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中国語学習者、Congziのブログ

京都で中国語の通訳案内士をしている、Congziです。このブログでは、これまで集めた中国語書籍の翻訳を投稿しています。中国史や中国文学が中心ですが、タイトルを見ておもしろそうだった本もあり、内容は雑多。ご自由に立ち読みしていってください。

山海関

第四節 北京での大順政権(続き)

大順政権の経済措置

 李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷やその他の財産を取得し、そして「貧しい人々が富家になった」。

 農民軍はまた一貫して商工業保護の政策を執行した。明朝統治者の、都市の商工業者への苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。横征暴敛)、ゆすりたかり(勒索)をほしいままにし(肆行)、このため都市部の不景気を引き起こしている状況に対し、農民軍は「安く買って安く売る」経済政策を実行し、公平な取引を行った。農民軍が北京にいる期間、北京城内外の住民たちが盛んに往来し(熙来攘往)、各々が安心して生業を行った(各安生業)だけでなく、ひいては依然として地主統治下の江南地区の商人たちも、次々夏物の衣類、扇、茶葉などを満載して北方に来て商取引を行った。

 明末の銭法はたいへん混乱した。明朝廷は膨大な支出に対応するため、およそ兵馬処にも即時に炉を開いて銭を鋳造するよう命令したので、崇禎銭はこれにより百種類余りに達し、また品質も極めて劣悪で、手で触れば割れてしまうものさえあった。明朝の中期には、紋銀(純度の高い銀)一両の値が銭6百であったが、崇禎期になると、銭56千でようやく銀一両と両替することができた。こうした状況は商品の流通を甚だしく阻害し、人々の生活に影響を与えた。農民軍が北京に入城すると、直ちに鋳銭局を24か所開設し、至るところで銅器を回収して銭を鋳造し、鋳造した永昌銭は「重くて大き」く、品質もたいへん良く、このことは当時の社会経済発展に有利であった。

 大順政権はこれら一連の封建地主打倒と人々の生活改善の措置により、人々の支持を受けた。彼らは次のように歌った。

 「金の国、銀の国、闖王(李自成)の国では税金の取り立てをしなかった。」

 「星を眺め、月を眺め、闖王が意見を出すのを待ち望んだ。」

 

農民軍の北京退去

 農民軍の北京入城後、中国全土の政治情勢は錯綜し複雑に変化した。明王朝の中央政権は打ち倒されたが、地主たちは武装し、消滅していなかった。江南地域では、様々な復古勢力が一か所に集まり、ちょうど小さな朝廷を打ち建てるのを画策し、数十万人残った軍隊を頼りに、大順政権の打倒を画策した。大順政権がコントロールしている地域では、地主階級も一定の力を持っており、ある者は砦(とりで)を築いて反抗し、ある者は復活の機会を待ち、ある者は愚かにもなんとか大順政権の性質を変えようと企(くわだ)てた。東北地区では、虎視眈々と勢力拡大を狙った満州貴族がちょうど山海関に盤踞した明朝総兵の呉三桂と一緒に結託し、大挙して関所の内側へ侵攻する準備をした。北京は随時反攻を受ける危険に迫られていた。

 こうした危なく恐ろしい情勢を前にして、農民軍の前に置かれた主要な任務は、如何にして地主階級の捲土重来の野望を防ぐか、如何にして満州貴族の軍事侵攻を防ぎ止めるか、また勝ちに乗じて前進し、逃げ場を失った敵を追撃、殲滅することだった。レーニンはこう言ったことがある。革命の進んで行く過程で、「第一に勝利に酔いしれてはならず、驕り高ぶってはいけない。第二に自らの勝利を強固なものにしなければならない。第三に相手を徹底的に壊滅させなければならない。なぜなら相手が打倒されただけでは、まだ壊滅していないからである。」(『スターリン全集』第6P47『レーニンを論ず』より引用)しかし農民軍の指導者は、李自成のような傑出した人物も含め、ちょうどこうした問題について、冷静な認識が不足していた。彼らは大順政権を打ち建てたけれども、つまるところ新たな生産関係を代表していなかったので、結局は新たな制度を生み出し腐敗した封建制度を代替えすることができなかった。彼らは「均田免糧」の革命スローガンを打ち出したけれども、封建土地所有制と封建搾取を廃除する政治綱領を持たなかったし、そういうものを提起することもできなかった。農民軍に対し、次にどうすべきかさえ分からなかったし、なすべきことも全く分からなかった。彼らは短期間のうちに軍事上輝かしい成果をあげたが、それでのぼせ上り、勝利のよろこびにふけるうちに、「勝利に驕り高ぶるという過ちを犯した」。その最初の現れは、農民軍の中に相当深刻な平和ボケの思考がはびこったことである。多くの農民軍の下士官、兵卒が人に託して家への手紙を代書してもらい、父や子、妻に送り、戦争に対してうんざりし、家に帰ってまた農業をしたいという願望を伝えた。相当多くの農民軍の士官、兵士が、戦乱がまだ鎮まらない時期に、慌ただしく北京で結婚し、所帯を持った。その次の現れは農民軍将校の敵への軽視であった。彼らはヤマイヌやオオカミが前におり、虎やヒョウが後ろにいるという厳しい情勢下で警戒を怠り、明朝は南方の軍事勢力で、「檄を飛ばせば下せる」と考え、劉宗敏らは更に呉三桂など眼中に無く、山海関は「猫の額」(弹丸)ほどの土地で、「京師の一角に当てるに足らず、靴のつま先で倒すのみ」と考えた。よしんば最もまじめでつつましく、身を清く保ち悪に染まらなかった李自成でさえも、明朝の投降した官吏がほめたたえるのを聞くと、うれしさが顔色に現れ、浮つくのを免れなかった。このような情況下、農民軍内部の指導グループの不一致が次第に表に現れ、三つの異なる考えが出現した。

 一つ目は流寇(逃げ回って拠点を持たない匪賊)主義の考えである。李自成の軍隊の中は、流民、辺境守備兵、驛卒が大きな比重を占め、こうした人々は流寇主義の風習を色濃く帯びていた。流寇主義は克服されなかったばかりか、却って大きくなった。劉宗敏、李過、田見秀らがこうした思想の代表である。彼らはしばしば互いに信服せず、甚だしくは命令に服従しなかった。李自成が彼らに呉三桂を攻撃させようとした時、 劉宗敏はなんと「馬賊を以て馬賊を拝し、誰も膝を屈するを肯ぜず」という考えに支配され、出征を拒んだ。

 二つ目は官僚地主思想である。農民蜂起の盛んであった時に加わった地主階級の知識分子である牛金星、宋企郊、宋献策らが代表である。彼らは北京入城後、その本来の姿を露呈し、百方手を尽くして革命政権をむしばみ、大順政権を封建政権に変えようとたくらんだ。牛金星は極力門人を招き寄せ、私人を任用し、彼の政治権力を拡大しようとした。李自成の東征時、彼は北京で「大轎(大かご)、門棍(ドアの柱)、金を撒いた扇の上に「内閣」の文字を貼り、玉帯、藍の長衣、丸い襟の衣服を身に着け、行き来し訪問し、あまねく同郷の者を招請した」。宋企郊も私利をはかり賄賂を取り、「その親戚、友人を私のものとした」。宋献策は天文現象で以てデマを作り出すのを得意とし、先ず李自成を「十八子、主神器」と言ってほめたたえた。北京入城後、重用されなかったため、至るところで李自成が「ただ馬上王に留まり、数年入り混じって亡くなる」、「秦に遇って興り、魯に遇って亡くなる」などと触れまわり、下心を抱いて軍隊の士気を動揺させた。彼らは後に形勢が少し不利になると、投降せず、雲隠れ(逃之夭夭)した。

 三つめは李岩思想である。李岩は政治上かなり先々までの見通しを持っており、劉宗敏らの流寇主義のやり方に反対しただけでなく、牛金星らの腐り果てた行為をも反対した。彼はいくらか適当な改革を実施し、速やかに新たな封建秩序を打ち建てることを希望した。李岩は曾て李自成に向け四つのことを直接諫言した。一、早期に即位し皇帝を称する。二、「追餉(追赃助饷。贓品を追求し取り立て、農民蜂起鎮圧の軍費調達に当てる)」は刑部が責任を持ち、汚職行為、投降拒否、清廉の三つの情況に基づき、対応を区分けする。三、城内に住む軍隊を城外に移し、軍紀を整頓、訓練を強化することにより、征戦に備える。四、呉三桂を宣撫する。これらの建議は完全に正確とは言えないが、一部は合理的であり、実行して差支えないものである。遺憾なのは、李岩の主張が十分に重視されることがなく、李自成もただこれに「分かった」と意見を記したのみで、実行することはなかった。

 しかし、こうした農民軍の分裂はまだあまりたいへん深刻な程度にまで強まっていなかった。農民軍を北京から退去するよう迫った主要な原因は満漢各族の統治者が結託して後形作られた階級勢力の力の割合の変化にあった。

 封建地主と農民軍の間には本来調和できない矛盾が存在した。大順政権が北京で推進した一連の農民の利益を代表する措置は、封建地主の農民軍に対する憎しみと反抗をなお一層激しくさせた。農民軍が北京入城後間もなく、官僚地主は、ある者は「雇用労働者になったり、僧侶や道士の姿にあることに承諾」し、次々城外に逃亡した。ある者は積極的に兵器を集めて、秘密裏に大順政権を転覆させる暴動を引き起こすことを画策した。宣武門大街に「明当に中興すべし」の張り紙が出現した。西長安街には「東宮を立てて帝と為し、義興と改元すべし」との私的な告示が現れた。北京付近の地区の封建地主は更に勝手気ままに暴れ狂い、至るところで反革命武装を組織し、農民軍の占領する県城を襲撃し、また人を激怒させる残酷な手段を使って、彼らの手の中に落ちた農民軍の官兵を野蛮に殺害した。

 なおいっそう危険なことには、清軍が正に速度を倍にして関内に向け前進しており、大順政権の安全に深刻な脅威を与えていた。

 山海関を鎮守する明の総兵、呉三桂は、10数万の関寧鉄騎(明朝の辺境を守る騎馬軍団のひとつで、関は山海関、寧は寧遠(遼寧省南部、今の興城市))を掌握し、同時にまた清軍が入関するのに通らなければならない要道を守っていた。彼の向背(従うのか背くのか)が、大順政権の安否に関係する重大問題となっていた。李自成は曾て様々な方法を用いて呉三桂を味方に引き入れていた。呉三桂はずっとぐらつきながら、自分を高値で売ろうとした。商談は半月以上続いたが、依然少しも結果が出なかった。412日、李自成は自ら20万の大軍を率いて東征し、呉三桂問題を解決しようとした。この時、呉三桂は逃亡した官僚地主のところから農民軍の北京での情況を理解し、農民軍に対する恐れと憎しみを深めた。彼は自分の武力だけでは、根本的に農民軍と対抗することができないと知り、清軍と結託し、共同で農民軍を鎮圧する決心をした。搾取階級の本質は、彼をむしろ満州貴族の手先となる方が良く、また農民革命政権が引き続き存在することは容認できないと判断させた。呉三桂はそれで一方では檄文を発し、地主階級が共同で農民軍に向け反撃するよう呼びかけた。一方では清軍に投降し、清軍が迅速に入関するよう促した。満州貴族は過去に李自成が率いる農民軍に書簡を送り、彼らと連合し、共同で明朝の天下を奪い取ろうと要求したが、李自成が北京を攻略した後は、彼らは作戦を変え、呉三桂と結託し、大順政権の転覆を図った。

農民軍と呉三桂、清軍の山海関での戦い

 呉三桂と清軍の結託は、農民軍にとってたいへん不利な形勢をもたらした。呉三桂の関寧鉄騎は、兵は精悍で武器は鋭利(兵精械利)であった。清軍は更に戦闘力がたいへん強い軍隊で、且つ呉三桂と清が連合して武器の数の上でも農民軍の二倍を越えた。同時に、階級の力のバランスも、大きな変化を起こした。呉三桂と清軍の連合武装は大官僚大地主の擁護と支持を得ただけでなく、元々大官僚、大地主と矛盾があったため、農民軍に対して中立或いは同情的態度を取っていた中小地主が、今や断固として明朝の大官僚大地主と満州貴族の方へ移り始めた。農民軍の敵は増加し、革命の力は相対的に弱められ孤立した。

 423日、農民軍と呉三桂の軍隊は山海関外の一片石で激戦が発生した。戦いが正午になった時、牙を研いで待って(蓄锐以待)いた清軍が、突然農民軍に猛攻を仕掛けて来た。農民軍は虚を突かれて防ぐ暇がなく(猝不及防)、損失はきわめて大きかった。

 427李自成は北京を退却した。429日武英殿で帝位に就き、徹底抗清の決意を表し、民族自衛の大旗を高く掲げた。30日、李自成は北京を放棄し、関中へ撤退し、陝西を根拠地にして、引き続き抗清を行う準備をした。北京を離れるに際し、李自成は北京の人々に対する情愛に溢れ、彼らにこう言い聞かせた。「呉三桂が来たら、街中が皆殺しにされるから、おまえたちは急いで逃げろ。」そう言って城門を大きく開き、人々を脱出させた。

 以後、農民軍は英雄の気概を持ち、また不撓不屈の精神で以て、満漢の地主階級連合の武装勢力と数えきれない回数の苦しい戦いを行ったが、遂には、敵が強大であるため、最後には彼らの蜂起は失敗に帰した。

 李自成率いる農民軍が北京にいた時間は短いが、北京の歴史上輝かしい1ページを残した。

大順政権による「追贜索餉」

第四節 北京での大順政権(続き)

大順政権の政治措置

 時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。

 政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。

 早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中央政府の組織の建設に着手した。1644年(崇禎17年)正月、李自成は陝西省で正式に政権を打ち建て、西安を西京とし、国号を大順とし、元号を永昌とした。北京を攻略して後、大順政権の政治制度は更に完全なものとなり、中央に内閣と六政府などの機構を設立し、同時にまた明朝が設置したいくつかの無用な機関を廃止、併合し、人数が万に及ぶ宦官を宮廷から駆逐した。

 この時、大順政権が統治した地域は直隷(今の河北省)、山東、山西、河南、陝西の五省及び湖北、安徽、江蘇、甘粛、青海の大部分或いは一部であった。大順政権が統治した地域には、軍が駐屯、防衛し、官吏を派遣し統治した。地方の官職には、節度使、府尹、州牧、県令があった。

大順政権支配地域

 中央政治機構の改組、拡大と地方政権の増加に伴い、大順政権は大量の官吏の必要に迫られ、農民軍の将校と山西、陝西一帯から軍に随行してきた貧しい士大夫に頼るだけでは、この需要をはるかに満足させることができなかった。李自成が北京に入って間もなく、次のように命令した。「およそ文武官員は皆21日に朝廷で謁見を受け、故郷に帰ることを願い出た者は各自の都合に任せ、従属を願い出た者は才能を評価して登用する。もし抵抗して出て来ず、罪に死刑が加わり、それをかくまった家も、併せて連座させる。」

 明朝官僚は元々皆「衣冠のせいで罪過を招くのを恐れ、悉くその進賢冠(皇帝に朝見する時の礼帽)を壊した」。この時、李自成の命令に接し、自分たちが昇格し金儲けができる好機が来たものと誤解した。そして、「しばしにこにこしながら、梨園の中から冠を捜して被り」、有頂天になって昇格の夢がかなうと思った。21日の朝、3千人余りの明朝の官僚が承天門前に集まり、争って官職希望の名簿に応募した。

