凧)は民間で作られた凧のうちで最も広く普及したもので、俗に「屁股簾」と呼ばれます。三本の竹の棒で骨組みを作り、うち二本は方形の紙の上で交差させ、もう一本は上辺に横向きに置いて弓状に反らせ、下端には三本の帯状の紙のしっぽを付けます。凧のお尻に簾のようなしっぽが付いているので、「屁股簾」と呼ばれたのでしょう。角凧の出現は凧の発展の上で重要な意義を持ち、凧の成熟と普及を示すだけでなく、人々が凧が飛ぶ原理を十分に理解したことを証明しています。凧の飛ぶ科学的なしくみを十分に理解してはじめて、このような簡単な構造が採用されるようになったのです。今日でも角凧は変わることなく中国の子供たちの愛するおもちゃであり続けています。

 

凧はおもちゃとして幅広く普及し、中国社会の各階層で用いられ、一般庶民だけでなく、高官貴人や宮廷の貴族の間でも凧を揚げる風習が根付きました。文人達は凧揚げを気晴らしの行為とし、凧揚げを詠んだ詩や文章を数多く残されました。

 

明代の画家、徐渭の『青滕書屋文集』の中に、作者創作の『風鳶図詩』25首が掲載され、詩の中ではこのように書かれています。

「竹を縛り凧に糊付け鳥を作り飛ばすも、天気が崩れ雨でびしょ濡れになった。明日の朝は清明節なので、飴(麦芽糖)を柳市の西に買いに行こう。」

「揚子江の北も南も凧揚げをする人でいっぱいだ。高く揚がった凧、低い凧、それぞれ天空を旋回している。春風は古来気まぐれで、風任せに飛ばしたら笛を失った。」

 

清代、凧の数、品質、種類は史上最高のレベルに達し、凧はひとつの専門の手工芸技術になりました。凧の設計、制作には見栄えがたいへん重視され、様々な物に形を似せた凧が出現しました。

 

古典の名著『紅楼夢』の第七十回では、大観園の人々が凧を揚げる情景が詳細に描かれていますが、これについてはまた別の章で紹介します。『紅楼夢』の作者の曹雪芹は、彼自身が凧の設計や制作をしていたようで、関連する著作も発見されています。

 

凧を揚げる時期については、わりと強い季節性があり、その理由は自然や気候が凧揚げに強い影響力を持つからでした。宋代以降、春に凧を揚げるのが恒例になりました。清明節の前後に、都市に住む人々の多くが、郊外の広い空き地で凧を揚げました。宋の高承は『事物記原』の中で紙鳶を「季節の風俗」のひとつとして取り上げましたが、それは凧が季節性を持っていたからです。清代には、春に凧揚げが盛んに行われましたが、『紅楼夢』で、大観園で暮らす人々が凧揚げをした時期は「仲春」(陰暦の二月)でした。清の李声振が『百戯竹枝詞』(「竹枝詞」は七言絶句に似た漢詩の一種)の中で、「百丈に糸を遊び紙鳶を揚げる、芳郊の三女、禁煙の前」と詠んでいます。「禁煙」とは即ち清明節の前の寒食節(この日から3日は火を使わず、冷たいものを食べた)のことです。一方、これら北方の習慣とは異なり、南方各地には秋に凧を揚げる習慣があり、福建省では多く九月九日の「重陽節」に凧揚げをし、清末の風俗画家、呉友如の『紙鳶遣興』図の題詞に、「閩中の風俗に、重陽の日に人々は鳥石山の山上や崖で凧揚げを競うを楽しみとする」とあります。

呉友如『紙鳶遣興』

 

清の人々の凧揚げの情景は多く絵画作品の中に見られ、『呉友如画宝』の中にも子供が凧揚げを競うのを描いた絵が見られます。絵の中で、五人の子供が郊外の古墓の付近で一緒に遊び戯れていて、ひとりは地面にしゃがんで凧糸を結んでおり、別の二人の凧は既に上空に揚がっています。一方の凧は硬い翼(上下2本の竹を細く裂いた棒で翼の周囲を固定し支えている)の蝶々で、もう一方の凧は円形の(竹を裂いた棒を曲げて、円形の周囲を固定し支えた)平面形の凧。傍らでは二人の子供がそれを見物していて、その情景が生き生きとし真に迫っています。

