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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

瓊華島

第二節 金代の中都

 

 

社会経済(続き)

 農村の経済概況 都の郊外の土地は、政府、貴族、官僚と大地主の手で掌握されていた。漢人の名門の大地主の中で、韓、劉、馬、趙の四つの姓が、遼以来幽燕地区の大金持ちであった。官田と放牧地は国家が直接管理する土地であり、中都路の放牧地は全部で63516.667ヘクタール)余りに達した。貴族が賜ったり略奪したりすることで大量の土地を占有し、都城内の170家の宗室の占有地が3,683に達した。一般に猛安(女真語で「千戸」の意味)、謀克(同「百戸」)の民戸が内地に移り住んで後、政府が各戸に土地を賜い、そこを耕作させ、平時の口糧とさせた。貞元の遷都1153年。金の海陵王、完顔亮の中都への遷都)に伴い、上都で元々太祖阿骨打、遼王宗干、秦王宗翰に属していた猛安(三者は合併して「合扎猛安」となった)と右諫議の烏里補猛安、及び太師勗、宗正宗敬の親族は皆、中都に引っ越した。その他の人戸はそれぞれ山東、河北の各地に引っ越した。多くの民間の田畑はこのために略奪を受けた。これらの軍事を職業とする猛安、謀克の人戸は、おごり高ぶり怠けて、田畑を耕したり穀物を植えたりせず、土地を漢族の農民に分けて耕作させ、重い租税を徴収した。金銭の浪費が過度であったので、彼らは二三年先の租税まで予め徴収した。このため広大な土地が荒廃してしまい、桑や棗の木が勝手に伐採されて柴にして売られ、「一家百口、畝には苗がひとつも植わっていなかった。」このように、内地に引っ越した猛安、謀克は、貧困に耐えきれなくなり、軍役に対応する力がなくなった。女真族の腐敗と貧困を防ぎ、軍隊の戦闘力を維持するため、世宗は再び良田を接収し、再度彼らに分配し、彼らが農耕生産するのを督促したが、全く効果が無かった。一方、多くの漢族の農民は小面積の土地しか無かったものさえ失い、甚だしくは先祖の墓地や井戸、竈さえも、彼らに囲い込まれてしまった。人々はこのために恨み骨髄に達し、民族間の矛盾が激しくなった。

 

 都の近郊の農民は、重い租税と徭役の負担以外にも、多くの特殊な搾取や制限にも耐えねばならなかった。王侯貴族の家は、しばしばみだりに人夫を徴用した。いくらかの田地は囲い込んで牧場にされ、人々は無償で政府のために馬の飼育をさせられた。皇帝が狩猟を行う需要を満足させるため、政府は京畿(都の付近)より真定、滄、、北、及び飛狐に至るまで、数百里内を皆立ち入り禁止とし、狐やウサギを捕殺する者は厳しく罰せられた。

 

 都の近郊の土地では、稲、麦、桑、麻、瓜、野菜類を除いて、『金史・地理誌』によれば、大いに金、銀、銅、鉄の生産を興隆させ、漢方薬として、滑石(かっせき、タルク)、半夏(はんげ)、蒼朮、代赭石(たいしゃせき)、白龍骨、薄荷、五味子、白牽牛などがあった。良郷の金粟梨(洋ナシ)、天生子(イチジク)、及び易州の栗は、小さくて甘く、何れも有名な果実であった。範成大は詩の中でこう詠んでいる。「紫爛山の梨や紅棗、総じて運び易く栗は十分甜い。」南宋から来た使節は、これらの名果を心行くまで楽しんだ。

 

園陵名勝

 

 遼代以前、燕京地区の名勝は、主に規模の広大であったり、古い歴史のある廟宇であった。金の海陵王が遷都して後、ここは一代の王朝の首都となり、いくつもの皇帝、貴族が遊覧した離宮、別荘で、文人、詩人たちが遊びにふけり、詩を吟詠した風景や古跡が時が経つ毎に生み出された。とりわけ金の章宗の在位期(1190年から1208年まで)は、世宗の大定(1161年から1189年まで)の全盛期を承けて後、国は富み、政治は安定し、朝廷も民間も、贅沢が習慣となる傾向にあった。章宗本人は「退廃的な音楽や女色を楽しむのをたいへん好み、」都の郊外の多くの名勝は、皆彼が造営し、評価し、行幸したので、その時代は有名だった。それゆえ、「西山の古跡は、多くが金の章宗の造るところ」と言われた。

 

 瓊華島、梳粧台  現在の北京北海公園に浮かぶ瓊華島は、金の中都の東北、つまり高梁河の支流が集まった湖沼地区にある小島である。金朝の皇帝はここに離宮、大寧宮を建造し、島を 瓊華島と命名し、湖の名は太液池とした。史敩(しこう)の『宮詞』に、「宝帯香褠(こう)水府仙黄旗彩扇九龍船。薰風十里瓊華島、一派の歌声採蓮を唱う。 」この詩からも、当時の緑のハスの葉が天に接し、池に浮かぶ龍舟は色鮮やかな旗がたなびき、ハスの実を採る女たちの歌声が響き渡る場面が想像できる。 瓊華島上の築山や巨石は、汴京から移されたものと伝えられた。徽宗は贅沢や堕落した享楽生活を追及するため、大いに「花石綱」を起こし、江南の奇花異石を汴京まで運び、築山を作った。それから瞬く間に、女真族が北宋を滅ぼし、徽宗は捕虜になり下がり、五国城で客死した。彼が収集した珍宝は、これらの作りが細かく、形の珍しい築山の石も含まれたが、皆敵国の戦利品になった。瓊華島上の 梳粧台は、俗に遼の肖太后の化粧台と言われるが、金の章宗が元妃の李氏のために作ったものだ。

 

 燕京八景 北宋の画家、宋廸瀟湘(湘江)の風景を平遠画法ひろびろとした眺望の中に山林・水流・舟人などを描いた山水図。水平線が画面のほぼ中央にくる )の山水画八副を描き、世間から「瀟湘八景」と呼ばれるようになってから、文人が地方の風景を描写する際、習慣として八景、十景などと呼びならわすようになった。『明昌遺事』(「明昌」は章宗の時代の元号)の中でも、いわゆる「燕京八景」という言い方が現れる。それらは、居庸畳翠、玉泉垂虹、太液秋風、瓊島春陰、薊門飛雨、西山積雪、盧溝暁月、金台夕照、である。

盧溝暁月

 八景の他、『春明夢余録』には金の章宗の西山八院も載せており、何れも章宗が交遊し宴を催した場所である。「そのうち、香水院は京口山にあり、石碑がなお残っている。その少し東は清水院で、現在は大覚寺に改められた。玉泉山には芙蓉殿があり、基壇が残っている。鹿苑は東便門外にあり、通恵河のほとりにあった。」これらは現在は大部分がもう遺跡も残っていない。

 

 寺廟、道観 金代の中都の仏教寺院は、禅寺が多く、律宗寺院は少なかった。著名な寺院には、弥陀寺(法蔵寺)、護聖寺(功徳寺)、甘露寺(香山寺)、聖安寺、隆恩寺、功徳寺、柏王寺、香林禅寺、大覚寺、雀児庵、従容庵などがあり、そのうち香山寺の規模がとりわけ巨大であった。香山寺跡は遼代の中丞、阿里吉が喜捨したものであった。金代にも大規模な築造が行われ、1186年(大定二十六年)に完成し、名を大永安寺と言った。香山の名は、金李宴の『香山記略』によれば、「言い伝えでは、山にふたつの大石があり、形が香炉のようであったので、元の名を香炉山と言い、後の人が略して香雲と称した。」香山寺には祭星台があり、言い伝えでは、章宗が星を祭った場所であった。その西南には護駕松があり、章宗がここを通った時、道の傍らの松の木の影が密に覆っていて、そのため護駕松と呼ばれた。その他、感夢泉があり、聞くところによると、章宗が夢に矢を放つと、その地に泉が湧いたので、翌日地面を掘ってみると、果たして泉の水を得た。それゆえその名がついたそうである。この寺は、明の正統年間、太監の範弘が拡張し、そのため七十万両あまりを費やした。今日の遺跡の中から、私たちはまだ当時の規模の雄壮華麗さのあらましを想像することができる。

北京昌平県東北、銀山の金代古塔群

  道観の中で、比較的有名なものに、玉虚、天長、崇福、修真などがあった。全真教の「七真」の一人の王処一は、玉陽子と号し、何度も世宗、章宗の招請を受けて中都に来て、天長観(今の白雲観)に居住した。世宗は彼に養生と治世の道を尋ねた。王処一は答えて言った。「精髄を含んで以て精神を養い、己を恭して以て無為にす。」後に章宗が彼を体元大師に封じた。

 

 金陵 金の初め、阿骨打と呉乞買の陵墓は上京の護国林の東にあった。海陵王が中都に遷都した後、大房山雲峰寺で地を卜し、陵園を造営し、阿骨打と呉乞買を含め、始祖以下十二帝の梓宮(しきゅう。皇帝、皇后の棺桶)をここに改葬し、万寧県に奉山陵を設置したため、その後は奉先県に改称した。熙宗から章宗までの諸帝をここに葬り、元代になってここはまた房山県に改称した。房山の名は大房山より来ている。大房山は山が高く険しく、優れて麗しく、古来よりここは「幽燕の奥座敷」と称された。金陵はおおよそ金、元の時代に既に壊滅的な破壊を受けていた。明朝の人、儲巏(ちょかん)は、『大房金源諸陵』の詩の中でそのことを詠っている。「翁仲(石像)は半ば存す行殿の跡、苺苔(青苔)は尽く蝕す古碑の陰」。これより、明中期までに陵墓はひどく破損していたことを説明している。

 

蒙古軍の威嚇下の中都

 

 ジンギスカンの中都包囲 十三世紀初め、蒙古部の首領、テムジンは蒙古草原の諸部を統一し、ジンギスカンと号し、直ちに南に向け金を侵略した。1211年(金の衛紹王の大安三年)、ジンギスカンが自ら軍隊を率いて金の師団を野狐嶺で破り、烏沙堡を下し、徳興府を抜いた。金の居庸関の守将は城を棄てて走り、蒙古の大将は中都に入らず、取り囲んだ。『大金国志』の記載によれば、金人は「京城の金持ちを東子城に移し、百官の家族は南子城に入り、宗室は西城に保ち、帝王の外戚を北城に保ち、各々兵隊二万人を配分した。およそ一般市民は、その逃避を聞いた。」「都の橋梁、瓦や石を尽く四つの城に運び入れ、通行に舟で渡し、運べないものは水に投げ入れた。城に近い民家は壊されて薪にされ、城中に納められた。凡そ城市に備蓄されたものは、そのまま子城内に運び込まれ、隠すことは許さなかった。」蒙古兵が城を攻撃し、城中では何度も市街戦が繰り広げられた。四つの子城は堅守され、内城と連携作戦が取られ、蒙古軍は侵攻を進めることができなかった。これに加え、各地で援軍が招集され、ジンギスカンは暫時北に撤退せざるを得なかった。戦争は中都に極めて深刻な破壊をもたらした。この一年、金に使いした南宋の使者、程卓の報告によれば、中都の南城一帯では「ちょうど破壊を受けたところが補修された。」真定以北は、道中ずっと燕城の修復に向かう壮丁や軍糧を運ぶ軍隊に出会った。金朝政府は通常の租税以外に、王朝による食糧買い付け制度を創設し、初めは借りる等の名目で百姓に対する収奪を重くした。「燕京の米の値は石当たり十貫した。軍兵が合わせて毎月支給された米糧は石当たり銭換算で一貫、時価の十分の一に過ぎなかった。」金人の困窮状況がおおよそ知ることができる。

 

 蒙古軍が勢いを盛り返し再度攻めてくるのに備え、衛紹王は告示を出して賢者を招へいし、名を王守信というペテン師の巫師を行軍都統に任命した。王守信は頭に黒い頭巾を被り、黄色の長衣を着て、手に腊牌と牛の角笛を持った「鬼兵」を一隊組織した。この「鬼兵」は当然敵を退ける役に立たず、毎日城を出ては人々を殺戮しては自分たちの手柄にしていた。

 

 1213年、ジンギスカンはまた大挙して金を攻め、宣徳を落とし、懐来を陥落させ、金の行省、完顔綱、元帥の術虎高琪の軍隊を破った。高琪は居庸関まで退却し、自然の要害に拠って敵の攻撃を防いだ。蒙古軍は北口外で堅く阻止され、侵入することができなかった。ジンギスカンはそれで兵を留めて対峙し、自ら大軍を率いて回り道をして涿鹿に出て、金の西京留守、胡沙虎を破り、紫金口から都の南に進入し、涿州、易州を攻撃して下し、別動隊が南側から居庸関を挟撃してこれを下し、北口の対峙軍と合流した。

 

 胡沙虎は中都に逃げ帰って後、軍隊は通玄門外に駐屯した。八月、胡沙虎が謀反を起こして挙兵し、通玄門を奪い、東華門を攻略して破り宮殿に入り、衛紹王を殺して豊王完顔珣を擁立して皇帝にした。宣宗である。貞祐に改元した。これと同時に、蒙古軍は三道に分かれて深く華北平原に入り、河北の郡県は、中都等十一城を除き尽く陥落した。1214年(貞祐二年)春、ジンギスカンと諸王は軍を返し、中都の北郊に集合した。宣宗の使者は講和を乞い、岐国公主、色とりどりの刺繍の衣装三千件、御馬三千匹とその他の金銀珠玉を献上した。ジンギスカンの大軍は尽く駆けて山東、両河の少壮数十万を捕虜にし北に去り、漁児濼(今の達爾泊)で避暑をした。この時の中都はひどく破壊されていた。城中は長らく食糧が欠乏し、餓死する者が十中四五、白銀三斤でも三升の米に換えることができなかった。

 

 貞祐の南遷と中都城の陥落 蒙古軍の威嚇を避けるため、気の弱い金の宣宗(「貞祐」は金の宣宗の元号)は百官、読書人、一般の人々の忠告や制止も聞かず、都を南の汴京に遷すことを決定した。1214年五月、宣宗は丞相に完顔承暉と抹撚尽忠を任命し、太子の守忠を補佐し、中都を留守(皇帝が都を離れる時に大臣に命じて都を守らせる)させ、自分は文書、珍宝を尽く発し、親王、宗族と共にあわただしく南巡に向かった。随行したのは契丹人ときゅう。遼、金、元の時代に征服された北方の諸族)で構成された乣軍(きゅうぐん)であった。良郷に至り、宣宗はこの軍隊が信用できないと恐れ、支給した鎧兜や軍馬を奪い返そうとした。乣軍はこのため突然反乱を起こし、統帥(司令官)を殺し、共に答、比渉児、刺児を長とし、隊伍を反転させ、北の方中都に引き返した。完顔承暉は事変を聞き、軍を派遣し盧溝橋に拠って守り、彼らを通過できないようにした。答は副将の塔塔児に軽騎千人を率いさせ、密かに出兵して渡河し、北岸から守橋軍を襲撃させ、盧溝橋を奪い北に向かった。反乱軍は北に向かって後、使者を派遣しジンギスカンに投降した。ジンギスカンは三木合拔都 、石抹明安らと乣軍を合わせ、中都を包囲した。7月、太子守忠も逃亡し、汴京に逃げた。

 

 中都を救うため、1215年二月、金は元帥で左監軍の完顔永錫を派遣し中山、真定の兵を率いさせ、烏古論慶寿が大名等の地方の軍三万余りを率い、御史中丞の李英を以て軍糧を輸送し、参知政事で大名行省の術魯徳に軍隊の調整をさせて相次いで軍を発し、進路を分けて北進し、中都の包囲を解くよう企図した。永錫軍は涿州に進んだが、蒙古軍に破れた。李英は行軍の途中で大酒を飲んで酔いつぶれ、軍隊は規律が無く、覇州に進んだが、蒙古軍に囲まれ殲滅され、軍糧は全て喪失した。慶寿はその知らせを聞くと、向きを変え、南に逃げた。これより、中都は援軍を絶たれ、孤立し堅守が困難になった。この年の五月、守忠は城を棄て南に逃げた。承暉は自殺し、中都は蒙古軍の手に落ちた。

 

 毎年繰り返される戦争により、中都は壊滅的な破壊を受けた。雄壮で豪華な宮殿は、敗走兵に火をつけられ、火は一カ月余り絶えず、一面が瓦礫の荒涼とした街に変わり果てた。荘厳で華麗な寺院も、破壊の余り、民家に変わってしまった。郊外では田園に雑草が生い茂り、荒野となり、家は廃墟となり、狐やウサギが出没した。当時の中央アジアのホラズム花刺子模シャーからジンギスカンのところに派遣された「布哈丁Puhadingの使節団の報告によれば、彼らが来た時、戦争は既に終結していたが、中都地方の恐ろしい破壊の痕跡は依然として至る所で見ることができた。白骨が山となり、疫病が流行した。中都の城門のあたりには大量の白骨が横たわっていた。彼らはまた、次のように聞いた。当城が陥落した時、六万(?)人の若い女性が、蒙古軍の手に落ちるのを免れるため、城壁より飛び降りて自尽した。なんと悲惨な一場面ではないか。

金の海陵王、完顔亮の北京(中都大興府)遷都

第二節 金代の中都

 

金初の南京

  金初の対南京統治 1127年(金太宗天会五年)、金軍北宋の滅亡後徽宗欽宗の二帝、后妃(皇后と妃)、皇子、公主、及び宗室の貴戚(皇帝の親族)三千人余りを捕虜とし、並びに汴京(開封)の宣和殿、太清楼、龍図閣の図書書籍、珍宝、文物を全て北に持ち去った。その中には、有名な天文儀、岐陽(岐山の南)石鼓、九経(儒家経典)石刻、宋仁宗の篆書の針灸経石刻、定武(今の河北省定県)蘭亭石刻(『蘭亭序』の真跡)など珍しい文物が含まれていた。これらの文物は少数が途中で散逸した以外は、後に燕京に保管された。この他、金人はまた多くの工匠(職人)、俳優や芸人を捕虜にし、彼らは大多数が燕京に置かれ、「各人で生計を立て、有力な者は店を出し、無力な者は売り物を脇に挟んで呼び売りし、老いた者は市で物乞いをした。南人(漢人)は身分に応じて互いに結婚した。」徽宗は捕虜にされて燕京に連れて来られ、延寿寺に監禁された。欽宗は憫忠寺に監禁された。しばらくして、何れも北方の五国城に移された。

 

 金が燕山府を占領して後、また名前を南京と改名し、元々平州に設けていた南京中書枢密院をここに移した。南京の中書枢密院、或いは行尚書省は、何れも当地の漢人の世家(名門)、例えば劉彦宗、時立愛、韓企先などを任命して相前後して宰相を担当させ、税糧を搾り取り、軍丁を徴発する責任を負わせた。およそ地区に属する一品以下の官吏は皆、制度を受け入れ、役職を拝命した。これは正に遅れた女真族の統治者が、急激な武力による領土拡張の中で、先進的な征服地域に対し、力をかけずに直接統治を行うやり方であった。『南遷録』の記載によれば、粘罕は曾て燕京建都を志し、また「遼人の宮殿は内外城が四城築かれ、それぞれが三里(1.5キロ)の長さがあり、前後に各一つ城門があった。城壁の櫓や堀は、尽く国境地帯の町のようであった。それぞれの城の中に食糧倉庫と武器庫を設置し、それぞれ通路を穿って内城と通じるようにした。」『南遷録』という書籍の真偽はずっと疑われていて、このためこの記載の信頼性は依然として考古資料による裏付けが待たれる。

 

 燕京、華北地区の人々の反抗 女真族が華北を占領して後、遅れた残虐な統治を行い、勝手気ままに金や絹、子女、田地の略奪を行い、壮丁を大量に徴発して軍に入れた。多くの人々を奴隷にし、甚だしきは彼らを韃靼や西夏に追って、戦馬に換えた。彼らはさらに民族の迫害や差別政策を進め、頭を剃って辮髪を強制し、漢服の着用を禁じた。こうした暴挙は華北の人々の断固とした反抗を引き起こした。河北では王彦が率いる「八字軍」、河東では紅巾を目印にする忠義民兵、沃州(今の河北省趙県)五馬山では信王の名を騙った趙恭と馬拡が率いる義軍がいた。京南の中山、劉里忙は境界を山に接し、数万の人々がいた。楊浩はまた自ら南京城中に到り、虚実を探り、仲間をかき集めた。これらの義軍は、大多数が南宋の愛国将校宗澤、岳飛らと連係を保っていた。1140年(南宋の紹興四年、金の天眷(けん)三年)、岳飛の大軍の先鋒は鄭州、洛陽等の地に及び、北方の義軍も敵の後方で歩調を合わせて出撃し、燕京以南では、金の号令は既に行えなくなった。金の華北地区の統治が不安定で、また当時の金政権が依然原始的な遅れた状態であったことから、金が華北を占拠した最初の十数年は、まだ会寧府(今のハルピン東南)を引き続き首都にしていた。

金の中都の建設

 海陵王の遷都 1149年(天徳元年)完顔亮熙宗を殺して即位し、歴史書では彼を通称して海陵王と言った。

 

 この時、金と南宋の対峙は、東を淮河に始まり、西は秦嶺山脈に至る線で落ち着いていた。金の太宗呉乞買の時、河南で勃興した劉豫の傀儡政権も、とっくに消滅していた。金の統治区域は、東北から華北、中原までの中国の北半分で、首都は依然として会寧に偏っていて、これは明らかに益々統治上の必要と符合しなくなっていた。

