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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

頤和園内、耶律楚材祠

第三節 大都の文化(続き)

園林名勝

 白雲観、東岳廟 大都の新城が完成後、旧城の人々は新城に移り住み、旧燕城はさびれ始めたが、道観や寺廟は相変わらず参拝者の線香が絶えることがなく、大都の人々が歳時に行楽に行く場所となった。白雲観は唐の開元時代に建設が始まり、金代は天長観と称し、金末元初に太極宮と改称し、1227年更にジンギスカンの詔を奉じて長春宮と改名した。長春真人邱処機(邱長春)が弟子の王志謹に命じ、彼を中心に建設し、20年かけてようやく完成した。「層檐(何層もの庇)峻宇(屋根の急峻な堂宇)、金碧(黄金とエメラルドグリーン)爛 然(燦然と輝く)」。邱処機の死後、弟子の尹清和などが彼を処順堂に葬って後、観名を白雲に改めた。

白雲観大門

「四方(方々から)傾心(心惹かれ)帰向(帰依し)、来奉香火者不可勝計(数えきれない)」。おおよそこれ以降、毎年正月19日、京城の住民は次々とここに行楽にやって来て、これを「燕九節」と呼び、或いは「宴邱節」と書いた。この時には人々が込み合い、押し合いへし合いし(摩肩接踵)、たいへんにぎやかであった。道教徒たちは次のような作り話をした。この日、邱真人が変身して地上に降りてくる。或いは紳士、或いは淑女、或いは乞食の格好をしているかもしれない。善男信女たちは彼の姿を見たいと渇望したので、このことはこの祭日の神秘的な雰囲気を増加させた。

 

 城東の斉化門外の東岳廟は、龍虎山正一天師、張留孫が創建した。彼の弟子の董宇定、王用亨が廟の中に石壇を建て、壇を巡って杏千余株を植えた。毎年春、杏の花が満開(怒放)になる時期には、訪れる人々が絶えない(絡繹)。乃賢の詩に言う。「上東門外杏花開、千樹紅雲繞石壇」。ここは当時の有名な行楽地であった。

 

 双塔寺、万松老人塔  双塔寺はすなわち有名な慶寿寺で、元の場所は今日の西長安街一帯にあった。初め、金の大定の末に建てられ、元初の再建を経て、精美雄壮、「京師の冠と為る」。寺には多く金、元の碑刻と壁画があった。寺の西南に僧海雲可菴の二基の霊塔があるので、俗に双塔寺と称した。九重の塔は海雲の霊塔である。海雲、名は印簡、山西寧遠の人である。蒙古軍は嵐州を陥落させ、海雲を得た。海雲は北でジンギスカンに行宮(あんぐう)でまみえ()、頗る礼を以てもてなされ、「小長老」と尊称された。以後、彼は燕京に来ると、慶寿寺の滞在し、「燕国大師」と号した。元初の著名な政治家、劉秉忠は彼の弟子で、また彼の推薦によりフビライの幕僚になった。可菴は海雲を継いで慶寿寺の主となり、七重の塔は彼の霊塔である。元初の王惲(おううん)の記載によれば、「慶寿精蘭丈室の前は、松の木陰(樾)が庭に満ち(盈)、景色は清浄で落ち着いている(蕭爽)。曾て流水が東西の梁を貫くも、今は水は塞がれ(堙yīn)橋は廃され、二石が存するに止まる。塀上に「飛渡橋」、「飛虹橋」の六字を刻む……言い伝えによれば(相伝)亡き金の道陵(章宗)の筆也」。至元4年に大都を造営すると、塔がちょうど南城の城壁(墻)線上にあった。フビライは特に城壁を迂回して避けさせた。明初、成祖朱棣が皇帝位に即位するのを助けた著名な僧、姚広孝は慶寿寺に住んだ。このため大興寺に改めた。

ありし日の双塔寺

(慶寿寺の所在地は今の西長安街の電報大楼の西であったが、1954年長安街拡幅の際に取り壊され、現存しない。海雲禅師塔の前に建っていた禅師を記念する石碑のみ、北京の法源寺に現存している。)

 

 万松老人塔は今の西四牌楼の西にあり、塔は七重である。万松老人耶律楚材の師傅で、金元の間、燕京の従容菴に住み、『従容録』を著した。元が滅び、従容菴は廃され、何度も世事が変化し(几経事変)、塔は酒食店の中に囲まれ、誰もその謂れを知らなかった。明の万暦年間、僧楽菴が塔上に「万松老人塔」の石額があるのを発見し、それで資金を募って買い戻し、ここに住んで守り、塔を完全な形で保存してきた。

万松老人塔

 寿安山寺 西山余脉寿安山(また五華山や聚宝山と称す)の南麓に一寺院があり、寺院内に一体の特に大きな釈迦牟尼の側臥像があることから、人々は俗に臥仏寺と呼んでいる。臥仏寺は初め唐の貞観年間に建てられ、名は兜率寺と言い、紫檀(香檀)で彫った臥仏が供えられた。その後、各時代に建立されたが、比較的大きな再建が元代になされた。臥仏寺(俗称)は元代には寿安山寺と称した。『元史』の記載によれば、「延祐79月甲申、寿安山寺を建てる」とある。当時、敬虔な(虔誠)仏教徒であった元の英宗碩徳八刺は「銭()千万貫を与え」、勅を下し大規模な再建を行った。翌年春正月、元の至治と改まった。この年、「銅五十万斤を製錬し」(推測では実際の重量は約54トンくらい)銅の仏像を鋳造した。この銅仏は今日までよく保存されている。銅仏の長さは5メートル余り、側臥入睡の状態に作られ、各部位は均整が取れ(匀称)体つきはのびやか(体態自如)で、中国の貴重な歴史文物(文化財)である。元の至治3年、英宗が大臣の鉄失に上都の南坡で殺された。これ以降、寺院の建設は中止された。それから10年後、文宗の至順2年(1331年)、「寿安山寺を以て、英宗が建設して未だ完成せぬは、中書省に詔し、鈔十万錠を与えその費用に供す」こととしたので、完成することができた。完成後、大昭孝寺と称し、後にまた洪慶寺と改称した。これは元代の規模が宏大な工事で、当時の人はこう記述している。「山を穿ち寺を開き、最も巨刹と称すべき」。

臥仏寺

 名園 大都の園亭は、主に城の西南郊外に集中していた。その中で有名なのは例えば廉園万柳堂で、これは元初の著名なウイグル族政治家廉希憲の別荘であった。園の中には名花数万本で、京師第一と号し、特に牡丹の名品は、とりわけ当時の人々の羨望の的であった。元朝の詩人の吟詠の中に、少なからず廉園の景色や事物の描写があった。例えば「万柳堂前の数畝の池は、広げた雲錦(高級な錦の織物)で覆われたように、風で水面に波紋が立って(漣漪)いる」(趙猛頫詩)張九思遂初堂は、「堂を繞る花や竹、水や石の景勝は、都城に甲たり」。城西の玉淵潭は、言い伝えでは、金末の王郁が釣台に隠居したというのは、ここのことだという。元代には丁氏の住まいとなり、「柳堤を環り抱き、景色は肖爽(幾分さわやか)、沙禽(砂州の水鳥)水鳥、多く翔きその間に集まり、游賞佳麗の所と為る。元人ここに遊び、詩を唱和(賡和)するのが一時期隆盛を極めた(盛極一時)」。

 

 甕山・耶律楚材墓 玉泉水は東流後、西湖に合流する。すなわち、今の頤和園である。湖の後ろに山があり、名を金山と言い、また甕山と言う。言い伝えでは、ある老人が山上でひとつの石甕を得た。彩色で龍が描かれていたが、はっきりとは分からなかった。甕の中に数十個の物が入っていた。老人は中の物を持って行き、石甕はそのまま山の南側に置いておき、また不吉な予言(谶语)を書いた。「石甕を移す( )と、帝都は貧しくなる」。聞くところによると、明の嘉靖年間、甕は行方知れずになった。ちょうど明の朝廷も、この頃から国家の収入が次第に減少し、人々はこれはあの予言が的中した(応験)と信じた。甕山の麓には耶律楚材の墓がある。契丹族の人、耶律楚材は蒙古初年の有名な政治家で、彼は太宗オゴタイ窩闊台)を補佐し、政治制度の改革を推進し、モンゴルの遅れた奴隷制度を、華北や中原の都市に住み農業を行う封建社会の基礎に適応し、当時の社会生産とモンゴル族自身の社会発展に対し、進歩的な役割を果たした。彼は死後甕山の南側に葬られた。少なくとも明朝中期には、彼の墓地は既に荒れ果て存在しなかった。明人の沈徳符の記載によれば、彼の友人のひとりが京城外の西山に別荘を建て、偶然に一塚を発見し、木棺を開けてみると、中から大頭の頭蓋骨(顱骨)が出てきて、常人よりずっと大きかった。続いて、その傍らから石碑(石碣)が掘り出され、耶律楚材の墳墓であるのが間違いないことが証明された。当時、墳墓の上には尚、一体の石人像(石翁仲)がかろうじて立っていた。1627年(明の天啓7年)夏の夜、数百匹の蛍が石人の頭に集まり、きらきら光っていた。住民は迷信にかられて、驚き恐れ(驚駭)叫び声をあげ(大嘩)、言った。「石人の眼が光っている。」夜が明けると、多くの人が集まり、石像を(群起)打ち壊した。夜になると、蛍がまた墳墓の傍らの樹木の上に集まった。住民たちはまた驚き騒ぎ、木を切り倒した。これより、彼の墓の上は跡形もなく消え去った(蕩然無存)。

郭守敬

第三節 大都の文化

大都の文化(続き)

 科学技術 元代の大都の科学技術の成果は、主に著名な天文暦算学、水利学者の郭守敬の名前と関連していた。元朝が中国全土の大統一を完成させて後、郭守敬らは暦法の改変を任じられた。郭守敬は提起した。「暦の根本は観測(測験)にあり、測定する器具は先ず何よりも天文儀(儀表)である。」金が使用した司天渾儀(星座の位置を測定する計器。渾天儀(こんてんぎ))は北宋の汴京で作られた古い物で、大都で用いると緯度が異なるので、正確な測定ができなかった。郭守敬はこれを作り直し、また簡儀、候極儀、玲瓏儀、仰儀、立運儀、証理儀、景符、窺几、日食月食儀、星晷定時儀などの天文儀を創作した。

司天台(古観象台)

また正方案、丸表、懸正儀、座正儀をよその土地へ行って天文観測(測候)する時の計測器とし、この他、仰規覆矩図、異方渾蓋図、日出入永短図などを作り、以上の諸計測器と相互に参照した。1279年(至元16年)郭守敬らは北はシベリアから、南は海南島チャンパ(インドシナ半島南東部)に到る広大な範囲の中で、(日時計の)日影の長さ(晷景)を測定した。この基礎の上で授時暦を初めて制作した。1年を365.2425日と定め、地球が太陽を回る周期とはわずか26秒しか差がなく、現在通用しているグレゴリオ暦とほぼ同じだが、その出現より3百年余り早かった。司天台(天文台)は大都城の東南角に位置し、全ての計測器は銅の鋳物で作られ、その性能は「皆精妙に至り、蓋し古人の未だ及ばざる所」であった。

黄道儀

地平経緯儀

 白浮堰の修築も、郭守敬の智慧と創造力を十分に示している。通恵河の水源を広げるため、郭守敬は昌平東南の白浮、神山の諸泉を西に引き、流れを更に南に曲げ、双塔、楡河、一畝、玉泉の諸水を、瓮山泊(今の昆明湖)に集めた。全長30里余り(約15キロ)である。経路の選択を見ると、当時既に大都付近の地形の起伏の変化を正確に掌握していたことが分かる。郭守敬はまた海水面(海抜)を大都と汴梁の地形と比較し、汴梁は京師より高いとの結論を導き出した。郭守敬はまた金口を開いて永定河の水を大都まで引いて使用するよう主張した。洪水の氾濫を予防するため、彼は金口河の西岸で一本分流する水路を開き、ぞれにより洪水の脅威を減らすよう提案したが、この計画は実現に至らなかった。

 

 機械の製造の面で、当時大きな成果があった。民間の紡績(紡紗)碾(穀物を挽く石臼)は、「その作りはたいへん巧みで、横向きの歯車と縦の歯車があり、大小の側輪があり、一日に350斤作ることができる。」(残本『順天府志』巻10『土産』)京西斎堂の水車を利用した臼は、水力で動き、昼夜を利用し穀物30石余りを挽くことができ、扇糖(扇形の型で固めた砂糖)も水力で動かして作られた。尚食局の小麦粉工場は、「2階で粉を挽き、1階の設備で軸を旋回させた。ロバに踏ませても、人夫に行ったり来たりさせても、及ばない。しかもほこりや匂い、汚れが着くことがない。」これは腕の立つ職人の瞿氏が発明したものである。(『南村輟耕録』巻5『尚食麺磨』)元の宮廷の中の興隆笙、玉漏は、作りがたいへん精巧であった。元朝の末代皇帝、順帝は荒淫がひどかったが、機械の制作が好きで、しかもたいへん創意工夫を備えていた。彼が自ら設計した龍舟は、移動する時、「龍の首、眼、口、爪、尻尾が皆動いた」。彼が作った水晶の宮漏は、元々の玉漏よりもっと精巧で、複雑であった。これらは当時の科学技術レベルを反映していた。

 

 中外文化交流 大都の経済、文化の空前の繁栄は、中国全土の統一と国内の各民族間の経済文化交流の基礎に基づいていた。中国と西域の間の経済文化交流が頻繁であるのも、大都の繁栄を促進する有力な要素であった。

 

 多くの色目人が大都に転入してくるにつれ、中央アジアの医学、天文学、数学、音楽、舞踊や、様々な巧みで完璧な手工業技術、科学や計器類が次々と大都に伝わってきた。大食人(アラビア人)也黒迭儿は、大都宮殿の築造の中で、大工の管理を担当し、「功勲が授けられ、朝から晩まで暇なく、心で語り目算し、頼りになる指揮を授け、ことごとく画策があった」。(欧陽玄『圭斎文集』巻9『馬合馬沙碑』)慧忽思の『飲膳正要』は、専門的に飲食、衛生を研究した著作である。景教徒の愛薛(Ngai-Sie)は弗林人(フランク人。ゲルマン民族の一部族。東ローマ)で、フビライにより天文暦法(星暦)、医薬の二司、後に広恵司と改称、の管轄を命じられた。ここで「宮廷御用の回回(イスラム)薬と混合薬を制剤し、以て宿衛(当直)の兵士や北京で独り身で貧しい者を治療した」。ジャマールッディーン(扎馬魯丁。ペルシャ人)は1267年(至元4年)フビライに『万年暦』を献上した。元朝朝廷の中に専門の回回司天台(天文台)を設け、ジャマールッディーン(扎馬刺丁。扎馬魯丁と同じ)を提点(官名)とし、「天文観測(天象)と暦の展開(衍暦)を管轄」した。1273年(至元10年)北司天台が用いた回回(イスラム)書籍は全部で242部に及び、これらは何れも天文暦算、儀器製造、医学の著作及びいくつかの天文儀器であった。郭守敬が作った玲瓏儀は、「星座(星象)をその本体に彫刻し、腹の中に仰向けになってこれを観察する」。回回の天文儀から学び取ったものだ。(葉子奇『草木子・雑制篇』)これらの儀器の鋳造は、阿尼哥Anigoが完成させたものだ。これらの外来の科学知識は、中国の科学遺産をより一層豊かなものにした。