 大順政権はこれらの官僚に対して厳格に審査(甄别)した。三品以上の大官は、原則的に登用せず、四品以下の官吏も、犯罪、汚職、悪辣な行為をしていない者だけが、ようやく「才能を評価して官職を授けた(量才授職)」。審査の結果、92名だけ採用したが、「大部分が新たに科挙に合格した者が多くを占めた」。

 大順政権はまた試験を通じて一部の官吏を採用した。科挙制度の弊害に鑑み、まだ西安にいる時、農民軍は八股文の廃止を明確に命令し、「政策論を以て士を取る」方法に改めた。北京では、依然として 政策論を以て士を取り、試験の題目には、「天下は仁に帰す」、「大雨数千里」、「もし大旱魃で雨雲を望む」などがあった。採用の基準は、受験者が実学の才能を備えているかどうかを見るだけでなく、彼らの農民軍に対する態度も見た。採用の基準はかなり厳しかった。当時は「受験を希望する儒者が、市を埋め尽くした」が、最後に挙人50名だけが採用された。採用者は皆才能を評価して官職を授けた。歴史史料の記載によれば、「新たに兵部に選ばれ従事する有り、朝の中から出づ。「賊兵」は坐して問うて云う。「汝何の職を選ぶや」すなわち実を以て告ぐ。乃ち其の背を拍いて説く。「また好し、また好し。但し前朝の如く銭を要すべからず、我主に法を立つるを厳しくし、官を貪り吏を汚すは、便ち梟首(きょうしゅ。さらし首)を要す」。「偽官」は恭順して去る。」これは大順政権が自分の官吏に対する要求で、幅広い農民の官吏に対する希望でもあった。

 農民軍はこれらの新たに採用された官吏に対して決して警戒を失っていなかった。大順政権の多くの最重要の職務が労働者出身の農民軍指導者の担当であった。北京にいた期間、鍛造工出身の劉宗敏が軍政の司法の大権を掌握し、文武の将校は皆彼の管轄を受けなければならかった。順天府では「刑名を管轄し、都察院堂の比餉に坐す」のは僮僕(童僕。召使の少年)出身の制将軍、魏某であった。後軍都督府の張家は元々鍋の繕い人であった。赴任してきた地方官は、家族を北京に「人質」に置かねばならなかった。大順政権は明確に彼らにこう宣告した。必ず着任後12年「うまく治められれば」、はじめて北京に戻って家族を連れ帰ることが許された。

 大順政権は賢明で能力ある人の選抜に力を入れ、それに加え「号令がおごそかで厳しく」、「立法が厳密」であるので、「土地を守る官吏を派遣するところ、敢えて民を暴する無し」、政治は清明、民心は安定した。とりわけこうした官吏が各府県に着任後、農民軍の階級路線を遵守することができ、横暴な地主を鎮圧し、「体罰を加え(拷掠)(農民軍の)軍糧を援助し(助餉)」、貧しい農民を救済したので、大順政権は幅広い人民群衆の歓迎を受けた。李自成は北京で劉宗敏、李過が主管する「比餉鎮撫司」を設立し、専ら明朝の勲戚、顕宦(高官)、豪商から隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)を取り立て(追贜)、軍糧を請求(索餉)した。324日、農民軍は一部の明の勲戚、廠衛(明朝の東廠、西廠、錦衣衛の総称)の武将を処刑した。続いて、「比餉鎮撫司」が北京で大規模な「追贜索餉」を展開した。農民軍は「卿相(大臣)の所有財産は、盗んだものでなければ搾取したもので、皆贓品である」、「衣冠が蓄えるものは皆贓品のみ」とし、このため「追贜」の対象は貪官汚吏汚職をし法律を捻じ曲げる役人)だけに限定するのでなく、明朝の全ての大小の官僚、「各店舗、絹織物商などの業界全ての郷紳、富豪が含められた。明朝の官吏に対し、三つのクラスに分けて処分が行われた。一、罪悪が顕著な者は、家財没収、死刑。二、貪官汚吏は刑を厳格にし、隠匿した贓品を取り立てる。三、「清廉潔白」な者は、寄付(捐輸)をさせ、刑罰で責め立てることはしない。寄付の金額は、官位の高低や家財の多寡で決められ、だいたい、内閣は10万、部院京堂錦衣帥は7万、科道吏部郎は5万、3万、翰林は1万。部下は千で数え、戚勲は金額を定めなかった。一般の郷紳、金持ちの家、及び大商人は、「その資産の十分の三を税として徴収」した。

 追贜の過程で大順政権はまた前後して大量の、罪悪の甚だしい、累々たる血なまぐさい犯罪を犯した悪辣なボス、廠衛の名の知れた者、要職にある狡猾な小役人や権臣、勲戚をを死刑に処し、その中には一貫して貪婪(どんらん)で狂暴、「平民を鞭打ち財産を掠奪」した陽武侯薛濂 。専ら「借金を貧民たちに負わせ、利息を取り、寝室には貯めた銭が常に満ちて」いた嘉定伯周奎。「家の資産は数百万、経営している質屋は数十ヶ所、女中や妾は数知れず」の徽商汪簑が含まれていた。北京の市民はこれらの悪党どもが処刑された知らせを聞き、気持ちが晴れ晴れとし、意気が上がり、手をたたき称賛しない者はいなかった。

 農民軍の追贜索餉政策は人々の利益を代表したので、北京の幅広い人々の熱烈な擁護と支持を得ることができた。追贜の過程で、各官庁の小役人や召使、貧しい市民は、自然と農民軍に、役人や金持ちに関する汚職やゆすり、家財の多寡の情報を提供した。彼らは積極的に農民軍に協力し、逃亡したり隠れている役人や金持ちを追跡して逮捕し、彼らが隠していた金銀や財宝を探し当てた。幅広い人々の積極的な協力により、不正や汚職にまみれた官吏で逃亡、脱走できた者はたいへん少なかった。追贜の結果、7千万両を獲得し、そのうち勲戚のものが十分の三、宦官のものが十分の三、百官のものが十分の二、大商人のものが十分の二を占めた。

 追贜、助餉の過程で、大順政権の法律の執行は厳しく公正であった。不正や汚職にまみれた明の東閣大学士魏藻徳を尋問した時、魏藻徳は恥知らずにも彼を尋問した旗鼓の王某に言った。「どうか将軍、私を救ってください。私の娘は十七で美しいので、将軍にお仕えしたいと願っています。」王旗鼓は「蔑んで之を蹴り」、正しい道理を踏まえ、言葉厳しく魏藻徳の買収を拒絶し、法に依り彼を死刑に処した。

 農民軍は追贜政策を実行すると同時に、封建的な賦役の免除を行い、貧しい労働者階級の人々を救済する政策を実行した。

李自成軍北京入城

第四節 北京での大順政権

李自成の農民軍が北京に進軍

 明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。

 1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。

明末農民蜂起

 蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性を見て取り、「限田」、「均田」の方法を提起し、これにより階級矛盾を緩和し、ぐらぐらして今にも倒れそうな明政権を救わんと企てた。崇禎帝を首とする保守派は如何なる改革を行うことも拒絶し、武力で蜂起を消滅させようとした。

 1640年(崇禎13年)、ちょうど明の統治者が北京で「限田」問題について言い争いが絶えない頃、李自成が指導する農民軍が既に河南で甲高く「均田免賦(農地を均等に分け、一定期間税も免除する)」のスローガンを呼びかけ、農民に新たな希望をもたらした。農民は熱烈に支持し、蜂起軍を擁護し、先を争い(踊躍)蜂起軍に加した。

 わずか二三年のうちに、李自成の農民軍は河南、湖北、陝西等を占領した。1644年(崇禎17年)正月、李自成西安大順政権を打ち建てた。同年2月、農民軍は陝西から長躯北京を叩き、途中幅広い人々の歓迎を受け、「国を挙げて次々、尽く時雨の大雨のよう」(顧炎武『明季実録』)であった。

 この時、北京城内の勲戚、官僚は、既に自分たちの終わりが間もなくやって来るのが分かっていた。何人かの人は一日中酒に酔って夢を見ているかのようにぼんやりし(酔生夢死)、「ただ今日のことだけ考え、明日のことは考えなかった」。何人かの人は急いで金銀や金目のもの(細軟)を整理し、如何に逃げるか考えた。北京の住民たちは公然とこう言いふらした。農民軍が「やって来たら、門を開けて入ってきてもらう」と。少しも飾らず彼らは農民軍に期待した。当時、北京城では農民軍のことをこう噂した。「人を殺さず、財を愛さず、姦淫せず、掠奪せず。安く買い安く売り、銭や糧食での賦役を免除(蠲免)し、且つ富家の銀銭を貧民に分け与えて救済する。」「すこぶる学問を重んじ、秀才を迎えると、先ず銀貨を与え、続いて照合し、一等は府を、二等は県を担当させた。」このため、幅広い都市住民が「大門を大きく開いて闖王、李自成を迎える」準備をしたので、幾分失意の士大夫までも、宮殿の壁に「ここには人を留めず、自ずと人を留める所有り」という張り紙を出した。

 統治者はこの期に及んでも、断末魔のあがき(垂死挣扎)をしなければならなかった。明朝朝廷は三大営の軍隊に命じて城外に駐屯し防衛させ、全ての城門と城内の各街路と路地に守備軍を配備し、大砲を据え付けた。崇禎帝は逃亡しなかった勲戚、官僚たちに金銭、物資面の支援をした。

 しかし農民軍の侵攻はたいへん迅速で、明朝廷の作戦部署がまだ準備ができていないうちに、彼らは既に柳溝(今の延慶県東南)から明陵を攻略し、突然北京城下に出現した。316日、農民軍は北京城を包囲した。

 

農民軍は北京城を攻め落とした

 

 李自成は城攻めの前に、投降を勧める文書を矢文にして城内に入れたが、崇禎帝は投降を拒絶し、大衆をあくまで敵と見做した。

 317日、戦闘が開始した。北京城外の三大営はちょっと攻撃すればすぐ潰れてしまい(一触即潰)、輜重(軍隊に付属する糧食、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称)、大砲は尽く農民軍が分捕った(繳獲)。

 318日、農民軍は大風やにわか雨(驟雨)を冒して、彰儀、西直、平則、徳勝などの城門を猛攻し、戦闘はたいへん激しかった。農民軍は皆黄色の甲冑を身に着け、四方から望むと黄色い雲が野を覆いつくすようだった。北京郊外の住民たちは矢や石が雨のように降り注ぐ中、争って大きな石を背負い、溝を埋め堀を塞ぎ、農民軍の城攻めを援けた。

 城を守る士卒は皇帝のために命がけで働くを良しとせず、監督者が「一人を鞭打ち起たせると、一人がまた横になった」。軍士の中には城の上から農民軍に向け手を振って意図を示す者がおり、農民軍が行ってしまうのを待ってから、空砲を放った。

 18日の夕刻、彰儀門が攻め落とされた。農民軍は外城を占領して後、直ちに内城の各門に対し更に猛烈な攻撃をかけた。その勢いは暴風雨に遭ったかのようで、その情勢がますます明らかになった。

 崇禎帝は大勢が既に決したと思い、無理やり周皇后を自殺させ、妃嬪公主数人を手打ちにし、数百人の宦官が同行する中、夜半に城を脱出しようとした。しかし北京城は既に農民軍にブリキの桶のように取り囲まれていた。こうした強情で独りよがりで、頑固で考えを変えない皇帝は、人々の正義の制裁を受けるのを怖れ、密かに万歳山(すなわち現在の景山)に逃れ、寿皇亭の前の槐(エンジュ)の樹の下で首を吊って亡くなった。

 これと同時に、農民軍の猛将(驍将劉宗敏李過は、自ら率先して北京城に登った。城を守る兵士たちは鎧兜を捨て、狼狽して逃亡した。徳勝、斉化、平則、宣武、正陽の諸門は速やかに攻略を受け開放され、農民軍は勝利の雄叫びを上げ、潮流のように城内になだれ込んだ。

 19日早朝、北京城内の家々は皆、家の門の上に「永昌元年順天王万々歳」、「新皇帝万々歳」などの字句を貼りだした。住民たちは色絹で飾ったランタンを吊るし、テーブルを設けてお香を焚き、大通りの両側と胡同の入口に一斉に立って、蜂起軍を迎える準備をした。お昼に、農民軍の大部隊が城内に入った。その中で黒いぶちの馬に乗り、フェルトの笠、縹(はなだ)色(うすい藍色)の衣服を着た人が、農民軍の指導者、李自成であった。

 北京城は農民軍に占領され、270年余り続いた明王朝は打ち倒された。元々ずっと社会の底層で侮辱され圧迫され尽くした農民が、初めて北京の政治の舞台に登ったのだった。北京の歴史は新たな一ページを開いた。

李自成軍の北京攻略

李自成の農民軍の軍紀

 

 李自成が指導する農民軍は、北京でトータル43日駐留したが、北京の人々の心にすり減らすことのできない印象を残した。

 農民軍の紀律の厳正さは、封建歴史学者までも承認せざるを得なかった。『明史』は李自成の軍令をこう記載している。「白金を蔵するを得ず、城邑を過ぐるに室処を得ず、妻子の外に他の婦人を携えるを得ず、寝興は悉く単布の幕綿を用うべし……馬の田苗に騰󠄁入するは之を斬る」。農民軍は城に入る度に、指導者たちは必ず何度も命令し戒め(三令五申)、厳格に自分の部下を束縛した。農民軍が北京城に入ると、李自成は矢を抜いて矢じりを取り去り、後ろに向け続けて三本矢を放ち、こう宣言した。「軍人は入城し、敢えて一人傷つければ殺して赦さず」。入城後、李自成は直ちに各衙門の吏書(秘書)班の下級役人を引見し、彼らに民間に告示させ、通常通り運営させた。同時に、軍政府も掲示を出して民心を安定させた。「大師の城に臨み、秋毫も犯さず、敢えてほしいままに民を掠えば、凌遅(死刑の一種。人体をばらばらに切る)し死に処す」。李自成の軍隊は大部分が城外と城壁の上に駐屯し、入城した官兵は勲戚や官職にある人の屋敷や金持ちの住宅を分散して占有し、一般の市民は少しも侵し騒がすことはなかった。極めて少数、財貨が蝕まれるのが堪えられず、そのため法に背き紀律を乱す者は、軍法による厳しい制裁を受けた。このため、市民たちは皆「以前のように安堵」し、且つ「安心して店や市を開き、普段と変わらずにこにことして」暮らした。農民軍が北京にいた期間、基本的に質素でよく艱難辛苦に耐える優れた伝統を保持した。彼らは毎日、携行していた「黒く砕かれ干された」干飯だけを用い、水で飲み込み、たいへん苦しい生活を送った。北京の住民は、彼らに多くの食物を贈ったが、彼らは一一丁寧に辞退した。

 農民軍と北京の住民の関係はたいへん打ち解け、多くの住民が自分の娘を農民軍の官兵に嫁がせ、農民軍と縁組みできることを栄誉とした。農民軍が北京を撤退する時、これらの婦女の多くが農民軍と一緒に関中に戻った。