金と南宋の国境線

 早くも熙宗時代(西暦1136年から1148年)、先進的な漢文化を吸収して、女真族の遅れた古い習俗を改変する政治革新の事業を積極的に推し進め、たいへん大きな成果をあげた。しかし、政治改革は保守派貴族の猛烈な反抗を招いた。海陵王即位の後、継続した漢制による旧制度改革の路線は大いに前進した。効果的に華北中原地域の統治を強固にするため、遷都問題は明らかに極めて切迫していた。とりわけ、海陵王は妾腹の子で謀殺を通じて帝位を取得したので、宗室の中では、彼に対して不満や不服を持つ者が多かった。こうした状況から、海陵王にとって遷都を名目として、守旧派の貴族を徹底的に打撃を与え、彼らの妨害から抜け出し、政治革新を加速するという決意を深めた。

 

 1151年(天徳三年)海陵王が公布した『燕京に遷都するを議する詔』の中で言った。「先に鎮撫により南方が服し、行台を分置した。時に辺防は寧ならず、法令は未だ具わらず。本永計に非ず、只権に従うのみ。」行台が既に除かれて後、「京師の一隅、辺境四方の広さ千万里。北は民が清く事は簡便。南は地が遠く事は繁雑。州府を深慮して申せば、或いは半年に至り往復す。住民は困窮し、何ゆえ月を期して周知するか。供応では輸送に困り、使命は旅先の宿に苦しむ。」このため南京経営を決意し、遷都の計画をし、張浩、劉筈(かつ)、劉彦倫、梁漢臣、孔彦舟らを派遣し南京の建設工程の責任を取らせた。宮闕(宮殿)の制度は完全に汴京を模倣し、先ず画工を派遣し汴京の宮室制度を描かせた。幅が狭く長さが短く、曲がりくねっていた。

 

 全ての工程は、城市の拡張と宮殿の建造の二つに分かれていた。 張浩らは真定府潭園の材木を取り、宮室を造営した。工役は甚だしく粗暴な強制の下で進められた。三年の間、使役された住民は八十万、兵士は四十万に達した。涿州から南京まで、人夫や工匠を一列に並べ、かごで受け渡ししながら土や石を運搬した。重い労働に、猛暑の天気が重なり、疫病が流行し、多くの人夫や工匠がこのために死亡した。宮殿は黄金や五彩で飾られ、「御殿ひとつが合計億万の費用となった。」奢侈を極め、南宋人が見ても驚嘆する程だった。

 

 1153年(天徳五年)、宮城が竣工し、海陵王が正式に遷都を詔し、南京を改めて中都とし、析津府を改め大興府とした。その他の上京会寧府)、東京遼陽府)、西京大同府)は旧来とおりで、別に汴京開封府)を南京とし、中京(大定府)を北京とした。海陵王はそして上京宮殿、邸宅を破壊し尽くし、土地を平らにして耕地にし、皇室の一族も皆、中都に引っ越しさせた。

金の六都城

金大興府行政管轄区略図

 海陵王の遷都は単に金朝の発展史上新たな段階に至ったことを示すだけでなく、北京の歴史上も意義が大きい新たな段階に至ったことを示している。これより、北京は一代の王朝の正式な首都となり、これより元、明、清と続いていった。海陵王本人は、歴史上彼が果たした役割は、全体を導いたということでは積極的で、この点は間違いない。彼は南方侵略中に殺害され、世宗完顔雍が位を継いだ。「大定三十余年、禁中の近習は海陵の隠ぺいした悪行は、直ちに美しい仕事とされた。ゆえに当時の史官は実録を修正し、多くこじつけをした。」当時の人々は、すべてのそうした侮辱された攻撃の言葉は、百のうち信用できるのは一つだけだと考えていた。元朝の人、蘇天爵もこう言っている。「海陵が殺され、諸侯は歓迎し、極力彼を誹(そし)り、多く醜悪な事を書いた。」こうした歴史上の事件は、今後紐解かれてくるだろう。

 

 中都の宮殿制度 中都南京の基礎の上に、東、南、西の三方面に開拓してできている。有名な漢の両燕王墓は、遼の時代は東城の外にあったが、拡張後、東城の中に含まれた。城の周囲は三十七里余り(実測では18.69キロ)で、城門を十三設けられた。東に施仁、宣曜、陽春。南に景風、豊宜、端礼。西に麗澤、顥華、彰義。北に会城、通玄、崇智、光泰の各門があった。宮城は城の中央の南部にあり、周囲は九里三十歩であった。南が宣陽門、北が拱辰門、東西両側にはそれぞれ宣華門、玉華門があった。主要な宮殿建築は、城南門、豊宜門から北は宣陽門、拱辰門に通じる直線を中軸として展開された。

金中都城

柳の木陰が覆う大通りに沿って 豊宜門を入ると、前面が龍津橋である。橋の下は河水が東に流れ、水は清く深かった。橋は燕石で作られ、色は真っ白で、上面には精巧な図案が刻まれた。橋は三本の道に分かれ、中間が御道であった。御道に沿って内城に入る南門が宣陽門で、道の脇には水路があり、水路に沿って柳が植えられ、道の傍らは東西に千歩廊があった。文楼、来賓館、太廟は千歩廊の東に分布していた。武楼、会同館、尚書省は千歩廊の西に置かれた。更に北に行くと内城の正南門が応天門で、四隅には何れも(と)(城壁の上に突き出た櫓)があり、瑠璃瓦で覆われ、朱色の門に金色の釘で飾られていた。内城の御殿は九重になっていて、三十六に分かれ、楼閣の数はその倍あった。前殿は大安殿、後殿は仁政殿で、皇帝が通常朝政を行う所であった。その東の東宮は、太子の居住する所で、寿康宮は母后の居所であった。西側は十六涼位で、妃嬪の居所であった。1162年(大定二年)、世宗が中都に入り拠点とし、「仁政」を行っていることを示すために、何人かの宮女を解放するよう命令した。満足して待っていた何人かの宮女は放免されなかったので、恨み憤り、十六涼位に火を着け、太和、神龍、厚徳の諸殿まで延焼した。世宗はまた再建を進めた。同楽園は玉華門外にあり、その中には瑶池、蓬 、柳庄、杏村などの景勝があった。中都の宮殿は完全に北宋の汴京の皇宮の制度に基づき建築され、ひいては屏風や窓、並べられた玉器や骨董は、多くは宣和時代のものだった。建物の風格も、北宋末年に尊ばれた華麗で繊細な気風を踏襲し、贅沢が溢れていた。「その宮殿は規模が壮麗であった。あぜ道が延々と続き、上は大空に接し、秦の阿房宮や漢建章宮もこのようである。」技巧は余す所がなく、誠に贅沢が極められていた。形式と装飾が追及されたあまり、建物の品質が粗悪になり、このため常に補修や粉飾をしていなければならなかった。世宗はこのため、遼代の仁政殿が、装飾が全く施されておらず、長い年月を経ても破損しなかったことに感心してため息をついた。このことは、金の宮殿の品質が遼に比べずっと劣っていたことを示している。

社会経済

 人口、工商業 大興府に属する十県、一鎮は、合わせて人戸が225592あった。中都城の民族構成はたいへん複雑だった。漢、契丹、奚は金代には既に全て漢人と見做されていた。この他にも、女真、渤海、北方辺境の諸部族がいた。若干の西域から来た(かいこつ、回鹘 。唐代北方のトルコ系部族。ウイグル族の祖先と言われる) 商人も、ここに定住していた。女真族の奴隷制の影響下、華北地区の奴隷の人数は大幅に増加した。奴隷の来源は主に戦争の捕虜であった。「燕山には人を売る市があった。凡そ軍兵は南人を捕虜にすると、値段をつけて之を売った。」少し後には、たくさんの土地を失ったり、債務を抱えて破産した農民も、没落して奴隷になった。当時は在京の貴族や官僚は皆奴隷を所有し、多い者は奴隷の人数が万に達した。1183年(大定二十三年)の統計によれば、都の宗室の将軍司の戸数は170、人口は28,790だった。そのうち正口はやっと982、奴婢の人数が27,808人であった。大量の奴婢の出現は、女真族の遅れた統治が華北地区の社会生産にもたらした退化と破壊の有力な証拠である。

 

 中都の手工業は、遼の時代の基礎の上に、捕虜として連れて来られた汴京の職人により、一層発展した。政府はいくつかの匠作局を設立した。例えば、少府監が所属する裁造署、文繍署、修内習司などである。これらは皆、役所を設けて管轄、統率させた。職人は政府が銭や粟、衣類や日用品を供給した。民間の手工業者は日当が180文だった。彼らは皆、宮廷の生活のためサービスをした。

 

 中都の商業もたいへん繁栄した。政府は中都都商税務司を設立し、「事実を掌握して課税した。」金制:商業税は、金銀は1%、その他の物品は3%徴税した。大定年間、中都の商業税は164440余りであった。承安元年には214579貫まで増加した。明昌三年、中都路のその年の穀物は不作で、「行商人の輸送販売するものが次々とやって来て」、穀物の価格が多少下がった。このことから、商業活動がたいへん活発であったことが分かる。

 

 運河、交通 京東地区の税糧を転送するため、遼は曾て香河と宝坻の間に運河を開削し、俗に蒼頭河(窩頭河)と呼ばれ、また肖后運糧河とも呼ばれ、上は牛欄山水、窩頭庄水に通じ、下は三路堤口に通じ、北は薊州城南十里の紫金洴(しきんへい)と互いに通じていた。

 

 金朝ははじめて中都から東の通州に到る(食糧漕運用の)運河を開削した。この運河は高梁河、白蓮潭などいくつかの河川を利用し、途中に水門を八基設置し、水流を調節し、山東と河北省粟帠が通じた。しかし川沿いの地勢の高低差がはなはだ大きく、また水量も限られており、船舶の運航は水深が浅く停滞し、通州から中都までしばしば十日以上かけてようやく到着でき、運輸需要を遠く満足できなかったので、当時の運輸は主に陸上輸送に依存することとなった。運河は時を経て土砂が堆積して塞がれ、1171年(世宗の大定11年)、朝臣は盧溝河を金口で開削し、盧溝河(今の永定河)の水を中都城北まで引くよう要請した。これにより堀に入った水を東流させ、運河の水量を増大させようとした。金口水路は完成したものの、「地勢が高く険しく、水質が濁り、険しくて激流がうずまき、岸を崩した。濁流で泥がふさぎ、泥が堆積して水深が浅くなり、船運に耐えることができず、」放棄するしかなかった。金口堰が都城より140尺余り(約42メートル)高く、万一洪水で決壊すると、京師が直接脅威にさらされることを特に考慮し、このため金口水路は再度土で埋めて塞ぐしかなかった。泰和年間、韓玉がまた一畝泉の水を引いて、通州に通じる潞河 の水路を開き、船運を都に到らせるよう建議したが、水量が少なく、効果を上げることができなかった。

 

 都の南方の陸上交通を改善するため、1192年(章宗の明昌三年)、盧溝河を跨ぐ大石橋を建造し、「広利」と名付けた。盧溝橋建造の約百年後、イタリアの著名な旅行家、マルコポーロが自らこの橋を渡った経験を、人々を感動させる記録に残した。彼はこの橋を「Pul-i-Sangin」と呼んだ。ペルシャ語の「Pul」は橋の意味で、「Sangin」は石の意味、すなわち石橋である。彼は橋梁の美しく珍しい各部分を次のように称賛して言った。「橋の長さは300歩、幅は八歩を越え、十騎の馬が橋の上を並走することができた。下には橋のアーチが二十四、橋脚が二十四あり、建造がたいへんすばらしく、極めて美しい大理石のみで作られていた。橋の両側には大理石の欄干があり、また柱があり、獅子の腰がこれを支えていた。柱のてっぺんには別に一頭の獅子が置かれた。こうした獅子はたいへん美しく、彫刻はきわめて精緻であった。一歩ごとに石の柱があり、その形状は皆同じであった。二本の柱の間には、灰色の大理石の欄干が建てられ、歩行者が川に落ちないようにさせた。橋の両側は全てこのようになっていて、たいへん壮観であった。」(『東方見聞録』馮承鈞訳、中冊P418)盧溝橋は明の正統年間に修理をされたことがあり、今日まで橋身は依然として屹立(きつりつ)し、私たちの勤勉で知恵のある先人の土木事業の科学上の卓越した成果を十分に証明した。

盧溝橋

 

薊県独楽寺観音閣

第一節 遼代の南京と北宋の燕山府

 

遼代の南京(続き)

寺院の建築 遼の南京の建築物は、有名で考証できるものとして、南城に于越王廨(かい)、また永平館、旧称碣石館(けっせきかん)があり、何れも官僚や使者が宴会や集会をした場所であった。西城の上には、涼殿(りょうでん)が建てられていた。仏教が盛んであったので、城の内外には廟宇が方々に望めた。金初の洪皓は、城内で規模の比較的大きな廟宇が三十六ヶ所あった、と言った。憫忠寺(びんちゅうじ。今の法源寺)の高閣は、天に届き空に入るほど高く、俗に「憫忠の高閣、天を去ること一握(の距離)」と称した。開泰寺は魏王耶律韓寧が建立し、銀で鋳造した仏像で著名であった。「殿宇楼観は雄壮、全燕に冠する。」この他、更に延寿寺、延洪寺、三学寺、仙露寺、昊天寺などがあった。当時、の域内では律宗が盛んで、これらの大きな寺院は皆律宗寺院であった。後に南方の仏僧が禅宗を伝え、別に大覚、招提、竹林、瑞像の四つの禅宗寺院が創建され、これより禅宗が隆盛した。これらの寺院の建築状況について、私たちは既に窺い知ることはできないが、今日まで保存されている薊県独楽寺観音閣から見て、それらが勇壮で重厚、華麗でりっぱであったことが分かる。今の城西区阜成門内の白塔寺白塔は、代々、道宗の寿昌二年(1096年)の創建と伝えられ、釈迦の仏舎利を蔵するため建立され、形は幢(はた)の如く色は白く、ゆえに白塔と称した。(白塔寺は元代に大聖寿万安寺と称し、明代に妙応寺と改称した。)

北京妙応寺、即ち白塔寺

塔の高さは50.9メートル、塔内にはもともと舎利二十粒、青泥の小塔が二千、『無垢淨光陀羅尼経』五部が蓄えられていた。元の世祖の時、また白塔に対して装飾を加え、銅網と石の欄干を付け加え、より荘厳で華麗に見えるようになった。劉侗の『帝京景物略』の記載によれば、遼主は燕京の五方をそれぞれ塔で鎮め、塔は五色に分かつと伝えらたが、白塔のみ保存された。「今四色中、黒塔、青塔は廃されるも、その寺は在り、人は黒塔寺、青塔寺と呼ぶ云々。」(すなわち大天源延聖寺と永福寺)専門家の考証によれば、現在北京城内広安門付近の天寧寺磚塔は、遼代に旧塔の遺跡の上に建てられた。この塔は北京の現存の古建築中の最古のもののひとつで、また中国に現存する式磚塔(みつえんしきせんとう。中国でよく見られる、軒と軒の間を狭くして何層にも連ねた磚塔。例えば、西安の小雁塔がその例の典型的なものだ。

天寧寺磚塔

この古塔の平面は八角形で、全部で十三層の庇があり、全高57.8メートルである。ここは、元々は北魏の光林寺で、隋では弘業寺、唐の開元年間に天王寺に改められた。明朝に到り、朱棣(しゅてい。第3代永楽帝)がまだ皇帝になる前、「特に高さを高くされ」、宣徳年間に天寧寺と改名されたが、清朝ではそのまま改名されなかった。この古塔は明清時代に再建された。

 

 房山石経山雲居寺に所蔵の石経は貴重な仏教文化の宝物である。隋代の幽州僧、静琬(じょうおん)が石を削って碑としたものに経典を刻み始めた。唐初にその弟子が継承し、引き続いて刊刻した。石経は石室の中に収蔵され、石に鉄を溶かしたものを注ぎ込んで門とし、資料を保存した。遼の聖宗の時、韓延徽の孫の紹芳が石室を開けて、中を確認し、聖宗に上奏し、僧人の可玄に命じて引き続き刊刻し、欠損したものを補い新しいものを継続して刻ませた。この仕事は遼の滅亡までずっと継続され、大小の石経板を五千個近く完成させた。これは仏教経典の保存に有利であるだけでなく、同時に仏教経典に対する比較的大規模の校勘(こうかん。古典の刊本、写本を比較し、できるだけ原本を再現しようとすること)整理となった。遼代に印刷された『大蔵経』は、通称を『丹蔵』(『契丹蔵経』)と言った。興宗は燕京の僧人、覚苑に命じて仏教経典を収集、校正、刊行させた。道宗の時、覚苑と玉河県の人、鄧従貴は『大蔵経』五百七十九(ちつ。書画を保護するため包む覆いで、「帙」に入れた書物の数)を印刷し、陽台山清水院(今の大覚寺)に収蔵した。その後、易州水県金山演教寺がまた五百 帙余り印刷し、収蔵した。『丹蔵』は「帙簡部軽」、「紙薄字密」と褒め称えられ、印刷や装丁などの技術は、たいへん高いレベルを備えていた。

 民族矛盾と反抗闘争 遼は南北分割統治を実行し、燕雲地区の社会経済の保護に積極的な役割を果たしたが、同時に民族差別と民族圧迫のひとつの現れであった。遼代の漢人は、納税、刑法、仕官などの面の待遇にも、契丹人と比べて不利であった。当然、民族圧迫政策の下で迫害を受けたのは、主に下層の人々で、北宋の蘇轍はこう言っている。「北朝の政は、契丹に寛大で、漢人を虐げるは、蓋し已に旧きか。然るに臣ら山前の諸州の祇候、公人を訪ねて聞くに、小民争斗し殺傷する獄に限れば、この弊あり。燕人の強家富族に至れば、此の如く至らずに似たり。」ここに明確に民族矛盾の階級の実質を見ることができる。

 

 石敬瑭によって売られた燕雲の人々は、深く故国を懐かしむ思いを抱き、国の恢復を望んだ。周の世宗の北伐勝利は、漢人の将軍の投降に関わっていた。宋の太宗は燕京を包囲し、「脅しを招くこと甚だ急にして、人は二心を抱き」、「謀りて劫守を欲する将、城を出て降る」。宋師敗退の知らせを伝え聞き、城中の父老はその子を撫で、嘆息して言った。「爾は漢民に為るを得ず、命なり。」辺境の民の中で捕虜となる者は逃亡して燕に至り、人々は彼らのために旅費を集め、ガイドを提供し、彼らを宋との境に送った。北宋が派遣した使節の契丹人は、燕京の驛舎の中に、壁にカラスの絵を描き、その横にこう書いた。「星が稀で月が明るい夜、皆南に飛ばんと欲す。」正に人心が漢を思う気持ちの現れである。

 

 遼代の中期以降、過酷な搾取と天災の襲来を受けた燕京の人々は、立て続けに蜂起し反抗した。聖宗の太平七年(西暦1027年)、「幽薊の民は飢え、強盗がおびただしく増加した。」興宗の重熙十三年(1044年)、「香河県民の李宜児は左道を以て人々を惑わし、死刑に処せられた。」遼の末年に至り、女真族が東北で決起した。女真に対し兵を用いるため、天祚帝は燕京地区の人々に対する搾取を一層強化した。当時の南京の正額課税は五百四十九万貫の巨額に達し、その他の過酷な取り立てはこの中に含まれていない。多くの民丁は東北の辺境防備に徴兵された。水県の農民、董才、あだ名を董龐児は、徴発されて兵隊となり、その後、彼はこっそり逃げ帰り、1107年(乾統七年)千人以上の農夫を集め、むしろ旗を掲げて蜂起した。 董才は「扶宋破虜大将軍」と自称し、反民族圧迫の旗印を掲げ、幅広い漢人を動員して闘争した。遼は大軍を派遣して鎮圧し、董才は倒れる度に立ち上がり、双方の人数の差が極めて大きい困難な状況下、粘り強い闘争を行った。最後に圧迫されて南に走り、北宋に投降した。

北宋統治下の燕山府

 宋金両軍の連携と北遼の滅亡 女真の遼に対する厳しい威嚇により、腐敗した北宋の統治者は乗じるべきチャンスと考えた。徽宗1120年(宣和二年)趙良嗣(元の名を馬植)を派遣し、山東から海に浮かび女真と連携し、「海上の盟」を締結し、両国軍を連携させて遼を攻め、金人は中京大定府を攻撃し、宋は燕京析津府を取り、長城を界とし、互いに軍隊が関を越えないようにした。成功すれば、燕雲十六州の地は宋朝に還し、宋は引き続き毎年遼に送っていた歳幣の絹五十万匹を金に与えることとした。金人は兵を挙げて遼を攻め、破竹の勢いで、1122年(宣和四年)春に中京を陥落させ、天祚帝(てんそてい)は西に雲中に走った。宋朝はその知らせを聞くと、急いで宦官の童貫に命じて軍を率いて北辺を巡回させ、金の軍隊に応じた。

 