『呉友如画宝』放風筝図

 

『北京民間風俗百図』の中にも凧揚げの絵があり、絵の端の題字にこう書かれています。「これ中国の凧揚げの図也。春季になる毎に、無事の人、竹ひごで胡蝶や様々な飛禽を作り、上に糸を一条結び、戸外の空に放ち、人は仰面して之を視るに以て空気を吸い、所謂衛生也。」

『北京民間風俗百図』

 

明清の両時代の文人や読書人、一般庶民は皆、凧をたいへん愛好しましたが、皇帝は人々が城内で凧を揚げるのを禁じました。その理由は、古代の伝説で韓信が凧を使って未央宮(漢王朝の宮殿)の寸法を測量し、地下にトンネルを掘って宮廷に侵入し反乱を起こそうとたくらんだことに起因していると思われます。このような伝説は、一般には伏せられていましたが、宋代に至ってようやく高承の『事物紀原』に記載されました。明清の両時代、皇帝は先例により似たようなことがまた起こるのを恐れ、明文をもって城内で凧を揚げるのを禁じました。明朝の人、劉侗、于奕は『帝京景物略』の中でこう言っています。「燕では昔、風鳶戯があり、俗に亳儿と言ったが、今は既に禁じている。」ここで指しているのは、城域内で凧揚げを禁じていることでした。反乱防止から始まり、明文をもって凧揚げを禁止した事情は、おそらく今日凧揚げをする人には思いもかけないことでしょう。

 

以上が、中国の凧の起源と、その発展の歴史です。それでは次回、中国の凧の種類や特徴について、紹介していきたいと思います。

 

布老虎

 

前回まで、粘土を焼いて作った中国各地の泥人形を紹介してきました。中国の伝統的なおもちゃにはもうひとつ、布で作ったおもちゃがあります。今回は、「香包」と「布老虎」を取り上げます。

 

香包

 

「香包」(におい袋)と「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は何れも五月五日の端午節の季節の玩具であり、中国全土に存在します。端午節は中国語圏の伝統的な祝日です。端午節の起源にはいくつか説がありますが、その中でも、特に代表的なものは四つあります。ひとつは「屈原説」。端午節にちまきを食べ、ペーロン、或いはドラゴンボートの競争をするのは、戦国時代、楚の政治家で詩人であった屈原(紀元前4-3世紀)を哀悼して始まったものとされ、端午節は屈原の記念日とされています。ふたつめは「龍の祭り説」。ちまきを食べるのもボート競技も何れも龍が関係しており、五色の糸を腕に巻くのは、体を「龍に似せ」るための「入れ墨」の風習の名残であり、端午節は龍のお祭りであるとするものです。三つめは「悪日説」。端午節にヨモギや菖蒲を家の門に挿したり、入口に掛けたりするのは、夏の病を防ぐためで、昔の風習で旧暦五月を「悪月」と看做すのと呼応していて、端午節は「悪日」より来ているとするもの。四つめは「夏至説」。端午節の行事で、「闘百草」(グループで薬草採りをして、摘んだ種類の多さや内容を競う)、「薬草採り」、ちまきを食べるのは何れも古代の「夏至節」から来ており、端午節は別名を「中天節」と言い、その起源は夏至から来ているというもの。

 

闘百草

端午節は、季節の風俗として、古代からの長い歴史を通じ豊かな内容を持ち、人々の飲食、服装、住まいや生活環境、文化や体育活動など多方面に関わっています。

 

端午節になると、におい袋や虎のぬいぐるみを子供の胸元や袖口につけたりぶらさげたりするのは、中国全土で行われる風習です。その起源を見てみると、「五色の糸を腕に巻き付ける」古代の風習から来ていると思われます。

 

香包(におい袋)