 農民軍の将校は北京に入った後も、依然として方巾(文人、処士が被る帽子)布衣(質素な服)で、紗帽(文官が被った帽子)を被らず、官袍を身に着けず、そのまま4月以降になっても、冠を帯びた者は十中一二に過ぎなかった。その中で比較的突出していたのが、例えば、農民軍将校の劉宗敏は北京滞在の期間、終始或いは方巾を身に着け、或いは白絨帽を被り、出入りする時、四五騎の先導しかなく、「無冠で儀仗衛士や随従を帯びず」、生活はたいへんつましかった。彼が対処する仕事は特にまじめで積極的で、事の大小を問わず、自ら関与した。毎日早朝、彼は馬に騎乗し西華門を入って議事を行い、深夜になってようやく帰宅した。

 李自成は幼い時から貧農の家庭に育ち、この世の辛酸と苦痛を嘗め尽くした。彼は色を好まず、飲酒せず、財貨を貪らず、終始「皮を除いただけの精米していない米で、配下と苦楽を共に」した。北京にいた期間、彼は古い毯帽を被り、青い箭衣(矢を射るため袖を窄め、体に密着した上着)を身に着け、最後に北京城を退出する時には、「一枚多く黄色い覆い」を身に着けただけであった。精力を忙しい仕事に集中させるため、彼は遅遅として皇帝の位に就くのに同意しなかった。毎朝早朝、彼は「米の飯を少し啜る」と、宮殿を出て仕事をし、夜が深まり人々が寝静まった(夜闌人静 )時分になっても、彼はまだ他の農民軍の将校と国家の重大事を議論した。更に良く時分を鞭撻するため、彼は明朝の乾清宮の扁額に書かれた「敬天法祖」を「敬天愛民」に改めた。彼はまた自ら一般の群衆に接見した。46日、9日の両日、彼は文華殿で二度にわたり北京城内外の各村の老人に会い、「民間の苦しみ」や農民軍が「民衆をかき乱していないかどうか」といった状況を尋ね、更に彼らにこう告げた。彼が挙兵した目的は「人々を深い災難から救い出す(救民水火)」ためであると。

 

 

明朝第14万暦帝、在位15721620

 

第三節 北京の政治(続き)

北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争

 1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。

 宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発も同様に一種のゆすりたかり(敲詐勒索)の手段であった。宦官と土豪劣紳が結託し、任意に他人の田地や住宅の下に鉱脈があるのを指して、彼らに重い賄賂を請求し、少しでも思い通りに(遂心)ならないと、兵を率いて逮捕し、ひどい時は「人の手足を斬り」、「婦女を辱め」た。

 反鉱監、税監の闘争は、湖広(湖北、湖南、広東)より始まり、以降臨清、蘇州、景徳鎮などの地で次々と同様の闘争が発生した。北京順天府及び付近の蔚州、香河、広昌及び門頭溝などの地で反税監の闘争が展開された。

 1600年(万暦28年)、宦官の王虎が 香河県で漁船、葦場、鉱山への税金を徴収し、手下(爪牙)を派遣し人々をゆすった。「生員(せいいん。科挙の最初の試験に合格し、府県の学校で勉強できる書生)士民(士大夫階級)」約1千人が、手にこん棒やレンガ、石を持ち、王虎に向けてデモ行進を行った。指摘しておかなければならないのは、ここで言う「生員士民」とは地主階級の知識分子であり、彼らの闘争は主に地主階級内部の闘争であった。しかしこの時のデモには労働者の人々も参加した。というのは、大地主のグループの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。重税を搾り取ること。)に反対することは、人々にとって有利であったからである。

 この時、宦官の王朝も京西の房山、門頭溝一帯で鉱山税を徴収していた。彼はいつも京営の精鋭(選鋒)を率いてここで「劫掠(掠奪し)立威(威信を示した)」。当時、門頭溝にはたいへん多くの石炭採掘の炭鉱夫と石炭運搬の人夫がいた。彼らは炭鉱経営者の残酷な搾取を受け、生活はたいへん困窮していた。中には炭鉱経営者に騙されて坑道に入れられ、一生出て来れない者がいた。また炭鉱経営者と契約し、日割りで給料を取得したが、給料がたいへん低く、まったく家族を養うことができなかった。宦官の王朝がここで税を徴収することは、炭鉱経営者にとっても不利で、炭鉱経営者は自分が搾取して得たものの一部を朝廷に渡したくはなかった。王朝は毎年炭鉱経営者から銀5千両を受け取り、炭鉱経営者は税徴収の減免を要求し、代表として王大京を北京に派遣し交渉させ、王大京は錦衣衛に逮捕された。

 王朝はここで「劫掠立威」(掠奪し威張り散らす)したので更に広大な炭鉱労働者を激怒させた。1603年(万暦31年)3月、炭鉱労働者と石炭運搬夫を組織し、更に炭鉱経営者も加わった隊伍が北京へ向け出発した。これら「黧面(薄汚れた顔で)短衣(すその短い上着を着た(平民))之人」は北京城内で「填街塞路(街路を埋め尽くし)」、明朝の統治者に向け大いに示威行為を展開し、宦官の王朝の交替と鉱山税の減免を要求した。

 この北京の歴史上初めての大規模な炭鉱労働者の鉱監税使に反対する闘争は、明朝政府を大いに震撼させた。一部の官僚は次々と上書し王朝の交替を求め、ある者は言った。「今は朝廷内部(萧墙)の災難が方々で起こり、石炭産地、石炭運搬夫、石炭の利用者は、命に関り、畿甸(北京地区)を震撼させた。」またある者はこう言った。「ひとたびむしろ旗を掲げて立ち上がれば(揭竿而起)、天子のおひざ元では(輦轂之下)、皆災い(胡越)となった。」このことは統治階級の群衆の力に対する恐怖を十分に説明していた。鉱山労働者たちの大きな圧力の下、統治者は遂に宦官の王朝を交替させざるを得なかった。

 

閹党が北京で暴れ狂った

 天啓年間(1621‐1627年)、明王朝は既に絶体絶命の状態に陥り(窮途末路)、しかも腐敗がはびこっていた。このことは瀕死(垂死)でもがき苦しんで(挣扎)いる大地主グループがより一層狂ったように人々を痛めつけ、統治階級内部の党争は一層激化していた。

 宦官の魏忠賢は明朝廷の権勢のトップになった。魏忠賢は司礼(尚書省礼部)秉筆 (執筆)太監、また提督東廠で、全国軍政の大権は彼の手中に握られていた。彼の周囲で追随する官吏は彼を「九千歳」と呼び、喜んで彼の義子、干孫(義理の孫)になりたがった。天啓5年、何人かの恥知らずの官僚たちが次々と彼のために生祠(生前に建てた祠(ほこら))を建てた。一時は「都城数十里の間、祠宇(祠堂)が相望んだ」。(『明史』巻306『閻鳴泰伝』、文秉『先撥志始』下)魏忠賢はまた香山碧雲寺に自分の墳墓を前もって作った。その豪奢で金に糸目をつけぬことは皇帝の陵墓にも劣らない。彼の密偵(暗探)は北京城内至るところにいて、人々が街頭や横丁で一言悪口を言おうものなら、錦衣衛に捕えられて殺された。

魏忠賢

 当時、斉、楚、崑、宜、浙の各党は魏忠賢に追随し、「閹党」(宦官に追随する官僚の一党)を形成し、且つ断固東林党と敵対していた。明代の統治階級内部の党争はここに至り既に最高潮に達した。

 閹党は彼らの反対派を一律に東林党と呼び、且つそれらをまとめて309人の名簿を作成し、この名簿に基づき全国各地に行って関係者を捕えた。東林党の楊漣、左光斗、黄尊素、周順昌らは閹党により捕えられ北京に送られ、錦衣衛の監獄に拘禁され、非人道的な刑罰により虐待され惨殺された。しかし彼らはずっと閹党との闘争を堅持し、少しも死を恐れなかった(視死如帰。死ぬことを我が家に帰るように恐れない)

 

白蓮教の大蜂起

 明朝末期、統治階級は皆農村の人々への搾取と鎮圧を強化した。とりわけ北京に住む勲戚、宦官、大官僚たちは狂ったように近郊で田地を侵略し、農民を搾取し、彼らは社会生産の発展を著しく阻害する最も反動的な勢力となっていた。そして一般の農民は地租、高利貸、商業資本の残酷な搾取の下、生活は極端に困窮し、より多くの人々が自分の土地から離れて行った。

 この時、ひとたび北京城の郊外に出ると、農民の反抗武装が見られた。農民の武装勢力は長期間、北京南城外の海子などの地に集中していた。1596年(万暦24年)、宦官が方々に税徴収に出向いた際、1千人余りの人々が京南の農民、左文俊の指導の下、討伐に来た「官軍」に対し蜂起、反抗した。1623年(天啓3年)京営操軍は前後して北京、通州の両地で軍事クーデター(兵変)を発動した。これは当時の京営の将校の下士官に対する残酷な搾取により引き起こされたものだった。統治者は軍事クーデターの指導者、成鋒、柴登、李成、姜才らを逮捕し、彼らを殺害した。その他の兵士は南海子に逃げ込み、ここの流民と合流した。ここに至り、京南の農民軍の勢力は更に強大となり、ひとたび機会があると、統治者にひどい打撃をを与えた。

 北京地区の農民が白蓮教を利用進めた反抗活動は既に長い歴史があった。白蓮教は農民戦争の中でしばしばたいへん大きな宣伝効果と組織効果があった。農民たちは平時はこれを利用して緊密に連携し、白蓮教の経書の中の神秘な予言により、より一層農民の戦闘への自信を強めた。万暦初年、順天府で蘇州の皮革工、王森白蓮教を提唱した。搾取を受け尽くした農民たちは正に組織する必要があり、それで次々白蓮教に加入した。白蓮教徒は河北、山東、河南、陝西、四川等の地にあまねく分布していた。農民たちは竹の籤で暗号を伝えて連絡をし、同時に更に各地に教主、大伝頭、小伝頭の名称を設けた。この時、白蓮教の経書は既に三四十部まで広められ、通用する教派は十六七種にまで増加した。(当時北方で広まった白蓮教の支派は紅封、無為、紅陽、浄空、黄天、龍天、南無、南陽、悟明、金山、頓悟、金禅、還源、大乗などの教派である。)

 1595年(万暦23年)王森は北京に来て秘密活動を指導し、白蓮教の勢いは大いに増した。その後、王森は逮捕され獄中で病死し、彼の弟子、徐鴻儒于弘志が教団を継承し、各地の教徒は2百万人を下らなかった。1615年(万暦43年)内閣大学士の上奏文によれば、北京では、「游食の僧や道士が千百と群を成し、名は煉魔と為し、行踪(行方)は詭秘(なぞめいて察知できず)、究詰(突き詰める)ことができない。」またこう言った。「白蓮、紅封などの教団は、それぞれ新奇な名義を立て、妖言で衆を惑わし、実に煩わしい輩である。」(『明神宗実録』巻580)このことは北京の統治者の極めて大きな恐慌を引き起こした。北京城内に流入する流民や僧侶のうち、多くが白蓮教徒で、こうした僧侶は元々各地の農村の出身で、彼らは蜂起を組織した人間であった。

 1622年(天啓2年)、徐鴻儒が指導する白蓮教の大蜂起が山東で勃発した。間もなく、京畿南部の人々もこれに呼応した。蜂起軍は江南から北京に到る食糧供給ルートを遮断し、山東、河北の多くの州県を攻略した。北京城の統治者は大いに震撼し、大急ぎで関外の満州族統治者を抵抗防御していた軍隊を呼び戻して鎮圧した。

 この時の蜂起は準備不足と彼ら自身の教派の争いにより、統治者に間もなく鎮圧されたが、この時の蜂起軍は明の統治者に容赦のない打撃を与え、中国全土の圧迫された農民、群衆を喚起し、明末の農民大蜂起爆発の前奏となった。

 

清統治者の北京地区での破壊と騒乱

北京の人々の反清闘争

 万暦年間以降、東北の建州部が日増しに強大となり、後金政権を建立し、明朝と長期間戦った。明朝統治階級の腐敗、無能、政治軍事の堕落により、前後して遼陽、瀋陽など72都市を失った。北京は既に厳しい脅威の下にあった。

後金政権の建立

 1629年(崇禎2年)10月、後金の指導者ホンタイジ(皇太極)が兵を率い龍井関(喜峰口の西にあった)から長城を壊して関内に侵入し、近畿の要衝、遵化を攻め落とし、三河県全域の住民を屠殺し、彼らは程なく順義、通州を経由し、116日に北京に迫った。明朝の薊遼督師、袁崇焕はホンタイジが回り道をして北京に迫ったことを知って後、直ちに9千の精鋭部隊(勁旅)を率いて、その日の夜(連夜)関外から北京に急行し、落ち着いて北京の周囲の防衛線を手配し、自ら兵を広渠門外に駐屯させた。崇禎帝は袁崇焕を各鎮の援兵に移動させ、状況に合わせて進むか止めるか判断し、後金兵に反抗した。

 1120日、明軍は双方の人数の多寡の差の大きい(衆寡懸殊)状況下、後金兵と広渠門外で戦い、敵兵1千人余りを殺し、後金兵は大敗した。袁崇焕は自ら軍を率いて自陣を監督し、彼は矢が当り「両脇がハリネズミのように(両肋如猬)」なっても依然軍を監督して懸命に戦った。(周文郁『辺事小記』(『玄覧堂叢書続集』))ホンタイジは兵を南海子に移すよう迫られ、北京城は危機から安全に転じた。ホンタイジは軍事上敗北して後、袁崇焕を骨の髄まで恨み、逆スパイの計(反間計)を使って彼を陥れた。彼は二人の南海子で捕虜にされた太監(宦官)を利用し、彼らに袁崇焕とホンタイジが密約を結んでいるとのデマを聞かせ、その後彼らを解放して帰らせた。デマは宮廷にもたらされ、愚昧な崇禎帝はそれを真に受け、12月初旬に袁崇焕を錦衣衛の監獄に投獄した。

袁崇焕

 ホンタイジの陰謀は目的を達し(得逞)、勢いがまた盛んになり、良郷で虐殺を行い、薊州で掠奪をし、転じて河北各州県で掠奪をし、崇禎35月になって、ようやく各地で軍民の打撃の下、関外に退いた。

 1630年(崇禎3年)8月、袁崇焕は明朝に体を切り刻まれ(凌遅)死に処せられた。袁崇焕は明末満州族の統治者に抵抗し反撃を加えた最も傑出した将校で、明朝の統治者が既に極端に腐敗し無能であった時期、袁崇焕が立ち上がり徹底的に抗戦することができ、関内の人々の生命財産を守り、彼の抗戦は人々の支援を獲得し、しかも幅広い人々の願望に適合した。(袁崇焕の墓は北京の広渠門外にあり、左安門龍潭東湖西岸に袁督師廟があり、解放後何れも人民政府が装いを一新(修飾一新)させた。)

 ホンタイジ1636年(崇禎9年)建国し、国号をとした。この時、清軍は既に山海関を押えていただけでなく、更に内蒙古を攻略していた。これより、明朝の「藩屛」は尽く失われ、清軍の侵攻は一層激烈になった。1636年、1638年、1642年と、清軍は三度京畿まで攻撃を加えた。彼らは毎回国境を入る度に都市を虐殺し、村に火を燃やし、大量の人口、家畜、、財物を奪い、北京郊外の人々の生産にひどく破壊を加えた。初めて清軍が京畿で破壊活動を行ってから、五年後に二回目の南下の時もまだ回復していなかった。二度目も、清軍はまた近畿の州県の「人や家畜18万」を奪って行った。