 遼の天祚帝が西に逃亡して後、南京の大臣の耶律大石、肖干、李処温らが耶律淳(やりつじゅん)を擁立して帝とし、天錫皇帝を号し、建福(1122年)と改元し、歴史上、北遼と称した。耶律淳は間もなく病死し、香山の永安陵に葬られた。遺命で秦王定を擁立して帝とし、徳妃肖氏を以て聴政を制すると称し、徳興と改元した。五月に宋軍は白溝に進出したが、一戦して潰れ、保雄州に退いた。7月、再び童貫、蔡に命じて兵を進め、郭薬師の「常勝軍」が涿、易の二州を降伏させたことにより、宋軍はようやく良郷に迫った。郭薬師は渤海鉄州(今の営口の東南)の人であった。耶律淳は遼東の飢えた民を募って兵とし、これをして女真に恨みを晴らそうとさせ、ゆえに「怨軍」と称し、後に「常勝軍」と改称した。宋、遼の両軍は盧溝河(今の永定河)を隔てて対峙し、郭薬師は奇兵を出し、軽騎を率いて虚をついて固安、安次を迂回し、早朝に入城する草車の行列の中に紛れ、春門を奪って南京城に攻め入り、陣を憫忠寺の前に並べた。郭薬師は命令して燕人を投降させ、契丹、雑虜を尽く殺し、使節を遣わして肖妃に投降を促した。この軍隊は大酒をむさぼり略奪をはたらき、少しも規律が無く、加えて連日の戦闘で、疲労困憊していた。然るに劉延慶率いる大軍が盧溝河の南に駐屯しており、援軍を送る予定は無かった。午後、肖干の「四軍」が城に戻り支援に入り、三市で戦闘となると、郭薬師はただ少数の人と馬を捨て城壁から降りて脱出した。気の弱い宋軍は、郭薬師敗戦の知らせを聞くと、大いに恐れ、軍営を放火して焼き、次々と退却した。熙寧以来、長期に備蓄した軍需器械は、これにより尽く失われた。童貫は軍事が一たび負けると、燕京を回復できなかったことで罪に問われるのを恐れ、秘密裏に使者を派遣し、金人に助けを求めた。12月、金人は居庸関、得勝口から2ルートで南下し、肖后、耶律大石らが古北から西に天徳へ向かった。金兵は南門から南京城に入った。遼の宰相の左企弓、枢密使の劉彦宗らが出陣した。

 

 北宋の燕山府 宋は金に元々の約束の通り、燕雲十六州の地を返還するよう要求し、元々石敬瑭の割譲の列に入っていない営、平、溧(りつ)の三州の回復を提案した。金は宋人の出兵が時期を逸したことを責め、元々の約束はもはや失効したと見做し、ただ燕京と山前(太行山脈東南の7州)の薊、景、檀、順、涿(たく)、易の六州だけ宋に与えるのを認めるとした。そして威嚇して言った。もし宋が平、 溧などの州をどうしても要ると言うなら、燕京も与えないと。同時にまた燕京を金兵が取ったことを理由に、毎年燕京の租税六百万のうちの百万貫(穴明き銭を緡(さし)という紐に通し、銭1000枚を1貫と言った )を借款料に代えて金人に贈り、報酬とするよう要求した。交渉を経て、宋人は金人の条件を全て受け入れるしかなかった。金人が遼の投降者、郭薬師率いる常勝軍を追及しないで済むよう、宋人は自発的に、およそ幽燕域内の家財百五十万貫以上の富裕層は、ことごとく金が捕虜にして関外(山海関より東)に連れ去ることを認めると提案した。1123年(宣和五年)、金人は燕京の城壁や櫓(やぐら)、要塞を徹底的に破壊して後、あらゆる財貨を席巻し、富裕者三万戸余りを北に連れ去った。このため「庶民や寺院は、きれいさっぱり無くなり」、「都市は廃墟となり、狐や狸の住まいとなった」という景観が生まれた。宋人が得たのは、空の城に過ぎなかった。

 

 宋朝は南京を燕山府と改称し、郡は広陽であり、王安中により燕山府が知られる。当時、燕山府地区は、金人による略奪の余り、「桑を植える農具すら、何一つ残っていなかった。」宋朝がここを回復して後、政府は少しばかりの食糧や絹織物の収入さえも得られなかっただけでなく、常勝軍と戌軍の軍糧だけでも毎月十万石あまり必要で、その他の各軍と諸州の官吏の食糧はそれには含まれなかった。これらの食糧は河朔、山東、河東からの運搬に頼っており、しばしば一石運ぶのに十石から二十石の費用がかかった。それゆえ一年もしないうちに、内外の倉庫は空っぽになり、斉、趙、晋、代の民力も同時に尽きてしまった。宰相の王黼(おうふ)はそれで免夫之令(徭役に代えて銭を納める命令)を出し、燕山での賦役は、全国で賦役を起こさないといけないことから、その発動を停止し、「賦役の日数の多寡を計算し、できるだけ免夫の銭を出し、期限を守らない者は斬首する。」全国で全部で徴収した免夫の銭は六千二百万貫余りに達したが、そのうち三千万は燕山に払わないといけない費用で、残り三千万は予備の備蓄としたが、実際は朝廷により他に流用され、浪費され、湯水のように使われた。このようにして、1124年年末に王黼が職を辞す時には、燕山の費用は「日夜欠乏を告げ」、山東、河北でも人々の不満が沸騰し、あちこちで反抗勢力の蜂起が起き、少ないものでも数千人、多いものは数万人にもなり、政府はもはや正規の租税徴収の割り当てさえできなくなっていた。

 

 燕山府の陥落 1123年(宣和五年)、金人が燕山府の富裕層の北方への移転を強制し、平州(今の蘆龍)を通過した時、これらの捕虜となった人々と当時平州留守の任にあった張覚が連合し、金人に反抗した。張覚は元々平州地方の土豪であったが、乱に乗じ平州に拠って金に降伏し、金人は平州を昇格させて南京とし、張覚を同中書門下平章事とした。張覚らは金に背いて後、宋朝に帰順しようと決意した。金人はその知らせを聞き、直ちに兵を派遣し攻撃させたので、張覚らは燕山府に逃げ込んだ。しかし、これら捕虜にされて北に移され、金に背いて南に帰ってきた富裕層の人々は、ふるさとに戻って来てみると、元の家屋や田地が既に尽く常勝軍の将校たちが占拠しているのを見て、失望し、恨みに思った。この時、金人はまた使節を送り王安中を脅して張覚を引き渡すよう迫った。弱腰の宋朝は金人を怒らすのを恐れ、王安中を責めて張覚を縊り殺し、その首と彼の二人の子供を金人に送り届けるよう命じた。このことは燕の地の人々を一層恨みに思わすこととなり、宋からの離反の気持ちを生じさせた。1125年(宣和七年)、金は山後(太行山脈西北の9州)の天祚帝(てんそてい)の残存勢力を消滅させて後、盟約に背いた反乱分子を収容することを口実に、二路に分かれて大挙して北宋を南伐した。西路は粘罕が率いて、雲中に出た。東路は斡離不が率いて燕山府を攻撃した。宋朝は郭薬師に命じて兵七万で (今の通県)で敵を止めさせたが、大敗し、燕山に逃げ帰った。郭薬師はそれでまた宋朝に背き、燕山府が蔡靖を捕らえたことを知るに及び、斡離不に投降した。幽燕地区はこれにより、金人の手の中に落ちた。

燕雲十六州の契丹(遼)への割譲

第一節 遼代の南京と北宋の燕山府

 

遼代の南京

 

燕雲十六州の割譲 西暦936年、後晋石敬瑭が身売りし契丹を頼り、契丹の支持を頼みに、後唐に代わり帝を称した。媚びを売り謝礼をし、彼は恥知らずにも契丹の主を父皇帝と称し、歳幣を貢納し、今日の河北、山西両省北部の燕、雲等十六州の地を契丹に割譲した平州等の地は先に手放していた。)これより、契丹は、華北大平原に勢力を伸ばした。中原地区は直接、契丹の軍事の脅威の下にあることが露見した。

 

 幽州の背後は燕山を枕に、西は太行山脈に依り、東は渤海に臨み、地勢的にたいへん重要な場所であり、歴史的に中原王朝の東北方面の要衝であった。ここは北側を古長城と楡関(山海関)、松亭関、古北口、居庸関、紫禁関など五関の天険に依り、沃野千里の華北大平原を力強く守り、北方の遊牧民族の騎兵が南下するのを阻止した。

燕雲十六州の地勢図

 地形から見て、幽州以北は、軍都山が聳え、漠北草原に通じる階段の第一段目を形作った。居庸関は固より天険と称されたが、北口から南口まで、地勢は急峻に下り、北方の侵略者は見晴らしの利く有利な地勢を占め、守りの面から見るとたいへん不利であった。このため、居庸関の天険は山後の諸州をその障壁とし、その中でも宣化(張家口)、大同の地位はとりわけ重要であった。ここから更に北に向けて、陰山が横たわり、地形的には階段の第二段目に相当した。このため、陰山の防衛線は、またその北側の大ゴビを垣根としなければならなかった。我が国の歴史の上で、中原王朝と北方の遊牧民族の統治者との長期にわたる付き合いの中で、統一があれば、紛争もあった。漢唐の全盛時代には、漠南、漠北全てがその直接管理の下にあり、国家は統一されていた。統一された情況下、幽州は漢族と北方少数民族間の経済文化交流の要となり、積極的な役割を果たした。ひとたび漠北で少数民族政権が割拠すると、幽州は中原王朝の東北方面の最前線の軍事的要衝となった。一般的に、こうした情況下では、当時の中原王朝がゴビの南縁を守ることができれば、垣根を固め、北方の辺境の災禍は効果的に抑えることができた。もし陰山を失うと、消極的な受け身の体制となり、防備には骨が折れた。更にそれを下回って、双方が燕山で争うと、あちこちで戦いが起き、歯止めが効かなくなる。ひとたび幽燕を尽く失うと、中原王朝は大平原でこれと対峙することになり、騎馬での戦いが得意な北方民族は彼らの優位性を十分に発揮することができ、長躯し縦横に動き、都を汴梁(開封)に建てた中原王朝(北宋)は、彼らの鉄騎の脅威を目の当たりにし、形勢は極めて不利となった。

 

 後周と北宋の統治者は一度ならず努力し、燕雲を収復しようとした。西暦959年(顕徳六年)、周の世宗は北伐を行い、三関の地を収復したが、不幸にも陣中で疫病で死去した。北宋の統治者は南方を統一し、長期の準備の後、西暦979年(太平興国四年)、宋の太宗が太原に盤踞する北漢を滅ぼし、勝利に乗じて幽燕を回復しようとした。文臣の趙昌言は追随して言った。「これより幽州を取るは、鉄板を熱して餅をひっくり返すようなものだ。」将軍の呼延賛はこれに反駁した。「書生の言は信じるに足りない。この餅はひっくり返すのが困難だ。」宋軍は鎮州に集結後、北進して燕京城に到り、諸将を監督し城を攻めた。城を包囲すること三週間、穴を掘って進入した。城中の漢人は多くが二心を抱き、遼の将軍、耶律隆運は全力で守った。宋軍は太原の戦役の後、既に兵士たちは疲れ、士気が落ち、それに加えて孤軍で敵陣に深く入り、援軍も続かず、このため、遼の将軍、耶律斜軫が大軍を率いて南下し救援に入ると、両軍は高梁河(現在の北京西郊)で交戦し、宋軍は全軍が潰走した。西暦985年(雍熙二年)、宋の太宗は再び曹彬らにルートを分けて北伐させたが、同様に失敗に帰した。これより、双方は白溝を境界とし、南北対峙の局面を維持した。契丹の騎兵の南への侵攻を阻止するため、宋は燕南一帯でいわゆる溏泺(とうらく)政策を推進し、滹沱(こだが) 、易水、白溝河などの川や湖沼を利用し、堤防を築いて貯水し、西は順安軍(今の河北省高陽の東)を起点とし、東は海に達する、東西三百里あまり、南北五、七十里の土地を、煙霧のかかっているところは水田や湖沼とし、寨(とりで)を設置して兵に守らせ、船舶を備え、防備を進めた。北宋が毎年大量の歳幣を輸送し納める状況下、宋、遼の間で、おおむね平和共存の状態が保たれた。

 

遼の南京建設 契丹燕雲十六州を得て後、幽州契丹)の五京の一つの南京に昇格し、また燕京とも称した。府名は幽都(開泰元年(1012)に析津府(せきしんふ)と改称した)、軍号は盧龍(ろりゅう)で、檀、順、涿(たく)、易など六州と析津、宛平など十一県を統括した。

契丹(遼)の五京

遼析津府行政管轄区略図

  幽州地区は古来より中原と北方や東北の少数民族との経済連携と文化交流の架け橋であった。契丹と東北のその他の少数民族はここで漢族の先進文化を吸収し、これにより自分の社会の経済発展を加速させた。阿保機は毎回南侵時に幽州地区の漢人を東北に移り住ませ、幽州の制度のように、城郭、邑屋(ゆうおく)、廛市(てんし)を管理させた。上京臨璜府(りんこうふ)の中に、社区や商店を組織させ、綾織や錦織など諸工業に従事する漢人は多数が幽州人であった。彼らは東北の各少数民族と一緒に、懸命に働き、東北地区をより一層開発していった。

 

 契丹が燕雲十六州の土地を得てから、国内の政治体制と経済状況には何れも重大な変化が起こった。当時、契丹人はまだ漁撈、狩猟、牧畜を主とする遅れた生産社会にあったが、燕雲地区は定住し農業を行っており、高度に発展した社会であった。契丹の統治者は、直ちに先進的な漢文化を受け入れて、自分たちの遅れた生産方式を改めることができず、また自分たち民族の独自の方式を強化して燕雲地区を管理し改変することもできなかった。そのため、国家の行政組織の上で、いわゆる「胡漢分治」の方式を採り、「国制を以て契丹を遇し、漢制を以て漢人を遇す」こととした。中央では北、南のふたつの枢密院を設置し、北院は契丹と北方の遊牧民族を統治し、南院は漢人を統治した。燕雲地区の地方の統治機構について言えば、おおむね唐以来の旧制度を踏襲した。大部分の南面の官僚と燕雲の地方官僚も漢人が担当した。燕京の韓、劉ふたつの姓の人々は、皆遼代の有名な有力宗族であった。阿保機補佐の韓延徽は、城郭を建て、市里をふり分け、以て漢人の投降者を居住せしめた。また配偶者を定め、開墾技術を教えることにより、生計が立つようにしたので、逃亡する者が少なく、阿保機の燕京繁栄政策に対して決定的な役割を果たした。彼の孫の韓徳譲は聖宗の朝廷で大臣を拝命し、大丞相、蕃漢枢密使、南、北面行営に何れも配置され、耶律の姓を賜り、名を隆運とした。韓氏の一族の中で、相前後して中央では、執政に七人、大官に九人、一般の官吏に二百人余り任命された。幽燕地区の社会経済構造も、基本的には変更されなかった。地主が大量の土地を占有し、小作地を農民に分配して耕作させ、小作料の徴収を行っていた。胡漢分治政策の推進により、幽燕地区の契丹への繰り入れ後も社会経済の破壊や後退は引き起こされなかった。しかも、長期にわたり、辺境の侵略により引き起こされた戦禍が停止されたことにより、人々に安定がもたらされた。幽燕地区の漢人と契丹人の間の関係は基本的に良好であった。毎年冬には、契丹の遊牧民が燕の土地に入って避寒を行い、彼らは放牧、居住をしたが、荒地に入るだけで、漢人の農地には侵入しなかった。経済の連携と、両民族の人々の文化交流の強化に従い、両民族間の格差は次第に縮小した。聖宗時代(西暦983年より1030年まで)、契丹は封建社会に入り、漢化の程度も大いに強まった。

 

 南京地区は、遼王朝の財政収入上極めて重要な地位を占めていた。南京の官吏の多くは財賦官(財政官)であり、政府の毎年の収入の半分はこの地区で取得された。田賦(地租)の面では、「囲桑税畝」(桑を植えた面積に依って最終製品の絹で税金を徴収する)、この他にも義倉粟(非常時に備え、一定額の粟を納めさせ、備蓄する)、三司塩鉄銭、農器銭、商税、房税、酒税、諸雑税、院務課程銭などの徴税項目があった。徭役には、驛運、馬牛、旗鼓、郷正、庁隷、倉司などの項目があった。契丹の統治者はまたいくつかの地域を馬の放牧地としたり、狩猟場とした。毎年更に大量の戦馬を雄州、覇州一帯で放牧した。幽燕地区の農民の経済負担は少なくとも北宋統治下の人々と同様に甚だしく重いものだった。遼代後期、歴史文書に幾度か見られる南京流民の記載があった。大安四年(西暦1088年)南京を凶作が襲い、一般人民が自らを売って奴隷となることが許可された。耶律、肖、韓の三姓の貴族は、また毎年燕の地の良家の女子を強請って妻妾にし、民は安らぐ所が無かった。人民の生活が困窮したことは、想像に難くない。

 

南京の規模 遼の南京はおおよそ相変わらず唐代の藩鎮の城の旧来の規模を踏襲していたが、遼の五京のうち、南京は最大且つ最も繁栄した都市であった。城の周囲は二十里(約10キロ)あまり、城壁の高さは三丈(約10メートル)、幅は一丈五尺(約4メートル)。堅牢な敵楼や戦櫓(何れもやぐら)を910基配置し、地塹(ざん。)は三重になっていた。城門は八つ設けられた。東に安東、迎春。南に開陽、丹鳳。西に顕西、清晋。北に通天、拱辰の各門である。内裏(皇居。宮殿)は城の西南角にあり、周りを城壁で囲み、周囲五里(2.5キロ)あった。南側正面に啓夏門、東に宣和門があった。その中には元和、仁政、洪政(武)の諸殿があり、建物はすこぶる壮麗であった。遼の皇帝はしょっちゅう城外に狩猟に行き、いわゆる「春水秋山」、「四時捺鉢」(いつもゲル(テント)で暮らす。「捺鉢」は契丹語で「帳」の意味)で、たいてい春と秋にのみ、南京に来て短期間滞在した。通常は重臣が南京留守兼府尹(府知事)に充てられ、軍民を統轄した。また、南京統軍司を設置して軍事を統轄し、転運使などが租税を管理した。

遼南京城

 城中には二十六坊があり、各坊にそれぞれ門楼があり、その上には大きな字で坊名が書かれていた。例えば、賓、粛慎、盧龍、棠陰、永平などの名前である。これらの名前は大多数が唐代の旧称である。城内は、「居民が密集し、路地の入口は直列し、商店は百室」にもなった。市街地は城の北部にあり、「陸海の百貨が、その中に集ま」った。居民の風俗は皆漢服を着て、また多くが胡服を着た契丹人、渤海人等であった。

 

経済概況 南京の手工業と商業は何れも頗る高いレベルにあった。許亢宗が南京地区の富の実態を描写した時に言った。「錦や刺繍が綺麗に織られ、天下に比べるものが無い」、「水は甘く土は肥沃で、人々は技巧が豊かである」。西暦1005年(宋景徳二年)、宋真宗は遼から贈られた美しい絹織物を近臣たちに分け与え、同時に前朝の時に献上された贈り物と比較し、過去の製品は明らかに品質が粗雑で、今はずっと精巧になっていると指摘した。その原因はもちろん幽州の織物の職工の技術レベルのおかげであった。遼朝廷は南京で政府御用の色鮮やかな緞子を密造するのを禁じ、また三司の塩、鉄、銭を絹に換算して納めさせ、より多くの絹織物を得ようとした。磁器の品質もかなり高かった。南京西郊の龍泉務には磁器の窯があり、その製品は主に白磁で、釉薬の色がぴかぴか透き通った白色、ややしみ通った青色など、半透明状を呈していた。遼政府は磁窯官を設置して管理を行った。順州(今の順義)の北側には銀冶山があった。書籍の印刷もたいへん発達していた。このことは『大蔵経』の印刷から説明することができる。有名な金瀾酒は、金瀾水を用いて醸成したもので、味はたいへんコクがあり、遼の南京の名産であった。

 南京はまた松漠(「平地松林」とも言う。内蒙古克什克騰旗一帯。族、契丹族が活動した場所)、ないしは蒙古草原と内地の間で商業取引を行う際の中枢であった。ここは南側を宋、遼間の交易場を通じて、有限の通商を保持していた。北側は楡関路、松亭関路、古北口路、石門関路など驛道(古代、朝廷の文書を伝達するための街道で、途中に驛站(えきたん)が設けられた)を通じて、塞外と互いに行き来していた。高麗、西夏ないしは西域とも商業取引があった。南京の市場では銅銭で交易が行われ、こうした銭は少量が遼自身で鋳造されたのを除き、大部分が五代、北宋で鋳造されたものだった。遼の聖宗の時、更に大安山(房山と門頭溝)を掘ってみると、劉仁恭が埋蔵した銅銭が見つかったので、それが用いられた。

 

 農業製品では、「野菜や瓜、果実、稲、高粱の類は、産しないものは無い。桑や柘(ヤマグワ)、麻や麦、羊や豚、雉やウサギは需要を問わない。」水稲は南京近郊の主要な農作物であった。道宗の清寧中期(西暦1055年から1064年)、高勲は南京近郊に空き地が多いので、空いた田畑に稲を植えるよう言った。耶律昆は反駁して言った。高勲は異心があるに違いない。彼の建議に基づき稲を植え、水を畔に引いて、もし南京を占拠して謀反を起こす者がいれば、官軍は入ることができない。朝廷は彼の意見を受け入れ、南京の人々が水門を開けて水を放水し、うるち米を植えるのを禁ずる命令を出した。咸雍中期(西暦1065年から1074年)になって、ようやく軍隊が行軍する地域を除き、その他の地域では稲を植えられるようになった。栗も昔からの名産で、朝廷はここに栗園を設けた。有名な契丹文学家、肖韓家奴(しょうかんかど)は曾て栗園管理の命令を受けた。ある時、聖宗が彼に外地で何か珍しい出来事は無かったか尋ねた。彼は焼き栗を譬えに、皮肉めかして皇帝を諫めて言った。私の知るところでは、栗を焼く時、小さいのに火が通っても、大きいのはまだ生である。大きいのに火が通ると、小さいのはもう焦げてしまっている。大きいのも小さいのも均等に火が通ってこそ、全てが美味しくなる、と。焼き栗の歴史から、既に少なくとも千年近い歴史があることが分かる。

 

房山雲居寺の遼代の塔(北塔)の周囲に立つ4基の唐代小塔

北京市房山区大石窩鎮水頭村雲居寺

 

第三節 隋唐五代期の幽州地区の都市と住民(続き)