『風俗通』という本の中で、こう記されています。

「五月五日に五色の糸を腕に巻くのは戦避けである。また病避けでもある。また屈原から来ているともいう。一名を「長命縷」(“縷”lǚは糸のこと)、また一名を「続命」、「避兵繒」(“繒”zèngはひもでくくること)、「五色絲」、「朱索」(“索”suǒは綱やロープのこと)などと言う。また腕飾りなど布で作ったアクセサリーもあり、皆互いに関係している。」

 

こうした風俗の記述は『抱朴子』、『荊楚歳時記』、『玉燭宝典』などの古書にも見られることから、漢代以降、人々は端午節に五色の糸を腕に巻いて邪鬼や戦を避けるのを習慣としてきたことがわかります。五色の糸は、青、赤、白、黒、黄の五種類の糸で、それぞれ東、南、西、北、中央の五つの方位を象徴しています。また、五色の糸を縫って四角の飾りを作り、胸元に付けることもありました。時代を経て受け継がれ、改良され変化してきました。北宋時代には端午の日に「百索」(端午節の縁起の良い飾りで、五色の糸を編んだもの)を売り、南宋時代には「百索を銅銭投げの賭けで販売し、子供は胸に掛けたり、髪の毛を縛るのに使ったりし、糸で結んだり、玉飾りを付け」たりし、宮廷の宰相以下の官僚たちは「百索」の色糸を結んで「経筒」(筒状の容器の中に経文を刷った紙を収めたもの)や「符袋」(御守り)を作って胸元に飾り、『抱朴子』に書かれた「赤い霊符を胸の前にぶらさげ」た故事に倣いました。

 

「百索」、五色の糸を腕に巻く

子供たちが手に巻いた「百索」

ここで言う「経筒」や「符袋」が今日の「香包」、つまりにおい袋のことです。宋代以降、五色の糸を腕に巻き、におい袋を身につける風習は益々一般的になり、今日に至るまで、におい袋の生産は盛んに生産され、全国各地で端午節の期間中は様々な香包、香袋、香嚢(何れもにおい袋の異なる言い方)が出回っています。

 

におい袋には様々な様式のものがありますが、概ね三つに分類することができます。ひとつは、十二支、獅子、双子(双魚)、盤腸(吉祥模様)、草花、珍禽、瑞獣、野菜、瓜などの形に似せたものです。

 

「盤腸」(吉祥模様)

 

ひとつはひし形、円形、方形、六角形、八角形、桝形、三日月形、扇形など幾何学図形。もうひとつは総合型で、いくつかのちいさなにおい袋を串状につなげたり結んだりして一組にしたもので、全国各地で内容は異なり、例えば北京では織物、麦わら、色紙、色糸で布老虎(虎のぬいぐるみ)、蓋簾(蠅帳)、ニンニクの茎と葉、箒、粽、クワの実、瓢箪などの形に作った小さなにおい袋を一列につなげました。陝西省北部では布老虎と、サソリ、ムカデ、蛇、蝎里虎子(鰐)、クモを一列につなぎました。西北地方では、カエル、十二支を使うのが喜ばれ、南方では大小大きさの違う粽が用いられました。どの地域のにおい袋にもそれぞれ異なった寓意があり、例えば北京のにおい袋のうちの「蓋簾」(蠅帳。はいちょう)は、夏に五穀を干して乾かすことを象徴し、箒は端午節の後、掃除に勤しむこと、瓢箪は毒気を抑圧することを象徴し、クワの実、粽は季節の野菜や果物を、ニンニクの茎と葉は毒を去って体を強くすることを象徴しています。

箒のにおい袋

陝西省北部のにおい袋のムカデ、サソリなどは五毒を象徴し、それに布老虎を加えることで「虎鎮五毒」、つまり虎が五毒を抑えるという意味になります。西北地方の十二支は、還暦を迎えてもまだまだ元気で、百歳まで長生きすることを象徴しています。

 