劉六、劉七農民蜂起

第三節 北京の政治(続き)

劉六、劉七が指導した農民蜂起

 劉六、劉七が指導した農民蜂起は、1510年(武宗の正徳5年)10月に勃発したもので、前後トータル2年持ちこたえ、活動の範囲は今の山東、河北、河南、湖北、山西、江西、安徽、江蘇の8省が含まれ、且つ4回北京を威嚇した。

 農民軍は順天府(北京)境の覇州(河北省廊坊市南部。北京、天津、保定の三角地帯の中心に位置する)で蜂起した。覇州は明朝の北京南部の重鎮で、荘園が交錯し、軍の屯田が密集して分布し、良田、美地が皇室、勲戚(勲功のあった皇族)、衛所(明の軍隊の編制)、朝廷により占拠された。ここに居住する貧しい農民と駐屯軍は、その中には漢族だけでなく、モンゴル族、ウイグル族の人々もいた。土着の人々(土著 )だけでなく、移り住んできた流民や流罪になった犯罪者がいた。 勲戚、宦官、荘園を管理する軍の校尉の直接の搾取により、官に代わり馬を養い、特殊な賦役や雑役を課せられる中、運命を同じくする各民族の軍民が連携して蜂起した。

 モンゴルの人々はここで熟練した馬術を漢族の人々に伝授し、代わる代わる北京城に赴き、馬に乗って操練する駐屯軍もしばしば人々に依存し、彼らに馬を養ってもらった。とりわけ、こうした官に代わり馬の養育を負担した農民は、馬術にたいへん精熟し、馬はここの農民の最も大切にしているものであった。しかし、統治者は官に代わり馬を養わせる名目で人々を搾取し、甚だしきは人々の馬を強奪し、わが物とした。人々は忍び難きを忍ぶ状況下、しばしば立ち上がって反抗したので、統治者はここの人々をたいへん恐れ、ここは「人々の気風(民風)が剽悍(すばしこく勇猛)」だと言って中傷し、並びにここの人々を馬賊(響馬)と呼んだ。

 ここで農民蜂起の指導グループの構成者は正に統治階級に「馬賊」と呼ばれている農民であった。劉六、劉七、斉彦名、顧子美など34人は皆、覇州、永清、固安等の県の農民であった。農民軍の指導者、朱千戸は、元々明の副総兵、朱楨の部下の兵士で、楊虎は元々都御史の寧杲の部下の兵士であった。この他、地主階級の中の一部の知識人、例えば文安県の生員(せいいん。科挙で、最初の試験に合格し、府、州、県の学校で学習できる書生)趙鐩、その弟の趙鐇、趙鎬らも蜂起に参加した。

 劉六、名は寵、劉七、名は宸。二人は共に文安人であった。彼らは何れも勇猛(驍勇)さが人に勝っており、騎射に通じ、義侠心で覇州で名が知られていた。武宗の正徳年間(1506- 1521年)、統治階級は既にたいへん腐敗が進んで、人々に対する搾取はたいへん残酷であった。明朝の時代、文安(現在の文安県。河北省廊坊市に属する)の人は北京に行って宦官になる慣わしがあり、劉六、劉七は「故郷のせいで、巧みにうそを言い(曲故)」北京に行く機会があったので、紫禁城に入った。彼らは宮廷内の腐敗した情況を目の当たりにし、これに取って代わろうと決意した。

 劉七らが覇州の人々に呼びかけ蜂起して、数か月も経たないうちに、農民軍は十数万人に達した。農民たちは蜂起軍をじぶんたちの軍隊だと見做したので、農民軍がやって来るや、誰もが身の危険も顧みず勇気を奮って(奮不顧身)軍隊に加わった。

 『正徳実録』は農民軍をこう記載した。「通過した郷村では、牛を屠り酒食を供しない所は無く、甚だしくは彼らのために門や衝立を持って矢や石を遮り、道先案内人となり州の県城を攻撃した。」またこんな記載もある。「およそ通過した所では、喜んで物資を供給し、食糧、酒、武器は皆人々が差し出した。」「家を捨て乱に従う者は至る所にいた。」(『正徳実録』巻74)しかし明軍が到着するや、農民たちは「門を閉ざして逃げ(逃遁(遯))、鞭打ち(箠楚)責め立てられ(駆逼)、もはや前に進み出ようとする者はおらず、懸賞を出し募集しても、赴く者は少なかった。」「牛やロバは悉く殺され、人々は皆隠れて出て来なかった。」ここからも、農民たちの愛憎がたいへん鮮明であったことが分かる。

 1511年(武宗の正徳6年)3月、農民軍は既に山東、河北など20州県余りを攻め下した。そのうち2隊が主力で、1隊は劉六、劉七が指導し、河北、山東から湖北、江西を経て、元の道を京畿の覇州に戻って来た。もう1隊は、楊虎、趙鐩、劉恵らが指導し、山西から河南に入り、西から東へ、河北省威県で黄河を渡り、劉六、劉七らと合流し、彼らも京畿の覇州にやって来た。この時、明朝の統治者グループはたいへん驚きうろたえ、直ちに北京に戒厳令を布告した。兵部は京営の軍隊全てに旅装(束装)し戦いの準備をさせ、兵を覇州、文安等に派遣し鎮圧させた。同年7月、農民軍の先遣隊44人が北京阜成門外に到着し、牌甲(保甲制(警防のための隣組制度)で氏名が登録された人)で常礼(通常の礼制)に基づく人と巡城御史(都察院に属し、北京城内の東、西、南、北、中の五城の治安管理を担当)を殺害した。久しく朝政を顧みなかった明の武宗も、内閣大臣を召集し、左順門に入り軍の情勢を尋ねざるを得なかった。農民軍に対処するため、明の統治者は京営の軍隊を移して結集させ、甚だしくは延綏(陝西省榆林鎮)、宣府(河北省張家口市宣化区)の辺境の兵も北京に移した。農民軍は明朝のこれらの警戒を探知して後、北京に攻撃して来なかった。

劉六、劉七蜂起軍経路

左順門

 1511年(正徳6年)11月末、農民軍はまた山東から京畿の覇州に戻った。農民軍の指導者たちは山東臨清に駐屯していた明軍を迂回し、121日武宗が天壇に祭祀に来る時、雷鳴の如く迅速で耳を塞ぐ間もない速度で(迅雷不及掩耳 )襲撃し、この愚昧な(昏庸)皇帝を死地に置く準備をした。不幸にも情報が漏れ、兵部尚書何鑑がその日の夜密報を書き、廐卒(馬方)に命じて司礼監(明朝内廷で宮廷内の事務を管理する十二監の一つ)に手渡し、司礼監の宦官が武宗に会ってこれを手渡した。武宗は大層恐れ、直ちに何鑑を引見して内廷に入れた。この時、宮廷の統治者達は大層慌てて取り乱し、兵部は城内の勲戚や武官に伝令を発し、急いで北京城の九門を手分けして守備させ、また人を派遣し、城壁の上から縄につかまって降り(縋城)、通州、良郷、涿州などの守備官に通知に向かわせ、直ちに兵馬を調達し、京城の南の羊角房、南海子、盧溝橋などに派遣し、宿営させた。しかし官軍が厳密に防備を敷いているという知らせは、瞬く間に農民軍に探知され、農民軍は自発的に今回の襲撃計画を放棄した。

 1512年(正徳7年)18日、劉六、劉七が指揮する農民軍は覇州に攻め入り、明朝の統治者達は北京に戒厳令を発した。兵を派遣し盧溝橋、羊角房、草橋などを手分けし守備した他、更に提督軍務の陸完、総兵の毛鋭に詔を発し、兵を率いて北京に来させた。農民軍は相変わらず東を討つと見せかけ西を討つ(声東撃西)戦術を採り、虚に乗じて南の博野、蠡県、臨城などに入った。明朝は農民軍に対し引き続き強い圧力をかけ、都御史の彭澤、咸寧伯仇鉞に命じて河南方面の農民軍を迎撃させ、また都御史の陸完に命じ、兵を率いて山東、河北の農民軍を鎮圧させた。

 同年3月、劉六、劉七らが統率する農民軍は山東で明朝の辺境警備兵、蒙古兵、及び当地の地主の武装兵、計十万人余りの包囲を受け、大量の武装力と傑出した将校を喪失した。他でもなくこのような状況下、劉六、劉七らは依然勇猛な騎兵(驍骑)三百を率い、勇敢に幾重もの包囲を突破し、軽装で北上し、間もなく再度大量の農民の武装兵を結集した。この時、農民軍は再び故郷の覇州に戻り、また順天府に属する香河、宝坻(天津に属する)、玉田などの県を攻撃し、明軍を大いに破った。同時に農民軍は武清県八里庄で参政の王杲を打ち殺し、また首切り役人(刽子手)寧杲の軍隊を殲滅し、北京に再び激震が走った。劉六、劉七らは今回は直接北京を攻撃することなく、河南方面に向けまっすぐ進み、そちらの農民軍の支援に向かったが、この時河南の農民軍は既に明軍に破れており、彼らは単独で戦闘せざるを得ず、農民軍の力はこれ以降日増しに弱体化した。

 この時の蜂起の規模はたいへん大きかったが、農民軍自身の欠点も大いに明らかになった。農民軍は何回も覇州に来たが、何回も撤収し、終始「流寇主義」(流れ者の盗賊の流儀)のやり方を克服することができず、明確な政治主張を打ち出すことができなかった。地主階級は自分たちの階級の利益を保つため、連合してなんとか農民軍を打ち破ろうとした。この時代の統治階級の軍事力はまだ大変強大で、力の差のかけ離れた情勢下、農民軍は遂に失敗し、北京入城の望みも実現することがなかった。

 しかし指摘しておかなければならないことは、農民軍は強大な統治者の鎮圧を受け、極めて困難な条件下でも、屈服することはなかった。農民軍の指導者の劉六、劉七ら全員は最後まで粘り強く戦い、最後は命を犠牲にした。

 劉六、劉七の指揮する蜂起は地主階級の国家に鎮圧されてしまったが、この時の蜂起は統治者に極めて深刻な打撃を与え、彼らに階級間の矛盾を幾分緩和する措置、例えば皇室の荘園を実地調査(勘察)し、租銀(地租として小作人から徴収する銀)を軽減し、賦役を改革し、宦官勢力を抑え込むなどといった対策を取らざるを得なくさせた。

 

明朝後期の統治グループ内部の闘争

 

 明代中葉以後、北京地区の勲戚、宦官、大官僚たちは、農民蜂起が鎮圧されて後、統治政権が相対的に安定した情勢下、自分たちの欲望を満足させるため、より多くの富とより大きな政治権力を奪い取ろう(攫取 )と考え、そのため彼らは異なるグループの間で熾烈な権力闘争、利権の奪い合いを展開した。

 明朝の内閣大臣たちの間で最初に展開されたのは、「内閣首輔」の職位争奪の闘争であった。この時期、著名な首輔は相前後して夏言、厳嵩、徐階、高拱、張居正などで、彼らは宦官や勲戚を味方につけ(拉攏 )、結託(聯朋結党)して競争相手を打ち負かしてようやく、その地位を勝ち取ることができた。こうした結託して私利を追う闘争の過程で、各地の大小の役人は、権力を握る官僚に迎合する(逢迎 )ため、着服した所得を贈り物の名目で彼らに賄賂として渡した。首輔の厳嵩を例にすると、彼の財産の多さは驚くべきもので、大部分の財産が彼の故郷の江西袁州に集中していた他、北京だけでも家は19百間余りあり、荘園は150ヶ所余り、また数えきれないほどの薄衣や緞子、金銀や骨董、珍宝などがあった。

 当時、ほとんど全ての大小の官僚たちが、厳嵩の周囲に取り入り(攀附)、彼と一緒に人々の血と汗を収奪し、悪事の限りを尽くした(無悪不作)。しかしまた楊継盛、沈錬、海瑞など個別の人物は、悪を憎むこと仇の如く(嫉悪如仇)、断固として悪党と組みしなかった。刑部員外郎の楊継盛は上奏し厳嵩、厳世蕃父子の十大罪悪を暴き出し、錦衣衛の獄中に拘禁された。1555年(嘉靖34年)厳嵩に害され、西市で死んだ。彼は終始権勢を畏れず、少しも死を恐れず(視死如帰)、堅忍不抜(堅韌不抜)の気骨を表した。北京の人々は彼にたいへん同情し、彼のために「楊椒山祠」を建てた(椒山は楊継盛の号で、「楊椒山祠」は元の司法部街にあった)。これらの首輔の中で、張居正が神宗万暦初年(およそ1573年から1582年に至る間)にまだ為すところがあり、明朝の悪政の改革に努め、成果を上げていたのを除き、後継者は消極的でいいかげんにごまかし(因循苟且)、腐敗して無能であった。万暦中期に到り、宦官、勲戚、王公、内閣大臣らは、当時の政治や経済における最も暗黒で最も反動的なグループであった。そして一部の官吏は、政治のうえで排斥され、万暦年間にひとつのグループを形成し、権力中枢への反対派となった。これがすなわち明末の東林党である。

 東林党の名前の由来は、朝廷に排斥され職を辞した吏部郎中の顧憲成、高攀龍といった人が、いつも江蘇省無錫東林書院で講義を行い、朝政を評議した。彼らの中でも一部の人は北京で官職についていた。彼らが反対した政権を担っていたグループの主要人物は、皇帝、宦官、勲戚であれ、首輔であれ、何れも北京に住み、このため、高攀龍は後に北京の首善書院で講義を行った。

東林書院

 東林党の人々と闘争するため、権力者グループは更に浙、斉、楚、宜、崑の各党派を組織し、自分たちの道具にした。当時、東林党の人が意見を出すや、これらの人々は次々立ち上がって反対した。

 東林党と権力者グループは、何れも自分たちが擁立すべき皇帝を利用して相手方を圧倒しようとし、そのため明の神宗の立太子の問題をめぐって、20年以上にわたり休むことなく論争を行った。いわゆる「国の本を争う」のが主路線であり、北京の宮廷内で前後して発生した三つの事件(梃撃(暴力事件)、紅丸(毒薬事件)、移官(官職の移動))はその余勢(余波)であった。

 東林党の人々はずっと神宗の愚昧に反対し、廠衛の官民に対する害毒に反対し、王公、勲戚による土地の略奪に反対し、宦官たちの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。重税を搾り取ること。横征暴斂)などに反対を表明した。これらの主張は皆、一定程度当時の人々の利益、要求を反映していたので、客観的にはある程度進歩的なものであった。しかし彼らは地主階級の一部であり、彼らの目的は地主階級の政権をもっと強固にするためであったので、根本的には彼らは末端の人々とは対立していた。彼らの闘争手段もたいへん軟弱で、上記の上奏は、十に九つは皇帝に「保留」(留中)にされ、日の目を見ることは無かった。

明英宗

第三節 北京の政治

 明朝が北京に遷都(1421年)以後、その最高統治集団、皇帝、王公、宦官、皇帝の親族、朝廷の大小の官僚たちは全て北京に集まり居住し、膨大な全部で78衛に分かれ、48万人いた軍隊が北京に駐屯した。北京は明帝国の政治、軍事の中心で、また全国最大の封建堡塁(ほうるい)であった。明朝朝廷は北京から中国全国各地に政令、軍令を発布し、中国全土の階級的矛盾や統治階級内部の矛盾が、ここ北京で集中的に反映していた。