 

 

幽州経済の発展

 

 唐代、幽州地区の土地はより一層開墾され、農業に発展が見られた。永徽年間(西暦650‐655年)、幽州の農民は盧溝水を引き、稲田数千頃(けい。100畝(ほ。ムー)が1頃、1頃は6.6667公頃(ヘクタール)に当り、66 667㎡に等しい)を開き、百姓はその豊かな産量を頼みにした。しかし、幽州は隋や唐にとり北方の軍事の拠点であり、常に大量の軍隊が駐屯し、ただ当地で産する糧食に頼るのでは供給量が足らなかった。隋末、「倉粟盈積」というのは、軍糧を外地から運んで蓄えたことを言うのである。貞観の時、幽州には常に平倉が設けられ、凶作の年に救済したり、種もみを貸すのに用いられた。武則天(則天武后)以後、契丹、奚と唐王朝の関係は緊迫し、絶えず戦争が起こり、幽州の軍糧はしばしば江南より運ばれた。西暦696年、陳子昂(ちん すごう)は『上軍国机要事』の中で言った。「即日江南、淮南諸州で船数千艘を借り、既に鞏(きょう)、洛に至るは百余万斛(こく。升)。所司は強いて幽州に運ばせ、軍糧を充足させた。」(『陳子昂集』巻8)杜甫は『昔遊』の詩の中で書いている。「幽燕盛んに武を用い、供給するは亦労哉。呉門転粟の帠、海陵蓬莱に浮かぶ。」『後出塞』の中でも言っている。「漁陽は豪侠の地、鼓を撃し笙(しょう)竽(う)を吹く。雲帆は遼海に転じ、粳稲は東呉より来る。」(『杜工部詩集』巻7、巻3)何れも長江下流の米が幽州に運ばれた事実を説明している。唐朝後期、幽州は藩鎮(唐代、辺境各州に設けた節度使)割拠の政権統治の下、糧食の供給は主に幽州付近の嬀州(きしゅう。懐戎を治める。今の官庁水庫(ダム)の北岸)及び北側の7鎮(今の密雲、平谷一帯)に依存していた。

 

 唐代、幽州の果樹生産は確かに発展した。栗は幽州の重要な貢品(宮廷への貢ぎ物)のひとつであった。(『新唐書』巻39『地理志』、『通典』巻6『食貨六・賦税下』)幽州付近の涿州(今の涿県)城内にはまたくだもの屋があり、専らくだものや木の実を販売した。燕山はまた木材を産出した。開元年間の初め、張説は幽州都督になり、「人に命じて木を燕岳で斬り、山林の財を通じせしむ」。(『全唐文』巻312孫逖『唐故幽州都督河北節度使燕国文貞張公遺愛頌 並びに序』)幽州と檀州の土貢(地方特産の貢ぎ物)には人参(朝鮮人参)があり、檀州の土貢にはまた麝香(じゃこう)があった。唐令によれば、土貢は「皆当地に産するものを取る」(『新唐書』巻39『地理志』、『通典』巻6『食貨六・賦税下』)、唐代の薊城付近と密雲一帯ではまた朝鮮人参や麝香を産出したことを言っている。

 

 綾、絹は皆幽州から朝廷に献上した特産品であり、幽州城内では何軒かの絹商店が設けられ、このことから絹織物業が一定の規模を持っていたことが分かる。薊城付近では鉄を精錬し、城内には鉄を商う商店も開設された。鉄の採掘と精錬は幽州の重要な手工業のひとつであった。唐の高祖の時、幽州には鋳銭監が設けられた。開元年間の初め、張説(ちょうえつ)は人に命じて「銅を黄山に採掘し、ふいごで火を起こし銭を鋳る利を興せしむ。」(『全唐文』巻312孫逖『唐故幽州都督河北節度使燕国文貞張公遺愛頌 並びに序』)幽州の銅の精錬産業が発展途上であることを説明している。幽州地区には更に塩池があり、唐政府はここに塩屯(製塩所)を設立し、各屯には壮丁(成年男子)50人を配置した。(『金石萃編』巻103『大唐河東塩池霊慶公神祠碑』:「塩池の数は九、七つは幽朔、二つは河東」。『通典』巻10『食貨十・塩鉄』)

 

 幽州の地理的な位置により、唐代の中国内の商業交易上の重要な地位を占めた。馬、毛皮など関外の商品の輸入、及び関内の農産品、手工業製品の輸出は、何れも幽州が集散地となった。多くの胡商(西域異民族の商人)もここに集まった。範陽節度使安禄山は曾て「商胡を分遣し諸道を詣でて販鬻(鬻(ひさ)ぐ。売る)す。一年に珍貨数百万を運ぶ」。(『資治通鑑』巻216唐玄宗天宝十載)交易額は相当なものであった。天宝(西暦742‐756年)、貞元(西暦785‐805年)年間、幽州城内の各業種はたいへん発展した。城の北部には固定の商業地区と手工業地区が設けられ、「幽州市」と称した。各業種は市の中で営業した。業種の種類は房山雲居寺の石経の題目に記載されているものに、白米(精白した米)業、大米(製米)業、粳 米(うるち米)行、屠殺業、食肉業、油業、五熟(各種の食品)行、青果業、椒笋行、木炭業、鋳鉄(銑鉄)業、研磨業、染色業、織物業、絹織物業、大絹行、小絹行、新絹行、小彩行、絲綿彩帠絹行、幞頭(ぼくとう。男子の頭巾)行、製靴業、雑貨業、新貨行など30種類近くの業種があり、業種の種類が多いだけでなく、各業種の間の分業もたいへん細かかった。それぞれの業種の業界(「行」)は同じ種類の商品を取り扱う店舗から成り、経営者は「舗人」と称した。「舗人」の中には多くの店員や丁稚を抱える者がいれば、自分や家族の労働で生計を立てている小商人や小手工業者もいた。

 

 唐代の幽州の交通は更なる発達が見られた。長安から幽州まで、長安を出発すると太原を経由して娘子関に出るルートと、洛陽を経由して後、今の京広線(北京と広州を結ぶ鉄道路線)に沿って北上するルートの二路線があった。途中には旅籠があり、酒や食事、駱駝が準備され、商用での往来に便利なようになっていた。幽州から東北へ行くには、密雲を経由して北口(今の古北口)から長城に出て、奚王牙帳(今の遼寧省寧城の東)に至るルート、また今の京承鉄路(北京と承徳を結ぶ鉄道)に沿って東北に至ることもできた。また居庸関(唐代には納款関、軍都関とも呼ばれた)を出て嬀州(きしゅう)と山西北部に至ることもできた。唐の武宗は廃仏を行い、五台山の僧侶の多くが幽州に逃亡したので、幽州節度使の張仲武は二刀を封じて居庸関を委ねて言った。「旅の僧侶が居庸関を越えて入ってくれば之を斬る。」このことから、居庸関が当時北方から幽州に入る重要な門戸であったことが分かる。水路は、永済渠により幽州から洛陽に直接到達することができ、また海路を経て江南や東北に通じていた。

 

 

幽州の文化

 

 『隋書・地理志』によれば、「涿郡は辺境の郡と連なっているが、風習は太原と同じで、それゆえ古来勇侠の者は皆幽州、并州(へいしゅう)より出ると言う。然るに涿郡、太原は前代以来、文雅の士が多い。皆辺郡と言うけれども風俗や教育レベルは比べものにならない。唐代、幽州地区でも多くの文学者や芸術家が生まれた。たとえば、天宝年間、将棋に通じ詩文を能くした張南史。「推敲」で有名な中唐の詩人賈島。経義に通じ、文宗の時、「対策」(科挙で、治国の政策について皇帝から出題される問題に論文で答えること)の中で朝政を非難し、一大センセーションを巻き起こした劉蕡(りゅうふん)などは、当時の著名人であった。

 

 則天武后の時、著名な詩人、陳子昂(ちんすごう)は征から幽州に着き、薊北楼に登り、現在の事に触れて昔をしのび、涙を流しながら歌った。「前に古人を見ず、後に来る者を見ず。今天地の悠々、独り愴然(悲しみ痛む)として涙を流す。」これは有名な『登幽州台歌』である。開元の初め、唐の初代、文宗は張説を幽州都督にした。開元20年前後、著名な詩人高適が幽州に来て、詩人王之涣(おうしかん)も薊城郊外の薊門に寓居していた。彼らはここで多くの幽州の風俗を反映し、彼らの幽州の生活を記録した詩篇を書いた。

 

 唐代は、アジア各地との経済文化交流が日増しに頻繁となり、中央アジア、西アジア一帯の舞楽やスポーツ、遊戯が絶えず中原に伝えられ、幅広い人々に歓迎された。ペルシャより伝わったポロ(撃鞠)は唐代にたいへん流行したスポーツ競技であった。馬上から打つものと、馬を使わないものの2種類があった。幽州地区ではポロがたいへん流行し、球技場の規模はたいへん大きく、通常は更に閲兵する場所もあった。

 

 幽州にはまた雑技を演じる民間の芸人がいた。『朝野金載』によれば、「幽州人劉高は長竿を持ち、その高さは70尺(約2メートル)、自ら持ち上げ上下させた。12歳の娘がおり、たいへん端正な顔立ちだ。竿の上で位置を定めると、竿に跨り胡坐をかいて立ち上がる。」『杜陽雑編』でも幽州の芸妓の石大胡に触れ、百尺の竿の上に弓の弦を五本張り、五人の女にそれぞれ一本の弦の上に居らせ、着ているのは五色の衣装、戟を執り戈を持ち、一曲の楽曲の間踊り続け、一挙一動がリズミカルで空を飛んでいるようだった。これより、当時幽州では雑技が相当流行していたことが分かる。

 

 幽州地区の彫刻や塑像も、唐代に高い成果が見られた。天宝末年、安禄山が幽州で、白玉で魚、龍、カモ、雁、及び蓮の花を彫って唐の玄宗に献上した。「魚、龍、カモ、雁は皆、鱗を震わせ翼で羽ばたき、その様子は飛び立とうとしている様だった。」(『資治通鑑』巻217唐玄宗天宝十四載注釈『明皇雑録』)これより、彫刻が巧みであったことが分かる。房山石経山の遼塔の周囲に、睿宗(えいそう)の景雲二年(西暦711年)から玄宗の開元15年(西暦727年)までの時期の四基の小塔が保存されている。いくつかの小石塔には仏、菩薩、天王、力士像のレリーフがあり、姿かたちが生き生きとし、彫刻は精巧で美しい。北京房山県磁家務の南山の斜面の上に、無梁殿が一棟あり、名を万仏龍泉宝殿、または万仏堂と言う。殿内の壁には『万仏法会図』のレリーフの石刻が嵌め込まれ、考証によれば唐の大歴五年(西暦770年)に彫られたとみられる。彫刻はたいへん精緻で、今日まで保たれている。近年、北京で出土した唐の信州刺史の薛(せつ)氏の墓の中から五つの精巧で美しい漢の白玉石俑(鶏、蛇、龍、猪、羊)が出土した。それらは線で生き生きと描かれ、姿形が自然で、躍如として真に迫り、彫刻の技術は非常に成熟している。これらは唐代の幽州地区の彫刻芸術の高度に発展したレベルを反映している。薛氏墓の墓室内には壁画が残存しており、その上には花卉と水鳥の痕跡があり、唐代にちょうど隆盛し始めていた花鳥画が既に幽州地区に出現していたことを反映している。

『万仏法会図』レリーフ

『万仏法会図』レリーフの一部

 隋唐時代は仏教がたいへん盛んであった。北京西南の房山県大房山雲居寺は、昔、幽州の重要な仏教寺院で、石板経の珍蔵で世に知られていた。史書によれば、北斉の南岳恵思大師は北周の武帝の廃仏焚経の教訓に鑑み、石経を刻んで山中に収蔵する決心をした。その弟子の幽州僧静琬(じょうおん)は師匠の言いつけ通り、隋の大業年間に「石経を作り之を蔵し、以て法滅に備えるを発心」した。このことは封建統治者の支持を受け、隋の煬帝の蕭皇后(しょうこうごう)は絹千匹(反物を数える。一匹の長さは50尺、或いは100尺)を布施した。唐の玄宗の時、特に仏教経典4千巻余りを賜り、経典を刻む底本(種本、テキスト)とした。 

 

 静琬が開鑿した華厳堂雷音洞)の四方の壁には、146枚の隋、唐代初期に刻まれた石経が嵌め込まれている。書道の上から見ると、石経は虞世南、褚遂良(ちょ すいりょう)など唐代初期の大書道家の字体に近く、内に剛柔を含み、外に筋骨を現わし、力を内に秘め、字はほっそりしているが力強く、筆遣いが益々力強くなる風格がある。これらの石刻は有名な書法家の手によるものではなく、艱難辛苦を怖れぬ無名の芸術家の作品で、彼らの努力と知恵の結晶である。

北京房山県石経山の蔵経洞華厳堂

石経山には上下二層の石窟があり、上層には7窟、下層には2窟あり、大部分が隋、唐時代に開鑿されたものである。これら9窟に所蔵される石経は、これまでのところ、既に4千4百枚余り発掘されている。いくつかの石経の題字には、当時の幽州、涿州の同業者組合の名前が保存されている。これらの石経は、仏教経典の照合、中国の仏教、石刻、書道芸術、経済文化史の研究の上で、重要な価値を有している。

 

 北京郊外の風光明媚な場所には、多くの寺院が建てられている。隋の文帝の時、「舎利」を収蔵するため、弘業寺(今の天寧寺)に高い塔が建てられた。この塔はその後倒壊し、今の天寧寺磚塔遼代に建てられたものである。(詳細は本書の遼代の章を参照)唐の高祖の武徳5年(西暦622年)今の北京西郊馬鞍山の麓に、慧聚寺(今の戎台寺)が創建された。ここは泉の水が流れ山に花が咲き、山の峰は秀麗である。唐の貞観年間、兜率寺が西山山麓北部に建てられた。すなわち今の臥仏寺である。憫忠寺(今の法源寺)は唐の太宗の貞観19年に陣中で亡くなった将兵を祈念して建立され、将兵の不満を緩和し、人心を篭絡しようとした。東西に曾ては二つの塔が建てられ、高さは十丈(約30メートル)、これらは安禄山、史思明により建てられた。寺の境内には今も唐の粛宗の至徳2年(西暦757年)張不矝(ちょうふきょう)が撰し、蘇霊芝が書いた『無垢浄光宝塔頌』、唐の昭宗の景福元年(西暦892年)の『唐憫忠寺重蔵舎利記』が現存する。開元年間には更に天長観(今の白雲観)が建てられたが、これは規模のたいへん大きい道教寺院である。

隋大運河永済渠

第三節 隋唐五代期の幽州地区の都市と住民

 

 今の北京地区は、隋代には当時の幽州の大部分の地域を含んでいた。唐代には当時の幽州の大部分、檀州(だんしゅう)の全て(今の密雲、懐柔、平谷県境)と 嬀州(きしゅう)東部(今の延慶県境)地区であった。隋の煬帝の大業三年(西暦607年)、幽州は涿郡に改称され、唐初に郡が州に改められ、再び幽州と称した。唐の玄宗の天宝の時、一度範陽郡に改称されたが、以後また幽州に改められた。幽州の治所は薊城に設けられ、城址は北魏と同じで、ずっと五代まで変わらなかった。

 

 隋代の涿郡の戸数は84千戸余りに達した。隋末の動乱を経て、唐初の幽州には2万戸余りが残り、檀州には1700戸しかなかった。玄宗の天宝年間(西暦742‐755年)には幽州の人口は6万7千戸、37万人にまで増加した。檀州は6千戸、3万人に増加した。北京全体、及びその付近の地域(以上の唐代の幽州の戸数の数字は、今の武清、永清、安次、涿県、固安、新城等の戸数を含んだ数字である。『旧唐書』巻39『地理志』、『新唐書』巻39、巻43下『 地理志 』参照)は、8世紀中葉には人口が40万人くらいに達した。

 

 幽州の住民は主に漢族で、同時に相当の人数の少数民族の人口を含んでいた。幽州は華北から東北に通じる要衝に位置しているため、ずっと北方と東北の少数民族地区と密接な連携を保持してきた。漢族の労働者はいつも少数民族地区に入って生計を立てようとし、少数民族の人々もいつもここへ来て商売をするか、定住した。隋唐の統一多民族国家の再建は、民族間の往来により多くの、都合の良い条件を提供した。隋代に遼西にいた一部の粟末韃靼人は、西暦623年(唐の武徳六年)幽州城に移り、その首領を世襲の刺史とし、薊県羅城内に役所(衙署)を置いた。西暦737年(開元25年)、また今の懐柔県西南の桃谷山に移った。西暦630年(貞観4年)、唐の太宗は突厥を破り、一部の突厥人は幽州地区に移住してきた。唐の太宗の時、14千人の高麗人が幽州に移住し、以後幽州各地に分散して居住した。唐の高宗の時、一部の新羅人が良郷の広陽城に移住した。7世紀末、契丹人は地方官府の圧迫に反抗し、一度は営州(今の遼寧省朝陽の治所)を攻撃して占領し、長期に営州地区に居住していた突厥、韃靼、奚(けい、契丹、室韋(しつい)人が内地に移住し、その中の一部は前後して幽州の良郷、昌平、潞(ろ。今の通県)と幽州城内外などの地に定住した。西暦732年(玄宗の開元20年)また奚の李詩部落5千帳(古代の遊牧民族の人戸の単位)が良郷の広陽城に移住した。これら幽州に移り住んだ少数民族は、一部が営州に戻り、一部がここを離れた他は、玄宗の天宝年間まで現在の北京市内に居住し続けた者が7138戸、34,293人いた。(以上の民族移住の資料は『旧唐書』巻39『地理志』、『新唐書』巻39、巻43下『地理志』、『旧唐書』巻185下『宋慶礼伝』参照)

 

 幽州城は隋唐五代時代にずっと多くの少数民族がここに定住し、北方の農業従事者と牧畜業従事者の物資の交易の中心であり、異なる民族の文化もここで交流また伝播した。

 

 

幽州地区の政治情況

 

 幽州地区の権勢を持った有力な地主一族は、北魏末の杜洛周蜂起軍の衝撃を経て、隋になると既に衰退していた。元々彼らが代々直接当地の政権を制御したが、隋の文帝の時、燕栄が幽州総管となり、わざと著名な姓(一族)の範陽盧氏に代わって「皆代わって吏卒と為り、以て之に屈辱す。」(『隋書』巻74『燕栄伝』)地方の行政は完全に隋王朝が任命した地方官吏の手に掌握されていた。

 

 隋の煬帝の時、幽州地区の人々は大量に各種の重い労役に徴発され、南北を疎通させる大運河、永済渠を開鑿し、幽州城内に臨朔宮を建設した。

隋大運河永済渠

男子が足りず、婦女も徴発された。隋の煬帝は三度高麗を攻略したが、毎回涿郡を兵馬糧餉(りょうしょう。軍人に給与として支給する食糧と銭)の集結場所とした。西暦611年(大業7年)2月隋の煬帝は高麗攻略の命令を下し、4月から翌年正月(1月)まで、彼自ら涿郡に駐留し、各項目の準備作業の推進を監督した。612年(大業8年)初頭に涿郡に軍隊1133800人が集結し、出兵の際は40日を要して派遣を完了した。毎回兵を退く時も涿郡で休息、軍備を整備した。これらは幽州の人々に甚大な災難をもたらした。

 

 隋末の農民戦争が初めて起こった年代に、涿郡に駐留していたのは遼東の退去兵で、農民の闘争は大きな影響を受けた。西暦617年(大業13年)、竇建徳(とうけんとく)は河間(瀛州(えいしゅう)。滄州市の管轄)で薛世雄が率いる幽薊の精鋭兵を大いに破って後、農民蜂起軍は幽州地区で急速に発展した。易州蜂起軍数万人が幽州に侵攻し、その他の蜂起軍もやって来て侵攻し、隋の涿郡の留守官の多くは拒むことができなかった。西暦620年(唐の武徳3年)竇建徳は派兵し幽州を包囲し、兵を留めて火城(今の北京城と大興の間)に籠城した。9月、竇建徳は自ら兵20万を率いて幽州を包囲し、何度か幽州城下まで攻撃し、一度は城壁をよじ登った。

 

 隋唐時期の幽州城はずっと朝廷が華北の人々の反抗を鎮圧し、東北の各少数民族を制御する軍事拠点であった。7世紀末、契丹と 奚(けい。モンゴル高原東部から中国東北部の遼河上流に存在した遊牧民族)が強大になった。契丹と 奚を制御し防御するため、唐の玄宗は714年(開元2年)幽州節度使を設け、兵91千人、馬65百匹を統率させた。そのうち今の北京市境界内に駐屯するのが、幽州城内の経略軍(兵3万人、馬54百匹を統率)、密雲城内の威武軍(兵万人を統率)であった。それ以外は今の北京市付近の各地に分散していた。これらの軍隊には毎年衣料品の下賜80万匹段、軍糧50万石あった。

 