「虎鎮五毒」のにおい袋

十二支のにおい袋

におい袋は多くが木綿、絹、麻布などの織物を材料とし、裁断、刺繍、切り貼り、貼り付け、巻き付け、縄掛け、穴埋めなど様々な加工手段を用いて作られています。におい袋の中にはヨモギ、龍脳香、樟脳を入れ、中にはビャクダンや麝香など芳香を発する薬剤を入れたものもあり、子供の胸元や腕に掛けたり、枕元に掛けたりしました。古い習慣では、端午節が過ぎたら首に掛けていたにおい袋は捨てることで、疫病を除こうとしました。他人が捨てたにおい袋を見つけても、決して拾ってはならないとされました。さもないと不幸を招くことになるからです。現在、におい袋は子供のおもちゃや地方の旅行みやげとして盛んに作られていますが、におい袋を捨てることで災害を除く風習は今ではあまり見られません。

 

「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は端午節の期間に盛んに売られる代表的な季節玩具です。「布老虎」の起源もたいへん古く、既に秦の時代には虎は神話に取り入れられ、『山海経』によれば、東海の度朔山dùshuòshānに二人の仙人が住んでいて、ひとりは神荼shénshū(しんと)、もうひとりは郁儡yùlǜ(うつるい)と言い、彼らは多くの鬼が出入りする門(「鬼門」)を守っていました。悪い鬼に出逢うと、アシの縄で鬼を縛り、虎に食べさせました。これより虎は神話の中で重要な地位を占めるようになりました。漢の時代、新年を迎える際に神荼と郁儡を家の門に描き、同時に虎も描きました。古代の人々は、虎は陰陽の陽で、「性、鬼魅(妖怪)を食す」ことから、虎を明るい所に描けば、鬼が驚いて逃げると考えました。民間の木版年画、切り紙細工、刺繍などの工芸美術品では、虎は重要な題材でした。例えば、山東省楊家埠(山東半島北部、濰坊市に属する)の木版年画(旧正月などに部屋に掛ける吉祥やめでたい気分を描いた絵)には「鎮宅神虎」、「威震山林」などがあり、その中には次のような詩句を題したものがありました。「虎は山を下りるとあちこち歩き回り、百獣たちの中でその力は諸侯に覇を称えた。良民や一般庶民の邪魔をせず、ただ悪党の手足や頭を食べた。」楊家埠の年画や福建省泉州の木版年画では、虎が「聚宝盆」(打ち出の小づちのように、取っても取っても尽きることなく宝物が出てくる鉢)を守る画題がよく見られます。絵の中に次のような詩句を題したものがあります。「猛虎は雄々しく威厳を持って山林に宿り、その咆哮は雷のようで鬼神を驚かせた。秦の始皇帝は山王獣に封じ、広く聚宝盆を守った。」また次のように書かれています。「鎮宅の神虎は多く清静、当朝の一品獣王に封じ、深山に立たず松林に合し、金銀聚宝盆を持守する。」民間の伝統的な観念では、虎は鬼を駆逐し家を鎮めるだけでなく、家財や富を守ることができました。このような寓意に基づき、「布老虎」が誕生したのだと思われます。

鎮宅神虎

威震山林

古い風習では、端午節のあいだ、人々は子供たちのために布老虎を作ったり、雄黄(鶏冠石ともいい、橙黄色で光沢のある塗料)を用いて子供の額に虎の顔を描き、それに「王」の字を書き入れたりすることが盛んに行われました。それは子供たちが虎のように勇敢で強く、健康に育つことを願ってのことでした。

子供の額に「王」の字を書く

端午節の「布老虎」種類は様々で、単頭虎、双頭虎(胴の両側に頭がついたもの)、さらに母虎、枕頭虎(胴が枕になったもの)、套虎(二頭、或いは何頭か、大小大きさの異なる虎がセットになったもの)などがありました。「布老虎」を作る材料、色彩、飾り模様、作り方には様々なバリエーションがあります。よく見かけるのは、綿布や絹の布を縫って作り、中には材木ののこぎり屑や穀物の糠を詰め、表面は上絵を描いたり、刺繍を施したり、切り紙を貼り付けたり、接ぎを施したりして、虎の目鼻、口耳や、体の模様を表現しました。

単頭虎

 