明朝地主階級統治の強化

廠衛の北京での罪悪活動

 成祖の永楽年間(1403- 1424年)から英宗の正統年間(1436- 1449年)初頭までが、明朝が最も強盛だった時期である。中国全土に亘って生産が一定の回復と発展が見られ、階級間の矛盾が比較的緩和され、明代の地主階級統治が比較的安定し、明の太祖洪武帝の統治時期の基礎の上に、専制主義と中央集権制度が以前よりも強化された。

 明朝統治階級は中央集権を強化した。それは皇帝権力の高度な集中の現れで、皇帝は「小事と雖も耳を傾けなければならな」かった。皇帝が最も信任した人物は、内閣の大臣と司礼監と宦官であった。内閣は南京から遷都して以来、北京の皇城の午門内に設けられ、明朝統治者が全国的な重大な政務を処理する場所であった。内閣の大臣は皇帝が自ら官僚の中から選抜したが、これらの人々は皇帝の顧問にしかなれず、皇帝の指揮下、政事を処理する手助けをした。司礼監は明朝の北京の宦官の24衙門中の第一の衙門で、ここの宦官の権勢が最大で、彼らは皇帝が最も信頼していたしもべで、宣宗の宣徳年間から大学士の陳山を含め書堂に宦官へ学問を教えさせてから、彼らは皇帝に代わり上奏文(奏章)をチェックすることができただけでなく、また皇帝に代わり政令を広める(伝布)ことができ、権勢は実際に既に内閣の大臣より上であった。具体的に政務を執行する中央機構は、吏、戸、礼、兵、刑、工の六部と都察院であった。

 北京には更に二つの直接皇帝の制御を受ける特殊な権力機関があり、「東廠」、「錦衣衛」と呼ばれた。 東廠は宦官を首脳とする警察(偵緝)機構で、1420年(永楽18年)北京東安門北(今の東廠胡同一帯)に設置を開始した(『明史』巻95『刑法3』)。「錦衣衛」は元々皇帝の警護隊(衛隊)であった。この二つの機構を結合し、共同で北京で特務活動に従事した。錦衣衛内には更に特殊法廷、監獄と特製の各種の刑具を設け、その中で在任の指揮(指揮官)、校尉(部隊長)、東廠の小番(外国、少数民族の文武官)、檔頭(労役担当の責任者)の中で職位が比較的高いのは勲戚(功績のある皇族、王族)や宦官の家の子弟で、それ以外は大部分が順天府域内の悪徳地主(悪覇地主)やごろつきが当てられた。檔頭と校尉は頭にとんがり帽子を被り、足には白い靴を履き、いつも北京城の内外を巡邏(パトロール)し、彼らが不審に思う人物に出会うと、逮捕して錦衣衛の獄中に連行し拷問をした。これら一群の血なまぐさい死刑執行人(刽子手)たちは、統治階級内部の、皇族に不満を持つ反対者を偵察する以外に、主に働く一般大衆に対し、残酷な迫害を行った。彼らは北京の人々の目の敵(死対頭)であった。人々は、「廠、衛」に対し、歯ぎしりをして恨み憎んだ(切歯痛恨)。

 明朝朝廷は京城地区の人々を押さえつけるため、更に城内に五城兵馬司を設置し、兵馬司内に多くの巡捕(取り締まり兵)を設置し、校尉らと共同で城を守り夜間巡邏をし、また通行人の捜査の責務を負った。明朝朝廷はまた城内各坊の住民を、人数によって多くの舗に分け、舗毎に舗頭と火夫若干人(三五人)を置き、総甲が統率した。郊外に住む住民は保甲(10軒の家を牌、10牌を甲、10甲を保として組織内部で互いに監視し、不正を見逃した時は連帯責任を負わせた)に分け、保毎に牌、甲数人を設け、若干の精強な人民は強制的に兵とし、捕官が統率した。総甲と保甲の職務は明朝廷に代わって徴兵、懲役すること、及び人々が勝手に土地を離れ移住するのを制限することだった。こうした末端の組織の強化は、明朝朝廷が人々の反抗を防止するためであり、既に統治力が城坊や郷村まで及んでいたことが分かる。

 

北京防衛戦

 

 明の英宗の正統年間(1436- 1449年)以後、明朝の地主階級の政権は日増しに腐敗し、統治階級の政権内部での矛盾も日増しに尖鋭化し、宦官による専制の局面が出現した。宦官の専制は極端な専制の中央集権政治の産物であり、明朝の地主階級の政権の腐敗の現れであった。この時、中国全土の土地併呑の趨勢が日増しに激しくなり、人々が封建国家に対して負担すべき租税や徭役も重くなり、土地を捨てて逃亡する人々が益々多くなり、農民蜂起が相次いで爆発した。

 北方の辺境の情勢も緊張が高まり、モンゴル草原ではオイラート部(瓦刺部)の統治者トゴン(脱歓)が蒙古諸部を統一した。トゴンの死後、彼の息子エセン(也先)が引き続き実力を拡充し、積極的に明朝に対する進攻を準備した。

 明朝の統治階級の内部で、政権を操縦していた宦官の首領の王振は積極的に辺境防備の手配をしていなかっただけでなく、却ってオイラートの使者からの賄賂を受け取り、こっそり兵器を個人的に輸送し、オイラートの統治者と交易を行った。内閣を中心とする官僚グループ中の一部の人は、オイラートの勢力が強まるのは明朝の災いであると見做し、北京が侵略される可能性があるのを心配し、軍備強化を主張した。しかしこれらの人は宦官の排斥を受け、自身の主張を実現することができなかった。

 1449年(正統14年)7月、オイラートは軍を四路に分けて南下し、エセンは自ら兵を率いて大同を攻撃し、明朝は辺境に沿って各地で烽火に火を点けた。英宗は宦官王振の策動の下、軽はずみに「親征」をする命令を下した。

 エセンの軍隊は各地で人々の勇敢な反撃を受けた。しかし英宗と王振らは大同に着くと、エセンの兵力を恐れたので、直ちにまた兵を率いて宣化に引き返した。明軍は土木堡(今の河北省懐来県の東)でオイラート軍と遭遇した。英宗はオイラートにより捕虜にされ、王振は陣中で死亡し、明軍はすんでのところで全軍が壊滅しそうになった。オイラート軍はほしいままに掠奪をはたらき、軍民男女数十万人を殺戮した。これがいわゆる「土木の変」である。

土木の変

 明軍は土木堡で潰走し、北京城は非常に切羽詰まった状態に陥った。この時、明朝宮廷の官僚たちは二種の異なる態度をとった。宦官に付き従う大官僚の徐有貞らは妻子を本籍地に送り返し、また朝廷を南方に避難させるよう主張した。これらの人は恥ずべき逃亡派である。兵部侍郎于謙をはじめとする人々は直ちに戦争に備えよと主張した。彼らは北京の存亡は、明朝全体の存亡に関係し、北京を防衛すべしとした。彼らは抗戦派である。一連の議論を経て、最後に抗戦派が勝利を得た。

于謙

 于謙を頭とする抗戦派はこの時数項目の緊急の措置を行った。第一、再び南遷を主張する者は、軍令に基づき斬首すると宣言した。第二、王振の一味(党羽)の誅殺を宣言した。第三、英宗の弟、郕王(せいおう)を立てて皇帝にすることを宣言した。第四、至急で北直隷、河南、山東等の地に書状を発し(馳書)、火急に兵を動員して北京の支援に来るよう命令した。これら数項目の措置は、士気を鼓舞する作用を果たした。王振の一味で錦衣衛の指揮、馬順の死体の首が街頭に晒され見せしめにされた時、「軍民は猶争い撃めるを已めず」(『正統実録』巻181)、そこから人々がこれら悪事の限りを尽くした(無悪不作)人民の敵(刽子手)に対し、たいへん強烈な憎悪を抱いていたことが分かる。

 北京を守るため、北京の人々は直ちに戦闘行動を開始した。

 軍仗局と盔甲(鎧兜)廠の手工業職人は優れた仕事により数日の内に大量の鎧、兜を製造した(『明史』巻153『周忱伝』)。軍器局の手工業職人も緊急で武器や大砲、戦車の生産に入った。戦車は驢馬の牽く車を改造して作り、車体を鉄の鎖でつなぎ、各車に「神銃」一基を据え、刀と盾を持った兵士(刀牌手)五人を載せることができた。

 都市の住民たちも積極的に九つの門の防御の工事に加わった。数日のうちに沙攔(砂を突き固めて築いたバリケード)5100丈(1丈は3.3メートル)余りを完成させた。

 住民たちは更に次々と食糧の運搬にも参加した。この時、通州に備蓄した倉米はまだ400万石(1石は100升)あり、京軍の一年の兵糧に十分であった。明朝朝廷が官吏や下士官に京城を出て食糧を取って来るよう命令を下し、住民が運搬を手伝い、軍糧の問題も円満に解決した。

 更により多くの身体が丈夫で力が強い人々が槍や刀を持ち、「任官し着任の報告をし」、直接今回の防衛戦に参加した。元々城内の兵士は10万に満たなかったが、9月までに、22万人に増加した。

 この年の10月、エセンは果たして英宗を擁して紫荊関に入り、一路火を放ち掠奪し、まっすぐ北京城下に至った。宦官派の将校(将領)石亨は城門を閉ざすよう主張し、于謙は甲冑を羽織り、徳勝門外に駐営し、抗戦の決意を示した。オイラート軍は徳勝門を猛攻し、于謙は軍民を率いて迎え撃ち、敵の将校、「鉄頸元帥」を切り殺し、エセンの兄弟の孛羅(ボロト)も「神炮」で撃たれて死に、敵軍は全部で1万人余りが死傷した。オイラート軍は西直門を猛攻し、都督の孫鏜が軍民を率いて迎え撃ち、敵を退けた。オイラート軍は更に彰儀門を猛攻し、明軍戦車は四方に出撃し、「神炮」を一斉に発射した。この時、北京西郊の農民は、多くが屋根に登って磚や瓦を投げて援助し、叫び声が地を揺らした。戦闘は5日間続き、北京軍民の攻撃下、エセンは良郷へ退去せざるを得なかった。

 良郷、清風店、大同等の軍民も立ち上がり侵略者を邀撃し、北京の軍民と互いに呼応し、北京の人々の闘争を強く支援した。

 北京防衛戦は人々を感動させる(可歌可泣)正義の戦争で、北京史に輝かしい1ページを記した。傑出した軍事家、政治家である于謙はこの度の戦闘の手配りをうまく終え、今回の戦争を組織し指揮する中で卓越した才能を発揮し、後に団営を設立して戦闘力を強化した。(永楽時代、「五軍」、「三千」、「神機」の三営を設け兵を北京に置き、徴発を待ち、「三大営」又は「京営」と称した。以降、三大営の軍政は整えず、下士官は多くは訓練せず、軍令も不統一で、于謙はその中の強い者を選び、それを合わせて「団営」とした。)しかし人々の支持が無く、人々が抗戦を堅持せず、人々の意気上がる戦闘への熱意が無く、何人かの統治者内部の将軍に頼るだけであれば、勝利を得ることは不可能だった。于謙が今回の戦闘の中でたいへん大きな役割を発揮し得たのも、正に彼が北京の人々を信頼することができたからであった。

 オイラートが捕虜にした明英宗を北京に送り返すと、彼は間もなく宦官派の徐有貞、曹吉祥、石亨などと結託(勾结)し、彼の弟、景泰帝と皇位の争奪を展開した。1457年(景泰8年)正月、英宗は彼の手先(爪牙)と東華門を奪い、再度皇帝の宝座に登り、直ちに于謙の逮捕を命じ、7日後に于謙を殺害した。于謙が「西市」(西市は明朝統治者が処刑を行う場所で、城内西四牌楼にあった)で殺される時、人々は彼に深い同情を寄せた。于謙は元々北京崇文門内の裱褙胡同に住んでおり、後の人がここに祠堂を建てて彼を記念した。

北京の人々の統治者への反抗闘争

 大地主の利益を代表する最も反動的な宦官グループが勢いを得、全国の人々が受けた苦痛、とりわけ北京の人々が受けた苦痛はより深刻なものだった。

 北京の宦官、勲戚、大官僚、大地主たちは、寺院を下賜(勅賜 )されたり、領地を求める(乞請)等の方法を通じ、大量の民田を占拠した。彼らはたいへん多くの庄頭(荘園の管理人)や「伴当」(従僕)を派遣し、そこに属する小作人(佃户)や農村の貧しい人々に対し、勝手にいじめや搾取を行った。彼らは更に城内で旅館や店舗を独占し、高利貸しを行った。

 明の中期、錦衣衛の指揮、将軍、校尉、力士の人数は既に数万人にまで増加し、そのうちの多くが勲戚大臣や順天府付近の土豪地主の子弟であった。宦官が統轄する警察機構も、この時期日増しに拡大した。憲宗の成化年間、東廠の他、西廠を設け、武宗の正徳年間には、更に東廠、西廠の他、内行廠を設けた。東、西廠と錦衣衛の校尉は 京城の内外至るところで「逮捕状を出し(駕帖 )人々を捕え」、「人々に盗賊のぬれぎぬを着せた」(誣民(良)為盗)。成化年間には、人々の反抗を鎮圧するため、西廠の特務、頭子汪はいつも布衣(木綿の着物)を着、小帽(おわん帽)を被り、驢馬に乗って北京の都市部と農村部を密接に訪問し、北京城内外の住民に対して政治的な迫害を行った。当時の農民と都市住民は正に弥勒教の組織を利用し統治者に反抗する活動を進め、廠衛(東廠、西廠、錦衣衛など明朝の特務機構)の首切り役人(刽子手)たちは五城兵馬司(中、東、西、南、北五城の兵馬指揮司)の巡捕とあちこち「妖書」(弥勒教の経典を指す)を捜査し、弥勒教の信徒を逮捕(捉拿)した。逮捕できなければ、彼らはまた弥勒教の僧侶に扮した人を派遣し、信仰を勧め、人々がひとたび罠にかかれば、逮捕し役所に連行し、「妖言の種を蒔く」と称した。

 内閣大臣の中の多くの人は宦官の手中で制御されていた。憲宗の成化年間、皇帝が長期間朝政を顧みず、ある時いきなり朝政に臨むと、大学士の万安が百官を率い、口々に万歳を叫び、京師の人々は彼のことを「万歳閣老」と呼んだ。別の大学士の劉吉は、北京で官吏を19年勤め、宦官へ賄賂を贈ったので、御史たちは何度も彼を弾劾するも、倒すことができなかった。弾劾する度に昇格し抜擢された。京師の人々は彼のことをあだ名で「劉綿花」と呼んだ。武宗の正徳年間、宦官の劉瑾が専制を行い、内閣大学士の焦芳は甚だしきは家に走って戻り、「提出した上奏を点検し、回答を準備する」ことさえあり、明朝朝廷の腐敗は、ここからもその一端を窺うことができた。

 宦官、勲戚、大臣たちは極めて気ままで贅沢で荒淫な生活を送っていた。彼らの住宅は皆、「壮麗を極め、朱色の門が開け放たれ、画戟(がげき。古代の武器。戈(か)や矛(ぼう)の機能を備えたもの)が厳めしく並べられた。中には玉器や絹織物、犬や馬が蓄えられた。」一方、都市の貧民は、一畝(6.667アール。667㎡)の土地の中に、百戸以上の人家が暮らし、「しばしばベッドとテーブルがくっつき合い、台所とトイレが連なり、部屋は狭苦しく、甚だしきは首を伸ばして息をすることができなかった」。(呉寛『瓠翁家蔵集』巻31『陋清閤記』)