 

 中国と西域の間の交通の発展により、幾人かの欧州の旅行家も、長旅に疲れつつ東にやって来た。彼らの旅行記の中に、大都に関する記述を見ることができる。

 

 マルコポーロはイタリア・ヴェニスの人である。1271年彼の父親と叔父が二回目の中国訪問の際、彼も同行して来た。彼らは中央アジアを横断し、1275年(至元12年)上都に到着した。彼は中国に17年滞在し、頗るフビライの信任を得た。彼は中国滞在の大部分の時間を大都で過ごした。彼は大都の城内の湖、宮殿、瓊華島(けいかとう。日記の中では「緑山」と呼んでいる)、街道、夜禁(夜間の外出禁止)、商業貿易、紙幣、賑粜(朝廷の備蓄米を売って罹災者を救済する)、及び朝廷の儀礼、制度、更にアフマド・ファナーカティー阿合馬)が刺殺された等の重大な政治事件などを、詳細に記述し、しかもその内容は基本的に正確だった。彼は最も美しく最も華麗な形容で、大都の様々な面を称賛した。彼は大明殿を「この宮殿の大きなこと、これまで見たこともない」、「壮麗で豊かで、しつらえのすばらしさは、誠にこれを越えるものはない」と形容した。 緑山(瓊華島)の上では、「世界で最も美しい樹木は皆ここに集まっている」。彼は大汗(ハーン)の宮中での金銀の食器(器皿qì mǐn )の多さを称賛し、「実際に見た者でないと信じられない」だろうが、宮廷の「只孫」(「只孫」はモンゴル語で色の意味。『元史』巻78『輿服志』に言う。「質孫、華言の一色服也、内廷の大宴は之を服す。」)の宴会では、毎回大汗と人数が12千人に達する怯薛qiè xuē(モンゴル語で当直の兵士の意味で、宮廷の衛兵)は皆同じ色の服を着、「世界中の君主でこれに及ぶ者はおそらくいないだろう」。毎年正月元旦の日、国中の数か所で華麗な白馬十万匹以上が貢ぎ物として入れられ、また5千頭の象、無数の駱駝が身に錦衣を纏い、金銀財宝を背負い、大汗の前に行列する。これは「世界で最も美しい奇観である」。彼は大汗の狩猟の様子を詳細に描述し、言った。「故に余は世界の人々に敢えて言う。娯楽の極みは、これを優ることができるのは、大汗を越える者はいない」。大汗のゲルを覆っているシロリス、テンの毛皮は、「最も高価で、最も美しい二種の毛皮」であり、「テント2基と寝所の価値の大きさは、一国の王がとても持てるものではない」。彼は紙幣の発行が、「大汗が全世界の全ての財宝を越える財貨を獲得する方法」となっている、などと述べている。(『マルコポーロ行紀』中冊P323-420)当時の西方の人々が彼の旅行記を読み、驚き羨ましくてならず、このため東方への交易を求めるブームが燃え上がるのも当然であった。

 

 もうひとりの旅行家、斡多里克(ポルデノーネのオドリコ)は、1322年(至治2年)から1328年(天暦元年)までの間に、3年間大都に滞在した。オドリコも大都の宮殿、儀衛(儀仗兵)、怯薛(宮廷の衛兵)組織、狩猟、宴会等を詳細に記載し、基本的には同様に正確である。彼は特に大明殿の玉榻(玉の寝台)の前の大酒甕を記載しており、全て宝石で作られ、金で箍箍(たがが締められ)、それぞれの角に一匹の龍が付けられ、天価の宝物である。皇宮の中から一本のパイプで酒をその中に引き、傍らには多くの金の盃が置かれ、飲酒の用に供していた。オドリコも元朝の紙幣にはたいへん不思議に思い、これにより大量の富が皇帝の手の中に流れ込み、その膨大な支出を維持する手段となっていたと考えた。

元曲作家、関漢卿

第三節 大都の文化

大都の文化

 文学芸術 元曲は歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のことで、中国文学史上、唐詩、宋詞と艶やかさを競う一輪のきらびやかで美しい鮮花である。早期の元の雑劇は主に大都という肥沃な花畑の中で育まれてきた。鐘嗣成『録鬼簿』に記載された元曲作家の原籍を考察できる87人中、大都は19人を占めた。その中には著名な作家、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠、王実甫らが含まれている。明初に編纂された『順天府志』が引用する『析津志』残編の中に残っている元曲の大家、 関漢卿に関する記載によれば、「関一斎、字は漢卿、燕人、生まれつき洒脱で、博学で文章を善くし、滑稽で智慧多く、含蓄があって風流で、一時の冠(第一人者)と為った。この時は文章が愚昧で、独り奮い立つことができず、修辞に溺れることが久しかった。」関漢卿の創作生活は、大部分が大都で行われた。現存する元人の雑劇の中で、喬夢符の『黄金台』、瀋和甫の『燕山逢敵人』と無名氏の『燕山夢』は大都で発生した歴史故事を題材にして書かれたものである。

 

 雑劇の俳優は主に元朝朝廷の教坊司(宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関)所属の官妓であった。珠簾秀は本来の姓は朱で、「雑劇では今や抜きんでている」と推奨されていた。彼女は花旦(派手な若い女性)、軟、末、泥等の役柄を演じるのにたいへん造詣が深く、関漢卿と深い交流があった。連枝秀は本来の姓が孫で、彼の演技はたいへん感動的で、「人気を独占し、万人の喝采を浴びた」。天然秀も一時期大評判になり、彼女と元曲の大家、白仁甫とは親友であった。李蘭秀が出演した雑劇は3百余りあった。その他、李心心、楊隷儿、袁当儿、于盼盼、牛四姐らも有名な俳優で、牛四姐の夫はある唱社(劇団)の主演であった(『青楼集』)。俳優、娼妓は封建時代は身分がたいへん低く、彼女たちはじぶんの演技活動で宋金以来の戯曲の脚本、諸宮調を継承し、それらを大いに発展させ、元の雑劇の繫栄に尽きぬ素材と豊富な演技技術を提供した。彼女たちが雑劇発展の中で果たした役割は、簡単には無視できないものだった。元朝朝廷の規定では、「籍が正当な楽人である者を除き、その他の農民、市戸、良家の子弟で、もし本業に就かず雑劇を学んだり、台詞を演じたりすることは、どちらも禁止され、取り締まりを受けた」。(『通制条挌』巻27『雑令』)大都の街角で『琵琶詞』を歌う物売りなどの民間芸人は、「人々を集め、通りを塞ぎ、男女が入り混じり、もめ事を引き起こすだけでなく、ひょっとすると別の事件の発端になるかもしれない」(『元典章』巻57『刑部19・雑禁』)ことから、厳しく禁止された。

 

 大都では画家も人材を輩出した。山水画が得意であったのは、劉融(伯熙)、喬達(達之)、韓紹煜(子華)、高克恭(彦敬)、李希閔(克孝)。竹石であれば李衎(仲賓)、于士行(遵道)、張徳琪(廷玉)、李有(仲方)、劉徳淵(仲淵)、及び張敏夫、高吉甫、劉広之。花果(花や果実)であれば謝佑之。人物であれば李士伝。伝写(模写)であれば焦善甫、冷起巖。その他、僧侶や道士の中でも、絵画を能くする者は少なくなかった。

 

 著名な塑画家(塑像作家)の劉元は、宝坻(天津市)の人で、若くして出家し道士となり、青州の杞道録に師事し、多才多芸で、特に塑像制作に長じていた。劉元はまた都にいたネパールの名声高い師で腕のある職人、阿尼哥(アニコ、アニゲ、またはアラニコ)から西天梵像(インド式の仏像)の制作を学んだ。「神思妙合すれば、遂に絶芸となる」。あらゆる両都の著名な寺院は、「土で形作った像に金を貼り、脱胎(摶換)して仏とするのは、一に劉元の手から出れば、天下に比べるもの無し。いわゆる「摶換」というのは、先に土偶の上を帠(絹布)で覆い、更に帠の上を漆を塗り、その後土を取り去れば、漆を塗った(髹)帠はそのまま像となる。北京の言葉でこれを「脱活」と言う(つまり乾漆像)。後代の人々は劉元の名前を訛って劉蘭と呼んだ。玄都(道教寺院の名前)の景勝に到り、「劉蘭塑」を見るのが、京師の住民の好む遊覧鑑賞活動であった。言い伝えでは、ここの塑像は劉元の手で作られたものと言われる。右殿の三清は、「容貌が厳かで、道気が深い」。左殿の三元帝君は、「上元(帝王を指す)は帳面を執り、首を側け問う、疑う所あるが若しと。一吏跪きて答う、甚だ戦慄すと。一堂の中、皆ひどく恐れおののく(悚聴)。表情や動作は、あたかもその謦咳(けいがい。咳払い)を聞くが如し。誠に絶芸と称すべし。」(高士奇『金鰲退食筆記』下)元人の塑像は、高い肉髻 (にっけい。仏・菩薩(ぼさつ)の頭の頂上に隆起した、髻(もとどり)のような形の肉塊)と、細い腰が特徴で、明らかに西域の風格を持っていた。

肉髻

 曲陽県の人、楊瓊(ようけい)は、著名な石刻家であった。彼の家は代々石工であった。彼の玉刻を、フビライはたいへん楽しみ、絶技だと褒めた。大都で建造された石刻は、その多くが彼により完成された。(光緒『曲陽県志・工芸伝』)

「江漢先生」趙復が理学を燕京に伝播した

第三節 大都の文化

大都の文化

 理学の伝播 理学は南宋の朱熹により集大成されたが、当時は中国全土の思想界の中では依然として支配的な地位にはなかった。北方では、金代に流行したのは三蘇(洵、軾、轍)の学で、北方の学者は多くは朱が注釈した『四書』を読んだことがなかった。1235年、オゴタイ(窩闊台)はクチュ(闊出)に宋を攻めさせた。当時、楊惟中(よういちゅう)、姚枢(ようすう)がちょうど従軍し、技術を持った儒者、道士、僧侶、医師、占い師を探し求めるよう命令を受けていた。彼らの庇護の下、捕虜となった儒者は皆罪を解かれた。江西省徳安の人、趙復、字は仁甫、彼は理学の信者で、捕虜にされてから、姚枢が彼を燕京に連れ帰った。これ以前は、「南北の道は絶たれ、載籍(典籍)は相通ぜず」。 趙復は燕京に来てから程朱(程顥(ていこう)、程颐(ていい)兄弟と朱熹)の著した諸経伝に注を記し、できるだけ記録して、重要な部分を付け足そうとした。この時、王擑(おうせつ)が燕京で創設した廟学は既に閉鎖され、 楊惟中と姚枢は対極書院を建立し、 趙復に程朱の理学を講義するよう依頼し、学者は彼を江漢先生と尊称した。楊惟中は書院の中に祠を立て周敦颐を祀り、また二程(颢、颐)、張(載)、楊(時)、游(酢)、朱(熹)を以て配食(配享。祭祀で主神に添えていっしょに他の神を祭ること)した。趙復の影響により、姚枢、許衡、郝経、劉因らは皆理学に改宗し、「北方で程朱の学を知るは、復より始ま」った。趙復の講義の助手を務めた王粋(元粋)は、若い頃は襄陽を放浪していたが、後に単身燕に帰り、道士となった。彼の詩は、もの悲しくわびしく、当時の社会の破綻や、人々が流浪し困窮する惨状をよく反映していた。

 通訳の人材を育成するため、1233年オゴタイは詔を出して国子学を燕京に建てさせ、モンゴルの子弟18人を遣わして漢語の文字を学習させた。漢人の子弟12人には、モンゴル語、弓矢を学習させ、儒士と儒学に通じた道士を選んで教えさせた。また学業を伝授された生徒は漢人の文書を学習する以外に、「併せて匠の技に習熟し、事は薬剤を用い、彩色を出し、地理州郡を記憶するに及び、下は酒の醸造、麹(こうじ)の種付け、水銀の製造、飲食の調理に至るまで、皆詳しく見て暁通するよう規定した。当時は全真教の道士が燕京で勢力が甚大で、儒士大夫の多くは道門に庇護を託した。燕京の学宮も「老氏(老子)の徒であるを保った」。学宮の主催者は楊惟中以外、葛志先、李志常の徒は皆当時有名な全真教の道士であった。

 元朝建立以後、1270年(至元7年)、フビライは近臣(侍臣)の子弟を11人選び、 許衡(きょこう)、王恂(おうじゅん)から学ばせた。 許衡は元代の著名な理学家で、 朱熹の学を伝えた。1287年(至元24年)政府は国子学を拡張し、生員(太学などで勉強する学生)120人、モンゴル、漢人が半々で、許衡の弟子の耶律有尚が祭酒を務め、「その教法は一に衡(許衡)の旧に従って」いた。「その立教は義理(言論の内容と道理)を本とし、省察(自分の思想、行動の検査)は真切(はっきりしている)でなければならない恭敬(礼儀正しい)を先にし、践履(実践)は正直で誠実でなければならない。およそ文詞の小技、編集(綴緝)彫刻は、聖人の大道を破裂させるに足り、皆これを排斥(屏黜)する。(『元史』巻174『耶律有尚伝』)これより、国子学は理学伝播の中心になった。1298年(大徳2年)丞相哈剌哈孙(ハラハスン,1257—1308)は城の東北に孔子廟と国子学舎を興し、皇慶(仁宗の代、1312‐132年のみ)の初め、集(ぐしゅう)が大都の儒学教授に任じられ、また岐陽の石鼓をその中に安置した。

 

 宗教 元朝は多民族の統一国家で、西方と特殊な連携を保持し、宗教上は一貫して兼容(包容)政策を取った。このため、大都城内では各種の宗教教派が同時に流行した。その中でも、ラマ教は皇帝の崇拝を得て、最も盛んであった。

 ラマ教はオゴタイの時代にモンゴルに伝わり、モンゴルの統治者の信仰を得た。フビライの時代、薩斯迦派(サキャ派)の八思巴(パスパ、パクパ)が帝師に封じられ、尊敬され光栄に輝くこと、比べる者が無かった。パスパの死後、歴代の皇帝の師を継承した。皇帝の即位に当り、必ず先ず皇帝の師が七回受戒してから、大位に登った。元朝の皇帝は皆仏教寺院を大いに建立した。フビライは高梁河に大護国仁王寺を建て、城内に大聖寿万安寺を建てた。成宗は大天寿万寧寺を建て、武宗海山(カイシャン)は城南に大崇恩福元寺(最初の名は南鎮国寺)を建て、また大承華普慶寺を建てた。仁宗は承華普慶寺を建て、英宗碩徳八刺(シデバラ)は寿安山佛寺を建て、泰定帝也先鉄木儿(イェスン・テムル)は天源延聖寺を建て、文宗図帖木儿(トク・テムル)は大承天護聖寺を建てた。これらの寺院は規模が広大で、装飾が豪壮であった。元朝政府は毎年仏事を行う累計が5百回以上にまで増えた。仏事を行うため、毎日羊を何万頭も用い、年間の消費が、小麦439500斤、油79千斤、バター21870斤、蜂蜜27300斤になった。仏教の経典を書き写すのに、金32百両余り消費した。その他の銀貨、(不動産としての)田畑の寄進の額は数えきれなかった。武宗の時、張養浩が上書してこう言った。「国家の経費は、三分割すると、仏教関係が二を占める」と。この面での浪費が深刻であったことが分かる。