 西暦744年(玄宗の天宝三載)、平廬節度使(治所は今の遼寧省朝暘)の胡人安禄山は東北の少数民族鎮圧に功があったので、範陽節度使を兼任した。安禄山は中央政権の簒奪をたくらみ、敵の侵略を防ぐ名目で、雄武城(黄崖関のこと)を築き、その内部に糧食、兵器と15千匹の戦馬を蓄えた。彼はまた上奏して上谷(今の易県)に銭鋳造の炉を五基作るよう乞い、胡人の商人を方々に派遣して交易を行い、財力を蓄積した。また漢族の失意文士、高尚、厳庄らを自分の策士にした。西暦751年(天宝十載)安禄山は河東節度使を再び兼務してから、更に急いで準備をした。彼は同羅(トングラ。鉄勒の一部族。モンゴルの北部,トラ川沿岸で遊牧生活をし,突厥に所属)、 奚、契丹等の少数民族8千人を自分の親兵とし、また上奏して、漢将に代え「藩将」32人を用いた。西暦755年(天宝14年)11月、安禄山は楊国忠を討つ名目で、統轄している部隊の兵、及び同羅、奚、契丹、室韋凡の15万人と合わせ、20万人と号し、幽州から挙兵し、まっすぐ洛陽と長安を攻撃した。安禄山が両京(洛陽と長安)を陥落させてから、しばしば駱駝で両京の御府の珍宝を幽州に持ち帰った。後に安禄山のグループ内で内訌 (内輪もめ)が起こり、安禄山は子の安慶緒に殺され、安慶緒もまた部将の史思明に殺され、最後に史思明も子の史朝義に殺された。安史父子の統率下、反乱は前後八年続き、歴史上安史の乱と呼ばれる。安史の乱は統治階層内部の利権争奪の戦争であった。安史等の人物は部下が家を焼き払い、人を殺し、金品を掠奪するのを容認するやり方で士気を鼓舞し、「人や家を焚し、玉帠を掠奪し、壮者は鋒刃に死に、弱者は溝壑(穴やくぼみ)に埋められ」、社会経済は甚大な損害を受けた。

 

 安史の乱が平定されてから、唐朝に投降した安史の残党は依然河北地区に盤踞し、実力はまだたいへん強大であった。唐王朝が代わって彼らを見かけ上推戴するため、節度使の名称を与え、彼らの割拠を認めた。河北地区はこれより幽州盧龍(今の北京市を統治する)、魏博(今の河北省大名を統治する)、成徳(今の河北省正定を統治する)の三鎮に分けられた。幽州地区は西暦763年(代宗の広徳元年)から、李懐仙が幽州盧龍軍節度使になって以来、西暦913年(後梁の乾化三年)、李存勗(り そんきょく)が山西から幽州を攻撃し占領するまで、150年間に前後28人の統治者が交換した。

 

 藩鎮の統治はたいへん貪欲で暴虐を極めた。唐末から五代の初め、劉仁恭は幽州に割拠し、統治はとりわけ暗黒であった。彼の領内では鉄銭を使用し、また泥粘土で貨幣を作り、人々に使用を強制した。そして民間の銅銭を収奪し、自分の懐に入れてしまった。「大安山の頂に穴を穿って之を隠し、隠し終えると匠を殺し、石でその入口を隠した」。彼はまた茶商が領内に入るのを禁じ、山に生えた草の葉を採って来て茶葉として販売した。後に彼は開封の朱梁政権と河北を争奪し、続けて失敗し、なんと領内の15歳以上70歳以下の男子全てを徴発して兵隊にし、自分で兵糧を持って来させ、「町中このため空っぽ」になった。兵隊に取られた男子は「貴賤の別無くその顔に「定覇都」と入れ墨を入れ、下士官はその腕に「一心に主人に仕える」と入れ墨を入れた」。(以上の劉仁恭に関する引用文は、『旧五代史』巻135『劉守光伝』参照)

 

 10世紀初め、耶律阿保机は契丹の各部を統一し、西暦916年契丹国を建国した。幽州地区の統治者劉守光や太原の李存勗は、皆契丹の統治者と結託して自分の敵対勢力を消滅させようと企んだ、契丹の統治者は彼らの間の矛盾を利用し、この機に乗じて自分の勢力を拡大させた。913年晋王李存勗(りそんきょく)は幽州を攻略し、更に南の朱梁を攻め、北方の統一を図った。917年耶律阿保机は自ら30万の軍隊を率いて幽州城を包囲した。契丹兵は四方から地下道を掘って城を攻めたが、城側は地下道を掘り起こし、油を注いで燃やして敵兵の攻撃を阻んだ。また土で山を築いて城を攻めたが、城側は銅を溶かした液体を撒いて敵兵を焼き殺した。幽州の兵士と民衆は奮戦し、後晋の軍隊は孤立した幽州城を200日近く固守し、契丹の南侵の企みを挫折させた。後唐の北方統一後、契丹は絶えず幽州に侵攻し攪乱した。西暦928年、即位間もない耶律徳光が出兵し、河北定州の割拠勢力を支援し、北方の統一を破壊した。契丹兵は危険を冒して南に深く侵入し、曲陽の一戦で、大敗して逃げた。契丹はまた7千の騎兵を派遣して定州を救援しようとしたが、唐河で破れて北へ敗走したが、途中で人々の襲撃を受け、総崩れになって軍を為さなくなった。敗走途中、幽州を通ると、後唐軍に迎撃され、「残った兵隊は散り散りに村落に落ちのびたが、村民が白いこん棒でこれを攻撃し、それを避けて国に帰った者は数十人に過ぎなかった。これより契丹は勢いを失い、軽々しく国境を侵すことがなくなった。」(『資治通鑑』巻276後唐明宗天成三年)

 

 契丹から防御するため、後唐は山西、河北地区に大量の軍隊を駐屯させ、大量の軍事物資を貯蔵した。河北節度使石敬瑭は中央政権を奪い取るため、人々の利益を売り払うことを惜しまず、恥知らずにも契丹皇帝に息子、臣と称し、事が成就すれば、雁門(がんもん)以北幽州節度管内の十六州を契丹に割譲すると答え、それにより契丹の軍事支援を獲得した。936年、石敬瑭は契丹の騎兵5万の支援の下、後唐を打ち倒した。耶律徳光は石敬瑭を大晋皇帝に封じ、幽雲十六州は契丹に割譲された。幽雲十六州中の幽(今の北京)、檀(今の密雲)、順(今の順義)、儒(今の延慶)四州及び嬀 州(きしゅう。今の懐来)の一部分は皆、今の北京市の域内である。長期に亘り人々の鮮血により保ち守られてきた幽州城及びその付近の広大な地域が、統治者により軽々しく売り渡されてしまった。

幽雲十六州(燕雲十六州)

魏の嘉平2年(250年)、薊城の西北で㶟河(るいが:今の永定河)の水を引き、戻陵堰を築いた

 

二節 魏晋十六国北朝時代の薊城

 

薊城の政治状況と薊城の住民

 黄巾蜂起軍の主力が鎮圧され、広陽の黄巾も薊城から退出させられた。地主階級が元々持っていた私的な武装軍は、黄巾鎮圧の過程で大きく増強された。州や郡の官吏も次々軍隊入隊者を募集し、勢力を拡充した。東漢以来封建経済の発展がもたらした社会の分裂は益々明確になった。農民軍の再蜂起を防止するため、州や郡をコントロールし、自らの存亡の危機から救うため、東漢王朝はいくつかの重要な地区の州刺史を州牧に改め、宗室や名望家出身の官吏を選んで任命し、彼らに一州の軍政大権を管掌させた。漢の宗室出身の劉虞(りゅうぐ)は幽州牧に任じられ、西暦189年(漢中平六年)薊城に着任した。一年後、董卓の乱により、薊城は有名無実となった東漢王朝とは連携を絶った。

 

 薊城は新たな発展段階に入った。そこは嘗ては秦漢帝国の辺境の都市で、東北と北方の各民族が国境を侵すのを防ぐ要衝であった。しかしこの時代には、北方の封建割拠勢力の中心都市のひとつとなった。ここに割拠した者が、塞外の各民族を使って、自ら中原に鹿を逐う際の助力とするため、また塞外の各民族が次々大量に内地に入って来るため、薊城はたいへん長い間、各民族の統治者が次々入れ替わって蹂躙(じゅうりん)する只中に入った。

 

 劉虞(りゅうぐ)は薊で、烏桓(うがん)と結託して幽冀(幽州と冀州の総称)を害する張純の反乱を取り除き、同時に上谷(懐来の東南)に元々あった塞外の各民族と交易する関所と市場を回復し、烏桓、鮮卑等の部族との平和な交流を発展させた。農業生産に注意し、漁陽(今の密雲の西南)の塩や鉄の利益を引き続き開発した。幽州は劉虞による統治の下、軍閥が覇を争う中原に比べ安定し富み栄えたので、中原の人々が大量に北に向け幽州に流入した。

 

 西暦193年(漢初平四年)、劉虞は部将の公孫瓚に殺され、公孫瓚と袁紹が相次いで幽州に割拠し、ぞのまま西暦204年(漢建安九年)曹操が幽冀を占領し、北方を統一するまで続いた。この期間、薊城に割拠した者は、烏桓、鮮卑の騎兵を自らの武装の重要部分とし、烏桓、鮮卑の人々が大量に幽州に入り、当地の漢族の人々と入り混じって生活し、互いに影響を与え、次第に民族間の融合の道を歩み始めた。

 

 しかし、 烏桓王蹋頓(とうとん)はしばしば軍を率いて薊城地区を乱し、人をさらい財産を掠奪し、生産を破壊した。西暦207年(漢建安十二年)曹操は大軍を率いて冀東から盧龍塞(今の喜峰口付近。河北省遷西県の西北50キロ)に出て、大いに蹋頓の軍を破り、烏桓の中の数万戸の漢族の人々を救助した。曹操は烏桓に対する戦争で北方の安全を確保し、幽冀の統治者が烏桓と結託して割拠する可能性を絶ち、北方の統一を助けた。

 

 この地の何人かの漢族の封建統治者は、塞外の各民族に対し、引き続き圧迫を行った。曹魏の幽州刺史、毋丘倹(かんきゅうけん)は遼東塞外の高句麗の人々を遠く河南省滎陽(けいよう)に移した。西晋の幽州刺史王浚(おうしゅん)は更に鮮卑の貴族、段務勿塵(だんむもちじん)と結託し、鮮卑、烏桓の軍隊を率いて八王の乱に参加し、鄴(ぎょう)城で軍隊が人をさらい金品を掠奪するのを容認し、また鮮卑兵に命じてさらってきた漢族の婦女八千人を易水に沈めて溺死させた。

五胡十六国時代の華北

 十六国の戦争による混乱が始まって以降、幽州地区はしばらくは戦乱が比較的少なく、北方の人々でここに逃げて来る者がたいへん多かった。しかし彼らは王浚の搾取と圧迫の下、生活の活路を見出すことができなかった。西暦314年(晋の建興二年)、王浚(けつ)(山西省にいた匈奴の一種で、東晋の時、黄河流域に後趙国を建てた)の石勒(せきろく)の軍隊に殺され、薊城は鮮卑段部の手中に落ちた。西暦319年(晋の大興二年)、石勒は薊城を奪い取った。遼西地区の鮮卑慕容(ぼよう)部の南下を防ぐため、石勒は彼の根拠地の襄国(今の河北省邢台)と薊城の間に楡の木を一列に植え、滹沱河(こだが。海河水系の西南の支流)に浮き橋を架け、襄国と薊城の連携を強化し、薊城を攻守の基地にした。

 

 西暦350年(晋の永和六年)、冉閔(ぜんびん)が後趙政権を奪い取って後、鮮卑慕容部の統治者慕容儁(ぼようしゅん)は遼西地区から南下し、兵を分け、今の冀東、喜峰口、居庸関の三路から薊城を攻略した。この時から始まり西暦357年(晋の升平元年)まで、薊城は前燕の都であった。以後半世紀の間、薊城は氐(てい)族(西北一帯に居住していた部族で、五胡の一つ)の前秦が統治した十数年を除き、ずっと慕容部の故都龍城(今の遼寧省朝陽)と新都鄴(ぎょう)城(今の河北省臨漳:りんしょう)の間の枢軸で、鮮卑部落がいつも出入りする場所だった。4世紀末、薊城は鮮卑拓跋部北魏政権に取得された。北魏が分裂すると、薊城は前後して北斉と北周に属した。

 

 薊城地区の政治形勢の変化は定まることがなく、薊城住民の民族構成も部分的に変化した。魏晋十六国北朝の時代、ここの住民の主体は依然漢族だったが、移り住んできた烏桓、鮮卑の人々も多かった。慕容儁が薊城を都とした時、前燕の文武の役人、兵士、鮮卑族の人々が薊城に移り住んだ。丁零族の一部が密雲などの地に集まって住み、薊城付近の一本の川は丁零川を名とした。西暦429年(魏の神䴥二年)、北魏は塞外の高車族数十万人を強制的に陰山から滦河(らんが)上流の一帯に置いて農業や牧畜をさせた。幽州北部はこの一帯に近く、高車族の集落もある可能性があった。西暦432年(魏の延和元年)、北魏はまた東北諸郡の移民三万を幽州に住まわせた。この他、中原が戦乱の中、流民もしばしば自ら進んで幽州に移り住んだ。劉虞の時、中原流民の幽州流入は百万人余りに達した。後燕の慕容農が幽州牧の時、四方からの流民数万人が集まりここに住んだ。北魏の尉諾が幽州刺史の時、外に逃亡した幽州の人々で、故郷に戻る者が一万戸余りあった。これらの流民は漢族が主で、長く塞内で暮らすその他の各民族の人々もいた。西暦523年(魏の正光四年)、六鎮蜂起の時、辺境地帯の町の各民族の兵士や民衆で薊城に流入する者がたいへん多く、流民と薊城の人々の蜂起を指導した杜洛周は、柔玄鎮(今の内蒙古興和県西北)の流民であった。

 

 薊城地区の人々が外へ流動する現象もしばしば発生した。これは薊城地区の統治者の圧迫、搾取の他、各民族征服者による住民掠奪によるものだった。西暦338年(晋の咸康四年)後趙の石虎が薊城の住民一万戸余りを強制的に中原に移した。西暦340年(晋の咸康六年)また漁陽から人戸を掠奪した。同年、鮮卑慕容皝(ぼようこう)は薊城と付近の住民三万戸余りを掠奪し、北に移した。西暦385年(晋の太元十年)後燕の反逆将軍徐岩が薊に入り、千戸余りの住民を掠奪した。次々と薊城地区に入り居住してきた鮮卑慕容部の人々は、当地に元々住んでいた人々と完全に融合した以外に、大多数が北魏の征服者により強制的に平城(今の山西省大同)に移住させられた。

 

 人口の流動、統治者による強制的な移住は、薊城地区の住民の民族構成を絶えず変化させた。魏晋十六国北朝による400年近くの長期間、薊城は民族融合の巨大な溶鉱炉であった。薊城周辺の広大な原野は、塞外から入ってきた各民族の人々が、遊牧生活から定住し農耕生活に移り変わるのに都合の良い場所であった。薊城付近で発達した封建制度は、塞外から入って来た各民族が融合する共同の基礎であった。薊城に定住した各民族の人々は皆薊城の主人で、彼らは漢族を主とする元々住んでいた住民と一緒に、薊城の物質的な財産や富、精神的な財産や富を創造し、薊城の歴史を発展させた。

 

 薊城地区の各民族の人々の融合は、民族の圧迫に反対する闘争の中で進められた。例えば、北魏軍が薊城を占領後、漁陽の烏桓人庫傉官韜(こじょくかんとう)は人々を集めて挙兵し、北魏統治者の残酷な他民族圧迫に反抗した。彼らは頑強に戦い、失敗しても再度挙兵し、そのまま西暦416年(魏の泰常元年)に至って、北魏王朝の統治者は、烏桓貴族幽州刺史庫傉官昌、征北将軍庫傉官提らの助力を得て、ようやく蜂起軍領袖の庫傉官女を生け捕りして平城に送り、十八年間続いた烏桓人の反抗を鎮圧した。薊城地区の人々の闘争は北方の各地の各民族の人々の闘争と互いに呼応し、北魏王朝の統治者が都を河北、河南地区に移す勇気を奪い、彼らに迫って他民族への圧迫を緩和させた。

薊城及びその周囲の建設

 

 薊城は、長い歴史があり、政治的に複雑な変化はあったけれども、都市の基盤は、戦国から遼代に到る千年余り変動が無かった。

 

 北魏の地理学者酈道元(れき どうげん:薊城付近の涿県の人)の『水経注』及びその他の文献によれば、また解放後北京で出土した器物、西晋幽州刺史王浚の妻芳華の墓誌(芳華の墓は1965年今の八宝山西側0.5キロのところで出土し、墓誌に「仮に燕国薊城西二十里に葬る」の文があった)によれば、私たちは薊城城址は現在の北京城の西南部であり、薊城の大部分は現在の北京外城の西北部分と重なると推断できる。

 

 薊城は多くの水道がぐるりと取り囲む中に位置している。薊城城南七里は、今日の永定河の北で、当時の㶟水(るいすい:今の永定河)の河道であった。今の西直門外紫竹院公園の湖は、当時の高梁河の水源であった。高梁河は薊城の北面と東面を巡り、東南に向け、薊城の南面に沿って流れる㶟水に繋がっていた。薊城南面の清泉水は、遊覧客が賞玩(鑑賞し、遊覧する)する場所であった。

 

 西暦206年(漢の建安十一年)、曹操は薊城付近の地域の海運を通じさせ、烏桓に侵攻する準備を行い、洵河(じゅんが)口に水路を穿ち潞水に導き、泉州渠と名付けた。泉州渠は海に通じる平虜渠(へいりょきょ。呼沱河(こだが)と泒水(こすい)の間にある)と繋がっていた。このように、薊城地区は潞水から海に通じる水道を持ち始めた。しかし各民族の統治者が戦い混乱した時代は、この海に通じる水道は維持、修理をすることができず、これが本来果たすべき機能を果たすことができなかった。

 

 薊城の西北は、居庸関から山西の大同に到る、薊城を屏風のように遮る長城を建設した。薊城は戦国以来都や封国の所在地で、城内には次々大きな建築物が建てられた。前燕の慕容儁(ぼようしゅん)がここに太廟と宮殿を建て、宮殿にはまだ燕昭王の時の碣石宮(けっせききゅう)の旧名をそのまま用いた。また東掖門(えきもん)の下には銅馬像を建て、塞外の駿馬の雄姿を表した。残念ながら、これらの建物は、皆後秦の幽州刺史により焼き払われた。後に北魏軍が後燕に侵攻した時、後燕太子慕容宝がまた薊城の府庫の一切合切を北の龍城に持ち去ってしまった。

 

 

薊城の人々の経済生活

 

 薊城地区は、農作物は粟類を主としたが、水稲栽培の伝統もあった。戦国時代以来、三国、北朝を経て隋唐に至るまで、薊城の人々が水稲を栽培したという記録がある。

象牙尺(長さ24.2センチ)

北京八宝山晋芳華墓出土

 薊城防衛(戍守:じゅしゅ。辺境防衛)の兵士は、しばしばここでは重要な労働力であった。彼らは屯田兵として組織され、当地の人々と一緒に畑を耕し、荒地を開墾した。東漢末、公孫瓚(こうそんさん)がここに屯田を設置した。魏国の劉靖(りゅうせい)の軍隊が薊城で屯田し、稲を植えた。後趙の石虎は幽州以東で屯田を始めた。北斉は薊城に隣接した範陽督亢陂(はんようとくこうひ:今の涿県以東)で屯田を始め、毎年の米の収穫高は数十石だった。

 

 水利灌漑は薊城地区で農業生産が発展する重要な条件だった。西暦250年(魏の嘉平二年)、劉靖が屯田を始めた時、梁山(今の石景山)の㶟河(るいが。今の永定河)に川を遮るダムを築き、戻陵堰(れいりょうえん)と呼んだ。ダムの東端を穿って水路を引き、車箱渠(しゃしょうきょ)と呼んだ。

㶟河、戻陵堰、車箱渠の位置関係略図

車箱渠は永定河の水流の一部分を遮って薊城東側の高梁河(こうりょうが)に向かわせ、高梁河の水をより満ち溢れさせた。高梁河の両岸には多くの用水路を開鑿し、田地2千ヘクタールを灌漑した。

高梁河上流略図

山津波で水位が急に高くなる季節は、㶟河の水は一部を車箱渠から流し出してしまい、それによって薊城南側の氾濫の災害を軽減した。西暦262年(魏の景元三年)、樊晨(はんしん)が中心となって戻陵堰を修築し、また高梁河の上流から水路を引いて温楡河に直接つなげ、灌漑面積を拡大した。西295年(晋の元康五年)、戻陵堰が山津波により四分の三が押し流されて破壊され、一度大修理が行われた。200年余り後、北魏の裴延儁(はい えんしゅん)が幽州刺史になった時、また戻陵堰を修復した記録がある。西暦565年(斉の河清四年)、北斉の幽州刺史斛律羨(こくりつ せん)が薊城地区の人々を組織し、再度高梁河の水を温楡河(おんゆが)に向けて引き、その後東で潞水(ろすい)に注いだ。岸に沿って灌漑された田がたいへん多く、北斉が辺境の食糧を輸送する労を省くことができた。

 

 戻陵堰、車箱渠などの水利工事は、最初は兵士千人で作られた。西暦295年( 晋の元康五年 )、修復時には兵士二千人が出動し、四万人余りの作業者を用い、薊城付近の人々も何千人もが労役に参加した。しかし多くの封建統治者は個人の私的な利益のため、水利を独占したり、任意に破壊したりした。例えば西晋の終わりに薊城の統治者王浚と彼の部将は、自分の田畑に水を引き灌漑するため、付近の住民の広い土地や墳墓が水浸しになるのをいとわなかった。このため、魏晋十六国北朝の時代、水利工事は長く維持することが困難で、人々が一回、また一回と作り出した水路や堰は皆、使用を開始してしばらくすると、次第にふさがって廃棄されてしまった。

 

 薊城地区の人々は牧畜業を営む伝統があった。幽州の馬は古来名を馳せていた。幽州産の家畜の靭帯や角は、弓や弩(ど)を作る時の貴重な材料で、魏の陳琳は『武庫賦』、晋の江統は『弧矢銘』の中で、幽都の家畜の靭帯、角を用いて作った弓や弩を、たいへん褒め称えた。薊城地区の畜産品は有名で、塞外の遊牧民の部落とこの地は絶えず密接に連携していた。