 城外に住む地主や土豪は皆、 勲戚、宦官、荘園を管理する庄頭(荘園の管理人)、伴当(従僕)と結託し、ある者は 勲戚、宦官の取り巻きを頼って彼らの手下になった。農民の生活は、王公や勲戚、地主、富豪の残酷な搾取や使役が頻繁に行われ、暮らしは日増しに貧困し悲惨であった。順天府が統轄している地域全体で、農民の逃亡者の人数が日増しに増加した。

 北京城内に流れてきた人々の一部は、ある者は労務者として雇われ、ある者は乞食に没落し、ある者は街頭で野垂れ死にした。明の統治者はたいへん恐れ、前後三回に亘り北京の流民や無戸籍の労務者を城外に追い払ったが、何れも反抗に遭い取りやめとなった。1509年(武宗の正徳4年)内行廠は北京城内に住む研磨工、水利工、店舗の労務者計1千人余りを追い払った。労務者たちは東直門外に集まり、劉瑾を処刑しなければ、集会をやめないと公言した。劉瑾は恐れ、命令を取り消すしかなかった。

 皇室の荘園、宮廷の荘園の管理者である軍の校尉の圧迫の下、多くの農村の人々が集まって反抗した。1497年(弘治10年)宦官の李広らが京畿で土地を占拠し、危うく人々の武装暴動を引き起こすところだった。この時期、北京西北郊外の西山と天寿山付近で農民が組織して武装した。1517年(正徳12年)順天府境の武清、東安、固安、涿州、盧溝橋、清河店の人々が次々立ち上がり、統治者に反抗した。北京西郊の農民は「千百を群」として官吏を襲撃した。

 当時、明の統治者に対する打撃が最大であったのは、全国を震撼させた劉六、劉七が指導した農民蜂起であった。

都城隍廟

 

第二節 北京の経済(続き)

 

 商業の繁栄 明朝廷の商人に対する苛斂誅求

 

 永楽初年、北京の商業はまだたいへん不景気(蕭条)で、当時は「商人(商賈)がまだ集まらず、市の喧噪(市塵 )はなお疏(まれ)」で、城外の交通はたいへん困難で、城内は至るところ広い空地であった。ここに建都後、明朝朝廷は前後して皇城の四門(大明門、東安門、西安門、北安門)、鐘鼓楼、東四牌楼、西四牌楼、及び朝暘、安定、西直、阜成、宣武各門付近に、数千軒の民家を建築し、一部は「民を召集し居住」させ、一部は「商人を召集し貨物を居」き、何れも「廊房」と呼んだ。このようにして、街の様子(市容)はかなり賑やかだった。

 その後、運河が通じ、北京と通州の街の内外で、また前後して多くの新しい「客店」と「塌坊」を建設した。「客店」は専ら客商(行商人)を呼び寄せ休憩させ、売買の紹介に責任を持つ仲買店(牙店)であった。「塌坊」は貨物を保管する倉庫であった。

 北京城の郊外にもたくさんの集市(マーケット、バザール)が出現した。北郊の碧霞元君廟は、市が立つ期間が来る度に、たくさんの農民がここに駆けつけ、糧食、農具など日用の必需品を売買した。城内には米市、豚市、騾馬市、菜市、驢馬市、果物市があった。徳勝門橋頭と崇文門外には窮漢市があり(一説には正陽橋に窮漢市があった。劉侗『帝京景物略』巻4『城隍廟市』参照)、ここは貧しい市民、中小商人、小規模商人が交易をする場所であった。西城旧刑部街の都城隍廟(全真教の道教寺院)は、永楽年間に建設され面目を一新した。毎月1日、15日、25日の廟会では、商品の陳列が三四里にも達し、綾衣やラシャ、磁器、書画、紙など、品種がたいへん多く、更に雑技場や食品の屋台があった。都城隍廟は明朝北京の繁華な娯楽(文娯)場所で、また北京城内で最も古い廟会(寺社の縁日)であった。また東城の灯市は毎年正月11日から18日まで開催され、会期になると各業界の商人がここで商いをし、真珠や宝石、玉、綾衣やラシャ、繻子や緞子が売られ、また各種の花火や飾り灯籠が販売された。皇城東安門の内市(宮中の人々が不要になった物を売る市場)では、しばしば多くの珍品が売りに出され、例えば園廠の漆器、景泰御前作坊の琺瑯器などのようなもので、ここは王公、勲戚、宦官、大臣が活動する場所であった。

 この他、北京の街市では、多くの大小の店舗が新たに店を開き、これらの商店は舗戸、或いは舗行と称された。舗戸はただ専ら商品を売るだけで、前述したように、少数は作坊(工房)を付設した店もあった。

 舗戸の中には、数千両、一万両以上、甚だしきは数万両の資金を持つ者もあり、店主は農村に土地を持ち、自身は土地を貸して利益を得る地主であった。彼らは北京に店を開き、自身は働かず、大部分が店員を雇って労働をさせた。これらの人には「富戸」(「富戸」は永楽年間に全国各地から北京に移って来た地主たちを指す。これらの北京に来た人は全部で3800戸で、明朝朝廷は彼らを徳勝門と安定門の城厢(城壁近く)を手配して住まわせた。その中のある者は幾つかの商業を兼業し、「一軒が何か所かで店を出す」者もいた)、一部の「軍戸」(軍戸中の一部の人は豊かな財産を持っていた。彼らは農村の中で軍屯地を領有していたが、屯田を「人に貸して、食糧(子粒)を分収」し、事実上搾取し地租を得る地主で、自分たちは都市に住み、別に生計を立てた。)、「匠戸」(当時一部の人は、食糧生産の賦役を避けるため、「匠戸」と偽称し、北京に来て店舗を開いた。)、「民戸」(民戸にも一部の地主が含まれ、彼らは農村で大量の土地を占有し、同時に城内では工商業を兼業していた)が含まれ、更に資金が豊富な大商人もいて、完全に城内の消費者で搾取者であった。その間に更に「貴戚舗行」があり、これは勲戚(功績のあった王族)たちが家人を駆使して開設した店舗で、彼らは権勢を頼みに、市場を独占し、商人に対し強奪行為を行い、どんな不正もやらないことはなかった。明朝の人々は、貴戚舗行は京城の一大災難だと非難した。

 またある舗戸は百両かそこら、或いはそれ以下の資金しかなく、彼らは中小の商人、小手工業者で、都市の下層に属した。ある店は自分ひとりや家族全員で働き、個別には一二名の丁稚(学徒)や店員(店伙)を雇い、普段は「人から店を借り」、時には街角で臨時に雑貨を売ることもあった。これらにも一部の「軍戸」、「匠戸」、「民戸」が含まれ、一般には自力によって生活し(自食其力)、これ以外は他に生活の術が無く(別無営生)、長期間生活は貧困に窮し、また封建国家と大商人の搾取を受け、いつでも元手を割って欠損を出し(賠本)、失業する可能性があった。

 明朝朝廷は北京の全ての舗戸の財産、人丁(人口。働き手の人数)を戸冊(戸籍)に登録し、また舗戸を三等九則に区分し、臨時の軍需があったり、内府の各衙門で足らない物があると、戸籍により舗戸に買弁を派遣した。明朝朝廷は北京の舗戸を132行に規定した。これは当時の業種により区分され、その目的は「官に応じて用を取」るためであった。自分の業種を督促する責任のある舗戸は国に代わって買弁の仕事をする人を「行頭」と呼び、佥(同業の人々)の中で買弁役とされた人は「当行」と呼んだ。 当行の人は随時朝廷に賦役を提供しただけでなく、多大な資財を立て替えなければならなかった。勲戚の官僚たちが開いた店舗は、国から賦役免除(「免帖」)され、富豪巨商も勲戚たちと結託(勾結 )し、賄賂(行賄)を用い、あらゆる方法を講じ(千方百計)「当行」となるのを避け、本当の「当行」となった人は圧迫された地位の小手工業者、中小商人であった。

『皇都積勝図巻』(部分)

 

 

 北京は孝宗の弘治年間(1488-1505年)には既に「人口が絶えず増加(生歯日繁)し、貨物は益々満たされ、坊市の人跡は、ほとんど容れるところが無」かった(呉寛『瓠翁家蔵集』巻45『左都御史閔公七十寿詩序』)。城内の住民は既に満ち、多くの人々は城外に住んだ。世宗の嘉靖年間、南郊の人口が増大し、京城南郊に位置する外城城壁も修築された。外城は新たな商業区となり、全国各地から北京に来た商人たちは、外城に部屋を借りて住み、民営の客店(規模の小さい旅館)、塌坊(一時預かりの倉庫)、大店舗はもっと数が多く、正陽門外大街は既に北京で最も繁華な街市のひとつとなっていた。『皇都積勝図巻』の中で描かれた正陽門外の商業の情況は、明代嘉靖末期から万暦初頭に至る北京の商業の繁栄する情景を反映していた。大明門前に位置する棋盤街、ここも「天下の士民工賈各々牒を以て至り、ここに雲集し、肩が触れ轂(こしき。車輪の中心の太く丸い部分)を撃ち、一日中(竟日)喧噪が止まなかった」(蔣一葵『長安客話』巻1『棋盤街』)。

 この時期、全国各地の商品の多くが北京に集まった。ここには、蘇州、杭州二州の錦緞(花柄の絹織物)、松江の三棱(ひ。杼)布、江西の南豊大篓紙(明代、江西省南豊県特産の竹紙(竹を原材料に作った紙)で、竹籠に入れて販売された)、景徳鎮の磁器、佛山鎮の鉄鍋などがあった。ここでは、全国から来た生銅(製錬されていない銅)、熟銅(製錬された銅)、響銅(銅、鉛、錫の合金で、楽器などに使われる)、生鉄、熟鉄、鋼材、桐油、綿花、各種染料があり、また全国から来た薬剤、香料、茶葉、蔗糖(しょとう)、海産物(干物、海鮮)などがあった。『酌中志』の記載によれば、熹宗の天啓年間以前、毎年北京に来る貨物は、朝廷が直接徴税し、宝石、金珠、鉛、銅、砂汞(辰砂(しんしゃ)や水銀)、犀象(犀の角、象牙)、薬剤、布帛、絨貨の他、テン(貂)の毛皮1万枚余り、キツネの毛皮6万枚余り、平機布(機械織りの布)80万匹余り、粗布(太さの不揃いの糸で織った布)40万匹、綿花6千包、定油(印刷インク)、河油45千篓、荆油35千篓、焼酒(白酒)35千篓(籠の数。京師で醸造されたものは含まず)、ゴマ3万石、草油2千篓、南絲5百馱(家畜が背負う荷の数)、楡皮3千馱(各香舗に提供して香を作るのに用いた)、北絲3万斤、串布10万筒、江米35千石、夏布20万匹、瓜子1万石、醃(腌)肉(塩漬けの豚肉)2百車(1輌の車に載せられる分量)、紹興茶1万箱、松羅茶2千馱、大曲、中曲、面曲140万塊、四直河油5千篓、四直大曲20万塊、玉5千斤、豚50万匹、羊30万頭などがあった。もちろん、これはおおよその推定数であるが、これは明朝後期の商品経済の発展を反映していて、その中の大多数が封建貴族、官僚、地主の享楽に供する消費物であった。

 また、多くの貨物が北京を経由して西北の韃靼、東北の女真などの少数民族地区へ転送された。万暦年間、沈徳符が北京会同館前で、貨物の積み込み状況を見ると、磁器の積み込みだけでも、車一輌毎の木箱の高さが3丈余り(約10メートル)で、全部で数十輌にも達したルソンから伝わったタバコは、天啓年間には「北土でも多く之を植え」、思宗の崇禎15年(1642年)、北京では既に「売る者が四方に満ち」た。そしてとっくに「九辺」(辺境地域)に伝わっていた。

 この時、白銀(銀。銀貨)は既に北京市場で通用する貨幣となっていて、商品は多くが銀で勘定した。労働者を雇うのも、銀で給与を計算し始めた。都市郊外に住む貧民は商店で雇われ、朝早く出勤して夜遅く帰宅し、給料は毎日25文か30文で、30文毎に約銀4分に換算された。内府で皇后や妃に雇用されたコックは、こまごまとした褒美以外に、毎月更に受け取る工食銀(銀で受け取る給料)が数両になった。

 商品貨幣経済の発展に伴い、明朝朝廷も嘉靖45年(1566年)こう規定した。上二等の舗戸を除いて、それ以外の7等の舗戸は一律に銀両(銀。両はテール(tael)、銀貨の単位)を納めることになり、銀で以て賦役に代えた。1579年(万暦7年)北京の132行中の網衬、針篦、碾子(ひき臼)、焼煤、刊字、淘洗(洗濯)など32行は、皆「当行」(職人に対する賦役)を改めるという名目で、その納銀を免除した(『宛署雑記』巻13『舗行』)。このことは、当時の都市の工商業の繁栄にとって有利であった。しかし別の面では、明朝の統治者はまた商人に対し種々の制限と掠奪を行った。武宗の正徳年間以降、北京にはより多くの官営の店舗が出現し、著名なものには福徳店、福順店、和遠店、宝源店、順寧店、普安店などがあった(皆今の王府井大街一帯にあった)。(『酌中志』巻16『内府職掌』)北京に来た商人は大多数が官営の店で荷下ろしし、彼らはただ官営の店の紹介を通じて、貨物を各商店に販売することができた。こうした官営の店は宦官が管理していて、毎年商人から税として銀を数万両徴収し、既に皇室の巨大な収入となっていた。万暦の時、神宗は崇文門と張家湾の官営店を彼の兄弟の潞王と皇帝の第三子の福王に賜い、彼らはそこで店租(店舗の家賃)を徴収し、また商税(商業税)を徴収し、外地の商人を招いたり止めたりし、また商品を卸売りし、また皇帝より専売権を取得し、付近の仲買の利権も一律で奪い取った。万暦24年(1596年)神宗はまた宦官を方々に派遣し商税、礦税(一部の有色金属に対する特別税)を徴収した。北京も中国全土と同様、徴税監の張嘩、王忠が大挙商業税を徴収し、商業税の額は10万余りにまで増加し、そして「河西での税務は外税、また通湾で税の調査があった。崇文門の税務は内税で、また視察して回り損害を取り締まった。城中にはまた税課司があった。」「北京の東は要害の地で、水運、陸運が合流し、重複して徴税され、数倍から数十倍になった」というような状況であった(『万暦実録』巻503)。城中の舗行に対しては、銀両を徴収するだけでなく、商人から搾取し、「命令下、搾取される者は死に赴くが如く、厚く賄賂を贈って税の免除を求め」、或いは「別途、貧民から代わりに搾取した」。(『明史』巻82『食貨』6『上供採造』、『万暦実録』巻373)こうした苛斂誅求(横征暴斂)の下、外地の商人が足を止めて北京に入って来なくなった(裹足不前)だけでなく、舗商も多くが倒産して取引をやめた。このことは工商業の発展に深刻な阻害要因となった。

 

瑠璃廠

第二節 北京の経済(続き)