 金、元時代に大都で流行した仏教は、ラマ教及び臨済、雲門、曹洞などの禅宗諸派以外に、いくつかの外道と見做された禅宗の別派、すなわちいわゆる糠禅、瓢禅の類があった。金朝政府は糠禅、瓢禅、五行、毗(毘)盧などの教派を厳禁する命令を出した。糠禅の創始者は劉紙衣である。この宗派は金末に伝播してから百年余りになり、弥勒仏の出現を信じていた。耶律楚材は彼らを「仏像を破壊、仏法を誹謗し、僧を排斥し経典を滅ぼし、布施の方法を捨て、懺悔の道を閉ざし、苦しみを救わず、孝行の気風を傷つけ、実に風俗教化を破壊すること甚だしい」と叱責した。ジンギスカンの時代、糠禅は燕京城内でたいへん流行し、「市井の工商の徒、糠を信じる者十に四五」と言われ、士大夫の中にも信仰する者が多かった。元に入ると、糠禅は頭陀教の名前で流行し、宮廷の中にも多くの信仰者がいた。張昱(ちょういく)『 輦 下曲』(れんかきょく)に言う。「肩に緑髪垂れ糠禅に仕える、淡く娥眉を掃き、自ずと憐れむ可し。内門を出入りし装飾盛んなり、満宮争いて女神仙を迎えん。」この記述がたいへん良くそれを証明している。この一派の廟宇が有名な有勝因寺である。白蓮教も釈迦外道の一種である。耶律楚材の『西游録』に言う。「西域に96種、これは毗盧、糠瓢、白蓮、香会の徒で、釈氏の邪也。」1274年(至元11年)大都の屠文正が百人余りを集め、白蓮社を建てた。しかし、この白蓮社と当時流行した南宋の白蓮会が、教義上で関係があるかどうかは、はっきりしない。

 元代に大都で流行した道教は、全真、正一、真大、太一の諸派であった。全真道士、邱処機(きゅうしょき)、号は長春真人(邱長春)、1219年お召を受け、万余里も跋渉(ばっしょう)し、往復3年をかけ、中央アジアで西征中のジンギスカンに見えた。彼はジンギスカンに対して言った。「国を治める方は、天を敬い民を愛するを本とする。長生の道は、清心寡欲を以て要となす」。彼は大いにジンギスカンの歓心を得た。当時、中央アジア回教徒が賦役を免除される制度に基づき、ジンギスカンより邱長春に聖旨を賜った。「邱神仙が必要な修行の院舎などは、日日経文を唱え、天下の人々に告げ、皇帝に長寿の万万歳を祝う場所である。大小の賦役を発すると布教を休まないといけない。邱神仙は出家した仏門の人であるので、随所の院舎は賦役を発するを免じる。」(李志常『長春真人西游記』。「底」は「的」、「毎」は「們」である)長春真人は燕京に戻ると、天長観(後に長春宮に改称)に住み、また瓊華島の万安宮に移った。当時、瓊華島は長く兵火を経て、深刻な破壊を受けた。邱長春は道院を拠点にしてから、「薪を切り魚を捕る者が後を絶ち、数年すると、園の池の中は鳥、魚が繁殖した」。全真道は賦役免除の詔書を持っているので、信者になって庇護を求める人が益々多くなった。道教徒は勢力を頼みにのさばり、仏教寺院を占拠し、勢力は極めて盛んだった。1227年夏、邱長春が赤痢に感染して死亡した。道士たちは物語を捏造し、長春は葆玄堂に登り仙人となり、「異香が部屋に満ちた」と言った。僧徒たちは極力彼が病の中苦しんだ有様を明るみに出し、また歌を作って言った。「一把(ひとつかみ)の形骸(身体)痩せた骨、長春一旦変ずる時、和濉は屎を帯び圊厠に亡ぶ、一道流れ来たり両道流る。(『至元辨偽録』巻3)道徒があまりにのさばっていたので、仏教徒、回教徒、キリスト教徒は連合して全真道を攻撃した。モンケの時代、和林で阿里不哥が宗教弁論会を主催した。その結果道教は失敗し、道士は強制的に髪を下ろさせられ、占拠していた寺院2百ヶ所余りを返還し、『老子化胡経』を焼却した。これ以降、ラマ教の勢力が益々盛んになり、引き続き全真道に対し攻撃と排斥を行った。フビライはそれで12801281年(至元1718年)の2回道蔵偽経雑書と印板の焼却を命じ、ただ老子の『道徳経』一書のみ焼かずに留保させた。しかし、全真教の基盤はしっかりしており、打撃を経ても、社会で尊びあがめられるのは衰えなかった。フビライが死に、成宗が即位すると、1295年(元貞元年)正月、詔を下し、凡そ道家が行う金箓(天帝の詔書)と科範(儀式の規格)は、仏教を侵犯しない条件で、自由に発展させた。元の時代を通じ、全真道はその他の宗教と同様、元朝政府の遵奉を受け、賦役免除の特権を享受した。

 元朝の時代、中国と西方の関係の密接化と中国と西方の交通の発展に伴い、大勢の中央アジア、或いは東欧の各民族の人々が大都に流入し、或る者は定住し、或る者は寄寓(僑寓)した。その中には、官吏、商人、伝教師、使節、下士官、職人、奴隷が含まれていた。このことは、大都城内でイスラム教やキリスト教が盛んになるのを促した。

 大都のイスラム教の情況については、残された史料がたいへん少ない。知ることができるのは、元初に、回回哈的(「回回」は回族。「哈的」カーディー。「卡迪」と表記することも。アラビア語でイスラム教法官の称号)の宗教事務を行う機関を設けたということだ。1311年(至大4年)朝廷の政局の変動に伴い、一部の色目人の高官が勢力を失い、そのため元朝政府は同時に明文で「回回哈的司属をやめる」と命令した。こう規定した。「哈的大司達は、彼らのよく理解している経典を教えることだけすればよい。回教徒の刑罰、婚姻、地租(銭糧)、訴訟、大小の公事は、哈的達がよく知っており、司官が委託した者に具体例を聞けば教えてもらえる。外に衙門(役所)を設立し、且つ委託した者達は罷免された。」(『通制条挌』巻29『僧道』)文宗が即位し、1328年(致和元年)11月、また 回回掌教哈的所をやめた。統治階級内部の複雑で激しい権力闘争の中で、色目人官僚のグループが再び打撃を受け、イスラム教組織も続けて打撃を受け、取り締まりを受けた。

 大都のキリスト教は、東方のネストリウス派(景教)だけでなく、ローマ天主教のフランシスコ会もあった。大都の景教徒の人数は3万人を越えたと言われる。彼らの中にはモンゴル地区の克烈部(ケレイト部)、汪古部(オングート部)、ナウマン部及び新疆と中央アジアの境の少数民族が含まれていた。彼らは皆「たいへん富裕な人」であり、「各種の封建官吏を独占し、たいへん大きな特権を有していた」。彼らは美しい教会を建設した。著名な景教徒Liebian Xiama(列辺・霞馬)が大都の人であった。 霞馬の父親がボイコットしたのは景教会の視察員であった。霞馬は1275年(至元12年)頃、東勝(オルドス)人の馬儿古思と共にエルサレムを巡礼した。馬儿古思は1280年(至元17年)契丹と汪古(オングート)の大教主に任じられた。1281年には景教の総主教に選ばれ、アブラハム3世と改名した。霞馬は1286年イリ(伊利)のハーン(汗)、総主教の使者となり、欧州諸国を遍歴した。

 大都の天主教は1293年(至元30年)頃、著名な宣教師ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(約翰·孟德高維諾)が転入した。モンテコルヴィーノはイタリア北部の人で、教皇ニコライ4世により派遣され、小アジア、インドを経て、海を渡って大都に到着した。1306年(大徳16年)までに、彼は大都で前後して二か所の教会を建設し、洗礼を受けた信者は6千人に達した。モンテコルヴィーノの宣教活動は、とりわけ大都に移住してきたアルメニア人、アラン人(阿速人)から歓迎された。当時、大都のアラン人( 阿速人 )は3万人いたと言われ、右、左衛阿速親軍指揮使司に分かれて所属し、元朝京師衛戍軍(守備軍)の主力軍団であった。モンテコルヴィーノの請求の下、教皇は1307年(大徳11年)宣教師7人を大都に派遣し、宣教を手伝い、またモンテコルヴィーノを大都大主教に任命する勅令を伝達した。この7名の宣教師は、ただガラルドゥス、ペレグリウス、ペルージャのアンドレウスの三人だけが1311年(元至大4年)頃大都に到着した。モンテコルヴィーノは1328年(泰定5年)死去した。阿速軍の高官は1336年(元の順帝の至元2年)使者をローマ教皇に派遣し、引き続き後継の主教を派遣するよう依頼した。教皇は1338年(至元4年)マグノリアを含む使節を陸路で東に派遣し、元の順帝に「天馬」を贈った。使節は大都に3年滞在してから、海路で西に戻った。

 当時の宣教師の報告によれば、彼らは大都で自由に宣教ができ、皇帝の尊崇を受け、皇帝の方から衣食に足りる「阿剌法」(アラビア語、意味は糧食や下士官の給料)を受けた。『元史・世祖紀』によれば、至元19年(1359年)「敕也里可温依僧例給糧」(「也里可温」エルケウンに僧例に基づき「糧」を給するよう勅令を出した)。ここでの「糧」は宣教師たちが言うところの「阿剌法」である。「也里可温」エルケウン は元朝のキリスト教徒に対する呼称である。

元順帝(トゴン・テムル)

 

第二節 大都の政治経済情況

 

元末の農民大蜂起の衝撃下の大都

 財政破綻の大都 元朝末年、政治の暗黒、財政の破綻、階級矛盾、民族矛盾がこれまでに無く先鋭化した。統治階級内部の対立、争いも増加し止むことはなかった。1333年、和世㻋(コシラ。廟号は明宗)の子、妥懽帖睦トゴン・テムル)が即位した。順帝(明の追諡。廟号は恵宗)である。この時、燕の帖木が病死し、伯顔(バヤン)が代わって立ち、朝政を一手に握った。続いて、伯顔の甥の脱脱(トクト)がまたその叔父と対立し排除し、代わって右丞相となった。財政を救済するため、通恵河の運輸を改善し、脱脱は1342年(至正2年)強く主張し金口を再び開き、新河120里余りを開鑿し、 渾河(こんが)の水を通州の南の高麗庄に引き、御河(南運河。海河流域、永定河支流、桑干河の支流)と合流させ、海運した税糧を引継ぎ大都城内まで運ぼうとした。全部の工事を4か月以内で完了させ、水門を開いて放水した。しかし水流の勢いが急で、泥や砂が詰まって、船が航行できず、埋めてしまうしかなかった。その結果、人々を労役で苦しめ、財政を浪費し、使った費用はおびただしいものだった。京師では脱脱丞相が無駄な川を開いたことを笑い種として広まった。その後、脱脱はまた1350年(至正10年)独断専行し、貨幣を改め、至正宝鈔を発行した。その結果、またも「これを行ってしばらくして、物価が高騰し、物の価格が十倍を越えた」。大都城中で料鈔10錠で1斗の粟に交換しようとしたが、得ることができなかった。京師から江南に行くと、『酔太平』という小令(元曲の一形式)が流行していた。「堂々たる大元、姦佞専権、川を開き貨幣を変えるが禍根の源。紅巾万千を惹きつける。官法が氾濫し、刑法は重く、民衆は怨む。人が人を食べ、貨幣が貨幣を買う何ぞ曾て見る。賊が官になり、官が賊になり、賢愚が混同する。哀しいかな憐れむべし。(陶宗儀『輟耕録』巻23)その実、元朝の病症は深く、救い難い状態になっており、決して脱脱が丞相になったことに始まるのではない。けれども脱脱が推進した財政を救う措置がでたらめであったので、その結果なおさら民衆の怨みが沸騰した。1341年(至正元年)以来、全国各地の人々の反抗闘争が、あちこちから巻き起こった。この年、山東、燕南では、「盗賊が縦横無尽に出没し、それが3百ヶ所以上に達した」。1342年、「京城の強賊が四方より立った」。1346年「京畿で盗賊が立ち上がった」、1347年「通州で盗賊が立ち上がった」。京城の天子のおひざ元で、民衆蜂起が火が原野で燃え盛るように起こり、その勢いは消し止めるのが困難だった。京師で流行った童謡に言う。「一陣の黄風一陣の砂、千里万里人家無し。振り返れば雪は消え見るに堪えず、三つ目の和尚は馬の目を見えなくさせた」。また言う。「塔は黒い。北人が主人となり南人は客。塔は赤く輝き、朱衣の男が主人公になった」。(『元史』巻51『五行志』第三下)これらは皆ひとつの角度から人心が揺れ動き、当時の嵐が起ころうとしている不穏な情勢を反映している。1351年(至正11年)江淮地区で勢いの盛んな紅巾軍が蜂起した。元朝の絶大な部分の軍事需要と、大都の様々な生活物資は、主に運河と海運に依存して取り寄せていた。統計によれば、平時には、毎年恵通河から京師に届く米は5百万石に達した。海運の食糧は最高で毎年350万石余りに達した。その他の官府に納められる賦税(征輸)を加えると、総計で毎年京師に入る歳糧は13508884石であった。そのうち江浙(江蘇、浙江)が40%強を占め、河南が20%強、江西が10%強、腹里(すなわち中書省直轄の河北、山東、山西等の地)10%強、湖広(湖南、広東)、陝西、遼陽が全部で20%であった。この他、また金3百錠余り(1錠当り50両)、銀1千錠余り、鈔1千万錠余り、生糸100万斤余り、綿7万斤余り、布帠(ふはく)48万匹余りを徴収した。(『庚辛外史』)これらの物資の半分は江浙より来た。農民蜂起は元帝国を腰のところから真っ二つに分断した。「蘇州を失い、江浙から届かない。湖広を失い、江西から届かない」。そして「元京は飢え困窮し、人が人を食べた。」これに加え、中原は毎年干ばつとイナゴの害で、田畑の穀物は悉く空となり、人は食べ物が無く、イナゴを取って食料とした。元朝は瞬く間に政治が麻痺状態に陥り、財政は破綻状態であった。

 

 食糧の欠乏を救済するため、1352年(至正12年)、脱脱の建議により、北京郊外の西の西山から、南は河間、保定まで、北は檀州、順州まで、東は遷民鎮(今の河北省秦皇島市東の山海関)の地まで、稲田を開拓し、江南の農民を募集し、法律を制定し田を耕し、司农司を分けて指導させた。年間収入は20万石に達し、これを「京糧」と名付けた。実行の過程で、官吏は屯田を名目に、ほしいままに良田を占拠し、人々に苦痛をもたらした。これに加え、官吏の統治は腐敗し、管理が混乱し、使った費用は極めて多かったが、その成果は焼け石に水で、欠乏を和らげるには百に一つ、遠く及ばなかった。特に中原地区の農民蜂起の高揚に伴い、また大量の山東、河南、河北の人々が逃亡して大都に入り、城中の人口が大量に増加し、食糧問題は更に深刻になった。凶作が大都城をすっぽり覆い、疫病もそれにつれ猛威を振るった。1358年、1359年(至正1819年)の間、人々の餓死、病死は百万人近くに達した。大都城の十一の城門の外に、それぞれ万人坑を掘って死体を埋めた。この時の大都は既に見渡す限り荒涼とし、生活が困窮してたまらず、もはや昔の状態に戻ることはなかった。

 