 

 薊城地区の手工業生産は、戦乱の中で大きく破壊された。北魏の統治者は北方各地の手工業者を強制的に平城に移住させたのも、薊城の手工業生産が衰退した大きな原因であった。しかし薊城の民間の麻、布生産は依然として相当大きな生産量があり、人々が負担する戸毎の徴税は、麻、布で納められた。今の密雲県は鉄を産出する場所であったので、劉虞の時代には引き続き採掘をした記録がある。今の平谷県西北には塩池があり、食塩を生産した。北魏はここに塩田の守備隊を設け、兵士が駐在し守った。薊城付近には「胡市」があり、塞外の各遊牧民族が交易する場所で、ここは各民族の経済交流を促す効果があった。歴代の「胡市」の伝統から推測して、ここで交易される主な商品は、食糧、鉄器、その他の手工業品であったに違いない。

 

 薊城地区では、北方の他の地方と同様、大地主の多くは権勢のある家柄の豪族であった。彼らは多くの土地を所有し、宗族(そうぞく)、親戚、隣近所を主とする百人或いは千人単位の従属する農民、や小作農、及びかなり多くの畑仕事、機織りをする奴婢であった。彼らはまた「苞蔭戸」を武装させ、部曲(個人の私兵)の家兵を組織した。北魏前期に、これらの人々は宗主と呼ばれ、彼らは一方を「督護」し、北魏政権に代わって地方を統治する権力を握った。

 

 封建搾取の下の薊城の農民は、生活が塗炭の苦しみの中にあった。東漢時代、幽州地区の政権機構の費用は、当地で搾取し得られたものの他は、しばしば人煙の稠密な青州(山東省)、冀州(河北省)からの租税での補充に頼った。東漢以後、ここでの戦いは益々多くなり、それにつれ増加した軍政費用は当地の人々から取るしかなく、外地からの調達、補充が得られなくなった。租税を負担する自作農は、益々多くが王朝の管理から離脱し、横暴な地主の小作農になり果ててしまった。自作農の数は日増しに少なくなり、彼らの租税や兵役、徭役の負担は日増しに重くなった。西暦555年(斉の天保六年)、北斉の統治者は居庸関から平城(今の山西省大同)の至る長城を修築するため、民丁(壮丁、そうてい。賦役にあたる壮年男子)の徴発が180万人にも達し、長城の起点に当る薊城の各民族の人々は、自然と大量に徴発され、苦役に従事した。長城の工事が完成して後、北斉の統治者はやせこけて弱弱しい服役者を打ち捨てた。その中の多くが、彼らが自ら築いた長城の下で餓死、凍死、病死した。

 

 自作農であれ小作農であれ、彼らは飢餓ぎりぎりの線上でもがいていた。封建地主は高々と穀倉を築き、食糧を貯蔵し、それが市場に出るのを拒んだ。地方の官吏も食糧を収奪し、一般の人々の生死など顧みなかった。例えば王浚は食糧の備蓄が50万斛(升。十斗)に達したが、幽州の人々は食を求めて行き場を失い、各地に四散せざるを得なかった。戦乱とともに発生した各種の天災が、しばしば薊城の人々を襲撃した。千里の彼方から飛来するイナゴの大軍や、山津波の襲来といった災害により、薊城地区では幾千幾万の人々が命を失った。封建時代において、天災は時には残酷な統治の直接の結果であった。

 

杜洛周が指導する反魏闘争

 

 十六国時代以来、薊城地区の階級矛盾は先鋭的に存在していたが、各民族の人々がしばらくの間は民族の境界で分断しており、階級矛盾はまだ大規模な農民戦争へとは発展し難い状況にあった。北魏中期以後、民族融合の進展が加速し、民族間の差異が次第に減少していった。北魏の統治力が強まるにつれ、また社会経済の発展に伴い、統治者の貪欲な搾取、堕落が益々ひどくなり、それが都を洛陽に遷都して以降更に明確になった。こうして、北方社会の大規模な階級闘争の爆発時期が日増しに成熟していった。西暦499年(魏の太和二十三年)、幽州人の王恵定が大勢の人々を集めて挙兵し、自ら明法皇帝と称した。西暦514年(魏の延昌三年)、幽州の僧侶、劉僧紹が反魏の兵を起こし、自ら浄居国明法王と称した。幽州地区のこれらの闘争は、北方人民の北魏の封建統治に反対する大規模な階級闘争の予兆であった。

 

 西暦523年(魏の正光四年)、北方の辺境地区の各民族の人々が、北魏の統治者を震撼させる大蜂起を巻き起こし、間もなくその波は薊城地区に及んだ。西暦525年(魏の正光六年)、柔玄鎮の兵、杜洛周が上谷(今の延慶の境界を治めた)で兵を挙げ魏に抗戦し、軍を薊城に進めた。薊城の各民族の人々は次々にむしろ旗を掲げて立ち上がり、曾て蜂起の際に用いた宗教の上着を投げ捨て、杜洛周の旗下に集まった。西暦526年(魏の孝昌二年)、北魏の安州(今の河北省隆化を治めた)の三戍兵(辺境を防衛(戍守)する兵士)二万余りが寝返って連携し、蜂起軍の勢いは益々盛んになった。彼らは続けて軍都関(今の居庸関)と薊城北側で北魏軍を大いに破り、北魏燕州刺史(今の河北省涿鹿を治めた)に迫って都を捨て南に走らせた。11月、蜂起軍は範陽(今の河北省涿県)に侵攻し、範陽の人々は魏軍の統帥常景と刺史王延年を生け捕りし、城門を開けて蜂起軍を出迎えた。こうして、薊城地区は完全に蜂起した人々の手中に掌握あれた。西暦528年(魏の武泰元年)、杜洛周が殺され、彼の蜂起軍は葛栄軍に併呑された。強大な葛栄蜂起軍の先鋒は何度か北魏の心臓である洛陽からあまり離れていない沁水(しんすい)、滑城などの地に進入した。しかし、鄴ぎょう城以北の一戦で、葛栄の主力が不幸にも敵に攻撃され潰走し、彼自身も囚われて犠牲となった。

 

 葛栄蜂起軍の失敗の後、軍中の薊城地区の人々は、一部が青州に向かい、邢杲(けいこう)の反魏軍と肩を並べて戦い、別の一部分は韓婁(かんろう)、郝長(かくちょう)が率いて、薊城に戻り引き続き一年間闘争を続けた。

 

薊城の経学

 

 民族間の融合が進むにつれ、各民族の統治階層も、漢族の地主と次第に連携するようになった。彼らは経学(けいしょ。四書五経などの経書を研究する学問)を提唱した。当時、薊城には経学を研究する士大夫が集まっていた。薊城に長く住む梁祚(りょうそ)は公羊『春秋』と鄭氏『易』に精通していた。薊の人平恒は経籍を総合的に研究した他、『略注』を著し、歴代の統治者の興隆、衰退の過程を記述した。漁陽の人高閭 (こう りょ)は経史に広く通じていて、北魏の多くの詔令は、彼の手で書かれたものであった。

 

 当時、燕斉趙魏一帯は個人が学問の講義をする気風がたいへん流行っていた。梁祚は薊で、学校を設けて弟子に指導していた。北方の著名な経学家徐遵明は範陽で経学を研究し、多くの薊城の人々が彼について勉強した。個人で講義して経を伝えるのが、当時の地主階層の教育の主な方法で、漢族の文化学術の継承に、大きな役割を果たした。北斉になると、薊城の学校も復興し始めた。

 

 少数民族の中の一部の人も、経学の学習と研究に力を入れた。弟子を集めて講義した密雲の丁零(ていれい)人(紀元前3世紀~後5世紀にモンゴル高原に遊牧していたトルコ(チュルク)系民族)、鮮于霊馥(せんうれいふく)は、その中のひとりであった。各民族は定住に至る過渡期の農耕生活を送っていて、封建制に進む過程で、漢族の文化を吸収することが、彼らのたいへん自然な要求であった。鮮于霊馥が経学を教授したことは、漢族の文化が民族の融合の上で一定の効果を果たしたことを説明している。

東漢荘園明器・陶庭院

 

西漢時代の燕国(続き)

 

 

 北京地区の貧富の差は日増しにひどくなった。大商人や富豪地主の多くの一般の人々に対する搾取や圧迫はたいへん残酷なものだった。『漢書・酷吏列伝・厳延年伝』によれば、涿郡の「大姓(名門)の西高氏、東高氏は、郡吏以下皆これを恐れ避け、敢えてこれと触れようとせず、皆曰く「寧ろ二千石を負うても、豪なる大家を負わず。」賓客は放って盗賊となる。発すればすぐに高氏に入り、吏は敢えて追わず。次第に道路は弓を引き刀を抜き、その後敢えて行く。その乱れることかくの如し。」西漢後期、北京地区の土地は併呑され搾取され、圧迫は一層ひどくなった。

 

 早くも武帝の時期、北京地区の階級矛盾と階級闘争は既にたいへん先鋭化していた。『漢書・酷吏列伝・咸宣伝』によれば、「吏民はますます犯罪を軽視し、盗賊が増えた。南陽に梅免、百政あり、楚に段中、杜少あり、斉に徐勃あり、燕、趙の間に堅盧、範主の一族がいた。大群は数千人に達し、勝手に号令し、城邑を攻め、庫や兵を取り、死罪を赦し、郡守、都尉を縛り辱め、二千石を殺した。檄(げき)で県に告げ、向かって食を具う。小群盗は百人余りを以てし、郷や里を掠奪する者は、数を称すべからず。(数えきれない)」西漢の終わりには、全国各地の農民が次々蜂起した。西暦24年(更始二年)、劉秀が緑林軍の破虜将軍となって大司馬の事を行い、秩序を保って北に向かい、薊に着いた時、王郎が邯鄲で帝位に就き、檄を飛ばして十万戸で劉秀を招こうとしたが、劉秀は将軍王覇に命じ、薊の市中で兵を募り、王郎攻撃の準備をした。「市の人皆大いに笑い、これを邪と諭した。覇は羞じて退く。」(『後漢書・王覇伝』)この時、故広陽王劉嘉の子劉接は薊で兵を挙げ、王郎に呼応した。薊の秩序は混乱し、皆恐怖にかられ、王郎の使者が既に到着したとのうわさが流れ、城内の大小の官吏は皆外に出て出迎えた。劉秀は兵力が弱かったので、皆を率いて南に逃げた。後に上谷太守耿況、漁陽太守彭寵の助けを得て、邯鄲を攻撃して破り、王郎を殺した。翌年、劉秀はまた呉漢に十二将軍を率いて潞(今の北京市通県)の東と平谷(今の北京市平谷県)一帯に派遣し、大いに尤来、大搶、五幡などの蜂起軍を破った。この時、将軍馬武らは劉秀に薊で皇帝を称するよう建議したが、劉秀は同意しなかった。後に(こう:今の河北省柏郷)に至り、自立して皇帝となり、東漢王朝を建立した。

 

 

 

東漢の幽州

 

 東漢のはじめ、今の北京地区は長期間戦乱の中にあった。建武二年(西暦26年)二月、漁陽太守彭寵(ほうちょう)が背き、自ら士卒二万人余りを率いて、幽州牧朱浮を薊で攻め、更に兵を分けて広陽、上谷、右北平の各郡を攻略した。八月、劉秀は遊撃将軍鄧隆を派遣し、朱浮を助け彭寵を討った。鄧隆軍は(今の北京市通県)の南に居り、朱浮軍は雍奴(今の天津市武清県蘭城村)に居た。彭寵は軽装の部隊で大いに鄧隆軍を破った。翌年三月、涿郡太守張豊が背き、無上大将軍と自称し、彭寵と連合した。彭寵は薊城を攻撃して破り、燕王を自称した。更に上谷、右北平を攻撃して奪い取り、北は匈奴に通じ、南は割拠勢力の張歩らと結び、劉秀に反抗した。建武四年(西暦28年)五月、劉秀は将軍祭遵、劉喜らを派遣し涿郡を攻撃して破り、張豊を捕らえた。祭遵はまた屯良郷(今の房山県竇店)に進軍し、劉喜は屯陽郷(今の河北省涿県長安城)に進軍した。匈奴は兵を派遣し、彭寵を増援し、上谷太守耿況を撃破した。彭寵は薊城を退き、漁陽を占拠し防備した。翌年二月、彭寵は召使いの子密に殺され、子密は劉秀に投降し、漁陽は遂に平定された。

 

 今の北京地区の行政区画は基本的に西漢の制度を踏襲したが、また変化もあった。更始の時期、ここは幽州に編入され、州牧はに駐在し、州牧の苗曽は後に劉秀に殺された。劉秀はまた朱浮を州牧にし、薊に駐在させた。後に州牧は刺史に改めた。東漢の終わりに、また州牧に戻した。州の下に郡(国)が置かれ、幽州の下には十一の郡(国)が属し、そのうちの広陽涿上谷漁陽右北平の五郡(国)の全部或いは一部分の地域が、今の北京市の領域となっている。建武二年(西暦26年)四月、劉秀広陽国を置き、叔父の劉良を広陽王とし、薊を都とした。劉良がまだ国に着任しないうちに、建武五年(西暦29年)三月、移して趙王とした。翌年六月、劉秀は国家財政が困難で、各地の人口がまばらであるため、命令を出して郡県を削減させ、全国で四百余りの県を整理統合した。これは彼が当時実際に管理した県数の三分の一を占めた。同時に官吏の職を十分の一に減らした。建武十三年、広陽国を省き、上谷郡に併合した。和帝の永元八年(西暦96年)、再び広陽郡を置き、下に五県、つまり薊(陽郷を編入)、広陽、昌平、軍都(二県が元は上谷に属していた)、安次(元々渤海に属した)を管轄させた。元々管轄していた方城は涿郡に属するよう改められた。順帝の永和五年(西暦140年)の官府統計によれば、広陽郡には戸が全部で44550あり、人口は28万6百であった。

東漢広陽郡、漁陽郡、右北平郡の位置関係

 劉秀が全国を統一して以降、「民力を養う」政策が執られ、農業生産の回復、発展に注意が払われた。劉秀は官吏の選任にたいへん慎重だった。当時、漁陽郡は彭寵の反乱による破壊のため、社会秩序が混乱し、経済の破壊が酷かった。劉秀は彭寵を滅ぼした翌年、郭伋(かくきゅう)を漁陽太守に任命した。「伋が来て、示すに信賞を以てし、首領を糾弾殺戮し、盗賊は消えていなくなった。時に匈奴がしばしば郡境を犯し、辺境はこれに苦しんだ。伋は軍隊を訓練し、攻守の計略を定め、匈奴は恐れ憚り遠くへ逃げ、敢えてまた塞に入らず、民は安んじて本業ができるようになった。在職五年にして、戸口は倍に増えた。」(『後漢書・郭伋伝』)後にまた張堪を漁陽太守に任命し、引き続き郭伋の統治方法を踏襲した。「狡猾な者は捕らえ叩き、賞罰は必ず信あり、吏民は皆用いるを楽しむ。匈奴は嘗て万騎を以て漁陽に入るも、数千騎を率いて奔撃するに堪え、大いにこれを破る。郡界は以て静かなり。」(『後漢書・張堪伝』)張堪は農業生産の発展をたいへん重視した。彼は狐奴県(今の順義)で、 沽水(こすい:今の白河)と鮑丘水(今の潮河)がその境を流れるのを利用し、稲田八千頃(1頃は百畝。6.7ヘクタール)を開き、人々に耕作させ、当地の農業生産と人々の生活を改善した。このため、張堪が太守に任命された八年間、漁陽は比較的安定していた。

 

 この地の手工業もより一層発展し、文献の記載によれば、漁陽郡漁陽(今の懐柔県)と泉州(今の天津市武清県)両県には何れも鉄官が設けられ、泉州は更に塩を産した。鉄器の使用が普及し、農業生産、その他の手工業の発展に大きく作用した。製陶業も発展し、出土した数のたいへん多い、技術の極めて高い陶器から見て、この時代の製陶業は既に新たな段階まで発展していたことが分かる。代表的な陶器には、釉薬を使った陶器、彩絵陶器などがある。そのうち、緑釉の陶制の荘園明器墓の副葬品の陶器で、住まいの建物のミニチュア)はたいへん普遍的に使用された。土で形作られた荘園の種類は極めて多く、荘園内には亭(あずまや)、台(高殿、舞台)、楼閣、榭(四方を展望できる高殿)、井亭(井戸を覆って建てられたあずまや)、食糧倉庫、豚小屋、家畜小屋などの建物があり、かまど、明かり、壺などの用具、更に召使いの俑(土偶)、犬、ブタ、羊、鶏、アヒルなどがあった。これらの陶製の明器は、当地の地主の荘園の経済発展を反映していた。

東漢緑釉陶水亭

 

 商業も相当に発展し、薊城は依然としてこの地区の商業の中心で、また内地と東北の各民族の間の貿易の要(かなめ)であった。東漢の中後期、烏桓(うがん)や鮮卑族が南に移動し、一部の人々は長城の内側に居住し、各民族の間の(物資の)交換関係はより一層発展した。朝鮮で出土した中国の技術を用いて織られた菱形紋の絹の残片や各種の漆器は、薊城から転送されてきたものである。

 

 東漢時代は、国力は西漢の武帝の時代と比べてずっと弱く、辺境地区はずっと不安定であった。建武十五年(西暦39年)匈奴の侵犯、攪乱を避けるため、雁門、代郡、上谷の三郡のへりに住む住民六万人余りを移住させ、常山関、居庸関より東に住まわせた。しかし、匈奴と烏桓が毎年侵犯し、上谷、漁陽沿いはしばしば破壊に遭った。建武二十二年(西暦46年)、烏桓が匈奴を撃破し、匈奴は西に移り、烏桓は西南方向に勢力を拡大した。遼西烏桓の大人郝旦ら922人は漢への帰属を要求し、更に洛陽に行き劉秀に謁見し、奴隷、牛馬、弓、虎や豹、テンの皮を贈り物として差し出した。漢は烏桓の首領を侯に封じ、王、君、長者81人を漁陽より東の国境の内側に居住させた。漢は上谷の寧県(今の河北省万全)に護烏桓校尉を置き、「営府(武将の屋敷)を開き、鮮卑を併せ、贈り物をし人質を取り毎年互市(部族間の交易)を行った。」(『後漢書・烏桓鮮卑列伝』)東漢中期、烏桓族と漢族の間は友好的な付き合いがあり、辺境は何事も無かった。この頃、鮮卑族も東北方向から南下し、何度も漁陽、上谷に侵犯し、時には居庸関に侵攻した。例えば安帝の建光元年(西暦121年)秋、鮮卑が居庸関、雲中に侵攻し、烏桓校尉徐常を馬城で包囲した。度遼将軍耿夔(こうき)と幽州刺史寵参は広陽、漁陽、涿郡の甲卒 (鎧を着た兵士)を発し、二つのルートに分けてこれを救助に行き、鮮卑は退き始めた。十一月、東漢王朝は幽州の辺境の防御を強化し、漁陽営兵一千人の設置を始めた。霊帝の初め、幽州北部は毎年鮮卑の侵犯に遭った。それ以降、鮮卑は分裂していくつかの部族に分かれ、侵犯もやや減少した。

 

 東漢中後期、今の北京地区の土地の併合が日増しに進み、貧富の分化がひどくなり、地主階級の農民の搾取と圧迫が残酷を極め、階級間の矛盾が益々先鋭化した。霊帝の初め、太平道の首領張角らが宗教を利用し蜂起を宣伝した。当時の彼らのスローガンは、「蒼天既に死し、黄天当に立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉。」中平元年(西暦184年)二月、張角を首領とする黄巾の大蜂起が勃発し、同時に蜂起したのは青、徐、幽、冀、荊、揚、兖(えん)、豫(よ)の八州の数十万の群衆であった。彼らは黄巾(黄色い布)を頭に巻いて目印にし、「官府(役所)を焼き払い、聚邑を掠奪し、州郡は拠点を失い、長吏(地位の高い役人)は多く逃亡し、十日の間に、天下(国中が)これに呼応した。」(『後漢書・皇甫嵩伝』)薊城一帯で蜂起した人々は、幽州刺史(しし)郭勛(かくくん)、広陽太守劉衛を捕殺し、蜂起はますます激しさを増した。後に張角が病死し、黄巾軍の各部隊は、東漢の官軍と地主勢力の武装軍に分割して包囲され、個別に撃破された。11月までに、遂に失敗に帰した。今の北京地区は軍閥の劉虞(りゅうぐ)、公孫瓚(こうそんさん)、袁紹の長期の争奪の中に陥り、烏桓(うがん)勢力も上谷、漁陽、右北平などの地に侵入した。

 

 

秦漢時代の北京地区の文化

 

 

 秦漢時代の北京地区の文化は相当に発展していた。これは当時の手工業の技術レベル、文化教育の発展等に現われていた。青銅器を例にすると、一般の用具、器はたいへん精緻に作られ、形状が美しく、すっきりしていた。大葆台漢墓から出土した金メッキを施した銅製の門飾り、龍枕、星雲紋銅鏡、四螭鏡(螭:みずちは角の無い龍)、昭明鏡など、皆技術レベルの高い作品である。当時この地域で盛んに使用された博山式銅燻炉(銅製の香炉で、主に山東省博山淄博市)で作られた)もたいへん特徴に富み、器全体が透かし彫りになっていて、煙がゆらゆら立ち上がり、高い技術レベルを備えていた。

 