手工業 官営から民営へ

 元末の農民蜂起以降、元々ずっとモンゴルの支配者の官営の手工業部門で働いていた職人たちも、一定程度は解放された。明朝の支配層は手工業の職人を引き続き使役するため、職人を交替制の当番(輪班)と家住み(住坐)の二種類に分けた。職人たちは定期的に皇室のために使役される以外に、いくらかの自由時間でちょっとした手仕事で生計を立てた(営生)が、このことは明代の手工業発展にとりたいへん有利であった。

 

 永楽の遷都で、明朝朝廷は18万戸を交替制当番の職人とし、定期的にグループ毎に北京へ来て使役に就くよう規定した。三年或いは四年毎に一回当番(輪班)に当り、各戸から職人を一人出すので、推計で毎年北京に来て使役に就く職人は45千人余り、季節毎だと11千人余りであった。この他、更に27千戸の家住み(住坐)の職人を南京から引っ越しさせ、彼らは以後大興宛平両県の戸籍に附き、長期間北京に留まった(顧炎武『天下郡国利病書』14江南応天府の条。『宣徳実録』巻64

 

 全国各地の職人が北京に集まり、全国の様々な手工業技術もそれにつれて北京にもたらされた。手工業の職人がここで多くの精巧な手工芸品を作り出し、その他の軍人、庶民と共に気迫溢れる北京城を打ち立てた。明初の北京の官営の手工業は、鉄の製錬、銅の鋳造、紡織、或いは武器、火薬の製造の技巧で、何れも前代を超越した。織染局では、藍染(藍靛)工場で働く職人には32種の職種があり、糸打ち(打線)から巻き付け(絡絲)、クロスステッチ(挑花)、紡織、漂白(洗白)から染色まで、織りと染めの工程を含み、細かく分業されていた。兵仗局で使役されている職人は34種の職種があり、その中には弓職人、火薬職人、神箭(衛矛)職人などのように、皆特殊な制作技能を持っていて、彼らと軍器局の工匠が共同で生産した火器は58種の多さに達した。内府に服務する工匠の制作の漆器、香炉、景泰藍(七宝)瓶、鏤金 (彫刻し金メッキした)器物、宮扇(うちわ)などの工芸品は皆たいへん精巧で緻密で、雕漆(漆を塗り重ねて浮彫にした漆器)と 景泰藍は既に全国に名をはせた珍品となっていた。

雕漆

北京城郊外の各地で、官府(官庁、役所)の管理下で石を穿ち、焼き物を焼き、鉄の製錬に従事したかまどや炉の職人たちが、専ら北京城の石垣、宮殿、寺院やそれらの居室の修築のため原料を供給し、その中でもかまど職人が焼いた光輝く瑠璃瓦は猶更独特の風格を備えていた。手工業の職人たちが北京の面影を変化させたが、彼らが官府から受けた搾取はたいへんひどいもので、生活は苦しく、逃亡した者は「首枷や鎖をつながれ仕事をした」。

 

 当初、北京の手工業の工場や工房は、大部分が官営であった。明朝朝廷は一切の造営、制作の作業を内府工部で分担管理し、その下に更に若干の局、廠、窯、作が設けられた。局、廠は手工業或いは建築を管理する機構で、著名な五大廠が含まれていた。すなわち木廠、大木廠、瑠璃廠、黒窯廠、台基廠である。(朱一新『京師坊巷志稿』から高道素『明水軒日記』を引用)

北京の五大廠

窯、作は生産に従事する基礎組織で、例えば内官監の土、木、石、漆などの十作である。(劉若愚『酌中志余』巻下に附された天啓宮詞)内府に属する手工作坊は、生産品は専ら皇家の消費に供していた。工部に属する手工作坊は、生産品は国の大プロジェクトや軍需に供応された。各々の作坊は原料から職人まで全国各地から無理やり集めて来られ、作った製品は主に販売のためではなく、市場とは何の関係も無かった。

 

 しかし明朝中後期になると、官営の手工業はもう衰退の趨勢に向かい、手工業の職人たちは絶えず「冒籍」(戸籍のごまかし)、「脱籍」(氏名を官職名簿から削除する)、「失班」(勤務拒否)、消極的怠工(サボタージュ)や逃亡といったやり方で、激しい闘争を展開し、その結果官営作坊の職人は日増しに減少し、製品は日増しに品質が劣化していった。また商品貨幣経済が日増しに発展した影響下、統治者も労役制の職人を使うのは却って金で雇った労働者を使う方が有利であるのに及ばないと感じた。1485年(憲宗の成化21年)の統計では、内織染局には職人が10人しかおらず、針工局38人、銀作局23人、巾帽局はやっと5人で、このことは明朝朝廷をして工匠制度を少々改めざるを得なくなり、前後二回宣告し、全国の職人を交替で北京へ賦役に来させる方法を改め、銀で徴収することとし、一部の住み込みの職人はそれを改め朝廷雇用の短期工とした。(万暦『明会典』巻189『工匠』2)そして故郷に戻るにせよ北京に留まるにせよ、職人たちが大量に民間に流れ、「巷間で様々な仕事をし、衣食の糧とする者がとりわけ多い」という現象が出現した。(張瀚『松窓夢語』巻4『百工紀』)朝廷は次第に雇い人を使って生産するようになっただけでなく、必要な物に至っては、日増しに拡大する商品市場にも頼らざるを得なくなり、随時民間に行って買い付けた。

 

 北京城の郊外にはまた一部分私営の手工作坊と礦場(鉱石の採掘場)があった。手工作坊は例えば磨坊、酒坊、機坊、染坊、銅作坊、鉄作坊等々であった。嘉靖年間に、いくつかの胡同では、例えば馬絲胡同、包頭張家胡同、石染家胡同、唐刀儿胡同、沈篦子胡同、唐洗白街(張爵『京師五城坊巷胡同集』)は、私たちの推測では、これはおそらくここに住んでいた手工業者にちなんで名付けられたのだろう。これらの手工業者は正に彼らが際立って優れた技能と優秀な製品を以て北京の人々の称賛を得たのである。多くの作坊は店舗とつながり、前面が店舗で後方に小作坊(工房。工場)が設けられていた。そのうち隆慶、万暦年間に最も有名であったのは、制帽業では王府街の紗帽、金箔胡同の紗帽、双塔寺の李家冠帽。制鞋業では、東江米巷の党家靴。大柵欄の宋家鞋。制香業では本司院の劉鶴家香、前門外の李家線香。生薬舗では西鶴年堂の丸薬、帝王廟街刁家の丸薬。布店では勾欄胡同の何闉門家布があった。以上の作坊、店舗は主に封建貴族のために服務していた。それゆえ万暦年間に張瀚は全国、及び北京地区で大量の百工(様々な職人)を擁して様々な仕事をする(雑作)のを論述する時、すぐ続けてこう指摘した。「元勲、国戚(皇帝の親戚、外戚)、世胄(名門の子弟)、貂珰(宦官)で、贅沢が尽きることの無い(靡窮)のは、これでその欲望をかなえるに非ざる也」。(張爵『京師五城坊巷胡同集』『百工紀』)そうではあるけれども、彼らは市場と直接関わっていて、生産の目的は販売するためであり、これと官営の手工作坊とは既に明らかに異なっていた。

 

 北京の酒醸造業は比較的突出していて、北京城郊外の各地には酒店と酒醸造の作坊があった。酒の品種はたいへん多く、北京の名産には、玉蘭酒、臘白酒、珍珠酒、刁家酒、麻姑双料酒、奇味薏米(ハト麦)酒があり、最も流行したのは高粱を醸造した白酒であった。皇帝が飲んだ「御酒」の多くは御前作坊で醸造された。皇宮の北安門東の「廊下家」では、「凡そ宮廷内で同意し、長らく追随している者は皆、こうした酒の醸造で、金銭的な利益(射利)を得ていた。」その酒は黒っぽい赤色(殷紅)を呈し、「内酒」と呼ばれた。

 

 北京の印刷業は明朝中後期にも発展がみられた。「金台岳相」家が印刷した小説、戯曲は挿絵が精巧で美しいことで有名であった。また国子監と都察院が印刷した本は、市場へ行って販売し、民営の版木印刷の書物印刷業と利益を争った。この他、打磨廠と西河沿にも版木印刷の書物印刷の作坊があった。1638年(思宗の崇禎11年)、元々写本(抄写)で伝わって(傳递)いた『邸報』も北京で活字板を用いて組版印刷(排印)を開始した。

 

 北京郊外には更に採炭場(煤窑)、石窑、灰窑があった。採炭場を例にすると、成化、弘治年間、門頭溝などの地には既に多くの私営の採炭場があった。この後、この土地の 潘闌廟、孟家胡同一帯の住民は、多くが石炭売買で生計を立てた。(朱彝尊『日下旧聞』巻24宋慶明『長安可游記』の引用)石炭の販売市場は比較的大きく、故に邱浚はとっくにこう指摘した。「今京師の軍民百万の家は、皆石炭を以て給与に代えた。」(『明経世文編』73邱浚『守辺議』)1603年(神宗の万暦31年)、順天府尹の許弘綱は上疏してこう言った。西山等の地の石炭採掘業は、「官窯は一、二ヶ所しかなく、それ以外は悉く民窯に属し」(『万暦実録』巻381)、官営の鉱山の衰退と私営の鉱山がこれに代わり勃興したことを反映していた。

 

 民窯の多くは合資経営で、雇われ工員が採掘して運営された。雇われ工員の生活は貧困にあえいでいた。ここでは、広大な商品市場の基礎の元に、既に資本主義の萌芽が出現する可能性があった。しかし別の面で、明朝の人がまた盧溝橋以西の窯を開いた家を記載し、しばしば住民の子女に甘い言葉をかけて騙して炭鉱に入れて労働をさせ、逃げ出した者には問答無用で殺害し(『弘治実録』巻93)、民窯の中でも、その野蛮で遅れた工奴制の痕跡があることがまだ保たれていた。

染牙雕瓜蝶洗(北京故宮博物院蔵)

 

第二節 北京の経済

 北京は1421年(永楽19年)から正式に明帝国の首都になった。この時、南北を貫く大運河が既に開通し、全国各地の商品と物資が川の流れのように絶え間なく北京に運ばれた。農業、手工業生産の技術もここで広範な交流を得て、北京の経済は顕著に発展した。皇帝を頭に功績を上げた王族(勲戚)、宦官、官僚、地主から成る明朝の最高統治グループも大挙して北京城に引っ越して来た。北京の農業、手工業、商業も突出して封建統治者に服務し、北京は全国最大の消費都市となった。

農業と土地の占有関係

 元末の農民戦争は蒙古貴族の統治を打ち倒し、同時に漢族地主階級に極めて重い打撃を与えた。蒙古貴族と若干の漢族地主は彼らが元々権勢を頼みに占有していた一部分の土地を放棄するよう迫られ、農民と地主の緊張関係は暫時一定の緩和が見られた。北平府地区を含め、全国のある地域では、耕す者のいない荒地(荒田)や所有者のいない田地(閑田)が増加していた。農民の懸命なる耕作の下、耕地は絶えず開墾されていき、洪武2年(1369年)北平府が私有地(民地)として報告した土地がやっと780頃(1頃は6.6667ヘクタール)に過ぎなかったのが、同8年(1375年)には29114頃、26年(1393年)には少なくとも既に7万頃を超過していた。(永楽大典本『順天府志』巻8の洪武『図経』から引用。7万頃の土地は正徳『明会典』巻19『田土』に掲載の順天等八府の洪武26年の田地582499頃に基づき推定。

 

 早くも都建設以前、明朝朝廷は前後して山西太原、平陽、澤、潞等の土地から住民を北京に遷し(遷民)て開墾(屯種)させ、耕牛、農具、種籾を与えた。宣宗の宣徳年間、北直地方(直隷。今の北京、天津)では、洪武年間の山東、河南の事例を参考に、「民間で新たに荒地を開墾した者には、永久に銭糧を課さない(不起科)」と規定した。このようにした目的は農民を土地に縛り付けるためであるが、客観的には北京地区の農業の回復と発展を加速するのに有利であった。

 

 北京近郊の土地は多くが小麦を植え付けたので、小麦が北京地区の主要な農産品になった。遠い郊外の山区は小麦が植えられた以外に、大麦、蕎麦、高粱、粟、橹豆(黒豆の別名)、黒豆などの雑穀も産出した。次第に北方に経済作物の綿花が広まり、明初は既に北京順天府に属する各県で植えられていた。(永楽大典本『順天府志』巻11『土産』。万暦『順天府志』巻3『食貨』)

 

 個別の地区でも水稲が植えられた。京城内の西苑、積水潭、近郊の海甸、西湖、青龍橋、草橋、京西の房山大石窩、京東の通県、薊州、玉田、宝坻、豊潤、さらに北京西南の良郷、易州でさえも、畦(あぜ)の連なる水田があった。

 

 園芸業もたいへん大きな発展があった。平則門(阜成門)外の住民は、ある者は野菜を植えることを業とし、野菜畑はたいへん良く手入れされ、数十畦毎に井戸と桔槔(きっこう。はねつるべ)が置かれた。野菜の品種はたいへん多く、またたいへん良く育った。(孫承澤『春明夢余録』巻64の楊士奇『郊游記』引用)北京地区の野菜では蔓菁(蘿蔔。ダイコン)と菘菜(白菜)が最も有名で、蔓菁には紅、白、青、水、胡の五種類あり、菘菜の中の箭杆(矢柄)白菜は、粒が大きく、美味で、ひとたび冬に入ると、皆が次々窑(洞窟)を掘り貯蔵し、一層北京の人々が好む特産になった。(陸容『菽園雑記』巻6

白菜を洞窟の中で保存

明末の人、徐光啓によれば、北京の菘菜の施肥の技巧は南方に勝っていた。豊台、草橋一帯の農民の多くは花卉栽培を業とした。そこでは、「牡丹、芍薬など、栽培品種がたいへん多かった」。農民たちは接ぎ木(接枝)が巧みであっただけでなく、「穴地煴火(熾火、おきび)」(つまり温室)の栽培方法を用いた。(楊士聰『玉堂薈記』下)そして厳冬の季節にも、春夏秋に育つ瓜や鮮花を得ることができた。

 

 いくらかの土地は直接皇室が占有し、宦官、衙門の経営管理に属するものは、「禁地」或いは「禁場」と呼ばれた。禁地には護壇地、護陵地、海子(湖沼)地、牧養地、畜養地、果園地、菜地、牧馬草場、公田、皇庄が含まれていた。これらの地域には一般の軍民の出入りが厳しく禁じられ、魚を捕ったり、狩りを行ったり、草を刈ったりすることは何れも許可されなかった。ここで耕作を行う農民は、多くが外地から移ってきた者、或いは順天府からその「投充」(充当、投入)が許可されていた。彼らは若干の土地を分配され、賦税、徭役が減免されたが、皇家の代わりに特殊な科差 (課税や賦役)を負担しなければならなかった。例えば壇戸(祭祀場の財物やお供えを司る)、陵戸は祭祀用のお供えを準備しなければならず、牧養戸は牛馬を畜養し、畜養戸は鶏やアヒルを畜養し、海戸は樹木を栽培し、園戸は野菜や果物を栽培した。皇庄や牧馬草場で耕作をするのは農民で、皇家に高額の地租を納めなければならなかった。

 