 北京郊外の破壊はとりわけひどかった。官軍は貪欲で狂暴で、「京師は煩瑣で規律が無く、数百里内では人をさらって食料にし、府県を率先して破壊した」。北京郊外の諸城は、涿州が比較的良い状態を保っていたが、このためなおさら諸軍閥が垂涎を垂らして占拠する目標にされた。1359年(至元19年)3月、官軍の一師団が涿城に入って割拠し、「人々の鼎や鍋で油を煮られる者(食べられた者)は毎日合わせて何千何百になり」、このような状態がずっと15日続いてから去って行った。その翌年の4月、また別の一師団が州城を陥落させ、財物を掠奪し焼き払い、より残酷極まる状況だった。(『日下旧聞考』巻129『京畿・涿州3』、夏以忠『昭祐霊慧公廟碑記』)涿州の一例を通して、北京郊外各地の破壊が如何に深刻な程度に達していたかをあらまし知ることができる。

 

 一面では餓死者が町中に溢れ、至るところ、故郷を追われ、苦しみうめく被災者がいた。また一方、元朝の最高統治者である順帝は、逆に益々贅沢で堕落した生活に溺れていた。吐蕃(とばん)の僧が順帝に荒淫を欲しいままにするよう教え、また彼に人生はいくばくも無く、我が「秘密大喜楽禅定」を受けよ、と言った。そして、皇帝は毎日その法術を行い、広く婦女を集め、公然と淫乱行為をし、「聞くに堪えない声、みだらな行為がはっきり外まで聞こえ、市井の人々といえども、これを聞いて憎悪した」。彼はまた宮女を選んで十六点魔舞を踊らせ、荒淫の宴を楽しみ、夜も昼間のようにして騒いだ。倉庫に保管した穀物を、悉く寵愛する女につぎ込み、百官の俸禄は、茶、紙、こまごまとした物で帳尻合わせがされた。順帝、奇后、皇太子が互いに対立し、朝臣もそれぞれ徒党を組んだ。地方で軍を擁立し対立していた孛羅帖木儿(元末の将校。ボロト・テムル羅」はモンゴル語で「鋼鉄」の意味))と拡廓帖木儿(ココ・テムル 。「拡廓」はモンゴル語で「青」の意味)が、互いに腹をさぐり合い争った。 羅帖木儿は二度、兵を挙げて北京を攻め、 奇后を監禁し、皇太子を追放し、自ら大権を一手に握った。1365年(至正25年)6月、順帝は羅の侮辱に耐えきれず、人を遣って羅を刺殺させ、また人々に、羅の統率する川軍を見たら皆殺しにせよと命令を発した。人々は次々家の屋根に上がり、瓦や石を投げ、川軍の死者は町中に溢れた。続いて拡廓帖木儿が兵隊で太子を護衛して北京に戻って来た。彼らの隊伍が入城する度に、城内では何度も掠奪が行われた。

 

 紅巾軍の北伐 1358年(至正18年)韓林儿、劉福通が率いる紅巾軍3ルートから大挙して兵を進め、西路が関中に出て牽制の役割を担った以外、他の東路中路は大都の包囲、奪取を目標としていた。

元末農民蜂起と紅巾軍の北伐ルート

毛貴が率いる東路軍が2月に済南を占拠後、勝ちに乗じて北にまっすぐ進み、清、滄、長蘆を攻略した。3月、漷州(今の河西務。天津市武清区)に迫り、先鋒は既に大都から120里の棗林(今の通県東南)に達した。元の枢密副使達国珍は戦いに破れ殺された。元の朝廷はあわてふためき、群臣の多くは都を移し、しばらく避難するよう主張した。丞相の賀太平は力攻めはだめだと考え、急いで彰德(河南省安陽)に軍を駐屯させている同知枢密院事の劉哈剌不花に阻止に行かせた。毛貴の兵は挫折し兵を済南に後退させた。

 

 これと同時に、関先生、破頭潘らが率いる中路軍は、衛輝、彰德の一線で元朝が駐屯させている大軍を避け、山西に進入し、勝ちに乗じて北上した。この軍隊は「ルートを分けて太行山脈を越え、上党を焼き、晋、冀(河北)を掠奪し、雲中、雁門、代郡を陥落させた」。

元末紅巾軍系統

関先生は東に保定を攻めたが、攻略できなかった。この時、毛貴の東路軍は既に引き揚げ、策応(友軍との連携作戦)ができなくなった。察罕帖木儿(チャガン・テムル。モンゴル語で「白色の鉄」の意味)の大軍がまた南山の帰路を封鎖した。この農民軍はそれで塞外へ遁走した。12月、上都を攻略し、宮殿を焼き払った。その後、東の遼陽に進出し、朝鮮に入ったが、最後には失敗に帰した。しかし王士誠が率いる蜂起軍が依然晋北地区で活動し、引き続き北京の西側一帯を威嚇した。元の朝廷は羅帖木儿(ボロト・テムル)の軍を移して大同を鎮圧させ、以て京師への侵入を防いだ。1359年(至正19年)3月、京城北兵馬司指揮の周哈剌歹と林智和らが謀反を図ったが、事前に発覚して殺された。農民蜂起のうねりが猛威を振るい、京城の官僚、貴族は恐怖のあまり生きた心地がせず、京師の11の城門には皆甕城(城門の外を取り囲む半円形の小城郭。櫓)を築き吊り橋を架け、防御を強化した。1368年(至正28年)、朱元璋南京で皇帝の位に付き、建国し国号を明とした。大将の徐達、常遇春に命じ、大軍を率いて北伐させた。明軍は山東、河南を攻略後、軍馬を集結させ、山東から運河に沿い、水陸両方で前進した。閏7月、通州を攻略し、元の知枢密院事卜顔帖木儿を殺した。28日、順帝は清寧殿で御前会議を召集し、北の上都に逃げることを決定し、淮王帖木儿を不花監国、慶童を中書左丞相とし、共に京城を守らせた。その晩の夜半、順帝は健徳門を開け、急いで北に逃げ、従者は百人余りに過ぎなかった。北に居庸関を過ぎると、道路は人影がなく、関所には一兵もいなかった。82日、明軍は大都城下に到着し、斉化門に猛攻を加え、将兵は塹壕を埋め尽くして城に登って侵入し、帖木儿不花らは皆捕らえられ殺された。元は滅亡した。

元代『冬日戯嬰図』(台北故宮博物院蔵)

第二節 大都の政治経済情況

 

 

経済概況と住民の生活(続き)

 市民生活 大都は元代の多民族国家の縮図で、城内では各民族が雑居していた。契丹、女真、渤海などの民族が長い間漢族と雑居していた外、統治民族として、大量のモンゴル人が北京に住み、漢人と隣り合って暮らしていた。元朝中期、漠北草原が大風雪に被災し、また叛乱を起こした王による攪乱(竄cuàn、簡体字は「窜」)もあり、モンゴルの遊牧民たちが次々南下し、通州一帯に留まり、いたるところに逃れてきた「押当赤」(モンゴル語で貧困者の意味)がおり、元朝政府は彼らのため食糧を支給し、救済した。また特に蒙古侍衛軍を置き、収容した。タングート唐兀人)、ウイグル(畏吾人)の元朝宮廷に出仕する者がたいへん多かった。大都城の西北の畏吾村(後に訛って魏公村となった)は、ウイグル(畏吾人)が集まって住んだことからこう名付けられた。モンゴル人はラマ教を崇拝していたので、チベット僧で北京とチベットの間を行き来する者がこれまでに無く増加した。各民族の間の密接な交流は、互いの文化交流と伝統的な友好を促進した。この他、モンゴル人の三回に亘る征西と、元朝皇帝が四大汗国の中の宗主の地位を得たことから、大都城内には、また大量の中央アジアの各民族の人々が集まった。彼らは当時、「色目人」と総称された。その中には、康里人(古代の高車人の末裔)、欽察人(キプチャク人)、ロシア人、阿速人(アスト部。15世紀から17世紀にかけてモンゴル高原で活動した遊牧部族で、本来は西方のカフカース地方に住まうアラン人の別称)、突厥蛮(トルクメニスタン人)、イラン人などが含まれ、習慣上、彼らはまたしばしば「回回人」と総称された。1263年(中統4年)の統計によれば、当時中都路には全部で 回回人戸が2953戸あった。そのうちの多くが豪商や大商人、権勢も兼ね備えた家であった。(王惲 『秋澗 先生大全文集』巻88『烏台筆補』)こうした人々は特権を傘に、「物の売り買いを行い、様々な方法で人々の利益を奪い取り、しかも賦役は少しも負担しな」かった。権勢家や豪商以外に、色目人の技術者、軍士、奴隷も、中都でたいへん大きな比率を占めていた。これに加え、遠路はるばるヨーロッパ、アジアより来た商人、ローマの宣教師、各国の使節が雲集輻輳し、大都を当時の重要な国際政治と貿易の中心にした。

 

 『元史・地理志』によれば、大都路総管府は右、左二つの警巡院と六県十州を管轄した。(六県は、大興、宛平、良郷、永清、宝坻、昌平。十州は、涿州、覇州、通州、薊州、漷州、順州、檀州、東安州、固安州、龍慶州。)州は十六県を管轄した。人戸は総計147590、人口は401350であった。右、左の二つの警巡院はそれぞれ城内の坊に住む市民の事を分担して管理する機関であった。新城には計50坊、旧城には計62坊あった。坊にはそれぞれ名前があり、いくつかの坊名は相変わらず昔の幽州の旧名を踏襲していた。都市の治安を司るのは大都兵馬司で、軍兵2千を従え、専門に泥棒を取り締まった。

元大都路行政管轄区示意図

 元王朝の京城として、大都の城内には貴族、官僚、富豪が集まり、大量の貧しい都市住民、地位の低い奴隷も生活し、階級対立が鮮明であった。重い賦役と高利貸しに搾取された貧しい人々は、しばしば破産し、奴隷に没落した。翰林学士の 王惲(おううん。号は秋澗先生) は上奏文の中で言った。「必ず都の貧しい庶民を見るべし、或いは事故により、しばしば有力な家で身を質に入れ奴隷となる。長春一宮の如きは約三十余人、元は約束を満たしていたが、主に返却できず。ある父子夫婦の到っては数年を限りとし、身を卑賎の仕事に置き、そこから脱することができない。また自ら生んだ男女を、名を偽って嫁がせたが、実は物として売り渡していた。」(『秋澗 先生大全文集』巻84『烏台筆補』)こうした現象は当時は非常に普遍的であった。京城(都の北京)の中では、またしばしば未成年の男女を誘拐し、脅して奴隷に充てることがあった。場合によっては彼らを北方に連れて行き、牛馬や羊、駱駝と交換し、暴利を得た。階級間の先鋭な対立は、大都の町中の社会秩序をずっと不安定なものにした。元初の1年、また3か月以内に、城内で発生した強盗、窃盗事件は60件以上に達した。中期的に大量の外地の流民が都城に流れ込み、市内の生活と社会秩序により多くの問題をもたらした。元朝政府は矛盾を緩和するため、米を値下げ販売することでの救済(賑粜zhèn tiàoしんちょう)を実行した。1277年(至元14年)大都の物価が暴騰し、国庫(官廪guān lǐnかんりん)の糧食数万石を放出し、米を売って平民を救済した。1285年(至元22年)京城と南城に各3ヶ所店を開き、役人をそれぞれ派遣し、米を値下げして販売し、年々同様に対応した。1295年(成宗の元貞元年)、京師(都、北京)の米が高騰し、元朝政府は迫られて店を30か所増設し、食糧7万石余りを放出し、米を値下げ販売して人々を救済した。それ以後、店の数は減少したが、毎年の米の放出は50万石余りにまで増加した。放出食糧の多くは権勢家が巧みに獲得し、貧民の所には回って来なかった。大徳年間、元朝政府はまた「紅貼糧」(こうちょうりょう)を実行した。これは、官庁が両京(大都燕京と上都開平)の貧困戸口の数を登録し、「米を準備し番号と名簿を貼り、それぞれ姓名と戸口の数を書き、月毎に名簿に依って支給した。成人(大口)は3斗、未成年(小口)はその半分とした。その価格は放出価格の3と見做し、常にそれだけ値引きし、「賑粜」と併せて実行した。(『元史』巻96『食貨志・賑恤』)こうした措置は、もちろん日増しに先鋭化する社会の矛盾を改めることができなかった。このため、大都城内で重大事件が一度ならず発生した。1291年(至元28年)文明街の西側で、「盗殺銀千戸」千戸の家から窃盗、殺人が行われた。1302年(大徳6年)八作司(役所名)で窃盗事件があった。1326年(泰定3年)太廟に泥棒が入り、武宗の金神主と貴重な祭器を盗んだ。こうした不穏な形勢は統治者の心配と警戒を引き起こした。1309年(至大2年)武宗が上都に避暑に出発する時、御史台が建議して言った。「京師の工夫の徴用がちょうど行われているが、それに加え今年は干ばつで食糧が不足し、民は愚かで惑い易く、関する所甚だ重し。一丞相を留め京師を鎮めんことを乞う。後もこれを例と為せ。」続いて、また二つの警巡院を四か所に増やし、また連続して巡邏(じゅんら)の兵丁の派遣を増やし、且つ刑部長官を派遣して直接大都の兵馬司の仕事を掌握し、鎮圧を強化した。こうしたことから、元朝後期になるにつれ、大都城内の階級矛盾が益々先鋭化していたことが分かる。

 

 北京郊外の農村と農民の状況 北京郊外の土地は、大部分が元朝政府と貴族や富豪により管理されていた。政府は軍隊の駐屯の方式で、北京郊外の農地を、京師のぐるりを守備する五衛親軍等に分け与え、屯田を行わさせ、それにより得た収入で軍の装備を整え、家族を養う費用に当てさせた。統計によれば、大都の近県の諸衛軍と大司農、宣徽院等が管轄する屯田の総数は最高で15,700頃(1頃は6.667ヘクタール。100畝)余りに達した。こうした駐屯軍は各地で土地を占拠し、人々の生活を乱し、勝手に法律を破った。武清県北郷には中衛の万戸の阿海が率いる駐屯軍がいて、1265年(至元2年)彼らは権勢に頼み「上司が元々分け与えた屯田の土地4か所以外に、無理やり諸人の村や耕作して桑や棗の熟した土地を侵略し20頃余りの土地を奪い」、農民を失業させたが、彼らは恨みや苦しみを自ら申し立てることができなかった。将校たちは更に好き勝手に彼らをゆすったり侮ったりした。中衛所属の軍人は、至元5年(1268年)8月以前から武清北郷等に来て、「民家に住み、毎日飲食をくすね、馬の飼料をあの手この手で収奪し続け、ついには人々の不安を搔き立てた。対応を止められないので、味方の数を頼みに、誹謗が発せられればすぐに脅したり辱めたり、何でも行った。毎年、翌年春3月までこれを続けると、ようやく離れることができた。(『秋澗 先生大全文集』巻88『烏台筆補』)こうした現象は、当時はかなり一般的であった。

 