双頭虎

「布老虎」の造形は、頭が大きく、眼が大きく、口が大きく、銅は小さくして、虎の勇猛で威厳に富む様子を強調しました。同時に、大きく作られた頭や目鼻や口が、虎の天真爛漫であどけない様子を表現し、子供のように無邪気な様子を表しました。「布老虎」の作者は多くが農村の女性で、とりわけ老年の婦人が多く、作者は自分の子供が虎のように勇敢で丈夫であってほしいと願い、また虎が子供の友達になり、子供の健康や安全を守ってくれることを願いました。作者の創作の動機が虎の形や精神、性格の特徴を決定しました。「布老虎」一頭一頭に親の子供への期待や祈りが凝縮されており、そのため「布老虎」はこれほど人の心を動かし、人を惹きつけ、愛されてきたのだと思います。

 

河南省淮陽県では太吴陵廟会の期間、山東省莒南県では春節の期間、河北省新城県では元宵節(旧暦の1月15日)の期間、河南省浚県では「正月会」の期間、たくさんの「布老虎」が市場に出回り、人々の需要に応えました。こうした商品としての「布老虎」は、地域によってデザインや造り方で濃厚な地域性を見出すことができます。例えば北京地区の伝統的な「布虎」は多くが黄色い布を下地に用い、模様や目鼻、口、耳には黒、白、赤の緞子の生地を切って貼り付けています。山東省莒南県の「布老虎」は、赤、緑、茶色の染料で虎の紋を花の紋様に描いています。陝西省や山西省では、様々な縫い方を駆使して、刺繍で紋様を描きます。こうした「布老虎」は、邪鬼を追い払い、病や祟りを避け、幸福を祈るという寓意を持っています。

 

「老虎枕頭」(虎の形をした枕)は「布老虎」と同様、実用と玩具の性格を併せ持ち、虎枕には胴の一方だけが虎の頭の単頭虎枕、胴の両側に虎の頭が付いた双頭虎枕、枕に耳を保護する穴の開いた「耳枕」の区分があり、子供の寝具であるとともにおもちゃでもあります。

老虎枕頭

 

虎枕は、高承の『事物紀原』での考証によれば、西漢(前漢)の将軍、李広が虎を射た故事に起源を発するとされます。

 

この事件は晋代の葛洪『西京雑記』に見られます。

「李広と彼の兄弟たちはいっしょに冥山の北で狩をし、虎が横になっているのを見つけた。これを射て、一矢で仕留めた。その頭蓋骨を切って枕にし、猛獣をも屈服させたことを示威した。」

 

李広が虎を射殺して後、虎の頭を切り取って枕にした目的は、自分が猛獣を征服した功績を顕示するためで、この事件はやがて「虎枕の始まり」と言ってもてはやされるようになりました布製の虎枕の造形は、「布老虎」に比べるとより大雑把で簡単になり、虎の四本の足や尻尾は省略され、腰や背中はくぼませられ、横になって寝やすくされました。「耳枕」は腹ばいになって平たくなった虎の形に作られ、虎の背中の中央には穴が穿たれ、頭を横にして寝そべった時に耳が入るようにし、子供の耳が押されて圧迫されないようになっています。

耳枕

注目すべきは、「布老虎」は季節の節句の行事以外の人々の行事の中でも重要な役割を果たしていることです。華北地方や東北地方などでは昔から赤ん坊が生まれると「洗三」(赤ん坊が生まれて3日目に産湯を使わせること)の風習があり、昔はこれを「洗児会」と言い、赤ん坊が生まれて3日目に母方の親族が黒砂糖、卵、コメ、餅、母鶏などのお祝いを持って赤ん坊を見舞い、体を洗ってやりました。お祝いの品の中に必ず「布老虎」が含まれなければならず、この「布老虎」は子供の一生の中で初めてのおもちゃであり、貴重な誕生日の贈り物でした。子供が生まれて百日目、満一歳、或いは二歳の誕生日には、祖母、母方の祖母からも通常「布老虎」が贈られました。「布老虎」を贈ったり作ったりする習慣は、今日でもなお各地の農村で行われています。

洗三