 別のいくらかの土地は直接朝廷の官府(官庁や役所)或いは衛所(軍隊)が占有した。そのうち軍士(下士官)に分配されたものは軍屯と呼ばれ、農民に分配して耕作させたものは民屯と呼ばれた。軍士は各戸が田50畝(1畝(ムー)は6.667アール)領有し、毎年糧食を24石(1石は100升)納めなければならなかった。若干の軍餉(軍人の俸給)を与えなければならなかったが、もし毎年1畝当りの土地で5斗(1斗は10升)の糧食しか獲れないと、彼らの収穫は朝廷に持って行かれてしまった。農民は1戸当り田50畝を与えられ、1畝当り糧食1斗納める必要があったが、民屯の畝は比較的狭く、しかも多くが土地の痩せた(貧瘠 )山地にあり、地租を納める以外に、重い徭役も負担しなければならなかった。屯民の生活は少しも保障されておらず、彼らは封建国家の佃農(小作人)であった。

 

 官田以外、残りは民田であった。民田は糧食を徴収する土地とそれを免除する土地の二種類があり、糧食を徴収する土地は糧食を納めるのが賦役(当差)で、糧食免除の土地は官の代わりに馬を飼わなければならなかった。1412年(永楽10年)北直隷(直隷。京師に直属する地区)の人々は馬を受け取って飼い(領養)繁殖させ(孳生)(『宛署雑記』巻9『馬政』)、これより馬を飼うことが人々の負担の大きい賦役となった。種馬が病死したり、繁殖した子馬(1歳以下の馬。馬駒)の数が足らない時は、賠償しなければならなかった。それ以後、馬の飼育の政策は修正されず、土地の広さに応じて銀両に換算して納める(編派銀両)よう改められ、農民の負担は一層重くなった。

 

 北京城内に居住した王公、勲戚(勲功のあった王族)、宦官も近郊や順天府の各県に多くの土地を占有した。明朝中後期、もっと広い土地を併呑するうねりがこの地域で巻き起こった。王公、勲戚は表面上は皇帝に荒田を請求(請乞)しつつ、実際には大量に民地を併呑、またある場合は官田を占有、没収し、またある場合は地主の「投献」(田畑の収穫を官に委託し、それによって賦役を減らしてもらう)のためであった。地主たちの土地の献上、放出により、賦役から逃れることができるだけでなく、更には王公、勲戚の荘園の管理者(庄頭)とそのお供(親随)に委託し、或いはこれによって彼らの子息たち(子侄)が錦衣衛(明の役所名で、軍政の情報収集機関)の校尉(武官の官職)、力士(官職名)を担当し、勢力を頼みに人々を搾取する(漁肉人民)ことができた。

錦衣衛

1489年(孝宗の弘治2年)の統計では、京畿の各部門の勲戚、中官(中官は即ち宦官)の荘園(領地)は全部で332ヶ所あり、占有地は33100顷余り(『明史』巻185『李敏伝』)で、1521年(武宗の正徳16年)、北直(直隷)の荘園は20900顷余りにまで広がった。

 

 

 

 土地の併呑に参与したのは更に皇庄があり、皇庄は皇室或いは皇帝自身の荘園であった。弘治年間、京畿内外の皇室の荘園は五か所だけだったが、正徳年間以降は36か所にまで増加した。その中には、北京近郊の十里舗、大王庄、深溝儿、高密店、石婆婆営、六里屯、三里河、土城など九か所があった。皇庄を管理する宦官、軍校は一か所当り多いところで340人に及んだ。これらの人は荘園に着くや、租銀の徴収以外に、「およそ民間で舟や車の運行を管理し、牛馬を放牧し、魚やエビ、巻貝やカラスガイの捕獲、ガマの収穫、かすめ取らないものはなく」、それによって「天子のおひざ元で、生活が思うようにできなくなった。庶民の間で、貧苦が極限に達した。」(夏言『勘報皇庄疏』)荘園を管理する軍の校尉たちが、皇帝の看板を使って人々に損害を与え、その厳しさは王公、勲戚をも上回った。

 

 皇庄や王公、勲戚の荘園は最初は実際の収穫物を地租として徴収していたが、商品経済の発展と統治階級の貪欲さの増長にともない、明中期になると、相次いで「畝を見て銀を徴収する」、1畝当り租

銀は3分、5分、甚だしきは1銭にまでなった。こうした地租は「子粒銀」と呼ばれ、糧食を「時価」に基づき換算したもの(正徳『明会典』巻19『田土』)で、基本的には地租に換算し、収穫物による地租から貨幣による地租に変える過渡期の形態であった。

 

 明の世宗の嘉靖年間、穆宗の隆慶年間、神宗の万暦年間の統治初期、北京地区の土地の併呑の風潮はやや収斂した。これは北京南部での劉六、劉七の蜂起が明朝の統治者に巨大な衝撃を与えたからだった。そのため彼らは多少実地調査を行い、荘園を制限し測量する措置を取った。しかしこれらの措置は結局効果は微々たるものだった。嘉靖年間、外戚の陳万言は武清、東安の土地千頃を請い、皇帝は8百を賜うよう命じた。隆慶年間、また外戚の杜継宗に田地7百頃を賜った。神宗の万暦年間、北京に前後して清河皇庄、梁山河皇庄、寿宮皇庄が設けられた。『宛署雑記』の記載によれば、北京城の周囲百里の間に、王侯、妃主、勲戚、中貴(権勢を持った宦官)が墓を護り、線香を捧げる土地、各種の寺田(寺院所有の荘園)、皇帝から賜った土地がたいへん多かった。(『宛署雑記』巻4『山川』)北京近郊の房山、良郷、涿州に開いた水田も、多くが権勢を持った人々により併呑された。熹宗が宦官の魏忠賢に下賜(敕賜 )した田地は一度に2千頃に達し、魏忠賢は京師一帯に「公侯伯を封じた田地は、肥沃な土地を選び、1万頃を下らなかった。」(『天啓実録』710月)このことはまた、北直(直隷)地区、特に北京地区の土地が限られた層に甚だしく集中していて、そのひどさは、終始減らされることがなかった。

大明太祖朱元璋

 

第一節 北京への遷都

 1368年(明太祖の洪武元年)8月明軍が大都に攻め入って後、明朝統治者は大都を北平府に改称し、ただちにここに地方行政機構、北平布政使司を設立した。この時、北平はもう全国の首都ではなくなったが、政治、軍事上は依然として重要な地位を占めていた。明朝統治者はここを蒙古統治者の北方、東北の残余勢力から防御する主要拠点とした。応昌に逃げた蒙古貴族(応昌は今の内蒙古自治区達里泊(達来諾尔、元の捕魚儿海)付近)は、従前のように北平を奪い返し、明朝と対抗しようとした。

 明代辺境の各民族と内地の関係は継続して強化され、各族の統治者は政治上明朝と隷属関係を保持し、各族の人々と漢族の人々の経済、文化の付き合いは一層頻繁になった。当時、蒙古地方の統治者は明朝と対立する地位に処せられていたが、蒙古族の人々は漢族及びその他各族の人々との関係はまだ絶たれておらず、多くの蒙古族の人が依然内地に留まり生産を行い、また多くの蒙古族の人が正に内地に向け移動していた。(『洪武実録』巻66記載、洪武46月、「沙漠の遺民32860戸が北平府管内の地に屯田する」を以て、その中にたいへん多くの蒙古族の人々がいた。以後永楽、宣徳、正統の時代に更に多くの蒙古軍民が南に向け移動した。)蒙古地区の蒙古族の人々が農業経済生活に従事する比率は益々大きくなり、遊牧民も内地の物資を切実に必要とした。漢族と蒙古族の人々の関係の強化は、両民族の人々の共通の願望であった。

 各民族の関係の一層の強化も、政治上の一層の統一を要求した。当時、北平はたいへん多くのこの統一された多民族国家の都城となる上で優れた条件を備えていた。

 北平は曾て元朝の首都で、多民族統一国家の首都の伝統を備えていた。

 北平は蒙古と東北からたいへん近く、また東北と内地の連絡で必ず経由しないといけない土地で、明朝統治者は、ここに都を建設することは、東北の統治を維持継続するのに都合がよく、これにより蒙古族統治者の勢力を牽制することができると考えていた。

 明政権が打ち立てられて以降、元朝のすべての領土の統治権を極力継承しようとし、塞外の蒙古族地区を明朝の版図に組み入れることを望んだが、これは蒙古族統治者の拒絶に遭った。以後、蒙古族内部は三つの部族に分裂した。韃靼は蒙古高原の中部におり、西側は瓦剌オイラート)、東側は兀良哈ウリャンカイ)である。三部の統治者の間では、互いに惨殺し合い、争いが止まず、一面では絶えず内地に侵犯し騒乱を起こしていた。このことは、新たに建国した明政権にとって、最も深刻な脅威であった。明王朝は大軍を進駐させて北平を守り、将軍を派遣して北方の軍事を主管させた。明朝の統治者が次第に理解したのは、もし北平を首都にして、北平を最高統帥部の進駐場所にすれば、よりタイムリーに情勢の変化を把握でき、よりタイムリーに軍事力の手配や調整ができるということだった。

蒙古族3つの部族(西からオイラート、韃靼、ウリャンカイ)に分裂

 

北平地区の地勢は非常に険しく、敵を防ぐのに都合が良かった。東、北、西の三方の奇峰峻嶺は、北平の天然の障壁であり、しかも「水は甘露で土は豊潤、物産は豊富」であり、また長期間の防備にも有利だった。(『永楽実録』巻130)ここは南方との連係も比較的便利で、海上輸送で往き来でき、また運河を利用することもできた。

 洪武初期、明朝廷は北平に都を建設する計画があった。しかし、北方は元末に多大な破壊を受け、土地は広いが人口が少なく、経済がさびれ衰えていて、運河もまだ修復が終わっておらず、江南の食糧や物資を大量に北に運ぶ術がなく、首都を南京に建設するしかなかった。永楽帝の即位後、客観的な形勢がより切迫して北平への遷都を要求しており、永楽帝本人が曾て燕王に封じられ、長期間北平に進駐したことがあり、北平への重要な位置づけをより深刻に理解していた。1403年(永楽元年)、北平は北京と改称した。この時から、明朝は北京への遷都を計画し、長期の準備を行った。

 先ず解決したのは北京城への食糧とその他の物資の供給問題であった。北京付近には大量の軍隊が駐屯していた。また膨大な官僚組織を移してくる必要があり、また多くの大工がここで土木建設を行っていた。このため、食糧の需要への対応が切迫した問題であった。

 食糧供給解決の方法は、第一が北京での屯田であった。元朝末期、北京地区の農村はひどく破壊されていた。洪武年間を経て、農業生産は既にある程度回復していた。永楽初年、明王朝は一面では流浪している人々に、故郷に戻り職に復するよう命じた。また一面では山西等の地から土地の無い、或いは土地の少ない農民を北京に移して耕作させた。北京地区の軍隊も屯田を行い、また「罪を侵した囚人」にも北京に来て屯田するよう命じた。これらの農業労働に駆り出された人々の懸命な耕作により、北京の農業生産は顕著に発展した。

 第二は「開中」の塩法の実施である。「開中」とは辺境の地の駐留軍への給与(糧餉)支給を解決するため、商人に辺境に糧食を送るのを奨励し、その後、彼ら商人にそれと引き換えに「塩引」を与え、指定した地域へ行って塩を受け取らせた。永楽の時代、一度その他の地域の「開中」を停止し、「糧餉」をできるだけ北京に集中させた。

 北京の糧食は南方からの漕糧(水路で輸送する食糧)の「接済」(仕送り、援助)に依存していた。永楽の初期、明朝は元朝の時の古いやり方で、海上輸送で糧食を北に運んだが、海運はしばしば暴風雨や倭寇の強奪に遭い、損失がたいへん大きかった。陸路での輸送費の代価はさらに高かった。このため、1411年(永楽9年)臨清から済寧に到る会通河が開鑿された。揚州から淮安までの「湖漕」と、通州から北京までの通恵河に対しても、整備が行われた。1415年、江南から北京の運河が開通した。この年、北京に輸送された糧食は646990石に達した。

 糧食の供給が基本的に保証され、北京城の建設も積極的に進められた1420年(永楽18年)、宮殿が基本的に完成した。翌年、正式に北京に遷都した

 北京は明朝の都城となり、統一した多民族国家の強化、発展に対し、また北京城自身の発展に対し、重要な影響を与えた。

 明朝が都を北京に定めて後、各兄弟民族と北京中央政権の連係は更に緊密になり、全国の統一は一層強化された。当時、東北の女真族各部の首領は明王朝の封号(帝王や君主が授けた爵号や称号)や官職を受け取り、しばしば代表を派遣したり、自ら北京に来て、情勢報告をした。烏斯蔵(元明時代のチベット、チベット族への呼称)各部の首領も絶えず官員を北京に派遣し朝貢し、封号を与えるよう要求した。例えばパクモドゥパ帕木竹巴)法王のグループは新たな法王が出る度に、代表を北京に派遣し、明朝朝廷がその地位を承認するよう要求した。当時、北京に来たのは女真人チベット人モンゴル人、回人(ムスリム)、ウイグル人だけでなく、西南各地の壮族、苗族、傜族、傣族など各兄弟民族(少数民族)の代表もやって来た。明王朝は北京に会同館を設けて彼らを招待し、こうして中国全土の各民族間の連携を強化し、各民族の経済文化交流を促進した。各民族の代表に付き従い、多くの僧侶、商人が北京にやって来た。例えば1499年(弘治12年)烏斯蔵人(チベット族)が北京に来た時には、2800人余りがやって来た。とりわけ北方の各民族の場合は、もっと頻繁に北京に来て交易を行った。兄弟民族の人々の中には、北京に住みつく人さえいた。

明順天府行政管轄区略図

 

 北京遷都は、明朝の統治を強化する重要な措置であった。なぜなら、明朝朝廷が北京に遷都して以後、モンゴル貴族の侵攻の脅威を防止するのに効果があっただけでなく、これによって北方諸王の軍権や政権を解除し、彼らが分裂割拠する要素をできるだけ取り除き、明王朝の統一をより一層強固なものにすることができた。

 北京が再び中国全土の首都になって後、政治、経済上もたいへん大きな変化があった。

 明王朝は極端な専制主義中央集権の王朝で、この王朝を代表する皇帝と封建統治機構の中枢は何れも北京にあり、全国各地の全ての重大事件は、何れも北京で集中的に反映された。明の中葉及び明末の大規模な農民蜂起は、最後は必ず矛先を北京に向けた。

 封建統治階級の力は北京が最も強大であるので、政治の弾圧、階級の弾圧はその他の地方よりも苛酷であった。とりわけ人々を鎮圧する重要な道具となった東廠(特務機関、秘密警察)、西廠(東廠に追加して設けられた特務機関)、錦衣衛(明朝の諜報機関)は、北京の人々の鮮血で染められた。しかし北京の人々は終始屈服することなく、前の者が倒れたら後の者が続いていく、というように反政府活動を行った。

 多くの官僚、貴族が集まっていたので、数十万の軍隊が駐屯し、それに加え金を湯水のように使う富豪や大商人により、北京は全国最大の消費都市となった。商人たちは各地からここに来て取引を行った。とりわけ運河が開通後、南方の物資が続々と北京に入って来た。商業はとりわけ盛んになり、北京は当時北方で最大の市場であった。

 北京が15世紀初頭に明朝の首都になったことは、以後数百年の北京城の歴史的発展にとり、重大な意義を持った。