 貴族官僚は財産を賜ったり併呑することを通じても、それぞれ大量の土地を保有し、「怯薛qiè xuē(モンゴル語)とは、貴族官僚が内廷で伺候し、宮廷の禁衛と大小の事務を担当する近習(きんじゅ)のことで、しばしば同時に外廷で朝廷の要職を担当し、元朝の通常の行政の中で重要な役割を担っていた。政府は一度彼らに田地を分配すると、それにより「近習の臣は、田地が極めて多い」という現象が起こった。有名な大寺院も大地主で、朝廷は彼らに大量の田地財貨を賜った。こうした人々は、軍や站户(国の通信伝達の徭役を担う家)の上層を含め、個別の政治特権を持っていて、納税や徭役が免除された。1291年(至元28年)中書省のある上奏文の中でこう言っている。「桑哥(元朝の大臣)は大都の金持ちのそれぞれの子細を自ら隠ぺいし、売買、検査、記録の時に、どんな賦役を選んだか教えず、貧しい庶民を苦しい目に遭わせる。別の役人もそれぞれ隠ぺいしていることが多い。」貧しく弱い庶民の中には、賦役から逃れるため、彼らを頼り、彼らの家僕に身を落とした。奴隷を数多く抱える現象は、当時たいへん一般的だった。貴族、官僚、軍官の家では、奴隷がしばしば千や百に達した。奴隷は単に家の中で伺候するだけでなく、幅広く手工業や農業生産、商売や軍役の補充などに用いられた。

 

 元代、農戸の賦役負担は一般に、軍戸、站户、匠戸に比べて重く、北京郊外の農民は更に多くの特殊な負担があった。例えば、宮城の修繕、運河の浚渫、貴族や官僚の屋敷の営造、皇帝の巡幸、役所の雑役、官吏の非合法のゆすり、貴族大官の家の狡猾な下男、下女(黠奴)による強奪などである。馬の飼育も北京郊外の農民の重い負担であった。元朝政府は両都付近で大量の馬と駱駝を引き取り育てた。1308年(至大元年)の統計によると、大都で飼われた馬は94千匹、外路(外地)は119千匹。これらは皇室、貴族向けに乳を取り乗馬に供した。人々は馬に食べさせる牧草の準備を負担しなければならないだけでなく、放牧の便のため、秋の収穫後の土のすき起こしを禁止した。朝廷はまた馬が車を曳き、臼を曳き、田畑を耕すのを禁じた。これらは農業の発展に疑いなく重大な妨げであった。この他、西山の薪炭、玉泉山の木材、金水河の水流を人々が採取、利用するのを禁じた。皇帝が春秋に狩猟を行う需要を満足させるため、大都の四方5百里内では、「何人も、鷹などを飛ばし、キジやウサギを捕獲するを得ず」。飢餓に迫られた農民がたまたま捕殺してしまった場合、厳しい懲罰を受けた。重い賦役と天災被害に迫られた北京郊外の農民は、元の中葉以降、破産し流民となり、甚だしきは身を売ることに迫られる人々が日増しに増加していった。

マルコ・ポーロの目に映った元・大都

第二節 大都の政治経済情況

 

 

経済概況と住民の生活

 商業 大都は元朝最大の商業の中心地で、天歴年間の統計によれば、大都の宣課提挙司に入る商業税は毎年113千錠(塊状のものを数える)余りで、全土の商業税総額の9分の1弱を占めた。元朝の規定では、商業税は3%であった。フビライの時、大都の商業の発展を促すため、旧城の商店が新城に引っ越すなら商業税を2.5%に減額すると命令した。そして、牛馬や果樹の諸市と酒、酢を除き、「魚やエビ、薬果の類の如き、及び書画、藁席、草鞋、篠箒(竹製の箒)、磚や瓦、木炭諸色、灯銅、鉄線、麻糸、苧(ちょま)、藁縄、曲貨は、皆課税すべきでない物(『日下旧聞考』巻63『官署』から『稼堂雑抄』を引用)であり、明代の崇文門税課条目に比べ、より少なくなっていた。

 

 大都城内に各種の専門の市場が30余りあった。最も賑やかな場所が町全体の中心の鐘楼鼓楼と、西城の羊角市一帯であった。鐘楼、鼓楼の西は海子(積水潭)に隣接していた。海子は中原を南北に貫く大運河の終点で、南から来た商船はここに集まって停泊した。沿岸中に歌の舞台、酒楼が配され、貴族や金持ちの商人が喜びを求め楽しみを追求する場所であった。鐘楼の付近には米市、麺市、緞子市、毛皮市、帽子市、ガチョウ、アヒル市、真珠市、鉄市、「沙刺」などの市があった。「沙刺」はサンゴの意味である。羊角市一帯には羊市、馬牛市、駱駝市があった。付近にはまた奴隷を販売する人市もあった。フビライの後期、人市は廃止を迫られたが、人市の坊楼は依然保存されていた。鐘楼の最も北の所と、南城の文明門、麗正門と順承門外に、またいわゆる「窮漢(生活困窮者)市」があった。1273年(至元10年)、中書省の報告によれば、「大都等の地域では人口、家畜、不動産の売買など、一切の貨物の交易は、その官と私の間の仲介者が僥倖にも利益をむさぼり、買主と売主が相まみえないようにし、先ず売主の所で価値を定めるが、買主の所では価格をつり上げ、多くが上前をはね、たいへん具合が悪い。」このため、「今後およそ人口、家畜、不動産や、一切の物品を売買する時、仲介人などは売主、買主と書面で本籍、住まいを明確にしなければならず、いつでも売主や仲介人、保証人などが保証し署名したことが分かれば、取引が成立したと見做す。」(『通制条挌』巻18『関市』)坊市(街市)の区分と売買双方は各々顔を合わさず、単に仲介人が間に立って活動するのに頼り、商業の発展を大いに拘束し、同時に当時の大都と北方地区の商業の遅れを反映していた。1286年(至元23年)になると、政府はこう決定した。「先ず「蓋里赤」(モンゴル語で仲介人)が一般民衆を混乱させる行動は、既に禁止されている。ましてや商人の売買は、決まり通り税金を納め、もし更に仲介の業者が入り、手数料を取り、市場の利益を削ぐのであれば、掠奪になり都合が悪い。大都の羊の仲介人、及び人口、家畜、不動産の売買で仲介人が従来から存在して、価格に基づいて手数料を取り、十両につき二銭に過ぎないものを除き、それ以外の様々な仲介人は、統合するかやめるべきだ。」(『通制条挌』巻18『関市』)一部の仲介人の廃止は、商業の発展を間違いなく促進した。

 

 後世に伝えられた黄仲文の『大都賦』は、大都の賑やかな情景の文学的描写であった。その中でこう書かれていた。「その街(都市)の商店(市廛 )について言えば、四方八方に通じた大通りが交錯し、何列も路地があってごちゃごちゃしていた。大きな店は馬を百頭も収容でき、小さな店でも四方が車百輌分の大きさがあった。街の東にいる者が街の西を望めば、あたかも外地の者が見聞しているかのようだった。城南の者が城北に行くと、早朝に出ても、帰りは黄昏時になった。繁華街のきらびやかな市場では、万国の珍しい物が集められていた。歌舞を演じる小屋や高殿には、世界中の艶やかな香りが集められた。寺院は帝王の住居のようで、商店は役人の家のようであった。酒を売る店は何と堂々としていることか、ひしゃげた升の形の大きな金の文字。金持ちは何と贅沢なことか、衣服のとぐろを巻いた龍の刺繍の模様。奴隷は雑居して見分けがつかず、王侯が同時に入って来ても区別しない。千頭分の肉料理を一日で作り、酒一万石を十日で醸した。」「もし城門の外であれば、文明は多くの船が連なる港(渡し場)であり、麗正(門)は衣冠の海で、順則(門)は南洋商人の藪であり、平則(門)は西域商人の集団である。天が生み地に産し、神の愛する珍奇な宝物、人間が作り出した物、山海の珍しい物が、求めずとも自ずと到来し、集めずとも自ずと集まる。我が都の人を以て、家には無駄な男子はおらず、横丁には好き勝手をする輩はいない。毫毛(わずかばかり)の儲けを得ようと、今までの五倍いろいろ考える。一日の間、一つの横丁の中で、たくさんの車が重なり合い、街路を行きかい、初めは人の肩やロバの背に触れようと気にしなかった。川の流れが合流する時、太鼓を鳴らして知らせなくても、勝手に合流し勝手に分かれ、杳(よう)としてその所在を知らない。商売人の家では、王家であろうが孔家であろうが、宴席を設け、親戚や友人を招待し、都の住人であることをひけらかし、数千万貫というお金を浪費するこうした金持ちの様子を見るに、本当に卑賎の者にも及ばない。歌舞の小屋の演奏は、侯園でも相苑でも、長い袖に軽いスカートを身に着け、管弦の音が急展開してクライマックスを迎える。春の柳の枝を折って丸く結び、以て憂いを引き起こし、秋の月を凝視したら視線を変え、翠の池に臨んで暑さを解消し、裾をからげた帳(とばり)で雪も暖かい。一笑千金、一食万銭。相手は巨大商人、遠土の濁官であり、憂いを取り除くのを楽しみ、憂いを洗い流して帰るのを忘れる。我々都人はしばしば顔ではおもねっても、背後ではこれをあざけり笑うのである。(『宛署雑記・民風一』)長期間大都に滞在した旅行家のマルコ・ポーロは、汗八里(元代、モンゴル人の北京の呼び方)城の交易が発達し、人口が盛んに増加した情況を見て言った。「汗八里城(大都城)の内外の人戸が非常に多いのには、若干の城門、すなわち若干の附郭(外城)があることを知らねばならない。この12の大きな城郭の中に、人戸はこれと比べると、城内が更に多い。城郭の中に居住しているのは、各地を行き来する外国人か、地方の特産品の貢ぎ物を朝廷に捧げに来たか、或いは宮中に物を売りに来た者で、それゆえ城の内外には豪華な屋敷や巨大な建物があり、しかも数多くの高官や身分の高い人々の邸宅は、この数の中に入っていない。」「なお知るべきは、およそ歌舞で生計を立てている婦女子は、城内には居住せず、皆附郭(外城)に居住している。附郭の中は外国人が甚だ多く、それゆえこうした輩や娼妓は人数も夥しく、合計で2万人以上もおり、皆客から贈られた財物で暮らしており、居住民の多さが想像できる。外国のたいへん高価な珍しい物や様々な商品をこの都に輸入する者の数は、世界のどの都市もここに及ばない。蓋し皆それぞれ各地から品物を携えてこの都に至り、或いは君主に献上し、或いは宮廷に献上し、或いは以てこの広大な都市に供給し、或いは以て数多くの男爵騎尉に献上し、或いは以て付近に駐屯する大軍に供給する。様々な商品を輸入する人々は、川の流れが休まないように、次々入って来る。ただ絹糸だけ見ても、毎日入城する者は合わせて千車にもなる。この絹糸を用いて、多くの金の錦や絹織物、その他いくつもの物が作られる。この付近には亜麻の絹糸より良質なものが無い。もとよりいくらかの地域では綿や麻を産するが、量が足りず、その価格も絹糸が豊富で価格も安いのに及ばない。しかも亜麻や綿の質も絹に及ばないのだ。」「この汗八里大城の周囲には、およそ都市が二百あり、その位置は遠近様々である。どの町にも商人がここまで来て商品を売買し、蓋しこの都市は商業が盛んな町である。」(『マルコポーロ行紀』中冊P379‐380

 

 当時、この町の商業は主に官府、貴族、富商の手の中で操作された。例えば酒であれば、大都の酒課提挙司に所属する糟房(醸造所)は百か所余りに達した他、富豪の家では多くが酒を醸造して販売し、価格は高いが味は薄く、しかも税金をしばしば徴収された。順帝の時の丞相脱脱の父馬扎兒台は、通州に倉庫を置き、酒館、糟房を開設し、一日の取引が万石に達した。塩は国の専売品で、商人は購入できた塩を輸送し、決められた地域で販売した。大徳年間、大都の商人が塩の相場を一手に握り、民は高い塩を買わされたので、政府はこのため役所を設けて官で塩を売るようにしたが、役所が侵犯、掠奪をし、上前をはねたので、同様に人々の恨みを買った。政府はそれで役所を廃止し、商人の意見を聞いて販売したが、塩一斤の価格が一貫に達し、更に人々を苦しめた。宝石や香辛料は、大部分が回族の豪商の手中で商われた。こうした回族の豪商と朝廷の高官との間で「斡脱」wò tuō(モンゴル語「ortoq」の音訳で、「仲間」のこと)、資力のある貴族と商人の共同経営の商業組織を結成し、特権を利用し、至る所で横行した。彼らは皇帝に宝物を献上するとの名目で、しばしば実際の価値の十倍もの返礼を獲得した。泰定帝の時、丞相で色目人の倒刺沙は皇帝に上奏して歴代で未曾有の宝物の価格が支払われ、一回で銀40万錠余りに達した。

 

 運河と海運 『元史・食貨志』によれば、「元都は燕に在り、江南を去ること極めて遠く、百司庶府の繁、衛士編民(戸籍に編入された平民)の衆、江南の供給に仰がざるは無い。」運河と海運は江南の豊富な物資を輸送し、大都の繁栄と多くの人口、豊富な物資を育んだ二つの大動脈であった。1289年(至元26年)会通河の掘削が完成し、南北を貫く大運河が完成したが、その終点は通州で、大都からは依然として一定の距離があり、物流はたいへん不便であった。この時、金代の漕渠(運河)は久しく塞がれていた。元初にも多少の修復、浚渫を行ったが、水量が限られ、最後にはまた廃棄された。有名な水利学者、郭守敬が再び大都から通州に到る運河の計画を策定した。彼は新たに北の昌平白浮村の神山泉の水を引き、一畝泉、玉泉の諸水を合流させ、運河の水量を増加させ、また大都から通州までの間に二十ヶ所の水門を増設し、時間を決めて排水し、それによって地形の起伏による水位の落差の問題を解決した。全ての工事は1293年(至元30年)完成し、通恵河の名を賜った。城南の麗正門と文明門の間の南水門から城内に入り、宮城の東壁に沿って再び西に折れ海子に入った。

通恵河

こうして「四川、陝西の豪商、呉、楚の大商人は、軽船の帆を飛ばし、一路皇帝のおひざ元に到った。」(『日下旧聞考』巻6李洧孫『大都賦』)この年の秋、フビライが上都より戻り、積水潭を経て、海子でたくさんの船が川を埋め尽くしているのを見て、たいへん喜んだ。郭守敬はさらに澄清牐(「閘」と同じ。水門)のやや東で、水を引いて北壩河とつなげ、また麗正門の西に水門を作り、船が大都城の城壁をめぐって行き来できるようにする計画を立てたが、この計画は遂に実現しなかった。

 

 これと同時に、元朝政府は長江口の劉家港から海を越えて直接直沽(北運河)と(南運河)が合流する所で、今の天津市内狮子林橋西端旧三汊口一帯)に航行する海運を強力に発展させ、都漕運万戸府二を設け、「歳運」、南米)の毎年の北京への輸送を監督した。南北の大運河が開通して後、運河の川幅が狭く水深が浅いため、輸送量が限られ、海運はずっと南方の 「糧」輸送の重要な方法で、最高で1年で350万石余りに達した。推定では、運河での輸送は陸上輸送に比べ34割労力が省け、海運は運河輸送より78割労力を省くことができた。海運船は毎年二回、季節風に乗って長江口から海を渡り、順調であれば半月で直沽に到達することができ、倉庫に納め備蓄した。

劉家港から直沽への輸送ルート(海運、及び運河)

 

海運の実行は、「民に輸送の労無く、国に備蓄の富有り」。風や波は予測できないが、糧船が沈没するのはよくあることで、運河の輸送量では京師の糧食需要の半分しか解決できない情況の下、海運は大都の膨大な官俸(朝廷の官僚の給与)や軍需を保証する上で、意義はたいへん大きかった。元末の農民の大蜂起の中で、海運が停止に追い込まれて後、大都が直ちに飢餓の脅威に追い込まれたのも無理はなかった。