 陶器の種類もたいへん多く、技術レベルもたいへん高かった。多くの陶製の壺、罐(かん。小型の壺)は形がきちんとしていて威厳があるだけでなく、器の表面には赤や白の花の紋が絵付けされ、遠くから見ると、漆器と同じように見えた。また陶器全体に黒の漆を塗ったものは、つやつやした黒色がきらめき、漆器を真似た陶製品である。東漢時代には、多くの陶器に緑釉が施され、陶器制作技術の大きな進歩が見られる。順義県臨河村で出土した大型の緑釉陶楼、豊台区大葆台出土の黒漆衣博山蓋陶壺、陶耳杯(羽觴:うしょう)は、こうした陶器の代表作である。

 

 金玉器は貴族や官僚たちのために制作されたものだ。その中で、玉の彫刻の技術がたいへん高いレベルに達していた。大葆台出土の透かし彫りの玉璧、玉螭佩、鳳形玉觿( ぎょくけい )などは、形が優美で、彫刻が精巧で、何れもずば抜けた作品である。出土した玉舞人は、片袖を高く挙げ、片袖を下に振り下ろし、ひらひらと舞い、生き生きとして、真に迫っている。

鳳形玉觿 (ぎょくけい:縄をほどくための錐状の工具。長さ12センチ)

大葆台西漢墓出土

玉舞人(高さ5センチ)大葆台西漢墓出土

 両漢の統治階級は専制主義中央集権統治を強化するため、儒家の経典をたいへん重視した。西漢初年は、秦朝の「焚書坑儒」の後で、社会には読むべき書籍が存在せず、ただ老儒が口頭で暗唱する経典の伝授に頼っていた。文帝の時、薊城の人韓嬰が漢王朝の博士となり、『詩』を伝授し、弟子たちが当時通用した隷書で記録し、「韓詩」と呼んだ。「韓詩」と斉の人、轅固生が伝えた「斉詩」、魯の人、申公(名は培、或いは申培公と言う)の伝えた「魯詩」が、『詩』の今文(漢代に通用した隷書)の経典の三派である。伝によれば、韓嬰は詩の『内伝』四巻、『外伝』六巻、別に『韓故』三十六巻、『韓説』四十一巻を著作し、広く流布した。燕、趙一帯で『詩』を研究する者は、多くは『韓説』を根本とした。東漢(後漢)後期、涿郡の人、盧植が経学家として、名儒の馬融から学び、鄭玄とは同門の友人であった。学成り涿に帰って教授し、近くからも遠くからも有名であった。漢の霊帝の時、徴用され博士となり、後に廬江太守に任じられ、また議郎に招聘され、転じて侍中となり、尚書に移った。黄巾の大蜂起の時、北中郎として黄巾軍の鎮圧に参加した。董卓の独裁時、盧植は董卓に反対したため罷免された。彼は洛陽から逃げ、軍都の山中に隠居し、学校を興して教授し、方々から学びに来る者がたいへん多かった。『尚書章句』、『礼記解詁』を著し、当時文化上で有名な人物であった。

北京考古遺跡博物館(大葆台西漢墓遺跡

北京市豊台区黄土崗郷

 

第一節 秦漢時代の北京地区

 

秦代の広陽地区

 

 秦は紀元前222年(秦王政の二十五年)燕を滅ぼし、翌年軍を指揮して南下し、斉を滅ぼし、中国を統一した。秦は依然、咸陽を国都とし、専制主義の中央集権の封建国家を建立した。地方行政は、郡県両級の制度を採用した。旧燕国地区は、北側の行政区画は基本的に元の燕の制度を踏襲した。すなわち、長城線に沿い、西から東へ、従来通り上谷沮陽(そよう)を管轄。今の河北省懐来県大古城)、漁陽漁陽を管轄。今の北京市懐柔県梨園庄)、右北平無終を管轄。今の天津市薊県)、遼西陽楽を管轄。今の遼寧義県)、遼東襄平を管轄。今の遼寧遼陽)の五郡を置いた。元の燕国の都城、とそれ以南の地区から燕の下都、武陽(今の河北易県)に至る一帯には、新たに広陽郡を置き、薊(けい。今の北京城西南)を管轄した。秦代の薊はもはや諸侯国の都城ではなく、一郡の治所となったが、依然として旧燕国地区の政治、軍事、経済、文化の中心だった。

 

 秦が燕を滅ぼして以後、燕地は秦朝から言えば、遠い辺境の地域であった。旧燕国の軍隊は消滅したが、多くの燕の旧貴族は尚存在し、随時秦王朝のこの地の統治を打ち倒し、旧国を回復する備えをしていた。秦、燕の激戦の際、燕は強秦に反抗するため、長城沿線の進駐軍に内通させ、北部の辺境の防御を空っぽにし、匈奴が機に乗じて侵入し、北部の山地に入り、たびたび領地内に侵入した。紀元前221年(秦始皇二十六年)秦が天下統一を達成したばかりの時、秦の朝廷では辺境地区を如何に統治するかで論争が起きていた。丞相の王綰(おうわん)らは始皇に、これらの地域には王を立てて建国し、これらの地域を守らなければならないと建議した。彼らは言った。「諸侯初め破れるも、燕、斉、荊(楚)の地は遠く、王を置かざれば、之を填(鎮)める無し。請う諸子を立てよ。」この建議は李斯の反対に遭った。李斯は全国を「皆郡県と為し、諸子、功臣は公の賦税を以て重く之を賞賜」すべきと主張した。彼は、こうすることで「天下に異意無ければ、之を安寧する術也。諸侯を置くは便ならず。」(『史記・秦始皇本紀』)始皇は李斯の意見を受入れ、天下を三十六郡に分け、そのうち旧燕国は六郡に分けた。今の北京地区は、上谷、漁陽、右北平、広陽の四郡に属した

 

 始皇は辺遠地区の統治に全く安心しておらず、六国の滅亡後、直ちに命令を下し、関東六国の貴族、富豪を関中、巴蜀等の地に移住させ、六国が民間に分散させて収蔵していた兵器を接収し処分させ、将軍蒙恬(もうてん)に三十万の大軍を率いて北に匈奴を追い払わせ、防備の便のため、旧来の秦、趙、燕の長城を修繕し連結させた。「地形に因り、険を用いて塞を制し、臨洮(りんとう)から遼東に至る。延々と続くこと万余里。」(『史記・蒙恬列伝』)これが著名な万里の長城である。蒙恬は上郡(今の陝西省楡林の南)に居り、軍隊を指揮した。この時、北京地区の北側に進入した匈奴は長城の外に追い出された。始皇は更に命令を出し、全国範囲で馳道(ちどう。皇帝が通行する道路)を作らせた。馳道は首都咸陽を中心に、「東は燕、斉を窮め、南は呉、楚を極め、江湖の上、瀕海の観卒に至る。道五十歩(約70メートル)の広さで、三丈(約7メートル)毎に街路樹を植え、それを厚く築く外、隠すに金槌を以てし、樹に青松を以てす。」(『漢書・賈山伝』)始皇在位の11年中、5回馳道に沿って全国を巡遊した。始皇32年(紀元前215年)第4回の巡遊の時、旧燕国の地区に到り、およそ今の太行山脈東麓を通って北上し、治水(今の永定河)を渡り、薊に至り、再び無終を経て、遼西郡の 碣石(今の河北省昌黎の北)に到達した。彼は燕人の盧生に海に入らせ、仙人の羨門、高誓を訪問させ、更に韓終、侯公、石生を派遣し、仙人を訪問させた。これは皆、長生不死の薬を求めるためであった。始皇が西に帰る時、「北辺を巡り」、おおよそ旧燕国北の長城線に沿って今の内蒙古地区に至り、そこから南下して上郡に至り、咸陽に戻った。

 

 秦朝は長城を建設するため、匈奴を防ぎ、馳道を開き、宮殿を築き、墳墓を作り、徴発する徭役がたいへん多く、賦税もたいへん重かった。紀元前209年(秦二世元年)、また大いに徭役が発せられた。そのうち河南から徴発されたグループは900人で、県尉が護送し、漁陽に到り国境を守ることになっていた。この徴発された農民は薊県大澤郷(今の安徽省宿県東南)まで来た時、長雨が続き、道路が不通で、任地への到着期限を遅れた、秦朝の法律では、期日の遅れは斬首刑に処せられた。それでこれら900人の徴発された農民は、陳勝、呉広の指導の下、蜂起した。元の六国の貴族もこの機に乗じて兵を起こし、国の再興を図った。陳勝は武臣を将軍として派遣し、三千人を率いて北のかた趙の地を奪い取った。「戦わずして城下三十余城を以て、邯鄲に至る」(『史記・張耳陳余列伝』)。武臣は自ら立って趙王と為り、陳勝、呉広の管轄を離脱した。武臣はまた旧燕の上谷の卒史韓広を将とし、北に燕地を奪い取った。燕の旧貴族はまた韓広を擁立して燕王とし、燕国を回復し、薊を国都とした。紀元前208年(二世二年)閏九月、秦は王離を統帥とし、上郡から数十万の大軍を率いて東に向かい、趙王歇(歇は趙の旧貴族で、この時武臣は既に死んでいた)を鉅鹿(今の河北省平郷)に包囲した。秦の将軍章邯は二十万余りの大軍を率いて中原地区から北に黄河を渡り、甬道(道の両側に垣を作り、中を通行しても外から見えないようにした道路)を作り、黄河から北に鉅鹿以南に至り、王離のために軍糧を供給した。この時鉅鹿は切羽詰まり、趙は何度も人を派遣し、各反秦勢力に援助を求めた。燕王韓広は将軍臧荼(ぞうと)を派遣し、軍を率いて趙の救助に行かせた。翌年、鉅鹿の会戦は、趙を救助する各路の軍は項羽が率いる楚軍を主力に、大いに秦軍を破った。秦の将、王離は捕虜にされ、蘇角は殺され、渉間は自焚し、章邯は南へ逃げた。臧荼(ぞうと)ら各路の将校は共に項羽を「諸侯上将軍」に推し、反秦連合軍の統帥にした。項羽は殷墟(今の河南省安陽)で章邯の投降を受入れて後、挙兵して西へ向かい、函谷関に入り、まっすぐ咸陽に至った。

 

 この時劉邦は既に項羽に先んじて函谷関に入り秦を滅ぼしていた。しかし劉邦の軍勢は比較的小さく、十万人に過ぎなかった。項羽には四十万人の兵がいて、軍勢は強大であった。項羽は盟主の身分により諸侯王を大いに封じ、全部で彼に従い函谷関に入った主要な将校と関東で既に国を復活させた貴族を十八の王国に封じて立てた。その中の燕将臧荼(ぞうと)は軍を率いて項羽に従い入関するに功有り、燕王に封じられ、薊を国都とした。元の燕王韓広は遼東王に改められ、無終(今の天津市薊県)を国都とした。臧荼が薊に戻る時、韓広は項羽の分封を承認せず、且つ武力で臧荼の入薊を拒んだ。臧荼は韓広を撃破し、無終で韓広を追撃して殺害し、韓広の遼東地区を併せて占有し、新たな燕国を建立したが、依然薊を国都とした。楚漢の戦争の中で、韓信が趙を滅ぼして後、広武君李左車の建議を受入れ、使者を燕に派遣し、臧荼が投降したが、劉邦は相変わらず臧荼を燕王とした。

 

 紀元前202年(漢五年)冬、劉邦は項羽を滅ぼした。同年7月、臧荼が背き、代郡(今の河北省蔚県)を攻め落とした。劉邦は自ら大軍を率いて討伐し、臧荼を捕虜にした。別に盧綰(ろわん)を立てて燕王とし、旧燕国地区を統治させた。翌年、薊以南の29県を割いて涿郡を置いた。

 

 

西漢時代の燕国

 

 西漢初年、今の北京地区は燕国となり、を都城とし、諸侯王盧綰(ろわん)であった。劉邦とは姓が異なるので、歴史上は異姓の諸侯王と呼ばれる。

 

 盧綰は劉邦と故郷が同じで、二人は誕生日が同じで、幼い時は共に学び、「壮じてまた互いに好んだ」。劉邦が挙兵した時、盧綰も参加した。楚漢戦争の時、盧綰は官位が大尉にまでなり、長安侯に封じられた。漢57月、劉邦に従って臧荼を攻め滅ぼして後、燕王に封じられた。紀元前196年(漢11年)秋、陳豨(ちんき)が代( 今の河北省蔚県 )で背いた。劉邦は自ら大軍を率いて邯鄲(今の河北省邯鄲市)に至り、南面から陳豨を討伐した。燕王盧綰もまた兵を率いて東北より陳豨を攻撃した。後に盧綰は劉邦が陳豨を滅ぼして後、更に自分を滅ぼすのではないかと恐れ、また陳豨と結託し、陰で陳豨が劉邦に反抗するのを支持し、更に匈奴と使者を通じ、互いに声援を送った。翌年、劉邦は陳豨を撃破し、盧綰と陳豨が共謀していたことを知り、使者を派遣し盧綰を呼び寄せたが、盧綰は病と称して行かなかった。それで劉邦は樊噲(はんかい)を将軍とし、軍を率いて燕を攻撃させた。後にまた周勃に樊噲に代えて薊を攻め滅ぼさせ、燕の大将抵、丞相偃、太尉弱、御史大夫施等を捕虜にし、立て続けに上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東などの郡を攻め滅ぼした。盧綰は家族、宮人、腹心など全部で数千騎を連れ、匈奴に逃亡した。一年後、匈奴で死亡した。

 

 劉邦は盧綰を攻撃する時、大臣たちと盟約して言った。「劉氏に非ざる王は、もし功無ければ、上(皇上)が置かず(冊封せず)侯なる者は、天下共に之を誅す。」(『史記・漢興以来諸侯年表』)そしてその子劉建を燕王に封じた。立てて十五年(呂后七年、紀元前181年)で、病死したので、諡(おくりな)を霊王とした。建の子は幼少で、呂后のため殺され、国は除かれた。翌年、呂后はまたその甥(おい)の呂通を燕王に封じた。しばらくして、呂后が病死し、呂通と呂氏のその他の親族は一緒に滅ぼされた。文帝が立ち、また一族の劉澤が燕王に封じられた。劉澤は元琅邪王で、呂氏に反対するに功有り、遷されて燕王になった。澤が燕に至り二年で、病死し、諡は敬王と言った。子の嘉が位を継いだ。これが康王である。康王が死に、その子定が位を継いだが、罪を犯したので、紀元前128年(武帝元朔元年)自殺し、国は除かれ、燕郡に改められた。紀元前118年(元狩五年)武帝は再び燕国を置いた。翌年4月、子の旦を燕王に封じた。相変わらず都は薊であった。紀元前80年(昭帝元鳳元年)燕王旦は蓋長公主、左将軍上官桀、御史大夫桑弘羊と結託し、昭帝を廃して自立する陰謀を企てた。事は露見し、自殺し、国は除かれ広陽郡となった。昭帝は旦に諡を賜り刺王とし、太子建は免じられて庶人となった。後六年(紀元前73年)宣帝が即位し、建を立てて広陽王とし、広陽郡を改め国としたが、相変わらず薊を都城とした。平帝の元始二年(西暦2年)西漢官庁の統計によれば、広陽国の下で薊、方城、広陽、陰郷の4県を管轄し、全部で戸数が2740、口数は7658であった。王莽が君位を簒奪し、国が除かれ、広有郡と改められ、また薊を改めて伐戎とした。

 

 西漢前期、秦末の農民大蜂起の後、土地占有状況に調整があった。西漢の統治者はまた「徭役を軽くし、租税を薄くする」政策を実行し、階級矛盾の緩和、社会経済発展の回復の面で一定の効果をもたらせた。農業生産は相当に発展した。考古発掘から見ると、この当時既に広く鉄器が使用されていた。解放以来、北京地区で出土した西漢の鉄製農具には、鍬(くわ)、鋤(すき)、スコップ(シャベル)、耧角(牛の角状の種まき用の農具)などがあった。これらの鉄器は当時重要な田の耕作、除草、種まきの工具であった。鉄製農具の大量使用は、北京地区の荒地の大量開発を可能にし、水利事業を発展させ、耕作技術も進歩した。解放以来、北京城の内外で多くの漢代の井戸が発見された。その大部分が西漢時代のものだ。こうした井戸は、陶製の井戸枠で築かれている。1956年、永定河引水工事中に漢代の陶製井戸が百五十余り発見された。これらは主に宣武門豁口(城壁の一部を取り壊して通路にしたところ)の両側から和平門一帯に密集していた。1965年にはまたこの一帯で漢代の陶製井戸が五十余り発見された。この他、今の瑠璃廠、新華街、象来街、北線閣、広安門内大街、校場口、牛街、陶然亭、姚家井、白紙坊などからまっすぐ西単の大木倉に至るまで、陶製井戸が発見された。これら密集した陶製井戸は単純な飲み水用ではないように思われ、おそらく田地や園圃(えんぽ。野菜や果樹の畑)を灌漑し切り開くためのものだと思われる。果樹の栽培は普遍的に行われ、主に棗(なつめ)、栗などが生産量がたいへん大きく、既にこの地域の重要な経済構成部分となっており、ひいては糧食に代わるものとなっていた。

 

 ここでは手工業もかなり発展していた。文献の記載によれば、漁陽涿郡には鉄官が設けられ、主に山を切り開き鋳造が行われていた。今の北京城の北郊の清河鎮で発見された漢代の鉄の鋳造遺跡では、鉄器が数多く出土し、剣、戟(げき)、鉞(えつ。まさかり)などの兵器、鋤、鍬、スコップ、 耧角、手斧(ちょうな)、鑿(のみ)、環刀などの農具や手工具があった外、鼎、鏡、車具、馬飾り、その他の器具もあった。これらの器具の発見は、当時の鉄の鋳造が相当に発展し、製品の種類がたいへん多かったことを説明している。同時に、これと関連するその他の産業、例えば農業、木工業、運輸業なども、相当に発達していたことを反映している。1975豊台区大葆台で発掘された西漢墓の中で、多くの鉄器が出土した。その中には、鉄の斧、箭鋌(弓矢の矢先と竿の接合部分)、笄(こうがい)、鎹(かすがい)、鉄の輪っかの付いた工具、戟 (げき)などがあった。一件の鉄斧は、片面に「」の文字が鋳込まれており、おそらく漁陽鉄官が鋳造したものだろう。

「漁」字の鋳込まれた鉄斧

大葆台一号墓前景

 製塩業も相当に発展していた。文献の記載によると、漁陽郡泉州県には塩官が設けられ、ここは重要な塩の生産地であった。製陶業も発展していた。大葆台西漢墓出土の陶器には、鼎、罐、壺、盤、盆、魁(かい:スープをすくう杓子)、 鈁 (ほう:酒器)、甕、耳杯(羽觞:うしょう。楕円形で底の浅い酒杯)などがあった。器の表面には多く黒漆が塗られ、また内側が赤漆、外側に黒漆が塗られたものもあった。

 ここでは商業も発展し、このことは当地の農業、手工業の発展、及び北に隣接する異民族の住む地域と切り離しては考えられない。薊はこの地域の交易の中心であった。『史記・貨殖列伝』によれば、「それ燕はまた勃、碣(けつ)の間の一都会也。南は斉、趙に通じ、東北は胡に連なる。上谷から遼東に至るには、地遠く離れ、人民稀なり、しばしば侵略せられ、大いに趙、代と俗が相似し、民は奸智に長け虜少なし。魚塩棗栗が豊かである。北は烏桓、夫余に隣接し、東は濊貊(わいはく)、朝鮮、真番(しんばん)の利と結ぶ。」『塩鉄論・通有篇』によれば、「燕の涿、薊、趙の邯鄲、魏の温、軹(し) 、韓の滎陽(けいよう)、斉の臨淄、楚の宛丘(えんきゅう)、鄭の陽翟(ようてき)、三川の二周(西周及び東周。「三川」は西周では涇河 ・渭河 ・洛河、東周では 黄河・洛河・伊河)その富は天下に甲たり、皆天下の名都なり。」これらの地域の主要な商品は、それぞれの土地の農業、手工業、土地の特産品の外、中原からの布帛(ふはく。絹や綿の織物)、漆器。烏桓(うがん)、夫余、朝鮮、真番(しんばん。漢朝により朝鮮半島に設置された植民地)等北方や東北の少数民族からの毛皮、畜産品などがあった。『史記・貨殖列伝』によれば、「燕、秦には千樹の栗。」また、「棗栗千石なる者三、狐貂(てん)の裘(かわごろも) 千皮、羔羊(子羊)の裘千石、旃(フェルト)席千具。これもまた千乗の家に比す。」このことから、当時の北京地区は、西漢の前期、中期に既に多くの大商人が出現していたことが分かる。

 

 北京地区は長期間王国が置かれ、歴代の諸侯王は贅沢で、堕落し、政治は暗黒であった。燕王劉旦は帝位を簒奪するため、「大臣、中尉以下から、車馬を集め、民を発動して包囲され、大いに文安県で狩りをした。」また「孫縦之ら前後十余の輩を派遣し、多く金宝走馬を贈り(齎 :もたらす)、盖主(鄂邑長公主)、上官桀、御史大夫桑弘羊らに賄賂を贈ると、皆これと誼を通じた。」(『漢書・武五子伝・燕刺王旦』)このような多くの金宝、走馬は、もちろん人々の血や汗から来たものだった。大葆台一号漢墓は全長40メートル余り、墓道、甬道、外回廊、「黄腸題凑」(漢代、帝王陵の椁室の四方をコノテガシワの木材を積み上げて囲った構造)、「便房」(亡くなった帝王が墓の中で生活する部屋)と椁室(かくしつ) から構成されている。「黄腸題凑」は15千本余りの長さ90センチ、幅と厚みが何れも10センチのコノテガシワ(柏木)の木材を四方の壁に積み上げ、方形の木材で天井まで覆われた。椁内には棺を置き、棺は全部で五重であった。副葬品は盗掘を免れた物が残されていたが、なお陶器、鉄器、玉器、メノウ、絹織物など四百件余りが残っていた。