 

 手工業、鉱業と職人の生活 大都の手工業はたいへん発達していた。モンゴル統治の初期、至る所で職人を捕虜にし、それに続いて各民族の手工業職人を大量に拘留した。フビライは大都建都の後、漠北等の地に職人を移住させた。工部、将作院、徽政院、武備寺、儲政院と大都留守司などの役所の下に、各色匠局と提挙司をそれぞれ設置し、職人が生産活動を行うのを監督、統率し、宮廷の生活と軍事需要のためにサービスを行った。例えば大都留守司に所属する修内司は、その下に大木局、小木局、泥厦局、車局、粧釘局、銅局、竹作局、縄局をそれぞれ率い、全部で職人1272戸を管轄した。また、器物局の下には鉄局、減鉄局、盒鉢局、成鞍局、羊山鞍局、網局、刀子局、旋局、銀局、轎子局、採石局、山場等が設けられ、「内府宮殿、京城(北京)の門戸、寺(仏教寺院)観(道教寺院)公廨(官庁)の営繕 (修繕)を管轄、及び鞍轡くつわ、手綱、フビライの嫡子の駕籠、帳場の車輛、金宝器物の御用、およそ精巧な技術、各種の技巧を持つ技術者の家で、従属しないものはなかった。それぞれの部局には指図をする役職の者がおり、その下には工長が置かれ、階層を分けて監督をした。例えば 小木局であれば、小型の木製器具を作る職人が数百人おり、十人か五人毎に一組に分け、組毎に工長が置かれた。 採石局の職人は2千戸余りに達し、犀象牙局にも150戸余りいて、大都の四つの窯場(瑠璃瓦を専門に焼いた)は3百戸余りを率いていた。そこから、当時の大都の官営の手工業団体はたいへん数が多く、細かく分業がなされており、職人の数も膨大であった。

 

 モンゴルが中原に侵入した初期に捕虜になった職人は、奴隷にされた。モンゴルの封建化に従い、これらの職人は人と人との依存関係の強い封建制下の匠戸(職人の家系)に変化した。職人には「匠籍」があり、職は世襲であった。彼らの子女は、「男は家業の仕事を学び、女は針仕事(黹)や刺繍を学び」、籍を抜けることは許されなかった。当時の人の記載によれば、京城(都、北京)の匠戸(職人の一家)は、地方で徴用された匠戸に比べると、条件は多少良かった。職人の家庭では、彼らの専門の仕事での工役を除いて、絹や銀の徴収や徭役を免除し、畑が4頃(1頃は6.667ヘクタール)以内の者は食糧の納税を免除された。各戸4人まで、1人毎月米3斗、塩半斤を与えられた。これは家族と奴隷にも与えられた。この他、彼らはさらに自分で店を開いて売買することができた。工役、徭役の合間に、家で作業することもできた。これらは外地で働いている者は比較することができなかった。しかし、一般の下層の職人の家について言えば、監官が食糧の上前を撥ねたり、無理やり私利私欲のため権勢をかさにゆすりたかりをするのは、ありふれたことだった。このため、職人達の中の階層分化が著しく、彼らのうち貧しい下層の家は、しばしば迫られて妻を質入れし、子供を売らざるを得なくなった。政府の規定では、「部局に属する職人は、妄りに真相を隠して、官吏を脅し、他の職人を扇動し、口実を設けて部局に所属するのを拒み、仕事を遅らせることはできない。また公法を畏れず無関係の人間が勝手に局院に入り、不安を煽る者は、厳しく処罰する。各部署の職人を管理する官吏、頭目、堂長などは、「毎日早朝に部局に入り、職人の行動を監督し、暮れになってようやく帰宅し」、職人に対し厳格な管理と弾圧を行った。(『通制条挌』巻30『営繕』)重い封建制の束縛と搾取は手工業の発展を大きく阻害し、役所の中ではいつも浪費が極めて大きく、コストは高くなり、製品の品質は低く、商品経済の発展に大きな打撃をもたらした。

 

 京畿(都北京とその周辺地域)の鉱業冶金業はたいへん盛んであった。檀州奉先などの洞窟、薊州豊山、宛平の顔老山などでは銀の冶金を行い、清水村には鉄鉱山があった。檀、景地方には双峰、暗峪、銀崖、大峪、五峪、利貞、錐山など鉄の冶金場が7か所あった。元初には燕南、燕北一帯に鉄の冶金場17か所を設け、毎年鉄16百万斤余りに課税し、鉄の冶金を行う職人は3万戸余りに達した。彼らのうち、ある者は政府が選抜した民戸で、ある者は罪人や孛蘭奚(意味は遺失。逃亡した流民)の人戸であった。西山の石炭採掘も盛んであった。宛平西部の大谷山には石炭鉱山が30坑道余り、西南の桃花溝には無煙炭鉱山が10坑道余りあり、大都の燃料の主要な来源であった。鉱山労働者達は「ハンマーや鑿を操り、坑道にはかがり火を焚き、裸で中に入り、蛇行鼠伏し、深さ数十里まで入ってようやく鉱石を得ることができ」、その後、鉱石を背負って出て来た。それゆえ、「身体が汚れ憔悴し、もはや人としての形無し。(残本『順天府志』巻11『宛平』。北京大学出版社)加えて炭鉱はしょっちゅう落盤事故があり、炭鉱夫は常に死の脅威にさらされていた。

 

色目人 阿合馬

第二節 大都の政治経済情況

 

民族矛盾と政治闘争

 阿合馬刺殺の暴動 フビライは漢人の儒士と軍将に頼ってハーンの位を取得し、新王朝を建設したが、間もなく李璮(りたん)の反乱(1262年)の後、漢人の脅威を感じたので、それゆえ民族差別と民族圧迫政策を積極的に推進し、且つ色目人を使って自分の手下にし、漢人を牽制し、警備した。色目人の阿合馬(アフマッド。アハマ)は皇后の媵臣(ようしん。嫁付きの下僕)として次第に親任を得て、政府の財政を主管し、更に権力を専横した。阿合馬はまた苛斂誅求し、人々の広範な憤怒を引き起こした。朝廷の中で漢人官僚と色目人官僚の間の陰に陽に繰り広げられた闘争がずっとたいへん激烈であった。

 

 東平人王著、字は子明は、小役人をしていたが、人柄が沈着で胆力があり、道義を重んじ金銭財物を軽んじ、細かい事に拘らなかった。彼は銅製の槌を私鋳し、民間の宗教団体の首領、高和尚と親交を結び、阿合馬を殺すことを自ら誓った。1280年(至元十七年)、枢密副使に任じられた張易が高和尚を、彼には秘術があり、鬼を兵にし、敵を遠くから抑えることができると、朝廷に自薦した。フビライは、和孔雀孫に兵を率い、高和尚と同行して北に行くよう命じ、王著も千戸を同行させた。高和尚は秘術の効果が無かったので戻り、偽って死んだと称し、以て欺き、急いで秘密の画策を進めた。

 

 1282年(至元十九年)二月、フビライは毎年一度恒例の通り上都に避暑に行き、阿合馬は大都に残り都を守った。王著らはこの機に乗じ発動をかけ、三月十七日、彼らは一方では兵を派遣し居庸関を抑え、一方では兵を集め儀仗を擁して大都に向け前進させ、且つ先行して吐蕃(チベット)の僧二人を中書省に派遣し、当日の夜、皇太子の真金(チンキム)と国師が京師に戻り、仏事を行うと通知した。王著本人も当日は阿合馬に会いに行き、太子がまもなく着くと通知し、すべての中書省の官吏に、東宮の前で出迎えさせた。省の中では、二人の僧が言葉を濁し、東宮の下役も彼らを知らなかったので、騙されているのではないかと疑った。宮中当直の高觿(こうせん) と尚書の忙兀兒(ぼうこつじ)、張九思が兵を集めて防衛した。この時、枢密副使の張易も王著が偽って伝えた皇帝の命令を受け取り、兵を率いて宮殿の外に駐屯した。高觿は彼に何事が起こったのか尋ねた。張易は言った。「夜になれば分かります。」高觿が何度も尋ねたので、張易はようやく耳打ちして言った。「皇太子が阿合馬を殺しに来るでしょう。」阿合馬は平素はたいへん真金を恐れていて、通知を聞くや、直ちに郎中の脱歓察儿を派遣し、城を出て出迎えた。脱歓察儿らは北に十里余り行くと、ちょうど取り囲んで入城した偽太子の一行の人馬と出会い、悉く殺害された。この隊伍は夜に乗じて健徳門を入り、東宮の西門に来て門を閉めさせた。高觿は皇太子が平素は往来にこの門を使わないので、門を開けるのを拒絶した。彼らはそれで南門に回った。東宮の前に着くと、蝋燭の光が朦朧とした儀仗の中で、偽太子が騎乗して指揮を執り、中書省の官吏を呼んで訓示を聞かせた。本当に阿合馬がおとなしく前に出てくると信じて、偽太子は厳しい声で叱責したので、王著は阿合馬を引っ張って行き、袖の中に隠した銅の金槌で彼を叩き殺した。続いてまた阿合馬の仲間の左丞の禎を殺し、右丞の張恵を拘禁した。全ての出迎えに来た官吏は口をつぐんで遠くに立ち、どうしたらよいか分からなかった。張九思はこれはペテンであると見破り、宮中で大声で警報を発した。宿衛軍の弓矢が大いに放たれ、偽太子一行の隊伍は敗走し、大多数はその場で捕らえられた。王著は立ち上がって捕らえられた。高和尚は騒ぎに乗じて逃亡したが、二日後高梁河で捕らえられた。大都の市民は阿合馬が殺害されたことで、この上なく喜んだ。聞くところによれば、「貧人も亦た衣を質入れし。歌い飲み相慶び、燕市の酒三日倶く空なり。」(鄭所南『心史・大義略叙』)

 

 事変の発生後、フビライは急いで枢密副使の孛羅(ボロト)、司徒の和礼霍孫らを大都に戻らせ乱を平定させた。王著、高和尚らは殺された。 王著は処刑前に大いに呼びかけた。「王著は天下の為に害を除き、今死なんとす!日を改め必ず私がその事を記さん。」享年二十九歳であった。張易も「変に応じて審査せず、賊に授けるに兵を以てす」により連座し誅せられた。この時の事件の計画が周密であったことにより、事件の規模と前後で関係した人物から分析すると、その背景は深刻なものであった。当時、大都に滞在していたマルコポーロは、こう記載している。 王著が阿合馬殺害の計画を決めてから、「遂にその謀が国中の契丹人の要人に通知され、諸人は皆その謀に賛成し、他の多くの都市の友人に伝え、期日を定め事を行うは、狼煙を合図とし、狼煙を見れば、およそ髭のある者は悉くこれを屠殺する。蓋し契丹人(漢人を指す)は当然髭が無く、ただ韃靼人、回教徒、キリスト教徒は髭がある。契丹人の大汗(ハーン)政府を嫌悪する者は、蓋しその任じられる所の長官が韃靼人で、多くが回教徒で、契丹人への待遇が奴隷と同じようであった。また、ハーンは契丹の地を得て、世襲権益を許さず、また兵力により、先住者を猜疑し、そして本朝に忠実な韃靼人、回教徒、キリスト教徒を任命して統治させ、契丹国以外の者であっても、こだわらなかった。」(『マルコポーロ行紀』中巻P342)これらの記載はおおよそ真実を反映しているに違いなかった。

 阿合馬の死後、彼が生前の悪だくみが暴露された。聞くところによると、ある日、フビライは一個の巨大なダイヤモンドを求め、それで皇冠を飾ろうと思った。二人の商人の報告で、彼らは以前一つの巨大なダイヤを皇帝に献上し、とっくに阿合馬に渡して取り次いでもらっていた。フビライはそのことを聞くと、直ちに人を派遣し、阿合馬の妻を調べたところ、果たして彼の家からダイヤが出てきた。フビライはかんかんに怒り、阿合馬に対して疑いを持ち始めた。真金が煽り立てる中で、阿合馬の大量の悪事が暴かれ出した。漢人の官僚を落ち着かせ、人々の怒りを鎮めるため、フビライは代わりに阿合馬を有罪にし、言った。「王著が之を殺すは、誠にもっとも也。」そして墓を暴き棺桶を開き、死体を通玄門外に晒した。その子の忽辛、抹速忽、散、都らも、各地で死刑に処せられた。(『元史・世祖紀』阿合馬、張九思、高觿諸伝及び『史集』(ロシア語訳本)第二巻、P187‐190

 文天祥、正義のために死す 阿合馬を刺殺した事件は、明らかに当時の民族の矛盾の緊張した状況を反映しており、このため蒙古統治者の猜疑心は更に深くなった。同年(1282年)十二月、また一人、名を薛保住という人が、匿名の手紙を上げて異変を告げた。それによると、宋王を称する者が、群衆千人余りを集め、二手に分かれ大都城を攻め、獄中に拘禁された南宋の丞相文天祥の奪還をたくらんでいるとのことであった。元の朝廷はこの知らせを聞いてたいへん驚き恐れ、直ちに元南宋の小皇帝、瀛国公趙㬎(ちょうけん)及び宋宗室を大都から上都に移し、並びに文天祥処刑を決めた。

 

 文天祥1278年(至元十五年)潮陽で破れて捕虜となり、翌年十月、大都に連行された。途中、絶食すること八日に及ぶも死ななかった。大都到着後、元の宮廷は厚くもてなし、上客として遇したが、文天祥は断固拒絶し、寝るのを拒み、座して徹夜した。五日後、文天祥は兵馬司に移され、手かせ足かせを嵌められ空き部屋に監禁された。十二月になって、病気のため刑具を外されたが、尚首かせは付けられ、このようにして四年の囚人生活を過ごした。丞相の孛羅(ボロト)は彼を尋問したが、彼は孛羅の前ではひざまずくのを拒み、落ち着き払って弁論した。孛羅が、彼が徳祐嗣君(すなわち趙㬎)を捨て、後継ぎに福、広の二王を立てたのは不忠ではないかと指摘すると、文天祥は激高して申し述べた。「社稷は重く、君は軽い。私が別に君を立てたのは、宗廟社稷を考えてのことである。」そして「死あるのみ。何ぞ必ずしも多く言わん」と意志を示した。フビライはしばしば人を遣って投降を勧めたが、文天祥は終始節操を固く守り、屈服しなかった。彼は獄中で宋滅亡以来の自分の詩を編集し、題を『指南録』とし、磁石の針が南を指し示すように、誓って宋を忘れないことを表した。彼が獄中で書いた『正気歌』は、「富貴は淫(惑)わす能わず、威武は屈する能わず」という高尚な品格と固い節操を述べ表した。至元十九年十二月九日(西暦128319日)文天祥は落ち着き払い、柴市口(現在の北京菜市口)にて処刑された。享年47歳であった。

文丞相祠

 元朝が全国を統一し、辺境を開拓し、祖国の多民族の大家庭を発展させる面で、積極的な役割を果たしたが、彼らの立ち遅れた統治と民族圧迫政策は、各民族の反抗の激化を避けることはできなかった。中国の各民族は、平等な連合には賛成したが、外来勢力からの圧迫には反対した。あらゆる歴史上の各民族の圧迫反対に貢献した民族英雄と同様、文天祥の、節操を固く守り、喜んで我が身を犠牲にした奮闘精神は、永遠に人々の記憶に留める価値があるものだ。

 

 両部の激戦 元朝はフビライ以降、皇位の継承はずっと朝廷の政局が動揺する重要な原因であった。蒙古の旧俗によれば、大汗は生前、後継者指定の権利を持っていたが、新たな汗が即位する前には必ず同族の親族、皇帝の姓を同じくする親族、大臣の参加する「忽里台」(クリルタイ。モンゴル語。「聚会」(集まり)の意味)での推戴が必要であった。元になって以後、漢制に倣い、立太子の制度を確立したが、クリルタイの制度は依然保持された。このことは、権臣や野心家が操縦、利用するのに都合が良かった。それに加え、元朝の皇帝は多くが短命であった。このため、皇位争奪のどたばた劇が頻発し、ひいては臣下に殺されてから公開の内戦に発展する場合もあった。

元朝皇室系図

 1323年(英宗の至治三年)、御史大夫の鉄失らが英宗を上都の南で殺した。この時、也孫鉄木耳(イェスン・テムル)は晋王の大軍を率いて漠北にいたが、皇帝に擁立された。これが泰定帝である。1328年(泰定五年)7月、泰定帝は上都での避暑の期間中に病死した。丞相の倒刺沙と梁王の王禅らは九歳の皇太子、阿刺吉八(アリギバ)を立て、位を継がせた。しかし大都に留まっていた籤枢密院事、欽察人燕帖木(エル・テムル)はこの機に乗じて政変を起こした。彼は彼の家が長年掌握していた北京の宿営軍の精鋭の欽察軍団を主力に、府庫を封鎖し、百官の印信を拘禁し、兵を派遣し居庸関など要害の地を守り、使者を派遣し速やかに江陵に居た武宗の次子、図帖睦尔(トク・テムル)を迎えて北京に来させようとした。図帖睦尔は途中、汴梁を経由し、河南行省平章の伯顔が大いに兵を徴発し、府庫を開き、従軍して北に進んだ。9月、図帖睦尔は大都で帝位に就いた。これが文宗である。この時、彼の兄の和世㻋(コシラ)はまだ遠くアルタイ山以西の地にいた。文宗は、自分が皇帝の位に就くのは、暫定的な臨時の措置であり、「謹んで大兄の至るを待ち、以て遂に朕は固より譲るの心なり」と公に意志を示した。従軍して上都に入った軍将の家族は皆大都に留まり、事変発生後、彼らは相次いで脱出して南に逃れた。阿速(アス)衛(アスト部の軍隊組織)の指揮使脱脱木、貴赤衛の指揮使脱迭も軍を率いて戻って来た。こうして大都の軍勢は大いに増強された。

 

 上都の兵はそれぞれ別のルートから大都に侵攻した。王禅らは軍を率いて南の楡林に迫り、燕帖木(エル・テムル)はその布陣が間に合わないのに乗じて、直ちに攻撃命令を出し、北軍は敗走した。この時、別の上都軍が諸王の也先帖木と遼東平章禿満帖に率いられ、既に遼東から進軍し、遷民鎮に到達していた。文宗は急いで燕帖木に命じて東に薊州に出て防ぎ止めさせた。燕帖木が正に軍を指揮して東に向かっている時、王禅の兵がまた新たに反撃してきて、居庸関を襲って破った。前軍は既に楡河以北に到達していた。燕帖木は兵を分け、脱脱木に命じて遼東兵を薊州檀子山で防御させ、自分は北軍と紅橋で大いに戦い、さらに白浮で戦い、双方の勝負は決着がつかず、互いに三日間持ちこたえた。夜に入り、燕帖木は奇兵を敵の後ろに回り込ませ、軍隊の中に入り混じって銅角(角笛)を吹かせておとりの兵とした。北軍は驚き恐れて大いに攪乱され、同士討ちを始め、軍営を捨てて我先に逃げた。燕帖木は勢いに乗じて昌平以北まで追撃し、王禅は単騎で逃走した。燕帖木は更に居庸関を回復し、兵三万を分け、防備を強化した。この時、また古北口が防御できないとの知らせが入った。また別の上都軍知枢密院事竹温台が既に石漕を侵略したのだった。燕帖木は急いで二倍の速度でそちらに直行し、その戦いの準備が整っていない隙に乗じ、40里余り転戦し、牛頭山に至り、大いに竹温台軍を破り、古北口を回復した。燕帖木が全力を傾け古北口方面の敵軍に対応している時に、遼東軍は既に通州を陥落させ、北京を攻撃しようとしていた。燕帖木は急いで軍の先陣を動かし、101日の夕刻、通州に迫り、敵軍がここが初めてで不慣れなのに乗じ、足場が不安定なところを急襲し、遼東軍は狼狽して潞河(北運河)を渡り敗走した。5日、両軍はまた檀子山の棗林で大いに戦い、遼東軍は大敗した。上都軍の三方からの北京攻略は、何れも撃退された。

 

 北からの圧力がようやく軽減されたが、諸王の忽刺台が率いる四番目の上都兵が紫金関を出て、良郷を侵犯し、騎兵が北京都城の南郊に迫った。7日、燕帖木はまた旋風のような速度で諸軍を率いて北山に沿って西に行き、馬の轡(くつわ)をはずし、口の下に袋を結び草や豆を盛って馬に食べさせ、昼夜兼行で馬を走らせ、突然盧溝橋に現われた。忽刺台は一目見ると大いに驚き、気勢に押されて西に走った。翌日、燕帖木は凱旋して帰還し、粛清門から入城した。同じ日、禿満迭(帖)がまた古北口を入ったが、燕帖木が再度出征し、檀州の南で大いに敵軍を破り、禿満帖は遼東に逃げ帰った。

 

 北京郊外で激戦が正にたけなわであった時、同時に湘寧王八刺失里、趙王馬扎儿罕が上都軍の冀寧侵略に呼応し、陝西行台御史大夫也先帖木も軍を分け三つのルートから東を侵し、河南からは既に虎牢に到達していた。四川行省囊家台、雲南行省也吉尼も、兵は遠いと称して呼応した。全体の形勢は文宗と燕帖木側に不利であった。ちょうどこの時、東北に駐軍していた燕帖木の叔父、東路蒙古元帥不花帖木と斉王月魯不花は偽って上都を包囲し、倒刺沙らは絶えられず投降した。上都集団の支持者たちは敗戦を聞くと相次いで解体し、文宗燕帖木は意外にも間もなく勝利することができた。双方の混戦の中で、北京郊外はひどく破壊され、北京東方の地は、「野に居民無し」という状況だった。加えてこの年、天災が危害を与え、中国全土で飢えた民が何百万何十万に達し、流民が相次ぎ、折り重なって死亡した。

大都の水問題解決、白浮堰の水源、白浮泉

第一節 大都の建設

 

 

大都の規模(続き)

 皇城は城の南部の中央で西に偏っていた。これは皇城が設計上、太液池(今の北海中海)の景観を十分に利用して造成したいと思ったからである。皇城の北は海子である。海子は一名を積水潭と言い、西北の諸泉の水を集め、都城に流れ込んで、ここにひとつに集まったものである。海子付近は繁華な商業区域であった。太廟は宮城の真東、斉化門の内側にあった。社稷台は宮城以西にあった。これらは皆、古の制度の王都は「左に祖廟、右に社稷。朝廷に面して市場は後ろ」の原則に則り、配置された。海子の東岸には中心閣があり、この高閣のやや西に石が置かれ、その上に「中心之台」と刻まれていて、これは全城の幾何学的中心であった。城南の正門の麗正門から中心閣まで、南北に走る直線は城全体の中軸線で、宮城の主体建築はこの中軸線によって均衡を取って展開した。専門家の研究によれば、中心閣の場所の選定は、中心閣から麗正門に到る距離により確定し、城全体の四方の境界の基準となった。これにより客観的な地形を合理的に利用し、また建築効果を十分に突出させる目的を達成した。こうした独創的な設計規格は、たいへん高い創造性を表していた。

元大都和義門遺跡

 都市の水供給の問題は、フビライ金の中都の旧跡を放棄し、太液池海子湖沼地区を新たな都市区画として選択した重要な要素であった。金の中都は蓮花池の諸河川を利用したが、流量に限りがあり、拡張された大都市の需要を満たすには不十分であった。海子には高粱河が流れ込み、金代は玉泉甕山泊(今の昆明湖)の諸河川が東南に流れ、高粱河の水量を拡大した。特にフビライの晩年に郭守敬通恵河を開鑿した時、白浮堰を修築し、昌平の東南で神山、一畝の諸河川を引いて注入したので、流量は更に増加した。

白浮堰

郭守敬はまた海子の水を東に引き、皇城の東壁に沿って南流させて城を出て、金朝が開鑿した金口河下流の河道と出会って東流し、大都と通州の間の運河である通恵河を構成した。宮廷の庭園の用水を保証するため、元朝はまた特に金水河を開鑿し、玉泉水を引いて和義門の南を経て城に入れ、方向を変えて南流させ、西南角から太液池に注ぎ込んだ。流れる水をきれいにするため、金水河の中で手を洗うことは厳禁であると公表された。水源の開発、利用で、大都の園林の景観がはぐくまれ、商業や交通も繁栄した。

郭守敬の通恵河開鑿

 城中の街道は、『周礼』の原則に基づき、南北と東西に走る幹線道路はきれいな方形に区画された碁盤形となった。南から北に到る道をと言い、東から西に到る道をと言った。大街(大通り)は二十四歩の幅、小街は十二歩の幅とし、三百八十四の火巷(火事の延焼を防ぐために設けられた横丁の小道、胡同の原型)、二十九の衖通巷通胡同の原型)があった。「道の端からもう一方の端を見渡すことができた。蓋しその配置は、こちらの門から街路を通じて遠くあちらの門を見渡すことができた。」官僚や貴族の邸宅も、八畝(1畝(ムー)は6.667アール。1アールは100平米)を一区画としていた。このため、坊巷(小路。町内)もたいへん規則正しく整っていた。当時、巷道を衖通、或いは故同と呼んだ。これは蒙古語の「水井」(井戸)の意味である。考古上の発掘調査で分かったことは、当時富豪の屋敷はゆったりした敷地になっていて、ある家屋(例えば后英房遺跡)の外壁の下部には「磨きレンガの継ぎ目が合う」ように積まれていて、室内は四角の磚が地面に敷かれ、彫刻で飾られた華麗な格子門が取り付けられていた。貧しい人々の家はたいへん簡単で粗末であった。城市の北部は土地が広いが住む人は少なく、貧民の居住区であった可能性がある。

 

 宮殿 城南の麗正門から入城し、北に七百歩進むと、まっすぐ皇城の霊星門の千歩廊に通じていた。皇城は元代には蕭墻と呼ばれ、俗には紅門欄馬墻と呼ばれ、周囲約二十里10キロ)であった。霊星門の内側は数十歩歩くと川が東に流れ、川の上には白石橋が三本架けられ、周橋と呼ばれた。石の欄干の上には龍鳳瑞雲の図案が彫り刻まれ、玉のようにきらめいていた。橋の下には四匹の白石の龍が置かれていた。河岸は悉く柳の木が植えられ、青々と茂っていた。西側は遥かに西宮と海子が望まれた。橋を渡って約二百歩で、宮城崇天門であった。宮城の周囲は九里三十歩で、城壁の高さは三丈(1丈は3.3メートル)五尺であった。城は長方形を呈し、崇天門の両側は、右が星拱門、左が雲従門であった。東西両側には東華門、西華門があった。北は厚載門である。星拱門の南には御膳亭があり、亭の東には拱宸堂があり、百官が会合する場所であった。宮城内の建物は、主に二組に分かれ、前方が大明殿、後方が延春閣で、全城の中軸線上に均衡を保って配置された。大明殿は、皇帝が即位し、正月、長寿祝いの時の朝臣との謁見、聴政の場所であった。青石に模様の刻まれた礎石、白玉の石園の置き石(磶。セキ)、紋の入った石とレンガを敷いた地面、上に敷いた重い敷物(裀。イン)、朱を塗った柱に金の飾り、龍がその上にからみついていた。四面に朱の鎖模様の透かし彫りの付いた格子窓、飾り天井の間には金の絵が描かれ、燕石(燕山産の玉に似た石)で飾られていた。二重の階(きざはし)に朱の欄干、金色に塗った銅製の鵃(トウ。ハトの一種)が飛び立とうとしていた。中に七宝の雲龍を設けた皇帝の御座、白い蓋の金縷の褥(しとね。敷物)。また后位も設けられた。諸王百寮(百官)、怯薛(禁衛軍)は宴席では左右に並んで侍っていた。前面には貯めた水を動力とする自動灯漏(時計)が設置され、小さな木の人形が時間になると木の札を取り出して時を告げた。御殿の中には木製の大樽が置かれ、内側は銀で包まれ、外側は金で包まれ、上面は雲龍が取り巻き、高さは一丈七寸、酒を五十石(1石は100升)余り蓄えることができた。彫像と酒卓が一脚あり、長さ八尺、幅は七尺余りであった。この他、たくさんの楽器が陳列され、その中には興隆笙があり、この楽器はパイプが九十並び、六列に分かれて柔らかい革袋につながり、ユウガオの実を使って圧縮した空気を送り、パイプによってリードの音が鳴った。笙の首は二羽のクジャクになっていて、笙が鳴って動くと、音に合わせてクジャクが舞った。およそ皇帝が宴席を催す時に、この笙が鳴らされると、他の楽器も合奏し、笙が止まると、他の楽器も演奏を止めた。皇帝、皇后、諸王、 禁衛軍の人々が席に就き、酒甕、酒卓と興隆笙を準備した。これはモンゴル初期の和林での宮殿内の配列と同じで、明らかにモンゴルの古い習慣を踏襲したものだった。伝えられるところでは、フビライは漠北からジンギスカン居地の莎草(ハマスゲ)を一株、内裏の赤い階(墀。チ)の下に移植し、これを「誓倹草」と名付けた。その意味は、子孫にモンゴルの元の純朴な風習を保つよう戒めたのだ。大明殿の東側には文思殿、西には紫檀殿があり、後ろは回廊があり寝殿に通じ、その周りを回廊で囲まれ、前門に通じ、前面には金紅(黄色っぽい赤)の欄干が取り巻き、一面に花が描かれていた。ここは妃や後宮の女たちの居所であった。

 

 寝殿の後ろは宝雲殿で、更に北へ行くと延春門、つまり延春閣で、階段があり、東側から三回折れ曲がって上に上がった。二重の軒、模様の付いた石畳の階、色とりどりの柔らかい毛の敷物が敷かれ、庇と帳が共に具わっていた。白玉の二重の階。朱の欄干。楼閣の上には皇帝の玉座があり、回廊の中に小山のような衝立とベッドが置かれ、これらは皆、楠で作られ、金の飾りが施されていた。後方の寝殿の中には楠でできた寝台が設えてあった。皇帝は通常ここで大臣と謁見し、仏事を修めた。楼閣の東には慈福殿があり、西には明仁殿があった。楼閣の後ろは清寧宮で、長い回廊で遠く延春宮と繋がり、何れも妃や側室たちの居所であった。その後ろが宮城の北門、厚載門で、御苑はここにあり、用水は玄武池から引かれ、吸水して植えられた花や木、五穀や瓜、野菜に灌漑された。

 苑囿 1162年(中統三年)、フビライは金代の瓊華島に手を加え、駐蹕(ちゅうひつ。帝王が行幸中に一時乗り物をとどめること)の場所とした。宮城の建物が完成後、ここを万歳山と改名し、宮苑の中心とした。

 