大葆台一号墓遺跡復元図

大葆台一号墓「黄腸題凑」

その中には金メッキを施した銅製の龍頭枕、玉衣片、半円形の玉、玉璧、玉飾り、銅鏡、金メッキの銅製の豹などがあり、たいへん精緻で美しい。 墓道に放置された随葬の車馬は、完璧に保存され、全部で朱色の車輪のはでやかで美しい車が三台、馬が十一匹であった。この墓葬の規格と出土した文字資料から見て、広陽王劉建の陵に違いない。

鎏金嵌玉龍頭枕(金メッキを施し、玉で象嵌された龍頭枕)

(写真)北京考古遺跡博物館(瑠璃河遺跡分館)

北京市房山区琉璃河董家林村

 

燕国の都城

 史書の記載によれば、西周の初年、燕の召公の封地は「燕」或いは「北燕」と呼ばれた。地処は今の淶水県一帯の古北伯領地で、燕の召公の封地以内も含まれていた。周の武王は褒賞として帝堯の後代(子孫。『史記』では帝堯の後、『楽記』では黄帝の後とする)を薊に封じ、しばらくするとまた燕の領地に帰することとなった。史書では周初の燕国は「地は燕山の野に在り」、すなわち今日の燕山のラインの南を指し、華北平原の北端、北京市の周囲である。

 北京地区の最古の都邑、「幽都」は集落の名称で、原始的な村落から発展していった。西周の時代、燕の都城は今の房山県瑠璃河鎮東側の董家林村周囲に位置し、これより北魏時代まで、ここは「聖聚」(聖なる町)と称された。古聖水(今の大石河、また瑠璃河とも呼ばれる)は北から南に流れ、曲折して西南に流れ、また向きを変え東方に流れて行く。燕都はこの川の湾曲地帯の高く平らな台地の上に建設された。

北京商周古城の位置

商周古城跡略図

 董家林村周囲に残る燕国古都の基礎の遺跡は、東西長850メートル、南北幅約600メートルで、東西にやや長い長方形である。城壁は黄土の版築(板で枠を作り、黄土をその中に盛り、1層ずつ杵で突き固めたもの)で作られ、主城壁は厚さ3メートルあり、内外にまたそれぞれ一層の護城坡(傾斜面)が築かれ、城壁の外側には更に城壁を取り巻く塹壕(壕溝)があった。古城内の遺跡では、曾て西周時代の板瓦が発掘された。これは燕国の宮殿の建物、或いは貴族の屋敷の遺物である。

 董家林村の燕国古城遺跡東南一里のところに黄土坡村があり、ここは燕侯と貴族の陵墓地区で、数百の大、中、小の墓が分布している。大型の墓には二本の墓道があり、墓道が四本あるものもあり、墓前には車馬が陪葬され、墓の中には大型の木棺が架設されている。中型の奴隷主の墓にも、車馬が合葬され、大量の青銅礼器が副葬されていた。

 燕国の青銅器の銘文から、燕の召公は武王の冊封(さくほう)を受けてからも、相変わらず宗周(周朝の都城の所在地)に居留し、王室に供職し、彼の長子を燕地に派遣して封じたことが証明された。召公奭(せき)は曾て自ら燕地に臨み政務を処理したことがあり、燕侯もしばしば近臣を宗周に派遣して召公にかしずいた。燕侯の意向は宗周に行って、王室に仕えることだった。西周の時代、燕と周王室の間では、たいへん密接な関係を保っていた。武庚(殷の紂王の子供)の禄父( 武庚 の名前)は三監の管叔、蔡叔、霍叔といっしょに周の領土の中心で騒乱を起こした時、燕国は依然として北方に盤踞し、北方の安定を維持した。董家林の燕国の古都は、燕の西周時代の政治、経済、文化の中心で、燕侯は正にここで各種の政務活動を行い、祖国の北方を経営、開発した。

 董家林古城の地処は華北平原の北端にあり、太行、大坊山脈の周囲で、ちょうど南は中原に達し、北は塞外に通じる交通の要路にあった。ここから北に行くと、盧溝河の渡し場を越えて、古薊城に到ることができた。更に東北に行くと、燕山の狭隘部を通り越して、東北の広大な地区と連絡することができた。ここから西に行くと、拒馬河に沿って流れを遡り、大坊山を越えて淶水県の境に到達し、そこは古北伯領地の所在地であった。更に西北に行くと、雁代地区と連絡することができた。董家林燕国古都は、領地全体の中心地帯に位置しており、燕人が都邑を建てるのに最も相応しい地点であった。正にこの場所から出発して、燕国は次第にその領域の境域を外に向けて切り開いていった。西周の初年、燕国の境域は既に燕山を越え、古北口の関所を越え、大凌河(だいりょうが)の流れに沿って下り、先進的な青銅器文化を以て遼西の広大な区域を育てた。

 燕国の領土が東北方向に向け拡大、山戎部族の燕山山地での発展に従い、董家林の燕国古都は次第にその重要な地位を失い、史書の記載によると、春秋中期の燕の襄公の時、燕は既に薊を都城とした。薊も悠久の歴史を持つ古国であり、武王が商を滅ぼして以後、帝堯(或いは黄帝)の子孫をここに分封し、その後、薊が燕の統轄の下に帰し、春秋中期よりはじまり、薊は燕国の都城となった。

 薊城の位置は、今日の北京外城の西北部にあり、戦国時代の人々はこれを薊丘と呼んだ。古代には丘はまた墟、聚とも呼ばれ、すなわち集落であり、薊丘も原始集落から発展してできた古代の都邑である。広安門付近では曾て戦国、或いは戦国より更に古い遺跡、遺物、とりわけ饕餮紋(とうてつもん)の瓦当(軒先の先端の模様や文字が刻まれた部分)の半分が発見されたことがある。これは燕国が戦国時代に使用した宮殿の屋根瓦の構成部品であり、古薊城の所在を示している。北京外城の西北の角、東は宣武門を経て和平門に至る一帯、広安門内外、法源寺の東北、陶然亭公園等の場所で、たびたび戦国時代の薊城の人々が水を汲んだ、陶製の井戸の丸いわっかの焼き物が発掘され、古薊城のおおよその範囲を示している。

 薊城地区の西、北、東の三面は、群山に取り囲まれた場所にあるが、群山の後方には、多くの遊牧部落があり、薊城地区の居民は、古北口と居庸関の狭隘を通じ、それぞれそれらの部落と経済的連携が発生した。北京昌平白浮村で発見された西周の燕国の墓、及び北京延慶の西墢子で発見された春秋遊牧部族の墓から、華夏部族の礼俗(儀礼)は既に北方の戎族部落に吸収され、北方の草原地区の青銅芸術も燕国の文化に強い影響を与えた。

 考古学の発掘調査により分かったことは、戦国中期の燕の桓公、文公、易王の時代、燕はまた易水の傍に武陽城を造営した。これが燕の下都である。七国が雄を争った時代、燕の下都は燕西南部の重鎮となり、南に強国趙を押さえる役割を果たした。

 

燕都付近の階級関係

 周が商を滅ぼして以後、召公奭(せき)は燕の地に分封され、奴隷制国家、燕を建てた。

 周初、燕侯の家族が燕国の統治者となり、城内に封じた各部族、方国に対し、「商政を以て啓し、周索を以て疆とする」という方針を採用し、彼らに相変わらず自分の部族や領地を保有させ、彼らに各々その土地の祭祀を守らせ、 召公奭を首領とする燕侯の家族に臣服させ、共同で燕国の統治階層を形作った。西周初期、いくつかの商代から続く古老部族、例えば㠱、北伯などは、相変わらず燕国で地位が顕著な部族であり、彼らは依然、侯や伯で呼ばれ、各部族は相変わらず旧日の名称と徽号(美称)を保持し、燕地の開発と北方の安定維持に貢献した。これらの部族の首領や貴族は、しばしば燕侯の恩賞を受け、多くの青銅彝器(いき。酒壺)を作って残し、燕侯の彼らへの恩寵を記録し、彼らの当時の光栄を示した。燕侯の家族と燕地に元いた部族の首領は燕国の統治集団を形作った。

 燕国の奴隷制度の下、平民と奴隷は社会の最底層に処された。彼らは巧みな両手の技で生産を発展させ、きらびたかに輝く青銅文化を創造したが、奴隷主は彼らを家畜や道具と同一視し、残酷に搾取し、気ままに奪ったり分割したりした。

瑠璃河西周墓に合葬された車馬及び奴隷

 「寓兵于農」(兵農合一。平時は畑を耕し、戦時は兵隊となる)の制度の下、平民階級は農田で労働しただけでなく、しばしば兵として戦争に行き、時には重い労役に駆り立てられた。当時、城の修築や、統治者のために陵墓を建造する工事はたいへん繁雑であった。古燕都のような規模の城壁や堀の建設、燕侯の墓地のようにいくつかの大、中型の墳墓であれば、長さ数十メートル、深さ十数メートルであるが、このような工事は疑いなく大量の人力が動員され、大量の資材が消費された。木や石の工具を主にする時代には、平民階級が毎年の労役の中で支払う代価は、見積もるのが難しいものだった。

52号墓(瑠璃河西周墓葬)

 奴隷の扱いで、奴隷主は生殺与奪(せいさつよだつ)の権力を持ち、奴隷たちはしばしば様々な虐待や酷刑に遭った。瑠璃河の黄土の傾斜地の墓地で車馬と一緒に埋葬された奴隷は、十の指の骨が全く存在せず、生前に残酷な刑罰を受けたことを物語っている。燕国では、奴隷も恩賞や殉葬に用いられた。ある名を「復」という奴隷主が作った銅尊の上に、燕侯が彼に恩賞で与えた「冕、衣、臣、妾、貝」の銘文があった。臣、妾は男女の奴隷で、彼らは 冕、衣に列せられた後、彼らの社会地位が低下したことが分かった。黄土の傾斜地の墓地の中では、手足が縛られ、体に馬具を背負った陪葬奴隷が発掘され、奴隷たちが牛や馬の如く悲惨な境遇にあったことを実地で反映していた。同一の墓地の多くの墓の中の小奴隷主の墓の中で、多くで生きたまま、或いは殺されて殉葬された奴隷が発見された。これらの奴隷は、あるものは両手が切られ、あるものは頭に重い傷を負っており、あるものは首だけが葬られ、あるものは車馬といっしょに葬られ、あるものは棺桶の間に挟みこまれていた。それらは大部分が体をかがめ横向きに寝かせ、顔は奴隷主を向き、一種うやうやしくかしずく姿勢を保っていた。奴隷主は棺桶の真ん中に静かに横たわり、仰向けで天を向き、死後天国に昇り、幸福を得ることを妄想した。これは奴隷主がそうすることを望んだのであり、世の中の生活の縮図である。

 奴隷主階級の残酷な統治は必然的に平民や奴隷の反抗を引き起こした。春秋、戦国時代になり、奴隷主貴族階級は没落、消滅の道を歩み、その統治地位を維持した等級制度と一連の礼儀形式も、次第に崩壊し、いわゆる「礼は庶人に下さず」の時代は次第に過去のものとなった。北京地区で発見された春秋、戦国時代の燕国の墓は、この歴史の趨勢をはっきり反映していた。一面で礼儀制度の上で絶えず僭越な現象が起こり、戦国時代になり、平民の中にも陶製の礼器を作って副葬品にする者も現れた。別の面では、奴隷主貴族が没落し、彼らは次第に往時の等級と地位を失い、依然として礼器を一式使ってはいたが、もはや青銅礼器を模した陶製の礼器であった。

 鉄器は燕地で社会生産力の大きな進歩を押し広め、燕国の階級闘争の発展をより一層推進し、燕国は社会革命の嵐に直面した。燕の昭王の時代に一連の政治改革措置を進めたのは、燕国の階級矛盾が発展した結果である。

 

燕都付近の経済と文化

 燕都の場所は華北大平原の北端に当たり、付近は一面の沃野で、何本もの北部山地を源に、またそれを貫く大河と細い流れがここを通り、良好な水利資源を提供し、農業の発展に適していた。西周の初期より、燕国の人々はここで大面積の土地を開墾し、キビ、アワ(稷)、豆、麻などの作物を植えた。農業工具は依然多くが石器やドブガイ(カラスガイ)の貝殻で作られていたが、制作技術は明らかに進歩していた。当時人々が用いた石の鎌は、刃の部分が背部に向かって弧を描いていて、ドブガイ(カラスガイ)の鎌はのこぎり歯状の刃で、刈る力のたいへん強い収穫用工具であった。食糧の生産量は向上し、貴族たちは食糧を洞窟に貯蔵し、多くの食糧でまた酒を醸造した。貴族の墓地で出土する大量の酒器は、貴族たちの飲酒が風習となった腐敗現象を体現しているだけでなく、当時の農業生産の発展も反映している。

 戦国時代、鉄器の広まりと牛耕の出現により、農業生産の大幅な発展を推進した。

 西周時代から始まり、燕国の畜産業は既にたいへん盛んであった。当時の燕国の人々は、牛、羊を放牧し、犬、ブタ、馬の飼育は更に燕人の放牧の重要な家畜であった。当時は、これらの家畜は使役と食用以外に、主に祭祀と副葬に用いられた。中、小規模の奴隷主の墓にも、ややもすれば組になった車馬の陪葬があり、あるものは数匹、十数匹、墓によっては数十匹にもなった。犬を陪葬し、牛、羊、ブタ、犬、鶏などの家畜を墓前に捧げるのは、どの奴隷主の墓でも見られた。

 燕国の手工業生産は、青銅の鋳造、製鉄、陶器生産、製塩を主としていた。青銅の鋳造業は商代の北京地区の鋳造技術を継承発展したもので、銅器の数量と生産技術では迅速な向上が見られた。西周の初期、燕侯と燕国の貴族は労働者を駆使して、大量の青銅礼器、兵器、車馬器(馬車の青銅製部品)と、銅製の手工業工具を鋳造した。青銅礼器には、鼎、簋(き)、尊、爵、盉(か)、卣(ゆう) 、罍 (れい、らい)、瓿(ほう)、盂(う)、觶(し)、壺、甗(げん)、鬲(れき)等。兵器には、戈(か、ほこ)、矛、剣、戟(げき、ほこ)、斧、鉞(えつ、まさかり)、刀、盾牌、銅盔(かい、かぶと)、弓形器等。車馬器には、当鑪(とうろ)、鑣(ひょう、くつわ)、銜(がん、くつわ)、節約、銅軛(やく、くびき)、鑾鈴(らんれい、すず)、車輨(しゃかん)、軸飾、横木飾等。青銅工具には、斧、錛(ほん)、鑿、削、錐、針等があった。単に青銅礼器の項目だけでも、燕国の青銅器の冶金鋳造技術で輝かしい成果を挙げていたことを十分示していた。重さが75斤に達する体勢が勇壮な大銅鼎、造形が特異な虎足、象足簋(き)、全体に牛面の紋で装飾した銅鬲(れき)は、何れもずば抜けて優れた作品である。

堇鼎(M253、全高62cm、口径47cm)右は銘文の拓本

(瑠璃河商周遺跡出土)

復尊(M52、高さ24cm、口径20cm)

(瑠璃河商周遺跡出土)

牛面紋の銅鬲(れき)は、貴族の「伯矩」(はくく)が燕侯の恩賞を記念して作ったものである。器の本体、足、蓋には、何れも牛面を用いて装飾し、彫刻は浮彫(レリーフ)で立体的に彫られている。鬲(れき)の三本の袋足(足は中空)は、彫像の勢いに合わせて適切に処理され、三つの牛面がレリーフされ、牛の唇の部分は内側に隠され、額が前傾し、闘牛のような形状に作られている。牛面にはふくらんだ大きな鼻があり、鈴のような大きな目、二本の太く逞しい角が斜め上に跳ね上がり、隣り合った牛角が二本ずつ相対し、器物に厳めしい雰囲気を添えた。蓋、紐は各々二頭の牛の頭が背中合わせに組成されている。蓋の上の四本の牛の角が多少器の耳の上方に飛び出し、器の蓋の中央は自然と下に窪んでいる。立体彫刻の双牛の蓋紐は、窪んだ所から突然飛び出し、完璧に調和のとれた作品を作り出している。

伯矩鬲(M251、全高32.5cm、口径24cm)

瑠璃河商周遺跡出土

 燕国の青銅礼器は、中原とほぼ一致した風格を備えていたが、虎、牛などの形象で器の足を作ったのが、周初の燕国青銅工芸の特徴である。また、武器の項目では、中原と同じ類型以外に、北方の草原遊牧部族の風格と一致する刀、剣、匕首、銅盔があった。これらの器物は、鷹の首、馬の頭を飾りにしていた。これは、北方の草原地区で発見された同類の器物で普遍的に採用されたものである。こうした現象は、南北文化が燕の地で合流し溶け合ったことを十分に体現している。

 戦国時代になると、燕の青銅器にもわずかに軽快な風格を持った鼎、豆、盒、壺、鈁(ほう)、鐓(たい)などの器物が出現し、多くは鋃 (ろう、鉄の鎖) 、象嵌、黄金や赤銅のメッキで器物の模様を作り、青銅器の様相は面目一新した。

 戦国時代、燕国の農具には、鋤、鎌、鍬などがあり、また斧、鑿など手仕事の工具もあった。北京の密雲に隣接する河北省興隆県出土の戦国時代の鉄の金型は、炭素含有量4.45%の標準白鋳鉄で鋳造されたものである。鉄の金型の外形の匜輪郭と鋳物の形状は類似し、壁厚は均等で、こうすれば各部の放熱と収縮を一致させ、金型の寿命を延ばすこよができる。このことから、当時の冶金技術が既に高いレベルであったことが分かる。

 燕国の陶器生産も発達した。西周時代、ここの陶器は主に縄紋を装飾とした灰陶、紅陶の鬲(れき)、簋(き) 、罐などであった。春秋戦国時代になると、ここで生産された陶器は、鬲、罐のような一般の生活用の器以外は、主に青銅礼器を真似た陶製の鼎、豆、壺、盤、匜(い)、盨(しゅ)、 簋(き)などであった。

 戦国時代、薊城は商業が発達した都市であった。城内では、定期的に市が立ち、当地や、中原から来た商人以外に、東北から来た、東胡、朝鮮などの商人がいた。市で販売される商品には、糧食、麻、棗、布帛(ふはく。綿織物と絹織物の総称)、鉄器、銅器、陶器、食塩、キツネの毛皮、フェルト、馬などがあった。貨幣は既に広範に使用され、主な貨幣は燕国が自ら鋳造した「明刀」で。三晋地区の各種の刀、布(貨幣の名称)もあった。薊城は既に北方各民族共同の経済の中心になっており、戦国時代の「天下の名都」の一つとなった。

 燕国の改革以降、経済は大いに発展し、同時に新たな社会の矛盾も拡大した。新たに出現した大量の小自作農は、生産の発展に一定の積極性をもたらした。しかし彼らは間もなく土地を細分化し、多くの人が次第に田地を失い、新興地主の小作人になったり作男になり、大量の田地は貴族や官僚、商人の手に集中した。官営の手工業工房の組織は膨大で、政府は「工尹」を設けて生産を管理し、 工尹以下、各級の管理職を置いた。職人の地位は奴隷とほぼ同じで、彼らは昼間、鞭打たれながら多くて重い労働に従事し、夜間は工房の中に閉じ込められた。

 燕国は中原から遠く離れているが、中原の経済文化と密接に連携し、燕国の人々は華夏人(華夏は中国の古称)と見做された。商代後期からは、燕地の人々は中原地区と同じ宗教習俗と文化的素質を備えた。燕人も亀の甲羅や獣の骨を用いて占いを行った。甲骨には、錐で穴を開けたりほぞ穴を開け、併せて火で焼いて、時には兆しを占う部分の傍らに卜辞を刻んで記した。青銅器の鋳造技術も相当に発達し、器物の各部は多くは動物の形象で装飾を作り、これが燕国の銅器の際立った特徴であった。銅器の銘文の特徴は稚拙で素朴であった。燕人と「胡人」は多くの地域で雑居していたので、燕人の青銅器のデザインや技術にも、遊牧民族の芸術の特徴が浸透していた。武器の装飾は、大空を旋回するタカや、草原を疾走する駿馬に取材し、本当に遊牧民族の風がはせ稲妻が走るような馬術や弓術の雄姿を反映し、造形の美しい銅の兜も、遊牧騎士特有の装束であった。燕国の青銅器を模した陶器の礼器は、スタイルが美しく大らかであるだけでなく、模様も極めて精緻であった。陶器上の紋様の装飾には、彩色上絵、暗紋、付加紋が使われ、図案から言うと、流雲紋、蟠螭紋(ばんちもん、とぐろを巻いた角の無い龍の紋様)、水波紋、魚紋、獣紋などに分類される、多くの瓦当(がとう。軒瓦の先端の模様)は饕餮紋(とうてつもん)や樹葉紋で飾られていた。薊城一帯の人々が創造したこれらの作品は、当時の燕国の科学文化レベルを代表するだけでなく、具体的に当地の人々の芸術の素養や生活上の思想や感情を体現していた。

 薊城の人々は歌や踊りを好み、彼らの歌舞と生産、生活は密接に関係し、内容は豊かで多彩だった。民間の芸術はたいへん多く、彼らはしばしば市場や酒場に集まり、鼓や琴を打ち鳴らし、声を張り上げて歌った。彼らの歌声は人々の喜怒哀楽を反映しており、それゆえ一般の人々に愛された。「燕、趙は古来慷慨悲歌の士多し、」これもこの地域の人々のさっぱりした性格の特徴を反映している。

 燕国の役所には女伶官(女性の役者で官職に任命された者)が置かれ、歌や踊りを良くする役者や音楽家を管理し、専ら王侯貴族に娯楽や楽しみを提供していた。