 万歳山は大内裏の西北、太液池の南にあり、南側に長さ二百尺(約67メートル)余りの白玉石橋があり、池の中心の園坻(池の中の小島。今の団城)と通じていた。小島の上には儀天殿があった。その東側には木の橋があり、大内裏の挟垣に通じていた。万歳山の上は山の峰や尾根が微かに映し出され、奇石、奇岩が巧みに配され、松やヒノキが生い茂り、その景観はあたかも自然にできたもののようであった。マルコポーロは挿絵を描いてこう記述した。万歳山は「人力で築いたもので、高さは百歩、周囲約1マイル(1.6キロ)である。山頂は平らで、一面樹木が植わっており、木の葉は落ちず、四季を通じ常緑である。」「世界で最も美しい木は皆ここに集まっている。君主はまた人に命じて瑠璃鉱石でこの山を覆わせた。その色は甚だ青く、これにより木の緑だけでなく、その山もまた緑で、全部が緑一色になった。ゆえに人々はこの山を緑山と呼んだ。」白玉石橋を巡って山の南に到ると、ここは奇妙な形の石が林立し、左右両方に山に登る道があり、「万石の中をめぐり、洞窟を出入りするうち、道に迷ったかのようになる。」山の中腹には仁智、荷葉、介福、延和の諸殿があった。山頂には広寒殿があった。至元二年(1265年)磨いて作られた瀆山大玉海(とくさんだいぎょくかい)はここに置かれ、「玉には白い模様があり、その形に合わせて魚や獣の形を刻み、波濤のような形状が表れた。その大きさは酒三十石あまりが貯蔵可能であった。」

瀆山大玉海

ある種の巧みな機械動力を通じ、また金水河の水を山の後ろで汲んで山頂に上げ、ひとつの石龍の口から流して方池に入れ、その後伏流して仁智殿の後ろに到り、石で刻まれた首を上げたとぐろを巻いた龍の口から噴出させ、東西に分流して太液池に入った。山の東は霊囿で、様々な奇禽異獣を飼育していた。

元大都城復元図

第一節 大都の建設

 

大都の建設

 燕京等の場所で尚書省の統治が行われる 中都の陥落後、ジンギスカンは直ちに腹心の汪古児(オングル)らを派遣し、勝手に収奪を行い、大量の金銀や金銭を荷造りして積み込み、持ち去った。

 

 戦火の下で幸運にも生存した中都の居住民は、孤立した城の中に久しく閉じ込められた後、食糧が無くなり、城中では人が人を食うような惨状まで出現した。蒙古に投降した漢人の将軍、王檝(おうしゅう)の要求により、蒙古の統治者は軍士(下士官)に兵糧を与え、城に入って転売するのを許可し、これにより飢餓の脅威を解決した。当時、城中に蓄積した貨物は、交易するところが無く、遂には銀を飼葉桶、金を酒かめに換え、大なるは千両にもなった。王檝の提案を実行したので、「士は金銭、織物を得て、民は食糧を獲た。」王檝はまた官吏を盧溝橋に派遣するよう提案し、十の中で一を取り、軍士が掠奪した耕牛を捜し出して、農民に与え、一部の農民は復業することができた。ジンギスカンの統治時代、王檝は宣撫使の肩書で職人たちを統率し帰順させた。施雷が監国であった時代、彼はまた汪古部(オングート部)の監国公主の命令により、中都を領有した。彼はこの時期、蒙古の政治代理人となり、中都地区の責任を負う重要な官吏の一人であった。当時、都城の廟学(孔子廟内の学校)は兵火で破壊され、1229年に王檝が旧枢密院の場所に再び廟学を建設し、春と秋に太学の学生を率いて釈菜礼を行い、昔、岐山(陝西省岐山県)の南で見つかった石鼓を庇(ひさし)の下に並べた。士大夫はこれは儒教の道の再興であると称賛し、礼楽の教化が再起した盛事であった。しかし実は、この時期の中都は、極めて不安定な状態にあった。ただ1228年についてだけ言っても、都の南で信安鎮の人々の反抗運動が発生した。反抗者は北山の李密と結びつき、近郊の各県に侵攻した。中都城内の秩序もたいへん混乱していて、盗賊が横行し、甚だしきは車を走らせて強奪を行い、止めることができなかった。施雷は使節を派遣し耶律楚材と共に驛馬を走らせ燕に来て、これらの強盗は皆、権勢家の子弟であることが判った。楚材は処罰を厳格にするよう提案したので、城中の秩序は多少安定した。同時期に燕薊留后長官に任じられた石抹咸得卜は、甚だ貪欲で、殺人が市中で頻発した。別の蒙古将官三模合は金の飾りの付いた龍のベッドで寝て、金の腰掛けを踏み台にしたが、このように贅沢を尽くし、またそれを求めるのをやめなかった。当時の中都の人々は塗炭の苦しみの中にあった。こうした状況の中で廟学を再開したものの、虚偽の粉飾であるに過ぎず、当然維持継続するのは難しかった。

 

 1234年、オゴタイが金を滅ぼして後、胡土虎中州(河南。黄河の中、下流域)の断事官にし、そこに居住する各戸を収奪し、租税を搾り取り、諸王や軍将に領地を分け与えた。南宋の使者の徐霆は、この胡丞相が曾て燕京でひどい搾取を行うのを自分の目で見たことがあり、「下は教師や乞食に至るまで、銀を出させて租税、徭役の対価とした。」燕京で教師を生業とする者が詩を作って言う。「教学を行う中で銀を納めねばならぬ。生徒は少なくあまりに清貧である。金馬玉堂の盧景善、明月清風の範子仁李舎才は道徳の講義をするのを認め、張齋恰は雨乞いの祈祷をする者を受け入れた。相次いで胡丞相に報告したが、この時は「捺殺因」(蒙古語で”好”)を免れた。」これと同時に、蒙古の統治者はまた入札で税を課す権利を売る(税の請け負い)方策を進め、例えば劉庭玉は五万両で燕京の酒税権を買った。これらの豪商は、任意に税額を増加させ、その中から利益を得、重い搾取を受けていた燕京の人々が、更に決まった額以上の苛酷な搾取を受けることとなった。

 

 モンケがハーン(汗)の位に就いて後、燕京などの地域には尚書省を置き、牙刺瓦赤、不只児、斡魯不、賭答児などを断事官にし、天下の全ての財を燕に授けた。同時に皇弟フビライに漠南(蒙古高原大砂漠以南の地)の漢地の軍事、国事、全てを管理させた。 不只児(ブジル)は任を就いた初日に28人を殺した。一人は馬の窃盗犯だったが、既に杖で打たれて釈放されていた。ちょうどこの時に環刀を献上しに来た者があり、彼は釈放された男を追いかけ、自らその男を殺してこの刀を試した。このような暗黒状態に置かれた燕京の人々は、生命の保障も全く存在しなかった。

 

 大都の造営 1211年にジンギスカンが金を討伐してから1260年にフビライが元朝を建てるまでの半世紀の中で、蒙古軍は絶えず中央アジア、東欧で侵略戦争を発動し、ヨーロッパとアジアに跨る大蒙古国を打ち立てた。この時、汗国の政治の中心は依然として蒙古草原上の哈刺和林カラコルム)であった。燕京は蒙古の統治者が華北、中原を統治する重要な拠点であるに過ぎなかった。フビライは漠南漢地の軍隊と民事の総理を任されて後、駐留地点を草原の端の開平(今の内蒙古正蘭旗の東)に選定し、カラコルムと華北の間の連絡の便を図った。1260年、モンケが死んだ。フビライは急いで鄂州の北から燕京に戻り、直ちに開平で大汗(ハーン)に即位すると、カラコルムの留守を守っていた弟のアリクブケとハーンの位の争奪戦を展開した。フビライは燕京を基地とし、東部諸王や漢人の将軍、読書人、謀臣の支持の下、草原の貴族や保守勢力を代表するアリクブケを打ち負かした。そして積極的に古い制度を改変し、中原の経済の基礎におおむね適応する封建王朝を打ち立て、礼儀を制度とし、漢人の法令を遵守し用いた。元朝初期、フビライの都城は依然として開平にあり、上都と称した。同時に燕京に「宮殿を建立し、省部を分立」して華北、中原地区の統治を併せて顧みることを決定し、戸籍により財政や租税収入を保証し、また今後の遷都のために必要な準備を行う必要があった。このため、彼は1264年(至元元年)燕京を中都と改名し、府の名前は旧来のまま大興とした。

 

 中都の造営は1267年(至元四年)に始まった。前年の十二月、安粛公張柔、工部尚書に任じられた段天祐など同行の工部の官吏に詔して宮殿建立を準備させた。その前後に造営事業に参加したのは、その他に高鐫、野速不花、王慶端、張弘略、劉思敬、及び西域人也黒迭児などがいた。城の土地の測量、宮城の建築計画は主に劉忠、及び助手の趙温、趙鉉より出された。金の中都の旧城は金から元の間の半世紀に破壊されていたので、フビライに旧城址を放棄する決意を促すこととなり、旧城の東北、金代の瓊華島離宮を中心として、新たな都城を建設した。新城は高粱河の下流を選び、宮殿の庭園の水源について、より一層の改善をすることができた。木材や石などの建築材料を輸送するため、再度金口の開鑿を行い、盧溝河の水を引いて西山の木材や石を水路で輸送した。

 

 工事は極めて迅速に進んだ。1267年(至元四年)四月、宮城を新築した。翌年十月には、宮城が完成した。1271年(至元八年)内裏の建設を始め、正式に国号を「大元」と定めた。1272年(至元九年)二月、中都を大都と改め、元朝の首都と定めた。そして元の開平の上都は、毎年夏秋の季節に避暑をする行宮とした。1274年(至元十一年)正月、宮殿が完成し、フビライが正殿の使用を始め、諸王百官の朝賀を受けた。1276年(至元十三年)、城が完成した。1285年(至元二十二年)二月、「詔を発し、旧城の居民の新しい旧城への転居について、身分が高く役職に就いている者を先にし、従来通り、土地八畝(一畝は6.667アール)を一分(一区画)とすると定めた。土地が八畝を越える者や、力が無く屋敷を建てることができない者は、みだりに土地を占拠してはならない。居民の意見を聞いて部屋を作るよう定めた。」貴族や功臣は、悉く封地を受け、屋敷とした。1293年(至元三十年)、最後に大都の東で通州とつながる通恵河が完成し、南北を貫く経済動脈である大運河と接続し、大都全体の造営事業がようやく完成した。このような大規模な土木工事は、主に金から元へ移り変わる時期に長期の騒乱の辛苦を経験し、活力がようやく少しばかり回復しつつあった北方の人々の負担となり、至元四年から十二年までの間、ほぼ毎年幾千幾万という農民や兵士が徴発され、労役に服することとなった。例えば至元八年(1271年)、「中都、真定、順天、河間、平灤の民二万八千余りの人を徴発して宮城を築造した。」元朝政府には「都城修築の詔勅では、凡そ費用は悉く官より給し、諸民から取ること勿れ。並びに樹木伐採の賦役は免除すること」の規定があったが、実際は只の空文に過ぎなかった。徭役のため北方の幅広い人々にもたらした苦しみは、疑いなくたいへん重いものだった。

 

大都の規模

 

 大都の設計思想は、『周礼・考工記』に規定する「匠人が国を営み、九里四方、傍らに三門、国中は九経九緯、経塗(縦方向の大通りの幅)は(馬車)九軌(が並んで走れる幅)。左に祖廟右に社稷、正面に朝廷、後ろに市場の原則を完全に遵守していた。『周礼』は儒家の政治理想の青写真である。元の大都は完全に平地の上に計画的に建造された。少しも過去の因襲による制約を受けておらず、このためある程度までこうした理想が形を変えて実現することができた。フビライは国号を「大元」と定め、「蓋し『易経』の「乾元」の義を取り」、以て「百王を継ぎ常道を行く」と授受の正統を顕示した。彼は年号を「至元」としたが、これも語源は『易経』の「至る哉坤元」から採られた。その他、例えば宮殿の名前は大明、咸寧。城門の名前は健徳、雲従、順承、安貞、厚載、これらも同書の乾坤二卦之辞から採られた。これらは皆、当時フビライが「漢法」を行い、「礼儀制度、漢法を遵守、適用」する、部分的な内容である。これらを通じて、フビライは、新たに打ち立てた蒙古と漢の封建領主連合の専制新王朝が、中原王朝の正統で合法な継承者で、以て漢人地主や士大夫の支持を勝ち取り、また次のステップで南宋を滅亡させ、全国を統一する思想上、輿論上の準備を極めて強く示した。当時、フビライの政治担当の設計師であった劉忠は、出家してまだ還俗していない儒者であり、「『易』及び邵氏の『経世書』より更に深遠であった」。元の大都の宮城の設計思想は、このような歴史背景の下でもたらされたものである。

 

 元の大都城は世界で最も輝かしい都市であった。その建築規模、建築技術、科学的な構造や工事のレベルから見ても、世界のその他の都市とは比べることができなかった。ここはまた当時の世界が嘱目する政治、商業と文化の中心のひとつであった。西方の人は習慣上、ここを「汗八里」と呼んだ。「八里」は突厥語で「都市」の訳である。「汗八里」はすなわち「大汗の都城」(ハーンの都)ということである。ここは雄壮、豊か、華麗さにより、幅広く西方で称賛、羨望されていた。

 城市 大都は北に位置し南を向き、規則的な長方形をしており、その南壁は今日の北京市の東西長安街の南側で、北壁は徳勝門外八里の小関の一線で、土壁の遺跡は、さながら尋ねることができそうである。東、西両側の南の部分は、おおよそ後に城壁で結合された。城の周囲は実測で二万八千六百メートルで、十一の城門があった。正面中央が麗正門(今日の天安門の南)、南の右は順承門(今の西単)、南の左は文明門(今の東単)、北の東は安貞門(今の安定門小関)、北の西は健徳門(今の徳勝門小関)、真東が崇仁門(今の東直門)、東の右は斉化門(今の朝陽門)、東の左は光熙門(今の和平里東)、真西は和義門(今の西直門)、西の右は粛清門(今の北京師範大学西)、西の左は平則門(今の阜成門)であった

元大都城

著名な旅行家マルコポーロはこう記している。「全城に十二の城門があり(記憶の間違い)、各城門の上には宮殿があり、頗る壮麗である。城壁の四面それぞれに三門(北側は実際は二門)、五宮、各角にもそれぞれ一宮が建ち、壮麗さはそれぞれ等しい。宮中には広大な御殿があり、その中では守城者の兵器を蓄えていた。」城壁は土を突き固めた版築が用いられ、基部の厚さは二十四メートルに達した。

徳勝門外土城、元大都健徳門古跡

マルコポーロの記載では、土壁は「壁の根の厚みは十歩だが、高くなるほど厚みが削られ、壁のてっぺんは三歩しかない。あまねく女壁が築かれ、女壁は色が白く、壁の高さは十歩である。」土壁を保護し、雨水のしみ込みを防ぐため、葦(あし)で覆われていた。また文明門の東五里の所に葦場を設立し、毎年葦を収穫し、葦を編んですだれ状にして使用に供した。張昱の『可閑老人集・輦下(天子のおひざ元、帝都)曲』に言う。「大都の周囲には十一門有り、土で築かれた草葺きの哪吒 (北京城の別称)。讖言未来の吉凶禍福の予言)で、もし磚石で包まれていたら、その姿は天王が鎧兜を身に着けているかのようだろう。けれども元の時代を通じて、遂に磚で包まれることはなかった。

元大都城平面略図